番外編
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女装実習、補習を添えて
三年忍たま長屋の一室から複数の声が聞こえてくる。
きゃあきゃあ、わあわあと。それが実に楽しそうなものだと紅蓮の耳に届いていた。
池田、川西、能勢と三名の名札が下がった部屋に着くと、戸が開け放たれている状態であった。そこから先程の愉快な声が廊下の先まで響いていたのだ。が、実態は意外とそうでもない様子。
「ほら左近! 大人しくしろっ!」
「いいって! このぐらい大丈夫だよ!」
「ダメに決まってるだろ!」
室内では女子が三人――女装した部屋の主たち――が何やら言い争っていた。
女子に扮した彼らは女子らしからぬ声量と言葉遣いで、どたばたと室内を走り回る。そして左近の髪を引っ掴んだ久作、そこへ櫛を手にした三郎次がじりじりと迫っていた。
この状況下。大方髪型のことで揉めているのだろうと容易い予想がつく。
「これから女装の実習授業か」
特に気配を潜めていたつもりもなかったのだが、紅蓮がそう声を掛けると三人は目を丸くしてそちらを振り返った。
「葉月先輩いつの間にいらっしゃったんですか!?」
「楽しそうにはしゃいでいたから声を掛けづらくてな」
「どこを、どう見て、楽しそうだと思ったんですか!」
左近はそう叫び、髪を掴む久作の手が緩んだ隙にするりと逃げ出して紅蓮の背中に身をサッと隠した。少しばかり伸びた背は紅蓮の肩よりも下にあり、そこから頭をちらりと覗かせて同室の二人をジト目で睨みつけていた。実に恨めしそうな目で。
「あっ、狡いぞ左近。先輩の後ろに隠れるな!」
「お前らが無理やり髪掴むからだろ! 禿げたら久作のせいだからなっ」
「そんな髪型してる左近が悪いんだ! きちんと梳かして結わなきゃ駄目に決まってる! 葉月先輩も何か言ってやってくださいよ」
紅蓮を挟み、ぎゃあぎゃあと騒ぐ女子らしからぬ三人。今この時は自分が女装していることを完全に忘れているのだろう。もし山本シナが目撃すればお小言が飛んでくる場面でもあり、隣部屋から「煩い!」と苦情も免れない。その前に場を落ち着かせなければ。一先ず、紅蓮は背後に隠れる左近の頭をぽんと優しく叩いた。
「まあ、兎に角話を聞かせてくれないか。川西が怯えてしまっている」
「べっ別に怯えてるわけじゃないです。僕の髪が絡んでるからって、久作たちが追い回してくるんです!」
艶がある焦茶の髪はサラストとまではいかないが癖も少ない。傍目で見てわかるほど傷んでもいない。が、毛先よりもやや上辺りで髪が部分的に絡んでいた。
久作はぐしゃっとしたその様が見るに耐え切れないといった様子である。
ここで紅蓮は彼らの性格を振り返った。
委員会の後輩でもあった三郎次の性格はよく知り得ている。真面目でしっかり者、偶に一言多いのが瑕。
その友人である左近は保健委員会に所属しており、伊作から度々話を聞くこともあった。伊作同様、というよりは保健委員共通の認識で怪我人や病人に優しい一面を持ち合わせる。だが、少しばかり大雑把らしい。
久作は三郎次同様にしっかり者だ。図書の返却期限をうっかり過ぎてしまった者の前に現れ、上級生相手にも怯まず、はっきりと「図書の返却期限が過ぎています! 速やかにお返しください!」と大きな声を張り上げた。紅蓮も一度か二度「ごめん」と頭を下げたことがある。
つまりは、これぐらいは見逃せと妥協する友人を許せない二人なのだろう。特にその圧が強いのは久作である。太く凛々しい眉毛を吊り上げ、腕を組んで仁王立ちする姿は図書の返却を迫るそれに近い。
「そのぐしゃっとなった髪をきっちり直さないと気が済まない」
「そうだぞ左近。そんな髪した女子がいると思うのか? それに手櫛でささーっと梳いただけじゃないか」
「いるよ! このぐらいどうってことないだろー!」
双方の主張はこれで出揃った。
結論を述べるのであれば、髪は直した方が良い。しかし、一方的に「それは駄目だから直しなさい」と指導するだけでは不満が残ってしまう。双方が納得いくようにしなければならない。
「三郎次。今回の目的は?」
「町で店の手伝いです。僕たちは売り子に扮します。僕は茶屋で、久作は甘味処、左近は小物屋です」
「売り子か。これは女装に限った話ではないんだが、変装する時は状況に応じで身なりを整えるといいぞ。例えば、人の良い主人の屋敷に潜入する際などは敢えて貧相でぼろぼろの状態になり、相手の同情を誘う手段も有効的だ。逆に町で物売りに化けるのであれば身なりは気にした方が怪しまれなくて済む」
ここまでの説明をした後、紅蓮は左近の様子を窺った。
肩越しに見えた顔は「先輩の言うとおりだ」と顰めっ面ながらも納得がいった様子。あと一押しだ。
「まあ、今回は直した方が私も良いと思う。それに何よりもその状態でいるとタカ丸が躊躇いなく毟りに来てしまうぞ」
「うわぁぁぁそれは嫌だあー!」
この学園内には辻刈り標的が二名いる。タカ丸が虎視眈々と機会を窺う様はまさに獲物を狙う鷹。火薬委員会の活動中ですら視線は顧問の髪に向いていたのだ。
そして彼らは顧問の前髪が毟られた場面を幾度か目撃したことがある。余程それが衝撃だったのだろう。此処にはいない辻刈りから両手で髪を庇う左近の目尻には薄っすらと涙が浮かぶ。
「三郎次、その櫛をこちらに」
「あ、はい」
「川西。私が髪を梳いてやろう。それならば構わないだろう?」
「……髪、引っ張らないでくださいよ」
「わかった」
紅蓮の口元がにこりと微笑む。
しかし左近はそれはもう渋々と、不貞腐れながら隠していた姿を現した。紅蓮の前に立った所で、ふと三郎次の視線が自分へ注がれていることに気づく。そちらへ顔を向けると、彼は微妙に不機嫌面を携えていた。仁王立ちが更にそれを強調させている。
長い髪を纏めていた結紐を解き、邪魔にならないよう手首に巻き付ける。扇状に緩く広がった髪の毛先から順にゆっくりと櫛を通す。縺れて絡まった箇所はより慎重に。
櫛で髪を梳く紅蓮の手つきは優しいもの。まるで優しい兄か姉のようで、左近の胸は温かい心地良さで満たされていた。先程まで怯えていた表情も今では和らいでいる。
「櫛の手入れもしておいた方がいい。その方が櫛通りも良くなって絡みにくくなる」
「やろうとは思ってるんですけど、中々時間がなくって」
「三年にもなると課題や実習で時間を取られてしまうからな。月に一度でもいいから櫛の目に溜まった埃を掻き出してやるといい。それだけでもだいぶ違うぞ」
「善処します」
「絶対やらないだろ左近」
「耆著 だって錆びつかせたもんな。道具の手入れは忍者の基本なんだぞ」
「あーもうっうるさいなぁ! ちゃんとやるってば!」
苦言を呈する同級生をきいっと睨みつける左近。このやり取りを特に止めることなく、むしろ微笑ましいと思いながら紅蓮は手を動かした。可愛らしい後輩たちというよりかは、昔の自分たちと姿を重ね合わせていた。
紅蓮は左近の髪を整えた後、櫛を一度袂に収め、髪先を手首に巻いていた結紐で括っていく。タカ丸から仕入れた流行りの結び方を再現し、満足のゆく仕上がりに頷いてみせる。
「よし。こんなものか」
「ありがとうございます! おお、なんかいつもよりいい感じ」
「町まで行くのであれば私が引率しようか」
「良いんですか?」
この言葉に先ず飛びついたのは三郎次であった。パッと輝かせた顔は実に可愛らしい女子そのもの。年相応の愛想は誰が見ても合格点であろう。今更ではあるが、紅蓮は自身の後輩に甘い節がある。
「あ、でもお忙しいのでは。今日も何か用事があって学園に寄られたんですよね。今日は稽古の日じゃないですし」
「受けた仕事をちょうど終わらせたところなんだ。此処へは暇だから顔を出しに来たんだよ」
「立花先輩は御一緒ではないのですか?」
久作が周囲をざっと見渡す。相棒であるはずの立花仙蔵が見当たらないことを不思議に思い、そう口にした。
それに関しては少しばかり三郎次も気にしていたが、敢えて口にはせずにいた。いない方が清々すると。友人が想いを寄せる相手、それが紅蓮であることを知らぬ久作と左近。彼らはお構いなしにその名前を出すものだから、気持ちが灰色にくすみそうになる。
「単独忍務だったとか?」
「まあ、二手に分かれてといったところだ。すまないが詳しい内容は話せない」
「すみません。仕事内容を訊くのは御法度でした」
「そう謝ることでもないさ。ただ、下手に話を知ってしまえばお前たちを巻き込む可能性が出てきてしまう。私はそれが嫌なんだよ」
情報戦の要となる忍者という生業。親しい者、家族であろうと知り得た情報は口外厳禁である。自分とは無関係の人間、特に友人や後輩を危険に晒すことを紅蓮は嫌っていた。
「私は引率の許可を頂いてくる。その間に化粧と支度を整えておくといい」
「はーい」
一時退席した紅蓮を見送り、その背が廊下のつきあたりで消えたのを見届けてから左近は顔を自室に引っ込めた。
そしてニヤニヤと笑いながら三郎次の方を見た。
「良かったな三郎次」
「何がだよ」
「お前の大好きな葉月先輩が引率してくれることになったんだぞ。もっと喜べばいいのに」
「そういう言い方止めろよな」
「そんなこと言ってるけど、満更じゃないくせに」
「久作もニヤニヤ笑うの止めろ」
この友人が紅蓮を在学時から尊敬し、慕っていることは二人も十二分に存じている。ただ、本当に尊敬の念からであるとばかり思っていた。それが寸刻もしないうちに、想いが真剣な恋慕だと気づくことになるのだが。
「あっ」
「今度はどうしたんだよ左近」
押入れに収めた小さな桐箪笥。そこには女装に使う化粧道具や紅が入っている。はずなのだが、引き出しを全て開けても目的の物が見つけられない。
この事態に左近は人差し指で頬を掻き、笑って誤魔化そうとする。
「紅がない」
「……左近、お前なぁ」
「どうするんだ。紅がないと化粧がまともにできないぞ」
「まあ、大丈夫だって。紅くらいなくったって」
「女装は髪型、化粧、着物、仕草……全てが調和しなければ怪しまれる確率が高くなる」
そこへふらりと戻って来た紅蓮が左近に向かってそう言った。自身はよろめいた身体を戸口に預け、手を添えてなんとか支えていた。その顔色は大変優れず、重い溜息が薄い唇から漏れ出る。
この短時間で一体何があったのだろうか。
「特に頬紅がないと不健康そうに見られてしまう」
「むしろ先輩の顔色が悪すぎます」
「私なら大丈夫だ。……この色なら川西の肌に合うかもしれん。良ければ貸そう」
紅蓮は肩に掛けていた荷物を下ろし、そこから貝を二枚合わせたものを取り出した。
受け取った二枚貝を開けば、内側に均一に塗られた桜色の紅が現れる。赤みを含んだ淡い紅色はどこからも掬われた形跡がない。店で買ったそのままの状態であった。
「あ、ありがとうございます……って、これ使い差しじゃないですよね。どう見ても掬った形跡がないし」
「気にすることはない。紅や着物の貸し借りは私もよくしていたから。昔は背格好もそこまで差がなかったんだ。うっかり洗濯をしてしまった日に、という時もあったくらいで。伊作たちによく小袖を借りていたこともある」
「へぇ〜。先輩方でもそんなことがあったんですね。……それにしても、いい色だしなんか高そう」
「気に入ったならそれを譲ろう」
小指で極少量の紅を掬い上げた左近が「高そうな紅だ」と見惚れている横で「はあっ!?」と声を上げ、目を白黒とさせた三郎次。これに驚いた久作が肩をびくりとさせる。
紅を貸すだけではなく、譲るということは。真っ先に贈り物の意味へと考えが結びついた。左近はそのことに気づいていないというよりは、そもそも他意はないと思っている。
「え、良いんですか?」
「紅も安いものじゃない。それで費用が浮くなら足しにしてやってくれ」
それは紅蓮も然り。ただ困っている後輩に手を差し伸べただけであった。
女装用の紅を買う必要性がなくなれば他に欲しい物を買える。これは僥倖だ。と、左近が喜んだのも束の間。刹那、背筋に走る悪寒。
友人の一人から滲み出る、ただならぬ殺気。とてもではないが、その方を振り向くことができそうにない。
久作も「どうしたんだ三郎次」と声を掛けたいところではあったが、何か大問題に発生しそうだったので口を噤んだ。
「先輩。お心遣いは大変嬉しいのですが、刺されそうなんでこれはお借りしたら慎んでお返しします」
言うが早いか左近は慌てて鏡の前に座り、白粉と紅を混ぜ合わせ頬や口元を彩り始めた。
何をそんなに慌て、怯えているのか。妙な様子を訝し気には思っていても、この時の紅蓮は意識が全くもってなかった。
一方、左近と久作はある事実を見出していた。
先程の反応、もしや三郎次は葉月先輩のことを本気で好いているのではと。そうでなければあんなにも殺気立つわけがない。
紅が手元になく困っていたのが三郎次や久作だったとしても、この先輩は同じ行動を取るだろう。そこに他意など微塵も含ませず。良く言えば親切、悪く言えば無自覚なのだ。
「そ、それよりも先輩。引率の許可は頂けたんですか。何やら浮かない顔をしてらっしゃいますけど」
「引率の許可は貰えた。……貰えたが、私も女装して行くことになった」
それはもう肺の隅々から、空気が全て無くなるのではないかと思う程の長い溜息。目頭を指で摘まみ、項垂れるその姿からは心底気が進まないといった様子が窺えた。
今より寸刻前、三年い組の実技担当教師である野村雄三に引率の許可を得た紅蓮。そこから忍たま長屋に戻る途中でこの悲劇が起きた。
紅蓮の前方から歩いてきた若い山本シナ。相まみえたこの時点では何ら問題なく、世間話を交わしていた。が、そこでうっかり三年い組の引率に話題が移ってしまう。
「引率するなら貴女も女装していきなさい。これを追加補習とします。貴女の女装実習は殆どお情けで合格点をあげたようなものですからね」
にこやかに微笑むその圧に否とはとても言えず。たじたじとなりながらも紅蓮は「わかりました」としか答えられなかったのだ。
どこか遠い目をしながら経緯を話した紅蓮からは、憂鬱で仕方がないといった重苦しい空気を感じられた。
「……お言葉ですが、葉月先輩はそこまで女装酷くないと思いますけど。この間の予算会議で御覧になった時はむしろお綺麗でしたよ」
そこで久作は先日の予算会議で見掛けた紅蓮の姿を振り返った。
予算会議当日に前触れもなく集合した卒業生たち。会議は昨年同様混沌を極めたのは言うまでもない。
その日、紅蓮は自分の正体を火薬委員会の後輩に明かした。当然、左近と久作も紅蓮が女子だと知ることに。
身なり、化粧、髪型は大変整っており、どこからどう見ても見目麗しい女子であった。その印象が二人に強く残っているのだ。
「……私の女装成績は下から数えた方が早い」
「そうなんですか!?」
「あの見た目で!?」
信じられない。満月さながらに丸めた目が二つ、紅蓮に注がれる。
成績の理由を知る三郎次だけが同情にも近い表情をしていた。
「山本シナ先生は厳しいぞ。心してかかった方が良い」
「は、はいっ!」
身なりが幾ら整っていようとも、所作が伴わずに減点ばかりされて補習ばかりであった。三郎次は紅蓮の名誉の為に事実を伏せておくことにした。
「……仕方ない。着替えてくるとしよう」嫌々と席を外した紅蓮だったが、瞬く間に戻ってくる。
「おおーっ!」と歓声が二つ上がった。
髪を下ろし、淡黄蘗 染めの小袖に身を包む紅蓮。その口元を彩る紅の色はあの日と同じ橙色。先程、左近に貸した色とは異なることに目聡く気づいたのは三郎次のみであった。それが何を意味するのか。真実を見出す暇もなく、左近が話を切り出した。
「先輩はどういった役割でいきますか?」
「そうだな……あくまで私は町までの引率だからな。年の差を考えてお前たちの姉として付き添うことにしよう」
「それなら、無口で照れ屋という設定にしてはどうですか」
口を不用意に開かなければ違和感を隠し通せる。何か伝えたいことがあれば、三人のうち誰かにこっそりと耳打ちをすれば意思の疎通も怪しまれないだろう。
それを提案した三郎次の意見に久作も頷いた。
「良いと思います。通訳は我々に任せてください」
「お言葉に甘えさせてもらうよ。お前たちの足を引っ張らないようにだけは心掛ける」
「足を引っ張るだなんて。葉月先輩がいるだけで僕たちは心強いですから」
女装の実習には良い思い出がない。頭痛の種を抱える紅蓮に三郎次は首を横へ振った。
ああ、自分は優しい後輩を持ったものだ。紅蓮は「有難う」といつもと変わらぬ笑みを浮かべた。その笑顔を近距離で捉えた三郎次の頬が俄かに紅潮する。それは頬紅よりも赤い。
この様子を見た左近と久作は「やっぱり三郎次、葉月先輩のこと本気で好いているんだな」と確信を得たのであった。
三年忍たま長屋の一室から複数の声が聞こえてくる。
きゃあきゃあ、わあわあと。それが実に楽しそうなものだと紅蓮の耳に届いていた。
池田、川西、能勢と三名の名札が下がった部屋に着くと、戸が開け放たれている状態であった。そこから先程の愉快な声が廊下の先まで響いていたのだ。が、実態は意外とそうでもない様子。
「ほら左近! 大人しくしろっ!」
「いいって! このぐらい大丈夫だよ!」
「ダメに決まってるだろ!」
室内では女子が三人――女装した部屋の主たち――が何やら言い争っていた。
女子に扮した彼らは女子らしからぬ声量と言葉遣いで、どたばたと室内を走り回る。そして左近の髪を引っ掴んだ久作、そこへ櫛を手にした三郎次がじりじりと迫っていた。
この状況下。大方髪型のことで揉めているのだろうと容易い予想がつく。
「これから女装の実習授業か」
特に気配を潜めていたつもりもなかったのだが、紅蓮がそう声を掛けると三人は目を丸くしてそちらを振り返った。
「葉月先輩いつの間にいらっしゃったんですか!?」
「楽しそうにはしゃいでいたから声を掛けづらくてな」
「どこを、どう見て、楽しそうだと思ったんですか!」
左近はそう叫び、髪を掴む久作の手が緩んだ隙にするりと逃げ出して紅蓮の背中に身をサッと隠した。少しばかり伸びた背は紅蓮の肩よりも下にあり、そこから頭をちらりと覗かせて同室の二人をジト目で睨みつけていた。実に恨めしそうな目で。
「あっ、狡いぞ左近。先輩の後ろに隠れるな!」
「お前らが無理やり髪掴むからだろ! 禿げたら久作のせいだからなっ」
「そんな髪型してる左近が悪いんだ! きちんと梳かして結わなきゃ駄目に決まってる! 葉月先輩も何か言ってやってくださいよ」
紅蓮を挟み、ぎゃあぎゃあと騒ぐ女子らしからぬ三人。今この時は自分が女装していることを完全に忘れているのだろう。もし山本シナが目撃すればお小言が飛んでくる場面でもあり、隣部屋から「煩い!」と苦情も免れない。その前に場を落ち着かせなければ。一先ず、紅蓮は背後に隠れる左近の頭をぽんと優しく叩いた。
「まあ、兎に角話を聞かせてくれないか。川西が怯えてしまっている」
「べっ別に怯えてるわけじゃないです。僕の髪が絡んでるからって、久作たちが追い回してくるんです!」
艶がある焦茶の髪はサラストとまではいかないが癖も少ない。傍目で見てわかるほど傷んでもいない。が、毛先よりもやや上辺りで髪が部分的に絡んでいた。
久作はぐしゃっとしたその様が見るに耐え切れないといった様子である。
ここで紅蓮は彼らの性格を振り返った。
委員会の後輩でもあった三郎次の性格はよく知り得ている。真面目でしっかり者、偶に一言多いのが瑕。
その友人である左近は保健委員会に所属しており、伊作から度々話を聞くこともあった。伊作同様、というよりは保健委員共通の認識で怪我人や病人に優しい一面を持ち合わせる。だが、少しばかり大雑把らしい。
久作は三郎次同様にしっかり者だ。図書の返却期限をうっかり過ぎてしまった者の前に現れ、上級生相手にも怯まず、はっきりと「図書の返却期限が過ぎています! 速やかにお返しください!」と大きな声を張り上げた。紅蓮も一度か二度「ごめん」と頭を下げたことがある。
つまりは、これぐらいは見逃せと妥協する友人を許せない二人なのだろう。特にその圧が強いのは久作である。太く凛々しい眉毛を吊り上げ、腕を組んで仁王立ちする姿は図書の返却を迫るそれに近い。
「そのぐしゃっとなった髪をきっちり直さないと気が済まない」
「そうだぞ左近。そんな髪した女子がいると思うのか? それに手櫛でささーっと梳いただけじゃないか」
「いるよ! このぐらいどうってことないだろー!」
双方の主張はこれで出揃った。
結論を述べるのであれば、髪は直した方が良い。しかし、一方的に「それは駄目だから直しなさい」と指導するだけでは不満が残ってしまう。双方が納得いくようにしなければならない。
「三郎次。今回の目的は?」
「町で店の手伝いです。僕たちは売り子に扮します。僕は茶屋で、久作は甘味処、左近は小物屋です」
「売り子か。これは女装に限った話ではないんだが、変装する時は状況に応じで身なりを整えるといいぞ。例えば、人の良い主人の屋敷に潜入する際などは敢えて貧相でぼろぼろの状態になり、相手の同情を誘う手段も有効的だ。逆に町で物売りに化けるのであれば身なりは気にした方が怪しまれなくて済む」
ここまでの説明をした後、紅蓮は左近の様子を窺った。
肩越しに見えた顔は「先輩の言うとおりだ」と顰めっ面ながらも納得がいった様子。あと一押しだ。
「まあ、今回は直した方が私も良いと思う。それに何よりもその状態でいるとタカ丸が躊躇いなく毟りに来てしまうぞ」
「うわぁぁぁそれは嫌だあー!」
この学園内には辻刈り標的が二名いる。タカ丸が虎視眈々と機会を窺う様はまさに獲物を狙う鷹。火薬委員会の活動中ですら視線は顧問の髪に向いていたのだ。
そして彼らは顧問の前髪が毟られた場面を幾度か目撃したことがある。余程それが衝撃だったのだろう。此処にはいない辻刈りから両手で髪を庇う左近の目尻には薄っすらと涙が浮かぶ。
「三郎次、その櫛をこちらに」
「あ、はい」
「川西。私が髪を梳いてやろう。それならば構わないだろう?」
「……髪、引っ張らないでくださいよ」
「わかった」
紅蓮の口元がにこりと微笑む。
しかし左近はそれはもう渋々と、不貞腐れながら隠していた姿を現した。紅蓮の前に立った所で、ふと三郎次の視線が自分へ注がれていることに気づく。そちらへ顔を向けると、彼は微妙に不機嫌面を携えていた。仁王立ちが更にそれを強調させている。
長い髪を纏めていた結紐を解き、邪魔にならないよう手首に巻き付ける。扇状に緩く広がった髪の毛先から順にゆっくりと櫛を通す。縺れて絡まった箇所はより慎重に。
櫛で髪を梳く紅蓮の手つきは優しいもの。まるで優しい兄か姉のようで、左近の胸は温かい心地良さで満たされていた。先程まで怯えていた表情も今では和らいでいる。
「櫛の手入れもしておいた方がいい。その方が櫛通りも良くなって絡みにくくなる」
「やろうとは思ってるんですけど、中々時間がなくって」
「三年にもなると課題や実習で時間を取られてしまうからな。月に一度でもいいから櫛の目に溜まった埃を掻き出してやるといい。それだけでもだいぶ違うぞ」
「善処します」
「絶対やらないだろ左近」
「
「あーもうっうるさいなぁ! ちゃんとやるってば!」
苦言を呈する同級生をきいっと睨みつける左近。このやり取りを特に止めることなく、むしろ微笑ましいと思いながら紅蓮は手を動かした。可愛らしい後輩たちというよりかは、昔の自分たちと姿を重ね合わせていた。
紅蓮は左近の髪を整えた後、櫛を一度袂に収め、髪先を手首に巻いていた結紐で括っていく。タカ丸から仕入れた流行りの結び方を再現し、満足のゆく仕上がりに頷いてみせる。
「よし。こんなものか」
「ありがとうございます! おお、なんかいつもよりいい感じ」
「町まで行くのであれば私が引率しようか」
「良いんですか?」
この言葉に先ず飛びついたのは三郎次であった。パッと輝かせた顔は実に可愛らしい女子そのもの。年相応の愛想は誰が見ても合格点であろう。今更ではあるが、紅蓮は自身の後輩に甘い節がある。
「あ、でもお忙しいのでは。今日も何か用事があって学園に寄られたんですよね。今日は稽古の日じゃないですし」
「受けた仕事をちょうど終わらせたところなんだ。此処へは暇だから顔を出しに来たんだよ」
「立花先輩は御一緒ではないのですか?」
久作が周囲をざっと見渡す。相棒であるはずの立花仙蔵が見当たらないことを不思議に思い、そう口にした。
それに関しては少しばかり三郎次も気にしていたが、敢えて口にはせずにいた。いない方が清々すると。友人が想いを寄せる相手、それが紅蓮であることを知らぬ久作と左近。彼らはお構いなしにその名前を出すものだから、気持ちが灰色にくすみそうになる。
「単独忍務だったとか?」
「まあ、二手に分かれてといったところだ。すまないが詳しい内容は話せない」
「すみません。仕事内容を訊くのは御法度でした」
「そう謝ることでもないさ。ただ、下手に話を知ってしまえばお前たちを巻き込む可能性が出てきてしまう。私はそれが嫌なんだよ」
情報戦の要となる忍者という生業。親しい者、家族であろうと知り得た情報は口外厳禁である。自分とは無関係の人間、特に友人や後輩を危険に晒すことを紅蓮は嫌っていた。
「私は引率の許可を頂いてくる。その間に化粧と支度を整えておくといい」
「はーい」
一時退席した紅蓮を見送り、その背が廊下のつきあたりで消えたのを見届けてから左近は顔を自室に引っ込めた。
そしてニヤニヤと笑いながら三郎次の方を見た。
「良かったな三郎次」
「何がだよ」
「お前の大好きな葉月先輩が引率してくれることになったんだぞ。もっと喜べばいいのに」
「そういう言い方止めろよな」
「そんなこと言ってるけど、満更じゃないくせに」
「久作もニヤニヤ笑うの止めろ」
この友人が紅蓮を在学時から尊敬し、慕っていることは二人も十二分に存じている。ただ、本当に尊敬の念からであるとばかり思っていた。それが寸刻もしないうちに、想いが真剣な恋慕だと気づくことになるのだが。
「あっ」
「今度はどうしたんだよ左近」
押入れに収めた小さな桐箪笥。そこには女装に使う化粧道具や紅が入っている。はずなのだが、引き出しを全て開けても目的の物が見つけられない。
この事態に左近は人差し指で頬を掻き、笑って誤魔化そうとする。
「紅がない」
「……左近、お前なぁ」
「どうするんだ。紅がないと化粧がまともにできないぞ」
「まあ、大丈夫だって。紅くらいなくったって」
「女装は髪型、化粧、着物、仕草……全てが調和しなければ怪しまれる確率が高くなる」
そこへふらりと戻って来た紅蓮が左近に向かってそう言った。自身はよろめいた身体を戸口に預け、手を添えてなんとか支えていた。その顔色は大変優れず、重い溜息が薄い唇から漏れ出る。
この短時間で一体何があったのだろうか。
「特に頬紅がないと不健康そうに見られてしまう」
「むしろ先輩の顔色が悪すぎます」
「私なら大丈夫だ。……この色なら川西の肌に合うかもしれん。良ければ貸そう」
紅蓮は肩に掛けていた荷物を下ろし、そこから貝を二枚合わせたものを取り出した。
受け取った二枚貝を開けば、内側に均一に塗られた桜色の紅が現れる。赤みを含んだ淡い紅色はどこからも掬われた形跡がない。店で買ったそのままの状態であった。
「あ、ありがとうございます……って、これ使い差しじゃないですよね。どう見ても掬った形跡がないし」
「気にすることはない。紅や着物の貸し借りは私もよくしていたから。昔は背格好もそこまで差がなかったんだ。うっかり洗濯をしてしまった日に、という時もあったくらいで。伊作たちによく小袖を借りていたこともある」
「へぇ〜。先輩方でもそんなことがあったんですね。……それにしても、いい色だしなんか高そう」
「気に入ったならそれを譲ろう」
小指で極少量の紅を掬い上げた左近が「高そうな紅だ」と見惚れている横で「はあっ!?」と声を上げ、目を白黒とさせた三郎次。これに驚いた久作が肩をびくりとさせる。
紅を貸すだけではなく、譲るということは。真っ先に贈り物の意味へと考えが結びついた。左近はそのことに気づいていないというよりは、そもそも他意はないと思っている。
「え、良いんですか?」
「紅も安いものじゃない。それで費用が浮くなら足しにしてやってくれ」
それは紅蓮も然り。ただ困っている後輩に手を差し伸べただけであった。
女装用の紅を買う必要性がなくなれば他に欲しい物を買える。これは僥倖だ。と、左近が喜んだのも束の間。刹那、背筋に走る悪寒。
友人の一人から滲み出る、ただならぬ殺気。とてもではないが、その方を振り向くことができそうにない。
久作も「どうしたんだ三郎次」と声を掛けたいところではあったが、何か大問題に発生しそうだったので口を噤んだ。
「先輩。お心遣いは大変嬉しいのですが、刺されそうなんでこれはお借りしたら慎んでお返しします」
言うが早いか左近は慌てて鏡の前に座り、白粉と紅を混ぜ合わせ頬や口元を彩り始めた。
何をそんなに慌て、怯えているのか。妙な様子を訝し気には思っていても、この時の紅蓮は意識が全くもってなかった。
一方、左近と久作はある事実を見出していた。
先程の反応、もしや三郎次は葉月先輩のことを本気で好いているのではと。そうでなければあんなにも殺気立つわけがない。
紅が手元になく困っていたのが三郎次や久作だったとしても、この先輩は同じ行動を取るだろう。そこに他意など微塵も含ませず。良く言えば親切、悪く言えば無自覚なのだ。
「そ、それよりも先輩。引率の許可は頂けたんですか。何やら浮かない顔をしてらっしゃいますけど」
「引率の許可は貰えた。……貰えたが、私も女装して行くことになった」
それはもう肺の隅々から、空気が全て無くなるのではないかと思う程の長い溜息。目頭を指で摘まみ、項垂れるその姿からは心底気が進まないといった様子が窺えた。
今より寸刻前、三年い組の実技担当教師である野村雄三に引率の許可を得た紅蓮。そこから忍たま長屋に戻る途中でこの悲劇が起きた。
紅蓮の前方から歩いてきた若い山本シナ。相まみえたこの時点では何ら問題なく、世間話を交わしていた。が、そこでうっかり三年い組の引率に話題が移ってしまう。
「引率するなら貴女も女装していきなさい。これを追加補習とします。貴女の女装実習は殆どお情けで合格点をあげたようなものですからね」
にこやかに微笑むその圧に否とはとても言えず。たじたじとなりながらも紅蓮は「わかりました」としか答えられなかったのだ。
どこか遠い目をしながら経緯を話した紅蓮からは、憂鬱で仕方がないといった重苦しい空気を感じられた。
「……お言葉ですが、葉月先輩はそこまで女装酷くないと思いますけど。この間の予算会議で御覧になった時はむしろお綺麗でしたよ」
そこで久作は先日の予算会議で見掛けた紅蓮の姿を振り返った。
予算会議当日に前触れもなく集合した卒業生たち。会議は昨年同様混沌を極めたのは言うまでもない。
その日、紅蓮は自分の正体を火薬委員会の後輩に明かした。当然、左近と久作も紅蓮が女子だと知ることに。
身なり、化粧、髪型は大変整っており、どこからどう見ても見目麗しい女子であった。その印象が二人に強く残っているのだ。
「……私の女装成績は下から数えた方が早い」
「そうなんですか!?」
「あの見た目で!?」
信じられない。満月さながらに丸めた目が二つ、紅蓮に注がれる。
成績の理由を知る三郎次だけが同情にも近い表情をしていた。
「山本シナ先生は厳しいぞ。心してかかった方が良い」
「は、はいっ!」
身なりが幾ら整っていようとも、所作が伴わずに減点ばかりされて補習ばかりであった。三郎次は紅蓮の名誉の為に事実を伏せておくことにした。
「……仕方ない。着替えてくるとしよう」嫌々と席を外した紅蓮だったが、瞬く間に戻ってくる。
「おおーっ!」と歓声が二つ上がった。
髪を下ろし、
「先輩はどういった役割でいきますか?」
「そうだな……あくまで私は町までの引率だからな。年の差を考えてお前たちの姉として付き添うことにしよう」
「それなら、無口で照れ屋という設定にしてはどうですか」
口を不用意に開かなければ違和感を隠し通せる。何か伝えたいことがあれば、三人のうち誰かにこっそりと耳打ちをすれば意思の疎通も怪しまれないだろう。
それを提案した三郎次の意見に久作も頷いた。
「良いと思います。通訳は我々に任せてください」
「お言葉に甘えさせてもらうよ。お前たちの足を引っ張らないようにだけは心掛ける」
「足を引っ張るだなんて。葉月先輩がいるだけで僕たちは心強いですから」
女装の実習には良い思い出がない。頭痛の種を抱える紅蓮に三郎次は首を横へ振った。
ああ、自分は優しい後輩を持ったものだ。紅蓮は「有難う」といつもと変わらぬ笑みを浮かべた。その笑顔を近距離で捉えた三郎次の頬が俄かに紅潮する。それは頬紅よりも赤い。
この様子を見た左近と久作は「やっぱり三郎次、葉月先輩のこと本気で好いているんだな」と確信を得たのであった。