番外編
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
信頼できる後輩
「下坂部は留三郎に懐いているし、大層慕っているじゃないか。この間も「食満先輩はとっても頼りになるんです。怒ると怖いけど」と言っていたよ」
「怒ると怖いは余計だけどな」
「頼りにされ、慕われているからいいじゃないか。留三郎は良い後輩に恵まれていると思うぞ。編入生の浜だってお前のことをお兄ちゃんって呼んだことがあるそうじゃないか」
「誰に聞いたんだ、それ」
「乱太郎たちから。まあ、そう呼びたくなる気持ちはよくわかる」
紅蓮はそう言い、笑ってみせた。
つい一刻ほど前、隣部屋から紅蓮がやってきた。「暇だ」と仏頂面を引き下げて。
俺は自室で用具倉庫から持ち出した手裏剣や鉤縄、縄梯子などの修補をしている最中だった。相手はしてやれんと断りを入れれば「私も修補を手伝おう」と助っ人を買って出てくれた。紅蓮は三年の頃から俺や伊作の委員会活動を手伝う機会も多かったので、修補の勝手をよく知る。あれこれ一から教える手間も省けるので、こちらとしては大いに助かる。体調に支障がないのならと俺は答えた。
こいつは現在療養中の身だ。
先日の卒業試験で負った刀傷が思いの外深く、新野先生と保健委員長から身体を動かすことを強く止められている。夜間訓練及び実技自習は断固として厳禁。当初はこの程度の縛りだったのだが。
一昨日、紅蓮の後輩であるタカ丸さんが学園内の落とし穴を踏み抜いた。傍にいた紅蓮はもはや反射的にその腕を掴み、穴に吸い込まれそうになった後輩を助けたのだ。その時、腹の傷がぱっくりと開いたらしく。伊作にこっぴどく叱られていた。
今じゃ手裏剣の一つも打たせてもらえないと文句を垂れる。それは半分お前が悪い。
じっとしているのが性に合わないのは昔から。これは人のことを言えたもんじゃないが、紅蓮も大概それで伊作を困らせてきた。
自室で出来ることは限られている。読書、忍具や武器の手入れ、部屋の掃除とやり尽くしてしまったそうで。俺が頼んだ分の仕事も不備なく終わらせてくれた。
いよいよ手持無沙汰になった紅蓮は目の前で棒手裏剣の手入れをしているが、錆が一つも見当たらない。取り分け丁寧に磨かれたものが一本見受けられる。
「そういえば。お前は自分の後輩は名前で呼んでいるのに、他の後輩のことは姓呼びなんだな」
俺はふと疑問に思ったことを聞いてみた。
平太や作兵衛とはそう浅い付き合いでもない。先述したように、委員会活動の手伝いで顔を何度も合わせている。
その問いに紅蓮は些か不思議そうな表情を浮かべた。
「いや、だって……馴れ馴れしくないか。そう親しくもないのに。私だったらそこまで付き合いがない先輩から名で呼ばれたら微妙な気持ちになる。流石に反発まではしないが」
「親しくないって、結構顔合わせてるだろ。律儀だな。ま、お前が自分のとこの後輩を特別扱いしたいっていうなら構わないが」
「うちの後輩はしっかり者が多くて、みんな可愛いぞ」
頬を緩め、しまりのない微笑を携えた口元。後輩の話になるといつもこれだ。
「紅蓮の後輩自慢は耳にタコができるぐらい聞いてるよ」半ば呆れながら俺はそう返した。
「……あ。じゃあなんで乱太郎、きり丸、しんべヱのことは名前で呼んでるんだ?」
「言われてみれば、そうだな。……まあ、何となくだろうな」
「何となくかよ」
俺たちは笑い合った。
会話を終わらせたのはどちらの方だったか。
紅蓮の返事が「ああ」「そうだな」程度の短いものが続いて、口数も減った。
互いに手元の作業に集中していたので、無言を気に留めることもないし、気まずい間柄でもない。
俺は縄梯子を繋ぐ麻の紐を籠から取り出すべく、背後を振り返った。
まだ使える麻紐があったはずだ。長さが丁度良いものを探していると、不意に紅蓮が俺の名を呼んだ。
「留三郎」
「なんだ」
「暇か」
「は?」
何を今更訊いてくるのか。そう思いながら振り返ると、その理由を俺はすぐさま理解した。
紅蓮は俯いた状態で目頭を指で揉み、部屋を仕切る衝立に肩を預けた状態。
嗚呼、成程。そういうことか。
「ねむい」
「そりゃあな。傷が開いて余計な血流したんだ。身体が回復しようとしてんだろ」
「……だめだ仮眠とらせてくれ」
「それは構わないが……ってそこで寝ようとするな!」
紅蓮の身体は衝立からずるずると滑り落ち、そこで横になろうとする。
ここで寝られたら手裏剣やら何やら鋭利なものが多すぎるから危ない。その判断力すらあやふやなぐらいに限界の睡魔が来ているのか。
「寝るなら伊作の方で寝ろ。今布団敷いてやるから、ちょっと待ってろ」
「わかった」
こう言うだけではそのまま冷たい床板の上で眠りこける。間違いなく。そうなると俺が伊作に怒られるんだよ。冷えは病人、怪我人に大敵だとかで。
俺は急いで押し入れから布団を一組出して、空いてる場所に手早く敷いた。
寝床が用意できたところで振り返ると、思わず悲鳴を上げてしまいそうな光景が目に映った。
力を振り絞って立ち上がろうとしたんだろうが、力及ばずに衝立にぐったりと寄りかかる紅蓮の姿。頭と結い上げた髪が垂れ、右腕も力なくぶら下がっていた。まるで討ち死にしたような姿を見せてくれるな。
「心臓に悪いからやめろっ!」
「わるい……留三郎」
「ったく、ほら肩貸してやるから歩け。すぐそこだ」
そうは言ったが、殆ど引きずられるようにしていた。
なんとか紅蓮を布団に押し込んで掛け布団を肩までしっかりと掛けてやる。
横になった刹那、気配がすっと消えた。どうやら寝落ち寸前だったようだ。
すうすうと寝息を立てる横顔は完全に無防備そのもの。負傷した上、暫く気を張り詰めていたようだし夜もまともに眠ってなかったんだろうな。
紅蓮の寝顔を見るのも久しぶりだ。伊作と三人で川の字になって寝たこともあったな。寝相が悪いだの、寝言がどうのだの言い合ったこともある。
込み上げてきた懐かしさに俺は口角を持ち上げた。
「まったく。世話の焼ける弟だよ」
◇
静かな寝息が聞こえる中、この部屋に近づいてくる一つの足音。
下級生のものであるそれは戸の前で立ち止まった。
「池田三郎次です。善法寺伊作先輩は居られますか」
礼儀正しく名乗った後輩に俺は「入っていいぞ」と応え、衝立の向こう側を見やる。今のところ紅蓮が起きる気配はない。
「失礼します」
「どうした三郎次。伊作に何か用か」
「はい。左近からの言伝を。……伊作先輩、具合が悪いんですか」
三郎次は声を顰め、部屋の左側に顔を向ける。そこからでは顔が見えない。伊作が寝込んでいるのだと勘違いしているようだった。
「いや、そこで寝てるのは紅蓮だよ」
「葉月先輩? ……ほんとだ。え、どうして食満先輩方の部屋で。もしや体調が優れないのですか」
三郎次の顔が曇る。怪我を負った経緯、傷口が開いたことも知っているから余計に心配だと眉を寄せた。
すぐ隣の部屋に移動する体力すらないのかと。まあ、ある意味そうだった。
「いや、ただ暇を持て余して眠いからって昼寝してるだけだよ。床に転がしておくわけにもいかないからな。伊作の寝床を借してやった」
「そうでしたか」
「新野先生と伊作に身体動かすの禁止されてるから余計に暇なんだろう」
「明日は火薬委員会の活動があるのですが、声を掛けたらいらしてくれますかね」
委員会活動まで禁止されているわけでもない。これが体育委員、会計委員ならば話はまた違ってくるだろうが。今までに火薬委員会で「校庭を火薬壺抱えて百周だ!」とか「山を上ったり下りたりしよう!」みたいな滅茶苦茶な活動内容は紅蓮の口から聞いたことがない。
「ああ、そうしてやるといい。紅蓮のやつ喜ぶぞ」
何せ紅蓮は後輩大好き人間だ。例え声が掛からなくとも自ら様子を見に行くに違いない。
無理だけはさせないよう、俺からそう伝えると三郎次は快い返事をした。
この後輩は卒業試験に挑んだ紅蓮と仙蔵が戻って来ないと知り、自ら行動を起こした。
後から聞いた話だが、それこそ同級生である川西左近たちに相談を持ち掛けたらしいが、例え独りでも探しにいくという固い決意を漲 らせていたそうだ。
道の先から歩いてきた紅蓮の姿を見ても、伊作のように顔をぐしゃぐしゃにするまで泣くような真似は見せなかった。無事な姿を捉え、肩を小刻みに震わせながら「よかった」と呟いた声は恐らく俺しか聞いていない。
ここまで慕ってくれる後輩はそういないぞ。お前も十分に後輩に敬われているよ。
衝立越しに眠る同級生に俺は笑い掛けた。
「伊作ならもう直戻って来るはずだ。何もなければ」
「あはは……待たせてもらっても良いですか。すれ違いになってもあれなので」
「ああ、構わない。とは言ったが、俺の方は見ての通り修補の作業中でごちゃごちゃしている。待つなら伊作の方に座ってくれ」
「はい。失礼します。あの、お手伝いできることがあればしましょうか」
「ん、いや大丈夫だ。さっき紅蓮に手伝ってもらったから、殆ど終わってるんだ」
手裏剣の手入れ、桶の修補、釘の錆び落とし。てきぱきとやってくれたお陰で修補も順調。やるだけやって、力尽きてそこで寝こけているわけだがな。
壁側に寄せられた修補済みの用具を一通り眺めた後「すごいですね」と三郎次が言葉を漏らした。
「葉月先輩って割となんでも出来ますよね」
「手先が器用だからな。忍具の扱いどころか、修補も任せられるから頼もしいやつだよ」
「……やっぱりすごいなぁ葉月先輩。頭が良くて、実力もある。それに何より立居振舞いがカッコいい」
三郎次はたちまち目を輝かせた。
紅蓮は後輩大好きだが、三郎次も先輩大好きだなこりゃ。まあ、片一方が嫌っているよりは数段良い。
「三郎次は本当に紅蓮のことを尊敬してるんだな」
「そりゃあ、もう。憧れですから」
「憧れか。そいつは良いな。紅蓮が起きたら伝えておこう」
「そっそれはちょっと恥ずかしいので。……すみません、あまり大きな声で話していたら先輩起きちゃいますよね」
俺は鉤縄の縄を結び終え、脇に置いた。これで三つ全て修補は完了だ。
それから、声を顰めていた三郎次に促され、衝立の向こう側を覗き込む。
紅蓮は布団に潜り込んだ時のままの状態から体勢を変えていない。寝返り一つも打っていないようだ。あまりに静かな呼吸であるせいか「生きてますよね」と不安げに三郎次が尋ねるほど。
「大丈夫だ。熟睡してるだけだから、ちょっとやそっとじゃ起きない」
忍びを志す者であれば、不審な物音や足音で瞬時に目を覚ますのが相応しい。
事情が事情なだけに一年の時から紅蓮は人の気配に敏感だった。俺と伊作がその事情を知ってからは色々と協力もした。今回の様に睡魔が限界で、完全に寝落ちる時は俺たちの都合を先に伺う。
「暇か」と言うのは裏を返せば「私が起きるまで傍で見張りを頼む。何かあったら叩き起こしてくれ」という意味合いになる。紅蓮は信頼した相手、つまり俺か伊作の傍でしか眠りにつかない。それが六年間続いた。
だが、今回ばかりは少しだけ特殊な気がしていた。俺以外の人間がこれだけ話していても、起きる気配が全くもってないんだ。しかも互いの距離は三尺足らず。
「普段なら他の奴らが来たら寸で起きるんだがな」
「そうなんですか」
「こいつは信頼してる相手の前じゃないと、こんな風には寝ないんだよ」
それだけ身体の全神経が回復に集中しているせいなのか、それとも。
「三郎次のことを信頼しているのかもな」
俺がふと思いついたことを話せば、三郎次は思いがけないことだと目を軽く見開き、紅を散らしたように頬を赤らめて小恥ずかしそうに笑った。
「そうだと嬉しいです」
「下坂部は留三郎に懐いているし、大層慕っているじゃないか。この間も「食満先輩はとっても頼りになるんです。怒ると怖いけど」と言っていたよ」
「怒ると怖いは余計だけどな」
「頼りにされ、慕われているからいいじゃないか。留三郎は良い後輩に恵まれていると思うぞ。編入生の浜だってお前のことをお兄ちゃんって呼んだことがあるそうじゃないか」
「誰に聞いたんだ、それ」
「乱太郎たちから。まあ、そう呼びたくなる気持ちはよくわかる」
紅蓮はそう言い、笑ってみせた。
つい一刻ほど前、隣部屋から紅蓮がやってきた。「暇だ」と仏頂面を引き下げて。
俺は自室で用具倉庫から持ち出した手裏剣や鉤縄、縄梯子などの修補をしている最中だった。相手はしてやれんと断りを入れれば「私も修補を手伝おう」と助っ人を買って出てくれた。紅蓮は三年の頃から俺や伊作の委員会活動を手伝う機会も多かったので、修補の勝手をよく知る。あれこれ一から教える手間も省けるので、こちらとしては大いに助かる。体調に支障がないのならと俺は答えた。
こいつは現在療養中の身だ。
先日の卒業試験で負った刀傷が思いの外深く、新野先生と保健委員長から身体を動かすことを強く止められている。夜間訓練及び実技自習は断固として厳禁。当初はこの程度の縛りだったのだが。
一昨日、紅蓮の後輩であるタカ丸さんが学園内の落とし穴を踏み抜いた。傍にいた紅蓮はもはや反射的にその腕を掴み、穴に吸い込まれそうになった後輩を助けたのだ。その時、腹の傷がぱっくりと開いたらしく。伊作にこっぴどく叱られていた。
今じゃ手裏剣の一つも打たせてもらえないと文句を垂れる。それは半分お前が悪い。
じっとしているのが性に合わないのは昔から。これは人のことを言えたもんじゃないが、紅蓮も大概それで伊作を困らせてきた。
自室で出来ることは限られている。読書、忍具や武器の手入れ、部屋の掃除とやり尽くしてしまったそうで。俺が頼んだ分の仕事も不備なく終わらせてくれた。
いよいよ手持無沙汰になった紅蓮は目の前で棒手裏剣の手入れをしているが、錆が一つも見当たらない。取り分け丁寧に磨かれたものが一本見受けられる。
「そういえば。お前は自分の後輩は名前で呼んでいるのに、他の後輩のことは姓呼びなんだな」
俺はふと疑問に思ったことを聞いてみた。
平太や作兵衛とはそう浅い付き合いでもない。先述したように、委員会活動の手伝いで顔を何度も合わせている。
その問いに紅蓮は些か不思議そうな表情を浮かべた。
「いや、だって……馴れ馴れしくないか。そう親しくもないのに。私だったらそこまで付き合いがない先輩から名で呼ばれたら微妙な気持ちになる。流石に反発まではしないが」
「親しくないって、結構顔合わせてるだろ。律儀だな。ま、お前が自分のとこの後輩を特別扱いしたいっていうなら構わないが」
「うちの後輩はしっかり者が多くて、みんな可愛いぞ」
頬を緩め、しまりのない微笑を携えた口元。後輩の話になるといつもこれだ。
「紅蓮の後輩自慢は耳にタコができるぐらい聞いてるよ」半ば呆れながら俺はそう返した。
「……あ。じゃあなんで乱太郎、きり丸、しんべヱのことは名前で呼んでるんだ?」
「言われてみれば、そうだな。……まあ、何となくだろうな」
「何となくかよ」
俺たちは笑い合った。
会話を終わらせたのはどちらの方だったか。
紅蓮の返事が「ああ」「そうだな」程度の短いものが続いて、口数も減った。
互いに手元の作業に集中していたので、無言を気に留めることもないし、気まずい間柄でもない。
俺は縄梯子を繋ぐ麻の紐を籠から取り出すべく、背後を振り返った。
まだ使える麻紐があったはずだ。長さが丁度良いものを探していると、不意に紅蓮が俺の名を呼んだ。
「留三郎」
「なんだ」
「暇か」
「は?」
何を今更訊いてくるのか。そう思いながら振り返ると、その理由を俺はすぐさま理解した。
紅蓮は俯いた状態で目頭を指で揉み、部屋を仕切る衝立に肩を預けた状態。
嗚呼、成程。そういうことか。
「ねむい」
「そりゃあな。傷が開いて余計な血流したんだ。身体が回復しようとしてんだろ」
「……だめだ仮眠とらせてくれ」
「それは構わないが……ってそこで寝ようとするな!」
紅蓮の身体は衝立からずるずると滑り落ち、そこで横になろうとする。
ここで寝られたら手裏剣やら何やら鋭利なものが多すぎるから危ない。その判断力すらあやふやなぐらいに限界の睡魔が来ているのか。
「寝るなら伊作の方で寝ろ。今布団敷いてやるから、ちょっと待ってろ」
「わかった」
こう言うだけではそのまま冷たい床板の上で眠りこける。間違いなく。そうなると俺が伊作に怒られるんだよ。冷えは病人、怪我人に大敵だとかで。
俺は急いで押し入れから布団を一組出して、空いてる場所に手早く敷いた。
寝床が用意できたところで振り返ると、思わず悲鳴を上げてしまいそうな光景が目に映った。
力を振り絞って立ち上がろうとしたんだろうが、力及ばずに衝立にぐったりと寄りかかる紅蓮の姿。頭と結い上げた髪が垂れ、右腕も力なくぶら下がっていた。まるで討ち死にしたような姿を見せてくれるな。
「心臓に悪いからやめろっ!」
「わるい……留三郎」
「ったく、ほら肩貸してやるから歩け。すぐそこだ」
そうは言ったが、殆ど引きずられるようにしていた。
なんとか紅蓮を布団に押し込んで掛け布団を肩までしっかりと掛けてやる。
横になった刹那、気配がすっと消えた。どうやら寝落ち寸前だったようだ。
すうすうと寝息を立てる横顔は完全に無防備そのもの。負傷した上、暫く気を張り詰めていたようだし夜もまともに眠ってなかったんだろうな。
紅蓮の寝顔を見るのも久しぶりだ。伊作と三人で川の字になって寝たこともあったな。寝相が悪いだの、寝言がどうのだの言い合ったこともある。
込み上げてきた懐かしさに俺は口角を持ち上げた。
「まったく。世話の焼ける弟だよ」
◇
静かな寝息が聞こえる中、この部屋に近づいてくる一つの足音。
下級生のものであるそれは戸の前で立ち止まった。
「池田三郎次です。善法寺伊作先輩は居られますか」
礼儀正しく名乗った後輩に俺は「入っていいぞ」と応え、衝立の向こう側を見やる。今のところ紅蓮が起きる気配はない。
「失礼します」
「どうした三郎次。伊作に何か用か」
「はい。左近からの言伝を。……伊作先輩、具合が悪いんですか」
三郎次は声を顰め、部屋の左側に顔を向ける。そこからでは顔が見えない。伊作が寝込んでいるのだと勘違いしているようだった。
「いや、そこで寝てるのは紅蓮だよ」
「葉月先輩? ……ほんとだ。え、どうして食満先輩方の部屋で。もしや体調が優れないのですか」
三郎次の顔が曇る。怪我を負った経緯、傷口が開いたことも知っているから余計に心配だと眉を寄せた。
すぐ隣の部屋に移動する体力すらないのかと。まあ、ある意味そうだった。
「いや、ただ暇を持て余して眠いからって昼寝してるだけだよ。床に転がしておくわけにもいかないからな。伊作の寝床を借してやった」
「そうでしたか」
「新野先生と伊作に身体動かすの禁止されてるから余計に暇なんだろう」
「明日は火薬委員会の活動があるのですが、声を掛けたらいらしてくれますかね」
委員会活動まで禁止されているわけでもない。これが体育委員、会計委員ならば話はまた違ってくるだろうが。今までに火薬委員会で「校庭を火薬壺抱えて百周だ!」とか「山を上ったり下りたりしよう!」みたいな滅茶苦茶な活動内容は紅蓮の口から聞いたことがない。
「ああ、そうしてやるといい。紅蓮のやつ喜ぶぞ」
何せ紅蓮は後輩大好き人間だ。例え声が掛からなくとも自ら様子を見に行くに違いない。
無理だけはさせないよう、俺からそう伝えると三郎次は快い返事をした。
この後輩は卒業試験に挑んだ紅蓮と仙蔵が戻って来ないと知り、自ら行動を起こした。
後から聞いた話だが、それこそ同級生である川西左近たちに相談を持ち掛けたらしいが、例え独りでも探しにいくという固い決意を
道の先から歩いてきた紅蓮の姿を見ても、伊作のように顔をぐしゃぐしゃにするまで泣くような真似は見せなかった。無事な姿を捉え、肩を小刻みに震わせながら「よかった」と呟いた声は恐らく俺しか聞いていない。
ここまで慕ってくれる後輩はそういないぞ。お前も十分に後輩に敬われているよ。
衝立越しに眠る同級生に俺は笑い掛けた。
「伊作ならもう直戻って来るはずだ。何もなければ」
「あはは……待たせてもらっても良いですか。すれ違いになってもあれなので」
「ああ、構わない。とは言ったが、俺の方は見ての通り修補の作業中でごちゃごちゃしている。待つなら伊作の方に座ってくれ」
「はい。失礼します。あの、お手伝いできることがあればしましょうか」
「ん、いや大丈夫だ。さっき紅蓮に手伝ってもらったから、殆ど終わってるんだ」
手裏剣の手入れ、桶の修補、釘の錆び落とし。てきぱきとやってくれたお陰で修補も順調。やるだけやって、力尽きてそこで寝こけているわけだがな。
壁側に寄せられた修補済みの用具を一通り眺めた後「すごいですね」と三郎次が言葉を漏らした。
「葉月先輩って割となんでも出来ますよね」
「手先が器用だからな。忍具の扱いどころか、修補も任せられるから頼もしいやつだよ」
「……やっぱりすごいなぁ葉月先輩。頭が良くて、実力もある。それに何より立居振舞いがカッコいい」
三郎次はたちまち目を輝かせた。
紅蓮は後輩大好きだが、三郎次も先輩大好きだなこりゃ。まあ、片一方が嫌っているよりは数段良い。
「三郎次は本当に紅蓮のことを尊敬してるんだな」
「そりゃあ、もう。憧れですから」
「憧れか。そいつは良いな。紅蓮が起きたら伝えておこう」
「そっそれはちょっと恥ずかしいので。……すみません、あまり大きな声で話していたら先輩起きちゃいますよね」
俺は鉤縄の縄を結び終え、脇に置いた。これで三つ全て修補は完了だ。
それから、声を顰めていた三郎次に促され、衝立の向こう側を覗き込む。
紅蓮は布団に潜り込んだ時のままの状態から体勢を変えていない。寝返り一つも打っていないようだ。あまりに静かな呼吸であるせいか「生きてますよね」と不安げに三郎次が尋ねるほど。
「大丈夫だ。熟睡してるだけだから、ちょっとやそっとじゃ起きない」
忍びを志す者であれば、不審な物音や足音で瞬時に目を覚ますのが相応しい。
事情が事情なだけに一年の時から紅蓮は人の気配に敏感だった。俺と伊作がその事情を知ってからは色々と協力もした。今回の様に睡魔が限界で、完全に寝落ちる時は俺たちの都合を先に伺う。
「暇か」と言うのは裏を返せば「私が起きるまで傍で見張りを頼む。何かあったら叩き起こしてくれ」という意味合いになる。紅蓮は信頼した相手、つまり俺か伊作の傍でしか眠りにつかない。それが六年間続いた。
だが、今回ばかりは少しだけ特殊な気がしていた。俺以外の人間がこれだけ話していても、起きる気配が全くもってないんだ。しかも互いの距離は三尺足らず。
「普段なら他の奴らが来たら寸で起きるんだがな」
「そうなんですか」
「こいつは信頼してる相手の前じゃないと、こんな風には寝ないんだよ」
それだけ身体の全神経が回復に集中しているせいなのか、それとも。
「三郎次のことを信頼しているのかもな」
俺がふと思いついたことを話せば、三郎次は思いがけないことだと目を軽く見開き、紅を散らしたように頬を赤らめて小恥ずかしそうに笑った。
「そうだと嬉しいです」