軽率なコラボシリーズ
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贈り物
「あ、珍しい」
不二子は挨拶よりも先に開口一番その言葉が出た。
事務室で雑用を済ませ、一年生の教科担任に書類を届けるべく教員長屋に向かう途中のこと。教員長屋の廊下で小袖姿の紅蓮とばったり出会ったのだ。
彼女本人と会うのが珍しいという発言ではない。その姿でいることが珍しかったので、つい口に出てしまった。
髪を下ろし、牡丹の花を白抜きで染めだした淡黄蘗 の小袖に身を包み、控えめに施した化粧。全体的に涼やかな印象を与えるこの姿。即ち女子の姿である。
普段は野袴を履いており、男装姿で学園を訪れることが多い。特別講師として呼ばれた時は必ずといっていいほどである。教科、実技共にだ。講師として最初に訪れた時は多くの生徒が紅蓮を男だと思い込んでいた。それが三郎次も呼ばれるようになると混乱を極めたというもの。なにせ姓が同じで、仲睦まじい様子も見られたので。
「御兄弟ですか?」
「でも似てないよ。遠い親戚かも」
「偶々姓が同じなのかも」
事実を隠す必要もなければ、黙ることでもない。「私たちは夫婦だ」と公開すると目を点にして驚かれ、そこから良い子たちの質問攻めにあう羽目に。
「どこで出逢ったんですか」から始まり「どちらが告白したんですか」「紅蓮さん、決め手はなんだったんですか!」といつの間にかくノ一教室も話に加わっていた。
しかしそれも最初の頃だけであり、講師として訪れる回数を重ねるうちに落ち着いていった。今では「夫婦仲の良い特別講師」として見守られている。
「珍しいね、霧華さんがその姿でいるの」
「先程着替えたんです。二年生に私の女装姿が見たいとせがまれましたので」
前髪を手で横に払いながら紅蓮が眉尻を下げて笑った。その口調は普段よりも幾分か柔らかいものに聞こえる。
「前から思ってたんだけどさ」
「はい」
「女装っていうのもなんか変だよね。元の姿って言った方が適切な気もする」
「まあ、今更ですね。どちらでいようと、私は私なので。三郎次もそれで良しとしてくれますし」
「言ってたもんね。霧華さんは霧華さんだって。池田くん、本当に霧華さんのこと大好きだよね。等身大のラブってやつ?」
先日、学園を訪れた留三郎が不二子にこう話したという。「あいつは余すとこなく紅蓮の全てに惚れてるんだよ」と恥ずかしげもなく言い切ったのだ。それも良い笑顔で。二人が丸く収まって一番喜んだのはこの男でもあった。
やや視線を下げながら恥じらう姿は女子そのもの。
頭の動きで揺れた毛先が不二子の目に映った。髪の毛先を束ねる結紐が見慣れないものだ。柳色の紐に銀糸を織り込んでおり、光にきらきらと反射する。
「あれ、結紐新しくした?」
「これは、その。三郎次から貰いました。……先日の貴女方のお揃いの話に感化されたようで」
「えっ、お揃いで買ったの?」
「まあ、色違いで同じ物を」
柳色を自分が、檜皮色 のものを三郎次が使っていると話す紅蓮。普段使いというよりは、ちょっとした外出時に結ぶという。
この話を聞いた不二子はじっとその結紐を見つめていた。かと思えば、ハッと何か気付いたように声を上げる。
「髪の色だ」
「髪の色?」
「お互いの髪の色だよね、それ。霧華さんが付けてるのは池田くんの髪色で、池田くんがつけてるのは霧華さんの髪色」
「……言われてみれば」
指摘されて初めて気がついたようで、紅蓮は括られた髪を前の方に持ってくる。確かにこれは伴侶の髪色に近い。
「霧華さん、気づかなかったの……?」
「……逆に気がつくものなんですか、こういった類は」
「多分。池田くんがこれ渡してくれた時どんな顔してたの」
「どうって、嬉しそうにしていましたよ。……ああ、成程。そういうことか」
「ちょっと待って。事件の真相何から何までわかって一人で納得するスタイルはいつも視聴者を置いてけぼりにする」
「こっちは何一つ真実がわからないまま後編を迎えるんだよ」と真顔でよくわからないことを言う不二子を不思議に思うも、紅蓮は自分の見解を述べた。
「これを受け取った時に私の好きな色だと言ったんですよ」
「……つまり、それって池田くんの髪色と同じだから」
「皆まで言わないでください」
尻すぼみになる言葉を発した紅蓮は目をはっきりと逸らした。
これは無意識下で「三郎次と同じ色だから好きだ」と伝えたようなもの。その時伝えた本人が意図をわかっていなくとも、言われて喜ばないはずがない。
恐らく赤らんでいる頬。袖で覆い隠した口元はへの字に歪み、目元には熱が帯びている。
そんな彼女を不二子は「こんな風に照れるんだなぁ」と温かい眼差しで見守っていた。何より、女子らしい照れ方だ。
「あ、そういえばこの時代の人って紅は同じ色使うの? 私の時代だと何種類も色を楽しむんだよ。それこそコスメケースいっぱい持ってる人いるし」
「それはすごいですね。この時代でも数種類の紅を持つ女子はいると思いますよ」
町娘であればお洒落として、忍びならば場に応じた変装をする為に。複数の紅を持つことは不思議ではない。
だが、不二子は紅蓮の口元を彩る紅の色がいつも同じ色であることに気が付いた。
薄い橙色。肌に馴染むその色はとても良く似合っている。
「霧華さんはいつも同じ色使ってるから、この時代の人は一種類しか使わないのかなって。肌に合う合わないもありそうだけどさ」
これには紅蓮も驚きを隠せずにいた。
この人は鈍いようでいて、鋭い。こういった物事には特にだ。特定の事だけに鋭く、他は鈍い。
否、これは自分にも当て嵌まる。他者の感情の動きには鋭いが、色恋沙汰に関することは疎いと友人から多々苦言される。
私たちは似たもの同士かもしれない。
今更ながらそう思う紅蓮であった。
「よく見ていらっしゃいますね。普通の人間は紅の色をいちいち憶えていませんよ」
「んー……あの色いいなぁ可愛いなぁって思いながら見てるからかな」
「成程。つまり裏を返せば、紅の色で同一人物と見破られる恐れもある。勉強になります」
「いやそういうつもりで言ったんじゃないんだけどね」
またもや一人頷き合点とする紅蓮に「そうじゃない」と軽くツッコミが入った。
「この色は似合いませんか」
「ううん。すごく合ってる。センスいいなぁって」
不二子は紅蓮の女子姿を数える程度でしか見たことがない。それは彼女が在学中も含めてだ。
三日間の女装実習でも毎日同じ色を纏っていた。こうして顔を見せに来た際も同じ色。
たった数回しか見ない化粧でも、印象というものは決まる。変に浮かず、肌に馴染んだ良い色だと不二子は褒めた。
すると、紅蓮は嬉しそうにふわりとした笑みを浮かべた。それはまるで自分のことではなく、後輩や親しい人を褒められた時のような優しい微笑み。
「有難うございます。私も気に入っている色なんですよ」
「もしかして池田くんからの?」
「いえ、これは」
紅蓮はそこで一度言葉を止め、
「私の友人が昔見立ててくれたものです」
そう、続けた。
「あいつは色の見立てが良いやつでして。女装の評価もかなり良かったんですよ、それこそ仙蔵よりも」
「え、あの仙子さんよりも? それすごくない?」
女装した忍たまの中では飛び抜けて美しい女子に扮した。それは未だ鮮烈に不二子の記憶に残っている。ただ、あまりにも見目麗しいせいで気後れした男たちが中々声を掛けてこず、課題に苦戦した。
「愛想が良く人懐っこい性格だったので。花が咲いたように明るい笑みを浮かべていましたよ。話術にも長けていたので、情報を引き出す天才でした」
「……ね、その子のこと。私、もしかして知らない」
不二子は薄々勘づいていた。
紅蓮の口から語られる話は全て、過去形であるということに。
聞いた話に結びつく忍たまは一人もいないのだ。だが、紅蓮は昔からの友人といった風に話す。自分が知らないということはつまり。
紅蓮は深い哀色に染められたその目をそっと伏せた。
「不二子さんが知らないのは当然です。その友人は私が四年次の時に実習で命を落としましたから」
「もう何年も前の話だ」誰に聞かせるわけでもない、ぽつりと漏らした言葉は己に向けたもの。
「四年にもなると実力もつき、一通りのことはできる年になります。その慢心が生んだとも言われていました。けど、あいつの場合は恐らく」
――私たちを逃がすために、一人留まった。
殿を務めた友の側にいたのなら、学園に戻り着く前に気付けたかもしれなかった。
硬く握りしめられた拳は微かに震えていた。
「……それで霧華さんは四年生にとりわけ厳しいんだね」
「その時期は私自身も過信することがありましたから。戒めとして」
「だから池田くんのことも容赦なく投げ飛ばしたとか?」
顔を上げた紅蓮は笑っていた。哀の面を取り繕うかのように。
「兵助にでも聞きましたか。確かに手加減せずに投げ飛ばしましたね。学園から外の世界へ歩み出た時に生き延びてほしい。その一心で」
己を守る術を身に着けなければこの乱世を駆け抜けることは難しい。
後輩にその術を教え、学ばせた。
紅蓮は六年次から強い思念を抱き続け今に至る。特別講師として自分が出来ることを日々模索中であった。
「それだけその頃から大切に思ってたんだね。池田くんのこと」
「そうですね。特段私のことを慕ってくれた後輩でしたから。生きてほしいと願うのは至極当然ですよ」
そうじゃないんだよなぁ。とでも言いたげに不二子は口をへの字に曲げる。
昔から気にかけていたのは、そこに好きの想いがあったからではないのかと。しかし本人はそこまで意識していなかった様子。
これを紅蓮の伴侶に伝えたとしても遠い目で「存じてます」と言うに違いない。
それでもそこから築き上げ固く結ばれた絆。恐らく何者にも解くことはできないのだろう。
少しそれが羨ましい。そんな感情がじわりと不二子の胸に淀む。
ちらりと見上げた白縹 の空。薄く細長い筋状の白雲が浮かんでいた。
「すみません。立ち話でするようなものではなかった」
「ううん。こっちこそ、なんかごめんね」
「それは私の台詞でもありますよ。貴女の前でするべき話ではありませんでしたね」
「気を遣ってくれてありがと。……ね、その人って霧華さんの大事な人だったの」
目を丸くする紅蓮。その聞き方はまるで「恋焦がれていた相手だったのではないか」不二子はそう聞きたげでいて、どこか真剣な表情であった。
大事な人か。そう問われたならば、答えは躊躇いなく、唯一つ。
「咲は私にとって唯一無二の親友ですよ」
水滴が一雫さえ垂れることもなく、並々と縁にまで満ちた水面は揺らぎを見せることはなかった。
◇◆◇
それから幾日ばかり過ぎた昼下がり。
紅蓮たちは採点済の答案用紙を提出するべく、忍術学園を訪れていた。
「今回は少し出来が悪い」「基礎が抜けている者が多いのでは」そんな会話のやり取りをしながら教員長屋に足を運び、久々知の名札が掛けられた部屋の戸を軽く叩いた。
「池田です」
「あっ、いや……どうぞ!」
「失礼します」
歯切れの悪い返事に紅蓮と三郎次は顔を見合わせる。応ときたのだ。構わずに戸を引くと、室内にいた兵助――艶のある長い黒髪を下ろした小袖姿――と目が合った。
兵助は鏡と向き合っており、化粧の途中である。
「これから女装忍務か」
「ええ、まあそんなところです」
「その割におどおどしてません? 何かやましい事でもあるんじゃ」
「何言ってるんだ三郎次。やましい事なんて何もないぞ」
ジト目で兵助を睨む三郎次は「じゃあ何故そんなに落ち着かない様子で?」と追い打ちをかける。
兵助は豆腐のように大きな目をきゅっと細め、恥じらいに口元を引きつらせた。
「……化粧してるところ、人に見られるのって恥ずかしくありません?」
「まあ、外野にとやかく言われるのは気分が悪くなるものだからな」
「でしょう? そもそも女装してやましいことって」
「我々忍者ともなれば様々な事例がある」
「浮気とか」
今度はその目が大きく見開かれる。黒か、と思う暇もなく「何を言ってるんだ」と怒声に近いものが返ってきた。
声色に焦りは含まれておらず、疑いを掛けられ単純に怒りを顕わとしたものだ。
「俺が浮気するわけないだろ」
「そう言う人に限って」
「三郎次」
これ以上の余計な一言は論争に繋がりかねない。紅蓮は三郎次を制し、兵助の顔色をひっそりと窺った。相変わらず動揺は見られない。
「あらぬ疑いをかけて悪かった」
「……それで、今日はどうされたんですか」
むくれ、膨れ面で拗ねる様もどこか御内儀に似ている。これを見る限り、要らぬ心配のようでもあるのだが。
紅蓮は答案用紙を纏めて兵助に「これの提出に伺っただけだ」と差し出した。
「有難うございます。……ざっと見た感じですけど、全体的に成績悪くありませんかこれ」
「そこが次の問題点だ。基礎が抜けている者が多いようだから、そこを補う方法は先生方に任せるよ。私たちを呼んでもらっても構わないし、どちらでも良い」
「わかりました」
束ねた答案用紙を文机に置く兵助の顔は悩ましいもの。「補習授業設けた方が良いかもな」と独り言が聞こえてきた。
「私たちはこれで失礼する」
「あっ、先輩。紅を貸していただけませんか」
「紅?」
ふと、三郎次の瞼がぴくりと痙攣した。
この会話に妙な既視感を抱いたのだ。昔、似たような場面に出くわしたような。
「ちょうど使い切ってしまってたようで、買うのもうっかり忘れてしまい。最近忙しかったから町にも行けてなかったんです」
この台詞回し。六年ほど前に同室の友人が似たようなことを言っていた。そこで何があったのかも鮮明な記憶として蘇ってくる。紅を切らしたと言った左近に紅蓮は自分の紅を貸したのだ。
またその流れになるのかとうんざりしそうになる三郎次であったが、今回はどうも雲行きが異なるようであった。
紅蓮がすんなり紅を貸すかと思いきや、渋るように眉根を寄せた。
「あー……悪いが私も丁度この間使い切ってしまってな」
「そうでしたか。三郎次は?」
「俺たちじゃなく久々知さんに借りれば良いじゃないですか」
つっけんどんな言い方を気にすることなく、兵助は弾かれたように顔をハッとさせた。
「その手が。早速借りてきます」
タッと部屋を出たその背が見えなくなったのを見計らい、三郎次が口を開いた。
「なんでそこに気づかないんですかね。一番借りやすい相手では?」
「あいつもどこか天然な所があるからな」
兵助が消えていった方を見る紅蓮の顔も半ば呆れていた。
この時間であれば不二子は食堂で昼食の仕込みをしている。直ぐには戻ってこられないだろう。
ここ数日間、偶々学園に出入りすることになった紅蓮。
一日目は午前から午後にかけての座学。二日目は午後から夕方にかけて実技指導。三日目はある城から頼まれた文を学園長先生に届けた。
こう頻繁に出入りすることになれば、当然食堂で腹ごしらえをする回数も増える。そこで気づいたのだ。
食堂のメニューに異変が起きていることに。
豆腐を主菜とした定食がない。忽然と消えたわけではなく、申し訳程度に小鉢に添えられた。肩身を狭そうにした冷奴が。
一日目だけなら異変を感じることはなかっただろう。それが二日、三日目と続いたのでこれはどうもおかしいと紅蓮は勘付いた。
大方、久々知夫妻に何かあったのだろう。以前不二子は豆腐で物申すような口ぶりであった。つまり、兵助に何か思うことがある。その辺の生徒に聞けば「最近ずっとこうですよ」と返ってきた。
何があったのかはまだ掴めていないが、対処は早めにするに越したことはない。そう思い、三郎次にもこの異変を話したというわけであった。
だが、兵助の様子を見た限りでは特に怪しい点は見られなかった。
単なる思い過ごしか。学園の内部事情を知る仙蔵辺りに聞くのが手っ取り早いのだが、それだと余計な波風が立ちかねない。ここはもう少し静観するか。そう決断した紅蓮は三郎次の方をちらりと窺った。
「どう思います、霧華さん。やっぱり不自然ですか」
本題を問い掛けてきた三郎次は己の意見を述べるよりも先ず、紅蓮の意見に耳を傾けようとした。
問われた紅蓮は「ふむ」と顎に指を当てる。この段階では断定がし難い。
「いや、なんとも。それはそうと三郎次。直接的に訊くんじゃない。無駄に兵助の怒りを買ってしまうぞ」
「ぼやかしても意味がないですよ。世の中はっきりと言わなきゃわからない人もいるんですし」
「……」
「それにその方が感情を揺さぶりやすい。情報を集める常套手段ですよ。特に久々知先輩は久々知さんに関することは顔や態度に兎に角出やすい」
「良くも悪くも真っ直ぐな奴だからな、兵助は。……それにしても、その冷静な洞察力は誰に似たんだ」
三郎次は兵助に怒鳴られたところでたじろぐ様子などは微塵も見せず、見知った人間相手に鋭い目を向けていた。瞬き一つ見逃すまいといった風に。
「俺の尊敬する先輩じゃないですかね。誰とは言いませんけど」そうしれっと三郎次は宣った。
長屋の庭から雀の鳴き声が聞こえてきた。
ちゅん、ちゅんとしきりに誰かを呼ぶように鳴いている。姿は見えないが、声のする方角からして庭木の梢で鳴いているようだ。
「さて、兵助が戻ってくる前に去るとするか。他に情報を仕入れられそうな人もいないしな」
「食堂のおばちゃんに話を聞いてみてはどうでしょう。久々知さんと同じ場にいることが多いですし」
「それは私も考えた。だが、下手をすれば不二子さんに我々が探っていることがバレてしまう。事態を悪化させることは極力避けたい」
自分の周辺で探りを入れられている。
それに気づかなければ知らぬが仏。だが一度気に留めてしまうと、居心地が悪くなり不信感も強く煽られる。結果的に「貴女の為だ」となろうと、その過程で生じた歪を解消するのは悉く難しい。
出来得ることならば、それを避けたいという紅蓮の考えであった。
「霧華さん、久々知さんとよく話すようになりましたよね。在学中はそうでもなかったのに。よく気に掛けるようにもなったし」
「そうだな。在学中に話はあまりしなかったが、それなりに心配はしていたさ。姿を忽然と消したと思いきや、また現れ、そしてまた消えた」
それの微兆などは何もなかった。本当に神出鬼没な女子だった。
当時それとなく避けていたとはいえ、毛嫌いをしていたわけではない。多くの忍たまに囲まれていたあの人の笑顔は優しいものであった。そこから人の良さが溢れており、好かれる理由も頷けたというもの。兵助の隣にいた時は、とりわけ柔らかい表情を浮かべていた。
「この時代があの人にとって住みやすいかと聞かれれば、そうとは思えない。我々が計り知れない不自由も十二分にあるだろう。だが、それを置いても幸せになってもらいたいと私は願っている」
だからこそ現状が歯痒い。直に話を聞けば良いのだろうが、それで解決するようなことでもないような気が薄々としていた。後に少なからずこの勘が当たることとなるのだが。
「……兎に角、今は静観するしかあるまい」
「そうですね」
二人はそこでこの話題に区切りをつけた。ここで延々と話していても仕方がないことだと。
長屋の廊下を進む途中、三郎次が「あ、そうだ」とわざとらしく声を上げた。廊下のど真ん中で立ち止まったので「どうした」と紅蓮も足を止め振り返る。近くに感じた気配を気にしながらも。
「忘れないうちに」
三郎次は肩掛けの荷物を手で探り、右手に何かを掴んだ。それから反対の手で紅蓮の左手を取り、その手の平に持っていたものを握らせた。
ゆっくりと離れた指先から見えたのは、二枚貝。これを見た紅蓮は刹那身構えた。無理もない。先日、久々知夫妻の渦中となったと言われる代物と同じ形をしていたのだから。
よもや軟膏が入っているのでは。そんな考えも過るが、中は紛れもなく鮮やかな紅が塗られていた。
普段身に着けるものとは色調が異なる、萩色の紅。
紅蓮は片手に受け取ったこれを見つめ、徐に三郎次の顔を見る。やや視線を逸らしたその顔はやや熱を帯びていた。
「そういえば、俺から贈ったことなかったなぁと思って。本当は昨日のうちに渡したかったんですけど、なんかそれどこじゃない話になったし」
家に帰るなり「不二子さんの様子がおかしいかもしれない」という話になり、互いが知る情報の交換が始まった。
この紅はそう急ぐ贈り物でもなく、気まぐれに買ったものなので一先ずおいておくことにしたのだ。
それはさておき、いざ渡すとなると気恥ずかしいものである。
「さっきの話、紅は使いきったわけじゃないんでしょ。もう直無くなる、が正しい」
「……よく見ているな」
「そりゃ、見てますよ。貴女はあの紅を大事に使っていたから。べ、別に無くなる頃合いを見て買ってきたとかじゃないですからね。……一応、俺なりに似合いそうな色を見立てたつもりです」
あの紅を他者に使わせたくない理由。それを知ったのは何年前のことだったか。女装の授業を前に、友人が見立てた色だと留三郎から聞いた話だ。後生大事に使っているとも。
紅蓮は手元の二枚貝に再び目を落とす。その頬はやんわりと微笑んでいた。
「有難う。大事に使わせてもらう」
「喜んで貰えたなら、まあそれはそれで」
「それはそうと、さっき兵助に紅を貸してやれば良かったんじゃないのか。三郎次も自分の紅を持っているだろ」
ここでぴたりと三郎次の表情が固まった。
忘れようとしていた思い出がまた沸々と腹の底から出てくる。
「ちょっと嫌なこと思い出したので。俺たちが三年の時、女装実習に行く準備してた時にいらっしゃったの憶えてます? 左近の髪がぐしゃぐしゃなのを直そうとして久作と一緒に詰め寄ってた時のこと」
手繰り寄せた記憶の糸はある場面に行き着いた。町へ実習に行く三郎次たちに同行するべく許可を得たのはいいが、自身も不運なことに女装していくことになった日だ。
「髪梳いてもらった後、紅がないとか言い出した左近に霧華さんが新品の紅を貸しましたよね?」
「そ、そう……だったな確か」
紅蓮はその日の一連の出来事を思い出した。紅がないと困っていた左近に新品の紅を貸し、譲ろうとしたこともだ。
「左近に紅を貸した挙句にそれを譲ろうとしてた時の俺の気持ち、わかります?」
「あれは、全く他意はない。断じて」
あまりにもにんまりと笑う伴侶と目を合わせることができず、紅蓮はついと横へ目を逸らした。
「それは存じてますよ、ええ。霧華さんのことだから紅がなくて困ってるのが左近じゃなく、久作や俺だったとしても同じようにしてたんでしょうからね」
「……私の性格をよくわかってるじゃないか」
「問題はそこじゃないんですよ。あの紅、誰から貰ったんですか」
ぐっと紅蓮は言葉を密かに詰まらせた。
あの紅の出処、おおよその見当はついている。だからこそ三郎次は余計に苛立ちを覚えているのだ。
「自分で買ったものだよ」
「この状況で嘘つきとおせると思ってるんですか」
「言えば怒るだろ」
「俺が怒るような相手からということでいいんですね?」
「あれは結局一度も使っていない」
「そういう問題じゃないんですよ」
「それにとっくの昔に手放した」
「……まさか、誰かに譲ったんじゃ」
際限のないやり取りに痺れを切らしたのは紅蓮の方であり、溜息を吐いてから三郎次の肩口に顔を寄せてこう耳打ちをした。「あの紅はくノ一教室に寄付した」と。特定の誰かの手に渡すことは流石に気が引けたので、悩んだ末にそうしたという。
これで納得しただろう。そう、離れようとした時であった。
頬に触れた手と、唇に触れた柔らかい感覚。重ね合わせただけの接吻ではあるが、思考を刹那止めるだけには十分すぎるもので。
口元に笑みを宿す三郎次はどこか得意げでもいた。
内面に隠した意地悪い笑みは気配を消して傍観するかつての恋敵へと向けたもの。
「贈り物の意味通りですから、それ」
「あ、珍しい」
不二子は挨拶よりも先に開口一番その言葉が出た。
事務室で雑用を済ませ、一年生の教科担任に書類を届けるべく教員長屋に向かう途中のこと。教員長屋の廊下で小袖姿の紅蓮とばったり出会ったのだ。
彼女本人と会うのが珍しいという発言ではない。その姿でいることが珍しかったので、つい口に出てしまった。
髪を下ろし、牡丹の花を白抜きで染めだした
普段は野袴を履いており、男装姿で学園を訪れることが多い。特別講師として呼ばれた時は必ずといっていいほどである。教科、実技共にだ。講師として最初に訪れた時は多くの生徒が紅蓮を男だと思い込んでいた。それが三郎次も呼ばれるようになると混乱を極めたというもの。なにせ姓が同じで、仲睦まじい様子も見られたので。
「御兄弟ですか?」
「でも似てないよ。遠い親戚かも」
「偶々姓が同じなのかも」
事実を隠す必要もなければ、黙ることでもない。「私たちは夫婦だ」と公開すると目を点にして驚かれ、そこから良い子たちの質問攻めにあう羽目に。
「どこで出逢ったんですか」から始まり「どちらが告白したんですか」「紅蓮さん、決め手はなんだったんですか!」といつの間にかくノ一教室も話に加わっていた。
しかしそれも最初の頃だけであり、講師として訪れる回数を重ねるうちに落ち着いていった。今では「夫婦仲の良い特別講師」として見守られている。
「珍しいね、霧華さんがその姿でいるの」
「先程着替えたんです。二年生に私の女装姿が見たいとせがまれましたので」
前髪を手で横に払いながら紅蓮が眉尻を下げて笑った。その口調は普段よりも幾分か柔らかいものに聞こえる。
「前から思ってたんだけどさ」
「はい」
「女装っていうのもなんか変だよね。元の姿って言った方が適切な気もする」
「まあ、今更ですね。どちらでいようと、私は私なので。三郎次もそれで良しとしてくれますし」
「言ってたもんね。霧華さんは霧華さんだって。池田くん、本当に霧華さんのこと大好きだよね。等身大のラブってやつ?」
先日、学園を訪れた留三郎が不二子にこう話したという。「あいつは余すとこなく紅蓮の全てに惚れてるんだよ」と恥ずかしげもなく言い切ったのだ。それも良い笑顔で。二人が丸く収まって一番喜んだのはこの男でもあった。
やや視線を下げながら恥じらう姿は女子そのもの。
頭の動きで揺れた毛先が不二子の目に映った。髪の毛先を束ねる結紐が見慣れないものだ。柳色の紐に銀糸を織り込んでおり、光にきらきらと反射する。
「あれ、結紐新しくした?」
「これは、その。三郎次から貰いました。……先日の貴女方のお揃いの話に感化されたようで」
「えっ、お揃いで買ったの?」
「まあ、色違いで同じ物を」
柳色を自分が、
この話を聞いた不二子はじっとその結紐を見つめていた。かと思えば、ハッと何か気付いたように声を上げる。
「髪の色だ」
「髪の色?」
「お互いの髪の色だよね、それ。霧華さんが付けてるのは池田くんの髪色で、池田くんがつけてるのは霧華さんの髪色」
「……言われてみれば」
指摘されて初めて気がついたようで、紅蓮は括られた髪を前の方に持ってくる。確かにこれは伴侶の髪色に近い。
「霧華さん、気づかなかったの……?」
「……逆に気がつくものなんですか、こういった類は」
「多分。池田くんがこれ渡してくれた時どんな顔してたの」
「どうって、嬉しそうにしていましたよ。……ああ、成程。そういうことか」
「ちょっと待って。事件の真相何から何までわかって一人で納得するスタイルはいつも視聴者を置いてけぼりにする」
「こっちは何一つ真実がわからないまま後編を迎えるんだよ」と真顔でよくわからないことを言う不二子を不思議に思うも、紅蓮は自分の見解を述べた。
「これを受け取った時に私の好きな色だと言ったんですよ」
「……つまり、それって池田くんの髪色と同じだから」
「皆まで言わないでください」
尻すぼみになる言葉を発した紅蓮は目をはっきりと逸らした。
これは無意識下で「三郎次と同じ色だから好きだ」と伝えたようなもの。その時伝えた本人が意図をわかっていなくとも、言われて喜ばないはずがない。
恐らく赤らんでいる頬。袖で覆い隠した口元はへの字に歪み、目元には熱が帯びている。
そんな彼女を不二子は「こんな風に照れるんだなぁ」と温かい眼差しで見守っていた。何より、女子らしい照れ方だ。
「あ、そういえばこの時代の人って紅は同じ色使うの? 私の時代だと何種類も色を楽しむんだよ。それこそコスメケースいっぱい持ってる人いるし」
「それはすごいですね。この時代でも数種類の紅を持つ女子はいると思いますよ」
町娘であればお洒落として、忍びならば場に応じた変装をする為に。複数の紅を持つことは不思議ではない。
だが、不二子は紅蓮の口元を彩る紅の色がいつも同じ色であることに気が付いた。
薄い橙色。肌に馴染むその色はとても良く似合っている。
「霧華さんはいつも同じ色使ってるから、この時代の人は一種類しか使わないのかなって。肌に合う合わないもありそうだけどさ」
これには紅蓮も驚きを隠せずにいた。
この人は鈍いようでいて、鋭い。こういった物事には特にだ。特定の事だけに鋭く、他は鈍い。
否、これは自分にも当て嵌まる。他者の感情の動きには鋭いが、色恋沙汰に関することは疎いと友人から多々苦言される。
私たちは似たもの同士かもしれない。
今更ながらそう思う紅蓮であった。
「よく見ていらっしゃいますね。普通の人間は紅の色をいちいち憶えていませんよ」
「んー……あの色いいなぁ可愛いなぁって思いながら見てるからかな」
「成程。つまり裏を返せば、紅の色で同一人物と見破られる恐れもある。勉強になります」
「いやそういうつもりで言ったんじゃないんだけどね」
またもや一人頷き合点とする紅蓮に「そうじゃない」と軽くツッコミが入った。
「この色は似合いませんか」
「ううん。すごく合ってる。センスいいなぁって」
不二子は紅蓮の女子姿を数える程度でしか見たことがない。それは彼女が在学中も含めてだ。
三日間の女装実習でも毎日同じ色を纏っていた。こうして顔を見せに来た際も同じ色。
たった数回しか見ない化粧でも、印象というものは決まる。変に浮かず、肌に馴染んだ良い色だと不二子は褒めた。
すると、紅蓮は嬉しそうにふわりとした笑みを浮かべた。それはまるで自分のことではなく、後輩や親しい人を褒められた時のような優しい微笑み。
「有難うございます。私も気に入っている色なんですよ」
「もしかして池田くんからの?」
「いえ、これは」
紅蓮はそこで一度言葉を止め、
「私の友人が昔見立ててくれたものです」
そう、続けた。
「あいつは色の見立てが良いやつでして。女装の評価もかなり良かったんですよ、それこそ仙蔵よりも」
「え、あの仙子さんよりも? それすごくない?」
女装した忍たまの中では飛び抜けて美しい女子に扮した。それは未だ鮮烈に不二子の記憶に残っている。ただ、あまりにも見目麗しいせいで気後れした男たちが中々声を掛けてこず、課題に苦戦した。
「愛想が良く人懐っこい性格だったので。花が咲いたように明るい笑みを浮かべていましたよ。話術にも長けていたので、情報を引き出す天才でした」
「……ね、その子のこと。私、もしかして知らない」
不二子は薄々勘づいていた。
紅蓮の口から語られる話は全て、過去形であるということに。
聞いた話に結びつく忍たまは一人もいないのだ。だが、紅蓮は昔からの友人といった風に話す。自分が知らないということはつまり。
紅蓮は深い哀色に染められたその目をそっと伏せた。
「不二子さんが知らないのは当然です。その友人は私が四年次の時に実習で命を落としましたから」
「もう何年も前の話だ」誰に聞かせるわけでもない、ぽつりと漏らした言葉は己に向けたもの。
「四年にもなると実力もつき、一通りのことはできる年になります。その慢心が生んだとも言われていました。けど、あいつの場合は恐らく」
――私たちを逃がすために、一人留まった。
殿を務めた友の側にいたのなら、学園に戻り着く前に気付けたかもしれなかった。
硬く握りしめられた拳は微かに震えていた。
「……それで霧華さんは四年生にとりわけ厳しいんだね」
「その時期は私自身も過信することがありましたから。戒めとして」
「だから池田くんのことも容赦なく投げ飛ばしたとか?」
顔を上げた紅蓮は笑っていた。哀の面を取り繕うかのように。
「兵助にでも聞きましたか。確かに手加減せずに投げ飛ばしましたね。学園から外の世界へ歩み出た時に生き延びてほしい。その一心で」
己を守る術を身に着けなければこの乱世を駆け抜けることは難しい。
後輩にその術を教え、学ばせた。
紅蓮は六年次から強い思念を抱き続け今に至る。特別講師として自分が出来ることを日々模索中であった。
「それだけその頃から大切に思ってたんだね。池田くんのこと」
「そうですね。特段私のことを慕ってくれた後輩でしたから。生きてほしいと願うのは至極当然ですよ」
そうじゃないんだよなぁ。とでも言いたげに不二子は口をへの字に曲げる。
昔から気にかけていたのは、そこに好きの想いがあったからではないのかと。しかし本人はそこまで意識していなかった様子。
これを紅蓮の伴侶に伝えたとしても遠い目で「存じてます」と言うに違いない。
それでもそこから築き上げ固く結ばれた絆。恐らく何者にも解くことはできないのだろう。
少しそれが羨ましい。そんな感情がじわりと不二子の胸に淀む。
ちらりと見上げた
「すみません。立ち話でするようなものではなかった」
「ううん。こっちこそ、なんかごめんね」
「それは私の台詞でもありますよ。貴女の前でするべき話ではありませんでしたね」
「気を遣ってくれてありがと。……ね、その人って霧華さんの大事な人だったの」
目を丸くする紅蓮。その聞き方はまるで「恋焦がれていた相手だったのではないか」不二子はそう聞きたげでいて、どこか真剣な表情であった。
大事な人か。そう問われたならば、答えは躊躇いなく、唯一つ。
「咲は私にとって唯一無二の親友ですよ」
水滴が一雫さえ垂れることもなく、並々と縁にまで満ちた水面は揺らぎを見せることはなかった。
◇◆◇
それから幾日ばかり過ぎた昼下がり。
紅蓮たちは採点済の答案用紙を提出するべく、忍術学園を訪れていた。
「今回は少し出来が悪い」「基礎が抜けている者が多いのでは」そんな会話のやり取りをしながら教員長屋に足を運び、久々知の名札が掛けられた部屋の戸を軽く叩いた。
「池田です」
「あっ、いや……どうぞ!」
「失礼します」
歯切れの悪い返事に紅蓮と三郎次は顔を見合わせる。応ときたのだ。構わずに戸を引くと、室内にいた兵助――艶のある長い黒髪を下ろした小袖姿――と目が合った。
兵助は鏡と向き合っており、化粧の途中である。
「これから女装忍務か」
「ええ、まあそんなところです」
「その割におどおどしてません? 何かやましい事でもあるんじゃ」
「何言ってるんだ三郎次。やましい事なんて何もないぞ」
ジト目で兵助を睨む三郎次は「じゃあ何故そんなに落ち着かない様子で?」と追い打ちをかける。
兵助は豆腐のように大きな目をきゅっと細め、恥じらいに口元を引きつらせた。
「……化粧してるところ、人に見られるのって恥ずかしくありません?」
「まあ、外野にとやかく言われるのは気分が悪くなるものだからな」
「でしょう? そもそも女装してやましいことって」
「我々忍者ともなれば様々な事例がある」
「浮気とか」
今度はその目が大きく見開かれる。黒か、と思う暇もなく「何を言ってるんだ」と怒声に近いものが返ってきた。
声色に焦りは含まれておらず、疑いを掛けられ単純に怒りを顕わとしたものだ。
「俺が浮気するわけないだろ」
「そう言う人に限って」
「三郎次」
これ以上の余計な一言は論争に繋がりかねない。紅蓮は三郎次を制し、兵助の顔色をひっそりと窺った。相変わらず動揺は見られない。
「あらぬ疑いをかけて悪かった」
「……それで、今日はどうされたんですか」
むくれ、膨れ面で拗ねる様もどこか御内儀に似ている。これを見る限り、要らぬ心配のようでもあるのだが。
紅蓮は答案用紙を纏めて兵助に「これの提出に伺っただけだ」と差し出した。
「有難うございます。……ざっと見た感じですけど、全体的に成績悪くありませんかこれ」
「そこが次の問題点だ。基礎が抜けている者が多いようだから、そこを補う方法は先生方に任せるよ。私たちを呼んでもらっても構わないし、どちらでも良い」
「わかりました」
束ねた答案用紙を文机に置く兵助の顔は悩ましいもの。「補習授業設けた方が良いかもな」と独り言が聞こえてきた。
「私たちはこれで失礼する」
「あっ、先輩。紅を貸していただけませんか」
「紅?」
ふと、三郎次の瞼がぴくりと痙攣した。
この会話に妙な既視感を抱いたのだ。昔、似たような場面に出くわしたような。
「ちょうど使い切ってしまってたようで、買うのもうっかり忘れてしまい。最近忙しかったから町にも行けてなかったんです」
この台詞回し。六年ほど前に同室の友人が似たようなことを言っていた。そこで何があったのかも鮮明な記憶として蘇ってくる。紅を切らしたと言った左近に紅蓮は自分の紅を貸したのだ。
またその流れになるのかとうんざりしそうになる三郎次であったが、今回はどうも雲行きが異なるようであった。
紅蓮がすんなり紅を貸すかと思いきや、渋るように眉根を寄せた。
「あー……悪いが私も丁度この間使い切ってしまってな」
「そうでしたか。三郎次は?」
「俺たちじゃなく久々知さんに借りれば良いじゃないですか」
つっけんどんな言い方を気にすることなく、兵助は弾かれたように顔をハッとさせた。
「その手が。早速借りてきます」
タッと部屋を出たその背が見えなくなったのを見計らい、三郎次が口を開いた。
「なんでそこに気づかないんですかね。一番借りやすい相手では?」
「あいつもどこか天然な所があるからな」
兵助が消えていった方を見る紅蓮の顔も半ば呆れていた。
この時間であれば不二子は食堂で昼食の仕込みをしている。直ぐには戻ってこられないだろう。
ここ数日間、偶々学園に出入りすることになった紅蓮。
一日目は午前から午後にかけての座学。二日目は午後から夕方にかけて実技指導。三日目はある城から頼まれた文を学園長先生に届けた。
こう頻繁に出入りすることになれば、当然食堂で腹ごしらえをする回数も増える。そこで気づいたのだ。
食堂のメニューに異変が起きていることに。
豆腐を主菜とした定食がない。忽然と消えたわけではなく、申し訳程度に小鉢に添えられた。肩身を狭そうにした冷奴が。
一日目だけなら異変を感じることはなかっただろう。それが二日、三日目と続いたのでこれはどうもおかしいと紅蓮は勘付いた。
大方、久々知夫妻に何かあったのだろう。以前不二子は豆腐で物申すような口ぶりであった。つまり、兵助に何か思うことがある。その辺の生徒に聞けば「最近ずっとこうですよ」と返ってきた。
何があったのかはまだ掴めていないが、対処は早めにするに越したことはない。そう思い、三郎次にもこの異変を話したというわけであった。
だが、兵助の様子を見た限りでは特に怪しい点は見られなかった。
単なる思い過ごしか。学園の内部事情を知る仙蔵辺りに聞くのが手っ取り早いのだが、それだと余計な波風が立ちかねない。ここはもう少し静観するか。そう決断した紅蓮は三郎次の方をちらりと窺った。
「どう思います、霧華さん。やっぱり不自然ですか」
本題を問い掛けてきた三郎次は己の意見を述べるよりも先ず、紅蓮の意見に耳を傾けようとした。
問われた紅蓮は「ふむ」と顎に指を当てる。この段階では断定がし難い。
「いや、なんとも。それはそうと三郎次。直接的に訊くんじゃない。無駄に兵助の怒りを買ってしまうぞ」
「ぼやかしても意味がないですよ。世の中はっきりと言わなきゃわからない人もいるんですし」
「……」
「それにその方が感情を揺さぶりやすい。情報を集める常套手段ですよ。特に久々知先輩は久々知さんに関することは顔や態度に兎に角出やすい」
「良くも悪くも真っ直ぐな奴だからな、兵助は。……それにしても、その冷静な洞察力は誰に似たんだ」
三郎次は兵助に怒鳴られたところでたじろぐ様子などは微塵も見せず、見知った人間相手に鋭い目を向けていた。瞬き一つ見逃すまいといった風に。
「俺の尊敬する先輩じゃないですかね。誰とは言いませんけど」そうしれっと三郎次は宣った。
長屋の庭から雀の鳴き声が聞こえてきた。
ちゅん、ちゅんとしきりに誰かを呼ぶように鳴いている。姿は見えないが、声のする方角からして庭木の梢で鳴いているようだ。
「さて、兵助が戻ってくる前に去るとするか。他に情報を仕入れられそうな人もいないしな」
「食堂のおばちゃんに話を聞いてみてはどうでしょう。久々知さんと同じ場にいることが多いですし」
「それは私も考えた。だが、下手をすれば不二子さんに我々が探っていることがバレてしまう。事態を悪化させることは極力避けたい」
自分の周辺で探りを入れられている。
それに気づかなければ知らぬが仏。だが一度気に留めてしまうと、居心地が悪くなり不信感も強く煽られる。結果的に「貴女の為だ」となろうと、その過程で生じた歪を解消するのは悉く難しい。
出来得ることならば、それを避けたいという紅蓮の考えであった。
「霧華さん、久々知さんとよく話すようになりましたよね。在学中はそうでもなかったのに。よく気に掛けるようにもなったし」
「そうだな。在学中に話はあまりしなかったが、それなりに心配はしていたさ。姿を忽然と消したと思いきや、また現れ、そしてまた消えた」
それの微兆などは何もなかった。本当に神出鬼没な女子だった。
当時それとなく避けていたとはいえ、毛嫌いをしていたわけではない。多くの忍たまに囲まれていたあの人の笑顔は優しいものであった。そこから人の良さが溢れており、好かれる理由も頷けたというもの。兵助の隣にいた時は、とりわけ柔らかい表情を浮かべていた。
「この時代があの人にとって住みやすいかと聞かれれば、そうとは思えない。我々が計り知れない不自由も十二分にあるだろう。だが、それを置いても幸せになってもらいたいと私は願っている」
だからこそ現状が歯痒い。直に話を聞けば良いのだろうが、それで解決するようなことでもないような気が薄々としていた。後に少なからずこの勘が当たることとなるのだが。
「……兎に角、今は静観するしかあるまい」
「そうですね」
二人はそこでこの話題に区切りをつけた。ここで延々と話していても仕方がないことだと。
長屋の廊下を進む途中、三郎次が「あ、そうだ」とわざとらしく声を上げた。廊下のど真ん中で立ち止まったので「どうした」と紅蓮も足を止め振り返る。近くに感じた気配を気にしながらも。
「忘れないうちに」
三郎次は肩掛けの荷物を手で探り、右手に何かを掴んだ。それから反対の手で紅蓮の左手を取り、その手の平に持っていたものを握らせた。
ゆっくりと離れた指先から見えたのは、二枚貝。これを見た紅蓮は刹那身構えた。無理もない。先日、久々知夫妻の渦中となったと言われる代物と同じ形をしていたのだから。
よもや軟膏が入っているのでは。そんな考えも過るが、中は紛れもなく鮮やかな紅が塗られていた。
普段身に着けるものとは色調が異なる、萩色の紅。
紅蓮は片手に受け取ったこれを見つめ、徐に三郎次の顔を見る。やや視線を逸らしたその顔はやや熱を帯びていた。
「そういえば、俺から贈ったことなかったなぁと思って。本当は昨日のうちに渡したかったんですけど、なんかそれどこじゃない話になったし」
家に帰るなり「不二子さんの様子がおかしいかもしれない」という話になり、互いが知る情報の交換が始まった。
この紅はそう急ぐ贈り物でもなく、気まぐれに買ったものなので一先ずおいておくことにしたのだ。
それはさておき、いざ渡すとなると気恥ずかしいものである。
「さっきの話、紅は使いきったわけじゃないんでしょ。もう直無くなる、が正しい」
「……よく見ているな」
「そりゃ、見てますよ。貴女はあの紅を大事に使っていたから。べ、別に無くなる頃合いを見て買ってきたとかじゃないですからね。……一応、俺なりに似合いそうな色を見立てたつもりです」
あの紅を他者に使わせたくない理由。それを知ったのは何年前のことだったか。女装の授業を前に、友人が見立てた色だと留三郎から聞いた話だ。後生大事に使っているとも。
紅蓮は手元の二枚貝に再び目を落とす。その頬はやんわりと微笑んでいた。
「有難う。大事に使わせてもらう」
「喜んで貰えたなら、まあそれはそれで」
「それはそうと、さっき兵助に紅を貸してやれば良かったんじゃないのか。三郎次も自分の紅を持っているだろ」
ここでぴたりと三郎次の表情が固まった。
忘れようとしていた思い出がまた沸々と腹の底から出てくる。
「ちょっと嫌なこと思い出したので。俺たちが三年の時、女装実習に行く準備してた時にいらっしゃったの憶えてます? 左近の髪がぐしゃぐしゃなのを直そうとして久作と一緒に詰め寄ってた時のこと」
手繰り寄せた記憶の糸はある場面に行き着いた。町へ実習に行く三郎次たちに同行するべく許可を得たのはいいが、自身も不運なことに女装していくことになった日だ。
「髪梳いてもらった後、紅がないとか言い出した左近に霧華さんが新品の紅を貸しましたよね?」
「そ、そう……だったな確か」
紅蓮はその日の一連の出来事を思い出した。紅がないと困っていた左近に新品の紅を貸し、譲ろうとしたこともだ。
「左近に紅を貸した挙句にそれを譲ろうとしてた時の俺の気持ち、わかります?」
「あれは、全く他意はない。断じて」
あまりにもにんまりと笑う伴侶と目を合わせることができず、紅蓮はついと横へ目を逸らした。
「それは存じてますよ、ええ。霧華さんのことだから紅がなくて困ってるのが左近じゃなく、久作や俺だったとしても同じようにしてたんでしょうからね」
「……私の性格をよくわかってるじゃないか」
「問題はそこじゃないんですよ。あの紅、誰から貰ったんですか」
ぐっと紅蓮は言葉を密かに詰まらせた。
あの紅の出処、おおよその見当はついている。だからこそ三郎次は余計に苛立ちを覚えているのだ。
「自分で買ったものだよ」
「この状況で嘘つきとおせると思ってるんですか」
「言えば怒るだろ」
「俺が怒るような相手からということでいいんですね?」
「あれは結局一度も使っていない」
「そういう問題じゃないんですよ」
「それにとっくの昔に手放した」
「……まさか、誰かに譲ったんじゃ」
際限のないやり取りに痺れを切らしたのは紅蓮の方であり、溜息を吐いてから三郎次の肩口に顔を寄せてこう耳打ちをした。「あの紅はくノ一教室に寄付した」と。特定の誰かの手に渡すことは流石に気が引けたので、悩んだ末にそうしたという。
これで納得しただろう。そう、離れようとした時であった。
頬に触れた手と、唇に触れた柔らかい感覚。重ね合わせただけの接吻ではあるが、思考を刹那止めるだけには十分すぎるもので。
口元に笑みを宿す三郎次はどこか得意げでもいた。
内面に隠した意地悪い笑みは気配を消して傍観するかつての恋敵へと向けたもの。
「贈り物の意味通りですから、それ」