軽率なコラボシリーズ
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追慕
ミーンミンミンミーン
ジージジジジジッ
「蝉の声が五月蝿くなってきましたね」
「お盆も近いからな。そろそろ蝉ふぁいなるとやらに気をつける時期も近い」
「なんですかその、蝉ふぁいなるって」
「不二子さんが仰っていた。地に落ちた蝉がじたばたする様を未来ではそう呼ぶらしい」
夏の終わりに見られる風景。所謂夏の風物詩である。
それが未来では何とも奇怪な呼び方がついたものだ。
「先日、不二子さんが正門前でそれに遭遇して悲鳴を上げたところ兵助が飛んでやってきたそうだ」
「まあ、驚きますからね。わかる気もします」
紅蓮と三郎次は学園に立ち寄り、食堂を目指していた。今日は特別講師として呼ばれたわけでもなく、特段用事があるわけではなかった。
忍務帰りで帰路に着く途中、足が向いたので寄った次第である。
今日は晴天に恵まれ、雲一つない澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
「先ずは腹ごしらえをするか」と二人の意見も違わずに一致。昼定食は何があるだろうかと話をしながら学園内を歩いていた。
その最中、蝉の鳴き声が一際耳についたので蝉の話となったのだ。
カンカン照りの日差しを避けるべく、敷地内の木立ちを経由した道のり。木漏れ日が揺れる中をゆっくりと二人は歩いていた。
鬼灯がちらほらと道の脇にひっそりと咲いており、橙色のそれは木立の道を照らすようにも見える。
そよ風が汗ばんだ肌を撫でていく。
「あの蝉の動きを再現した武器とか作れませんかね。不規則な動きで敵の足止めにもなりそうだし」
「……いや、鼠花火がそれと同等な気もするが」
紅蓮は額の汗を手の甲で拭い、急にどうしたのかと隣を見る。ツッコミを受けた三郎次がハッと我に返り「そうですね」と答えた。暑さで思考が鈍っているのか。
「ああ、そうだ。地面に落ちた蝉でまだ生きているのか、事切れたものか見分ける方法がある」
「見分け方なんてあるんですか」
「まだ生きているものは脚が開いており、事切れた蝉は脚が閉じている。これを覚えておけば容易に見分けられ、被害も最小限に抑えられるぞ」
「へぇ……詳しいですね」
蝉ふぁいなるに遭遇した時は蝉の観察をする暇もなく発動する。それをじっくりと違いを見極めるほど凝視できるとは流石。
と、思っていた三郎次であったが、どうやらそうではない様子。
紅蓮は眉尻を下げてこう続けた。
「昔はよく驚かされたからな。驚きすぎて尻もちをついてしまったこともある」
「……意外だ。霧華さんなら蝉ふぁいなるが爆裂する中でも普通に歩いてそうなのに」
「三郎次。お前は私を何だと思っているんだ」
「それだけ堂々としている印象が強くて」
「むしろ動じなかったのは小平太の方だ。夏の終わりによくそれらを集めては長屋の庭に持ち込んで、驚く我々を見て腹を抱えていたよ」
「まさに暴君」
その光景が容易く想像できる。蝉ふぁいなるに慄き、逃げ惑う下級生時代の先輩方の姿。その後の報復が酷そうだ。これは地獄絵図だなとまで三郎次は考えた。
不意に紅蓮が足を止めた。
取り留めのない会話に気を取られ、気配を読むことが疎かになったか。そう三郎次は気を引き締めるも、紅蓮の視線は前方に集中している。
三尺ばかり先の地面に蝉がぽとりと落ちていた。
紅蓮は警戒している。その緊迫感が隣にいる三郎次にまで伝わってきた。
もしや、蝉が苦手なのだろうか。
先程までの話しぶりからしてそう予想が出来る。そうであればあの蝉が生きているか、事切れているのか近付いて見に行くことに躊躇うであろう。
ここは率先して自分が行かねば。
幸いなことにそこまで蝉ふぁいなるが苦手ではない。三郎次はそろりと歩みを進め、蝉の脚が目視できる距離まで詰めた。
その脚は固く閉じられている。
「この蝉は脚を閉じてます」
「そうか」
紅蓮の強張っていた表情が和らぐ。
が、それも束の間であった。
その蝉が突如息を吹き返し、目にも留まらぬ速さで地面を回転し始めた。
「おわっ?!」
ぐるぐると不規則に動くその様はまさに鼠花火さながら。
さらにはばっと跳び上がった。
その時、どさりと地面に何か落ちた音がした。
跳び上がった蝉は茂みに飛び込んだきり、姿を見せなくなる。最後の力を振り絞ったのだろう。
三郎次は予期せず俄か踊らされた鼓動を落ち着かせ、紅蓮の方を振り返った。
「びっくりしましたね」と声を掛けるはずの相手の姿がどこにもない。
その代わりに、驚いた顔をした小さな子どもが尻もちをついていた。
目をまん丸に見開き、蝉がぐるぐるとしていた場所を呆然と見ている。
訳がわからなかった。
今しがた隣を歩いていた妻の姿が忽然と消え、その気配すら見当たらなくなった。
変わり身の術だとしても、小さな子どもを利用してまでするとは考え難い。
何よりこの顔に見覚えというか、面影があった。
否、まさか。
この子どもが紅蓮なのでは、と考えが過ぎったその時である。
「!」
己よりも十以上は年下であろうその子が小さな唇をきゅっと一文字に結び、声にならない悲鳴を上げた。その表情は恐怖に怯えている。
三郎次が振り返った前方の地面には、なんとまあ数え切れないほどの蝉が転がっているではないか。
見渡す限りのなんとやら。流石にこれには言葉を失ってしまう。
これらがまだ息があるのか否かを確認しに行くほど暇ではない。
「……っ」
「だ、大丈夫だから! 怖いけど怖くない!」
今最優先すべきことは、この子を連れて此処から離れることだ。
いや、妻であろう人か。思考が混乱に陥りそうになりながらも、三郎次は涙を堪えている子どもを小脇にしっかりと抱え、脱兎の如く逃げだした。
◇
三郎次が真っ先に向かったのは医務室であった。
「伊作先輩! 緊急です!」
医務室に飛び込んできたのは三郎次と小脇に抱えられた小さな子ども。
見た目は忍たまでいう一年生ぐらいの歳であり、頭頂部辺りで結われた髪は首筋に届くか届かないぐらいの長さ。藍色の野袴に桐模様の上衣に身を包んでいた。
この顔に伊作は見覚えがありすぎた。
自分の友人によく似ているのだ。しかし、友人は自分と同い年である。こんなに小さな姿であるはずがない。となれば自ずと導かれるのは一つの答え。
「……あれ、君たち子どもいたっけ? おかしいなぁ。お祝いした記憶がない。暑さでぼーっとしてたかな」
「しっかりしてください伊作先輩。暑気にやられてるバヤイじゃないです。この子、恐らくですけど霧華さんです」
「……何が起きているんだい?」
「それは俺が聞きたい」
一先ず三郎次は小脇に抱えていた子どもを下ろした。
短い距離とはいえ、ここまで大人しく運ばれてきたのが不思議でもあった。人攫いと勘違いされて暴れていたかもしれないと今更ながらに心配をする。
床に下ろされた子どもは一度三郎次の方を見上げるが、そこで目が合うとパッと逸らしてしまい軽く俯いた。
恐怖は薄れているようで、医務室内を物珍しそうに見渡す。
「何があったか説明してくれるかい。紅蓮がこうなった理由も」
「実は、斯々然々で。俺もよくわかっていません」
「何だかつくづく似たような話が起きるなぁ……まあ、とりあえず座ろうか。君も、ここに座ってくれるかな」
伊作は優しい笑顔で子どもに話しかけ、床の上をぽんぽんと叩いた。
素直にそれに応じ、そこへ腰を下ろす。背筋を正したその姿勢は紅蓮にそっくりである。凛とした横顔も本人そのもの。
「僕は善法寺伊作。こっちは池田三郎次。君の名前も教えてくれるかな」
「はい。葉月流道場の葉月霧華と申します」
「年はいくつ?」
「九つになります」
三郎次は驚いていた。
初対面であろう伊作の質問に素直に答えたのだ。今の紅蓮ならば考えられない。自分の素性は明かさないのが忍びの基本。だが、それも納得の行く理由がある。
彼女はまだ忍術学園に入学する前の霧華なのだ。
「うーん。ということは、まだ僕たち出逢ってない頃だなぁ。伊作って名前に覚えはあるかい?」
「……いえ。田吾作なら」
「田吾作、誰」
「田吾作は父の友人です。柔術を心得ています」
そういえば、そんな人がいた。霧華の実家を訪れた際にその名を訊いた憶えがある。それにしても、訊いたことに対して十の返答をする。素直過ぎて三郎次は心配になっていた。
しかし、今はこうなってしまった手掛かりを探らなければ。
「ああ、僕たちは君に危害を加えるつもりは全くないから安心して」
「承知しております。御仁方からは悪意を感じられません。……私とて葉月流の端くれ。不穏な動きを察した時は、容赦致しません」
すっと鋭い目が伊作と三郎次を捉えた。幼くともその覇気は今と微塵も変わらない。
昔からこうだったのかと感じる三郎次と、ああそういえば昔からこうだったなあと伊作は懐かしさを覚えた。
「紅蓮に勝てたことないんだよねぇ、この頃から。……まあそれは置いといて。君は此処に来る前に何をしてたの?」
「墓参りを済ませ、その帰路についていました」
そこではたと霧華の顔が曇る。
三郎次が「御母上の」とぽつりと口にすると、霧華は伏せていた目を上げた。
「母をご存知でしたか。先程のご無礼、申し訳ございません」
「あ、いや。全然気にしてないので。……一人で墓参りに?」
「はい。家の者には内緒で」
墓のある場所は大人であれば大した距離ではないが、子どもの足で行くには時間もかかる。それに山道でもあった。
一人で赴かなければならない理由があったのだろう。何か、譲れない理由が。
――三郎次。紅蓮の御母上のこと知ってるのかい。
不意に伊作から三郎次に飛ばされた矢羽音。
――いや、直接会ったわけじゃなくて。見ただけというか、視たというか。
三郎次が返した矢羽音は曖昧なものであった。音だけでは伝わらない、微妙な差。だが、ここで声に出して説明をするわけにもいかない。
母を亡くして二年も経たない少女の心はまだ、哀しみで溢れているのだろうから。
「……私はどうしたら良いのでしょうか。家に帰り着かねば、皆に心配をかけてしまいます」
まだ年若い霧華はその目を伏せた。
伊作はうーんと唸る。この時点での断定は難しいものであった。単に記憶と身体が退化しただけなのか、それとも。
「伊作先輩」
「いや、なんでもないよ。ここでじっとしていても仕方がない。ちょっと手掛かりを探しに行ってこようと思う」
伊作は腰を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「手掛かりって」
「持ち出し厳禁の図書を見てくるよ。藁にも縋る思いってやつだけど、何かあるかもしれない」
「……まあ、そうですね。何もしないよりは」
「あと、豆腐にも縋ってみようかな」
実は似た事象がつい先日に起きたばかりである。
伊作は友人から軽くその話を訊いていたが、皮肉なことに、場に居合わせたその友は今こうして肩身が狭そうに押し黙っている。
幼少時代の話は聞けそうだが、それが手掛かりに繋がる可能性は低い。
そうなると、不二子の夫である久々知兵助に話を訊くしか術がない。正直気が重いのだが、友人の為だ。
「先輩、僕が訊きに行きます」
「三郎次は紅蓮、この子と一緒にいてあげて。その方が君も安心するでしょ」
「……わかりました。すみません、お願いします」
三郎次は素直に頭を深く下げ、伊作に情報の収集を頼んだ。
兵助がしたように抱えて歩けばいいと思うかもしれないが、そうもいかない。
五つや六つほどの子どもなら抱えても暴れることはないだろうが、ここまでしっかりと自我を持たれているとなれば。間違いなく反発を買う。
今の霧華にとって三郎次は見知らぬ人間でしかないのだ。不審者だ、人攫いだ、悪漢だと声を上げて怒鳴られでもしたら。
立ち直る自信がない。
医務室に二人残された今、下手な言動は控えた方が良い。とはいえ、無言が気まずい空気を作り上げていた。
どうしたものか。
俯きがちの霧華にちらりと目を向けると、ある事に三郎次は気がついた。彼女は先程から左手の拳を緩く握り続けている。その僅かな空間に何か隠しているような、そうでないような。しかし、何か隠しているのならば視線が自ずとちらちらと向くもの。その様子が全くないので、これはもしやと思い。
「左の手の平、擦りむいてますね」
三郎次の問い掛けに顔を上げた霧華は目を丸くしていた。
「手、ずっと隠すようにしてたから。今手当てします」
「いえ、大丈夫です。このぐらい、痛くも痒くも」
「駄目です。小さな怪我でも放っておいたらそこから菌が入って、化膿して悪化することがあるんだ。だから今のうちに手当てしておかないと」
保健委員の友人に口を酸っぱくして言われた言葉。まさかそれを自分が口にするとは。
暫く会っていないが、元気にしているだろうか。まあ、数々の不運に見舞われようとも逞しく生きているだろう、左近のことだから。
その友人がよく開けていた薬棚の引き出しを開け、軟膏の入れ物と短い包帯を取り出す。数年経った今でもよく覚えているものだと三郎次は自負した。
差し出された手の平はあまりにも小さかった。
赤く擦り剥いた箇所の他、手指の付け根には無数の豆が目立つ。幼少期から修行に明け暮れていた証であった。
「早く治さないと、六尺棒を握るのも辛くなるだろ」
「何故、それを」
「手の豆を見れば、そりゃ。俺が尊敬してる人もこんな手をしているんだ。……よし、これで完了」
「有難う御座います。……先程も、有難う御座いました」
手の甲側にある包帯の結び目を霧華はじっと見つめていた。それから気まずそうに一度三郎次の方を見る。しかし何のことかわかっていない様子であったので、またも気まずそうに小さな口を開いた。
「蝉が、苦手で。急に飛び出してきたことに、驚いてしまって」
「ああ、さっきのあれ」
蝉ふぁいなる直後は兎に角無我夢中であったので、すっかり三郎次の頭からそれが抜けていた。そういえば、目尻に涙を薄っすらと浮かべていたようにも思える。
この年頃で虫に驚き、わあわあと騒ぐのは自然ではなかろうか。
「蝉が苦手など、声を大にして言えません。馬鹿にされてしまいます」
「……いや、大量の蝉を目にしたら大の大人でも驚くから。そこまで気負わなくてもいいかと」
道場の跡継ぎとして生まれた命運。好きな物も好きと言えず、嫌いなものも嫌いと言えずにいたのだろう。この小さな背で背負うには大きすぎる荷。何れ全てをかなぐり捨てる日が来るまで、まだ時は長い。
「まあ、でも。俺はそんな強気でかっこいい所も、存外可愛らしい所も全部好きですよ」
「三郎次が小さな子を口説いている」医務室から顔を覗かせた兵助がぼそりとそう呟いた。これに驚いた三郎次は肩をびくりと震わせ、バッと振り返るとそこには久々知夫妻が。
気配に全く気がつかなかったのは、兵助の実力か、未だ動揺が収まっていないせいか。どちらにせよ、この久々知兵助という男は突然沸いてくる。
「口説いてませんから! というか、この子は霧華さんなんですけど!」
「いや、うん。そう聞いてはいたんだけど」
「ほんとだ、霧華さん小さくなってる。可愛い~でも顔つきはもう紅蓮くんみたいだね。凛々しいとことか」
図書室に向かった伊作はその途中で兵助と不二子に会い、事の次第を簡潔に説明。自分は図書室へ行くから、医務室の様子を頼むと二人に伝えたのであった。
「このお二人は、池田殿のお知り合いですか」
「池田殿」
「池田殿」
「そこ、二人で息合わせなくていいですから」
不意打ちの余所余所しさを喰らった三郎次は何とも複雑な表情で二人を睨む。
三郎次は何年以上も前から下の名で呼ばれていたのだ。それが今更になって敬いつつも他人行儀の呼び方をされた。これは相当強烈な痛手。
兵助は「物凄くわかるぞ、その気持ち」と不二子の横でうんうんと頷いていた。
「俺は久々知兵助。こちらは俺の奥さんの久々知不二子さん。学園の人は大体久々知さんと呼んでるよ」
「フルネームで紹介有難う兵助くん」
「私は葉月霧華と申します」
「よろしくね」
不二子がにこりと微笑むと、それが不思議と言わんばかりに瞬きを二度繰り返す霧華。姿勢を崩さぬまま、頭を下げた。
「で、どうしよう兵助くん」
「うーん。……不二子さんの時と同じとは限らないからなぁ。先ずは状況整理をしてみないと」
「オッケー。じゃあ現場の調査からだね。手掛かりは必ずそこにあるはず!」
「というわけで、俺たちは先輩がそうなった場所に行ってみる。三郎次たちは引き続きここで待機」
「わかりました。よろしくお願いします」
人に任せきりで、自分は何もできないことが歯痒い。
だが、危険に晒されないよう守るのが自分の務めでもある。
医務室の入口から二人を見送る際「殺人事件だと犯人は現場に戻るってよく言うんだよね。でも今回はそうじゃないから」などと少々物騒な話が聞こえてきた。
大丈夫だろうか。一抹の不安が過る三郎次である。
余談ではあるが、そこが蝉ふぁいなる多発地帯であったことは伏せておいた。
「私のせいでご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「全然迷惑なんかじゃないですよ。俺やみんながそうしたいから、してるだけで」
「それにしても、池田殿は人望が厚い御仁とお見受けします」
「……初めて人に言われた。貴女だって何れ、人の縁に恵まれる時がきますよ」
多くの友人、後輩に囲まれて過ごす未来までそう遠くはないのだから。
「うわああっ!?」
「おわあああっ」
「なっんでこんなとこに!」
「ちょ、まっ……うわあああっ」
突然、外から複数の悲鳴が聞こえてきた。どさどさと重いものが続けざまに落ちる音も一緒にだ。しかもそれは医務室のすぐ側から。
悲鳴の多くは学園生徒のもの。その中に聞こえた二つの聞き馴染みある声が。
「うわぁぁっなんでこんな所に!」
「伊作先輩っ!? 掴まっ……うわぁぁ!」
善法寺伊作と川西左近の声。
これはあくまで推測だが、出現済の落とし穴に足を踏み外しそうになった伊作を左近が寸での所で引き戻そうとした。が、悲鳴からわかる通りあえなく失敗。二人仲良く落とし穴に落下。
「誰か〜助けてくれー」と情けなく助けを呼ぶ声が聞こえる。
いや、そもそも何人規模の落とし穴なのか。少なくとも四、五人は落ちている。自力脱出するにも骨が折れそうな惨事が目に浮かんだ。
三郎次は小さな溜息をつき、霧華の方を一度振り返った。
「すみません。ちょっと外しますが、すぐ戻ります。霧華さんはここにいて下さい」
医務室を出る前に三郎次はぴたりと足を止め、再度振り返った。
「勝手に出歩かないでくださいよ!」
前科がある事を思い出した三郎次は再度釘を刺し、今度こそ慌ただしく医務室から出ていった。
外から複数人の声が聞こえてくる。
「三郎次ぃぃ…。助けてくれぇー」
「左近お前なぁ。何やってんだよ本当に。こっちは今それどこじゃないんだ」
「とか言いつつも手を差し伸べてくれる。優しくなったよなぁお前。昔はあんなに意地悪で意地っ張りだったのに」
「手、離してもいいんだぞ」
「うわぁー待った待った!」
賑やかで、どこか楽しそうな声が霧華の耳に届く。
外界との隔たりをふと感じた小さな胸の奥が疼いた。
がやがやと騒がしい音を遠くに聞く最中、一人の若い男が外を振り返りながら医務室に入ってきた。
目立つ足音は一つも、聞こえなかった。
「相変わらず賑やかだねぇ」
入れ替わりに入ってきたこの男――三郎次よりも年が若く、紫色の忍び装束を纏う――は他人事の様に呑気な笑みを浮かべていた。
「伊作の不運が川西くんを呼び寄せちゃった感じ。ああ、そういえばあの子も保健委員だった」
男は独り言を呟いたつもりでいたようだ。
霧華の視線がじっと自分に刺さっていることに気がつくまでは。
彼女の視線は医務室の外でもなく、室内の壁を見ているわけでもない。真っ直ぐと男の顔を捉えていた。
「……あれ、もしかして。僕のこと、視えてる?」
「はい」
小首を傾げて男がそう訊ねれば、霧華は何を言っているのかと不思議そうに傾げ返した。確かにそこにいるではないか、と言いたそうに。
ただ奇妙だと感じたのは、この男が室内に入ってきてから周囲の空気が少しひやりと涼しくなったことである。それはあくまで風が吹き込んできたのだろうという考えで落ち着いていた。
若い男は顔を綻ばせた。たっぷりと陽光を受けて咲いた花の如く、明るい笑顔を浮かべる。
まるで野に咲いた花のようだ。初めて見た顔だというのに、どこか懐かしい感情に霧華は包まれた。
「そっか」
「嬉しそうですね」
胡坐をかいて腰を下ろした男はにこにこと笑っている。
「うん。久しぶりに話せたから嬉しくって。手、ケガしちゃったの?」
「これは、転んで擦りむきました。先程の御仁が手当てを施してくださったんです」
「早く治るといいね。そうだ、さっきの人カッコよかった?」
「男前でしたので、女人にモテそうだなとは思いました」
顔色一つ変えず、他人事と答えた霧華に「ああーこれは何とも思ってない。紅蓮らしいね、うん」と何度も頷く。
「なんだか懐かしいなぁ」と笑いもする。
「ところで、紅蓮というのは一体誰のことでしょうか。先程からその名を聞きますが、姿はお見かけしておりません」
「うん、それはそうだね。気になる?」
「気になるというよりも、響きの良い名だと思いました」
直感的にそう思ったのだと霧華は話す。
あと一年にも経たないうちに「葉月紅蓮」と名乗り、忍術学園の門を潜ることをまだ彼女は知らない。
長い学園生活が幕を開け、そこでの出逢いと別れは掛け替えのないものとなることも。
――だいじょうぶ? のぼってこれる? 手、かそうか。
まだ入学して間もない頃であった。小さな手と手を取り合ったのは。
同色の学年装束を纏い過ごした学園生活。共に学問に励み、忍術を学び、心身を鍛えた。
些細な事でケンカをする友人たちを宥めたこともあれば、自分たちがそっぽを向く日も。それこそ泣きながら「ごめん」と同時に謝ったこともある。
――今年の夏休みは早く学園に戻って来るから、その時に棒手裏剣の打ち方教えるよ。
長くは続かなかった日々。
約束を果たせなかったのに、そのことをちっとも君は恨んだりしなかった。
泣き腫らしたその涙を拭うことすら許されなくて、僕もずっと泣いていた。
生前の記憶をぼんやりと思い返す男の目尻に、涙が薄っすらと浮かぶ。
涙で滲む視界に映った小さな指。その指が男の涙を拭おうとした。
触れた雫は冷たい。それに些か驚いた霧華は目を点にした。
「ごめんね、ありがと。ちょっと目に埃が入っちゃって。もう、大丈夫」
手の甲で涙を拭った男は、また笑顔を浮かべた。
「良い名前だよね。強くて、かっこよくて、優しい子なんだよ紅蓮は」
「御仁のお知り合いですか」
「うん。僕の一番で、大好きな友達。……あ、そろそろみんな戻ってきそうだね」
外でわあわあと騒ぐ声が医務室に近づいてきていた。
「伊作の仕事が大変そうだ。自分もケガしてるだろうし」と憐れむ様に呟いた後、徐に男は立ち上がる。
「僕はそろそろ行かなくちゃ。家族にも顔見せに行かなきゃいけないし」
「あの」
去ろうとする男を追い掛けるように霧華も立ち上がり、距離を数歩詰めた。
「ん?」
「また、会えますか」
「うん。絶対にまた逢える。その時はまた友達になろう。この約束は絶対に守る」
若い男は満面の笑みを咲かせ、廊下から外へひょいと大袈裟に跳び下りた。
不思議なことに、その姿は忽然とそこで消えてしまった。
夢でも見ていたのだろうか。
いや、ここは忍術学園。忍者養成学校だ。隠形の術は基本中の基本。しかし、あの姿の消し方は教師やプロ忍の程度に近い。残像として目に焼き付いていたのは、紫色の装束にも思えた。
医務室の入口に立ちながら、紅蓮は呆然と立ち尽くしていた。
その姿を見つけた三郎次が「霧華さん!」と早足で駆けつけてくる。その後ろから土埃まみれの伊作と左近が遅れてやってきた。「紅蓮が元の姿に戻ってる!」「一体何の話かさっぱりなんですが」こんな会話をしながら。
「三郎次、どうしたんだそんなに慌てて。……伊作、川西。落とし穴にでも落ちたか」
「いや、まあそうなんですけど。いつの間に元の姿に戻って」
「元の姿? 何を言ってるんだ。それより、私はいつ医務室に」
木立を歩いていた所で記憶が途切れていると紅蓮は話す。
暑気にやられ、倒れて意識を失いでもしたのか。左手には包帯が巻かれていたので、転倒した際に手をついたのかもしれない。
なんにせよ、意識を手放し記憶が途切れるのは良い気がしない。気を引き締めなければ。そう、右手を頭に持っていこうとした時であった。
ひとさし指の先に濡れた形跡がある。
冷たい熱に触れたそれは既に体温に溶けきっていた。
「……伊作。さっき医務室から出て行く四年生を見なかったか」
「え? いや、見てない気がするけど」
紅蓮の表情は悲愁とも言い切れず、感傷に浸るような面持ちで「そうか」と一言だけを返し、目を瞑った。
ミーンミンミンミーン
ジージジジジジッ
「蝉の声が五月蝿くなってきましたね」
「お盆も近いからな。そろそろ蝉ふぁいなるとやらに気をつける時期も近い」
「なんですかその、蝉ふぁいなるって」
「不二子さんが仰っていた。地に落ちた蝉がじたばたする様を未来ではそう呼ぶらしい」
夏の終わりに見られる風景。所謂夏の風物詩である。
それが未来では何とも奇怪な呼び方がついたものだ。
「先日、不二子さんが正門前でそれに遭遇して悲鳴を上げたところ兵助が飛んでやってきたそうだ」
「まあ、驚きますからね。わかる気もします」
紅蓮と三郎次は学園に立ち寄り、食堂を目指していた。今日は特別講師として呼ばれたわけでもなく、特段用事があるわけではなかった。
忍務帰りで帰路に着く途中、足が向いたので寄った次第である。
今日は晴天に恵まれ、雲一つない澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
「先ずは腹ごしらえをするか」と二人の意見も違わずに一致。昼定食は何があるだろうかと話をしながら学園内を歩いていた。
その最中、蝉の鳴き声が一際耳についたので蝉の話となったのだ。
カンカン照りの日差しを避けるべく、敷地内の木立ちを経由した道のり。木漏れ日が揺れる中をゆっくりと二人は歩いていた。
鬼灯がちらほらと道の脇にひっそりと咲いており、橙色のそれは木立の道を照らすようにも見える。
そよ風が汗ばんだ肌を撫でていく。
「あの蝉の動きを再現した武器とか作れませんかね。不規則な動きで敵の足止めにもなりそうだし」
「……いや、鼠花火がそれと同等な気もするが」
紅蓮は額の汗を手の甲で拭い、急にどうしたのかと隣を見る。ツッコミを受けた三郎次がハッと我に返り「そうですね」と答えた。暑さで思考が鈍っているのか。
「ああ、そうだ。地面に落ちた蝉でまだ生きているのか、事切れたものか見分ける方法がある」
「見分け方なんてあるんですか」
「まだ生きているものは脚が開いており、事切れた蝉は脚が閉じている。これを覚えておけば容易に見分けられ、被害も最小限に抑えられるぞ」
「へぇ……詳しいですね」
蝉ふぁいなるに遭遇した時は蝉の観察をする暇もなく発動する。それをじっくりと違いを見極めるほど凝視できるとは流石。
と、思っていた三郎次であったが、どうやらそうではない様子。
紅蓮は眉尻を下げてこう続けた。
「昔はよく驚かされたからな。驚きすぎて尻もちをついてしまったこともある」
「……意外だ。霧華さんなら蝉ふぁいなるが爆裂する中でも普通に歩いてそうなのに」
「三郎次。お前は私を何だと思っているんだ」
「それだけ堂々としている印象が強くて」
「むしろ動じなかったのは小平太の方だ。夏の終わりによくそれらを集めては長屋の庭に持ち込んで、驚く我々を見て腹を抱えていたよ」
「まさに暴君」
その光景が容易く想像できる。蝉ふぁいなるに慄き、逃げ惑う下級生時代の先輩方の姿。その後の報復が酷そうだ。これは地獄絵図だなとまで三郎次は考えた。
不意に紅蓮が足を止めた。
取り留めのない会話に気を取られ、気配を読むことが疎かになったか。そう三郎次は気を引き締めるも、紅蓮の視線は前方に集中している。
三尺ばかり先の地面に蝉がぽとりと落ちていた。
紅蓮は警戒している。その緊迫感が隣にいる三郎次にまで伝わってきた。
もしや、蝉が苦手なのだろうか。
先程までの話しぶりからしてそう予想が出来る。そうであればあの蝉が生きているか、事切れているのか近付いて見に行くことに躊躇うであろう。
ここは率先して自分が行かねば。
幸いなことにそこまで蝉ふぁいなるが苦手ではない。三郎次はそろりと歩みを進め、蝉の脚が目視できる距離まで詰めた。
その脚は固く閉じられている。
「この蝉は脚を閉じてます」
「そうか」
紅蓮の強張っていた表情が和らぐ。
が、それも束の間であった。
その蝉が突如息を吹き返し、目にも留まらぬ速さで地面を回転し始めた。
「おわっ?!」
ぐるぐると不規則に動くその様はまさに鼠花火さながら。
さらにはばっと跳び上がった。
その時、どさりと地面に何か落ちた音がした。
跳び上がった蝉は茂みに飛び込んだきり、姿を見せなくなる。最後の力を振り絞ったのだろう。
三郎次は予期せず俄か踊らされた鼓動を落ち着かせ、紅蓮の方を振り返った。
「びっくりしましたね」と声を掛けるはずの相手の姿がどこにもない。
その代わりに、驚いた顔をした小さな子どもが尻もちをついていた。
目をまん丸に見開き、蝉がぐるぐるとしていた場所を呆然と見ている。
訳がわからなかった。
今しがた隣を歩いていた妻の姿が忽然と消え、その気配すら見当たらなくなった。
変わり身の術だとしても、小さな子どもを利用してまでするとは考え難い。
何よりこの顔に見覚えというか、面影があった。
否、まさか。
この子どもが紅蓮なのでは、と考えが過ぎったその時である。
「!」
己よりも十以上は年下であろうその子が小さな唇をきゅっと一文字に結び、声にならない悲鳴を上げた。その表情は恐怖に怯えている。
三郎次が振り返った前方の地面には、なんとまあ数え切れないほどの蝉が転がっているではないか。
見渡す限りのなんとやら。流石にこれには言葉を失ってしまう。
これらがまだ息があるのか否かを確認しに行くほど暇ではない。
「……っ」
「だ、大丈夫だから! 怖いけど怖くない!」
今最優先すべきことは、この子を連れて此処から離れることだ。
いや、妻であろう人か。思考が混乱に陥りそうになりながらも、三郎次は涙を堪えている子どもを小脇にしっかりと抱え、脱兎の如く逃げだした。
◇
三郎次が真っ先に向かったのは医務室であった。
「伊作先輩! 緊急です!」
医務室に飛び込んできたのは三郎次と小脇に抱えられた小さな子ども。
見た目は忍たまでいう一年生ぐらいの歳であり、頭頂部辺りで結われた髪は首筋に届くか届かないぐらいの長さ。藍色の野袴に桐模様の上衣に身を包んでいた。
この顔に伊作は見覚えがありすぎた。
自分の友人によく似ているのだ。しかし、友人は自分と同い年である。こんなに小さな姿であるはずがない。となれば自ずと導かれるのは一つの答え。
「……あれ、君たち子どもいたっけ? おかしいなぁ。お祝いした記憶がない。暑さでぼーっとしてたかな」
「しっかりしてください伊作先輩。暑気にやられてるバヤイじゃないです。この子、恐らくですけど霧華さんです」
「……何が起きているんだい?」
「それは俺が聞きたい」
一先ず三郎次は小脇に抱えていた子どもを下ろした。
短い距離とはいえ、ここまで大人しく運ばれてきたのが不思議でもあった。人攫いと勘違いされて暴れていたかもしれないと今更ながらに心配をする。
床に下ろされた子どもは一度三郎次の方を見上げるが、そこで目が合うとパッと逸らしてしまい軽く俯いた。
恐怖は薄れているようで、医務室内を物珍しそうに見渡す。
「何があったか説明してくれるかい。紅蓮がこうなった理由も」
「実は、斯々然々で。俺もよくわかっていません」
「何だかつくづく似たような話が起きるなぁ……まあ、とりあえず座ろうか。君も、ここに座ってくれるかな」
伊作は優しい笑顔で子どもに話しかけ、床の上をぽんぽんと叩いた。
素直にそれに応じ、そこへ腰を下ろす。背筋を正したその姿勢は紅蓮にそっくりである。凛とした横顔も本人そのもの。
「僕は善法寺伊作。こっちは池田三郎次。君の名前も教えてくれるかな」
「はい。葉月流道場の葉月霧華と申します」
「年はいくつ?」
「九つになります」
三郎次は驚いていた。
初対面であろう伊作の質問に素直に答えたのだ。今の紅蓮ならば考えられない。自分の素性は明かさないのが忍びの基本。だが、それも納得の行く理由がある。
彼女はまだ忍術学園に入学する前の霧華なのだ。
「うーん。ということは、まだ僕たち出逢ってない頃だなぁ。伊作って名前に覚えはあるかい?」
「……いえ。田吾作なら」
「田吾作、誰」
「田吾作は父の友人です。柔術を心得ています」
そういえば、そんな人がいた。霧華の実家を訪れた際にその名を訊いた憶えがある。それにしても、訊いたことに対して十の返答をする。素直過ぎて三郎次は心配になっていた。
しかし、今はこうなってしまった手掛かりを探らなければ。
「ああ、僕たちは君に危害を加えるつもりは全くないから安心して」
「承知しております。御仁方からは悪意を感じられません。……私とて葉月流の端くれ。不穏な動きを察した時は、容赦致しません」
すっと鋭い目が伊作と三郎次を捉えた。幼くともその覇気は今と微塵も変わらない。
昔からこうだったのかと感じる三郎次と、ああそういえば昔からこうだったなあと伊作は懐かしさを覚えた。
「紅蓮に勝てたことないんだよねぇ、この頃から。……まあそれは置いといて。君は此処に来る前に何をしてたの?」
「墓参りを済ませ、その帰路についていました」
そこではたと霧華の顔が曇る。
三郎次が「御母上の」とぽつりと口にすると、霧華は伏せていた目を上げた。
「母をご存知でしたか。先程のご無礼、申し訳ございません」
「あ、いや。全然気にしてないので。……一人で墓参りに?」
「はい。家の者には内緒で」
墓のある場所は大人であれば大した距離ではないが、子どもの足で行くには時間もかかる。それに山道でもあった。
一人で赴かなければならない理由があったのだろう。何か、譲れない理由が。
――三郎次。紅蓮の御母上のこと知ってるのかい。
不意に伊作から三郎次に飛ばされた矢羽音。
――いや、直接会ったわけじゃなくて。見ただけというか、視たというか。
三郎次が返した矢羽音は曖昧なものであった。音だけでは伝わらない、微妙な差。だが、ここで声に出して説明をするわけにもいかない。
母を亡くして二年も経たない少女の心はまだ、哀しみで溢れているのだろうから。
「……私はどうしたら良いのでしょうか。家に帰り着かねば、皆に心配をかけてしまいます」
まだ年若い霧華はその目を伏せた。
伊作はうーんと唸る。この時点での断定は難しいものであった。単に記憶と身体が退化しただけなのか、それとも。
「伊作先輩」
「いや、なんでもないよ。ここでじっとしていても仕方がない。ちょっと手掛かりを探しに行ってこようと思う」
伊作は腰を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「手掛かりって」
「持ち出し厳禁の図書を見てくるよ。藁にも縋る思いってやつだけど、何かあるかもしれない」
「……まあ、そうですね。何もしないよりは」
「あと、豆腐にも縋ってみようかな」
実は似た事象がつい先日に起きたばかりである。
伊作は友人から軽くその話を訊いていたが、皮肉なことに、場に居合わせたその友は今こうして肩身が狭そうに押し黙っている。
幼少時代の話は聞けそうだが、それが手掛かりに繋がる可能性は低い。
そうなると、不二子の夫である久々知兵助に話を訊くしか術がない。正直気が重いのだが、友人の為だ。
「先輩、僕が訊きに行きます」
「三郎次は紅蓮、この子と一緒にいてあげて。その方が君も安心するでしょ」
「……わかりました。すみません、お願いします」
三郎次は素直に頭を深く下げ、伊作に情報の収集を頼んだ。
兵助がしたように抱えて歩けばいいと思うかもしれないが、そうもいかない。
五つや六つほどの子どもなら抱えても暴れることはないだろうが、ここまでしっかりと自我を持たれているとなれば。間違いなく反発を買う。
今の霧華にとって三郎次は見知らぬ人間でしかないのだ。不審者だ、人攫いだ、悪漢だと声を上げて怒鳴られでもしたら。
立ち直る自信がない。
医務室に二人残された今、下手な言動は控えた方が良い。とはいえ、無言が気まずい空気を作り上げていた。
どうしたものか。
俯きがちの霧華にちらりと目を向けると、ある事に三郎次は気がついた。彼女は先程から左手の拳を緩く握り続けている。その僅かな空間に何か隠しているような、そうでないような。しかし、何か隠しているのならば視線が自ずとちらちらと向くもの。その様子が全くないので、これはもしやと思い。
「左の手の平、擦りむいてますね」
三郎次の問い掛けに顔を上げた霧華は目を丸くしていた。
「手、ずっと隠すようにしてたから。今手当てします」
「いえ、大丈夫です。このぐらい、痛くも痒くも」
「駄目です。小さな怪我でも放っておいたらそこから菌が入って、化膿して悪化することがあるんだ。だから今のうちに手当てしておかないと」
保健委員の友人に口を酸っぱくして言われた言葉。まさかそれを自分が口にするとは。
暫く会っていないが、元気にしているだろうか。まあ、数々の不運に見舞われようとも逞しく生きているだろう、左近のことだから。
その友人がよく開けていた薬棚の引き出しを開け、軟膏の入れ物と短い包帯を取り出す。数年経った今でもよく覚えているものだと三郎次は自負した。
差し出された手の平はあまりにも小さかった。
赤く擦り剥いた箇所の他、手指の付け根には無数の豆が目立つ。幼少期から修行に明け暮れていた証であった。
「早く治さないと、六尺棒を握るのも辛くなるだろ」
「何故、それを」
「手の豆を見れば、そりゃ。俺が尊敬してる人もこんな手をしているんだ。……よし、これで完了」
「有難う御座います。……先程も、有難う御座いました」
手の甲側にある包帯の結び目を霧華はじっと見つめていた。それから気まずそうに一度三郎次の方を見る。しかし何のことかわかっていない様子であったので、またも気まずそうに小さな口を開いた。
「蝉が、苦手で。急に飛び出してきたことに、驚いてしまって」
「ああ、さっきのあれ」
蝉ふぁいなる直後は兎に角無我夢中であったので、すっかり三郎次の頭からそれが抜けていた。そういえば、目尻に涙を薄っすらと浮かべていたようにも思える。
この年頃で虫に驚き、わあわあと騒ぐのは自然ではなかろうか。
「蝉が苦手など、声を大にして言えません。馬鹿にされてしまいます」
「……いや、大量の蝉を目にしたら大の大人でも驚くから。そこまで気負わなくてもいいかと」
道場の跡継ぎとして生まれた命運。好きな物も好きと言えず、嫌いなものも嫌いと言えずにいたのだろう。この小さな背で背負うには大きすぎる荷。何れ全てをかなぐり捨てる日が来るまで、まだ時は長い。
「まあ、でも。俺はそんな強気でかっこいい所も、存外可愛らしい所も全部好きですよ」
「三郎次が小さな子を口説いている」医務室から顔を覗かせた兵助がぼそりとそう呟いた。これに驚いた三郎次は肩をびくりと震わせ、バッと振り返るとそこには久々知夫妻が。
気配に全く気がつかなかったのは、兵助の実力か、未だ動揺が収まっていないせいか。どちらにせよ、この久々知兵助という男は突然沸いてくる。
「口説いてませんから! というか、この子は霧華さんなんですけど!」
「いや、うん。そう聞いてはいたんだけど」
「ほんとだ、霧華さん小さくなってる。可愛い~でも顔つきはもう紅蓮くんみたいだね。凛々しいとことか」
図書室に向かった伊作はその途中で兵助と不二子に会い、事の次第を簡潔に説明。自分は図書室へ行くから、医務室の様子を頼むと二人に伝えたのであった。
「このお二人は、池田殿のお知り合いですか」
「池田殿」
「池田殿」
「そこ、二人で息合わせなくていいですから」
不意打ちの余所余所しさを喰らった三郎次は何とも複雑な表情で二人を睨む。
三郎次は何年以上も前から下の名で呼ばれていたのだ。それが今更になって敬いつつも他人行儀の呼び方をされた。これは相当強烈な痛手。
兵助は「物凄くわかるぞ、その気持ち」と不二子の横でうんうんと頷いていた。
「俺は久々知兵助。こちらは俺の奥さんの久々知不二子さん。学園の人は大体久々知さんと呼んでるよ」
「フルネームで紹介有難う兵助くん」
「私は葉月霧華と申します」
「よろしくね」
不二子がにこりと微笑むと、それが不思議と言わんばかりに瞬きを二度繰り返す霧華。姿勢を崩さぬまま、頭を下げた。
「で、どうしよう兵助くん」
「うーん。……不二子さんの時と同じとは限らないからなぁ。先ずは状況整理をしてみないと」
「オッケー。じゃあ現場の調査からだね。手掛かりは必ずそこにあるはず!」
「というわけで、俺たちは先輩がそうなった場所に行ってみる。三郎次たちは引き続きここで待機」
「わかりました。よろしくお願いします」
人に任せきりで、自分は何もできないことが歯痒い。
だが、危険に晒されないよう守るのが自分の務めでもある。
医務室の入口から二人を見送る際「殺人事件だと犯人は現場に戻るってよく言うんだよね。でも今回はそうじゃないから」などと少々物騒な話が聞こえてきた。
大丈夫だろうか。一抹の不安が過る三郎次である。
余談ではあるが、そこが蝉ふぁいなる多発地帯であったことは伏せておいた。
「私のせいでご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「全然迷惑なんかじゃないですよ。俺やみんながそうしたいから、してるだけで」
「それにしても、池田殿は人望が厚い御仁とお見受けします」
「……初めて人に言われた。貴女だって何れ、人の縁に恵まれる時がきますよ」
多くの友人、後輩に囲まれて過ごす未来までそう遠くはないのだから。
「うわああっ!?」
「おわあああっ」
「なっんでこんなとこに!」
「ちょ、まっ……うわあああっ」
突然、外から複数の悲鳴が聞こえてきた。どさどさと重いものが続けざまに落ちる音も一緒にだ。しかもそれは医務室のすぐ側から。
悲鳴の多くは学園生徒のもの。その中に聞こえた二つの聞き馴染みある声が。
「うわぁぁっなんでこんな所に!」
「伊作先輩っ!? 掴まっ……うわぁぁ!」
善法寺伊作と川西左近の声。
これはあくまで推測だが、出現済の落とし穴に足を踏み外しそうになった伊作を左近が寸での所で引き戻そうとした。が、悲鳴からわかる通りあえなく失敗。二人仲良く落とし穴に落下。
「誰か〜助けてくれー」と情けなく助けを呼ぶ声が聞こえる。
いや、そもそも何人規模の落とし穴なのか。少なくとも四、五人は落ちている。自力脱出するにも骨が折れそうな惨事が目に浮かんだ。
三郎次は小さな溜息をつき、霧華の方を一度振り返った。
「すみません。ちょっと外しますが、すぐ戻ります。霧華さんはここにいて下さい」
医務室を出る前に三郎次はぴたりと足を止め、再度振り返った。
「勝手に出歩かないでくださいよ!」
前科がある事を思い出した三郎次は再度釘を刺し、今度こそ慌ただしく医務室から出ていった。
外から複数人の声が聞こえてくる。
「三郎次ぃぃ…。助けてくれぇー」
「左近お前なぁ。何やってんだよ本当に。こっちは今それどこじゃないんだ」
「とか言いつつも手を差し伸べてくれる。優しくなったよなぁお前。昔はあんなに意地悪で意地っ張りだったのに」
「手、離してもいいんだぞ」
「うわぁー待った待った!」
賑やかで、どこか楽しそうな声が霧華の耳に届く。
外界との隔たりをふと感じた小さな胸の奥が疼いた。
がやがやと騒がしい音を遠くに聞く最中、一人の若い男が外を振り返りながら医務室に入ってきた。
目立つ足音は一つも、聞こえなかった。
「相変わらず賑やかだねぇ」
入れ替わりに入ってきたこの男――三郎次よりも年が若く、紫色の忍び装束を纏う――は他人事の様に呑気な笑みを浮かべていた。
「伊作の不運が川西くんを呼び寄せちゃった感じ。ああ、そういえばあの子も保健委員だった」
男は独り言を呟いたつもりでいたようだ。
霧華の視線がじっと自分に刺さっていることに気がつくまでは。
彼女の視線は医務室の外でもなく、室内の壁を見ているわけでもない。真っ直ぐと男の顔を捉えていた。
「……あれ、もしかして。僕のこと、視えてる?」
「はい」
小首を傾げて男がそう訊ねれば、霧華は何を言っているのかと不思議そうに傾げ返した。確かにそこにいるではないか、と言いたそうに。
ただ奇妙だと感じたのは、この男が室内に入ってきてから周囲の空気が少しひやりと涼しくなったことである。それはあくまで風が吹き込んできたのだろうという考えで落ち着いていた。
若い男は顔を綻ばせた。たっぷりと陽光を受けて咲いた花の如く、明るい笑顔を浮かべる。
まるで野に咲いた花のようだ。初めて見た顔だというのに、どこか懐かしい感情に霧華は包まれた。
「そっか」
「嬉しそうですね」
胡坐をかいて腰を下ろした男はにこにこと笑っている。
「うん。久しぶりに話せたから嬉しくって。手、ケガしちゃったの?」
「これは、転んで擦りむきました。先程の御仁が手当てを施してくださったんです」
「早く治るといいね。そうだ、さっきの人カッコよかった?」
「男前でしたので、女人にモテそうだなとは思いました」
顔色一つ変えず、他人事と答えた霧華に「ああーこれは何とも思ってない。紅蓮らしいね、うん」と何度も頷く。
「なんだか懐かしいなぁ」と笑いもする。
「ところで、紅蓮というのは一体誰のことでしょうか。先程からその名を聞きますが、姿はお見かけしておりません」
「うん、それはそうだね。気になる?」
「気になるというよりも、響きの良い名だと思いました」
直感的にそう思ったのだと霧華は話す。
あと一年にも経たないうちに「葉月紅蓮」と名乗り、忍術学園の門を潜ることをまだ彼女は知らない。
長い学園生活が幕を開け、そこでの出逢いと別れは掛け替えのないものとなることも。
――だいじょうぶ? のぼってこれる? 手、かそうか。
まだ入学して間もない頃であった。小さな手と手を取り合ったのは。
同色の学年装束を纏い過ごした学園生活。共に学問に励み、忍術を学び、心身を鍛えた。
些細な事でケンカをする友人たちを宥めたこともあれば、自分たちがそっぽを向く日も。それこそ泣きながら「ごめん」と同時に謝ったこともある。
――今年の夏休みは早く学園に戻って来るから、その時に棒手裏剣の打ち方教えるよ。
長くは続かなかった日々。
約束を果たせなかったのに、そのことをちっとも君は恨んだりしなかった。
泣き腫らしたその涙を拭うことすら許されなくて、僕もずっと泣いていた。
生前の記憶をぼんやりと思い返す男の目尻に、涙が薄っすらと浮かぶ。
涙で滲む視界に映った小さな指。その指が男の涙を拭おうとした。
触れた雫は冷たい。それに些か驚いた霧華は目を点にした。
「ごめんね、ありがと。ちょっと目に埃が入っちゃって。もう、大丈夫」
手の甲で涙を拭った男は、また笑顔を浮かべた。
「良い名前だよね。強くて、かっこよくて、優しい子なんだよ紅蓮は」
「御仁のお知り合いですか」
「うん。僕の一番で、大好きな友達。……あ、そろそろみんな戻ってきそうだね」
外でわあわあと騒ぐ声が医務室に近づいてきていた。
「伊作の仕事が大変そうだ。自分もケガしてるだろうし」と憐れむ様に呟いた後、徐に男は立ち上がる。
「僕はそろそろ行かなくちゃ。家族にも顔見せに行かなきゃいけないし」
「あの」
去ろうとする男を追い掛けるように霧華も立ち上がり、距離を数歩詰めた。
「ん?」
「また、会えますか」
「うん。絶対にまた逢える。その時はまた友達になろう。この約束は絶対に守る」
若い男は満面の笑みを咲かせ、廊下から外へひょいと大袈裟に跳び下りた。
不思議なことに、その姿は忽然とそこで消えてしまった。
夢でも見ていたのだろうか。
いや、ここは忍術学園。忍者養成学校だ。隠形の術は基本中の基本。しかし、あの姿の消し方は教師やプロ忍の程度に近い。残像として目に焼き付いていたのは、紫色の装束にも思えた。
医務室の入口に立ちながら、紅蓮は呆然と立ち尽くしていた。
その姿を見つけた三郎次が「霧華さん!」と早足で駆けつけてくる。その後ろから土埃まみれの伊作と左近が遅れてやってきた。「紅蓮が元の姿に戻ってる!」「一体何の話かさっぱりなんですが」こんな会話をしながら。
「三郎次、どうしたんだそんなに慌てて。……伊作、川西。落とし穴にでも落ちたか」
「いや、まあそうなんですけど。いつの間に元の姿に戻って」
「元の姿? 何を言ってるんだ。それより、私はいつ医務室に」
木立を歩いていた所で記憶が途切れていると紅蓮は話す。
暑気にやられ、倒れて意識を失いでもしたのか。左手には包帯が巻かれていたので、転倒した際に手をついたのかもしれない。
なんにせよ、意識を手放し記憶が途切れるのは良い気がしない。気を引き締めなければ。そう、右手を頭に持っていこうとした時であった。
ひとさし指の先に濡れた形跡がある。
冷たい熱に触れたそれは既に体温に溶けきっていた。
「……伊作。さっき医務室から出て行く四年生を見なかったか」
「え? いや、見てない気がするけど」
紅蓮の表情は悲愁とも言い切れず、感傷に浸るような面持ちで「そうか」と一言だけを返し、目を瞑った。