軽率なコラボシリーズ
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以心伝心
「お二人が今度お休みの日、町を一緒に見学しませんか」
数日前に兵助から誘いの声を掛けられ、都合を合わせた私たちは久々知夫妻と共に四人で町へ訪れた。
「町を見学って、今更だけど変な言い方だよね」
「不二子さんの時代ではどう呼ぶのですか」
「普通に遊びに行く、とかかな。見学って言うと社会科の授業の一環みたい」
「まあ、遊びに行くとはあまり言わないですね。僕らにとっては町の様子を見に行くか、必要品の買い出しぐらいですから」
息抜きに出掛ける場所として選ぶものでもない。私ならば手裏剣打ちに没頭する。
隣を歩く不二子さんにそう語れば意味が分からないと言った風の顔をされた。
忍びとはそういうものなんですよ。町は有力な情報源なので。
「昔は後輩たちと会話を交わすことも息抜きになりましたよ。勿論、三郎次との稽古もその一つでした」
「息抜きにされていた」
「でも三郎次も先輩と会いたいって理由で稽古の回数増やしてもらったんだよな」
不二子さんの右隣を歩く兵助が悪気なしにそう言った。笑顔を添えてだ。
これに三郎次は「久々知先輩っ! 余計なことバラさないでください!」と私の隣から声を上げた。
「そんな理由でもつけないと卒業生と会う機会なんて滅多にないもんね」
「私も当時は仙蔵から距離を取る理由になったので、これに関してはお互い様かと。結果的に立派に育ってくれましたし」
「良かったなぁ三郎次」
「相変わらず親目線だよね」
複雑だ。
隣でそうボヤいた声は私にしか聞こえていなかったようで。久々知夫妻は「そこの田楽豆腐屋で売ってるのが最高に美味くて」「楽しみだね」と気兼ねない会話を楽しんでいる。
その手はしっかりと繋がれており。なんとまあ、仲睦まじいことだ。
町と外を繋ぐ橋を渡りきった辺りで、兵助の顔がひょこりと不二子さんの隣から覗いた。
「三郎次。ちょっと買いたい物があるから付き合ってくれないか」
「いいですけど。豆腐ですか」
半ば呆れた風の返事。すっかり三郎次にも兵助=豆腐という等式が刷り込まれている。これはもう今更である気もした。過去に私が「兵助の悩みは豆腐ばかりだ」と零してしまったせいか。いや、事実そうなのだが。後輩である三郎次にまでその意識を植え付けてしまった。その責任を感じている。
ここは嘘でもいいから「火薬の買い付けに」とでも言ってくれたら、元火薬委員会として面目が立ったのだが。
「お豆腐なら三軒先のお店が美味しいよ」
そして御内儀もこれなのだ。豆腐夫婦とはよく言ったもの。
不二子さんには「豆腐委員会」と呼ばれるのが、どうにも腑に落ちない。九割方兵助のせいである。
私はそこまで責任を負わなくても良い気もしてきた。
「いやぁ……豆腐ではないんだけど」
兵助は歯切れが悪く、目を泳がせながら、そう答えた。
おい、そんな表情をするな。不二子さんが怪しむ。また離縁騒ぎになりたいのか。
私はちらと不二子さんの様子を窺った。まだこの時点では兵助の行動を危ぶんではいないようで「豆腐じゃないの?」と首を傾げていた。そこを気にするのか。
そして二手に分かれようと提案した本人は頑なに不二子さんの手を離そうとしなかった。むしろ繋いだ手に力が込められている気もする。兵助、言動が一致していないぞ。
「先輩。用がないなら俺は霧華さんと町を見て回りますけど」
「ああーっ! 待ってくれ!」
そうは言うが、一向に手を離さない。
いい加減痺れを切らした三郎次が遠慮なしに兵助を不二子さんから引き剥がし、ずるずると引きずっていった。
「不二子さーん」と情けなく叫ぶ兵助の声が段々と遠くなっていく。
「豆腐じゃないんだね」
「まだそこを気にしますか。……まあ、男同士で何か話すこともあるのでしょう」
「……うん。そうだね」
適当な理由を取ってつけてはみたものの、俄に不二子さんの顔が曇る。
町の女子に会いに行くのではないか、と疑いの目を向けていた。
私は心配無用と不二子さんの肩をぽんと叩く。
「三郎次がいます。それでも何かありそうなら、私が灸を据えますので」
「霧華さん。顔が怖いよぉ」
「離縁騷ぎに巻き込まれるのは御免被りたいので。それは兎も角、先程の兵助を見たでしょう。一時でも貴女と離れるのが耐え難いといった様子だ」
「それは、うん。ちょっと大声で名前叫ばないでほしいと思った」
町中で御内儀の名を呼ぶ声に通りすがりの町人がなんだなんだと振り返り、足を止めていた。流石にもうその視線は散ったが、注目の的になりかけたのは否めない。
それに、だ。不二子さんには聞こえていなかった兵助からの矢羽音。
――先輩! 不二子さんをお願いします!
自分が離れている間、妻を危険から守ってくれという用心棒の依頼。
今日は男装で来ているのでその役目は十分に請け負える。例え小袖姿であろうとも、よからぬ輩は撃退するつもりではいるが。
「さて、我々はどうしましょうか。田楽豆腐屋で落ち合うまで時間があります」
「え、待ち合わせ場所のこと言ってた?」
「兵助が三郎次に連れて行かれる直前に矢羽音を飛ばしてきましたので」
「矢羽音って便利だね。……んー。とりあえず私たちはぶらぶら町を歩こうか?」
「ええ、構いませんよ。不二子さんは何か目当てのものはありますか、茶屋で足を休めても良いですし」
私は町と人々の様子を観察出来ればそれで良い。日用品、食料で不足しているものも特にない。
不二子さんは兵助と三郎次が進んだ道を暫く睨んでいた。そして諦めたのか、兵助を信じたのか私の方へ向き直る。
「ぶらついた後で田楽豆腐屋の側にある茶屋に行こっか。その方が兵助くんたちも見つけやすいだろうし」
兵助たちと間違いなく確実に落ち合うにはそれが良いという提案に私は賛成した。
人の往来が多い日は特にそうした方が良い。
町並みは活気づいており、賑やかな声で満ちる。
ここ暫くは戦の空気を感じられないおかげだろう。
どこの城も大人しくしており、敵地に攻め込むような真似は控えている。
戦は奪うだけで何も生み出さない。このまま太平の世が続けば良い。
戦を失くすことが忍びの役割でもある。治世が訪れ、廃業となったその時はその時だ。我々は生きる為の様々な術を身に付けてきた。仮にそうなったとしたら、漁師に転職するのも悪くはない。
すれ違った飛脚は急ぎの文でも運んでいるのか、早々と私の脇を通り過ぎていく。
「霧華さん、普段待ち合わせる時ってどうしてるの」
「どう、とは?」
「気軽に連絡が取れないでしょ」
「まあ、そうですね。基本的には来るまで待ちます」
「来なかったら?」
「帰ります。長時間その場に佇んでいれば怪しまれますから」
若しくは、何かあったと踏んで周囲をくまなく調べるか。
僅かに残された手掛かり、情報から判断する力は一般人よりも我々は長けている。未来の“探偵”という職業に通ずるものが、もしかすると忍びにはありそうだ。
それはさておき、待ち人が来ないことについて不安を抱くのは現在も未来も変わらない様子。
不二子さんのいた時代では遅延なく相手と連絡を取る手段が発達していると聞く。文よりも速く、狼煙よりも正確に伝達する手段だと。
人の往来が和らいだのを機に私は再び口を開いた。
「しかし便利な世になるものですね。遠くにいる相手とは文か狼煙でしか連絡が出来ない世だと言うのに」
「そうだよね。文明の進化は目覚ましいんだよ。でも、便利すぎてちょっと面倒なこともあるかも」
「面倒とは」
不二子さんの歩幅に合わせて歩く私は隣を振り返る。こくりと頷いた不二子さんと目が合った。少し眠そうな眼だ。
「んー……兵助くんで例えるなら」
「兵助で例えるのですか」
「一番それっぽいし。兵助くんなら一時間毎、いや三十分毎にメール送ってきそう。……いや、暇だったら五分毎かな」
「めえる?」
新たな南蛮由来の言葉。
未来は兎角音を伸ばす傾向にあるらしく。それだけ輸入された言葉が山程ということだ。
そして不二子さんの言う所要時間らしき数値がどんどんと短くなる。時間の概念も細分化されてるそうだが、感覚的にかなり短いように捉えることができた。
「簡単に言うと、文のやり取りが時間差無しに相手に届くんだよ」
「ふむ」
「今日の晩御飯何がいいー? っていう文を学園から堺の港にいる兵助くんに送るとします」
「……文なら届くのに一日、直ぐ様返事を書いて出したとしても学園に着くのが一日。最短でも二日はかかりますね」
文で尋ねることではまず有り得ないが、というのは置いておこう。文を出すよりも兵助が飛んで帰ってきた方が遥かに早い。忖度なしにだ。
「とてもじゃないけど間に合わないでしょ? 明後日ぐらいの晩御飯になっちゃう」
「早馬で届けるような内容でもありませんからね」
「まあね。ですが、なんと! メールなら一日どころか一瞬で届いちゃうの」
「それは素晴らしい。早馬より速く、矢文よりも正確に届けることが可能とは凄い世になるものだ」
「矢文」
「矢に文をくくりつけて、崖向こうや離れた場所にいる相手に報せる方法です」
矢から文が外れぬよう、破れぬように結ぶのが意外と気を使う。
弓矢の扱いは学園で当然習うものだ。火縄銃同様に集中力と一定の時間を必要とするので、得手不得手がはっきりとする。
「それは知ってる。霧華さん矢文打てるの……? すごくない? だって少しでも狙い逸れたら危ないよね」
「兵助も扱えると思いますよ。授業で必ず習いますから」
「時々思うんだけどさ。霧華さん、なんでは組だったの? い組の実力あったんじゃない?」
「よく言われます。ところで、その面倒な点とは」
「ああ、うん。そのメールのやり取りが煩わしいこともあるんだ。読んだり返したりするのは文と同じで、その人のタイミングで出せるんだけどね」
めえるが返ってこないが為に、返事はまだかまだかとやきもきする。その点は今も言えること。
不二子さんからの返事が来ず、狼狽える兵助の姿がありありと目に浮かんだ。
家出騒動の折は文次郎が労を費やしたという。珍しい後輩から文が来たかと思えば、家出してきた不二子さんが滝夜叉丸の家に身を寄せていたという話を聞いた。
時折この人は何かの枷が外れた様な行動を取る。離縁騒動も例に漏れず。
「兵助くんとメールしてたら一時間は軽く溶ける気がするんだよね。返さなかったらうるさそうだし。その前に電話掛けてきそう」
その癖仲が良い。
めえるを返すのが面倒だとか言っていたのはどこへやら。結局はそのめえるのやり取りに付き合うようで。
通りを曲がると人の往来がまた増えてきたので、私たちは口数を減らしながら露店の品を見て回った。
茣蓙に並べられた箱や櫛、動物を模った小ぶりの置物。
不二子さんはそれらに目を惹かれたようで、足をはたと止めた。私も横に並び、さも物色するかのように品を眺める。
色をつけた動物の置物は木を彫ったもの。手のひらに乗る大きさだ。
「あれ可愛いね」
「猫に犬、鳥。……こちらは十二支を模ったものですね」
「あ、ほんとだ。子・丑・寅・卯・辰・巳……蛇が白いね」
「白蛇は吉兆ですからね」
妙な間があった。恐らく不二子さんは真っ赤な蛇を思い浮かべたことだろう。伊賀崎が可愛がっていた毒蛇のジュンコのことを。
「見ていっても良いかな」
「ええ。御主人、品はどちらから仕入れたもので?」
茣蓙の前に屈み、あれこれと品をじっくりと見始めた不二子さんを気に掛けながら私は店の主人に話しかけた。
店主は肉付きの良い恰幅で、肌や髪に艶がある。良い商売をしているのだろう。
人が良さそうな顔をしてはいるようだが。
「隣町から仕入れたものだよ。福富屋経由で買い取ったものでね。良い品ばかりですよ」
「ほう。あの福富屋ですか、堺の貿易商の。実は私の知り合いが福富屋と長い付き合いがありまして」
愛想を交え、私は相手の様子に目を光らせる。紛い物、嘘を吐いているならば悪い兆しが現れるはず。
しかし、主人は狼狽えるどころか福の神の如くにこにこと笑った。
「そうでしたか。それは良いお知り合いだ。福富屋の御主人は良い人ですし、目利きも素晴らしい。二年前から縁があってお付き合いさせていただいてますが、あの方はほんに真の商人です」
まるで親しい友人を敬うかのように語らう。
これは要らぬ心配だったようだ。この主人は真っ当な商い人。よくよく見れば苦労の跡が見受けられる。
「しかし、こんな偶然もあるものですね」
「と、言いますと?」
「いや、先程も福富屋とお知り合いだという若い御仁がいらしてね。熱心に品を選んでおりましたよ。なんでも妻に贈り物をするとかで」
「あの方も顔が広い。国内外問わずに。商人は人脈が要ですから。それにお人柄も良い」
「そうですね」と相槌を打つ主人もどこかふくよかで大らかな性格に思える。
私たちの横で若い女子二人が膝を曲げた。
「あの簪可愛い」などと女子らしい会話が聞こえてくる。店の主人もそちらに注意を向けて「どれも一品物だよ。その硝子製は特に珍しいものでね」と接客を始めた。
それにしても、同じように福富屋が知り合いで妻に贈り物をと話した御仁とやら。もしかすると。
心当たりがありながらも、顎をさすり一思案した所で不二子さんに声を掛けた。
「気になるものはありましたか」
「あの猫の置物、三毛猫のやつ。可愛いね」
細い指が前から二列目に並ぶ動物の置物を示す。三毛猫の模様に塗られていて、鼻が薄い桜色だ。
この三毛模様には見覚えがあった。私が連れ帰った後に姿を晦まし、今も恩義に報いようとしている三毛猫の仔猫と似ている。
「どうかした?」
「いえ、この三毛猫。前に話した仔猫と似ていると」
「ほんと? うわぁー実物はもっと可愛かったんだろうなぁ」
これを手に取って眺めてみれば、本当にその仔猫の写しのように思えてくる。
三郎次によくちょっかいをかけていたあの仔猫。なんだかんだ三郎次も気にかけていたようだし。土産に買っていけば喜ぶだろうか。話の種にはなるやもしれん。
ああ、でもその前に。
「買いますか?」
「え、買わないよ?」
不二子さんが最初に気に留めた物だ。譲るべきだろうと思っていたのだが、意外な答えが返ってきた。
最初から買うつもりなどないといった風に目を丸める。逆に驚かれてしまったな。
「気にされていたので」
「可愛いなぁとは思った。でも実用的じゃないよなぁって」
「成程」
この人は贈り物をするならば実用的なものを選ぶ傾向があった。
以前、兵助に贈った物を聞く機会があり、そこで聞いたものはどれも実用的なものだった。
普段使いできる結紐、墨や筆などの文房四宝、割烹着。割烹着を贈った理由は豆腐を作ってくれるからだそうだ。
大好きな豆腐を最愛の人から受け取った割烹着で作る。この上なく幸福に満ちた表情に違いない。
一つ年下とはいえ、兵助も私の後輩には変わりない。お前が幸せそうで何よりだよ。
後輩の御内儀は左手側に置かれた小箱にじっと視線を向けていた。先程から熱心に品定めをしている。
「贈り物でしたら選ぶのを手伝いますよ」
「え」
「熱心に見ていたので。似つかわしいものを探しているのかと思い」
「バレてた」
「ええ。存外貴女は分かりやすいので」
目をそっと逸らした不二子さんは横髪を耳にかけ、袖をきゅっと握った。
実用的で兵助が喜びそうなもの。
眼前に並ぶ品はどちらかといえば女子が喜びそうな物が多く見受けられる。
この中で選ぶとなれば、漆塗りの小箱か。
「小箱はどうですか」
「本漆塗りってぴかぴかしてて綺麗だよね」
「いや、てかてかの方が適切?」と表現に悩んでおられたが、漆塗りはそもそも光沢が出る。未来では漆以外で光沢を出す手法が確立しているのだろうと私はその場で理解した。
「贈り物を探しているのかい?」
「あ、はい」
「姉上が旦那に何か贈り物をしたいと考えておりまして。日頃世話になっている礼をどうしてもと」
「そうかい。それならその小箱が良いんじゃないかい。……そうだねぇ。御仁ならばこの柄がお勧めかな」
「黒漆に鶴ですか。縁起物で良いですね。こちらはどうですか姉上」
店主が選んだ黒漆の四角い小箱を手に取り、不二子さんに差し出す。と、真顔で固まっていた。
その顔の前で手のひらをひらひらと振れば、ハッと現実に引き戻されたかのように動き出す。
うっかりしていた。私は息をするように場を取り繕うことに慣れているが、この人はそうでもないということが頭から抜けていた。
「姉じゃありません」と否定された時はどうするか。次の手を考えている最中、不二子さんが一度深く頷いてみせた。どうやら状況を飲み込んでくれたようだ。
「うん。……箱なら物入れに使えそう、かも?」
「組紐やちょっとした物も入れられるよ」
「なるほど。これにしようかな」
私から受け取った小箱を両手で抱え込むようにする。まるで初めて宝物を手にした童子の様な面持。ゆっくりと口角を上げて微笑んだ。
純粋なその表情に心を打たれたのか、店の主人も幼子を見守る様な目つきで微笑んでいる。
「思いやりがある御内儀に免じて、少し負けてあげるよ」
「良いのですか」
「ああ。熱心に選んでくれていたし」
「有り難う御座います。良かったですね、姉上。きっと喜ばれますよ」
「うん」
不二子さんは少しだけぎこちない笑顔で頷いた。
不意にこちらから振ったとはいえ、一般人の即興にしては及第点である。これなら兵助と共にいる際も場に応じた振る舞いが出来るだろう。
こうして私たちはそれぞれ黒漆の小箱と三毛猫の置物を買い、露店から離れて田楽豆腐屋へと向かった。
「兵助、喜ぶと良いですね」
そう訊ねてはみたが、兵助のことだ。妻から贈られたものであれば何でも喜ぶだろう。
「不二子さんが俺の為に贈り物を一所懸命選んでくれた」と破顔間違いなし。
さて、人の心配よりも、自分の心配も少しはしなければ。三郎次はこの猫の置物を喜んでくれるか否か。
男女間の贈り物に疎いばかりに、不安が募る。いっそただの土産として渡した方が良いか。いや、それではいつかの兵助の二の舞いか。
先日、不二子さんに何か良い贈り物はないかと相談を持ちかけたが、良い答えは出ずに終わっていた。
三郎次は何を思ったのか近頃やたらと私に物を贈る。紅は手持ちが無くなりそうだからと言っていたが、結紐は久々知夫妻に感化されたもの。どちらも贈り物には変わりなし。貰ってばかりでは申し訳ない。その気持ちは私も不二子さんも同様であった。
そんな御内儀は旦那の兵助に浴衣を誂えている。このことは内密にと釘を刺されもした。
私も何か誂えようか。しかし、三郎次の目に触れずに事を運ぶのは至難の業。
どうしたものか。
田楽豆腐屋へ向かう途中も私は思い悩んでいた。
「田楽豆腐屋さんこの辺だよね」
「そうですね。……不二子さん、先程から顔が緩んでいますが。そんなに兵助への贈り物を選べたのが嬉しかったのですか」
「そんなに緩んでる?」
「ええ。にがりを加えて固まる前の豆腐の様に」
「例えが絶妙すぎる。さっき姉上って呼んでくれてたでしょ?」
「その方が自然かと思いましたので。口が裂けても妻ですとは言えませんよ。兵助が烈火のごとく飛んでくる」
例え場を凌ぐ嘘だと言い聞かせてもあの男は聞き入れない。雷に打たれたように動かなくなるやもしれない。
「霧華さんなら大丈夫じゃないかなあ」
「不毛な賭けはしませんよ」
今までの言動からして何一つ根拠がないのだ。後輩に刺されるような真似はしたくない。
それにしても不二子さんは嬉しそうに頬を緩めている。
二度そのことを訊ねても彼女は「んー内緒」と笑い返された。
その顔は食堂で忍たまたちに笑いかけていたあの頃の顔とよく似ていた気がする。
◇◆◇
それは霧華さんたちと田楽豆腐屋で落ち合うより前のことだ。
「三郎次。実は」
「久々知さんに内緒で何か」
さっきの慌てぶり、不自然な解散の仕方。どう考えても何かある。
しかも二手に分かれたというのに、久々知先輩は久々知さんを霧華さんに預け、自分と一緒に町を見て回ろうとする。何か企てているとしか考えられない。
「人聞きが悪い! 実は、不二子さんに贈り物をしようと思って」
「これ以上何を……櫛や簪、紅や着物贈ってるでしょうに。しかも全部意味合いは受け流されて」
「うっ……あれは、別に」
「別に?」
「と、とにかく。今回は普通に何か贈りたいなぁと思って」
「普通に。……変に受け取られても知りませんからね」
既にこの組で分かれていること自体、怪しまれているに違いない。
また浮気だの離縁だの騒ぎにならなきゃいいけど。今回の外出がそれに発展したら確実に俺たちが巻き込まれる。それは御免被りたい。霧華さん側で何とか久々知さんを説得出来ていれば良いけれど。
一抹の不安を抱えながら俺は久々知先輩についていった。
「目的の店は絞ってあるんですか」
「それが」
「決まってないんですね」
気まずそうに笑う顔から俺はそう捉えた。まあ、何を贈って良いのか決めかねているから俺にこうして訊いているんだろうな。
先輩は腰に差した刀の柄に手を置き「とりあえず露店を見て回ろうか」と足を進めた。
「そういえば久々知先輩は普段から刀を差してるんですか」
「ん、まあ。いつもってわけじゃないけど。長距離の移動で不二子さんと出掛ける時は差してる。これの方が守りやすいから」
「ああ、なるほど」
「三郎次たちが帯刀してるとこ、見たことないな」
「僕らは素手で応戦できますからね。霧華さんが女装してる時は俺が帯刀しますよ」
出歩く時は打刀一つぐらい差していないと舐めかかってくる輩もいる。牽制にもなるからそうしていた。
霧華さんは帯刀することを好まない。
命を奪うことに直結するからだと前に話してくれたことがあった。
必要以上に刀は振るわず、適切な火薬の扱いを心掛ける。
「私は非情には成りきれぬ」
忍びには向かない性格だと愚痴を零していたこともあった。
棒術は本来護身術の一つであるから、その教えが根底にあるんだろうな。
人情に厚い性格も俺は好きだけど。
ところで、思わず女装と言ってしまった。本人の前でそう言っても顔色は一つも変えないだろうし、俺はどっちの姿も好きだから良いと言えば良いんだけど。
そして久々知先輩は全くもって違和感を抱かない。霧華さんの男装姿が板についてしまっているせいだろうな。
「先輩なら悪漢も捻り潰しそうだもんなぁ」
「一月前に撃退しましたよ」
「流石」
俺たちは大きな通りに出たところで、露店に並べられた品を物色するべく足を止めた。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていっておくれ」
人の良さそうな店主がにこりと笑い掛けてきた。
茣蓙に並べられた数々の品。動物の置物、櫛、簪、漆塗りの小箱、茶碗。統一性がないことが少し気になる。どれも物は良さそうに見えるけど。
「品はどこから仕入れたんです?」
「福富屋からだよ。そこの御主人とは二年ばかり前に知り合ってね」
「へぇ……奇遇ですね。僕たちも福富屋の御主人と知り合いなんですよ」
俺は愛想笑いを浮かべ、相手の出方を窺った。
福富屋の息子であるしんべヱは忍術学園の後輩だ。しんべヱの御父上とも何度か会った事があるし、仕事の依頼を受けた事もある。
だから、この店主が何か嘘をつき、紛い物を掴まそうとしていたならば直ぐに見破れる。
そう、牽制をしたつもりだったが。要らない心配だったようだ。
「そうでしたか。それは奇遇ですねぇ。あの方も顔が広いもので、こんな若い方ともお知り合いとは」
柔和で人の良い笑顔。皺が寄った目元。濡れ手で粟のような商売をしている風には見えなかった。
なにより、表情の変化に乱れがない。
「そちらの御仁は贈り物を見繕っているのかい」
俺が警戒をする最中、久々知先輩は簪を数本かわるがわるに手に取り、これじゃないとそっと元の場所に戻していた。その目は真剣そのもの。
「奥方に贈り物を探してるんですよ」
「随分と真剣に探しておられる」
「それだけのめり込んでるというか」
久々知先輩の耳に会話が届いているかはわからない。本当に真面目な顔をして久々知さんへの贈り物を探していた。
先輩の口元がへの字に曲がる。どうやら行き詰まったようだ。
僕は先輩の隣に腰を屈め、腕組みして悩む姿に声を掛けた。
「何でそんなに悩んでるんですか」
「……うーん。不二子さん、意外と実用的なものを好むんだ。俺に贈ってくれた物もその傾向が強くて」
「割烹着とか文房四宝でしたっけ。……まあ、確かにそうですね。どれも実用的で無駄にはならない」
「そうなんだよ。この組紐も不二子さんが作ってくれたものなんだ」
それは土井先生から聞いた話だから知っている。
わざと御内儀の組紐を分けてもらっているとか、そんな内容だった。それを危惧した不二子さんが自分で作った組紐なら、頭を死守するだろうと考えたらしくて。
でれでれと締まりのない顔で笑う久々知先輩は御内儀の気持ちに気づいているんだろうか。なんか、ただ手製のお揃い物を身につけていることが嬉しいとかいった様子でしかない。
幸せ夫婦だよな、本当に。
「櫛や簪はもう贈ってるのかい?」
「ええ、まあ。結構前にですけど。……その漆塗りの小箱、見せてもらっても良いですか」
右奥に並ぶ漆塗りの四角い小箱。その中で朱塗りに金筆で描かれた鶴の蒔絵のものを手に取った。
翼を広げた二羽の鶴は吉兆であり、夫婦鶴はその名の通り夫婦愛を象徴とする。久々知夫妻に持ってこいの品ではないだろうか。
「良いんじゃないですか。箱なら組紐とか入れておけるし、実用的ですよ」
「うん。そうだな。じゃあこれを一つ」
「まいど。喜んでくれるといいね」
「有難う御座います。三郎次も何か買っていったらどうだ?」
急に話を振られた。
自分の目的を達成した先輩はホクホクと嬉しそうでいて、好物の豆腐定食を前にした時のそれと似ていた。この人にとって豆腐料理であれば全て好物になるわけだけど。
そう言われても、だ。今日はそんなつもりで町へ来たつもりはない。
「急にそう言われても。それに最近贈ったばかりですし」
「ああ、組紐だったか。お揃いの」
久々知さんから聞いたんだろう。敢えてお互いの髪色のとは言わずに、ただにこにこ笑っている先輩が余計に鬱陶しく感じた。
「先輩、嬉しそうにされていたそうじゃないか」
知ってますよ。受け取ってくれた時に「好きな色だ」って言ってくれたし、その後は事実を知らされて殊更頬を緩めていたようだし。
それで髪を結った日はどこか機嫌も良い。動きに合わせて揺れる髪と組紐を見ていると、こちらの機嫌も自然と良くなる。
「三郎次もやるじゃないか」
「絡み方のそれが御内儀と同じなんですよ。どこまで似るつもりですか」
「まあ、贈り物って一期一会だと思うぞ。これ、あの人に似合うんじゃないかな。喜んでくれそうだなって思った時が贈り時というか」
それは一理ある。こういった品は「次でいいや」と見送ったら最後、出会うことがない。
あの時買っておけば良かった。なんて後悔に見舞われることも少なくないんだ。
「気になるものがあれば、それを贈ってみたらどうだ?」
「気になるもの」
先輩に促され、改めて品を見渡した。
十二支を模った置物の脇に猫がいた。薄い桜色の鼻、三毛模様の体。あの時の憎たらしい仔猫にそっくりな気がした。
霧華さんにはお淑やかに懐いていたくせに、俺が構おうとすればやんちゃな一面が前に飛び出てきたんだ。
「遊んでるだけだよ」と霧華さんは微笑ましく、かつ可笑しそうに俺たちを見守っていた。まあ、可愛かったけど。仔猫も。
あの仔猫が元気一杯に飛び出していってからはちょっと寂しそうにしていた。久々知さんたちに仔猫の話をしていた時も柔らかい表情を浮かべていたし。家の前に蝉が置かれているのは堪えているようだけど。
これを贈ったら喜んでくれるだろうか。
「三郎次。この櫛なんかどうだ? 有名な職人が掘った絵柄だそうだ。こっちの簪は珍しい硝子のとんぼ玉がついてる。どれも良いものばかりだ。このご主人、目利きが良いぞ」
「いつの間に」
俺が三毛猫に気を取られている間に、先輩は店の主人から色々情報を仕入れていたようだ。
自分は目的を果たしたから安易にあれはどうだ、これはどうだと勧めてくる。しかも目を輝かせながら。
「……いや、櫛と簪はちょっと」
「駄目なのか!?」
「なんで先輩が驚くんですか。なんか、今更な気もしません?」
「そうかなぁ。山田先生は今でも奥さんに櫛を贈ることがあるそうだぞ。凄く喜ばれるそうだ」
「俺のお勧めはこれだ」そう言って俺の手に半月の櫛を乗せる。透かし彫りで掘られた四角い模様。その四角さが豆腐を彷彿とさせた。
俺は無言でこの櫛を元の場所に戻した。
「すみません。そっちの桜掘りのもの見せて貰っても良いですか」
「何故だ?!」
その問いの答えを返すのに矢羽音を送るまでもない。
軽く久々知先輩を睨みつけておくことで留めた。
わぁわぁと騒ぐ外野を無視して、自分で櫛を物色する。
その傍ら、後ろ髪を引かれる様な思いでもあった。
◇◆◇
「あの店の田楽豆腐は変わらず美味かったな」
茜色に染まった夕焼けを背にし、町から我が家への道程で昼間の出来事について私たちは語らっていた。
二手に分かれた後、どんな様子だったかと情報交換も兼ねて。
あの後、予定通り私たちは田楽豆腐屋で落ち合い、田楽豆腐を頂いた。炭火で焼目をつけた赤味噌だれを絡めたものは実に逸品。
三割増しの笑顔で頬張る姿に田楽豆腐屋の主人も「良い食べっぷりだねぇ。こっちまで嬉しくなっちまうよ」と喜ばれていた。
「町の反対側に出来た店のも食べたいって言い出した時はどうしようかと」
田楽豆腐の串を二つ平らげた後に兵助がそう言ったのだ。田楽豆腐の食べ比べをしたいと。
豆腐は腹持ちが良い。一つで満足した我々の胃には重く。しかも続け様に同じ物を食べるのは少しばかり遠慮したい。
私と三郎次は断ったが、久々知夫妻はもう一つの店で頼んでいた。不二子さんは「味噌以外にも隠し味がありそう」とその舌を唸らせてもいた。
「……それにしても、兵助の機嫌がやたらと良かったのには理由があったんだな。まあ、明らかといえばそうか」
あの場で二手に分かれた理由を三郎次から聞けば、兵助も不二子さんへの贈り物を探していたという。
櫛や簪といった小物が並ぶ露店。並ぶ品や店主の特徴を聞けば私たちが覗いた店と一致した。予想通り、福富屋と知り合いだと話した若い男二人組は三郎次と兵助のことであった。
「あの店の御主人、人が良すぎませんでした?」
「ああ、三郎次もそう思ったか。まあそれでも粗悪品を掴まされるようなお人ではなかった。柔和な顔をしていたが目利きは鋭いようだし」
「良い品ばかりでしたからね」
町からほど近い道端に構えた小さな祠。通りすがる際に私は目を向けた。お地蔵様に饅頭が供えられている。野で摘まれた花も一緒に供えられていた。
視線を戻したところで不意に三郎次と目が合う。が、ぱっと目を逸らされてしまった。
「お二人ともなんか嬉しそうにしていましたよね。久々知さんも顔が緩んでたし」
「良いことが二つあったと話していたよ」
一つは兵助への贈り物が見つかったこと。残る一つは何があったのか。私の知らぬ所で良いことでもあったのだろう。
「長屋に帰り着いてからその辺も含めて話すだろうさ」
「色違いで同じ絵柄の小箱を選んだと分かったら、途端に久々知先輩は豆腐のような笑顔を咲かせるでしょうね」
「言い得て妙だな」
それは以心伝心の如く。
時代を超えた強い絆が二人を長く繋ぎ止めてくれることを願おう。
久々知夫妻のことを語らいながら帰り着いた我が家。
玄関前に朝置かれていた土産の姿はなかった。
あの仔猫――いやもう成猫になっているであろう――は並々ならぬ恩義だと感じたのかはわからぬが、恩返しが未だに続いている。私としてはもう一度元気なその姿を見せてくれるだけで充分なのだが。
「……そうだ、三郎次。渡したい物があるんだ」
先に荷物を肩から下ろした三郎次が囲炉裏の傍で振り向いた。
私は荷物から猫の置物を取り出し、手のひらに乗せた状態でそれを差し出す。
三郎次はこれをひと目見るなり、真冬に冷水を浴びた様な顔をした。いくらなんでもちょっと驚きすぎではないだろうか。
「……そんなに驚くこと、か? まあ、確かに私から贈り物をする機会はそうそうなかったが。あれらの中で目に留まったのがこれで。あの時の仔猫に似ているだろう? なんだかんだで三郎次も気にかけていたようだったから、どうかと思ってな。……気に入らなかったか」
ちょんと手のひらに座る小さな三毛猫。じっとそれを見つめていた三郎次はぶんぶんと首を横へ振った。
「なんというか、その……久々知先輩方のこと言えないと、思って。実は俺も同じものが目に留まってたんです。霧華さんこそあの仔猫のこと気に入ってたし」
手元に向けていた三郎次の視線が次第に俯いていく。
「同じもの選ぶのこれで二度目だ」と呟かれた言葉。ああ、そういえば。わらび餅の件もあったな。あの時もこんな風に月見亭で理由を気まずそうに話してくれた。
「これはよく見える所に飾りましょうか。あの、……有り難うございます」
先に囲炉裏の火を焚いておけばよかった。三郎次の表情が良く見えない。
昔はそれこそ手放しで歓喜を現してくれていたのだが、歳月を重ねるごとにそれが減っていった気もする。つまり、感情を制御出来ているということだ。特定の妬みは些か表に出やすい難点もあるが。
如何せん、忍びとしての成長を感じられて喜ばしいことこの上ない。
「成長したな三郎次」
「……何の話です?」
「いや、先輩冥利に尽きると考えていたんだよ」
「本当に何の話ですか。……あの仔猫、また姿見せてくれると良いですね」
三郎次は三毛猫の頭を指でそっとひと撫でする。
「置き土産ばかりじゃ心臓に悪いだけですし」と蝉のことを言い指した。あれは油断した頃に置かれているので、見つけた瞬間に思考が停まりかけることもある。
「それで、あの。霧華さん」
「ん?」
遠慮がちに紡ごうとする言葉。いやに歯切れも悪い。やはり気に入らなかったのか。それとも、何か別の。
「すみませーん! 三郎次は御在宅でしょうかー。能勢久作と申します!」
戸口から聞こえたはっきりとした一つの声――三郎次の旧友である能勢のもので恐らく間違いないだろう。
図書の返却を迫る光景がふと蘇った。いやまさかそんなはずはない。三郎次も一瞬ぎくりもしたようだが、ゆっくりと戸口に近づいて前に立つ。しかし、戸を直ぐに開けるような真似はしなかった。
「本当に久作なのか?」
「そこ疑うのか」
「お前が能勢久作だという証拠は」
「三郎次が俺たちにドヤ顔で語った葉月先輩の武勇伝。今ここで全部明らかにしても良いんだぞ」
「やめろぉ!」
そう叫ぶなり三郎次はがらりと戸を引いた。その武勇伝とやらが少し気になりもしたので、後で聞いてみるか。
「って……左近どうしたんだよ。なんでそんなにボロボロなんだ。もしかして、追われてるのか」
家の前にいたのは能勢だけではなく、川西も共にいた。能勢の肩に担がれ、よれよれのぼろぼろ状態だ。
本人は大したことがないといった様子で、力なく笑ってみせた。
「よお、三郎次久しぶり。先輩もご無沙汰しております」
「久しいな、能勢。お前は変わらず元気そうで何よりだ」
「呑気に挨拶してるバヤイか。大丈夫なのか」
「ああ、うん。さっきそこで転んだだけだから」
「左近のやつ、猫が咥えてた蝉に驚いて派手に転んだんだよ」
能勢の話によれば、この近くで蝉を咥えた猫が急に横切っていったそうだ。
その猫が驚いたのか目の前でぽとりと蝉を落とした。一度落とした獲物を見やるも、能勢と川西の視線を煩わしく感じたのかそのまま逃走したらしい。
そして、置き土産となった蝉が最後の力を振り絞って暴れ出したと。川西はそれに驚き、足を縺れさせ、転倒。足を挫いてしまったとのこと。
気持ちはよくわかる。
「兎に角、上がってもらおう三郎次」
「はい」
「すみません。こんな時間に……あ」
「あっ」
二人は声を揃え、一方を注視。
能勢たちの視線は三郎次の荷物脇に置かれた三毛猫に釘付けになっていた。
「どうしたんだよ」
「さっき横切った猫、それと同じ毛並み模様だった」
今度は私たちが顔を見合わせた。
「……まさかというか、やっぱり」
「知ってる猫なのか?」
川西にそう問われた私たちは苦笑いをひとつ返した。
「お二人が今度お休みの日、町を一緒に見学しませんか」
数日前に兵助から誘いの声を掛けられ、都合を合わせた私たちは久々知夫妻と共に四人で町へ訪れた。
「町を見学って、今更だけど変な言い方だよね」
「不二子さんの時代ではどう呼ぶのですか」
「普通に遊びに行く、とかかな。見学って言うと社会科の授業の一環みたい」
「まあ、遊びに行くとはあまり言わないですね。僕らにとっては町の様子を見に行くか、必要品の買い出しぐらいですから」
息抜きに出掛ける場所として選ぶものでもない。私ならば手裏剣打ちに没頭する。
隣を歩く不二子さんにそう語れば意味が分からないと言った風の顔をされた。
忍びとはそういうものなんですよ。町は有力な情報源なので。
「昔は後輩たちと会話を交わすことも息抜きになりましたよ。勿論、三郎次との稽古もその一つでした」
「息抜きにされていた」
「でも三郎次も先輩と会いたいって理由で稽古の回数増やしてもらったんだよな」
不二子さんの右隣を歩く兵助が悪気なしにそう言った。笑顔を添えてだ。
これに三郎次は「久々知先輩っ! 余計なことバラさないでください!」と私の隣から声を上げた。
「そんな理由でもつけないと卒業生と会う機会なんて滅多にないもんね」
「私も当時は仙蔵から距離を取る理由になったので、これに関してはお互い様かと。結果的に立派に育ってくれましたし」
「良かったなぁ三郎次」
「相変わらず親目線だよね」
複雑だ。
隣でそうボヤいた声は私にしか聞こえていなかったようで。久々知夫妻は「そこの田楽豆腐屋で売ってるのが最高に美味くて」「楽しみだね」と気兼ねない会話を楽しんでいる。
その手はしっかりと繋がれており。なんとまあ、仲睦まじいことだ。
町と外を繋ぐ橋を渡りきった辺りで、兵助の顔がひょこりと不二子さんの隣から覗いた。
「三郎次。ちょっと買いたい物があるから付き合ってくれないか」
「いいですけど。豆腐ですか」
半ば呆れた風の返事。すっかり三郎次にも兵助=豆腐という等式が刷り込まれている。これはもう今更である気もした。過去に私が「兵助の悩みは豆腐ばかりだ」と零してしまったせいか。いや、事実そうなのだが。後輩である三郎次にまでその意識を植え付けてしまった。その責任を感じている。
ここは嘘でもいいから「火薬の買い付けに」とでも言ってくれたら、元火薬委員会として面目が立ったのだが。
「お豆腐なら三軒先のお店が美味しいよ」
そして御内儀もこれなのだ。豆腐夫婦とはよく言ったもの。
不二子さんには「豆腐委員会」と呼ばれるのが、どうにも腑に落ちない。九割方兵助のせいである。
私はそこまで責任を負わなくても良い気もしてきた。
「いやぁ……豆腐ではないんだけど」
兵助は歯切れが悪く、目を泳がせながら、そう答えた。
おい、そんな表情をするな。不二子さんが怪しむ。また離縁騒ぎになりたいのか。
私はちらと不二子さんの様子を窺った。まだこの時点では兵助の行動を危ぶんではいないようで「豆腐じゃないの?」と首を傾げていた。そこを気にするのか。
そして二手に分かれようと提案した本人は頑なに不二子さんの手を離そうとしなかった。むしろ繋いだ手に力が込められている気もする。兵助、言動が一致していないぞ。
「先輩。用がないなら俺は霧華さんと町を見て回りますけど」
「ああーっ! 待ってくれ!」
そうは言うが、一向に手を離さない。
いい加減痺れを切らした三郎次が遠慮なしに兵助を不二子さんから引き剥がし、ずるずると引きずっていった。
「不二子さーん」と情けなく叫ぶ兵助の声が段々と遠くなっていく。
「豆腐じゃないんだね」
「まだそこを気にしますか。……まあ、男同士で何か話すこともあるのでしょう」
「……うん。そうだね」
適当な理由を取ってつけてはみたものの、俄に不二子さんの顔が曇る。
町の女子に会いに行くのではないか、と疑いの目を向けていた。
私は心配無用と不二子さんの肩をぽんと叩く。
「三郎次がいます。それでも何かありそうなら、私が灸を据えますので」
「霧華さん。顔が怖いよぉ」
「離縁騷ぎに巻き込まれるのは御免被りたいので。それは兎も角、先程の兵助を見たでしょう。一時でも貴女と離れるのが耐え難いといった様子だ」
「それは、うん。ちょっと大声で名前叫ばないでほしいと思った」
町中で御内儀の名を呼ぶ声に通りすがりの町人がなんだなんだと振り返り、足を止めていた。流石にもうその視線は散ったが、注目の的になりかけたのは否めない。
それに、だ。不二子さんには聞こえていなかった兵助からの矢羽音。
――先輩! 不二子さんをお願いします!
自分が離れている間、妻を危険から守ってくれという用心棒の依頼。
今日は男装で来ているのでその役目は十分に請け負える。例え小袖姿であろうとも、よからぬ輩は撃退するつもりではいるが。
「さて、我々はどうしましょうか。田楽豆腐屋で落ち合うまで時間があります」
「え、待ち合わせ場所のこと言ってた?」
「兵助が三郎次に連れて行かれる直前に矢羽音を飛ばしてきましたので」
「矢羽音って便利だね。……んー。とりあえず私たちはぶらぶら町を歩こうか?」
「ええ、構いませんよ。不二子さんは何か目当てのものはありますか、茶屋で足を休めても良いですし」
私は町と人々の様子を観察出来ればそれで良い。日用品、食料で不足しているものも特にない。
不二子さんは兵助と三郎次が進んだ道を暫く睨んでいた。そして諦めたのか、兵助を信じたのか私の方へ向き直る。
「ぶらついた後で田楽豆腐屋の側にある茶屋に行こっか。その方が兵助くんたちも見つけやすいだろうし」
兵助たちと間違いなく確実に落ち合うにはそれが良いという提案に私は賛成した。
人の往来が多い日は特にそうした方が良い。
町並みは活気づいており、賑やかな声で満ちる。
ここ暫くは戦の空気を感じられないおかげだろう。
どこの城も大人しくしており、敵地に攻め込むような真似は控えている。
戦は奪うだけで何も生み出さない。このまま太平の世が続けば良い。
戦を失くすことが忍びの役割でもある。治世が訪れ、廃業となったその時はその時だ。我々は生きる為の様々な術を身に付けてきた。仮にそうなったとしたら、漁師に転職するのも悪くはない。
すれ違った飛脚は急ぎの文でも運んでいるのか、早々と私の脇を通り過ぎていく。
「霧華さん、普段待ち合わせる時ってどうしてるの」
「どう、とは?」
「気軽に連絡が取れないでしょ」
「まあ、そうですね。基本的には来るまで待ちます」
「来なかったら?」
「帰ります。長時間その場に佇んでいれば怪しまれますから」
若しくは、何かあったと踏んで周囲をくまなく調べるか。
僅かに残された手掛かり、情報から判断する力は一般人よりも我々は長けている。未来の“探偵”という職業に通ずるものが、もしかすると忍びにはありそうだ。
それはさておき、待ち人が来ないことについて不安を抱くのは現在も未来も変わらない様子。
不二子さんのいた時代では遅延なく相手と連絡を取る手段が発達していると聞く。文よりも速く、狼煙よりも正確に伝達する手段だと。
人の往来が和らいだのを機に私は再び口を開いた。
「しかし便利な世になるものですね。遠くにいる相手とは文か狼煙でしか連絡が出来ない世だと言うのに」
「そうだよね。文明の進化は目覚ましいんだよ。でも、便利すぎてちょっと面倒なこともあるかも」
「面倒とは」
不二子さんの歩幅に合わせて歩く私は隣を振り返る。こくりと頷いた不二子さんと目が合った。少し眠そうな眼だ。
「んー……兵助くんで例えるなら」
「兵助で例えるのですか」
「一番それっぽいし。兵助くんなら一時間毎、いや三十分毎にメール送ってきそう。……いや、暇だったら五分毎かな」
「めえる?」
新たな南蛮由来の言葉。
未来は兎角音を伸ばす傾向にあるらしく。それだけ輸入された言葉が山程ということだ。
そして不二子さんの言う所要時間らしき数値がどんどんと短くなる。時間の概念も細分化されてるそうだが、感覚的にかなり短いように捉えることができた。
「簡単に言うと、文のやり取りが時間差無しに相手に届くんだよ」
「ふむ」
「今日の晩御飯何がいいー? っていう文を学園から堺の港にいる兵助くんに送るとします」
「……文なら届くのに一日、直ぐ様返事を書いて出したとしても学園に着くのが一日。最短でも二日はかかりますね」
文で尋ねることではまず有り得ないが、というのは置いておこう。文を出すよりも兵助が飛んで帰ってきた方が遥かに早い。忖度なしにだ。
「とてもじゃないけど間に合わないでしょ? 明後日ぐらいの晩御飯になっちゃう」
「早馬で届けるような内容でもありませんからね」
「まあね。ですが、なんと! メールなら一日どころか一瞬で届いちゃうの」
「それは素晴らしい。早馬より速く、矢文よりも正確に届けることが可能とは凄い世になるものだ」
「矢文」
「矢に文をくくりつけて、崖向こうや離れた場所にいる相手に報せる方法です」
矢から文が外れぬよう、破れぬように結ぶのが意外と気を使う。
弓矢の扱いは学園で当然習うものだ。火縄銃同様に集中力と一定の時間を必要とするので、得手不得手がはっきりとする。
「それは知ってる。霧華さん矢文打てるの……? すごくない? だって少しでも狙い逸れたら危ないよね」
「兵助も扱えると思いますよ。授業で必ず習いますから」
「時々思うんだけどさ。霧華さん、なんでは組だったの? い組の実力あったんじゃない?」
「よく言われます。ところで、その面倒な点とは」
「ああ、うん。そのメールのやり取りが煩わしいこともあるんだ。読んだり返したりするのは文と同じで、その人のタイミングで出せるんだけどね」
めえるが返ってこないが為に、返事はまだかまだかとやきもきする。その点は今も言えること。
不二子さんからの返事が来ず、狼狽える兵助の姿がありありと目に浮かんだ。
家出騒動の折は文次郎が労を費やしたという。珍しい後輩から文が来たかと思えば、家出してきた不二子さんが滝夜叉丸の家に身を寄せていたという話を聞いた。
時折この人は何かの枷が外れた様な行動を取る。離縁騒動も例に漏れず。
「兵助くんとメールしてたら一時間は軽く溶ける気がするんだよね。返さなかったらうるさそうだし。その前に電話掛けてきそう」
その癖仲が良い。
めえるを返すのが面倒だとか言っていたのはどこへやら。結局はそのめえるのやり取りに付き合うようで。
通りを曲がると人の往来がまた増えてきたので、私たちは口数を減らしながら露店の品を見て回った。
茣蓙に並べられた箱や櫛、動物を模った小ぶりの置物。
不二子さんはそれらに目を惹かれたようで、足をはたと止めた。私も横に並び、さも物色するかのように品を眺める。
色をつけた動物の置物は木を彫ったもの。手のひらに乗る大きさだ。
「あれ可愛いね」
「猫に犬、鳥。……こちらは十二支を模ったものですね」
「あ、ほんとだ。子・丑・寅・卯・辰・巳……蛇が白いね」
「白蛇は吉兆ですからね」
妙な間があった。恐らく不二子さんは真っ赤な蛇を思い浮かべたことだろう。伊賀崎が可愛がっていた毒蛇のジュンコのことを。
「見ていっても良いかな」
「ええ。御主人、品はどちらから仕入れたもので?」
茣蓙の前に屈み、あれこれと品をじっくりと見始めた不二子さんを気に掛けながら私は店の主人に話しかけた。
店主は肉付きの良い恰幅で、肌や髪に艶がある。良い商売をしているのだろう。
人が良さそうな顔をしてはいるようだが。
「隣町から仕入れたものだよ。福富屋経由で買い取ったものでね。良い品ばかりですよ」
「ほう。あの福富屋ですか、堺の貿易商の。実は私の知り合いが福富屋と長い付き合いがありまして」
愛想を交え、私は相手の様子に目を光らせる。紛い物、嘘を吐いているならば悪い兆しが現れるはず。
しかし、主人は狼狽えるどころか福の神の如くにこにこと笑った。
「そうでしたか。それは良いお知り合いだ。福富屋の御主人は良い人ですし、目利きも素晴らしい。二年前から縁があってお付き合いさせていただいてますが、あの方はほんに真の商人です」
まるで親しい友人を敬うかのように語らう。
これは要らぬ心配だったようだ。この主人は真っ当な商い人。よくよく見れば苦労の跡が見受けられる。
「しかし、こんな偶然もあるものですね」
「と、言いますと?」
「いや、先程も福富屋とお知り合いだという若い御仁がいらしてね。熱心に品を選んでおりましたよ。なんでも妻に贈り物をするとかで」
「あの方も顔が広い。国内外問わずに。商人は人脈が要ですから。それにお人柄も良い」
「そうですね」と相槌を打つ主人もどこかふくよかで大らかな性格に思える。
私たちの横で若い女子二人が膝を曲げた。
「あの簪可愛い」などと女子らしい会話が聞こえてくる。店の主人もそちらに注意を向けて「どれも一品物だよ。その硝子製は特に珍しいものでね」と接客を始めた。
それにしても、同じように福富屋が知り合いで妻に贈り物をと話した御仁とやら。もしかすると。
心当たりがありながらも、顎をさすり一思案した所で不二子さんに声を掛けた。
「気になるものはありましたか」
「あの猫の置物、三毛猫のやつ。可愛いね」
細い指が前から二列目に並ぶ動物の置物を示す。三毛猫の模様に塗られていて、鼻が薄い桜色だ。
この三毛模様には見覚えがあった。私が連れ帰った後に姿を晦まし、今も恩義に報いようとしている三毛猫の仔猫と似ている。
「どうかした?」
「いえ、この三毛猫。前に話した仔猫と似ていると」
「ほんと? うわぁー実物はもっと可愛かったんだろうなぁ」
これを手に取って眺めてみれば、本当にその仔猫の写しのように思えてくる。
三郎次によくちょっかいをかけていたあの仔猫。なんだかんだ三郎次も気にかけていたようだし。土産に買っていけば喜ぶだろうか。話の種にはなるやもしれん。
ああ、でもその前に。
「買いますか?」
「え、買わないよ?」
不二子さんが最初に気に留めた物だ。譲るべきだろうと思っていたのだが、意外な答えが返ってきた。
最初から買うつもりなどないといった風に目を丸める。逆に驚かれてしまったな。
「気にされていたので」
「可愛いなぁとは思った。でも実用的じゃないよなぁって」
「成程」
この人は贈り物をするならば実用的なものを選ぶ傾向があった。
以前、兵助に贈った物を聞く機会があり、そこで聞いたものはどれも実用的なものだった。
普段使いできる結紐、墨や筆などの文房四宝、割烹着。割烹着を贈った理由は豆腐を作ってくれるからだそうだ。
大好きな豆腐を最愛の人から受け取った割烹着で作る。この上なく幸福に満ちた表情に違いない。
一つ年下とはいえ、兵助も私の後輩には変わりない。お前が幸せそうで何よりだよ。
後輩の御内儀は左手側に置かれた小箱にじっと視線を向けていた。先程から熱心に品定めをしている。
「贈り物でしたら選ぶのを手伝いますよ」
「え」
「熱心に見ていたので。似つかわしいものを探しているのかと思い」
「バレてた」
「ええ。存外貴女は分かりやすいので」
目をそっと逸らした不二子さんは横髪を耳にかけ、袖をきゅっと握った。
実用的で兵助が喜びそうなもの。
眼前に並ぶ品はどちらかといえば女子が喜びそうな物が多く見受けられる。
この中で選ぶとなれば、漆塗りの小箱か。
「小箱はどうですか」
「本漆塗りってぴかぴかしてて綺麗だよね」
「いや、てかてかの方が適切?」と表現に悩んでおられたが、漆塗りはそもそも光沢が出る。未来では漆以外で光沢を出す手法が確立しているのだろうと私はその場で理解した。
「贈り物を探しているのかい?」
「あ、はい」
「姉上が旦那に何か贈り物をしたいと考えておりまして。日頃世話になっている礼をどうしてもと」
「そうかい。それならその小箱が良いんじゃないかい。……そうだねぇ。御仁ならばこの柄がお勧めかな」
「黒漆に鶴ですか。縁起物で良いですね。こちらはどうですか姉上」
店主が選んだ黒漆の四角い小箱を手に取り、不二子さんに差し出す。と、真顔で固まっていた。
その顔の前で手のひらをひらひらと振れば、ハッと現実に引き戻されたかのように動き出す。
うっかりしていた。私は息をするように場を取り繕うことに慣れているが、この人はそうでもないということが頭から抜けていた。
「姉じゃありません」と否定された時はどうするか。次の手を考えている最中、不二子さんが一度深く頷いてみせた。どうやら状況を飲み込んでくれたようだ。
「うん。……箱なら物入れに使えそう、かも?」
「組紐やちょっとした物も入れられるよ」
「なるほど。これにしようかな」
私から受け取った小箱を両手で抱え込むようにする。まるで初めて宝物を手にした童子の様な面持。ゆっくりと口角を上げて微笑んだ。
純粋なその表情に心を打たれたのか、店の主人も幼子を見守る様な目つきで微笑んでいる。
「思いやりがある御内儀に免じて、少し負けてあげるよ」
「良いのですか」
「ああ。熱心に選んでくれていたし」
「有り難う御座います。良かったですね、姉上。きっと喜ばれますよ」
「うん」
不二子さんは少しだけぎこちない笑顔で頷いた。
不意にこちらから振ったとはいえ、一般人の即興にしては及第点である。これなら兵助と共にいる際も場に応じた振る舞いが出来るだろう。
こうして私たちはそれぞれ黒漆の小箱と三毛猫の置物を買い、露店から離れて田楽豆腐屋へと向かった。
「兵助、喜ぶと良いですね」
そう訊ねてはみたが、兵助のことだ。妻から贈られたものであれば何でも喜ぶだろう。
「不二子さんが俺の為に贈り物を一所懸命選んでくれた」と破顔間違いなし。
さて、人の心配よりも、自分の心配も少しはしなければ。三郎次はこの猫の置物を喜んでくれるか否か。
男女間の贈り物に疎いばかりに、不安が募る。いっそただの土産として渡した方が良いか。いや、それではいつかの兵助の二の舞いか。
先日、不二子さんに何か良い贈り物はないかと相談を持ちかけたが、良い答えは出ずに終わっていた。
三郎次は何を思ったのか近頃やたらと私に物を贈る。紅は手持ちが無くなりそうだからと言っていたが、結紐は久々知夫妻に感化されたもの。どちらも贈り物には変わりなし。貰ってばかりでは申し訳ない。その気持ちは私も不二子さんも同様であった。
そんな御内儀は旦那の兵助に浴衣を誂えている。このことは内密にと釘を刺されもした。
私も何か誂えようか。しかし、三郎次の目に触れずに事を運ぶのは至難の業。
どうしたものか。
田楽豆腐屋へ向かう途中も私は思い悩んでいた。
「田楽豆腐屋さんこの辺だよね」
「そうですね。……不二子さん、先程から顔が緩んでいますが。そんなに兵助への贈り物を選べたのが嬉しかったのですか」
「そんなに緩んでる?」
「ええ。にがりを加えて固まる前の豆腐の様に」
「例えが絶妙すぎる。さっき姉上って呼んでくれてたでしょ?」
「その方が自然かと思いましたので。口が裂けても妻ですとは言えませんよ。兵助が烈火のごとく飛んでくる」
例え場を凌ぐ嘘だと言い聞かせてもあの男は聞き入れない。雷に打たれたように動かなくなるやもしれない。
「霧華さんなら大丈夫じゃないかなあ」
「不毛な賭けはしませんよ」
今までの言動からして何一つ根拠がないのだ。後輩に刺されるような真似はしたくない。
それにしても不二子さんは嬉しそうに頬を緩めている。
二度そのことを訊ねても彼女は「んー内緒」と笑い返された。
その顔は食堂で忍たまたちに笑いかけていたあの頃の顔とよく似ていた気がする。
◇◆◇
それは霧華さんたちと田楽豆腐屋で落ち合うより前のことだ。
「三郎次。実は」
「久々知さんに内緒で何か」
さっきの慌てぶり、不自然な解散の仕方。どう考えても何かある。
しかも二手に分かれたというのに、久々知先輩は久々知さんを霧華さんに預け、自分と一緒に町を見て回ろうとする。何か企てているとしか考えられない。
「人聞きが悪い! 実は、不二子さんに贈り物をしようと思って」
「これ以上何を……櫛や簪、紅や着物贈ってるでしょうに。しかも全部意味合いは受け流されて」
「うっ……あれは、別に」
「別に?」
「と、とにかく。今回は普通に何か贈りたいなぁと思って」
「普通に。……変に受け取られても知りませんからね」
既にこの組で分かれていること自体、怪しまれているに違いない。
また浮気だの離縁だの騒ぎにならなきゃいいけど。今回の外出がそれに発展したら確実に俺たちが巻き込まれる。それは御免被りたい。霧華さん側で何とか久々知さんを説得出来ていれば良いけれど。
一抹の不安を抱えながら俺は久々知先輩についていった。
「目的の店は絞ってあるんですか」
「それが」
「決まってないんですね」
気まずそうに笑う顔から俺はそう捉えた。まあ、何を贈って良いのか決めかねているから俺にこうして訊いているんだろうな。
先輩は腰に差した刀の柄に手を置き「とりあえず露店を見て回ろうか」と足を進めた。
「そういえば久々知先輩は普段から刀を差してるんですか」
「ん、まあ。いつもってわけじゃないけど。長距離の移動で不二子さんと出掛ける時は差してる。これの方が守りやすいから」
「ああ、なるほど」
「三郎次たちが帯刀してるとこ、見たことないな」
「僕らは素手で応戦できますからね。霧華さんが女装してる時は俺が帯刀しますよ」
出歩く時は打刀一つぐらい差していないと舐めかかってくる輩もいる。牽制にもなるからそうしていた。
霧華さんは帯刀することを好まない。
命を奪うことに直結するからだと前に話してくれたことがあった。
必要以上に刀は振るわず、適切な火薬の扱いを心掛ける。
「私は非情には成りきれぬ」
忍びには向かない性格だと愚痴を零していたこともあった。
棒術は本来護身術の一つであるから、その教えが根底にあるんだろうな。
人情に厚い性格も俺は好きだけど。
ところで、思わず女装と言ってしまった。本人の前でそう言っても顔色は一つも変えないだろうし、俺はどっちの姿も好きだから良いと言えば良いんだけど。
そして久々知先輩は全くもって違和感を抱かない。霧華さんの男装姿が板についてしまっているせいだろうな。
「先輩なら悪漢も捻り潰しそうだもんなぁ」
「一月前に撃退しましたよ」
「流石」
俺たちは大きな通りに出たところで、露店に並べられた品を物色するべく足を止めた。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていっておくれ」
人の良さそうな店主がにこりと笑い掛けてきた。
茣蓙に並べられた数々の品。動物の置物、櫛、簪、漆塗りの小箱、茶碗。統一性がないことが少し気になる。どれも物は良さそうに見えるけど。
「品はどこから仕入れたんです?」
「福富屋からだよ。そこの御主人とは二年ばかり前に知り合ってね」
「へぇ……奇遇ですね。僕たちも福富屋の御主人と知り合いなんですよ」
俺は愛想笑いを浮かべ、相手の出方を窺った。
福富屋の息子であるしんべヱは忍術学園の後輩だ。しんべヱの御父上とも何度か会った事があるし、仕事の依頼を受けた事もある。
だから、この店主が何か嘘をつき、紛い物を掴まそうとしていたならば直ぐに見破れる。
そう、牽制をしたつもりだったが。要らない心配だったようだ。
「そうでしたか。それは奇遇ですねぇ。あの方も顔が広いもので、こんな若い方ともお知り合いとは」
柔和で人の良い笑顔。皺が寄った目元。濡れ手で粟のような商売をしている風には見えなかった。
なにより、表情の変化に乱れがない。
「そちらの御仁は贈り物を見繕っているのかい」
俺が警戒をする最中、久々知先輩は簪を数本かわるがわるに手に取り、これじゃないとそっと元の場所に戻していた。その目は真剣そのもの。
「奥方に贈り物を探してるんですよ」
「随分と真剣に探しておられる」
「それだけのめり込んでるというか」
久々知先輩の耳に会話が届いているかはわからない。本当に真面目な顔をして久々知さんへの贈り物を探していた。
先輩の口元がへの字に曲がる。どうやら行き詰まったようだ。
僕は先輩の隣に腰を屈め、腕組みして悩む姿に声を掛けた。
「何でそんなに悩んでるんですか」
「……うーん。不二子さん、意外と実用的なものを好むんだ。俺に贈ってくれた物もその傾向が強くて」
「割烹着とか文房四宝でしたっけ。……まあ、確かにそうですね。どれも実用的で無駄にはならない」
「そうなんだよ。この組紐も不二子さんが作ってくれたものなんだ」
それは土井先生から聞いた話だから知っている。
わざと御内儀の組紐を分けてもらっているとか、そんな内容だった。それを危惧した不二子さんが自分で作った組紐なら、頭を死守するだろうと考えたらしくて。
でれでれと締まりのない顔で笑う久々知先輩は御内儀の気持ちに気づいているんだろうか。なんか、ただ手製のお揃い物を身につけていることが嬉しいとかいった様子でしかない。
幸せ夫婦だよな、本当に。
「櫛や簪はもう贈ってるのかい?」
「ええ、まあ。結構前にですけど。……その漆塗りの小箱、見せてもらっても良いですか」
右奥に並ぶ漆塗りの四角い小箱。その中で朱塗りに金筆で描かれた鶴の蒔絵のものを手に取った。
翼を広げた二羽の鶴は吉兆であり、夫婦鶴はその名の通り夫婦愛を象徴とする。久々知夫妻に持ってこいの品ではないだろうか。
「良いんじゃないですか。箱なら組紐とか入れておけるし、実用的ですよ」
「うん。そうだな。じゃあこれを一つ」
「まいど。喜んでくれるといいね」
「有難う御座います。三郎次も何か買っていったらどうだ?」
急に話を振られた。
自分の目的を達成した先輩はホクホクと嬉しそうでいて、好物の豆腐定食を前にした時のそれと似ていた。この人にとって豆腐料理であれば全て好物になるわけだけど。
そう言われても、だ。今日はそんなつもりで町へ来たつもりはない。
「急にそう言われても。それに最近贈ったばかりですし」
「ああ、組紐だったか。お揃いの」
久々知さんから聞いたんだろう。敢えてお互いの髪色のとは言わずに、ただにこにこ笑っている先輩が余計に鬱陶しく感じた。
「先輩、嬉しそうにされていたそうじゃないか」
知ってますよ。受け取ってくれた時に「好きな色だ」って言ってくれたし、その後は事実を知らされて殊更頬を緩めていたようだし。
それで髪を結った日はどこか機嫌も良い。動きに合わせて揺れる髪と組紐を見ていると、こちらの機嫌も自然と良くなる。
「三郎次もやるじゃないか」
「絡み方のそれが御内儀と同じなんですよ。どこまで似るつもりですか」
「まあ、贈り物って一期一会だと思うぞ。これ、あの人に似合うんじゃないかな。喜んでくれそうだなって思った時が贈り時というか」
それは一理ある。こういった品は「次でいいや」と見送ったら最後、出会うことがない。
あの時買っておけば良かった。なんて後悔に見舞われることも少なくないんだ。
「気になるものがあれば、それを贈ってみたらどうだ?」
「気になるもの」
先輩に促され、改めて品を見渡した。
十二支を模った置物の脇に猫がいた。薄い桜色の鼻、三毛模様の体。あの時の憎たらしい仔猫にそっくりな気がした。
霧華さんにはお淑やかに懐いていたくせに、俺が構おうとすればやんちゃな一面が前に飛び出てきたんだ。
「遊んでるだけだよ」と霧華さんは微笑ましく、かつ可笑しそうに俺たちを見守っていた。まあ、可愛かったけど。仔猫も。
あの仔猫が元気一杯に飛び出していってからはちょっと寂しそうにしていた。久々知さんたちに仔猫の話をしていた時も柔らかい表情を浮かべていたし。家の前に蝉が置かれているのは堪えているようだけど。
これを贈ったら喜んでくれるだろうか。
「三郎次。この櫛なんかどうだ? 有名な職人が掘った絵柄だそうだ。こっちの簪は珍しい硝子のとんぼ玉がついてる。どれも良いものばかりだ。このご主人、目利きが良いぞ」
「いつの間に」
俺が三毛猫に気を取られている間に、先輩は店の主人から色々情報を仕入れていたようだ。
自分は目的を果たしたから安易にあれはどうだ、これはどうだと勧めてくる。しかも目を輝かせながら。
「……いや、櫛と簪はちょっと」
「駄目なのか!?」
「なんで先輩が驚くんですか。なんか、今更な気もしません?」
「そうかなぁ。山田先生は今でも奥さんに櫛を贈ることがあるそうだぞ。凄く喜ばれるそうだ」
「俺のお勧めはこれだ」そう言って俺の手に半月の櫛を乗せる。透かし彫りで掘られた四角い模様。その四角さが豆腐を彷彿とさせた。
俺は無言でこの櫛を元の場所に戻した。
「すみません。そっちの桜掘りのもの見せて貰っても良いですか」
「何故だ?!」
その問いの答えを返すのに矢羽音を送るまでもない。
軽く久々知先輩を睨みつけておくことで留めた。
わぁわぁと騒ぐ外野を無視して、自分で櫛を物色する。
その傍ら、後ろ髪を引かれる様な思いでもあった。
◇◆◇
「あの店の田楽豆腐は変わらず美味かったな」
茜色に染まった夕焼けを背にし、町から我が家への道程で昼間の出来事について私たちは語らっていた。
二手に分かれた後、どんな様子だったかと情報交換も兼ねて。
あの後、予定通り私たちは田楽豆腐屋で落ち合い、田楽豆腐を頂いた。炭火で焼目をつけた赤味噌だれを絡めたものは実に逸品。
三割増しの笑顔で頬張る姿に田楽豆腐屋の主人も「良い食べっぷりだねぇ。こっちまで嬉しくなっちまうよ」と喜ばれていた。
「町の反対側に出来た店のも食べたいって言い出した時はどうしようかと」
田楽豆腐の串を二つ平らげた後に兵助がそう言ったのだ。田楽豆腐の食べ比べをしたいと。
豆腐は腹持ちが良い。一つで満足した我々の胃には重く。しかも続け様に同じ物を食べるのは少しばかり遠慮したい。
私と三郎次は断ったが、久々知夫妻はもう一つの店で頼んでいた。不二子さんは「味噌以外にも隠し味がありそう」とその舌を唸らせてもいた。
「……それにしても、兵助の機嫌がやたらと良かったのには理由があったんだな。まあ、明らかといえばそうか」
あの場で二手に分かれた理由を三郎次から聞けば、兵助も不二子さんへの贈り物を探していたという。
櫛や簪といった小物が並ぶ露店。並ぶ品や店主の特徴を聞けば私たちが覗いた店と一致した。予想通り、福富屋と知り合いだと話した若い男二人組は三郎次と兵助のことであった。
「あの店の御主人、人が良すぎませんでした?」
「ああ、三郎次もそう思ったか。まあそれでも粗悪品を掴まされるようなお人ではなかった。柔和な顔をしていたが目利きは鋭いようだし」
「良い品ばかりでしたからね」
町からほど近い道端に構えた小さな祠。通りすがる際に私は目を向けた。お地蔵様に饅頭が供えられている。野で摘まれた花も一緒に供えられていた。
視線を戻したところで不意に三郎次と目が合う。が、ぱっと目を逸らされてしまった。
「お二人ともなんか嬉しそうにしていましたよね。久々知さんも顔が緩んでたし」
「良いことが二つあったと話していたよ」
一つは兵助への贈り物が見つかったこと。残る一つは何があったのか。私の知らぬ所で良いことでもあったのだろう。
「長屋に帰り着いてからその辺も含めて話すだろうさ」
「色違いで同じ絵柄の小箱を選んだと分かったら、途端に久々知先輩は豆腐のような笑顔を咲かせるでしょうね」
「言い得て妙だな」
それは以心伝心の如く。
時代を超えた強い絆が二人を長く繋ぎ止めてくれることを願おう。
久々知夫妻のことを語らいながら帰り着いた我が家。
玄関前に朝置かれていた土産の姿はなかった。
あの仔猫――いやもう成猫になっているであろう――は並々ならぬ恩義だと感じたのかはわからぬが、恩返しが未だに続いている。私としてはもう一度元気なその姿を見せてくれるだけで充分なのだが。
「……そうだ、三郎次。渡したい物があるんだ」
先に荷物を肩から下ろした三郎次が囲炉裏の傍で振り向いた。
私は荷物から猫の置物を取り出し、手のひらに乗せた状態でそれを差し出す。
三郎次はこれをひと目見るなり、真冬に冷水を浴びた様な顔をした。いくらなんでもちょっと驚きすぎではないだろうか。
「……そんなに驚くこと、か? まあ、確かに私から贈り物をする機会はそうそうなかったが。あれらの中で目に留まったのがこれで。あの時の仔猫に似ているだろう? なんだかんだで三郎次も気にかけていたようだったから、どうかと思ってな。……気に入らなかったか」
ちょんと手のひらに座る小さな三毛猫。じっとそれを見つめていた三郎次はぶんぶんと首を横へ振った。
「なんというか、その……久々知先輩方のこと言えないと、思って。実は俺も同じものが目に留まってたんです。霧華さんこそあの仔猫のこと気に入ってたし」
手元に向けていた三郎次の視線が次第に俯いていく。
「同じもの選ぶのこれで二度目だ」と呟かれた言葉。ああ、そういえば。わらび餅の件もあったな。あの時もこんな風に月見亭で理由を気まずそうに話してくれた。
「これはよく見える所に飾りましょうか。あの、……有り難うございます」
先に囲炉裏の火を焚いておけばよかった。三郎次の表情が良く見えない。
昔はそれこそ手放しで歓喜を現してくれていたのだが、歳月を重ねるごとにそれが減っていった気もする。つまり、感情を制御出来ているということだ。特定の妬みは些か表に出やすい難点もあるが。
如何せん、忍びとしての成長を感じられて喜ばしいことこの上ない。
「成長したな三郎次」
「……何の話です?」
「いや、先輩冥利に尽きると考えていたんだよ」
「本当に何の話ですか。……あの仔猫、また姿見せてくれると良いですね」
三郎次は三毛猫の頭を指でそっとひと撫でする。
「置き土産ばかりじゃ心臓に悪いだけですし」と蝉のことを言い指した。あれは油断した頃に置かれているので、見つけた瞬間に思考が停まりかけることもある。
「それで、あの。霧華さん」
「ん?」
遠慮がちに紡ごうとする言葉。いやに歯切れも悪い。やはり気に入らなかったのか。それとも、何か別の。
「すみませーん! 三郎次は御在宅でしょうかー。能勢久作と申します!」
戸口から聞こえたはっきりとした一つの声――三郎次の旧友である能勢のもので恐らく間違いないだろう。
図書の返却を迫る光景がふと蘇った。いやまさかそんなはずはない。三郎次も一瞬ぎくりもしたようだが、ゆっくりと戸口に近づいて前に立つ。しかし、戸を直ぐに開けるような真似はしなかった。
「本当に久作なのか?」
「そこ疑うのか」
「お前が能勢久作だという証拠は」
「三郎次が俺たちにドヤ顔で語った葉月先輩の武勇伝。今ここで全部明らかにしても良いんだぞ」
「やめろぉ!」
そう叫ぶなり三郎次はがらりと戸を引いた。その武勇伝とやらが少し気になりもしたので、後で聞いてみるか。
「って……左近どうしたんだよ。なんでそんなにボロボロなんだ。もしかして、追われてるのか」
家の前にいたのは能勢だけではなく、川西も共にいた。能勢の肩に担がれ、よれよれのぼろぼろ状態だ。
本人は大したことがないといった様子で、力なく笑ってみせた。
「よお、三郎次久しぶり。先輩もご無沙汰しております」
「久しいな、能勢。お前は変わらず元気そうで何よりだ」
「呑気に挨拶してるバヤイか。大丈夫なのか」
「ああ、うん。さっきそこで転んだだけだから」
「左近のやつ、猫が咥えてた蝉に驚いて派手に転んだんだよ」
能勢の話によれば、この近くで蝉を咥えた猫が急に横切っていったそうだ。
その猫が驚いたのか目の前でぽとりと蝉を落とした。一度落とした獲物を見やるも、能勢と川西の視線を煩わしく感じたのかそのまま逃走したらしい。
そして、置き土産となった蝉が最後の力を振り絞って暴れ出したと。川西はそれに驚き、足を縺れさせ、転倒。足を挫いてしまったとのこと。
気持ちはよくわかる。
「兎に角、上がってもらおう三郎次」
「はい」
「すみません。こんな時間に……あ」
「あっ」
二人は声を揃え、一方を注視。
能勢たちの視線は三郎次の荷物脇に置かれた三毛猫に釘付けになっていた。
「どうしたんだよ」
「さっき横切った猫、それと同じ毛並み模様だった」
今度は私たちが顔を見合わせた。
「……まさかというか、やっぱり」
「知ってる猫なのか?」
川西にそう問われた私たちは苦笑いをひとつ返した。