第二部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
弐 | 繋がりという絆
季節が移ろいゆくのは実に早い。
梅雨が明け、夏の暑さがようやく過ぎたと思えば秋風が吹き始めた。
秋風が撫でた山の木々は鮮やかに色付き、楓の葉を散らす。ひらりひらと舞う目を覚ますような紅が草むらを覆い尽くす頃には冬の足音がすぐそこまで聞こえてくるだろう。
金楽寺から忍術学園へと続く野道。薄の穂が開き始めており、風にさわさわと揺れるその姿は風情がある。
この薄を摘み、お月見のお供えにしたこともあった。長屋の廊下から眺めた中秋の名月は綺羅びやかでいる反面、真っ暗闇の海にひっそりと寂しく浮かぶ。その様を「ちょっと寂しそうだよね。月は独りぼっちだから」と呟いた友の言葉を紅蓮は懐かしんでいた。
忍術学園の正門を軽快に叩けば「はーい」と直ぐに門番が応えた。
来客用の小さな戸から姿を覗かせた小松田秀作は紅蓮の顔を見ると、ふにゃりとした笑顔を見せた。
「紅蓮くんいらっしゃい。今日は稽古の日? あれ、でも一昨日来ていたような気もするけど」
「今日は学園長先生に金楽寺の和尚様からお預かりした文をお持ちしました」
「ああ、それで。学園長先生なら庵にいらっしゃいますよ」
「有難う御座います。小松田さん、入門表を」
「あ、ごめんごめん」
外部からの来客には直ぐ様「入門表にサインを!」と押し付けてくる事務員。サインを渋る相手には叩きつけるといった表現が適切なほど迫ることもある。
それがいつまで経っても入門表にサインを求めてこなかったので、こちらから声をかけた。今ここでサインをしておかなければ、後々面倒くさいことを十分に紅蓮は知っている。
いそいそと入門表と筆を揃えて紅蓮に差し出す秀作はにへらと笑った。
「紅蓮くんがまだここの生徒みたいに思えちゃって。ついつい忘れちゃいそうになるんだよね」
「……小松田さん。私は留年したつもりはないですよ」
「ごめんごめん。そういえば紅蓮くんたちが卒業してからもう半年も経つんだね。なんだかあっという間だなぁ」
「本当に。月日の流れは早いものです」
「仕事の方はどう?」
「ぼちぼちですね。まだまだフリーの駆け出しですから」
「そっか。……はい、確かに。ではどうぞお入りください」
秀作は入門表に書かれた名前と用件を一瞥すると、笑顔で紅蓮を招き入れた。
◇
学園長に文を滞りなく届け、多少の雑談を交わした後、紅蓮は庵を後にした。
秋風に揺れた野花の細い葉に赤とんぼが一匹。暫し翅をゆったりと休めていたが、足場を風に揺らされると落ち着かなくなったのか、すぃーっと飛んでいってしまった。
秋の空は高く、広がった薄水色に鱗雲が連なる。
紅蓮は正門でやりとりした秀作との会話をぼんやりと思い返していた。
この学び舎を卒業して半年が経つ。
外の世界は予想以上に厳しいものであった。幸い深手を負うことはなくとも、軽い怪我の耐えない日々が続く。創傷、打撲、火傷など。先日は火箭が掠めた手の甲に軽い火傷を負ってしまう羽目となった。
入念に水で冷やしたお陰で痛みはだいぶ和らいだが、赤みがまだ引かない。そこで活躍するのが忍術学園保健委員印の軟膏。これを塗れば奥底に潜むじくじくとした痛みも、腫れた赤みもすっと引いていく。流石と言える代物で、在学中から紅蓮は愛用していた。
経過も良好で瘡蓋も安定。その箇所は手甲で隠している。医者見習いの友人及び後輩に見つかれば気を遣わせてしまう。要らぬ心配を掛けないようにとの配慮であった。
紅蓮は学園に寄った際は必ず伊作の元を訪れる。
様々な理由で取り込み中でなければ、取り留めのない駄弁りで時間を潰す。時には情勢について真面目に交わすこともあった。昨日の友は今日の敵という言葉があるように千変万化するこの乱世。常に情報を差し替えていかなければならない。
各地に散った友との対立を極力避けられるように。
こうした考えに耽る度に「己は忍者に向いていない」と思い余る。そうぼやく自分に「そこが君の良い所だと僕は思うよ」そう優しく声を掛けてくれる同級生に何度救われたことか。
持つべきものは良き理解者でもある友人だと紅蓮は痛切に感じていた。
さて、今日は手土産になる話は特に持ち合わせていない。なにせ二日前に訪れたばかりなのだ。
裏山の銀杏 が色付き始めたこと。毬栗が転がっていたことなど。他愛もない話でもしようか。それでも、伊作にとっては有益な情報となり得そうである。
三つばかり話を見繕いながら紅蓮は医務室に向かった。
戸の前に立ち「失礼します」と声を掛けた。室内にはよく知る気配が一つと、友人の後輩らしきものが一つ。ここまでは良かったのだ。
紅蓮が引き戸を開けた瞬間、伊作が何もない所で躓きその手に持っていた笊が宙へと放り出された。
そこからの出来事は一瞬のうちに過ぎ去ったものだが、彼らの目には異様な遅さで映る。
舞う薬草。笑顔で倒れ行く伊作。焦りに染まっていく左近の顔。
べしゃっという擬音と共に伊作が床に倒れ伏した。その背にはらはらと降り注ぐ薬草。なんとも哀愁が漂うこの惨状に左近と紅蓮は言葉を失いかける。
「伊作。大丈夫か」
時の間を置いて居た堪れないこの静寂を破る紅蓮。
見事に綺麗な形でうつ伏せに倒れた伊作の指先が、呼び掛けに対してぴくりと動く。微苦笑を携えた顔を見る限りでは大事に至らなかったようで何よりである。
「うん。平気平気。いつものことだろ?」
「まあ、そうだな」
「葉月先輩って僕たちより伊作先輩の不運慣れしてますよね。……流石というか」
「伊達に六年間の付き合いじゃないからな。酷い時は事象が連鎖する」
「あっ、それなんか身に覚えがあります」
伊作、留三郎の不運に巻き込まれた昨年の出来事を振り返る左近の目はどこか遠い。
あれは風邪を引き食欲を失くした三郎次にお粥を持って行こうとした日のことだ。
落とし穴から伊作が投げた鍵縄に運悪く引っ掛けられてしまい、後に大惨事となったのだ。打撲に火傷と。
「あれ、葉月先輩? 今日はどうした……ってなんだこれ!?」
噂をすれば何とやら。
医務室に訪れた三郎次は二日前に顔を合わせたばかりの紅蓮に驚いたのも束の間、医務室の惨事を目の当たりにして声を上げた。
「ああーっ! 三郎次、良い所に!」
すると左近はわざとらしく三郎次に向かって「猫の手も借りたいほどで!」と言わんばかりの様子を繕ってみせる。
「実は薬草を摘みに行こうと思ってたんだけど。ほら、この有様だろ? だから、葉月先輩と二人で裏山で薬草を摘んできてほしいんだ!」
「それは構わないけど」
左近は医務室の隅に転がった笊を手に取り、先ずは伊作の背に散らばった薬草を手早く回収。伊作の頭にちょこんと乗った薬草に手を伸ばそうとするが、紅蓮が先にそれを摘み上げた。
「伊作。この時期に採取できるいつものやつでいいのか?」
「うん。あとは目についたのをお願い」
「わかった。薬草摘みは私たちに任せてくれ」
笊に薬草を戻した際に「背負い籠を二つ借りていくぞ」と左近に断りを入れ、紅蓮は伊作の手を掴んで立たせた。
伊作は「悪いねぇ」と左近の話に口裏を合わせるように答える。
これはあくまで気まぐれに思いついた左近の心配りであった。
三郎次は紅蓮に想いを寄せている。
それがいつからなのかは明確には分からないが、数々の行動を振り返ると「確かにそうだ」と思うものばかりであった。
ならば、微力ながらも応援してやろうではないか。久作とも意見が合致したという粋な計らいであった。
伊作の方をちらりと窺えば目が合う。そこで伊作はにこりと左近に微笑んでみせた。どうやら伊作も同じ思いのようだ。
「じゃあ僕は外出許可を頂いてきます」
「わかった。正門で待っている」
これが保健委員二人の親切心だと今はまだ気づくことがない。
◇
「薄は薬用にならないんですね。意外です」
「伊作に煎じたものを昔飲まされたがあまり効果はなかった。薄は鑑賞用、屋根に使われるのが一般的だそうだ。そこに生えてるのは葉を潰せば傷薬になる。木の根元に生えてるのは葉に触れると被れるから気をつけるように」
忍術学園の裏山には様々な薬草が生えている。創傷、打撲、火傷などの外傷に効くものから解熱、腹痛、解毒の作用が期待できるものまで多岐にわたる。
ここは伊作、留三郎と共に薬草を摘みによく訪れる場所でもあった。
日当たりの良い場所に群生する竜胆 を一つ摘み、籠の中へ放る。三郎次が背負う籠は竜胆の他にセンブリ、白い花をつけたオケラで籠の半分ほどで占めている。
「先輩、火薬以外もお詳しいんですね」
鐘形で綺麗な青紫色の花を見ながら三郎次はそう言った。
「伊作の薬草摘みをよく手伝っていたからな。あいつはどこか出掛ける度に使える薬草がないか目を配っていた。息抜きの遠足というよりかは、薬草探しに行ったようなものだ」
「保健委員ってやっぱりそういうところに着眼点がありますよね。左近と出掛けた時、周辺に生えてる植物をよく観察していますよ」
「川西についていけば自ずと薬草を見分ける為の観察眼が養われるかもしれん。知っているのと知らないのとでは雲泥の差だ」
簡易的な薬を調合できればその場で応急手当も可能だ。薬の調達が難しい野外で役に立つ最低限の知識は頭に入れておくのが良い。
「勿論、得手不得手もある。自分の得意分野は何か見定め、それを伸ばしていくといい」と三年次の折り返しを迎える後輩に助言を送る紅蓮。己も四年次から得意武器を一つ増やしたが、早いうちから方向性を見出すことが出来れば強みとなる。
紅蓮は鮮やかに色付いた銀杏の葉を足元から拾い上げ、上方を見渡した。銀杏の木が側にありそうだ。
「今度薬草学の勉強会でも開こうかな」
「伊作に頼めば快く引き受けてくれるぞ。但し、説明は長いから覚悟しておいた方がいい。丁寧でわかりやすいのは助かるんだが」
薬草、毒草について語り始めるとあっという間に一刻が過ぎる。説明中に寝落ちたことや、痺れを切らして先に周辺の薬草を摘み始めたこともあったと笑った。
「銀杏の葉を拾っていこう。煎じたものが冷えに効くんだ」
「はい」
七尺ばかりある銀杏の樹。実をつけない株のようで、臭気に悩まさることはなさそうだ。
「それにしても、また皆が火薬委員を務めてくれるとは思わなかった。様々な委員を経験した方が学びに繋がるというのに」
学園では新学期毎に委員の改選が行われる。委員決めの際に登校が間に合わなかった生徒は、必然的に残った委員に充てられてしまう。
残り物には福がある。必ず最後に残される保健委員に充てられた生徒は「誰だよ上手いこと言うのは!」と喚く者も中にはいたものだ。
選択制ではあれど、今年度はどの委員会も特に顔ぶれに変化はなかった。
「僕はやりたかったから選んだんですよ。それに火薬委員会は相変わらず何やってるかわからないと言われてますから。競争率は保健委員の次くらいに低いです」
悲しい評判と事実に紅蓮の口元が仕方なしと弧を描く。噂では「豆腐委員会」と呼ばれ始めていることも小耳にしていた。原因は言わずもがな豆腐小僧の異名を持つ現委員長だ。
「火薬の知識、管理は馬鹿にできないものではある。かく言う私も委員会に入ってから知ったようなものだが」
紅蓮は火薬委員会の顧問に懇願され、委員長を引き受けた経緯を持っていた。それまではこの後輩が言う通り「火薬委員会は何をしているかわからない」という印象でしかなかったのだ。
各委員会の活動内容は外から見た側と、実際に行う側とでは大差があるというもの。多くの学びを得たものだと話す元委員長に三郎次は昨年から抱いていた疑問をふと投げかけてみた。
「葉月先輩はどうして火薬委員会の委員長を引き受けてくださったんですか。新学期が始まって少し日が経ってから入られましたよね」
「あれだけ日が空いてしまったのは偶然なんだ。確かに土井先生に声を掛けてもらった時は一度持ち帰らせてもらった。それでも三日ばかりで返事をするはずだったんだが、その矢先に次々とごたごたが起きてしまってな」
「……ああ、学園長先生による突然の思い付きとか。最早お約束ですね」
忍たまたちはつい先週もそれに振り回され、授業が遅れてしまったと二年は組の教科担当が胃を押さえていた。補習授業続きで長屋に帰れず、家賃の滞納がという話を何度聞いたことか。
また曲者が勝手に住み着いたという話を聞いた紅蓮は「拠点にしやすいのだろうな」と半笑いを返した。
「とまあ、結局ひと月ばかりが過ぎてしまったんだよ」
「その時点で答えはもう決まっていたんですか」
そう問われ、紅蓮は僅かに間を置いた。
勧誘されたその場で即答せずに持ち帰ったのは、一分でも迷いがあったからだ。同級生には勧められたが、今の今までどこにも属さずにいた躊躇いが紅蓮に纏わりついていた。
夕暮れを連れた風が傍にある薄の穂を揺らす。
「正直に言えば、迷っていた。前にも話した通り、皆に迷惑を掛けるだろうと思っていたんだ。最上級生とはいえ、ぽっと出の様な者が長を務めることに反感を買うのではと」
「迷惑や反感だなんて一つも。先輩が火薬委員会に入ってくださって、僕らは大助かりでしたよ。葉月先輩は火薬の知識も豊富で扱いにも長けてる。面倒見も良いし優しくて、そりゃあ時には厳しい一面もある。でもそれは必要なことですし。これ以上に先輩らしい先輩を見たことがありませんよ」
葉月紅蓮という人間はこの上なく素晴らしい人格の持ち主だ。と言わんばかりに持ち上げるものだから、紅蓮は小恥ずかしそうに笑い返した。
しかしそこに建前などではなく、本音を熱弁した三郎次の表情もつられて赤らむ。
「私はそこまで出来た人間じゃない。それにしても、土井先生と同じことを言う。先生にもそう煽てられたよ」
「べっ別に煽てたわけじゃありませんからね! 先輩は本当に僕の憧れというか、なんというか」
いよいよカッと火が点いた様に顔を赤らめた。尻すぼみになった言葉の先もごにょごにょと呟く。相手に届かなくても良いと思っている。今は、未だ。
紅蓮が五年間、委員会に属さなかった理由は極力他者との関わりを避けるためであった。人との関りが増え、過ごす時間に比例して正体がバレる確率が上がる。女とバレて後々面倒になることを避けたかったのだ。
その考えも最上級生になってからは僅かに緩んだ。何かと後輩を可愛がる同級生を羨ましく思っていたからだ。
「先輩」と己を慕う後輩の存在に憧れた。考えてみれば私利私欲のようなものであった。例えそうだとしても、この後輩のように誰かの標になれたのであればと思うと、嬉しさが勝る。
「……葉月先輩。改めて火薬委員会に入ってくださって、本当に有難うございます。先輩がいなきゃ、今年も火薬委員になろうとは思ってませんでしたから」
「私も火薬委員会に入って良かったと思っている。一年の時から慕ってくれていた後輩と話す機会も沢山出来たわけだしな」
「そう、ですね。それは本当にそう思います」
「三郎次がいれば火薬委員会も安泰だと思う」
「六年間火薬委員務めあげてみせます」
「いや、今のは冗談だ。好きな委員会に移っていいんだぞ」
「僕は火薬委員会が好きなんですよ」
火薬委員に属してさえいれば、会う頻度は増すのだから。
三郎次もまた私利私欲の考えを持ち合わせているのであった。
季節が移ろいゆくのは実に早い。
梅雨が明け、夏の暑さがようやく過ぎたと思えば秋風が吹き始めた。
秋風が撫でた山の木々は鮮やかに色付き、楓の葉を散らす。ひらりひらと舞う目を覚ますような紅が草むらを覆い尽くす頃には冬の足音がすぐそこまで聞こえてくるだろう。
金楽寺から忍術学園へと続く野道。薄の穂が開き始めており、風にさわさわと揺れるその姿は風情がある。
この薄を摘み、お月見のお供えにしたこともあった。長屋の廊下から眺めた中秋の名月は綺羅びやかでいる反面、真っ暗闇の海にひっそりと寂しく浮かぶ。その様を「ちょっと寂しそうだよね。月は独りぼっちだから」と呟いた友の言葉を紅蓮は懐かしんでいた。
忍術学園の正門を軽快に叩けば「はーい」と直ぐに門番が応えた。
来客用の小さな戸から姿を覗かせた小松田秀作は紅蓮の顔を見ると、ふにゃりとした笑顔を見せた。
「紅蓮くんいらっしゃい。今日は稽古の日? あれ、でも一昨日来ていたような気もするけど」
「今日は学園長先生に金楽寺の和尚様からお預かりした文をお持ちしました」
「ああ、それで。学園長先生なら庵にいらっしゃいますよ」
「有難う御座います。小松田さん、入門表を」
「あ、ごめんごめん」
外部からの来客には直ぐ様「入門表にサインを!」と押し付けてくる事務員。サインを渋る相手には叩きつけるといった表現が適切なほど迫ることもある。
それがいつまで経っても入門表にサインを求めてこなかったので、こちらから声をかけた。今ここでサインをしておかなければ、後々面倒くさいことを十分に紅蓮は知っている。
いそいそと入門表と筆を揃えて紅蓮に差し出す秀作はにへらと笑った。
「紅蓮くんがまだここの生徒みたいに思えちゃって。ついつい忘れちゃいそうになるんだよね」
「……小松田さん。私は留年したつもりはないですよ」
「ごめんごめん。そういえば紅蓮くんたちが卒業してからもう半年も経つんだね。なんだかあっという間だなぁ」
「本当に。月日の流れは早いものです」
「仕事の方はどう?」
「ぼちぼちですね。まだまだフリーの駆け出しですから」
「そっか。……はい、確かに。ではどうぞお入りください」
秀作は入門表に書かれた名前と用件を一瞥すると、笑顔で紅蓮を招き入れた。
◇
学園長に文を滞りなく届け、多少の雑談を交わした後、紅蓮は庵を後にした。
秋風に揺れた野花の細い葉に赤とんぼが一匹。暫し翅をゆったりと休めていたが、足場を風に揺らされると落ち着かなくなったのか、すぃーっと飛んでいってしまった。
秋の空は高く、広がった薄水色に鱗雲が連なる。
紅蓮は正門でやりとりした秀作との会話をぼんやりと思い返していた。
この学び舎を卒業して半年が経つ。
外の世界は予想以上に厳しいものであった。幸い深手を負うことはなくとも、軽い怪我の耐えない日々が続く。創傷、打撲、火傷など。先日は火箭が掠めた手の甲に軽い火傷を負ってしまう羽目となった。
入念に水で冷やしたお陰で痛みはだいぶ和らいだが、赤みがまだ引かない。そこで活躍するのが忍術学園保健委員印の軟膏。これを塗れば奥底に潜むじくじくとした痛みも、腫れた赤みもすっと引いていく。流石と言える代物で、在学中から紅蓮は愛用していた。
経過も良好で瘡蓋も安定。その箇所は手甲で隠している。医者見習いの友人及び後輩に見つかれば気を遣わせてしまう。要らぬ心配を掛けないようにとの配慮であった。
紅蓮は学園に寄った際は必ず伊作の元を訪れる。
様々な理由で取り込み中でなければ、取り留めのない駄弁りで時間を潰す。時には情勢について真面目に交わすこともあった。昨日の友は今日の敵という言葉があるように千変万化するこの乱世。常に情報を差し替えていかなければならない。
各地に散った友との対立を極力避けられるように。
こうした考えに耽る度に「己は忍者に向いていない」と思い余る。そうぼやく自分に「そこが君の良い所だと僕は思うよ」そう優しく声を掛けてくれる同級生に何度救われたことか。
持つべきものは良き理解者でもある友人だと紅蓮は痛切に感じていた。
さて、今日は手土産になる話は特に持ち合わせていない。なにせ二日前に訪れたばかりなのだ。
裏山の
三つばかり話を見繕いながら紅蓮は医務室に向かった。
戸の前に立ち「失礼します」と声を掛けた。室内にはよく知る気配が一つと、友人の後輩らしきものが一つ。ここまでは良かったのだ。
紅蓮が引き戸を開けた瞬間、伊作が何もない所で躓きその手に持っていた笊が宙へと放り出された。
そこからの出来事は一瞬のうちに過ぎ去ったものだが、彼らの目には異様な遅さで映る。
舞う薬草。笑顔で倒れ行く伊作。焦りに染まっていく左近の顔。
べしゃっという擬音と共に伊作が床に倒れ伏した。その背にはらはらと降り注ぐ薬草。なんとも哀愁が漂うこの惨状に左近と紅蓮は言葉を失いかける。
「伊作。大丈夫か」
時の間を置いて居た堪れないこの静寂を破る紅蓮。
見事に綺麗な形でうつ伏せに倒れた伊作の指先が、呼び掛けに対してぴくりと動く。微苦笑を携えた顔を見る限りでは大事に至らなかったようで何よりである。
「うん。平気平気。いつものことだろ?」
「まあ、そうだな」
「葉月先輩って僕たちより伊作先輩の不運慣れしてますよね。……流石というか」
「伊達に六年間の付き合いじゃないからな。酷い時は事象が連鎖する」
「あっ、それなんか身に覚えがあります」
伊作、留三郎の不運に巻き込まれた昨年の出来事を振り返る左近の目はどこか遠い。
あれは風邪を引き食欲を失くした三郎次にお粥を持って行こうとした日のことだ。
落とし穴から伊作が投げた鍵縄に運悪く引っ掛けられてしまい、後に大惨事となったのだ。打撲に火傷と。
「あれ、葉月先輩? 今日はどうした……ってなんだこれ!?」
噂をすれば何とやら。
医務室に訪れた三郎次は二日前に顔を合わせたばかりの紅蓮に驚いたのも束の間、医務室の惨事を目の当たりにして声を上げた。
「ああーっ! 三郎次、良い所に!」
すると左近はわざとらしく三郎次に向かって「猫の手も借りたいほどで!」と言わんばかりの様子を繕ってみせる。
「実は薬草を摘みに行こうと思ってたんだけど。ほら、この有様だろ? だから、葉月先輩と二人で裏山で薬草を摘んできてほしいんだ!」
「それは構わないけど」
左近は医務室の隅に転がった笊を手に取り、先ずは伊作の背に散らばった薬草を手早く回収。伊作の頭にちょこんと乗った薬草に手を伸ばそうとするが、紅蓮が先にそれを摘み上げた。
「伊作。この時期に採取できるいつものやつでいいのか?」
「うん。あとは目についたのをお願い」
「わかった。薬草摘みは私たちに任せてくれ」
笊に薬草を戻した際に「背負い籠を二つ借りていくぞ」と左近に断りを入れ、紅蓮は伊作の手を掴んで立たせた。
伊作は「悪いねぇ」と左近の話に口裏を合わせるように答える。
これはあくまで気まぐれに思いついた左近の心配りであった。
三郎次は紅蓮に想いを寄せている。
それがいつからなのかは明確には分からないが、数々の行動を振り返ると「確かにそうだ」と思うものばかりであった。
ならば、微力ながらも応援してやろうではないか。久作とも意見が合致したという粋な計らいであった。
伊作の方をちらりと窺えば目が合う。そこで伊作はにこりと左近に微笑んでみせた。どうやら伊作も同じ思いのようだ。
「じゃあ僕は外出許可を頂いてきます」
「わかった。正門で待っている」
これが保健委員二人の親切心だと今はまだ気づくことがない。
◇
「薄は薬用にならないんですね。意外です」
「伊作に煎じたものを昔飲まされたがあまり効果はなかった。薄は鑑賞用、屋根に使われるのが一般的だそうだ。そこに生えてるのは葉を潰せば傷薬になる。木の根元に生えてるのは葉に触れると被れるから気をつけるように」
忍術学園の裏山には様々な薬草が生えている。創傷、打撲、火傷などの外傷に効くものから解熱、腹痛、解毒の作用が期待できるものまで多岐にわたる。
ここは伊作、留三郎と共に薬草を摘みによく訪れる場所でもあった。
日当たりの良い場所に群生する
「先輩、火薬以外もお詳しいんですね」
鐘形で綺麗な青紫色の花を見ながら三郎次はそう言った。
「伊作の薬草摘みをよく手伝っていたからな。あいつはどこか出掛ける度に使える薬草がないか目を配っていた。息抜きの遠足というよりかは、薬草探しに行ったようなものだ」
「保健委員ってやっぱりそういうところに着眼点がありますよね。左近と出掛けた時、周辺に生えてる植物をよく観察していますよ」
「川西についていけば自ずと薬草を見分ける為の観察眼が養われるかもしれん。知っているのと知らないのとでは雲泥の差だ」
簡易的な薬を調合できればその場で応急手当も可能だ。薬の調達が難しい野外で役に立つ最低限の知識は頭に入れておくのが良い。
「勿論、得手不得手もある。自分の得意分野は何か見定め、それを伸ばしていくといい」と三年次の折り返しを迎える後輩に助言を送る紅蓮。己も四年次から得意武器を一つ増やしたが、早いうちから方向性を見出すことが出来れば強みとなる。
紅蓮は鮮やかに色付いた銀杏の葉を足元から拾い上げ、上方を見渡した。銀杏の木が側にありそうだ。
「今度薬草学の勉強会でも開こうかな」
「伊作に頼めば快く引き受けてくれるぞ。但し、説明は長いから覚悟しておいた方がいい。丁寧でわかりやすいのは助かるんだが」
薬草、毒草について語り始めるとあっという間に一刻が過ぎる。説明中に寝落ちたことや、痺れを切らして先に周辺の薬草を摘み始めたこともあったと笑った。
「銀杏の葉を拾っていこう。煎じたものが冷えに効くんだ」
「はい」
七尺ばかりある銀杏の樹。実をつけない株のようで、臭気に悩まさることはなさそうだ。
「それにしても、また皆が火薬委員を務めてくれるとは思わなかった。様々な委員を経験した方が学びに繋がるというのに」
学園では新学期毎に委員の改選が行われる。委員決めの際に登校が間に合わなかった生徒は、必然的に残った委員に充てられてしまう。
残り物には福がある。必ず最後に残される保健委員に充てられた生徒は「誰だよ上手いこと言うのは!」と喚く者も中にはいたものだ。
選択制ではあれど、今年度はどの委員会も特に顔ぶれに変化はなかった。
「僕はやりたかったから選んだんですよ。それに火薬委員会は相変わらず何やってるかわからないと言われてますから。競争率は保健委員の次くらいに低いです」
悲しい評判と事実に紅蓮の口元が仕方なしと弧を描く。噂では「豆腐委員会」と呼ばれ始めていることも小耳にしていた。原因は言わずもがな豆腐小僧の異名を持つ現委員長だ。
「火薬の知識、管理は馬鹿にできないものではある。かく言う私も委員会に入ってから知ったようなものだが」
紅蓮は火薬委員会の顧問に懇願され、委員長を引き受けた経緯を持っていた。それまではこの後輩が言う通り「火薬委員会は何をしているかわからない」という印象でしかなかったのだ。
各委員会の活動内容は外から見た側と、実際に行う側とでは大差があるというもの。多くの学びを得たものだと話す元委員長に三郎次は昨年から抱いていた疑問をふと投げかけてみた。
「葉月先輩はどうして火薬委員会の委員長を引き受けてくださったんですか。新学期が始まって少し日が経ってから入られましたよね」
「あれだけ日が空いてしまったのは偶然なんだ。確かに土井先生に声を掛けてもらった時は一度持ち帰らせてもらった。それでも三日ばかりで返事をするはずだったんだが、その矢先に次々とごたごたが起きてしまってな」
「……ああ、学園長先生による突然の思い付きとか。最早お約束ですね」
忍たまたちはつい先週もそれに振り回され、授業が遅れてしまったと二年は組の教科担当が胃を押さえていた。補習授業続きで長屋に帰れず、家賃の滞納がという話を何度聞いたことか。
また曲者が勝手に住み着いたという話を聞いた紅蓮は「拠点にしやすいのだろうな」と半笑いを返した。
「とまあ、結局ひと月ばかりが過ぎてしまったんだよ」
「その時点で答えはもう決まっていたんですか」
そう問われ、紅蓮は僅かに間を置いた。
勧誘されたその場で即答せずに持ち帰ったのは、一分でも迷いがあったからだ。同級生には勧められたが、今の今までどこにも属さずにいた躊躇いが紅蓮に纏わりついていた。
夕暮れを連れた風が傍にある薄の穂を揺らす。
「正直に言えば、迷っていた。前にも話した通り、皆に迷惑を掛けるだろうと思っていたんだ。最上級生とはいえ、ぽっと出の様な者が長を務めることに反感を買うのではと」
「迷惑や反感だなんて一つも。先輩が火薬委員会に入ってくださって、僕らは大助かりでしたよ。葉月先輩は火薬の知識も豊富で扱いにも長けてる。面倒見も良いし優しくて、そりゃあ時には厳しい一面もある。でもそれは必要なことですし。これ以上に先輩らしい先輩を見たことがありませんよ」
葉月紅蓮という人間はこの上なく素晴らしい人格の持ち主だ。と言わんばかりに持ち上げるものだから、紅蓮は小恥ずかしそうに笑い返した。
しかしそこに建前などではなく、本音を熱弁した三郎次の表情もつられて赤らむ。
「私はそこまで出来た人間じゃない。それにしても、土井先生と同じことを言う。先生にもそう煽てられたよ」
「べっ別に煽てたわけじゃありませんからね! 先輩は本当に僕の憧れというか、なんというか」
いよいよカッと火が点いた様に顔を赤らめた。尻すぼみになった言葉の先もごにょごにょと呟く。相手に届かなくても良いと思っている。今は、未だ。
紅蓮が五年間、委員会に属さなかった理由は極力他者との関わりを避けるためであった。人との関りが増え、過ごす時間に比例して正体がバレる確率が上がる。女とバレて後々面倒になることを避けたかったのだ。
その考えも最上級生になってからは僅かに緩んだ。何かと後輩を可愛がる同級生を羨ましく思っていたからだ。
「先輩」と己を慕う後輩の存在に憧れた。考えてみれば私利私欲のようなものであった。例えそうだとしても、この後輩のように誰かの標になれたのであればと思うと、嬉しさが勝る。
「……葉月先輩。改めて火薬委員会に入ってくださって、本当に有難うございます。先輩がいなきゃ、今年も火薬委員になろうとは思ってませんでしたから」
「私も火薬委員会に入って良かったと思っている。一年の時から慕ってくれていた後輩と話す機会も沢山出来たわけだしな」
「そう、ですね。それは本当にそう思います」
「三郎次がいれば火薬委員会も安泰だと思う」
「六年間火薬委員務めあげてみせます」
「いや、今のは冗談だ。好きな委員会に移っていいんだぞ」
「僕は火薬委員会が好きなんですよ」
火薬委員に属してさえいれば、会う頻度は増すのだから。
三郎次もまた私利私欲の考えを持ち合わせているのであった。