第二部
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追録 潜む惜別の情
覇気に満ちた掛け声が乾いた空気を伝う。
忍術学園の片隅に響くのは頻りに打ち鳴らされる木材の音――握物の一つである六尺棒――が交わり、火花を散らす者が二人がいた。
火花を散らすといえど、これはあくまで略式の稽古試合である。
母校に訪れたこの男はかつての学友とその後輩を一瞥し、状況をすぐさま理解した。だからといって、両者手を抜くような打ち合いはしていない。
潮江文次郎はこの春ぶりに忍術学園に訪れていた。
門番である秀作には「うわぁ、久しぶりだねぇ文次郎くん。ちょっと見ないうちに男前になったんじゃない?」と笑顔で入門表と筆を差し出された。そこで「今日は紅蓮くんも来ているよ。三郎次くんの所じゃないかな」という情報も得たのである。
訊いてもいないことをべらべらと喋る癖は直した方が良い。常々思う所ではあるが、そこが秀作の良い所でもある気がしていた。
教員長屋に足を運び、元担任に挨拶をしてから学内を散策。
その途中、左から突如現れた左門が「潮江文次郎先輩! ご無沙汰しております!」と腹から声を出した挨拶をしたかと思いきや、右の方向へ走っていった。その後を「左門ーっ! 会計室はそっちじゃないと言ってるだろー!」と追いかけていく三木ヱ門。
彼は文次郎の前を通り過ぎる直前に足を止め「ご無沙汰しております! 私は今から左門を連れて帰るので、宜しければ時間を空けてから会計室にいらしてください!」と早言葉で挨拶をし、流れるように走り去っていった。
相変わらずだ。今の一瞬のやり取りで半年前に時が遡ったような錯覚すら覚えた文次郎である。
先に他の後輩たちの顔を見に行くか。
そう思いながら会計室へ足を向けた矢先、冒頭で述べた勇ましい声を聞き付けたのである。
これは見学するしかあるまい。
文次郎は近場の木にさっと身を潜め、稽古の様子を窺うことにした。
攻めの姿勢、手を緩めないのは三郎次の方。紅蓮はひたすらにそれを迎え撃つ。しかし反撃に出る様子はどうもなく、それどころかわざと相手が攻めやすい間合いを取り、追撃を誘っていた。
払い、突き、打ち。繰り出される技全てを巧みに受け流し、一定の間合いを常に保つ。紅蓮は相手の一挙一同、その所作を見定めるかの如く目を鋭く光らせていた。
この勝負の行く末は見えているも、中々に三郎次の筋が良い。この学年であれだけ身軽に動け、棒術の扱いも馬鹿にできない程上手い。握物と同じように長物を扱う際に応用が利く。あの様子であれば槍や薙刀も容易く手に馴染むであろう。
三郎次自身の才もあり、そこに良い師の教えが伴う。これは将来が楽しみだ。
冬枯れで葉を落とした木の幹に背を預け、人知れず文次郎は笑みを零した。
「潮江先輩。こんなところで何をしていらっしゃるんですか」
と、そこへ間延びした声と穏やかな表情を携えた忍たまに声を掛けられた。
萌黄色の学年装束に身を包む三年生の忍たま。今目と鼻の先で試合に集中している三郎次の友人である時友四郎兵衛であった。
「おお、時友四郎兵衛。久しぶりだな。随分と泥まみれだが、鍛錬帰りか? 感心感心」
「お久しぶりです。体育委員会の活動で塹壕を掘っていました」
にこやか、かつ爽やかに四郎兵衛はそう答えた。
その笑顔に暫し友人の七松小平太と姿が重なったのは伏せておくことにした。どこに掘ったかはわからないが、用具委員会がそれを埋めるのに文句を言いそうだということも。
「あれを見てみろ」
「あれ? あれは、三郎次と葉月先輩」
四郎兵衛は促された方向に稽古試合の真っ最中である二人の姿を捉え、大きな目をさらに丸くした。遠目からでも迫力のある試合風景。どちらも真剣な表情でいる。
刹那、三郎次の攻撃を受けた紅蓮はそれを薙ぎ払い、宙返りで後方に下がった。八尺以上の距離を取り「ここまで!」と紅蓮の声が響いた。
「どうやら稽古試合が終わってしまったみたいだな」
文次郎のその口ぶりは実に残念そうであった。
かたや四郎兵衛は口を半開きにしたままじっと二人の姿を見る。
紅蓮が稽古試合の総括を始めたようだ。何か指摘されることがあったのか、三郎次の表情が忙しなく猫の目の様に変わる。
「有難う御座いました」という一礼を境目に、文次郎が一歩踏み出した。直後、紅蓮の顔が文次郎の方へと向けられる。
最初からそこに居たのを知っていたという様子だ。相変わらず人の気配に敏感である。
「やはり気づかれていたか」
「お前の気配なら私だけではなく三郎次も気づいていた。そのせいで気が散ってしまったようだし」
周囲に気を配り様子を窺うことは基本中の基本。だがそれに気を取られてそぞろになってはいけないと忠告をしたばかりである。
首に引っ掛けた手拭いで額から滴る汗を拭う三郎次は気まずそうに笑ってみせた。
「忍術学園一ギンギンに忍者していらっしゃった潮江先輩が、あんな中途半端に忍んでらしたので逆に気になってしまって」
「それはすまないことをした。稽古の邪魔をしちゃあ悪いと思ってな」
「いえ。後、もう一人」
気が逸れた原因はこの文次郎だけではい。のほほんとした同級生の視線も感じたからである。
四郎兵衛は未だに離れた場所からこちらをぼけっと見ていた。
間を少々置いてから、ハッと我に返り、「三郎次ー」と穏やかな声で呼び掛けてきた。その場から手を大きく振り、それからようやく小走りでやってくる。
一步どころか三歩も遅れてきた四郎兵衛。次第に近づいてくる姿を見た三郎次はぎょっとした。
頭のてっぺんから爪先まで、それはもう泥だらけなのだ。
「四郎兵衛、お前なんでそんなに泥だらけなんだ」
「さっきまで体育委員会で塹壕を掘ってたんだ。それでこの後、石人と一緒にお団子屋さんに行ってくる」
「今から行くのか?」
「うん。すぐそこだから」
ふわふわと喋る四郎兵衛をじと目で睨む。体育委員が言う「すぐそこ」は信用ならないことを三郎次は知っていた。
以前、すぐそこだからと案内されたうどん屋は山を越えた場所にあった。さらに有名な茶葉を買うお使いに付き添った時は裏裏山を越えた場所に。どちらも「場所が近いから、すぐ行って帰ってこれるよ」と言ったのだ。それはもう良い笑顔で。仕舞いには門限まで間に合わないからと途中から小走りになり、それは後に全力疾走へと余儀なくされる。
学園に帰り着いた頃には三郎次たちはへとへとでぐったりとしていた。
基礎体力がついてきているとはいえ、桁外れの体力を持つ体育委員が言う「すぐそこ」は決して信用してはならない。
「因みにすぐそこって、どこにあるんだ」
「えーと、裏裏山を越えた辺りにあるんだけど」
「それはすぐそことは言わない」
「走ったらすぐだよ。いけいけどんどーんで」
「……体育委員め。お前最近七松先輩に似てきてないか?」
「そうかなぁ」
頬にこびりついた乾いた泥を指でぺりぺりと剥がし、そのまま顎に手を当てて首を傾げた。
四郎兵衛にとって前委員長の小平太はまだまだ上の存在。それこそ雲のような存在だ。そこに追いつているとは夢にも考えていない。
「三郎次、時友。二人とも井戸で身体を拭ってきなさい。身体が汗で冷えると風邪を引いてしまう」
「あ、はい」
「はーい」
並ぶ萌黄色の背。その背を見送る紅蓮の眼差しは温かく、慈しむものであった。
(こいつもこんな表情をするようになったか)
かつての同級生は同学年と親しい間柄を築き上げていたものの、後輩までにはその情をかけることはなかった。それが委員会に属してからは後輩が可愛いと言い始めたのだ。猫可愛がりとまではいかないが、実弟さながら面倒を見ていた。
それが度を越してタカ丸が計上した甘酒代を「雑費として認めろ」と詰め寄ってきた予算会議もあった。
紅蓮は甘酒の如く後輩に甘い。同室の仙蔵と揶揄することもあったが、今の稽古ぶりを見た限りではその心配も不要か。飴と鞭の使い方をしっかりと弁えている。
「あいつ、筋が良いじゃないか。正式な弟子にしてやりゃいいのに」
「私は最早一介の忍者。道場の師範でも、師範代でもない。見学していたならわかると思うが、殆ど我流みたいなものだ。正式な流派であれば飛んだり跳ねたりはせんよ」
「だから三郎次にも同じ様に我流で教えてるのか」
「忍者を志すのであれば、生き延びる術を教えてやるのが先輩の務めだろ」
護身術としてただ振るうわけではない。この乱世を生き抜く為には、正統な流派を身に着けるだけでは不十分。
基礎にあらゆる動きを取り入れ、応用を効かせる。己がそうしてきたように、三郎次にもその術を教え込んでいた。
山から吹き下ろす北風はだいぶ冷えていた。
冬の訪れに備え、各城の冬支度が間もなく始まる頃である。
次の春が訪れる頃には四年次の学年装束を纏う。実戦演習も厳しくなる年次だ。
いかなる危機的状況とした場面に遭遇しても、臨機応変に対応できる実力を養ってほしいと紅蓮は願うばかりであった。
「……まあ、弟子とするならばあの子が最初で最後だろうな」
「元々教えてやるつもりがなかったような言い方だな。相当懇願されでもしたか」
「いや、根負けしたというよりも、……私がそうしたかっただけかもしれん」
そう言った紅蓮は肩に六尺棒を預け、薄墨の空を見上げた。
道場の跡継ぎから離脱したとはいえ、この知識や腕を腐らせるのも惜しいと感じたのか。
それとも、他の理由があるのか。憶測では計り知れない感情が奥底にあるのだろう。
これ以上詮索するのは野暮かと思い、文次郎は別の話題を口にした。
「それにしても、三郎次のやつ背が伸びたんじゃないか?」
「ああ、やはりそう思うか。私もそんな気はしていたんだ」
そのあっさりとした返答に文次郎は片側の肩をがくりと落とした。
言動からは全くもって気づいていなかった様子が窺える。
水平に上げた手を自分の胸元辺りで止め「今このぐらいだな」と三郎次の身長を現した。その顔に悪気は一つとしてない。
「三寸ぐらい伸びた気もするな」
「お前なぁ……稽古つけてやってんなら、そのぐらい気づいてやれ」
「そうは言っても隔週で会ってるんだ。変化に気づきにくいだろ」
「それ、本人の前で言ってやるなよ? 捻くれちまうぞ」
仕方なしに文次郎は笑ってみせた。
「鈍い」と同級生が言っていた謂れはここにもあるのだろう。
「しかし、隔週で稽古か。それだから仙蔵もへそを曲げたんだろうな」
ぴくりと紅蓮の片方の眉が動いた。
まるで聞きたくない名前だという風に、機嫌が一つばかり悪くなったようにも見える。
これは相当な言い合いをした様子。
「お前、仙蔵と組むのを止めたそうじゃないか。この間会った時に仙蔵がだいぶ不貞腐れてたぞ」
「知るか。振り回されたのはこっちの方だ」
卒業後の予定を狂わされた挙句、女装を強いられた。私生活にも干渉しようとしてくるものだから、それに反発をした。組んで仕事をするのは構わないが、言いなりになるつもりはないと言ったこともあったようだ。
仕事がない日は極力顔を合わせようとせず、逃げるように学園へ足を運ぶことも多かった。学園で顔を合わせたとしても「今はお前と出掛けているわけではない」と言い返すことも。
仙蔵と紅蓮の性格は不一致どころか衝突することもあったのだろう。現にそれが大きな要因となって此度解散に至ったのだ。
「むしろ清々しているぐらいだ。私とあいつでは方向性が違い過ぎる。利益どころか不利益しか生まん」
「大方、俺が勤める城に関することで揉めたんだろ。あいつの姿を見たからな」
はたと紅蓮の顔色が変わった。
「刃を交えたのか」
「いや、俺は遠目で姿を見ただけだ」
受ける仕事の内容によっては各地に散らばった友と刃を交えることになる。そうともなれば、命を取り合う可能性も零ではない時代だ。
忍術学園、及び各勢力と協力態勢にある城に友人たちは勤めているが、いつ何時どう情勢が転ぶかはわからない。
だからこそ、ある程度は自分の意志で動けるよう紅蓮はこの道を選んだのだ。
「お前は忍者に向いていないな。伊作に次いで。情けが在り過ぎる」
「承知の上だ。私は友に刃を向けるくらいならば己で命を絶つ。と、話したらお前の同級生に鼻で笑われた」
己の考えを無下に否定されたことに腹を立てているのか、笑みを浮かべたまま口の端を引き攣らせた。
まさに水と油のように反発する二人だ。
「仙蔵はそういうやつだよ。それにしても、俺のことも友だと思ってくれているんだな」
「同じ学び舎の仲間だろ。文次郎も仙蔵のことも特に嫌ってはおらん。付き纏われるのが嫌なだけだ」
仙蔵は興味があるものに対して知ろうとする傾向がある。自分はこっそりと窺っていたつもりでも、この紅蓮という忍びは昔から気配に敏い。ちらつく気配に苛立ちを憶えさせてしまったのが大きな敗因であろう。
性格の不一致が過ぎる。こうとなっては挽回は厳しそうだ。そう答えを見出す文次郎であったが、これは内に留めておくことにした。
次に仙蔵と顔を合わせた際、うっかりと口を滑らせては八つ当たりされてしまう。
覇気に満ちた掛け声が乾いた空気を伝う。
忍術学園の片隅に響くのは頻りに打ち鳴らされる木材の音――握物の一つである六尺棒――が交わり、火花を散らす者が二人がいた。
火花を散らすといえど、これはあくまで略式の稽古試合である。
母校に訪れたこの男はかつての学友とその後輩を一瞥し、状況をすぐさま理解した。だからといって、両者手を抜くような打ち合いはしていない。
潮江文次郎はこの春ぶりに忍術学園に訪れていた。
門番である秀作には「うわぁ、久しぶりだねぇ文次郎くん。ちょっと見ないうちに男前になったんじゃない?」と笑顔で入門表と筆を差し出された。そこで「今日は紅蓮くんも来ているよ。三郎次くんの所じゃないかな」という情報も得たのである。
訊いてもいないことをべらべらと喋る癖は直した方が良い。常々思う所ではあるが、そこが秀作の良い所でもある気がしていた。
教員長屋に足を運び、元担任に挨拶をしてから学内を散策。
その途中、左から突如現れた左門が「潮江文次郎先輩! ご無沙汰しております!」と腹から声を出した挨拶をしたかと思いきや、右の方向へ走っていった。その後を「左門ーっ! 会計室はそっちじゃないと言ってるだろー!」と追いかけていく三木ヱ門。
彼は文次郎の前を通り過ぎる直前に足を止め「ご無沙汰しております! 私は今から左門を連れて帰るので、宜しければ時間を空けてから会計室にいらしてください!」と早言葉で挨拶をし、流れるように走り去っていった。
相変わらずだ。今の一瞬のやり取りで半年前に時が遡ったような錯覚すら覚えた文次郎である。
先に他の後輩たちの顔を見に行くか。
そう思いながら会計室へ足を向けた矢先、冒頭で述べた勇ましい声を聞き付けたのである。
これは見学するしかあるまい。
文次郎は近場の木にさっと身を潜め、稽古の様子を窺うことにした。
攻めの姿勢、手を緩めないのは三郎次の方。紅蓮はひたすらにそれを迎え撃つ。しかし反撃に出る様子はどうもなく、それどころかわざと相手が攻めやすい間合いを取り、追撃を誘っていた。
払い、突き、打ち。繰り出される技全てを巧みに受け流し、一定の間合いを常に保つ。紅蓮は相手の一挙一同、その所作を見定めるかの如く目を鋭く光らせていた。
この勝負の行く末は見えているも、中々に三郎次の筋が良い。この学年であれだけ身軽に動け、棒術の扱いも馬鹿にできない程上手い。握物と同じように長物を扱う際に応用が利く。あの様子であれば槍や薙刀も容易く手に馴染むであろう。
三郎次自身の才もあり、そこに良い師の教えが伴う。これは将来が楽しみだ。
冬枯れで葉を落とした木の幹に背を預け、人知れず文次郎は笑みを零した。
「潮江先輩。こんなところで何をしていらっしゃるんですか」
と、そこへ間延びした声と穏やかな表情を携えた忍たまに声を掛けられた。
萌黄色の学年装束に身を包む三年生の忍たま。今目と鼻の先で試合に集中している三郎次の友人である時友四郎兵衛であった。
「おお、時友四郎兵衛。久しぶりだな。随分と泥まみれだが、鍛錬帰りか? 感心感心」
「お久しぶりです。体育委員会の活動で塹壕を掘っていました」
にこやか、かつ爽やかに四郎兵衛はそう答えた。
その笑顔に暫し友人の七松小平太と姿が重なったのは伏せておくことにした。どこに掘ったかはわからないが、用具委員会がそれを埋めるのに文句を言いそうだということも。
「あれを見てみろ」
「あれ? あれは、三郎次と葉月先輩」
四郎兵衛は促された方向に稽古試合の真っ最中である二人の姿を捉え、大きな目をさらに丸くした。遠目からでも迫力のある試合風景。どちらも真剣な表情でいる。
刹那、三郎次の攻撃を受けた紅蓮はそれを薙ぎ払い、宙返りで後方に下がった。八尺以上の距離を取り「ここまで!」と紅蓮の声が響いた。
「どうやら稽古試合が終わってしまったみたいだな」
文次郎のその口ぶりは実に残念そうであった。
かたや四郎兵衛は口を半開きにしたままじっと二人の姿を見る。
紅蓮が稽古試合の総括を始めたようだ。何か指摘されることがあったのか、三郎次の表情が忙しなく猫の目の様に変わる。
「有難う御座いました」という一礼を境目に、文次郎が一歩踏み出した。直後、紅蓮の顔が文次郎の方へと向けられる。
最初からそこに居たのを知っていたという様子だ。相変わらず人の気配に敏感である。
「やはり気づかれていたか」
「お前の気配なら私だけではなく三郎次も気づいていた。そのせいで気が散ってしまったようだし」
周囲に気を配り様子を窺うことは基本中の基本。だがそれに気を取られてそぞろになってはいけないと忠告をしたばかりである。
首に引っ掛けた手拭いで額から滴る汗を拭う三郎次は気まずそうに笑ってみせた。
「忍術学園一ギンギンに忍者していらっしゃった潮江先輩が、あんな中途半端に忍んでらしたので逆に気になってしまって」
「それはすまないことをした。稽古の邪魔をしちゃあ悪いと思ってな」
「いえ。後、もう一人」
気が逸れた原因はこの文次郎だけではい。のほほんとした同級生の視線も感じたからである。
四郎兵衛は未だに離れた場所からこちらをぼけっと見ていた。
間を少々置いてから、ハッと我に返り、「三郎次ー」と穏やかな声で呼び掛けてきた。その場から手を大きく振り、それからようやく小走りでやってくる。
一步どころか三歩も遅れてきた四郎兵衛。次第に近づいてくる姿を見た三郎次はぎょっとした。
頭のてっぺんから爪先まで、それはもう泥だらけなのだ。
「四郎兵衛、お前なんでそんなに泥だらけなんだ」
「さっきまで体育委員会で塹壕を掘ってたんだ。それでこの後、石人と一緒にお団子屋さんに行ってくる」
「今から行くのか?」
「うん。すぐそこだから」
ふわふわと喋る四郎兵衛をじと目で睨む。体育委員が言う「すぐそこ」は信用ならないことを三郎次は知っていた。
以前、すぐそこだからと案内されたうどん屋は山を越えた場所にあった。さらに有名な茶葉を買うお使いに付き添った時は裏裏山を越えた場所に。どちらも「場所が近いから、すぐ行って帰ってこれるよ」と言ったのだ。それはもう良い笑顔で。仕舞いには門限まで間に合わないからと途中から小走りになり、それは後に全力疾走へと余儀なくされる。
学園に帰り着いた頃には三郎次たちはへとへとでぐったりとしていた。
基礎体力がついてきているとはいえ、桁外れの体力を持つ体育委員が言う「すぐそこ」は決して信用してはならない。
「因みにすぐそこって、どこにあるんだ」
「えーと、裏裏山を越えた辺りにあるんだけど」
「それはすぐそことは言わない」
「走ったらすぐだよ。いけいけどんどーんで」
「……体育委員め。お前最近七松先輩に似てきてないか?」
「そうかなぁ」
頬にこびりついた乾いた泥を指でぺりぺりと剥がし、そのまま顎に手を当てて首を傾げた。
四郎兵衛にとって前委員長の小平太はまだまだ上の存在。それこそ雲のような存在だ。そこに追いつているとは夢にも考えていない。
「三郎次、時友。二人とも井戸で身体を拭ってきなさい。身体が汗で冷えると風邪を引いてしまう」
「あ、はい」
「はーい」
並ぶ萌黄色の背。その背を見送る紅蓮の眼差しは温かく、慈しむものであった。
(こいつもこんな表情をするようになったか)
かつての同級生は同学年と親しい間柄を築き上げていたものの、後輩までにはその情をかけることはなかった。それが委員会に属してからは後輩が可愛いと言い始めたのだ。猫可愛がりとまではいかないが、実弟さながら面倒を見ていた。
それが度を越してタカ丸が計上した甘酒代を「雑費として認めろ」と詰め寄ってきた予算会議もあった。
紅蓮は甘酒の如く後輩に甘い。同室の仙蔵と揶揄することもあったが、今の稽古ぶりを見た限りではその心配も不要か。飴と鞭の使い方をしっかりと弁えている。
「あいつ、筋が良いじゃないか。正式な弟子にしてやりゃいいのに」
「私は最早一介の忍者。道場の師範でも、師範代でもない。見学していたならわかると思うが、殆ど我流みたいなものだ。正式な流派であれば飛んだり跳ねたりはせんよ」
「だから三郎次にも同じ様に我流で教えてるのか」
「忍者を志すのであれば、生き延びる術を教えてやるのが先輩の務めだろ」
護身術としてただ振るうわけではない。この乱世を生き抜く為には、正統な流派を身に着けるだけでは不十分。
基礎にあらゆる動きを取り入れ、応用を効かせる。己がそうしてきたように、三郎次にもその術を教え込んでいた。
山から吹き下ろす北風はだいぶ冷えていた。
冬の訪れに備え、各城の冬支度が間もなく始まる頃である。
次の春が訪れる頃には四年次の学年装束を纏う。実戦演習も厳しくなる年次だ。
いかなる危機的状況とした場面に遭遇しても、臨機応変に対応できる実力を養ってほしいと紅蓮は願うばかりであった。
「……まあ、弟子とするならばあの子が最初で最後だろうな」
「元々教えてやるつもりがなかったような言い方だな。相当懇願されでもしたか」
「いや、根負けしたというよりも、……私がそうしたかっただけかもしれん」
そう言った紅蓮は肩に六尺棒を預け、薄墨の空を見上げた。
道場の跡継ぎから離脱したとはいえ、この知識や腕を腐らせるのも惜しいと感じたのか。
それとも、他の理由があるのか。憶測では計り知れない感情が奥底にあるのだろう。
これ以上詮索するのは野暮かと思い、文次郎は別の話題を口にした。
「それにしても、三郎次のやつ背が伸びたんじゃないか?」
「ああ、やはりそう思うか。私もそんな気はしていたんだ」
そのあっさりとした返答に文次郎は片側の肩をがくりと落とした。
言動からは全くもって気づいていなかった様子が窺える。
水平に上げた手を自分の胸元辺りで止め「今このぐらいだな」と三郎次の身長を現した。その顔に悪気は一つとしてない。
「三寸ぐらい伸びた気もするな」
「お前なぁ……稽古つけてやってんなら、そのぐらい気づいてやれ」
「そうは言っても隔週で会ってるんだ。変化に気づきにくいだろ」
「それ、本人の前で言ってやるなよ? 捻くれちまうぞ」
仕方なしに文次郎は笑ってみせた。
「鈍い」と同級生が言っていた謂れはここにもあるのだろう。
「しかし、隔週で稽古か。それだから仙蔵もへそを曲げたんだろうな」
ぴくりと紅蓮の片方の眉が動いた。
まるで聞きたくない名前だという風に、機嫌が一つばかり悪くなったようにも見える。
これは相当な言い合いをした様子。
「お前、仙蔵と組むのを止めたそうじゃないか。この間会った時に仙蔵がだいぶ不貞腐れてたぞ」
「知るか。振り回されたのはこっちの方だ」
卒業後の予定を狂わされた挙句、女装を強いられた。私生活にも干渉しようとしてくるものだから、それに反発をした。組んで仕事をするのは構わないが、言いなりになるつもりはないと言ったこともあったようだ。
仕事がない日は極力顔を合わせようとせず、逃げるように学園へ足を運ぶことも多かった。学園で顔を合わせたとしても「今はお前と出掛けているわけではない」と言い返すことも。
仙蔵と紅蓮の性格は不一致どころか衝突することもあったのだろう。現にそれが大きな要因となって此度解散に至ったのだ。
「むしろ清々しているぐらいだ。私とあいつでは方向性が違い過ぎる。利益どころか不利益しか生まん」
「大方、俺が勤める城に関することで揉めたんだろ。あいつの姿を見たからな」
はたと紅蓮の顔色が変わった。
「刃を交えたのか」
「いや、俺は遠目で姿を見ただけだ」
受ける仕事の内容によっては各地に散らばった友と刃を交えることになる。そうともなれば、命を取り合う可能性も零ではない時代だ。
忍術学園、及び各勢力と協力態勢にある城に友人たちは勤めているが、いつ何時どう情勢が転ぶかはわからない。
だからこそ、ある程度は自分の意志で動けるよう紅蓮はこの道を選んだのだ。
「お前は忍者に向いていないな。伊作に次いで。情けが在り過ぎる」
「承知の上だ。私は友に刃を向けるくらいならば己で命を絶つ。と、話したらお前の同級生に鼻で笑われた」
己の考えを無下に否定されたことに腹を立てているのか、笑みを浮かべたまま口の端を引き攣らせた。
まさに水と油のように反発する二人だ。
「仙蔵はそういうやつだよ。それにしても、俺のことも友だと思ってくれているんだな」
「同じ学び舎の仲間だろ。文次郎も仙蔵のことも特に嫌ってはおらん。付き纏われるのが嫌なだけだ」
仙蔵は興味があるものに対して知ろうとする傾向がある。自分はこっそりと窺っていたつもりでも、この紅蓮という忍びは昔から気配に敏い。ちらつく気配に苛立ちを憶えさせてしまったのが大きな敗因であろう。
性格の不一致が過ぎる。こうとなっては挽回は厳しそうだ。そう答えを見出す文次郎であったが、これは内に留めておくことにした。
次に仙蔵と顔を合わせた際、うっかりと口を滑らせては八つ当たりされてしまう。