第一部
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参|寡黙の背中は知っている
図書室から借りた本の返却期限が迫っていた。否、返却期限日は今日だ。
放課後に私は二冊の本を脇に抱え、図書室を目指していた。
本来ならば三日前には返却するつもりでいたのだが、それも敵わず。
五日前、一冊目を読み終えた後、二冊目に手を伸ばした矢先のこと。伊作に助けを乞われ急遽応じるしかなかったのだ。
伊作が悪いわけじゃない。文次郎と留三郎がよりによって長次を怒らせたらしく、それを止めようと奮闘した伊作が巻き込まれてしまったんだ。
しかし、長次を止めるには私ひとりでは到底無理な話。小平太や通りかかった五年生数人でなんとか怒りを鎮めることができた。
そんな経緯があったわけで、二冊目云々どころか本を借りていたことも忘れてしまう始末。あの日はへとへとになって、課題に手をつけることも忘れて眠りについた。
私は本を読みだすと夢中になり、時を忘れてしまう。集中している最中に声を掛けられても気づかないことしばしば。そこが私の悪い癖だと言われる。
よって、少しだけ本を読んでから返却しようとするのは自らを危険に晒すだけ。本に耽り、図書室が閉まる時間まで気がつかずにいたら。長次の晴れやかで恐ろしい笑顔と縄標が脳裏に過ぎった。
そういった理由で手つかずの本も含めて抱え、図書室へと向かっている。
外気は冷えていた。凛とした空気に冬を感じる。
もう十二月か。今年は雪が積もるかな。雪で遊ぶのが結構好きなんだ。ああ、でも今は卒業試験が控えているから降らない方が良い。忍務中に凍えるのは勘弁だ。
図書室に向かう途中、廊下で仙蔵と出くわした。
仙蔵は廊下から中庭を眺めていた。葉を落としたツツジの低木に目を向け、何やら思案に耽る。
声を掛けずに去るのも感じが悪い。軽く挨拶だけは済まそうと声を掛けた。私の声に振り向いた仙蔵の長い髪が美しい流線を描く。
「ああ、紅蓮か。お前は鍛錬に行かないのか」
「藪から棒になんだ。私はこれから本を返しに行くところでね」
「いや、文次郎と留三郎がここのところ毎日遅くまで鍛錬に出向いていたからな。試験が近いせいもあるだろうが」
「卒業試験、か」
「試験の組み合わせがそろそろ発表されるそうだぞ」
六年生全員が受ける卒業試験。いろは組を問わず、二人一組で課せられた忍務を遂行する。難易度は今までのどの課題より高いと聞く。怪我だけではすまされない、命を落とす危険性も十分に孕む。
「お互いやりやすい相手と組めると良いな」
「そうだな。じゃ、私は図書室に行くから。万が一返却し損ねたら長次が笑う」
私が冗談まじりにそう言えば、仙蔵は他人事のように笑みを一つ零した。こいつは先日の騒動に関わろうとせず、高見の見物を決め込んだ。昔からそういうヤツだ。
「少しは体を動かしておかんと鈍るぞ」
「わかってる」
そのくせ面倒事に関わろうとはしないが人のことをよく見ている。私がここ数日鍛錬に手を抜いているのを知っているその口ぶりから窺えた。仕方がないんだ。月に一度は身体の調子が悪くなるんだから。幸い、そのことに関しては気づかれていないようだけど。仙蔵は観察力、洞察力が鋭いから油断はできない。まあ、今さらバレたとしても支障は最低限ではある。
私は仙蔵とすれ違い、図書室へ歩を速めた。
図書室まで目と鼻の先。寸でのところでひとつ下の学年と出くわしてしまった。
紺碧の学年装束に身を包んだ不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎、だと思われる。
「こんにちは、葉月先輩」
「こんにちは」
「本を返しに行くんですか?」
「ああ、今日が返却日なんだ」
「それはなんとか間に合わせたいですね。潮江先輩みたく延滞したら中在家先輩が恐いですから」
「はちやも気をつけろよ」
私がその名を出せば、柔和な顔がにやりと笑う。ああ、やはりこいつは鉢屋三郎だ。
不破の顔をした鉢屋が「気をつけます」と軽く答える。
両者の間に微々たる緊張の糸が張り詰める。それは絹の糸よりも細く、直ぐに切れてしまいそうなほど細い。
鉢屋と顔を合わせる度にこの緊張感を味わってきた。
あれは学園が一つ上がり、六年になったばかりの頃だ。
不破に用事があった私は五年長屋に訪れ、不破・鉢屋と札が掛かった部屋の戸に手を掛けて引いた。
そこにいたのは紺碧の学年装束を着た忍たま。だが、不破でも鉢屋でもない誰かがいた。見覚えのない顔の人物がそこに胡坐をかいており、周囲には見覚えのある髷と変装用の面がひとつ落ちていた。不破の顔をした面が。
その人物と目があった刹那、私は戸をやおら閉めた。見てはいけない、知ってはいけないものを目にしてしまった。私はその時動揺していたあまり、再び引かれた戸の音にびくりと肩を震わせた。
中から出てきたのはいつもの不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎。だからつまり、さっきの顔は。
「見ましたか」
「あー……いや、見てない」
鉢屋の素顔を見た者は誰ひとりとしていない。
そればかりは先生方も知らないと聞く。それを目撃した己は幸か不運か。私にとっては後者に当たる。鉢屋の素顔を暴こうと企てたことなど一度もない。
素顔を隠すのには何かしらの理由がある。ただの憶測ではあるが、見られては困るのかと。人間、ひとつふたつの秘密を所持していてもおかしくはない。現に私もそうだ。
だから見て見ぬふりを決め込もうとしたというのに、不意の投げかけが私の背筋をひやりとさせた。
「先輩の秘密、実は私知っているんですよ」
如何なることがあれど、相手を目前に顔色を変えるべからず。忍びは常に冷静であれ。この六年間で教えを受けたというのに、その時ばかりは動揺が隠せずにいた。
鉢屋に私が女だとばれるような隙を与えただろうか。風の噂が流れることはあれど、何れも有耶無耶となって消えた。それを何故こいつが知り得るのか。いや、待て。鎌を掛けられているのかもしれない。情報を聞き出す常套手段だ。
振り返れば冷静に対応しておけば良かったものの、先の件もあったせいで私の表情はヤツの求めていた答えを割り出してしまっていた。
互いの秘密を胸の奥底に顰める。決して他者に口外してはならない。
この時から私とはちやの間に黙約が存在した。
あれから半年以上が過ぎたが、その黙約が破られることはなかった。
元より私は秘密をばらす気は微塵もない。正直、驚いたのは鉢屋の方だった。律儀に守る男とは思っていなかったからだ。
こうして時たま顔を合わせる度に、どう表情を繕っていいのか迷うぐらいではある。
「それじゃあ私は失礼します」
お互いに何の得にもならない。それを承知の上で取り交わした口約束だったのかもしれない。今ではそう思える。
すれ違い様に「卒業試験、頑張ってくださいね」と声を掛けてきた鉢屋に私は軽く返事をした。
図書室の戸を開け、先ず目に映ったのは紺碧の学年装束。今さっき会ったばかりの顔に思わず眩暈がした。瞬歩で移動し、私を揶揄うつもりか。いや、目の前にいるのは恐らく本物の不破だ。
腕に抱えた書物を本棚に納めていた不破が私に「葉月先輩」と声を掛けてくる。私は念の為と手を伸ばして不破の頬を遠慮なしに引っ張った。
面が剥がれ落ちる。などといったことはなく、私の素手は生身の温度を捉えた。
急に抓られた方は堪ったものじゃない。「葉月先輩、何するんですか!」と悲鳴を上げた。
「悪い。さっきそこで同じ顔に会ったものだから」
「そっちが三郎ですよ。僕は不破雷蔵です」
「そうみたいだな。悪かった。ところで、長次はいるか?」
「中在家先輩なら貸出口にいらっしゃいますよ」
「ありがとう」
赤くなった頬をさする不破は「どう致しまして」と柔和な笑みを浮かべた。
本来の目的を果たすべく、私は図書貸出口に鎮座する長次に声を掛けた。
年季が入った書物に目を通していた長次の顔がゆっくりとこちらを向く。額に皺を寄せ、口はへの字に曲げられた。機嫌は良い方だ。
手元の書物をぱたりと閉じ「何か用か」と矢羽のような声を出した。
「返却手続きを頼む。今日が期限のはずだ」
「わかった」
大事に抱えてきた二冊の書物を長次に渡す。が、ここで手をつけられなかった一冊が今更名残惜しくなってきた。
桐の小箱から取り出された私の図書カードに筆が丁寧に走らされていく。これで図書委員会委員長に怒られる未来は消えた。
「なあ、長次。この本、今ここで読んでもいい?」
諦めきれずに手つかずであった書物を示す。再度借りたとて、読める保障はない。それならばここで少しでも知識を吸収したかった。
長次は表情ひとつ変えずにこくりと頷いた。無骨な手が返却手続きの済んだ書物をすっと私に差し出す。
さて、本を読む許可を無事に得た。どこで読もうか。誰かに邪魔をされたくはない。
私は図書室内をぐるりと見渡した。二、三人の忍たまが静かに過ごしている。声を荒げたり、騒ぐようなものはいない。その中でも特等席は、と最終的に目が留まったのは長次のいる場所だった。
長次は小平太と違ってやたらめったら話しかけてくるような性分ではない。私は長次の後ろ側に回り込み、腰を下ろした。
書物の表紙を捲り、文字を目で追う。
和紙を捲る音だけが耳に重ねられていた。
どれだけの時が過ぎたのかは正確にはわからなかった。
読み進める間、貸出口に訪れた忍たまが数名いた気もする。声を掛けられたような気がする。それが誰だったのかも憶えていない。
読み耽るうちに意識が微睡んでいく感覚はあった。何度も下がる瞼をいよいよ持ち上げられなくなり、その直後に感じたもの。大きく、温かな壁。私はそこに背を預け、瞼をすっかりと閉じた。少しくらいの居眠りは寛容に受け入れてくれるだろう。
昔から長次の背中は大きくて、温かい。今もそれは変わらずにいた。
図書室から借りた本の返却期限が迫っていた。否、返却期限日は今日だ。
放課後に私は二冊の本を脇に抱え、図書室を目指していた。
本来ならば三日前には返却するつもりでいたのだが、それも敵わず。
五日前、一冊目を読み終えた後、二冊目に手を伸ばした矢先のこと。伊作に助けを乞われ急遽応じるしかなかったのだ。
伊作が悪いわけじゃない。文次郎と留三郎がよりによって長次を怒らせたらしく、それを止めようと奮闘した伊作が巻き込まれてしまったんだ。
しかし、長次を止めるには私ひとりでは到底無理な話。小平太や通りかかった五年生数人でなんとか怒りを鎮めることができた。
そんな経緯があったわけで、二冊目云々どころか本を借りていたことも忘れてしまう始末。あの日はへとへとになって、課題に手をつけることも忘れて眠りについた。
私は本を読みだすと夢中になり、時を忘れてしまう。集中している最中に声を掛けられても気づかないことしばしば。そこが私の悪い癖だと言われる。
よって、少しだけ本を読んでから返却しようとするのは自らを危険に晒すだけ。本に耽り、図書室が閉まる時間まで気がつかずにいたら。長次の晴れやかで恐ろしい笑顔と縄標が脳裏に過ぎった。
そういった理由で手つかずの本も含めて抱え、図書室へと向かっている。
外気は冷えていた。凛とした空気に冬を感じる。
もう十二月か。今年は雪が積もるかな。雪で遊ぶのが結構好きなんだ。ああ、でも今は卒業試験が控えているから降らない方が良い。忍務中に凍えるのは勘弁だ。
図書室に向かう途中、廊下で仙蔵と出くわした。
仙蔵は廊下から中庭を眺めていた。葉を落としたツツジの低木に目を向け、何やら思案に耽る。
声を掛けずに去るのも感じが悪い。軽く挨拶だけは済まそうと声を掛けた。私の声に振り向いた仙蔵の長い髪が美しい流線を描く。
「ああ、紅蓮か。お前は鍛錬に行かないのか」
「藪から棒になんだ。私はこれから本を返しに行くところでね」
「いや、文次郎と留三郎がここのところ毎日遅くまで鍛錬に出向いていたからな。試験が近いせいもあるだろうが」
「卒業試験、か」
「試験の組み合わせがそろそろ発表されるそうだぞ」
六年生全員が受ける卒業試験。いろは組を問わず、二人一組で課せられた忍務を遂行する。難易度は今までのどの課題より高いと聞く。怪我だけではすまされない、命を落とす危険性も十分に孕む。
「お互いやりやすい相手と組めると良いな」
「そうだな。じゃ、私は図書室に行くから。万が一返却し損ねたら長次が笑う」
私が冗談まじりにそう言えば、仙蔵は他人事のように笑みを一つ零した。こいつは先日の騒動に関わろうとせず、高見の見物を決め込んだ。昔からそういうヤツだ。
「少しは体を動かしておかんと鈍るぞ」
「わかってる」
そのくせ面倒事に関わろうとはしないが人のことをよく見ている。私がここ数日鍛錬に手を抜いているのを知っているその口ぶりから窺えた。仕方がないんだ。月に一度は身体の調子が悪くなるんだから。幸い、そのことに関しては気づかれていないようだけど。仙蔵は観察力、洞察力が鋭いから油断はできない。まあ、今さらバレたとしても支障は最低限ではある。
私は仙蔵とすれ違い、図書室へ歩を速めた。
図書室まで目と鼻の先。寸でのところでひとつ下の学年と出くわしてしまった。
紺碧の学年装束に身を包んだ不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎、だと思われる。
「こんにちは、葉月先輩」
「こんにちは」
「本を返しに行くんですか?」
「ああ、今日が返却日なんだ」
「それはなんとか間に合わせたいですね。潮江先輩みたく延滞したら中在家先輩が恐いですから」
「はちやも気をつけろよ」
私がその名を出せば、柔和な顔がにやりと笑う。ああ、やはりこいつは鉢屋三郎だ。
不破の顔をした鉢屋が「気をつけます」と軽く答える。
両者の間に微々たる緊張の糸が張り詰める。それは絹の糸よりも細く、直ぐに切れてしまいそうなほど細い。
鉢屋と顔を合わせる度にこの緊張感を味わってきた。
あれは学園が一つ上がり、六年になったばかりの頃だ。
不破に用事があった私は五年長屋に訪れ、不破・鉢屋と札が掛かった部屋の戸に手を掛けて引いた。
そこにいたのは紺碧の学年装束を着た忍たま。だが、不破でも鉢屋でもない誰かがいた。見覚えのない顔の人物がそこに胡坐をかいており、周囲には見覚えのある髷と変装用の面がひとつ落ちていた。不破の顔をした面が。
その人物と目があった刹那、私は戸をやおら閉めた。見てはいけない、知ってはいけないものを目にしてしまった。私はその時動揺していたあまり、再び引かれた戸の音にびくりと肩を震わせた。
中から出てきたのはいつもの不破雷蔵の顔をした鉢屋三郎。だからつまり、さっきの顔は。
「見ましたか」
「あー……いや、見てない」
鉢屋の素顔を見た者は誰ひとりとしていない。
そればかりは先生方も知らないと聞く。それを目撃した己は幸か不運か。私にとっては後者に当たる。鉢屋の素顔を暴こうと企てたことなど一度もない。
素顔を隠すのには何かしらの理由がある。ただの憶測ではあるが、見られては困るのかと。人間、ひとつふたつの秘密を所持していてもおかしくはない。現に私もそうだ。
だから見て見ぬふりを決め込もうとしたというのに、不意の投げかけが私の背筋をひやりとさせた。
「先輩の秘密、実は私知っているんですよ」
如何なることがあれど、相手を目前に顔色を変えるべからず。忍びは常に冷静であれ。この六年間で教えを受けたというのに、その時ばかりは動揺が隠せずにいた。
鉢屋に私が女だとばれるような隙を与えただろうか。風の噂が流れることはあれど、何れも有耶無耶となって消えた。それを何故こいつが知り得るのか。いや、待て。鎌を掛けられているのかもしれない。情報を聞き出す常套手段だ。
振り返れば冷静に対応しておけば良かったものの、先の件もあったせいで私の表情はヤツの求めていた答えを割り出してしまっていた。
互いの秘密を胸の奥底に顰める。決して他者に口外してはならない。
この時から私とはちやの間に黙約が存在した。
あれから半年以上が過ぎたが、その黙約が破られることはなかった。
元より私は秘密をばらす気は微塵もない。正直、驚いたのは鉢屋の方だった。律儀に守る男とは思っていなかったからだ。
こうして時たま顔を合わせる度に、どう表情を繕っていいのか迷うぐらいではある。
「それじゃあ私は失礼します」
お互いに何の得にもならない。それを承知の上で取り交わした口約束だったのかもしれない。今ではそう思える。
すれ違い様に「卒業試験、頑張ってくださいね」と声を掛けてきた鉢屋に私は軽く返事をした。
図書室の戸を開け、先ず目に映ったのは紺碧の学年装束。今さっき会ったばかりの顔に思わず眩暈がした。瞬歩で移動し、私を揶揄うつもりか。いや、目の前にいるのは恐らく本物の不破だ。
腕に抱えた書物を本棚に納めていた不破が私に「葉月先輩」と声を掛けてくる。私は念の為と手を伸ばして不破の頬を遠慮なしに引っ張った。
面が剥がれ落ちる。などといったことはなく、私の素手は生身の温度を捉えた。
急に抓られた方は堪ったものじゃない。「葉月先輩、何するんですか!」と悲鳴を上げた。
「悪い。さっきそこで同じ顔に会ったものだから」
「そっちが三郎ですよ。僕は不破雷蔵です」
「そうみたいだな。悪かった。ところで、長次はいるか?」
「中在家先輩なら貸出口にいらっしゃいますよ」
「ありがとう」
赤くなった頬をさする不破は「どう致しまして」と柔和な笑みを浮かべた。
本来の目的を果たすべく、私は図書貸出口に鎮座する長次に声を掛けた。
年季が入った書物に目を通していた長次の顔がゆっくりとこちらを向く。額に皺を寄せ、口はへの字に曲げられた。機嫌は良い方だ。
手元の書物をぱたりと閉じ「何か用か」と矢羽のような声を出した。
「返却手続きを頼む。今日が期限のはずだ」
「わかった」
大事に抱えてきた二冊の書物を長次に渡す。が、ここで手をつけられなかった一冊が今更名残惜しくなってきた。
桐の小箱から取り出された私の図書カードに筆が丁寧に走らされていく。これで図書委員会委員長に怒られる未来は消えた。
「なあ、長次。この本、今ここで読んでもいい?」
諦めきれずに手つかずであった書物を示す。再度借りたとて、読める保障はない。それならばここで少しでも知識を吸収したかった。
長次は表情ひとつ変えずにこくりと頷いた。無骨な手が返却手続きの済んだ書物をすっと私に差し出す。
さて、本を読む許可を無事に得た。どこで読もうか。誰かに邪魔をされたくはない。
私は図書室内をぐるりと見渡した。二、三人の忍たまが静かに過ごしている。声を荒げたり、騒ぐようなものはいない。その中でも特等席は、と最終的に目が留まったのは長次のいる場所だった。
長次は小平太と違ってやたらめったら話しかけてくるような性分ではない。私は長次の後ろ側に回り込み、腰を下ろした。
書物の表紙を捲り、文字を目で追う。
和紙を捲る音だけが耳に重ねられていた。
どれだけの時が過ぎたのかは正確にはわからなかった。
読み進める間、貸出口に訪れた忍たまが数名いた気もする。声を掛けられたような気がする。それが誰だったのかも憶えていない。
読み耽るうちに意識が微睡んでいく感覚はあった。何度も下がる瞼をいよいよ持ち上げられなくなり、その直後に感じたもの。大きく、温かな壁。私はそこに背を預け、瞼をすっかりと閉じた。少しくらいの居眠りは寛容に受け入れてくれるだろう。
昔から長次の背中は大きくて、温かい。今もそれは変わらずにいた。