第二部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
追録 大切な場所
ぎぎぎっと引きずる様な重い音を立て、焔硝蔵の扉が閉められた。
火薬委員会委員長は扉に錠前をしっかりと掛け、くるりと振り返る。
「よし、本日及び今年の火薬委員会の活動はこれにて終了! 寒い中お疲れ様」
「お疲れさまでしたー!」
暦では大寒を迎え、冬の寒さが最も厳しい時期となった。
焔硝蔵は石造りであるゆえ耐火性に富み、外気の影響を受けにくい。一年を通じて温度と湿度の変化が少ないとはいえ、真冬に外で運動量の少ない活動をすると身体が冷える。
火薬委員は各々半纏を羽織るも、指先はどうしてもかじかんでしまう。伊助と石人は両手に息を吹きかけ、擦り合わせていた。白く曇った吐息がふわりと消える。
「今年もみんなよく頑張ったから、ご褒美に美味しい甘酒と」
四人の顔がパッと輝いた。
「とっても美味しい田楽豆腐を用意してあるぞ!」
そして落胆した。
四人は肩をがくりと落とす。
絶望に程近いといえば大袈裟かもしれないが、そのぐらいうんざりとした表情である。
これには甘酒と豆腐で歓喜の差が激しすぎると兵助が声を張り上げた。
「田楽豆腐は美味しいじゃないか! なんでそんなに落ち込むんだよ」
「そりゃ田楽豆腐は美味しいですけど」
「またお豆腐かぁって」
三郎次と伊助が息を合わせて「豆腐は懲り懲り」といった風に肩を竦め、笑った。
火薬委員の面々は心底豆腐が嫌いというわけではないのだ。
委員長の手作り豆腐で振る舞われた豆腐料理は美味しい。長年豆腐に愛情をかけ、正に真摯に向き合ってきた賜物だ。
偶に食べるのであれば御馳走の域。しかしそれが毎日、毎食、おかわりが付くまで薦められるとなれば。一転して豆腐地獄となる。
兵助と同学年――特にい組の学友――は「豆腐」と兵助の口唇が紡いだだけで表情を強張らせ、瞬く間に姿を眩ませる。それが如実に物語っていた。
まさか後輩にまで「豆腐地獄はもう嫌だ」と敬遠されてしまうのでは。
そんなことになっては二度とお豆腐料理を食べてくれない。だが、美味しいお豆腐は勧めたい。兵助の中で葛藤する二つの心。さながら白い絹豆腐と黒い胡麻豆腐である。
しかし、今日は心強い味方が兵助についていた。
腕を身体の前に持っていき、拳を握りしめる。
「みんな驚くなよ。今日はなんとそれだけじゃなく強力な助人……じゃなくて、お客さんを呼んでいるんだ」
「お客様、ですか?」
首を傾げた石人は伊助と顔を互いに見合わせた。
暮れが近づくに連れて学園関係者宛てに一年の御挨拶に伺う来客は増えていたが、生徒である自分たちの元に一体誰が来るのか。
二人は三郎次とタカ丸の方を振り返るが、彼らもまた知らないと首を横へ振った。
「よーし。それじゃあみんな、六年長屋へ行くぞ〜!」
事情を呑み込めていないまま、火薬委員の面々は委員長の後をぞろぞろとついていく。
目的地に近づくにつれ良い匂いが彼らの鼻を掠めた。花の様に甘く深い香りと醤油が焦げた香ばしい匂いだ。
六年長屋の台所で火を焚く人物がいた。空腹を刺激する匂いはこの台所から漂っている。
その後ろ姿に見覚えがあった伊助は「あっ!」と声を上げ、小走りに駆け寄った。はじけるような笑顔を浮かべながら。
「葉月先輩! いらしてたんですね!」
「ああ、伊助。みんなも委員会活動お疲れ様。寒かっただろう。温かい甘酒と田楽豆腐を用意してあるから食べるといい」
台所の外に設置された長火鉢。赤々と燃える炭の周りには田楽豆腐が幾つも刺さっていた。香ばしい匂いの正体はこれだ。
「お客様とは葉月先輩のことでしたか。お元気そうで何よりです」
「石人も元気そうだな。田楽豆腐は熱いから気をつけるんだぞ。甘酒も今注いでくるから少し待っててくれ」
「先輩、俺も手伝います」
「助かるよ兵助。それにしても、随分と機嫌が良いな」
「みんなが田楽豆腐を美味しく食べてくれそうだからですよ。……でも、ちょっと悔しいかも」
豆腐料理を笑顔で食べてくれるのはとても嬉しいのだが、自分が勧めた時は嫌そうな顔をされる。それが元委員長の紅蓮に勧められると、嫌な顔ひとつせずむしろ喜んで田楽豆腐を手に取っていた。
「物は同じなのになぁ」と静かに落胆する兵助であった。まあ、食べてもらえればとりあえず良いことにした。
「久々知先輩お手製のお豆腐、やはりとても美味しいですね」
「ああ。久々知先輩が作った田楽豆腐は文句無しだし、それを葉月先輩が勧めてくださったから最高に美味しいよな。押し売りじゃない所が良い」
「……物凄く複雑な気分だぁ」
「自分の好きな物を人におススメする時って限度があるよね」
「タカ丸さんの笑顔が余計に俺の心を傷つけていく」
言葉の矢がぐさりと兵助の背中に刺さり、見事に貫通した。
とぼとぼ、おぼつかない足取りで全員に甘酒を渡し、最後の湯呑みを紅蓮に手渡す。触れた紅蓮の指先は冷えていた。火鉢が側にあるとはいえ、寒空の中で準備を整え、自分たちを待っていたのかという申し訳なさ。「葉月先輩、有難うございます」と兵助は感謝を添えた。
「先輩、今日はどうしてこちらに?」
「土井先生に用事があってな。放課後に火薬委員会の活動があるとも聞いていたから、終わった後にここで落ち合うと兵助と決めていたんだ」
「それなら委員会の活動中に来てくだされば良かったのに。先輩は元委員長なんだし」
「その方が楽しく委員会活動ができた」と伊助が不平に近い言葉を口にする。
伊助の申し出は大変嬉しく、紅蓮の頬が緩みそうになるほどであった。しかし、後輩に懇願されてもそれだけは譲れないというもの。
苦悶に満ちた表情を返すことしかできずにいた。
「そうもいかないんだよ、伊助。私は卒業生と言えど、部外者だ。学園に限らず焔硝蔵は要となる場。見知った者だとしても不用意に近づかせない方が良い。いいな……って、なんだタカ丸その顔は」
しょんぼり。その擬音が似つかわしい表情を見せたタカ丸。さながら雨に濡れた子犬のようであった。
「だって、紅蓮くんが部外者だなんて余所余所しいこと言うから」
「医務室へは頻繁に立ち寄られてるじゃないですか! あと三郎次先輩の所にも!」
「三郎次には稽古をつけているからで、医務室は……まあ、伊作がいるから」
「だったら僕たちの所に来ても!」
「いいよね!」
これは不公平だと不満の声を上げる伊助とタカ丸。
子ども染みたやり取りを静観する三郎次は呆れがちな吐息を零した。
石人は甘酒の温かさにほっとした微笑みを浮かべている。
「二人とも落ち着かないか。先輩の言う通り、学園関係者が持つ情報を敵に悟られては危険なんだよ」
「火薬は戦の要ですからね。葉月先輩は僕たちに危険や迷惑が及ばないようにご配慮されているんだ。あんまりワガママ言うなよ伊助」
名指しで指摘されたことが気に入らなかったのか、はたまたそれが一つ上の学年である先輩に言われたからか。学年が近ければどうしても反発しやすいというもの。
伊助はムッと口を尖らせ、一つ上の先輩を睨みつけた。
「三郎次先輩はいいですよね。隔週で先輩とお会いしてるんですから」
「遊びで会ってるわけじゃないんだぞ」
「会ってるには会ってるじゃないですか!」
「なんだよ伊助その言い方は。先輩に向かって失礼じゃないのか!」
「一つ違いなのに先輩風吹かさないでくださいよ!」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた二人を紅蓮は黙って眺めていた。湯呑みで暖を取りながら。
いつもならば口喧嘩が激化する前にやんわりと止めに入るのだが、今日は傍観の態勢だ。それを不思議に思う兵助が少し不安そうに訊ねる。
「あの、葉月先輩。止めなくて良いんですか」
「このやり取りも懐かしいと思ってな」
委員会活動の場に限らず、一年生と二年生は顔を合わせれば口喧嘩が絶えない。その場面に居合わせればそれとなく両者を諭してきたのだが。
今はこの喧嘩すらも懐かしいと紅蓮は微笑んでさえいる。
「懐かしいってそんな悠長な」
「それに喧嘩を止めるのは兵助の役目だぞ」
現火薬委員会を束ねるのは六年い組の久々知兵助である。
紅蓮は「私に止める権利はない」とあっけらかんとしていた。
「はっ……こら、お前たち! せっかく先輩が来てくださったのに喧嘩するんじゃない!」
「そうだよ。二人とも落ち着いて」
「だって!」
「伊助が!」
両者共に譲ろうとしない。それどころか、上級生相手をキッと睨みつける。
そのカワイイ後輩に睨まれたタカ丸。彼は臆することなく柔和な笑みを浮かべた。
「つまり、定期的に紅蓮くんが来てくれたら解決だよね」
そう言って紅蓮の方にも笑顔を向ける。
思わぬ矛先を向けられた紅蓮は「そう来たか」と呆気に取られた。
「伊助くんの言う通り、偶に私たちともお喋りをしてくださればとても嬉しいです」
同じく二人の口喧嘩を静観していた石人が紅蓮の顔を見ながら微笑む。
こうなってしまえば最早導かれる答えはたった一つ。
「わかった。なるべく顔を出すようにするよ」
「やったー!」
「先輩、さっきと言ってることが……相変わらず後輩に甘いですね」
「息抜きも必要だ。外の世界に出たなら尚更、な」
「それに」と紅蓮は後輩たちの顔を見渡してこうも言った。
「こうしていると、自分の居場所は此処だと思えるんだ」
◇
日は暮れ始めていた。
太陽はすっかり山の向こうに姿を隠し、空は薄墨みを垂らしたような色に染まる。
間もなく夜の帷も下りる。冬の夕闇は兎角歩みが速いのだ。
委員会の後輩たちとは話題が尽きることなく、辺りが薄暗くなるのにも気づかずにいた。
「先輩は年越しどうされていたんですか」
「昨年までは伊作か留三郎の所にお邪魔していた」
何せ実家からは学園を卒業するまでは家の敷居を跨ぐなと言われていたのだ。
在学中、休みの間は学園に残るか、友人の実家に身を寄せるかのどちらかであった。春、夏休みは残ることも多かったが、年越しを控えた冬休みだけは友人の家に厄介となっていた。
「独りで年を越すのも寂しいからな。今年は伊作の所に集まることになった。留三郎も暇があれば顔を見せてくれるそうだ」
「ご友人方と過ごせるなら、良かった」
「三郎次は実家で過ごすのだろう? 道中気をつけて、ご家族とゆっくり過ごすと良い」
「はい」
見送りにと長屋から正門前までとりとめのないお喋りをしながら歩いてきた。
正門近くに事務員の小松田秀作の姿は見当たらない。この時間はもしかすると風呂の薪をくべているのかもしれなかった。
「小松田さんがいませんね」
「ああ、その点なら心配要らない。入門表を書いた時に出門表にもサインをしておいた」
「それなら安心ですね。書き忘れると地の果てまで小松田さんが追いかけてきますから」
「違いない」
ふっと軽く笑ってみせた後、名残惜しそうに正門前で振り返った。
次に学園へ訪れるのは年が明け、新学期が始まってからになる。僅かばかり空く期間。心寂しい気持ちはあれど致し方ない。
「見送り有難う」
「先輩。これ、差し上げます」
三郎次の手に乗る小さな円状の光沢がある板――直径二寸ばかりで、漆黒の地塗りに夜光貝が散りばめられたものだ。鳥の絵と桜の花弁が描かれている。それを裏に返せば銀色の鏡が嵌め込まれていた。
虹色に輝く螺鈿 細工の手鏡はなんとも美しく、人の目を惹きつける。
紅蓮は差出されたこれと、三郎次の顔を交互に見た。
「前に委員会活動の時に実家の漁師仲間が作ってるって言ってたやつです」
「……ああ、漁の無い時期にと考えていたという」
昨年の秋を迎える前、焔硝蔵の掃除中に紅蓮は贈り物の意味合いを後輩に伝えた。
簪、櫛、紅、着物。そして鏡。女子に贈る際は十分に気をつけるようにと話したのだ。
その時に三郎次が「実家の漁師仲間が螺鈿細工の手鏡を作り始めた」という話をしたのを紅蓮も良く憶えていた。
「ようやく売り物に出来そうな形に仕上がってきたんです。これはその第一号で」
「こんな高価なものを私が貰い受けても良いのか」
螺鈿細工とは夜光貝の小さな欠片を埋め込んで模様を施すものだ。手間暇を掛けて仕上げられた品には高値がつく。それを無償で受け取るには躊躇いが生じるというもの。
その気持ちを察したのか、三郎次は頬を掻きながら口の片端を引き攣らせ、笑う。
「稽古料には足りないと思いますけど」
「そんなこと気にせずとも良いのに。私がそうしたいからやっていることだ」
「じゃあ、僕もそれを差し上げたいからそうします」
「これでお相子ですよね」ニッと笑い返された後輩に返す言葉が見つからず、口が達者なものだと憎めずにもいた。
「鏡は魔除けや御守りの意味合いがありますし。先輩は兎に角怪我が多いので」
「……全く。よく見ているな。これでも気を付けてはいるんだ」
「今に始まったことじゃないと思います」
「三郎次。お前は保健委員の方が向いているんじゃないのか? 怪我を見抜く目はまるで伊作と似ている」
紅蓮が冗談半分にそう零す。すると三郎次は目をまん丸にしたかと思いきや、顔を紅潮させた。
「冗談だよ。三郎次には火薬委員会に出来れば居てもらいたい。心遣い感謝するよ。これも有り難く頂戴する」
綺羅びやかな光沢を放つ装飾を今一度眺め、頬を緩めた。優しい眼差しを携えながら。
「大切にする」
ぎぎぎっと引きずる様な重い音を立て、焔硝蔵の扉が閉められた。
火薬委員会委員長は扉に錠前をしっかりと掛け、くるりと振り返る。
「よし、本日及び今年の火薬委員会の活動はこれにて終了! 寒い中お疲れ様」
「お疲れさまでしたー!」
暦では大寒を迎え、冬の寒さが最も厳しい時期となった。
焔硝蔵は石造りであるゆえ耐火性に富み、外気の影響を受けにくい。一年を通じて温度と湿度の変化が少ないとはいえ、真冬に外で運動量の少ない活動をすると身体が冷える。
火薬委員は各々半纏を羽織るも、指先はどうしてもかじかんでしまう。伊助と石人は両手に息を吹きかけ、擦り合わせていた。白く曇った吐息がふわりと消える。
「今年もみんなよく頑張ったから、ご褒美に美味しい甘酒と」
四人の顔がパッと輝いた。
「とっても美味しい田楽豆腐を用意してあるぞ!」
そして落胆した。
四人は肩をがくりと落とす。
絶望に程近いといえば大袈裟かもしれないが、そのぐらいうんざりとした表情である。
これには甘酒と豆腐で歓喜の差が激しすぎると兵助が声を張り上げた。
「田楽豆腐は美味しいじゃないか! なんでそんなに落ち込むんだよ」
「そりゃ田楽豆腐は美味しいですけど」
「またお豆腐かぁって」
三郎次と伊助が息を合わせて「豆腐は懲り懲り」といった風に肩を竦め、笑った。
火薬委員の面々は心底豆腐が嫌いというわけではないのだ。
委員長の手作り豆腐で振る舞われた豆腐料理は美味しい。長年豆腐に愛情をかけ、正に真摯に向き合ってきた賜物だ。
偶に食べるのであれば御馳走の域。しかしそれが毎日、毎食、おかわりが付くまで薦められるとなれば。一転して豆腐地獄となる。
兵助と同学年――特にい組の学友――は「豆腐」と兵助の口唇が紡いだだけで表情を強張らせ、瞬く間に姿を眩ませる。それが如実に物語っていた。
まさか後輩にまで「豆腐地獄はもう嫌だ」と敬遠されてしまうのでは。
そんなことになっては二度とお豆腐料理を食べてくれない。だが、美味しいお豆腐は勧めたい。兵助の中で葛藤する二つの心。さながら白い絹豆腐と黒い胡麻豆腐である。
しかし、今日は心強い味方が兵助についていた。
腕を身体の前に持っていき、拳を握りしめる。
「みんな驚くなよ。今日はなんとそれだけじゃなく強力な助人……じゃなくて、お客さんを呼んでいるんだ」
「お客様、ですか?」
首を傾げた石人は伊助と顔を互いに見合わせた。
暮れが近づくに連れて学園関係者宛てに一年の御挨拶に伺う来客は増えていたが、生徒である自分たちの元に一体誰が来るのか。
二人は三郎次とタカ丸の方を振り返るが、彼らもまた知らないと首を横へ振った。
「よーし。それじゃあみんな、六年長屋へ行くぞ〜!」
事情を呑み込めていないまま、火薬委員の面々は委員長の後をぞろぞろとついていく。
目的地に近づくにつれ良い匂いが彼らの鼻を掠めた。花の様に甘く深い香りと醤油が焦げた香ばしい匂いだ。
六年長屋の台所で火を焚く人物がいた。空腹を刺激する匂いはこの台所から漂っている。
その後ろ姿に見覚えがあった伊助は「あっ!」と声を上げ、小走りに駆け寄った。はじけるような笑顔を浮かべながら。
「葉月先輩! いらしてたんですね!」
「ああ、伊助。みんなも委員会活動お疲れ様。寒かっただろう。温かい甘酒と田楽豆腐を用意してあるから食べるといい」
台所の外に設置された長火鉢。赤々と燃える炭の周りには田楽豆腐が幾つも刺さっていた。香ばしい匂いの正体はこれだ。
「お客様とは葉月先輩のことでしたか。お元気そうで何よりです」
「石人も元気そうだな。田楽豆腐は熱いから気をつけるんだぞ。甘酒も今注いでくるから少し待っててくれ」
「先輩、俺も手伝います」
「助かるよ兵助。それにしても、随分と機嫌が良いな」
「みんなが田楽豆腐を美味しく食べてくれそうだからですよ。……でも、ちょっと悔しいかも」
豆腐料理を笑顔で食べてくれるのはとても嬉しいのだが、自分が勧めた時は嫌そうな顔をされる。それが元委員長の紅蓮に勧められると、嫌な顔ひとつせずむしろ喜んで田楽豆腐を手に取っていた。
「物は同じなのになぁ」と静かに落胆する兵助であった。まあ、食べてもらえればとりあえず良いことにした。
「久々知先輩お手製のお豆腐、やはりとても美味しいですね」
「ああ。久々知先輩が作った田楽豆腐は文句無しだし、それを葉月先輩が勧めてくださったから最高に美味しいよな。押し売りじゃない所が良い」
「……物凄く複雑な気分だぁ」
「自分の好きな物を人におススメする時って限度があるよね」
「タカ丸さんの笑顔が余計に俺の心を傷つけていく」
言葉の矢がぐさりと兵助の背中に刺さり、見事に貫通した。
とぼとぼ、おぼつかない足取りで全員に甘酒を渡し、最後の湯呑みを紅蓮に手渡す。触れた紅蓮の指先は冷えていた。火鉢が側にあるとはいえ、寒空の中で準備を整え、自分たちを待っていたのかという申し訳なさ。「葉月先輩、有難うございます」と兵助は感謝を添えた。
「先輩、今日はどうしてこちらに?」
「土井先生に用事があってな。放課後に火薬委員会の活動があるとも聞いていたから、終わった後にここで落ち合うと兵助と決めていたんだ」
「それなら委員会の活動中に来てくだされば良かったのに。先輩は元委員長なんだし」
「その方が楽しく委員会活動ができた」と伊助が不平に近い言葉を口にする。
伊助の申し出は大変嬉しく、紅蓮の頬が緩みそうになるほどであった。しかし、後輩に懇願されてもそれだけは譲れないというもの。
苦悶に満ちた表情を返すことしかできずにいた。
「そうもいかないんだよ、伊助。私は卒業生と言えど、部外者だ。学園に限らず焔硝蔵は要となる場。見知った者だとしても不用意に近づかせない方が良い。いいな……って、なんだタカ丸その顔は」
しょんぼり。その擬音が似つかわしい表情を見せたタカ丸。さながら雨に濡れた子犬のようであった。
「だって、紅蓮くんが部外者だなんて余所余所しいこと言うから」
「医務室へは頻繁に立ち寄られてるじゃないですか! あと三郎次先輩の所にも!」
「三郎次には稽古をつけているからで、医務室は……まあ、伊作がいるから」
「だったら僕たちの所に来ても!」
「いいよね!」
これは不公平だと不満の声を上げる伊助とタカ丸。
子ども染みたやり取りを静観する三郎次は呆れがちな吐息を零した。
石人は甘酒の温かさにほっとした微笑みを浮かべている。
「二人とも落ち着かないか。先輩の言う通り、学園関係者が持つ情報を敵に悟られては危険なんだよ」
「火薬は戦の要ですからね。葉月先輩は僕たちに危険や迷惑が及ばないようにご配慮されているんだ。あんまりワガママ言うなよ伊助」
名指しで指摘されたことが気に入らなかったのか、はたまたそれが一つ上の学年である先輩に言われたからか。学年が近ければどうしても反発しやすいというもの。
伊助はムッと口を尖らせ、一つ上の先輩を睨みつけた。
「三郎次先輩はいいですよね。隔週で先輩とお会いしてるんですから」
「遊びで会ってるわけじゃないんだぞ」
「会ってるには会ってるじゃないですか!」
「なんだよ伊助その言い方は。先輩に向かって失礼じゃないのか!」
「一つ違いなのに先輩風吹かさないでくださいよ!」
ぎゃあぎゃあと言い争いを始めた二人を紅蓮は黙って眺めていた。湯呑みで暖を取りながら。
いつもならば口喧嘩が激化する前にやんわりと止めに入るのだが、今日は傍観の態勢だ。それを不思議に思う兵助が少し不安そうに訊ねる。
「あの、葉月先輩。止めなくて良いんですか」
「このやり取りも懐かしいと思ってな」
委員会活動の場に限らず、一年生と二年生は顔を合わせれば口喧嘩が絶えない。その場面に居合わせればそれとなく両者を諭してきたのだが。
今はこの喧嘩すらも懐かしいと紅蓮は微笑んでさえいる。
「懐かしいってそんな悠長な」
「それに喧嘩を止めるのは兵助の役目だぞ」
現火薬委員会を束ねるのは六年い組の久々知兵助である。
紅蓮は「私に止める権利はない」とあっけらかんとしていた。
「はっ……こら、お前たち! せっかく先輩が来てくださったのに喧嘩するんじゃない!」
「そうだよ。二人とも落ち着いて」
「だって!」
「伊助が!」
両者共に譲ろうとしない。それどころか、上級生相手をキッと睨みつける。
そのカワイイ後輩に睨まれたタカ丸。彼は臆することなく柔和な笑みを浮かべた。
「つまり、定期的に紅蓮くんが来てくれたら解決だよね」
そう言って紅蓮の方にも笑顔を向ける。
思わぬ矛先を向けられた紅蓮は「そう来たか」と呆気に取られた。
「伊助くんの言う通り、偶に私たちともお喋りをしてくださればとても嬉しいです」
同じく二人の口喧嘩を静観していた石人が紅蓮の顔を見ながら微笑む。
こうなってしまえば最早導かれる答えはたった一つ。
「わかった。なるべく顔を出すようにするよ」
「やったー!」
「先輩、さっきと言ってることが……相変わらず後輩に甘いですね」
「息抜きも必要だ。外の世界に出たなら尚更、な」
「それに」と紅蓮は後輩たちの顔を見渡してこうも言った。
「こうしていると、自分の居場所は此処だと思えるんだ」
◇
日は暮れ始めていた。
太陽はすっかり山の向こうに姿を隠し、空は薄墨みを垂らしたような色に染まる。
間もなく夜の帷も下りる。冬の夕闇は兎角歩みが速いのだ。
委員会の後輩たちとは話題が尽きることなく、辺りが薄暗くなるのにも気づかずにいた。
「先輩は年越しどうされていたんですか」
「昨年までは伊作か留三郎の所にお邪魔していた」
何せ実家からは学園を卒業するまでは家の敷居を跨ぐなと言われていたのだ。
在学中、休みの間は学園に残るか、友人の実家に身を寄せるかのどちらかであった。春、夏休みは残ることも多かったが、年越しを控えた冬休みだけは友人の家に厄介となっていた。
「独りで年を越すのも寂しいからな。今年は伊作の所に集まることになった。留三郎も暇があれば顔を見せてくれるそうだ」
「ご友人方と過ごせるなら、良かった」
「三郎次は実家で過ごすのだろう? 道中気をつけて、ご家族とゆっくり過ごすと良い」
「はい」
見送りにと長屋から正門前までとりとめのないお喋りをしながら歩いてきた。
正門近くに事務員の小松田秀作の姿は見当たらない。この時間はもしかすると風呂の薪をくべているのかもしれなかった。
「小松田さんがいませんね」
「ああ、その点なら心配要らない。入門表を書いた時に出門表にもサインをしておいた」
「それなら安心ですね。書き忘れると地の果てまで小松田さんが追いかけてきますから」
「違いない」
ふっと軽く笑ってみせた後、名残惜しそうに正門前で振り返った。
次に学園へ訪れるのは年が明け、新学期が始まってからになる。僅かばかり空く期間。心寂しい気持ちはあれど致し方ない。
「見送り有難う」
「先輩。これ、差し上げます」
三郎次の手に乗る小さな円状の光沢がある板――直径二寸ばかりで、漆黒の地塗りに夜光貝が散りばめられたものだ。鳥の絵と桜の花弁が描かれている。それを裏に返せば銀色の鏡が嵌め込まれていた。
虹色に輝く
紅蓮は差出されたこれと、三郎次の顔を交互に見た。
「前に委員会活動の時に実家の漁師仲間が作ってるって言ってたやつです」
「……ああ、漁の無い時期にと考えていたという」
昨年の秋を迎える前、焔硝蔵の掃除中に紅蓮は贈り物の意味合いを後輩に伝えた。
簪、櫛、紅、着物。そして鏡。女子に贈る際は十分に気をつけるようにと話したのだ。
その時に三郎次が「実家の漁師仲間が螺鈿細工の手鏡を作り始めた」という話をしたのを紅蓮も良く憶えていた。
「ようやく売り物に出来そうな形に仕上がってきたんです。これはその第一号で」
「こんな高価なものを私が貰い受けても良いのか」
螺鈿細工とは夜光貝の小さな欠片を埋め込んで模様を施すものだ。手間暇を掛けて仕上げられた品には高値がつく。それを無償で受け取るには躊躇いが生じるというもの。
その気持ちを察したのか、三郎次は頬を掻きながら口の片端を引き攣らせ、笑う。
「稽古料には足りないと思いますけど」
「そんなこと気にせずとも良いのに。私がそうしたいからやっていることだ」
「じゃあ、僕もそれを差し上げたいからそうします」
「これでお相子ですよね」ニッと笑い返された後輩に返す言葉が見つからず、口が達者なものだと憎めずにもいた。
「鏡は魔除けや御守りの意味合いがありますし。先輩は兎に角怪我が多いので」
「……全く。よく見ているな。これでも気を付けてはいるんだ」
「今に始まったことじゃないと思います」
「三郎次。お前は保健委員の方が向いているんじゃないのか? 怪我を見抜く目はまるで伊作と似ている」
紅蓮が冗談半分にそう零す。すると三郎次は目をまん丸にしたかと思いきや、顔を紅潮させた。
「冗談だよ。三郎次には火薬委員会に出来れば居てもらいたい。心遣い感謝するよ。これも有り難く頂戴する」
綺羅びやかな光沢を放つ装飾を今一度眺め、頬を緩めた。優しい眼差しを携えながら。
「大切にする」