軽率なコラボシリーズ
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初恋はあなた
特別講師の手続き書類を吉野先生に提出するべく私たちは母校の学園に訪れた。
正門で小松田さんに尋ねると「吉野先生なら事務室にいらっしゃいますよお」と教えてくださったので、先に用事を済ませるべく三郎次と共に事務室へ。
軽く木戸を叩いてから入室の許可を乞う。
「失礼します」
「はーい。どうぞ……わーっ! やっぱりちょっと待った!」
一度許可を得た後ではそうもいかず。
事務室の中から聞こえた不二子さんの慌ただしい声。その時既に私は戸を開けてしまっていた。
戸を開けた直後、真後ろから背を押されるような強い風が吹いた。
つむじ風の如くひゅーっと吹き込んだその風は室内を瞬く間に駆け巡り、文机に置かれていた書類を巻き上げる。
ひらりふわりと舞い上がった無数の書類。それらは室内に散乱するだけには留まらず、格子窓をするりと抜けて外へ出ていってしまった。
「うわーっ! 池田くん取ってきて!」
「わかりました」
「外へ逃げたのは三枚だ」
「了」
格子窓から逃げ出したのは三枚。私は標的を追うよう直ぐさま指示を出す。忍務さながらの速さで動いた三郎次に外は任せ、私は自由奔放に散らばった書類を拾い集めていく。
突風は先の一手で終わりを告げたようで、そよ風すら入ってこない。
床に落ちた書類をせっせと拾う不二子さんに頃合いを見て私は声を掛けた。
「戸を開けた瞬間に風が舞い込むなど不運でしたね」
「全くだよ。書類まとめてたんだけど、なんか外で風が唸ってるなぁと思ったらこれ」
「確かに今日は風が強い。……こういった日は色々物が飛んでくるので気をつけたいところです」
暴風が吹き荒れた後は各所に影響が出やすい。
学園内で育ている薬草の生育不良、飼育小屋の破損。そして焔硝蔵の屋根に空いた穴。私は在学中に起きた雨漏りのことを思い返し、気を重くした。
「風が強いと積んである薪も転がっていくから集めるの大変なんだよね」
「……ああ、おばちゃんもそう言っていたことが。ところで、この書類は各組に配るものですか」
「うん。……ああ~やっぱりバラバラになっちゃってる」
兎に角これ以上風に弄ばれないようかき集めた書類。粗方揃えたところでざっと目を通せば、綴られた内容がそれぞれ異なっていた。
次回の課題は河原で実施する。焙烙火矢の調合の仕方。美味しい団子屋特選。手裏剣の手入れ方法など。一つ授業に関係がなさそうなものが混ざっている気もした。
「各学年いろは組それぞれ配る内容が違うんだ。……これは最初から仕分けし直さないとダメだね」
不二子さんは束にした書類を両手で掴んだままがくりと肩を落とし、項垂れた。これは気の毒すぎる。
そこへ三郎次の足音が近づいてきた。逃げた書類はそう遠くまで飛んでいかなかったようだ。
「書類、回収完了です。……久々知さんが凹んでいらっしゃる」
「助かったよ三郎次。実は斯く斯く然々で」
私が経緯を簡潔に伝えるや否や、三郎次は渋い表情を浮かべた。
確かにこの状況は過去の“ある出来事”を彷彿とさせる。
「片付けるの手伝いましょうよ」
「私もそう思っていたところだ。また別の人間の手に渡って騒動が起きても困る」
「それはもしや」
「ご想像の通りですよ」
小松田さんがやらかしたあの事件をこの場にいる者は思い出していた。遠い昔の話の様に思えて、つい昨日の出来事にも思える。全学年宿題入れ替わり事件だ。
「あれ、下級生間同士で入れ違ったのもあったらしいけど。二人はどうだったの?」
「私は二年の宿題が当たりました。町を訪れる浪人調査でしたね。まあ、改めて気づかされたこともあったので、それはそれで」
難易度の設定がおかしいと思ったが、与えられた課題はこなす。長次は朝顔の観察日記を真面目にやっていた。
「池田くんは?」
「僕は確か五年生のが当たりました」
「……二年生が、五年生の宿題を?」
難易度に差が有りすぎるのでは。そう言いたそうな不二子さんは真顔で三郎次に問い返した。
それに対し、三郎次はけろりとした顔で答える。
「完遂しましたよ」
「すごっ!」
「優秀でしょう、うちの三郎次は。実に誇らしいものです」
「親目線其の参。そして満更でもなさそうな池田くん」
「褒められて嫌な気はしませんからね」
上級生、特に五年と六年の課題に面した下級生たちは遂行が厳しかったと聞く。その中でも三郎次は見事にやり遂げた。先輩冥利に尽きるというもの。
これを当時伊作と留三郎に話をしたら「自慢か」と煙たがられてしまった。
「霧華さん将来親バカになりそう」
「既に後輩バカですよ」
「否定はしませんが、叱る時は叱りますよ。時には厳しく指導することも大切ですから」
「存じております」
「池田くんの目がどこか遠い」
◇
「そうだ。二人の初恋っていつ?」
集めた書類をそれぞれ仕分けする作業が続く中、他愛のない話を交えていた。
その折りにふと不二子さんに投げかけられた質問。突拍子もないそれに私たちは一瞬手を止めた。
「急ですね随分と」
「いや、実はこの間兵助くんにしつこく聞かれてさ」
大変だったんだよ。そう物語る御内儀は随所で溜息を吐いた。初恋は実らないだの、また離縁がどうのだと騒ぎ立てたらしい。兵助らしくて最早何も言うことがない。
「それで、ちょっと日が空いてからまた聞かれたの。その時はなんか嬉しそうにしてた」
「……それ、なんかあれが関係ありそうな気もしますね」
つい先日、不二子さん失踪未遂事件が勃発した。
結末は事無きを得たが、それを経た上で先の話らしい。三郎次の推理通り、何か関係していそうだ。
「あれって?」
「いえ、こちらの話です。不二子さんの初恋の殿方はいつでどんな御仁だったんですか」
「私は五、六才の時かな。年上のお兄さんで、十才以上は離れてたかも」
「そうでしたか。兵助が聞いたらそれはもうボロ泣きしそうですね」
「うん。だからその時ボロ泣きしてたよ」
「したのか。……予想通りというか、久々知先輩らしい」
あいつのことだ。流した涙で池どころか海ができそうなぐらい泣いたことだろう。
「でもね」と不二子さんが続けた。
「そのお兄さん、なんとなく兵助くんに似てたかも?」
疑問形で返された言葉に私は息を呑んだ。
やはりあの出来事は関連しているのでは。不二子さん幼子事件が発生する前にその初恋話があったという。あの時、童の姿でいた不二子さんは兵助に懐いていたようにも思えた。
兵助も懐いてくれたことを至極嬉しそうにしていた。
偶然の一致か。まあ、この人は時代を超克するようなお人だ。何が起きても今更驚くようなことでもないか。
「霧華さん?」
「いえ、何でもないです。不二子さんは曖昧にしかその事を憶えていらっしゃらないんですね」
私は首を横へ振り、話の流れを元に戻した。
「うん。だって小さい時の記憶って大体ぼんやりしてない? 大きな出来事は流れっぽく憶えてるけど、人の顔なんてそれこそぼやーっとしか思い出せないよ」
その意見には私も頷いた。
幼少時の想い出は年を重ねる毎に塗り替えられていくものだ。良くないものであれば、殊更に。忘れようと墨で黒く塗り潰していく。幾度も、幾度も。
だが、それでもふとした時にその墨が洗い流されてしまう。二度、三度とその姿を現す。
思い出したくないものに蓋をすることは、悪あがきでしかないのかもしれない。
良い想い出は陽に照らされた川面の様にきらきらと輝きを増す。しかし、物語の一場面として残された記憶は時を経て風化するもの。
どちらにせよ、良くも悪くも断片的に頭の片隅に留められることになるのだ。
幼い頃、迷い子となった記憶はこの人にとってどちらだったのか。私たちが推し量るようなことでもないが、御内儀の顔を見る限りでは然程悪い想い出だった様子でもなさそうだ。
「確かに童子の記憶は朧気になりやすい。私も一度会っただけの奴は顔も憶えていませんでしたから。記憶力は昔から良い方だったのですが、それでも」
「え、もしかして初恋の人?」
「完全に忘れ去られてる時点で初恋じゃないのでは」
書類を束ねた三郎次の手つきが些か乱暴に感じられた。
一年生、二年生の生徒に配る書類は纏め終えたようだ。引き続き山積みになった書類に手を伸ばし、内容に目を通して仕分けをしていく。
「それもそうだね。その可哀想な人は特に関係ない感じ?」
「ええ。元許嫁でしたので」
私がそう返すと、奇妙な間が生じた。
動きをぴたりと止めたのは不二子さんのみで、三郎次は黙々と手を動かしている。
「待って。許嫁?! いたの?!」
声が大きい。事務室内どころか、これは外まで響いたな。
この驚き方は三郎次に告げた時とよく似ていた。そこまで驚くことなのだろうかと今でも不思議に思う。
「かなり昔、それこそ私が五つの頃に破談となりましたよ。相手側の家で不祥事がありまして、両家共に納得した上で破談に」
「ええ……いや、でもそうなんだ。池田くんはそれ知っ……らなかったんだね」
今度はバサリと書類の束が事務机に置かれた。
三郎次の顔は子どもの様にむくれており、苛立ちを隠しきれていない。
「好いた人に「元許嫁です」って目の前で紹介された時の俺の気持ちわかります?」
「……前もそんなことを言っていたような気もする」
「大体、霧華さんは隠し事が多すぎるんですよ」
「必要以上に事を知れば危険が伴う。私は大切な人たちを巻き込みたくない」
「昔からそうですよね、貴女は。誰かを守る為には隠し通すことも必要だって」
仕分けた書類を左の山へと置き、そこでようやく三郎次が手を止めた。
「全てを知った上で貴女を守りたいと思う俺は不肖ですか」
私の方に向けた視線は真剣なもの。
いつだったか「好きな人のことは色々知りたいものだよ」と不二子さんが話していたのを思い出した。その不二子さんは我々のやりとりに臆したのか、大人しくしている。
「もう三郎次が知らぬことはないよ。多分」
「多分って」
「いや、忘れてることもあるだろ。ふと思い出した事とか」
「ま、まあまあ落ち着いて。こんな所でケンカはいけないよ」
こんな所でそんな話を振ってきたのがそもそもなのだが。
「で、初恋は?」
言い合いとまではいかない小競り合いに不二子さんが割って入り、そしてまた話を振り出しに戻した。
「……何がなんでも訊きたい様子ですね。これ以上は三郎次が不貞腐れてしまうので控えたいのですが」
「別に不貞腐れてなんかいませんよ」
「言い方がもう拗ねてる。でもほら、さっき池田くんも隠し事は嫌だって言ってたじゃん。今聞いちゃった方がダメージ少ないよ」
多分。と最後に付け加えられた言葉は完全に消え入っており、常人なら聞き逃している。私たちは忍びゆえに、読唇でその言葉を容易く読み解けるもの。
ちらと私は三郎次の方を窺う。確かに、後でとやかく言われるよりは今暴露してしまった方が良さそうだ。
しかし、初恋とは。一体いつの頃を、具体的にどういったものを指すのか。
「……不二子さん。初恋とは一般的にどの年齢でするものですか」
「えっ。五才とか六才くらい、かな。女の子は感情豊かになるの早いし、好きの違いも区別できるようになるから」
五つ、六つの童時代を私は振り返ってみる。
空が明けるより前に目覚めることにも馴れ、自主的に鍛錬もする年になった。
嗚呼、そういえば。どこからか裏庭に忍び込んできた野良猫にこっそりと鰹節を与えていたこともあった。
三つ、四つと朧気な記憶に想いを馳せてみるも、思い当たるものが何一つとしてない。
「ない、ですね。その頃は既に稽古に明け暮れていましたから」
「ご実家スパルタ」
「好きの区別。友人に対してとは異なり、特定の相手に特別な感情を抱いた時のこと。……特別な感情。好きとは異なる」
「なんか哲学っぽくなってきた。ドツボにはまりそうこれ」
不二子さんの仰る通り、考えれば考えるほど深みに嵌まってしまう。
特別な感情を抱いた相手。私は再度三郎次の方をちらりと見た。そこで視線が合う。「何ですか」と少々不満げな様子で訊いてきた。
「……そうなると、私の初恋は三郎次ということになりますね」
「えっ、ほんと? 善法寺くんや食満くんじゃないの?」
「久々知さんって他人の地雷を目の前でぶち抜いていきますよね。自覚ないんでしょうけど。危ないからその癖止めた方がいいですよ」
「えっ、だって誰もが予想することじゃないの?!」
よく言われる話だった。留三郎にも「好きだったんじゃないのか」と冗談半分に問われたこともある。伊作と留三郎は兄の様な存在だったし、咲は親友だ。
冷静に言い聞かせる三郎次は案外平気そうな顔をしているようだが。
「伊作と留三郎は面倒見が良すぎて。口煩い兄みたいなものでしたよ」
「へぇ~そっかぁ。あれ、因みに自分から気づいたの? 池田くんの恋心に」
「久々知さん。この人が自分の色恋に敏いなら俺は四年も気を揉まなかったんですよ」
「……ああ、うん。そうだね」
耳が痛い。
私は聞こえていないフリをして書類を捌き続けた。早く吉野先生がお戻りになることを願う。
しかしその願いは叶うどころか、更なる問題を連れてくることに。
風が格子窓から吹き込んできた。俄、嫌な予感がした。
「失礼します」兵助の声が廊下から聞こえたが、待ったを掛ける暇などなかった。
事務室の木戸が開いた瞬間、風が勢いよく流れ込んでくる。
拾い集め、学年組毎に仕分け揃えた書類が、宙に舞った。
特別講師の手続き書類を吉野先生に提出するべく私たちは母校の学園に訪れた。
正門で小松田さんに尋ねると「吉野先生なら事務室にいらっしゃいますよお」と教えてくださったので、先に用事を済ませるべく三郎次と共に事務室へ。
軽く木戸を叩いてから入室の許可を乞う。
「失礼します」
「はーい。どうぞ……わーっ! やっぱりちょっと待った!」
一度許可を得た後ではそうもいかず。
事務室の中から聞こえた不二子さんの慌ただしい声。その時既に私は戸を開けてしまっていた。
戸を開けた直後、真後ろから背を押されるような強い風が吹いた。
つむじ風の如くひゅーっと吹き込んだその風は室内を瞬く間に駆け巡り、文机に置かれていた書類を巻き上げる。
ひらりふわりと舞い上がった無数の書類。それらは室内に散乱するだけには留まらず、格子窓をするりと抜けて外へ出ていってしまった。
「うわーっ! 池田くん取ってきて!」
「わかりました」
「外へ逃げたのは三枚だ」
「了」
格子窓から逃げ出したのは三枚。私は標的を追うよう直ぐさま指示を出す。忍務さながらの速さで動いた三郎次に外は任せ、私は自由奔放に散らばった書類を拾い集めていく。
突風は先の一手で終わりを告げたようで、そよ風すら入ってこない。
床に落ちた書類をせっせと拾う不二子さんに頃合いを見て私は声を掛けた。
「戸を開けた瞬間に風が舞い込むなど不運でしたね」
「全くだよ。書類まとめてたんだけど、なんか外で風が唸ってるなぁと思ったらこれ」
「確かに今日は風が強い。……こういった日は色々物が飛んでくるので気をつけたいところです」
暴風が吹き荒れた後は各所に影響が出やすい。
学園内で育ている薬草の生育不良、飼育小屋の破損。そして焔硝蔵の屋根に空いた穴。私は在学中に起きた雨漏りのことを思い返し、気を重くした。
「風が強いと積んである薪も転がっていくから集めるの大変なんだよね」
「……ああ、おばちゃんもそう言っていたことが。ところで、この書類は各組に配るものですか」
「うん。……ああ~やっぱりバラバラになっちゃってる」
兎に角これ以上風に弄ばれないようかき集めた書類。粗方揃えたところでざっと目を通せば、綴られた内容がそれぞれ異なっていた。
次回の課題は河原で実施する。焙烙火矢の調合の仕方。美味しい団子屋特選。手裏剣の手入れ方法など。一つ授業に関係がなさそうなものが混ざっている気もした。
「各学年いろは組それぞれ配る内容が違うんだ。……これは最初から仕分けし直さないとダメだね」
不二子さんは束にした書類を両手で掴んだままがくりと肩を落とし、項垂れた。これは気の毒すぎる。
そこへ三郎次の足音が近づいてきた。逃げた書類はそう遠くまで飛んでいかなかったようだ。
「書類、回収完了です。……久々知さんが凹んでいらっしゃる」
「助かったよ三郎次。実は斯く斯く然々で」
私が経緯を簡潔に伝えるや否や、三郎次は渋い表情を浮かべた。
確かにこの状況は過去の“ある出来事”を彷彿とさせる。
「片付けるの手伝いましょうよ」
「私もそう思っていたところだ。また別の人間の手に渡って騒動が起きても困る」
「それはもしや」
「ご想像の通りですよ」
小松田さんがやらかしたあの事件をこの場にいる者は思い出していた。遠い昔の話の様に思えて、つい昨日の出来事にも思える。全学年宿題入れ替わり事件だ。
「あれ、下級生間同士で入れ違ったのもあったらしいけど。二人はどうだったの?」
「私は二年の宿題が当たりました。町を訪れる浪人調査でしたね。まあ、改めて気づかされたこともあったので、それはそれで」
難易度の設定がおかしいと思ったが、与えられた課題はこなす。長次は朝顔の観察日記を真面目にやっていた。
「池田くんは?」
「僕は確か五年生のが当たりました」
「……二年生が、五年生の宿題を?」
難易度に差が有りすぎるのでは。そう言いたそうな不二子さんは真顔で三郎次に問い返した。
それに対し、三郎次はけろりとした顔で答える。
「完遂しましたよ」
「すごっ!」
「優秀でしょう、うちの三郎次は。実に誇らしいものです」
「親目線其の参。そして満更でもなさそうな池田くん」
「褒められて嫌な気はしませんからね」
上級生、特に五年と六年の課題に面した下級生たちは遂行が厳しかったと聞く。その中でも三郎次は見事にやり遂げた。先輩冥利に尽きるというもの。
これを当時伊作と留三郎に話をしたら「自慢か」と煙たがられてしまった。
「霧華さん将来親バカになりそう」
「既に後輩バカですよ」
「否定はしませんが、叱る時は叱りますよ。時には厳しく指導することも大切ですから」
「存じております」
「池田くんの目がどこか遠い」
◇
「そうだ。二人の初恋っていつ?」
集めた書類をそれぞれ仕分けする作業が続く中、他愛のない話を交えていた。
その折りにふと不二子さんに投げかけられた質問。突拍子もないそれに私たちは一瞬手を止めた。
「急ですね随分と」
「いや、実はこの間兵助くんにしつこく聞かれてさ」
大変だったんだよ。そう物語る御内儀は随所で溜息を吐いた。初恋は実らないだの、また離縁がどうのだと騒ぎ立てたらしい。兵助らしくて最早何も言うことがない。
「それで、ちょっと日が空いてからまた聞かれたの。その時はなんか嬉しそうにしてた」
「……それ、なんかあれが関係ありそうな気もしますね」
つい先日、不二子さん失踪未遂事件が勃発した。
結末は事無きを得たが、それを経た上で先の話らしい。三郎次の推理通り、何か関係していそうだ。
「あれって?」
「いえ、こちらの話です。不二子さんの初恋の殿方はいつでどんな御仁だったんですか」
「私は五、六才の時かな。年上のお兄さんで、十才以上は離れてたかも」
「そうでしたか。兵助が聞いたらそれはもうボロ泣きしそうですね」
「うん。だからその時ボロ泣きしてたよ」
「したのか。……予想通りというか、久々知先輩らしい」
あいつのことだ。流した涙で池どころか海ができそうなぐらい泣いたことだろう。
「でもね」と不二子さんが続けた。
「そのお兄さん、なんとなく兵助くんに似てたかも?」
疑問形で返された言葉に私は息を呑んだ。
やはりあの出来事は関連しているのでは。不二子さん幼子事件が発生する前にその初恋話があったという。あの時、童の姿でいた不二子さんは兵助に懐いていたようにも思えた。
兵助も懐いてくれたことを至極嬉しそうにしていた。
偶然の一致か。まあ、この人は時代を超克するようなお人だ。何が起きても今更驚くようなことでもないか。
「霧華さん?」
「いえ、何でもないです。不二子さんは曖昧にしかその事を憶えていらっしゃらないんですね」
私は首を横へ振り、話の流れを元に戻した。
「うん。だって小さい時の記憶って大体ぼんやりしてない? 大きな出来事は流れっぽく憶えてるけど、人の顔なんてそれこそぼやーっとしか思い出せないよ」
その意見には私も頷いた。
幼少時の想い出は年を重ねる毎に塗り替えられていくものだ。良くないものであれば、殊更に。忘れようと墨で黒く塗り潰していく。幾度も、幾度も。
だが、それでもふとした時にその墨が洗い流されてしまう。二度、三度とその姿を現す。
思い出したくないものに蓋をすることは、悪あがきでしかないのかもしれない。
良い想い出は陽に照らされた川面の様にきらきらと輝きを増す。しかし、物語の一場面として残された記憶は時を経て風化するもの。
どちらにせよ、良くも悪くも断片的に頭の片隅に留められることになるのだ。
幼い頃、迷い子となった記憶はこの人にとってどちらだったのか。私たちが推し量るようなことでもないが、御内儀の顔を見る限りでは然程悪い想い出だった様子でもなさそうだ。
「確かに童子の記憶は朧気になりやすい。私も一度会っただけの奴は顔も憶えていませんでしたから。記憶力は昔から良い方だったのですが、それでも」
「え、もしかして初恋の人?」
「完全に忘れ去られてる時点で初恋じゃないのでは」
書類を束ねた三郎次の手つきが些か乱暴に感じられた。
一年生、二年生の生徒に配る書類は纏め終えたようだ。引き続き山積みになった書類に手を伸ばし、内容に目を通して仕分けをしていく。
「それもそうだね。その可哀想な人は特に関係ない感じ?」
「ええ。元許嫁でしたので」
私がそう返すと、奇妙な間が生じた。
動きをぴたりと止めたのは不二子さんのみで、三郎次は黙々と手を動かしている。
「待って。許嫁?! いたの?!」
声が大きい。事務室内どころか、これは外まで響いたな。
この驚き方は三郎次に告げた時とよく似ていた。そこまで驚くことなのだろうかと今でも不思議に思う。
「かなり昔、それこそ私が五つの頃に破談となりましたよ。相手側の家で不祥事がありまして、両家共に納得した上で破談に」
「ええ……いや、でもそうなんだ。池田くんはそれ知っ……らなかったんだね」
今度はバサリと書類の束が事務机に置かれた。
三郎次の顔は子どもの様にむくれており、苛立ちを隠しきれていない。
「好いた人に「元許嫁です」って目の前で紹介された時の俺の気持ちわかります?」
「……前もそんなことを言っていたような気もする」
「大体、霧華さんは隠し事が多すぎるんですよ」
「必要以上に事を知れば危険が伴う。私は大切な人たちを巻き込みたくない」
「昔からそうですよね、貴女は。誰かを守る為には隠し通すことも必要だって」
仕分けた書類を左の山へと置き、そこでようやく三郎次が手を止めた。
「全てを知った上で貴女を守りたいと思う俺は不肖ですか」
私の方に向けた視線は真剣なもの。
いつだったか「好きな人のことは色々知りたいものだよ」と不二子さんが話していたのを思い出した。その不二子さんは我々のやりとりに臆したのか、大人しくしている。
「もう三郎次が知らぬことはないよ。多分」
「多分って」
「いや、忘れてることもあるだろ。ふと思い出した事とか」
「ま、まあまあ落ち着いて。こんな所でケンカはいけないよ」
こんな所でそんな話を振ってきたのがそもそもなのだが。
「で、初恋は?」
言い合いとまではいかない小競り合いに不二子さんが割って入り、そしてまた話を振り出しに戻した。
「……何がなんでも訊きたい様子ですね。これ以上は三郎次が不貞腐れてしまうので控えたいのですが」
「別に不貞腐れてなんかいませんよ」
「言い方がもう拗ねてる。でもほら、さっき池田くんも隠し事は嫌だって言ってたじゃん。今聞いちゃった方がダメージ少ないよ」
多分。と最後に付け加えられた言葉は完全に消え入っており、常人なら聞き逃している。私たちは忍びゆえに、読唇でその言葉を容易く読み解けるもの。
ちらと私は三郎次の方を窺う。確かに、後でとやかく言われるよりは今暴露してしまった方が良さそうだ。
しかし、初恋とは。一体いつの頃を、具体的にどういったものを指すのか。
「……不二子さん。初恋とは一般的にどの年齢でするものですか」
「えっ。五才とか六才くらい、かな。女の子は感情豊かになるの早いし、好きの違いも区別できるようになるから」
五つ、六つの童時代を私は振り返ってみる。
空が明けるより前に目覚めることにも馴れ、自主的に鍛錬もする年になった。
嗚呼、そういえば。どこからか裏庭に忍び込んできた野良猫にこっそりと鰹節を与えていたこともあった。
三つ、四つと朧気な記憶に想いを馳せてみるも、思い当たるものが何一つとしてない。
「ない、ですね。その頃は既に稽古に明け暮れていましたから」
「ご実家スパルタ」
「好きの区別。友人に対してとは異なり、特定の相手に特別な感情を抱いた時のこと。……特別な感情。好きとは異なる」
「なんか哲学っぽくなってきた。ドツボにはまりそうこれ」
不二子さんの仰る通り、考えれば考えるほど深みに嵌まってしまう。
特別な感情を抱いた相手。私は再度三郎次の方をちらりと見た。そこで視線が合う。「何ですか」と少々不満げな様子で訊いてきた。
「……そうなると、私の初恋は三郎次ということになりますね」
「えっ、ほんと? 善法寺くんや食満くんじゃないの?」
「久々知さんって他人の地雷を目の前でぶち抜いていきますよね。自覚ないんでしょうけど。危ないからその癖止めた方がいいですよ」
「えっ、だって誰もが予想することじゃないの?!」
よく言われる話だった。留三郎にも「好きだったんじゃないのか」と冗談半分に問われたこともある。伊作と留三郎は兄の様な存在だったし、咲は親友だ。
冷静に言い聞かせる三郎次は案外平気そうな顔をしているようだが。
「伊作と留三郎は面倒見が良すぎて。口煩い兄みたいなものでしたよ」
「へぇ~そっかぁ。あれ、因みに自分から気づいたの? 池田くんの恋心に」
「久々知さん。この人が自分の色恋に敏いなら俺は四年も気を揉まなかったんですよ」
「……ああ、うん。そうだね」
耳が痛い。
私は聞こえていないフリをして書類を捌き続けた。早く吉野先生がお戻りになることを願う。
しかしその願いは叶うどころか、更なる問題を連れてくることに。
風が格子窓から吹き込んできた。俄、嫌な予感がした。
「失礼します」兵助の声が廊下から聞こえたが、待ったを掛ける暇などなかった。
事務室の木戸が開いた瞬間、風が勢いよく流れ込んでくる。
拾い集め、学年組毎に仕分け揃えた書類が、宙に舞った。