軽率なコラボシリーズ
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仔猫と三郎次
それは春先で、まだ肌寒い風が吹く季節に起きたことだった。
晴れた空に段々と薄雲を広げられていく。夕焼けが先か、雨粒が先かと競う様が頭上で繰り広げられていた。
私は仕事を終え、町長屋への帰路についていた。
道程は何ら変哲もなく、いつも通りの人道。時折すれ違うのは若い旅人や飛脚。怪しい所も特段見られない彼らを横目で見送り、自分も足を急がせていた。雨に見舞われる前に帰りつかねばと。
その道中、小さな気配を捉えた。人の子よりも小さく、儚い鳴き声。
道端に祀られた小さな祠――木枠が雨風に晒されて風化している――そこに御座すお地蔵様の足元に、仔猫がいた。
三毛模様の仔猫は毛並みに艶もなく、瘦せている。生後一、二ヶ月は経っていると思われるが、それにしてもだ。周囲に兄弟猫や親猫の気配がない。よもや逸れてしまったのか。
「どうした、こんな所で」
私は祠の前で膝をつき、仔猫の鼻に指先を近付ける。薄い桜色の小さな鼻がちょんと触れた後、指先をちろちろと舐め始めた。
腹が空いているのだろう。生憎、仔猫が食べられそうなものを今は持ち合わせていない。水ならばと思い、竹の水筒から注いだ水を片手で椀を作ったそこに溜める。喉も余程渇いていたようで、子猫は指の隙間から流れ落ちていくよりも早く水を飲み干した
「……お前、前足に怪我を。烏にでもやられたか」
右の前足に鋭利な物で突かれた跡。引っ掻き傷らしきものもある。血は止まっているようだ。
喉の渇きが癒えると、今度はぐるぐると喉を鳴らし始めた。次いで、みゃあみゃあと頻りに鳴き声をあげる。私にはそれが親兄弟を呼ぶ声に思えた。仔猫の呼び声に応えるどころか、この子以外の気配は一つも、見当たらない。
雨雲が近づいていた。
手負いの仔猫はその場から逃げる真似もせず、うずくまっている。
雨が降り出せば気温も下がっていく。体温調節がままならない仔猫には厳しい外気となる。
辛くも親兄弟から引き離されてしまったこの子をこのまま放っておくには忍びにない。
私は仔猫を両手で掬い上げ、己の懐に収めた。小さな体は冷風に晒された石のように冷えている。
暴れもせず、大人しい。懐から覗いた小さな目。不安げに鳴き続ける仔猫の額を優しく撫でてやった。
「凍えさせはせんよ」
空が泣き出すより前に我が家へ。私は家路を急いだ。
◇
雨が降り出したのは町長屋に帰り着いた直後であった。
玄関先で僅かに受けた雨の雫を振り払い、懐に目を落とす。
どうやら仔猫は眠っている様子。静かな寝息が肌に伝わってきた。とくとくと刻む速い鼓動に乱れはない。冷えは人間も動物も大敵。温めたことで体力の回復に繋がればいいのだが。
さて、玄関先に着いたのはいい。
この仔猫を連れて帰ってきたことに、三郎次は良い顔をするかどうか。
犬猫が嫌いだという話は聞かない。学園で飼育していた毒虫や毒蛇とは心を通わせられなかったそうだ。いや、それは私もだな。生物委員会とは意見が中々合わずにいた我々だ。兵助は「毒虫なんか飼育しなくなるから、いいんじゃない?」と委員会別対抗戦の時にケンカを売っていたようだし。
ああ、少し心配になってきた。その延長線で犬猫も敬遠していたらどうしようか。
戸口と格子窓から夕餉の匂いが漂ってくる。味噌の良い香りだ。
私たちは互いが仕事で留守にした際、先に戻って来た方が夕餉なり朝餉の支度をして待つ。非番の時も然り。勿論、夫婦共にフリーの忍者であることはご近所には内緒である。
今日は三郎次が非番だったので、中にいるのは間違いなかった。そしてそろそろ怪しまれているであろう。三郎次も気配を読むのが上手い。こちらも気配を潜めているとはいえ、私が戸口で考え事に耽っていることを不審に思うだろうな。
「家、間違ってませんけど」
そう考えていた矢先に戸がからりと開き、三郎次が顔を出した。疑り深い表情で。
「お帰りなさい。お疲れ様です」
「ただいま。雨が丁度降り出してきた。……どうした?」
三郎次がじーっと私を見る。好奇心に満ちた子どもさながらの視線。
私は雨で濡れた前髪を横へ払い、何食わぬ顔を装う。
「いえ、怪我なくお帰りになられて良かったなぁと思いまして」
「そうだな。今回は特に」
「夕餉出来てるんで、先に食べませんか」
「ああ、有難う。そうしよう」
戸を後ろ手で閉め、土間を歩く僅かな隙に私はちらと懐に目を向けた。
そこで見計らった様に振り返った三郎次が「ところで」と口を開いた。
「懐に何入れてるんです」
「……宝禄火矢だ」
「そんな凸凹な宝禄火矢、見たことも聞いたことないんですけど?」
流石の洞察力と称賛したいところだが、確かに傍から見れば不自然な膨らみだ。何かを隠し持っていると誰もが気づく点である。
と、そこで仔猫が懐からひょこりと顔を覗かせた。人の声で目が覚めてしまったのか、眠たそうに欠伸をする。
これを見た三郎次は目をまん丸に見開き、仔猫と私の顔を何度も見比べていた。
「ね、猫……どうしたんですか一体」
「帰路の途中、祠で蹲っていた。怪我をしていて弱っていたし、雨の中捨て置くにはどうにも気が引けてな」
前足に怪我を負っていること、空腹で飢えていること。近くにいるはずの親兄弟がいないこと。それらを伝えると三郎次は気の毒だといった風に顔を顰めていた。
仔猫の額を撫でてやると、またごろごろと喉を鳴らす。先程のように親兄弟を求めて鳴く様子は見られなかった。
仔猫は金色の瞳をじっと三郎次に向けていたかと思いきや、ひゅっと顔を懐に引っ込めた。
「隠れた」
「人見知りかもしれんな。まあ、少しそっとしておいてやろう。だいぶ冷えていたようだし」
「そうですね」
「怪我が治るまでは面倒を見てやりたいんだが、いいだろうか」
本題を遠慮がちに訊ねた私に意外なほどあっさりとした答えが返ってきた。
「いいですよ。って、なんですかその意外そうな顔」
「いや、あまりにもすんなりと受け入れてくれたから」
「……そんなに俺、無慈悲に見えます?」
「そこまで言ってないだろう。もしかすると三郎次が猫嫌いで渋るかと思っていたんだよ」
「嫌いじゃないです。まあ例え嫌いだったとしても、霧華さんがその子を助けたいと手を差し伸べたんだ。俺はその意思を尊重します」
「そうか。……有難う、三郎次」
伴侶の優しい心遣いに微笑を浮かべれば、くすぐったそうに三郎次は目を逸らした。
「それに、霧華さん自身も体調良さそうで何よりです」
「……ああ、今日はそこまで曇天でもなかったし、すぐ雨が降り出したからな。それに昔に比べたらだいぶ体調を崩す頻度も低くなったよ」
「調子悪そうだと感じたら問答無用で休んでもらいますからね」
「手厳しいな」
「当然です」
空が落ちそうな程に曇る日はそうあることでもない。
あの日のように条件が重ならなければ。
「猫が食べれそうなものあったかな」と台所、収納場所を探し回る三郎次。その姿を追う私はそっと笑みを零した。
◇
その後、茹でた魚の身で腹を満たした仔猫は顔周りの毛繕いをし、我が家を内見するが如くうろうろとした。右前足を持ち上げ、ひょこひょことしながら。
その様を私たちは微笑ましく見守る。
食後の番茶を片手に、母校の忍術学園から講師の依頼が来ていることを話していた時だ。
仔猫が徐ろに私に近づいてきて、膝に小さな左前足をちょんと掛けた。
「みゃあー」
長い声で鳴いたこの子は何か訴えたいことでもあるのかと思い、湯呑みを置く。
「どうした……っと」
膝から腹をよじよじと伝い上り、私の懐にひょいとその身を潜らせる。
頭、胴、尻尾の順に滑り込ませた仔猫は器用に体の位置を変えてもぞもぞとしていたが、結局私が連れ帰ってきた時と同じ体勢で落ち着いた。
「完全に懐かれてますね」
「落ち着くのだろうな。……呼び鳴きもしなくなった」
それが良いことなのかどうかは、猫社会に属したことがない私にはわからない。親兄弟から自立するのは何れ必要なこと。だが、その時間が短かすぎるのも些か可哀想に思える。
胸元で感じる、小さな生命の確かな鼓動。
一昔前、猫は貴族内で大切に飼われていた。それから時を経て放し飼いへと変化しつつある。
この乱世、人が生き延びるには厳しい時代。それは猫にとっても同じこと。
生を諦めずに生きてほしい。
私のその願いが届いたのか、翌日から仔猫は活発な動きを見せるようになった。
我が城顔で床板に寝そべり、入念な毛繕いをし、三郎次にじゃれつく。
我々の食事にも興味を示すようになる。特に三郎次の魚を狙っているようで、目をほんの少し離した隙に掻っ攫ていく。
ある日の夕餉では、新鮮な魚を捌いて刺し身にしたものを皿から堂々と盗み食いしていた。
こちらが気付いた時にはもう小さな腹の中に収まっており、悠々と顔の周りを毛繕いをしている。
「俺が捌いた新鮮なお魚の刺し身が!」
「美味いとわかっているんだろうな。三郎次が捌いた魚は見目も良いし、格別だ」
毛繕いを終えた仔猫は三郎次の方を向いた。じっと金色の視線を注ぐ。
それに根負けしたのか皿から刺し身を箸で摘み、手の平に乗せた。二切れだ。
「……どうせ一切れじゃ足りないだろうから」
「優しいな」
「べ、別にそんなんじゃ。ちょっと多かったからですよ」
三郎次の手にゆっくり、ゆっくりと近づいた仔猫はすんすんと刺し身の匂いを嗅ぐ。それからがぶりと刺し身に齧り付き、咀嚼してあっという間に小さな口に飲み込んだ。
二切れも瞬く間に食べ終わった後、まだ足りないのか手の平を舐めていた。くすぐったいと笑う三郎次はどこか穏やかな様子にも見えた。
こんな心温まる場面があったかと思いきや。本来の調子を取り戻し始めた仔猫が頻繁に三郎次にちょっかいを出すようになった。
威嚇する元気もあるようで。抱き上げようとした三郎次が素早い猫パンチの洗礼を受けた。小さな口を開け、牙を見せた仔猫の威嚇に少なからず凹んでいるようであった。
手裏剣の手入れをする三郎次の頭が右へ、左へと動く。後ろ髪もそれに合わせて揺れた。
遊び盛りの仔猫がそれを見逃すはずもなく。揺れ動く毛先は猫じゃらしそのもの。視線がその動きに釣られ、遂には三郎次の背中に体躯を伸ばして張り付き、前足で後ろ髪にじゃれ始めた。
「……霧華さん」
「どうした」
「もしかしなくとも、俺の背中に仔猫張り付いてませんか」
「ああ。さっきから髪にじゃれついて遊んでるよ」
「……いてっ。痛い痛い!」
背中に仔猫の爪が喰い込んだのか、悶える三郎次。そんな悲鳴もお構いなしに仔猫は目先の獲物を捕らえようと、ちょいちょいと手を動かしていた。
これでは手裏剣の手入れどころではない。三郎次は仔猫が離れた一瞬の隙にバッと振り返った。
「遊んでやるから背中に張り付くのは……って、もう飽きたのかよ!」
三郎次が振り返ったすぐ先に仔猫の姿はなく、少し離れた場所で香箱座りを構えていた。
この様変わりには流石に歯を食いしばっているようだ。
「気まぐれすぎるっ」
「猫だからな」
と、そんな少し前の出来事を久々知夫妻に私は話していた。
当事者の三郎次は少し苦々しいといった風に、動物が好きな不二子さんは羨望を、兵助はいつもと変わらぬ様子で聞いていた。
「その後も何かと三郎次にちょっかいをかけていまして」
「それ遊び相手として認識されてるね。いいなぁ仔猫」
「こっちが構ってやろうと思ったら、もう興味失ってるんですよ。気まぐれすぎてついてけません」
そう吐息をつく三郎次だが、猫じゃらしを用意してまで遊ぶ気でいたのは伏せておこう。
「完全に池田くんの一方通行だねぇ」
「一方通行は慣れてますよ」
「それは私の急所を突くから止めてほしい」
「別に霧華さんのことを言っているわけではないですよ」
「……」
最近は妙にこの言葉を聞く気がする。気の所為だろうか。いや、学園に講師として訪れるようになってからだな。
「それでその猫ちゃん、結局どうなったの?」
「怪我が治って、いつの間にか姿を消しました。家猫になるつもりはなかったようで」
「そっかぁ」
結局、三郎次は仔猫を抱き上げることが出来なかった。捕まえたかと思えばするりとその手から逃げ果せる。猫は液体。言いえて妙であった。
その割に私には懐いていたようで、ちょこちょこと後ろをついて回ってもいた。私の懐で休むことも多かった気がする。
「先輩、意外と動物と触れ合うんですね。そんな印象あまりなかったので」
「虫獣遁の術は使わないからな。虫は得意ではないが、小動物は好きだぞ」
「え、そうなの?」
不二子さんがこれはまた意外だとその目を丸くした。
「霧華さん苦手なものなさそう」
「公にしてないだけで、意外とありますよ。……落ちた蝉がそれですね」
「ああ、蝉ファイナル」
「逆に不二子さんがお強いのが意外でしたよ」
蝉ふぁいなる多発地帯に面しても臆せずいたと兵助から聞いた。
思い返せばこの人は農に関する学びを得ていた。イナゴの佃煮も顔色一つ変えずに食していたと土井先生から聞いたこともある。時代の背景やしきたりは異なれど、強みは十二分に獲得していると思う。
これを聞くと事切れた蝉が苦手など尚の事口にしにくいもの。
「蝉の話はさておき、猫はこの時代では穀物を食い荒らす鼠を捕るので放し飼いにされていることが多いです」
「へぇ〜。じゃあ、その子も立派なネズミ捕りになってるのかなぁ」
「長屋周りで穀物の鼠被害は減ったという話は耳にしましたね」
確かにあれ以降、井戸端会議で聞いた話では鼠が減ったと聞いた。それは今もだ。恐らくあの子が活躍しているのだろう。
「まあ、ただ一つ問題が」
「どうしたの池田くん」
「偶になんですけど、家の前に鼠の死骸が置かれていることが」
「猫の恩返し」
「恩のつもりなんだろうな」
久々知夫妻がうんうんと頷いた。
鼠はまだいい。夏場はひっくり返った蝉が置かれていることがまあ、ある。朝一番に見かけた時は思わず身構えてしまうんだよ。
「私もその仔猫見たかったなぁ。三毛猫ちゃん」
「鼻が薄い桜色で、肉球も同じ色でしたよ」
「ああーそれ聞くと益々見たかったぁ。写真か動画があれば良かったのに」
「絵よりも鮮明に残せる方法でしたっけ」
「絵はそこまで得意ではないので……お見せできなくて残念です」
物や人を観察する眼は鍛えていても、それを絵筆に走らせ紙に残すのとはまた分野が違う。
「その話って、まだ二人が祝言上げてそんなに経ってない頃だろ?」
「そうですけど」
不意に兵助が話に割り込んできた。
兵助の言う通り、この仔猫話があったのは長屋を借りて三郎次と一緒に暮らすようになり、そこまで月日は経っていない頃のもの。
それがどうしたのかと三郎次が小首を傾げる。
「いや、先輩にそこまで懐いてた仔猫に三郎次は焼いてたんじゃないのかなぁと思って」
「何言ってるんですか久々知先輩。猫に焼いてどうするんですか」
「俺ならちょっと焼きそうだなって」
「お前のバヤイはちょっとどこじゃないだろ。全方位型ヤキモチ焼きめ」
人だけに非ず、動物にまで焼く男にはこの言葉が似つかわしい。そのうち植物にまで焼きそうだ。
見ろ、不二子さんか若干引いてるじゃないか。まあ、この人もヤキモチは普通に焼くらしいから似たもの同士か。
からからと特段気に留めた様子もない兵助が話を先へと続けた。
「それで、先輩って三郎次と一緒になる前は長屋とか借りてなかったんですよね」
「ああ。よく知っているな」
「そうなの? 拠点無い方が動きやすいとかいう理由で?」
「いえ、特にそういった理由では」
私はちらと三郎次の方を窺った。この理由を三郎次は知っている。何故なら同じ事を訊かれたからだ。
その時もこんな風に気恥ずかしい思いをした。
私の伴侶は庇い立てする様子もなく「素直に話したらどうですか」という意思すら伝わってきた。
「……帰る家があったとしても、帰った時に誰もいないのは、寂しいので」
兵助の豆腐のような目が丸くなる。不二子さんはというと、少しばかり眉を寄せていた。
「先輩、忍たま長屋は一人部屋でしたよね」
「学園に居た時は見知った相手が隣部屋にいた。それとはまた違う感覚なんだよ。……誰もいないとわかっている場所に帰るのは心が沈む。ならば帰る家など持たない方が良い」
これを話した時には四年もそうしていたのかと驚かれたものだ。元より忍者は長くその地に留まることはないものだと思っている節がある故、苦ではなかった。
三郎次が私の手を取っていなければ、長屋に住まいを構えるなどなかったかもしれない。
「誰かと共に住むならば、帰りを待ってさえいれば何れ帰ってくる。心持ちも変わるというものだよ。だから三郎次の帰りを待つのも寂しくはない」
「……先輩」
「どうした兵助」
「先輩の寂しさの捉え方が極端すぎます」
「……そう、か?」
「池田くん。何が何でも霧華さんの所に帰ってあげてね」
「何があろうと絶対に帰りますよ。何年も前にそう決めたんで」
隣から向けられた、揺るぎがない視線と込められた決意。
――咲之助が、戻って来ない。
――俺は、必ず帰って来る。貴女の居る所へ。
雑踏の中で聞こえた、時を跨いだ言の葉。
嗚呼、信じているよ。
「私も必ず帰るよ。三郎次の所へ」
◇
「仔猫、名前つけなかったの?」
「つける前に姿を晦ましたので。まあ、もう少しいたならサブロウジと付けようかと思っていました」
「なんで俺の名前」
「後ろをついて歩く様が似ていたからな」
それは春先で、まだ肌寒い風が吹く季節に起きたことだった。
晴れた空に段々と薄雲を広げられていく。夕焼けが先か、雨粒が先かと競う様が頭上で繰り広げられていた。
私は仕事を終え、町長屋への帰路についていた。
道程は何ら変哲もなく、いつも通りの人道。時折すれ違うのは若い旅人や飛脚。怪しい所も特段見られない彼らを横目で見送り、自分も足を急がせていた。雨に見舞われる前に帰りつかねばと。
その道中、小さな気配を捉えた。人の子よりも小さく、儚い鳴き声。
道端に祀られた小さな祠――木枠が雨風に晒されて風化している――そこに御座すお地蔵様の足元に、仔猫がいた。
三毛模様の仔猫は毛並みに艶もなく、瘦せている。生後一、二ヶ月は経っていると思われるが、それにしてもだ。周囲に兄弟猫や親猫の気配がない。よもや逸れてしまったのか。
「どうした、こんな所で」
私は祠の前で膝をつき、仔猫の鼻に指先を近付ける。薄い桜色の小さな鼻がちょんと触れた後、指先をちろちろと舐め始めた。
腹が空いているのだろう。生憎、仔猫が食べられそうなものを今は持ち合わせていない。水ならばと思い、竹の水筒から注いだ水を片手で椀を作ったそこに溜める。喉も余程渇いていたようで、子猫は指の隙間から流れ落ちていくよりも早く水を飲み干した
「……お前、前足に怪我を。烏にでもやられたか」
右の前足に鋭利な物で突かれた跡。引っ掻き傷らしきものもある。血は止まっているようだ。
喉の渇きが癒えると、今度はぐるぐると喉を鳴らし始めた。次いで、みゃあみゃあと頻りに鳴き声をあげる。私にはそれが親兄弟を呼ぶ声に思えた。仔猫の呼び声に応えるどころか、この子以外の気配は一つも、見当たらない。
雨雲が近づいていた。
手負いの仔猫はその場から逃げる真似もせず、うずくまっている。
雨が降り出せば気温も下がっていく。体温調節がままならない仔猫には厳しい外気となる。
辛くも親兄弟から引き離されてしまったこの子をこのまま放っておくには忍びにない。
私は仔猫を両手で掬い上げ、己の懐に収めた。小さな体は冷風に晒された石のように冷えている。
暴れもせず、大人しい。懐から覗いた小さな目。不安げに鳴き続ける仔猫の額を優しく撫でてやった。
「凍えさせはせんよ」
空が泣き出すより前に我が家へ。私は家路を急いだ。
◇
雨が降り出したのは町長屋に帰り着いた直後であった。
玄関先で僅かに受けた雨の雫を振り払い、懐に目を落とす。
どうやら仔猫は眠っている様子。静かな寝息が肌に伝わってきた。とくとくと刻む速い鼓動に乱れはない。冷えは人間も動物も大敵。温めたことで体力の回復に繋がればいいのだが。
さて、玄関先に着いたのはいい。
この仔猫を連れて帰ってきたことに、三郎次は良い顔をするかどうか。
犬猫が嫌いだという話は聞かない。学園で飼育していた毒虫や毒蛇とは心を通わせられなかったそうだ。いや、それは私もだな。生物委員会とは意見が中々合わずにいた我々だ。兵助は「毒虫なんか飼育しなくなるから、いいんじゃない?」と委員会別対抗戦の時にケンカを売っていたようだし。
ああ、少し心配になってきた。その延長線で犬猫も敬遠していたらどうしようか。
戸口と格子窓から夕餉の匂いが漂ってくる。味噌の良い香りだ。
私たちは互いが仕事で留守にした際、先に戻って来た方が夕餉なり朝餉の支度をして待つ。非番の時も然り。勿論、夫婦共にフリーの忍者であることはご近所には内緒である。
今日は三郎次が非番だったので、中にいるのは間違いなかった。そしてそろそろ怪しまれているであろう。三郎次も気配を読むのが上手い。こちらも気配を潜めているとはいえ、私が戸口で考え事に耽っていることを不審に思うだろうな。
「家、間違ってませんけど」
そう考えていた矢先に戸がからりと開き、三郎次が顔を出した。疑り深い表情で。
「お帰りなさい。お疲れ様です」
「ただいま。雨が丁度降り出してきた。……どうした?」
三郎次がじーっと私を見る。好奇心に満ちた子どもさながらの視線。
私は雨で濡れた前髪を横へ払い、何食わぬ顔を装う。
「いえ、怪我なくお帰りになられて良かったなぁと思いまして」
「そうだな。今回は特に」
「夕餉出来てるんで、先に食べませんか」
「ああ、有難う。そうしよう」
戸を後ろ手で閉め、土間を歩く僅かな隙に私はちらと懐に目を向けた。
そこで見計らった様に振り返った三郎次が「ところで」と口を開いた。
「懐に何入れてるんです」
「……宝禄火矢だ」
「そんな凸凹な宝禄火矢、見たことも聞いたことないんですけど?」
流石の洞察力と称賛したいところだが、確かに傍から見れば不自然な膨らみだ。何かを隠し持っていると誰もが気づく点である。
と、そこで仔猫が懐からひょこりと顔を覗かせた。人の声で目が覚めてしまったのか、眠たそうに欠伸をする。
これを見た三郎次は目をまん丸に見開き、仔猫と私の顔を何度も見比べていた。
「ね、猫……どうしたんですか一体」
「帰路の途中、祠で蹲っていた。怪我をしていて弱っていたし、雨の中捨て置くにはどうにも気が引けてな」
前足に怪我を負っていること、空腹で飢えていること。近くにいるはずの親兄弟がいないこと。それらを伝えると三郎次は気の毒だといった風に顔を顰めていた。
仔猫の額を撫でてやると、またごろごろと喉を鳴らす。先程のように親兄弟を求めて鳴く様子は見られなかった。
仔猫は金色の瞳をじっと三郎次に向けていたかと思いきや、ひゅっと顔を懐に引っ込めた。
「隠れた」
「人見知りかもしれんな。まあ、少しそっとしておいてやろう。だいぶ冷えていたようだし」
「そうですね」
「怪我が治るまでは面倒を見てやりたいんだが、いいだろうか」
本題を遠慮がちに訊ねた私に意外なほどあっさりとした答えが返ってきた。
「いいですよ。って、なんですかその意外そうな顔」
「いや、あまりにもすんなりと受け入れてくれたから」
「……そんなに俺、無慈悲に見えます?」
「そこまで言ってないだろう。もしかすると三郎次が猫嫌いで渋るかと思っていたんだよ」
「嫌いじゃないです。まあ例え嫌いだったとしても、霧華さんがその子を助けたいと手を差し伸べたんだ。俺はその意思を尊重します」
「そうか。……有難う、三郎次」
伴侶の優しい心遣いに微笑を浮かべれば、くすぐったそうに三郎次は目を逸らした。
「それに、霧華さん自身も体調良さそうで何よりです」
「……ああ、今日はそこまで曇天でもなかったし、すぐ雨が降り出したからな。それに昔に比べたらだいぶ体調を崩す頻度も低くなったよ」
「調子悪そうだと感じたら問答無用で休んでもらいますからね」
「手厳しいな」
「当然です」
空が落ちそうな程に曇る日はそうあることでもない。
あの日のように条件が重ならなければ。
「猫が食べれそうなものあったかな」と台所、収納場所を探し回る三郎次。その姿を追う私はそっと笑みを零した。
◇
その後、茹でた魚の身で腹を満たした仔猫は顔周りの毛繕いをし、我が家を内見するが如くうろうろとした。右前足を持ち上げ、ひょこひょことしながら。
その様を私たちは微笑ましく見守る。
食後の番茶を片手に、母校の忍術学園から講師の依頼が来ていることを話していた時だ。
仔猫が徐ろに私に近づいてきて、膝に小さな左前足をちょんと掛けた。
「みゃあー」
長い声で鳴いたこの子は何か訴えたいことでもあるのかと思い、湯呑みを置く。
「どうした……っと」
膝から腹をよじよじと伝い上り、私の懐にひょいとその身を潜らせる。
頭、胴、尻尾の順に滑り込ませた仔猫は器用に体の位置を変えてもぞもぞとしていたが、結局私が連れ帰ってきた時と同じ体勢で落ち着いた。
「完全に懐かれてますね」
「落ち着くのだろうな。……呼び鳴きもしなくなった」
それが良いことなのかどうかは、猫社会に属したことがない私にはわからない。親兄弟から自立するのは何れ必要なこと。だが、その時間が短かすぎるのも些か可哀想に思える。
胸元で感じる、小さな生命の確かな鼓動。
一昔前、猫は貴族内で大切に飼われていた。それから時を経て放し飼いへと変化しつつある。
この乱世、人が生き延びるには厳しい時代。それは猫にとっても同じこと。
生を諦めずに生きてほしい。
私のその願いが届いたのか、翌日から仔猫は活発な動きを見せるようになった。
我が城顔で床板に寝そべり、入念な毛繕いをし、三郎次にじゃれつく。
我々の食事にも興味を示すようになる。特に三郎次の魚を狙っているようで、目をほんの少し離した隙に掻っ攫ていく。
ある日の夕餉では、新鮮な魚を捌いて刺し身にしたものを皿から堂々と盗み食いしていた。
こちらが気付いた時にはもう小さな腹の中に収まっており、悠々と顔の周りを毛繕いをしている。
「俺が捌いた新鮮なお魚の刺し身が!」
「美味いとわかっているんだろうな。三郎次が捌いた魚は見目も良いし、格別だ」
毛繕いを終えた仔猫は三郎次の方を向いた。じっと金色の視線を注ぐ。
それに根負けしたのか皿から刺し身を箸で摘み、手の平に乗せた。二切れだ。
「……どうせ一切れじゃ足りないだろうから」
「優しいな」
「べ、別にそんなんじゃ。ちょっと多かったからですよ」
三郎次の手にゆっくり、ゆっくりと近づいた仔猫はすんすんと刺し身の匂いを嗅ぐ。それからがぶりと刺し身に齧り付き、咀嚼してあっという間に小さな口に飲み込んだ。
二切れも瞬く間に食べ終わった後、まだ足りないのか手の平を舐めていた。くすぐったいと笑う三郎次はどこか穏やかな様子にも見えた。
こんな心温まる場面があったかと思いきや。本来の調子を取り戻し始めた仔猫が頻繁に三郎次にちょっかいを出すようになった。
威嚇する元気もあるようで。抱き上げようとした三郎次が素早い猫パンチの洗礼を受けた。小さな口を開け、牙を見せた仔猫の威嚇に少なからず凹んでいるようであった。
手裏剣の手入れをする三郎次の頭が右へ、左へと動く。後ろ髪もそれに合わせて揺れた。
遊び盛りの仔猫がそれを見逃すはずもなく。揺れ動く毛先は猫じゃらしそのもの。視線がその動きに釣られ、遂には三郎次の背中に体躯を伸ばして張り付き、前足で後ろ髪にじゃれ始めた。
「……霧華さん」
「どうした」
「もしかしなくとも、俺の背中に仔猫張り付いてませんか」
「ああ。さっきから髪にじゃれついて遊んでるよ」
「……いてっ。痛い痛い!」
背中に仔猫の爪が喰い込んだのか、悶える三郎次。そんな悲鳴もお構いなしに仔猫は目先の獲物を捕らえようと、ちょいちょいと手を動かしていた。
これでは手裏剣の手入れどころではない。三郎次は仔猫が離れた一瞬の隙にバッと振り返った。
「遊んでやるから背中に張り付くのは……って、もう飽きたのかよ!」
三郎次が振り返ったすぐ先に仔猫の姿はなく、少し離れた場所で香箱座りを構えていた。
この様変わりには流石に歯を食いしばっているようだ。
「気まぐれすぎるっ」
「猫だからな」
と、そんな少し前の出来事を久々知夫妻に私は話していた。
当事者の三郎次は少し苦々しいといった風に、動物が好きな不二子さんは羨望を、兵助はいつもと変わらぬ様子で聞いていた。
「その後も何かと三郎次にちょっかいをかけていまして」
「それ遊び相手として認識されてるね。いいなぁ仔猫」
「こっちが構ってやろうと思ったら、もう興味失ってるんですよ。気まぐれすぎてついてけません」
そう吐息をつく三郎次だが、猫じゃらしを用意してまで遊ぶ気でいたのは伏せておこう。
「完全に池田くんの一方通行だねぇ」
「一方通行は慣れてますよ」
「それは私の急所を突くから止めてほしい」
「別に霧華さんのことを言っているわけではないですよ」
「……」
最近は妙にこの言葉を聞く気がする。気の所為だろうか。いや、学園に講師として訪れるようになってからだな。
「それでその猫ちゃん、結局どうなったの?」
「怪我が治って、いつの間にか姿を消しました。家猫になるつもりはなかったようで」
「そっかぁ」
結局、三郎次は仔猫を抱き上げることが出来なかった。捕まえたかと思えばするりとその手から逃げ果せる。猫は液体。言いえて妙であった。
その割に私には懐いていたようで、ちょこちょこと後ろをついて回ってもいた。私の懐で休むことも多かった気がする。
「先輩、意外と動物と触れ合うんですね。そんな印象あまりなかったので」
「虫獣遁の術は使わないからな。虫は得意ではないが、小動物は好きだぞ」
「え、そうなの?」
不二子さんがこれはまた意外だとその目を丸くした。
「霧華さん苦手なものなさそう」
「公にしてないだけで、意外とありますよ。……落ちた蝉がそれですね」
「ああ、蝉ファイナル」
「逆に不二子さんがお強いのが意外でしたよ」
蝉ふぁいなる多発地帯に面しても臆せずいたと兵助から聞いた。
思い返せばこの人は農に関する学びを得ていた。イナゴの佃煮も顔色一つ変えずに食していたと土井先生から聞いたこともある。時代の背景やしきたりは異なれど、強みは十二分に獲得していると思う。
これを聞くと事切れた蝉が苦手など尚の事口にしにくいもの。
「蝉の話はさておき、猫はこの時代では穀物を食い荒らす鼠を捕るので放し飼いにされていることが多いです」
「へぇ〜。じゃあ、その子も立派なネズミ捕りになってるのかなぁ」
「長屋周りで穀物の鼠被害は減ったという話は耳にしましたね」
確かにあれ以降、井戸端会議で聞いた話では鼠が減ったと聞いた。それは今もだ。恐らくあの子が活躍しているのだろう。
「まあ、ただ一つ問題が」
「どうしたの池田くん」
「偶になんですけど、家の前に鼠の死骸が置かれていることが」
「猫の恩返し」
「恩のつもりなんだろうな」
久々知夫妻がうんうんと頷いた。
鼠はまだいい。夏場はひっくり返った蝉が置かれていることがまあ、ある。朝一番に見かけた時は思わず身構えてしまうんだよ。
「私もその仔猫見たかったなぁ。三毛猫ちゃん」
「鼻が薄い桜色で、肉球も同じ色でしたよ」
「ああーそれ聞くと益々見たかったぁ。写真か動画があれば良かったのに」
「絵よりも鮮明に残せる方法でしたっけ」
「絵はそこまで得意ではないので……お見せできなくて残念です」
物や人を観察する眼は鍛えていても、それを絵筆に走らせ紙に残すのとはまた分野が違う。
「その話って、まだ二人が祝言上げてそんなに経ってない頃だろ?」
「そうですけど」
不意に兵助が話に割り込んできた。
兵助の言う通り、この仔猫話があったのは長屋を借りて三郎次と一緒に暮らすようになり、そこまで月日は経っていない頃のもの。
それがどうしたのかと三郎次が小首を傾げる。
「いや、先輩にそこまで懐いてた仔猫に三郎次は焼いてたんじゃないのかなぁと思って」
「何言ってるんですか久々知先輩。猫に焼いてどうするんですか」
「俺ならちょっと焼きそうだなって」
「お前のバヤイはちょっとどこじゃないだろ。全方位型ヤキモチ焼きめ」
人だけに非ず、動物にまで焼く男にはこの言葉が似つかわしい。そのうち植物にまで焼きそうだ。
見ろ、不二子さんか若干引いてるじゃないか。まあ、この人もヤキモチは普通に焼くらしいから似たもの同士か。
からからと特段気に留めた様子もない兵助が話を先へと続けた。
「それで、先輩って三郎次と一緒になる前は長屋とか借りてなかったんですよね」
「ああ。よく知っているな」
「そうなの? 拠点無い方が動きやすいとかいう理由で?」
「いえ、特にそういった理由では」
私はちらと三郎次の方を窺った。この理由を三郎次は知っている。何故なら同じ事を訊かれたからだ。
その時もこんな風に気恥ずかしい思いをした。
私の伴侶は庇い立てする様子もなく「素直に話したらどうですか」という意思すら伝わってきた。
「……帰る家があったとしても、帰った時に誰もいないのは、寂しいので」
兵助の豆腐のような目が丸くなる。不二子さんはというと、少しばかり眉を寄せていた。
「先輩、忍たま長屋は一人部屋でしたよね」
「学園に居た時は見知った相手が隣部屋にいた。それとはまた違う感覚なんだよ。……誰もいないとわかっている場所に帰るのは心が沈む。ならば帰る家など持たない方が良い」
これを話した時には四年もそうしていたのかと驚かれたものだ。元より忍者は長くその地に留まることはないものだと思っている節がある故、苦ではなかった。
三郎次が私の手を取っていなければ、長屋に住まいを構えるなどなかったかもしれない。
「誰かと共に住むならば、帰りを待ってさえいれば何れ帰ってくる。心持ちも変わるというものだよ。だから三郎次の帰りを待つのも寂しくはない」
「……先輩」
「どうした兵助」
「先輩の寂しさの捉え方が極端すぎます」
「……そう、か?」
「池田くん。何が何でも霧華さんの所に帰ってあげてね」
「何があろうと絶対に帰りますよ。何年も前にそう決めたんで」
隣から向けられた、揺るぎがない視線と込められた決意。
――咲之助が、戻って来ない。
――俺は、必ず帰って来る。貴女の居る所へ。
雑踏の中で聞こえた、時を跨いだ言の葉。
嗚呼、信じているよ。
「私も必ず帰るよ。三郎次の所へ」
◇
「仔猫、名前つけなかったの?」
「つける前に姿を晦ましたので。まあ、もう少しいたならサブロウジと付けようかと思っていました」
「なんで俺の名前」
「後ろをついて歩く様が似ていたからな」