第二部
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参|追う背中、月夜
春風が駆け抜けた。
飛び交う二つの紫色の影。手にした獲物がぶつかり合う鈍音。
間合いを取った久作は相手が懐に潜り込んでくると読み、下段からの攻撃に備えた。
瞬歩で詰めてきた三郎次が身を伏せたと思いきや、姿が消えた。
――後ろか。
僅か気配を感じとった久作は振り向きざまに追撃を受け流そうと構えたが、足元を掬われた。
反転する視界。地に背を打つ衝撃。
これが合戦場、敵と応戦中であれば、即座に次の手を考えつかなければ待ち受けるのは死のみ。
空を仰いだ久作にその隙が与えられることはなかった。
首筋にひやりとした感触――ぴたりと当てられた樫の六尺棒。
久作を見下ろす三郎次の口元がにやりと弧を描いた。
「そこまで! 勝者、池田三郎次!」
実技担当教師である野村雄三の声が響いた。
四年生いろは混合の組手演習がこれで全て終了となる。
い組の能勢久作と池田三郎次は何度目かの同室対決となり、今回は三郎次が勝利を手にした。
「これで通算六勝二敗だな」
「ぐっ……次こそはその憎たらしい顔の鼻っ柱へし折ってやるからな!」
「今の久作みたいにか?」
久作の額に青筋がぴきっと浮かぶ。
にやにやとしたその表情が更に久作の怒りを買っていた。頭に完全に血が上ってしまう前にと左近が「まあまあ」と二人に割って入ることに。
「落ち着けって久作。三郎次もそう煽るんじゃないよ」
「煽ってなんかいないだろ。事実を言ったまでだ」
「大体っ、お前の動きは不規則過ぎるんだよ!」
「何言ってるんだ。敵に動きを読まれないようにするのは基本だろ。俺にとってそれは褒め言葉だよ」
にぃっと笑ってみせた三郎次は「先に井戸に行ってるぞー」と後ろ手を振って去りゆく。それはもうご機嫌な様子でいた。
その後ろ姿を恨めしそうに睨む久作。
「あいつ、動きというか立ち回りが読めなさすぎる。こう来るだろうと思ったらその斜め上から来やがる」
「だよなぁ。変幻自在というか」
「おーい。久作、左近ー」
井戸の方角とは反対側から四郎兵衛が笑顔で手を振りながら駆けてくる。その後ろを石人が追いかけるようについてきていた。
「四郎兵衛、石人」
「お二人の組手、相変わらず凄かったです」
「うん。久作身体が柔らかくなったよね。三郎次の素早い払いを華麗に避けてたし」
は組の二人はにこにこと笑い合い、久作に褒め言葉を掛ける。しかし、今の久作にはそれすらも嫌みにしか聞こえないようで。
「負けたけどな」と吐き捨てた。
これは暫く荒れそうだ。返却間近の図書を忘れずに返さねばと左近は強く誓った。
「そうだ。立ち回りと言えば」
「四郎兵衛聞いてたのかさっきの話」
「うん。三郎次の立ち回り、なんだか葉月先輩に似てきたと思って」
その場にいる者が四郎兵衛に注目した。
彼は相変わらずのほほんとした表情を一つも変えず、隣に立つ同級生に「ねー」と同意を求める。
「そうですね。足の運びや柔軟性、葉月先輩とそっくりです」
「石人は葉月先輩が戦ってるとこ見たことあるんだっけ」
「はい。在学中の葉月先輩と食満先輩が戦っているところを拝見しました。あの時は私もまだまだ未熟でしたので、お二人の動きが速すぎて……目で追うのも精一杯でした」
何故その二人が戦うことになったのか。その理由は下らないようでいて、理に適ったものであった。
同じ委員会所属の三郎次が「こんな機会は滅多にないぞ!」とそれはもう目を輝かせていたものだ。
「確かに。あの予測不能な動きは葉月先輩の教えだな」
「尊敬してるって言ってたもんね。すごいなぁ三郎次」
ほわほわと純粋な感情を褒める四郎兵衛。その横で左近と久作が顔を見合わせた。尊敬しているのもあるだろうが、と。
「まあ、好きな人のことはそりゃ目で追いたくなるしな」
「仕草や動作が同調するのも頷けるよなぁ」
「……え?」
四郎兵衛の大きく丸い目がぱちぱちと瞬く。次いでぽかんと口が開いた。
「え、まさか」
「四郎兵衛、お前知らなかったのか」
「……三郎次って葉月先輩のこと、好きなの?」
「知らなかったんですか四郎兵衛くん」
「知らなかった」
あんなに分かりやすいのに。
三人がそう思う中、四郎兵衛だけが「そうだったのかぁ」と真新しい発見をしたかの如く目を輝かせていた。
「そうなのかぁ」
「いや、気づくだろ」
「先輩が俺たちの女装実習に付き合ってくれた時、ただならぬ殺気発してたよな」
「ああ、うん。あの時本当に刺されるかと思った」
「ただならぬ殺気。何があったんだろう」
「まあ」
「色々と」
その時の話題には触れたくないといった様子で左近は目を逸らした。
女装実習がある度に「紅は買い忘れてないだろうな」と三郎次に圧をかけられる。あの時本当に自分が敏くて良かった。もし、何も知らずに紅を受け取っていたらどうなっていたことか。左近、紅蓮共に他意はなくとも三郎次の嫉妬が爆発していただろう。
触らぬ神に祟りなし。
「いつからなんだろうね」
「確かに。明確な恋心を抱いたのはいつなんでしょう」
「さあ、いつからなんだろうな。だってあいつ結構前から葉月先輩のこと慕ってたよな」
「それこそ一年生の時からじゃないか? 本人は口割ってないけどさ」
「何がきっかけだったんだろうね」
「きっかけかぁ」と四人が青い空を仰いだ。
卒業式。昨年の予算会議後。稽古の回数増加。各々が思い当たる節を頭に浮かべる。
それはそれ、きっかけはどうであれ友人の恋を応援したいと石人は目を細めて笑った。
「まあ、何にせよ。三郎次の恋が実るといいですね」
◇◆◇
暗闇に昇った満月は煌々と輝いていた。
木立の間から零れ落ちた月明かりが地上を照らす。生い茂る葉に遮られた細い光。足元を照らすには十分でも、この場に集まる一年生たちには心細いものであった。
今宵行われる一年い組の夜間訓練。黄昏時に忍術学園を出発し、敷地内の森に移動。そこで敵の奇襲を受け難い場所を各々が選び、一晩を過ごすという訓練である。
入学した一年生が初めて夜間を外で過ごす日。二、三人の班に分かれた忍たまたちはそれぞれ野営の幕を張って寝床を確保。最中、遠くで鳥や獣の声がしたり、風が木々をざわめかせたりする度に震えあがる者も中にはいた。
それも一時ばかりが過ぎた頃には、あちらこちらで上がっていた小さな悲鳴も落ち着いたようであった。
月が西へ傾き始めた時刻。
野営地からやや離れた場所で小さな影が三つ、動いていた。
能勢久作は欅の木を見上げていた。全体像を捉えるには首が痛くなりそうな程の高さがある立派な木である。傍には川西左近も居り、友人と同じ様に見上げていた。どちらも不安に満ちた表情だ。
彼らの視線はこの木の太い枝。そこによじ登った池田三郎次に向いていた。
三郎次は短く細い片腕をしっかりと枝に回し、もう片方の手を伸ばす。彼の視線は枝の先に引っ掛かる井桁模様の布――風で飛ばされてしまった久作の頭巾に注がれている。
指先がもう少しで届きそうだ。しかし、これ以上先の方へ体重を乗せると不安定になる。昼間の木登りとは違い、視界は不鮮明。
恐怖心よりも友人の為にと思う気持ちが勝る中、懸命に伸ばす三郎次の指先はぷるぷると震えていた。
「あとちょっと……とどいたっ!」
指先に触れた頭巾を手繰り寄せ、小さな右手にそれをしっかりと握った。
三郎次は「取れたぞー」と下にいる二人に向かって笑顔で軽く手を振る。
一部始終をハラハラと見守っていた左近と久作はほっと胸を撫でおろした。それから「早くおりてきなよ!」と樹上に声を掛ける。なにせ、三郎次が登り詰めた高さは結構なもの。足を滑らせて落ちでもしたら一大事。
そろそろと枝から幹へと後退し、登る時に足掛けにした場所へと爪先を乗せた。
そのつもりのはずが、垂直の幹を足袋がずるっと滑り落ちる。頼りにしていた足場が空振り、小さな手で踏ん張るには力がまだ足りない。
落ちる。頭にそれが過った時にはもう、身体が落下していた。
「三郎次っ!」
「あぶないっ!」
悲鳴を上げた二人の傍に、一つの影が降ってきた。
闇夜を纏ったその影は欅の木に風の様な速さで駆け寄り、樹上から落ちてくる三郎次の身体を両腕でしっかりと受け止めた。
落ちた感覚はあれど、地面に叩きつけられた様な衝撃がない。最悪な展開も覚悟していたが、どうやら自分は助かったようだ。下にいた二人が受け止めてくれたのだろうか。
固く目を瞑っていた三郎次はゆっくりと目を開けた。手には離すまいとしっかり握られた久作の頭巾。
「怪我はないか」
頭上から聞こえた落ち着きのある声。声の方へ振り向くが、薄暗くて顔はよく見えなかった。この人間が自分を助けてくれたのだ。
ようやく地面に足が着いた。先ずは御礼を言わなければと顔を見上げようとすれば、相手が先に三郎次の目線に合わせるように屈む。
「あの、助けてくださってありがとうございます」
「どう致しまして。こんな夜中に木登りするのは危ないぞ。それもあんな高さまで」
すっと人差し指が頭上を示す。つられて見上げた先の枝は暗闇に溶け込んでおり、全く見えない。無我夢中で登っていたのだ。高低差に麻痺していたのだろう。
「すみません。……友達の頭巾が風で飛ばされてしまって、それを取ろうと思って。あ、そうだ久作! 頭巾」
取り戻した頭巾を友人に返そうと振り返った。が、三郎次の目に映ったのは背の高い人間。
体格、立ち姿からして男のようだ。その男は何も言わず、沈黙を抱いたまま左近と久作の前にまるで壁の様に立ちはだかっていた。
僅かな月明かりが男の顔を照らす。頬に十字の傷跡が見えた。ぎろりと睨んだ眼。一文字に結ばれた唇。表情は無のようでいで、怒の色も含まれていた。
これを前に左近と久作はすっかり恐縮してしまい、二人で手を取り合いぶるふると震え上がっていた。目には薄っすらと涙が滲んでいる。
男は何も言葉を発していないのだが、逆にそれが怖がらせてしまっているようで。
この二人は恐らく、忍術学園の関係者。しかし、教師のようではない。ならば背丈からして上級生の先輩か。
「長次。一年生が怯えている」
「……」
長次と呼ばれた男は口元をもごもごと動かしたように見えた。だが、蚊の鳴く声よりも小さくて二人には聞き取れない。
すっと伸ばされた両手にびくりと肩を震わせた。殴られると思ったののだろう。
しかしその手はぽんぽんと二人の頭を優しく撫でるだけであった。
「……へ? 今、なんて」
「あー……危ないことはしないように、と言ったんだと思う」
「……あっ。中在家長次先輩……?」
通訳が必要な会話。経験がある場面に久作が男にそう訊ねた。
「長次の後輩か」
こくりと頷いた長次は「図書委員の能勢久作」とこれまた蚊の鳴くような声を発した。
壁のような男の正体が判明すると三人の表情は安堵に包まれる。
そこでくるりと長次は踵を返し、三郎次の横を通り過ぎた。
長居は無用。合戦場から実習帰りである今の自分たちはこの場に不適切だと弁えている。ぴりぴりとした感情を必死に抑え込んでいるが、いつ表に出てくるか。
後輩たちをまた怖がらせるわけにはいかない。早々に立ち去るのが吉である。
「では、私たちはこれで。お前たちは授業で夜間訓練中なんだろう? 夜が怖くなくなれば、一人前の忍者に一步近づける」
「……はい」
「案ずるな。怖かったら友達と手を繋いで眠るといい。それだけでだいぶ恐怖が和らぐよ」
三郎次に掛けられた声は優しく宥めるようなもので、頭を撫でる手も温かい。表情は見えないが、微笑んでいるように感じられた。
恐怖が無いと言えば嘘になる。だが、それよりも今はこの先輩が一体誰なのか。先の会話から五年生らしき情報を得るも、それ以外は謎である。
「あのっ! 先輩は何年生で、誰ですか!」
三郎次は足早に立ち去ろうとする先輩忍たまを呼び止めた。
木立の間から差し込んだ満月の光。その光が振り向いた忍たまの姿、顔をしっかりと照らした。
月光が顕わにした凛々しい顔つき。つり目がちな瞳に光が差す。妖美さを兼ね備えた美丈夫が三郎次に優しく笑い掛けた。
「五年は組の葉月紅蓮だ」
◇◆◇
煌々とした満月が闇にぽっかりと浮かぶ。
放たれた青白い光は地に降り注ぎ、闇夜を照らしていた。
時刻はすっかりと寝静まった草木も眠る丑三つ時。真夜中に跳ぶ影が一つ、飛び移った木に身を潜めた。
その若い影が楠木の高枝で腰を屈め、身体がぐらつかないよう安定を取る。
九十尺以上はある樹高――学園を一望できる高さで、外界の不穏な動きを捉えやすくもあった。
夜間自主鍛錬に励んでいた三郎次はここいらで小休止と詰めていた息を吐き出した。
穏やかな風が汗ばんだ頬と額を撫でていく。
間延びした梟の声。藪でジーッと鳴く虫。遥か遠くから響いたニホンオオカミの遠吠え。
聞こえるのは自然が織り成した音ばかりで、不穏な動きを見せる人の気配は見られそうにない。
穏やかな春だ。
ふと三郎次は昼間同級生二人に問い詰められたことを思い返した。
先ず授業が終わるなり「葉月先輩のこといつから好きなんだ」とにやけた左近に問われ、夕食の時間が被った四郎兵衛には「三郎次、葉月先輩のこと好きなんだよね。きっかけは?」と目を輝かせながら訊かれた。大衆の面前で好奇心丸出しの二人。これにはぶん殴ってやりたくなる気持ちが沸くというもの。実際に手は出さなかったが。
しかし、自室に居ようものなら今度は同室から質問責めに遭う予感を察知。三郎次は逃げ出すように「鍛錬してくる」と部屋を出たのである。二人が諦めて寝静まった頃合いを見図り戻るつもりだ。
――きっかけ、か。
三郎次は心の内でそう呟いた。そうして、徐に月を見上げた。
美しく輝く月。手で遮りたくなる程に、眩しい。
三年前も似た様な満月が浮かび上がっていた。これでも光量が足りないと怯えた。だが、今となっては真逆に月を嫌う己がいる。忍びにとって闇に溶け込んだ姿を顕わにする光は生死に関わる。
夜間訓練の一環として野外で過ごしたあの夜。その時に起きた出来事を今でもはっきりと憶えている。
木登りはすっかり上達したので、見誤って足を踏み外すことも、手を滑らせることもない。そうでなければ今こうして高所に登り詰めていないだろう。
あの夜、偶然通りかかった実習帰りの五年生がいなければどうなっていたか。大怪我を負っていたやもしれないし、紅蓮に対し尊敬の目を向けることもなかっただろう。
あれ以来、恩人でもある紅蓮を三郎次は気に掛けるようになった。しかし、学年は四年も離れている。合同授業は専ら一つ上の学年と。二人の間には接点が何もなく、学園内ですれ違っても頭を下げる程度。
上級生の実技を見学した折にはその立ち回りに目を奪われることとなった。得意武器は握物の六尺棒、変幻自在に扱うその華麗な捌きと振る舞い。水の様に流れる動きに見惚れた。
憧れの人物像を確かに思い描いたのは間違いなくその時だ。
時が経つにつれ憧憬の念は強まるばかり。それは進級しても揺らがず、実際に言葉を交わしても崩れることがなかった。
火薬委員会の委員長を務めることになったという話を聞いた時は、高揚感を抑えきれずにいた。
――最初は憧れだったのにな。
紅蓮のような忍者になりたい。その大きな背を追い掛け続けてきた。
直々に稽古をつけてもらい、実力も知識も身に着けてきた。だが、それでもまだまだ遠い存在なのだ。
背丈も、体格もまだ及ばずにいる。
追いつくのはいつの日か。
許されるのであれば、その背を預けてもらいたい。そう思うのは浅はかであろうか。
この満月の夜に想い人は何処で過ごしているのだろうか。危険を承知で忍務を遂行中かもしれない。滞りなく、怪我なく事が運べば良いと願うばかりである。
一通り思案に耽った三郎次は己の胸――切れた元結を収めた御守袋を懐に忍ばせている――に軽く手を触た。
そして手近な枝へと音もなく跳び移った。
春風が駆け抜けた。
飛び交う二つの紫色の影。手にした獲物がぶつかり合う鈍音。
間合いを取った久作は相手が懐に潜り込んでくると読み、下段からの攻撃に備えた。
瞬歩で詰めてきた三郎次が身を伏せたと思いきや、姿が消えた。
――後ろか。
僅か気配を感じとった久作は振り向きざまに追撃を受け流そうと構えたが、足元を掬われた。
反転する視界。地に背を打つ衝撃。
これが合戦場、敵と応戦中であれば、即座に次の手を考えつかなければ待ち受けるのは死のみ。
空を仰いだ久作にその隙が与えられることはなかった。
首筋にひやりとした感触――ぴたりと当てられた樫の六尺棒。
久作を見下ろす三郎次の口元がにやりと弧を描いた。
「そこまで! 勝者、池田三郎次!」
実技担当教師である野村雄三の声が響いた。
四年生いろは混合の組手演習がこれで全て終了となる。
い組の能勢久作と池田三郎次は何度目かの同室対決となり、今回は三郎次が勝利を手にした。
「これで通算六勝二敗だな」
「ぐっ……次こそはその憎たらしい顔の鼻っ柱へし折ってやるからな!」
「今の久作みたいにか?」
久作の額に青筋がぴきっと浮かぶ。
にやにやとしたその表情が更に久作の怒りを買っていた。頭に完全に血が上ってしまう前にと左近が「まあまあ」と二人に割って入ることに。
「落ち着けって久作。三郎次もそう煽るんじゃないよ」
「煽ってなんかいないだろ。事実を言ったまでだ」
「大体っ、お前の動きは不規則過ぎるんだよ!」
「何言ってるんだ。敵に動きを読まれないようにするのは基本だろ。俺にとってそれは褒め言葉だよ」
にぃっと笑ってみせた三郎次は「先に井戸に行ってるぞー」と後ろ手を振って去りゆく。それはもうご機嫌な様子でいた。
その後ろ姿を恨めしそうに睨む久作。
「あいつ、動きというか立ち回りが読めなさすぎる。こう来るだろうと思ったらその斜め上から来やがる」
「だよなぁ。変幻自在というか」
「おーい。久作、左近ー」
井戸の方角とは反対側から四郎兵衛が笑顔で手を振りながら駆けてくる。その後ろを石人が追いかけるようについてきていた。
「四郎兵衛、石人」
「お二人の組手、相変わらず凄かったです」
「うん。久作身体が柔らかくなったよね。三郎次の素早い払いを華麗に避けてたし」
は組の二人はにこにこと笑い合い、久作に褒め言葉を掛ける。しかし、今の久作にはそれすらも嫌みにしか聞こえないようで。
「負けたけどな」と吐き捨てた。
これは暫く荒れそうだ。返却間近の図書を忘れずに返さねばと左近は強く誓った。
「そうだ。立ち回りと言えば」
「四郎兵衛聞いてたのかさっきの話」
「うん。三郎次の立ち回り、なんだか葉月先輩に似てきたと思って」
その場にいる者が四郎兵衛に注目した。
彼は相変わらずのほほんとした表情を一つも変えず、隣に立つ同級生に「ねー」と同意を求める。
「そうですね。足の運びや柔軟性、葉月先輩とそっくりです」
「石人は葉月先輩が戦ってるとこ見たことあるんだっけ」
「はい。在学中の葉月先輩と食満先輩が戦っているところを拝見しました。あの時は私もまだまだ未熟でしたので、お二人の動きが速すぎて……目で追うのも精一杯でした」
何故その二人が戦うことになったのか。その理由は下らないようでいて、理に適ったものであった。
同じ委員会所属の三郎次が「こんな機会は滅多にないぞ!」とそれはもう目を輝かせていたものだ。
「確かに。あの予測不能な動きは葉月先輩の教えだな」
「尊敬してるって言ってたもんね。すごいなぁ三郎次」
ほわほわと純粋な感情を褒める四郎兵衛。その横で左近と久作が顔を見合わせた。尊敬しているのもあるだろうが、と。
「まあ、好きな人のことはそりゃ目で追いたくなるしな」
「仕草や動作が同調するのも頷けるよなぁ」
「……え?」
四郎兵衛の大きく丸い目がぱちぱちと瞬く。次いでぽかんと口が開いた。
「え、まさか」
「四郎兵衛、お前知らなかったのか」
「……三郎次って葉月先輩のこと、好きなの?」
「知らなかったんですか四郎兵衛くん」
「知らなかった」
あんなに分かりやすいのに。
三人がそう思う中、四郎兵衛だけが「そうだったのかぁ」と真新しい発見をしたかの如く目を輝かせていた。
「そうなのかぁ」
「いや、気づくだろ」
「先輩が俺たちの女装実習に付き合ってくれた時、ただならぬ殺気発してたよな」
「ああ、うん。あの時本当に刺されるかと思った」
「ただならぬ殺気。何があったんだろう」
「まあ」
「色々と」
その時の話題には触れたくないといった様子で左近は目を逸らした。
女装実習がある度に「紅は買い忘れてないだろうな」と三郎次に圧をかけられる。あの時本当に自分が敏くて良かった。もし、何も知らずに紅を受け取っていたらどうなっていたことか。左近、紅蓮共に他意はなくとも三郎次の嫉妬が爆発していただろう。
触らぬ神に祟りなし。
「いつからなんだろうね」
「確かに。明確な恋心を抱いたのはいつなんでしょう」
「さあ、いつからなんだろうな。だってあいつ結構前から葉月先輩のこと慕ってたよな」
「それこそ一年生の時からじゃないか? 本人は口割ってないけどさ」
「何がきっかけだったんだろうね」
「きっかけかぁ」と四人が青い空を仰いだ。
卒業式。昨年の予算会議後。稽古の回数増加。各々が思い当たる節を頭に浮かべる。
それはそれ、きっかけはどうであれ友人の恋を応援したいと石人は目を細めて笑った。
「まあ、何にせよ。三郎次の恋が実るといいですね」
◇◆◇
暗闇に昇った満月は煌々と輝いていた。
木立の間から零れ落ちた月明かりが地上を照らす。生い茂る葉に遮られた細い光。足元を照らすには十分でも、この場に集まる一年生たちには心細いものであった。
今宵行われる一年い組の夜間訓練。黄昏時に忍術学園を出発し、敷地内の森に移動。そこで敵の奇襲を受け難い場所を各々が選び、一晩を過ごすという訓練である。
入学した一年生が初めて夜間を外で過ごす日。二、三人の班に分かれた忍たまたちはそれぞれ野営の幕を張って寝床を確保。最中、遠くで鳥や獣の声がしたり、風が木々をざわめかせたりする度に震えあがる者も中にはいた。
それも一時ばかりが過ぎた頃には、あちらこちらで上がっていた小さな悲鳴も落ち着いたようであった。
月が西へ傾き始めた時刻。
野営地からやや離れた場所で小さな影が三つ、動いていた。
能勢久作は欅の木を見上げていた。全体像を捉えるには首が痛くなりそうな程の高さがある立派な木である。傍には川西左近も居り、友人と同じ様に見上げていた。どちらも不安に満ちた表情だ。
彼らの視線はこの木の太い枝。そこによじ登った池田三郎次に向いていた。
三郎次は短く細い片腕をしっかりと枝に回し、もう片方の手を伸ばす。彼の視線は枝の先に引っ掛かる井桁模様の布――風で飛ばされてしまった久作の頭巾に注がれている。
指先がもう少しで届きそうだ。しかし、これ以上先の方へ体重を乗せると不安定になる。昼間の木登りとは違い、視界は不鮮明。
恐怖心よりも友人の為にと思う気持ちが勝る中、懸命に伸ばす三郎次の指先はぷるぷると震えていた。
「あとちょっと……とどいたっ!」
指先に触れた頭巾を手繰り寄せ、小さな右手にそれをしっかりと握った。
三郎次は「取れたぞー」と下にいる二人に向かって笑顔で軽く手を振る。
一部始終をハラハラと見守っていた左近と久作はほっと胸を撫でおろした。それから「早くおりてきなよ!」と樹上に声を掛ける。なにせ、三郎次が登り詰めた高さは結構なもの。足を滑らせて落ちでもしたら一大事。
そろそろと枝から幹へと後退し、登る時に足掛けにした場所へと爪先を乗せた。
そのつもりのはずが、垂直の幹を足袋がずるっと滑り落ちる。頼りにしていた足場が空振り、小さな手で踏ん張るには力がまだ足りない。
落ちる。頭にそれが過った時にはもう、身体が落下していた。
「三郎次っ!」
「あぶないっ!」
悲鳴を上げた二人の傍に、一つの影が降ってきた。
闇夜を纏ったその影は欅の木に風の様な速さで駆け寄り、樹上から落ちてくる三郎次の身体を両腕でしっかりと受け止めた。
落ちた感覚はあれど、地面に叩きつけられた様な衝撃がない。最悪な展開も覚悟していたが、どうやら自分は助かったようだ。下にいた二人が受け止めてくれたのだろうか。
固く目を瞑っていた三郎次はゆっくりと目を開けた。手には離すまいとしっかり握られた久作の頭巾。
「怪我はないか」
頭上から聞こえた落ち着きのある声。声の方へ振り向くが、薄暗くて顔はよく見えなかった。この人間が自分を助けてくれたのだ。
ようやく地面に足が着いた。先ずは御礼を言わなければと顔を見上げようとすれば、相手が先に三郎次の目線に合わせるように屈む。
「あの、助けてくださってありがとうございます」
「どう致しまして。こんな夜中に木登りするのは危ないぞ。それもあんな高さまで」
すっと人差し指が頭上を示す。つられて見上げた先の枝は暗闇に溶け込んでおり、全く見えない。無我夢中で登っていたのだ。高低差に麻痺していたのだろう。
「すみません。……友達の頭巾が風で飛ばされてしまって、それを取ろうと思って。あ、そうだ久作! 頭巾」
取り戻した頭巾を友人に返そうと振り返った。が、三郎次の目に映ったのは背の高い人間。
体格、立ち姿からして男のようだ。その男は何も言わず、沈黙を抱いたまま左近と久作の前にまるで壁の様に立ちはだかっていた。
僅かな月明かりが男の顔を照らす。頬に十字の傷跡が見えた。ぎろりと睨んだ眼。一文字に結ばれた唇。表情は無のようでいで、怒の色も含まれていた。
これを前に左近と久作はすっかり恐縮してしまい、二人で手を取り合いぶるふると震え上がっていた。目には薄っすらと涙が滲んでいる。
男は何も言葉を発していないのだが、逆にそれが怖がらせてしまっているようで。
この二人は恐らく、忍術学園の関係者。しかし、教師のようではない。ならば背丈からして上級生の先輩か。
「長次。一年生が怯えている」
「……」
長次と呼ばれた男は口元をもごもごと動かしたように見えた。だが、蚊の鳴く声よりも小さくて二人には聞き取れない。
すっと伸ばされた両手にびくりと肩を震わせた。殴られると思ったののだろう。
しかしその手はぽんぽんと二人の頭を優しく撫でるだけであった。
「……へ? 今、なんて」
「あー……危ないことはしないように、と言ったんだと思う」
「……あっ。中在家長次先輩……?」
通訳が必要な会話。経験がある場面に久作が男にそう訊ねた。
「長次の後輩か」
こくりと頷いた長次は「図書委員の能勢久作」とこれまた蚊の鳴くような声を発した。
壁のような男の正体が判明すると三人の表情は安堵に包まれる。
そこでくるりと長次は踵を返し、三郎次の横を通り過ぎた。
長居は無用。合戦場から実習帰りである今の自分たちはこの場に不適切だと弁えている。ぴりぴりとした感情を必死に抑え込んでいるが、いつ表に出てくるか。
後輩たちをまた怖がらせるわけにはいかない。早々に立ち去るのが吉である。
「では、私たちはこれで。お前たちは授業で夜間訓練中なんだろう? 夜が怖くなくなれば、一人前の忍者に一步近づける」
「……はい」
「案ずるな。怖かったら友達と手を繋いで眠るといい。それだけでだいぶ恐怖が和らぐよ」
三郎次に掛けられた声は優しく宥めるようなもので、頭を撫でる手も温かい。表情は見えないが、微笑んでいるように感じられた。
恐怖が無いと言えば嘘になる。だが、それよりも今はこの先輩が一体誰なのか。先の会話から五年生らしき情報を得るも、それ以外は謎である。
「あのっ! 先輩は何年生で、誰ですか!」
三郎次は足早に立ち去ろうとする先輩忍たまを呼び止めた。
木立の間から差し込んだ満月の光。その光が振り向いた忍たまの姿、顔をしっかりと照らした。
月光が顕わにした凛々しい顔つき。つり目がちな瞳に光が差す。妖美さを兼ね備えた美丈夫が三郎次に優しく笑い掛けた。
「五年は組の葉月紅蓮だ」
◇◆◇
煌々とした満月が闇にぽっかりと浮かぶ。
放たれた青白い光は地に降り注ぎ、闇夜を照らしていた。
時刻はすっかりと寝静まった草木も眠る丑三つ時。真夜中に跳ぶ影が一つ、飛び移った木に身を潜めた。
その若い影が楠木の高枝で腰を屈め、身体がぐらつかないよう安定を取る。
九十尺以上はある樹高――学園を一望できる高さで、外界の不穏な動きを捉えやすくもあった。
夜間自主鍛錬に励んでいた三郎次はここいらで小休止と詰めていた息を吐き出した。
穏やかな風が汗ばんだ頬と額を撫でていく。
間延びした梟の声。藪でジーッと鳴く虫。遥か遠くから響いたニホンオオカミの遠吠え。
聞こえるのは自然が織り成した音ばかりで、不穏な動きを見せる人の気配は見られそうにない。
穏やかな春だ。
ふと三郎次は昼間同級生二人に問い詰められたことを思い返した。
先ず授業が終わるなり「葉月先輩のこといつから好きなんだ」とにやけた左近に問われ、夕食の時間が被った四郎兵衛には「三郎次、葉月先輩のこと好きなんだよね。きっかけは?」と目を輝かせながら訊かれた。大衆の面前で好奇心丸出しの二人。これにはぶん殴ってやりたくなる気持ちが沸くというもの。実際に手は出さなかったが。
しかし、自室に居ようものなら今度は同室から質問責めに遭う予感を察知。三郎次は逃げ出すように「鍛錬してくる」と部屋を出たのである。二人が諦めて寝静まった頃合いを見図り戻るつもりだ。
――きっかけ、か。
三郎次は心の内でそう呟いた。そうして、徐に月を見上げた。
美しく輝く月。手で遮りたくなる程に、眩しい。
三年前も似た様な満月が浮かび上がっていた。これでも光量が足りないと怯えた。だが、今となっては真逆に月を嫌う己がいる。忍びにとって闇に溶け込んだ姿を顕わにする光は生死に関わる。
夜間訓練の一環として野外で過ごしたあの夜。その時に起きた出来事を今でもはっきりと憶えている。
木登りはすっかり上達したので、見誤って足を踏み外すことも、手を滑らせることもない。そうでなければ今こうして高所に登り詰めていないだろう。
あの夜、偶然通りかかった実習帰りの五年生がいなければどうなっていたか。大怪我を負っていたやもしれないし、紅蓮に対し尊敬の目を向けることもなかっただろう。
あれ以来、恩人でもある紅蓮を三郎次は気に掛けるようになった。しかし、学年は四年も離れている。合同授業は専ら一つ上の学年と。二人の間には接点が何もなく、学園内ですれ違っても頭を下げる程度。
上級生の実技を見学した折にはその立ち回りに目を奪われることとなった。得意武器は握物の六尺棒、変幻自在に扱うその華麗な捌きと振る舞い。水の様に流れる動きに見惚れた。
憧れの人物像を確かに思い描いたのは間違いなくその時だ。
時が経つにつれ憧憬の念は強まるばかり。それは進級しても揺らがず、実際に言葉を交わしても崩れることがなかった。
火薬委員会の委員長を務めることになったという話を聞いた時は、高揚感を抑えきれずにいた。
――最初は憧れだったのにな。
紅蓮のような忍者になりたい。その大きな背を追い掛け続けてきた。
直々に稽古をつけてもらい、実力も知識も身に着けてきた。だが、それでもまだまだ遠い存在なのだ。
背丈も、体格もまだ及ばずにいる。
追いつくのはいつの日か。
許されるのであれば、その背を預けてもらいたい。そう思うのは浅はかであろうか。
この満月の夜に想い人は何処で過ごしているのだろうか。危険を承知で忍務を遂行中かもしれない。滞りなく、怪我なく事が運べば良いと願うばかりである。
一通り思案に耽った三郎次は己の胸――切れた元結を収めた御守袋を懐に忍ばせている――に軽く手を触た。
そして手近な枝へと音もなく跳び移った。