軽率なコラボシリーズ
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寝言
紅蓮は教員長屋の廊下を進んでいた。その足取りは些か重く、沈みがちである。
手には鳶色の風呂敷に包んだ土産。先刻、甘味処で包んでもらったものだ。
土井、山田の名札が見えた部屋の前で足を止め、中の気配を窺い見る。
「失礼します」
訪ねる相手がいると確信を得た紅蓮は一声断りを入れて、戸を引いた。
その直後目に映ったのは土井半助。文机の前で体躯をくの字に曲げ、胃痛で悶え苦しんでいる姿であった。
「ぐおおお……」
「土井先生。胃薬と水お持ちしましょうか」
痛みに苦しむうめき声を上げる半助に対し、先ずは一言そう伝える。その口調は冷静だ。これは懐かしくもあり、最早見慣れた光景なのである。
「うう……すまない。頼む、紅蓮」
戸口に立つのが何者なのか。顔を上げずともそれと判断した半助には恐れ入る。
先生方にはまだまだ敵わないものだ。そう感服しながらも紅蓮は“土井先生御用達の胃薬”と水を調達しに向かった。
急ぎ医務室から戻ってきた紅蓮は手配した胃薬と水を半助に渡す。
粉末状の薬を口に入れ、湯呑みの水で一気に流し込む。ごくりと喉を鳴らしたところで一息吐く。それからふにゃりとした緩い笑みを紅蓮に向けた。
「来て早々にすまないなぁ。助かったよ」
「また何か胃を痛めるような出来事でもあったのですか」
「いやぁ……思い出し笑いならぬ思い出し胃痛がな」
半助は口の端を引き攣らせた後、湯呑みに残った水を一口飲み込んだ。並々と注がれていた水は残り僅か、二口ばかりとなった。
場を和ませようとも思った半助の返しに紅蓮の表情は動かない。
姿勢を正し、じっと見つめてくるその視線。それがどこか神妙なものに思えたので、どうしたのかと問えば、紅蓮は伏せるようにすっと目を細めた。
「私が毒を盛るかもしれないとは微塵も疑わないのですね。薬の匂いすら確かめずに口にされた。卒業生とはいえ、私は外部の人間。いつ手のひらを返すかわかりませんよ。それに、私が本物かどうかも陸に」
「目を見ればわかるさ。何もやましいことがない、真っ直ぐな眼差しだ。お前は昔から何一つ変わらない、優しい子だよ。卒業式の日にすら後輩を庇って代わりに怪我を負うぐらいにはね」
俯いた顔を上げた先に、柔らかな笑顔。かつての教え子を見守る教師の顔がそこにはあった。
「葉月紅蓮。火薬委員会委員長を務め、みんなを支えてくれた六年は組の生徒。私は担任ではなかったが、お前も大事な教え子の一人だよ。その教え子の謀や紛いものを見抜けなくてどうする」
それこそ教師失格だ、と半助は苦笑いを浮かべてみせた。
ちょっとした皮肉を口にしたのがそもそもの間違いであった。八つ当たりにも似た感情を表に出すなど、らしくもない。紅蓮は反省の色に染めた溜息を一つ吐き出した。
「出過ぎた口を利いて申し訳ありません。土井先生の仰る通りです。……私は恩師や友に刃を向けるくらいならば、自ら命を絶つような人間ですから」
「だからこそどこの城にも就かず、情報を集め、情勢を常に見ているんだろう。うまく立ち回れば対峙を避けられるから」
「土井先生には敵いませんね。それも仰る通りです」
毒気を抜かれたように力なく紅蓮が笑い返した。
「それで、今日はどうしたんだ? 何か相談事でも」
「……実は、その。三郎次とケンカをしまして」
半助の胃がキリキリとまた痛みだした。
浮かべた笑顔に、滲む脂汗。
いや、今はこの胃痛よりも大事なことがある。
湯呑みを静かに文机に置き、紅蓮の方へ座り歩いた半助は彼女の両肩をしっかりと掴んだ。穏やかな表情はすっかり消え失せ、真剣というよりも血相を変えて紅蓮に語りかける。
「落ち着きなさい紅蓮。先ずは話を聞くから落ち着きなさい」
「いや、落ち着いてますが」
「お前の落ち着いているは覚悟を決めているものが多い! だから一旦頭を冷やしなさい!」
「充分落ち着いているんですが!」
そもそも覚悟とは何か。元顧問がわけのわからないことを言い、自分を宥めようとしてくる。しかし紅蓮自身は気を狂わせたつもりもなければ、自棄になってもいない。これ以上どう落ち着けと言うのか。
室内で押し問答に近いやりとりを幾ばくかしていると、何事かと伊作が部屋の戸を開けた。
「どうされたんですか」
「伊作ぅ! お前も紅蓮を宥めてくれ!」
「本当に何事なんですか。紅蓮、何があったの?」
「私はただ、」
「紅蓮が三郎次とケンカをしたと言って、覚悟を決めているんだ!」
「だから何の覚悟ですか! 伊作、土井先生を宥めてくれ!」
伊作は思わず片手で顔を覆った。
どうやら二人の話は噛み合っていない。半助は必死に紅蓮を宥め落ち着かせようとしており、既に冷静なのだからそちらが落ち着いてくれと紅蓮が半助を宥めようとする。
今しがた「三郎次」という言葉が聞こえたので、それ絡みであることは確かだ。
兎にも角にも、自分が間に入って話を聞かなければ。なんともまあ間の悪い時に立ち寄ってしまったのだろうか。
伊作は短い溜息を漏らした。
◇
斯々然々。
つまり、紅蓮は三郎次とケンカをして気まずくなってしまったことを相談するべく、半助の元を訪れた。手土産の甘味を風呂敷に包んで。
しかし半助は三郎次とケンカをしたと聞き、その風呂敷の中身は纏めた荷物だとすっかり勘違いを起こしていたのである。
「あははは……いやあ、すまない。早とちりをしてしまったようだ」
「これは手土産ですよ。わらび餅を買ってきたんです。山田先生とご一緒にどうぞ。伊作も食べてくれ。余分に買ってきたから」
「有り難く頂くよ。それはそうと、紅蓮も変な言い方しないこと。わかった?」
「私は何も言っていないんだが」
口をへの字に曲げ、少しむくれる友人の姿。こんな風に感情を表に出したのを見るのは久方ぶりだ。伊作はこっそりと頬を緩めた。さながら妹を見守る兄のような目をしながら。
「さっきの話の流れからだと真面目な雰囲気だったし、そう思ってしまうだろ。お前は決めた事を中々覆そうとしない性格だし」
「土井先生が勝手に勘違いされたんですよ。たかが一度や二度のケンカで離縁だの実家に戻る真似などしません」
息を吐いた紅蓮は苦々しいといった様子で話を続けた。
「それに里帰りなんぞしようものなら、二度と実家から出てこられなくなります。以前も仕方なく戻った際に囲われそうになりましたから」
それはまだ祝言を挙げる前。三郎次が忍術学園を卒業して半年経つか経たないかぐらいの話だ。
ひょんな理由で実家に足を運ぶ次第となったのだが、やれ娘が婿を連れてきただの、十数年ぶりの再会を今一度祝いたいだの、それはもう大変だったと溜息を吐く。
囲う気配を察したので裏庭から三郎次と共に脱したという。
「そんなことになってたんだ」
「父は過保護すぎるんだよ。それこそ夫とケンカ別れしたなどと言ってみろ。三郎次の身に何が起きるかわからん」
紅蓮の話を半笑いで聞いていた半助は胃の辺りを円を描くように擦った。
山田家を始めとし、久々知夫妻。どこの家庭もそれなりに問題を抱えているのだ。しかも何故かその問題に巻き込まれてしまう半助。不意に鷲掴みされた様な痛みを胃が訴えた。
「……それで、二人のケンカの原因は何なんだ?」
「私が寝言で伊作の名を呼んでいたようで」
「ねえ、夫婦喧嘩に僕を巻き込むの止めてくれないか」
「しかも連日呼んでいたらしく」
「ほんとに止めてほしい」
「そっちは落とし穴があるから危ないと伊作を呼び止めていたんだ。結局落ちてしまうんだが」
「待って。毎晩夢の中で僕落とし穴に落ちてるわけ?」
「いや……二日に一度だな。吊り罠に引っ掛かってることもある」
「そんなに頻度変わらないっていうか、結局罠にかかってるじゃないか!」
紅蓮は「偶に留三郎も出てきて三人一緒に落とし穴に落ちてることがある」と遠い目をしていた。
現実味がある、いやむしろ過去にあった出来事過ぎて伊作は目元を思わず覆った。これで本日二度目である。
「あとは」そう話を続けようとした紅蓮はそこで口を噤んだ。
刹那、帯びる愁いの青紫。次いで口から出そうになった名を音にはせず、そっと目を伏せた。
僅かな間を含ませた後、止めた言葉を「それで」と紅蓮が続けた。
「連日寝言で他の男の名前呼ばれる俺の身にもなってください、と怒られた」
「それはそう」
様々な障壁――その主な障壁は相手の鈍感であったが、それを乗り越えようやく結ばれたのだ。
例え相手が固い絆を誓った友であり、夢による無意識下の呼びかけだとしてもだ。側で自分以外の男の名を呼ばれるのは腹に据えかねないのだろう。
おや、これはどこかで見たケースだぞ。伊作はちらりと半助の方を見やる。どうやら同じことを思ったようで、二人は互いに視線を交わし、ひくりと顔を引き攣らせた。矢羽音を送るまでもない。
「……しかしなぁ。三郎次の言い分もわかるが、夢は操作しようにも難しい」
「己で自在に操れるなら毎度伊作を落とし穴に落としやしませんよ」
「僕も夢の中くらいは安寧に過ごしたい。ただでさえこの間」
大変な目に遭った。そう言いかけ、ハッと伊作は口元を咄嗟に押さえた。
紅蓮がその仕草を見逃すわけもなく。旧友、恩師の顔を探るような目つきで交互に見た。
「先程から妙だと感じていたのですが、また何かありましたね? 久々知夫妻のことで」
「うっ」
半助は胃を押さえつつ、横へ視線を逸らす。
「伊作」
「……あははは」
紅蓮に名を呼ばれた伊作は目を泳がせ、半助は顔を強張らせた。
これは確実に何かがあった後だ。今度は何があったのやら。ここで問い詰めるまでもない。どうせすぐに他から情報が舞い込んでくるのだ。
「ま、まあまあ今はそれよりもだ。お前たちのことが心配だぞ。なあ伊作」
「そうですね。三郎次はまだ怒ってる……というか、大抵は紅蓮から折れて謝ってると思うんだけど。それでもまだ怒ってるってことだろ? こんな風に拗れるのも珍しいよねえ」
昔からこの友人は自分に非があると思えば直ぐに詫びる。後輩相手になら尚の事。
意地の張り合いをすることもあるが、それは遠い昔の話。それに修復不可となるまで拗れることは滅多にない。
しかし、今回は何やら拗れてしまったようで。
「寝言の件については詫びた。その直後は特に問題もなく、普通だったと思う」
「その後にまた何かあったとか」
「いや……思い当たる節はないんだ。ただ、詫びのつもりで買って来たわらび餅を見た途端に機嫌が悪くなったような気もする」
その後直ぐに「出掛けてきます」と言って長屋を出てしまった。そう話した紅蓮はどこかしょぼくれている。こんな風に肩を落とし、俯く様も珍しい。
友人に味方したい気持ちはやまやまだが、問題は一つまみほど紅蓮にある気がした。
「僕は三郎次が君の中で十一歳のまま時が止まってるような気がしてならないよ」
「まあ、甘味で喜ぶような年でもないかもなぁ。しんべヱなら大喜びしそうだが」
「昔は喜んでくれたんですが」
「それだよ、それ。趣味嗜好が今も昔も同じとは限らない。紅蓮は相手のことをよく見ているはずなのに、色恋になると本当に大雑把というか、繊細さに欠けるというか」
「……だから、こうして相談に来ているんだよ」
紅蓮は伊作のお説教ならぬ、お小言にすっかり肩を窄めて縮こまってしまう。その姿が不憫だなあと思いつつ、半助が助け舟をそっと差し出した。
「しかし、こういった話ならば我々よりも久々知さんにした方が良いんじゃないか」
「先程、食堂に三郎次が入っていくのを見掛けまして。今顔を合わせるのはとても気まずいです」
行き先を告げずに出かけた相手が同じ敷地内におり、同じ場所へ向かっていたのだ。あと寸刻でも遅ければ食堂で鉢合わせていただろう。紅蓮は直ぐに踵を返し、こちらへ来たのだと話す。
ところで、この状況に伊作は憶えがある。確かあれは「三郎次に好きだと言われたんだがどうしたらいい」と相談された時だ。紅蓮は女子の様に恥じらい、顔を紅潮させていた。顔を合わせるのが気まずいからと、敢えて三郎次を避けて学園に赴いていた時期もあったと。それによって相手を大変やきもきさせていたことも伊作は知っていた。
しかし、今回は少しばかり状況が異なる。時が解決するといえばそうなのだが、こうして弱音に近いものを吐きだす友人を放ってはおけない。
何はともあれ、先方の主張も訊きださなければ解決の糸口も見つけられない。
伊作は意を決し、片膝を立てた。
◇
「寝言、ねぇ。そればっかりはどうしようもないんじゃないかなぁ」
紅蓮が教員長屋に訪れていた時、三郎次は食堂で久々知夫妻と茶を飲んでいた。
茶請けには町で評判の甘味処で買って来たわらび餅。この包みを持って訪れた三郎次は浮かない表情をしていたので、不二子が「どうしたの?」と訊ねた。すると、最初こそ言いにくそうにしていた三郎次ではあったが「霧華さんと気まずくなってしまって」と零す。それを聞くや否や「それは大変だぁ!」と大袈裟に構えた不二子は茶の用意をしてから兵助を急いで連れてきたのである。
三者面談よろしく二対一で始まった茶飲み話。
「事を荒立てないでほしい」とは言えないまま、経緯をぽつりぽつりと三郎次は話した。
「僕もそう思いますよ。まあ、多少の苛立ちは覚えましたけど」
「三郎次はヤキモチ焼きだなぁ」
「久々知先輩にだけはそれ言われたくないです」
伊作と留三郎は紅蓮の友人であり、掛け替えのない存在だと三郎次も知っている。毎晩落とし穴に落とされているのもどうかとも思うが。それだけ心配で気に掛けているのだろう。
彼らについてはこの際だからと目を瞑ることができる。ただ、一つだけ。許容できないものが。故人である、かつての友人の名を呼ぶことがあるのだ。
それ自体は一向に構わない。故人を偲ぶこともだ。
「逆に霧華さんってヤキモチ焼かなさそうだよね」
もやついていた思考がその一言でハッと引き戻される。
「確かに」
「それはそれで悲しいんですけど」
三郎次は愛想笑いを一つ浮かべ、頬杖をつく。
「いや、そもそも三郎次たちはお互いのことしか見てないだろうからな」
「なっ」
「そうだね。昔から三郎次くんは霧華さんのことしか見てなかったし」
振り返られた話はかなり昔のこと。七年近く前のことを今更「こうだった」と第三者の目から語られるのは何とも恥ずかしい。顔を赤らめながら三郎次は兵助の方を軽く睨みつけるようにした。
「他の先輩のことだって尊敬してましたよ。久々知先輩とか。……一番は葉月先輩でしたけど」
言葉の最後を尻すぼみにし、ごにょごにょと言いながら三郎次は湯呑みを傾けた。その顔は実に恥ずかしそうである。
「で、三郎次的にはちょっと言い過ぎたかもと思って、お土産を買ってきたら」
「同じ店の同じもので、更に気まずくなっちゃったってことだよね」
茶請けとなったわらび餅に目を落とす兵助と不二子。息もぴったりな言動と仕草に似た者夫婦だなあと思い、三郎次が軽く頷いた。
「だって、被るにも程があるじゃないですか? 同じ店で、同じ甘味買ってきて。店で鉢合わせなかったのが不思議なぐらいですよ」
「むしろ同じこと考えてるなあって微笑ましいけどね」
「は、恥ずかしいじゃないですか。同じ風呂敷包み見た時はびっくりし過ぎて思わず行き先告げずに出てきてしまったんですから」
「なんていうか、可愛いよね三郎次くん」
「どこがですか!」
可愛い可愛いと後輩を揶揄う隣で兵助は竹楊枝でわらび餅を一つ摘まんだ。
もっちりとした食感と弾力。良い大豆を使用したきな粉も美味い。この味に兵助は憶えがあった。記憶の糸を手繰り、行き着いたのは七年前のある日。
「あ、このわらび餅ってもしかして。先輩が前に委員会会議の時に買ってきてくださったやつじゃないか?」
「よく憶えていらっしゃいましたね」
三郎次と同じ記憶に辿り着いた兵助は口元を緩めて微笑んだ。
もうだいぶ前の話だというのに、と三郎次は驚いていた。
「みんな美味しい美味しいって言ってたからな。先輩も伊助たちの喜ぶ顔を見てとても嬉しそうにされていたから」
「へえ~。……ほんとだ、すっごく美味しい!」
「あの時の三郎次も、今の不二子さんみたくほっぺが落ちそうなくらい美味しいって喜んでたんですよ。それはもう甚く感動して」
「久々知先輩。ほっぺが落ちそうなんて誰も言ってません」
「そうだったか? まあ、それは置いといて。同じものを買ってきたことが余計に小恥ずかしくて、此処へ来たんだな。まあ、でも」
兵助は食堂の入口付近にいる気配をちらりと窺い、言葉を続けた。
「きっと先輩も同じこと考えてたんじゃないか。また三郎次の喜ぶ顔が見たいと思ってたんだ」
「似た者夫婦だね、二人とも」
「まあそもそも三郎次は先輩の間合いの取り方や立ち回り方を真似ていたし、似るのは当然かと」
小恥ずかしい。三郎次は口をへの字に歪め、表情を手で覆い隠すように俯いた。
と、ここで素早い矢羽音が一つ食堂の廊下に向けて飛んだ。何だと思い、三郎次がそちらへ顔を上げる。
そこには伊作が顔だけをひょこりと出していた。非常に気まずそうである。
「伊作先輩。ご無沙汰しております」
「や、やあ三郎次。久しぶり。元気そうでよかった」
「……なんでそんな中途半端に顔を出してるんですか」
「いやあ、ちょっとね」
気まずそうに、伊作が兵助の顔色を窺う。兵助は穴が空きそうなほど伊作を見ていた。真顔のそれが少し怖いと三郎次が気づき、もしかして何かあったのかと頭に過る。
「それより、言伝があるんだ」
「言伝? 誰からですか」
「月見亭にいるから、来てほしいって。紅蓮から」
言伝の相手を知るなり、三郎次は目を見開いた。まさか同じ敷地内に居たとは思いもよらない。いや、恐らくは誰かの元を訪ねていたのかもしれない。此処は紅蓮にとって第二の故郷でもある。
刹那、仙蔵の顔がチラついた。そうではないと信じたいところだ。
「霧華さんも来ていたんですか?」
「うん。それじゃあ、僕は言伝もしたから失礼するね」
伊作は簡単な言伝を終えた後、わざと足音を立てながら急いで立ち去っていった。何かから逃げるような足取りで。
絶対にこの二人絡みで何かがあった。だが、今はその情報を仕入れているバヤイではない。
「すみません。僕も失礼します」
「うん。行ってらっしゃい」
「あんまり意地張るんじゃないぞー」
席を立ち、食堂を出る際にキッと兵助の方をひと睨みした三郎次は近道をして月見亭へと急いだ。
◇
池に面した月見亭。その東屋が見えてきたが、そこには人の姿がない。
刹那、伊作に謀られたかと過るもその考えは直ぐに消え去った。
反対側からやってきた紅蓮の姿が見えたのだ。その片手には鳶色の風呂敷包みを持っている。
紅蓮も三郎次の姿を捉え、東屋の前で微妙な間合いを取って立ち止まった。三尺ばかり取られた距離。気まずそうに無言で互いの顔を見ている。
どう話を切り出せばいいものか。「今日はいい天気ですね」と世間話をするのは明らかにおかしい。自分から勝手に長屋を飛び出した手前、謝るのが先か。
「とりあえず、座らないか」
三郎次が思案を巡らせる中、特段変わった様子のない紅蓮がそう声を掛けた。
池のほとりに吹いた風が水面を揺らす。
大きな蓮の葉に雨蛙が一匹。風で揺れたことに驚いたのか、ぽちゃんと音を立てて水面に吸い込まれていった。
「三郎次も忍術学園に来ていたとは思わなかったよ」
「まあ、気が向いた先が此処だったので。……いつも久々知さんの所に寄るのに、今日はどちらへ」
「土井先生の所に。伊作もいたから世間話に花を咲かせていたよ」
「そうでしたか」
「不二子さんたちはいつも通りだったか」
「概ねいつも通りでしたよ。まあ、何かあった感じはしましたね」
「私もそれは思った」
東屋で並び座る二人の会話はどこかぎこちない。
それぞれの場で話していた内容を互いに口にはしない。似通った悩みを抱え、同じ様に相談をしていたとは言い辛いものだ。
「三郎次。その、まだ怒ってるか」
「何がです」
「私の寝言の件だよ。……実はさっき、伊作にも相談したんだが解決策が特に見つからなくてな」
「別にその件は……って本人に言ったんですかそれ。毎晩落とし穴に落とされてるって」
「ああ。夢の中でまで不運な目に遭わせるなと怒られた」
「それはそうですよ」
力なく笑う紅蓮に三郎次も苦笑する。
他の名を呼ぶのが気に食わない。そう強い口調で言ったつもりはなかったあの言葉。思いの外気にさせてしまっていたようで、三郎次は眉を顰めた。
「別にいいんですよ、それは。その、俺は。……あの人の夢を見た時の貴女は必ずといっていいほど、夜中に起きて思いに沈んでいる。気づいていないとでも思ってましたか」
月が煌々と照らす夜も、新月の夜も。夜風に当たりながら偲ぶその姿が居た堪れなかった。
嫉妬にも似たこの感情。決して越えることが出来ない壁。だが、それ以上に思うところが三郎次にはあった。
「好きな人が哀しんでいる姿をあまり見たくないんです。その人が大事な学友で、掛け替えのない友人だったことは重々承知だ。抱えてるもの捨てろなんて言いません。ただ、少しくらいはその荷を俺にも持たせてください」
床板に置かれていた左手に手を重ね、指先を纏めて包み込むように握る。己の手よりも大きく、逞しくなった手のひらの温もり。真っ直ぐな熱い視線に紅蓮の頬も俄かに熱を帯びる。
はにかんで俯きそうになるも、その表情は相好を崩した。
「有難う」
2024.7.13
◇◆◆◇
take1
「悪夢を見て魘されてる時は、耳元で豆腐の城って囁いてあげるといいぞ」
「ねえ、まって。私この間豆腐の城が夢に出てきたんだけど。まさか」
「魘されてたので、豆腐で緩和させようと思って」
「先輩、それ洗脳っていうんですよ」
take2
「お豆腐パーティーを開いて仲直りしよう」
「先輩。なんでもお豆腐にすれば良いわけじゃないんですよ」
紅蓮は教員長屋の廊下を進んでいた。その足取りは些か重く、沈みがちである。
手には鳶色の風呂敷に包んだ土産。先刻、甘味処で包んでもらったものだ。
土井、山田の名札が見えた部屋の前で足を止め、中の気配を窺い見る。
「失礼します」
訪ねる相手がいると確信を得た紅蓮は一声断りを入れて、戸を引いた。
その直後目に映ったのは土井半助。文机の前で体躯をくの字に曲げ、胃痛で悶え苦しんでいる姿であった。
「ぐおおお……」
「土井先生。胃薬と水お持ちしましょうか」
痛みに苦しむうめき声を上げる半助に対し、先ずは一言そう伝える。その口調は冷静だ。これは懐かしくもあり、最早見慣れた光景なのである。
「うう……すまない。頼む、紅蓮」
戸口に立つのが何者なのか。顔を上げずともそれと判断した半助には恐れ入る。
先生方にはまだまだ敵わないものだ。そう感服しながらも紅蓮は“土井先生御用達の胃薬”と水を調達しに向かった。
急ぎ医務室から戻ってきた紅蓮は手配した胃薬と水を半助に渡す。
粉末状の薬を口に入れ、湯呑みの水で一気に流し込む。ごくりと喉を鳴らしたところで一息吐く。それからふにゃりとした緩い笑みを紅蓮に向けた。
「来て早々にすまないなぁ。助かったよ」
「また何か胃を痛めるような出来事でもあったのですか」
「いやぁ……思い出し笑いならぬ思い出し胃痛がな」
半助は口の端を引き攣らせた後、湯呑みに残った水を一口飲み込んだ。並々と注がれていた水は残り僅か、二口ばかりとなった。
場を和ませようとも思った半助の返しに紅蓮の表情は動かない。
姿勢を正し、じっと見つめてくるその視線。それがどこか神妙なものに思えたので、どうしたのかと問えば、紅蓮は伏せるようにすっと目を細めた。
「私が毒を盛るかもしれないとは微塵も疑わないのですね。薬の匂いすら確かめずに口にされた。卒業生とはいえ、私は外部の人間。いつ手のひらを返すかわかりませんよ。それに、私が本物かどうかも陸に」
「目を見ればわかるさ。何もやましいことがない、真っ直ぐな眼差しだ。お前は昔から何一つ変わらない、優しい子だよ。卒業式の日にすら後輩を庇って代わりに怪我を負うぐらいにはね」
俯いた顔を上げた先に、柔らかな笑顔。かつての教え子を見守る教師の顔がそこにはあった。
「葉月紅蓮。火薬委員会委員長を務め、みんなを支えてくれた六年は組の生徒。私は担任ではなかったが、お前も大事な教え子の一人だよ。その教え子の謀や紛いものを見抜けなくてどうする」
それこそ教師失格だ、と半助は苦笑いを浮かべてみせた。
ちょっとした皮肉を口にしたのがそもそもの間違いであった。八つ当たりにも似た感情を表に出すなど、らしくもない。紅蓮は反省の色に染めた溜息を一つ吐き出した。
「出過ぎた口を利いて申し訳ありません。土井先生の仰る通りです。……私は恩師や友に刃を向けるくらいならば、自ら命を絶つような人間ですから」
「だからこそどこの城にも就かず、情報を集め、情勢を常に見ているんだろう。うまく立ち回れば対峙を避けられるから」
「土井先生には敵いませんね。それも仰る通りです」
毒気を抜かれたように力なく紅蓮が笑い返した。
「それで、今日はどうしたんだ? 何か相談事でも」
「……実は、その。三郎次とケンカをしまして」
半助の胃がキリキリとまた痛みだした。
浮かべた笑顔に、滲む脂汗。
いや、今はこの胃痛よりも大事なことがある。
湯呑みを静かに文机に置き、紅蓮の方へ座り歩いた半助は彼女の両肩をしっかりと掴んだ。穏やかな表情はすっかり消え失せ、真剣というよりも血相を変えて紅蓮に語りかける。
「落ち着きなさい紅蓮。先ずは話を聞くから落ち着きなさい」
「いや、落ち着いてますが」
「お前の落ち着いているは覚悟を決めているものが多い! だから一旦頭を冷やしなさい!」
「充分落ち着いているんですが!」
そもそも覚悟とは何か。元顧問がわけのわからないことを言い、自分を宥めようとしてくる。しかし紅蓮自身は気を狂わせたつもりもなければ、自棄になってもいない。これ以上どう落ち着けと言うのか。
室内で押し問答に近いやりとりを幾ばくかしていると、何事かと伊作が部屋の戸を開けた。
「どうされたんですか」
「伊作ぅ! お前も紅蓮を宥めてくれ!」
「本当に何事なんですか。紅蓮、何があったの?」
「私はただ、」
「紅蓮が三郎次とケンカをしたと言って、覚悟を決めているんだ!」
「だから何の覚悟ですか! 伊作、土井先生を宥めてくれ!」
伊作は思わず片手で顔を覆った。
どうやら二人の話は噛み合っていない。半助は必死に紅蓮を宥め落ち着かせようとしており、既に冷静なのだからそちらが落ち着いてくれと紅蓮が半助を宥めようとする。
今しがた「三郎次」という言葉が聞こえたので、それ絡みであることは確かだ。
兎にも角にも、自分が間に入って話を聞かなければ。なんともまあ間の悪い時に立ち寄ってしまったのだろうか。
伊作は短い溜息を漏らした。
◇
斯々然々。
つまり、紅蓮は三郎次とケンカをして気まずくなってしまったことを相談するべく、半助の元を訪れた。手土産の甘味を風呂敷に包んで。
しかし半助は三郎次とケンカをしたと聞き、その風呂敷の中身は纏めた荷物だとすっかり勘違いを起こしていたのである。
「あははは……いやあ、すまない。早とちりをしてしまったようだ」
「これは手土産ですよ。わらび餅を買ってきたんです。山田先生とご一緒にどうぞ。伊作も食べてくれ。余分に買ってきたから」
「有り難く頂くよ。それはそうと、紅蓮も変な言い方しないこと。わかった?」
「私は何も言っていないんだが」
口をへの字に曲げ、少しむくれる友人の姿。こんな風に感情を表に出したのを見るのは久方ぶりだ。伊作はこっそりと頬を緩めた。さながら妹を見守る兄のような目をしながら。
「さっきの話の流れからだと真面目な雰囲気だったし、そう思ってしまうだろ。お前は決めた事を中々覆そうとしない性格だし」
「土井先生が勝手に勘違いされたんですよ。たかが一度や二度のケンカで離縁だの実家に戻る真似などしません」
息を吐いた紅蓮は苦々しいといった様子で話を続けた。
「それに里帰りなんぞしようものなら、二度と実家から出てこられなくなります。以前も仕方なく戻った際に囲われそうになりましたから」
それはまだ祝言を挙げる前。三郎次が忍術学園を卒業して半年経つか経たないかぐらいの話だ。
ひょんな理由で実家に足を運ぶ次第となったのだが、やれ娘が婿を連れてきただの、十数年ぶりの再会を今一度祝いたいだの、それはもう大変だったと溜息を吐く。
囲う気配を察したので裏庭から三郎次と共に脱したという。
「そんなことになってたんだ」
「父は過保護すぎるんだよ。それこそ夫とケンカ別れしたなどと言ってみろ。三郎次の身に何が起きるかわからん」
紅蓮の話を半笑いで聞いていた半助は胃の辺りを円を描くように擦った。
山田家を始めとし、久々知夫妻。どこの家庭もそれなりに問題を抱えているのだ。しかも何故かその問題に巻き込まれてしまう半助。不意に鷲掴みされた様な痛みを胃が訴えた。
「……それで、二人のケンカの原因は何なんだ?」
「私が寝言で伊作の名を呼んでいたようで」
「ねえ、夫婦喧嘩に僕を巻き込むの止めてくれないか」
「しかも連日呼んでいたらしく」
「ほんとに止めてほしい」
「そっちは落とし穴があるから危ないと伊作を呼び止めていたんだ。結局落ちてしまうんだが」
「待って。毎晩夢の中で僕落とし穴に落ちてるわけ?」
「いや……二日に一度だな。吊り罠に引っ掛かってることもある」
「そんなに頻度変わらないっていうか、結局罠にかかってるじゃないか!」
紅蓮は「偶に留三郎も出てきて三人一緒に落とし穴に落ちてることがある」と遠い目をしていた。
現実味がある、いやむしろ過去にあった出来事過ぎて伊作は目元を思わず覆った。これで本日二度目である。
「あとは」そう話を続けようとした紅蓮はそこで口を噤んだ。
刹那、帯びる愁いの青紫。次いで口から出そうになった名を音にはせず、そっと目を伏せた。
僅かな間を含ませた後、止めた言葉を「それで」と紅蓮が続けた。
「連日寝言で他の男の名前呼ばれる俺の身にもなってください、と怒られた」
「それはそう」
様々な障壁――その主な障壁は相手の鈍感であったが、それを乗り越えようやく結ばれたのだ。
例え相手が固い絆を誓った友であり、夢による無意識下の呼びかけだとしてもだ。側で自分以外の男の名を呼ばれるのは腹に据えかねないのだろう。
おや、これはどこかで見たケースだぞ。伊作はちらりと半助の方を見やる。どうやら同じことを思ったようで、二人は互いに視線を交わし、ひくりと顔を引き攣らせた。矢羽音を送るまでもない。
「……しかしなぁ。三郎次の言い分もわかるが、夢は操作しようにも難しい」
「己で自在に操れるなら毎度伊作を落とし穴に落としやしませんよ」
「僕も夢の中くらいは安寧に過ごしたい。ただでさえこの間」
大変な目に遭った。そう言いかけ、ハッと伊作は口元を咄嗟に押さえた。
紅蓮がその仕草を見逃すわけもなく。旧友、恩師の顔を探るような目つきで交互に見た。
「先程から妙だと感じていたのですが、また何かありましたね? 久々知夫妻のことで」
「うっ」
半助は胃を押さえつつ、横へ視線を逸らす。
「伊作」
「……あははは」
紅蓮に名を呼ばれた伊作は目を泳がせ、半助は顔を強張らせた。
これは確実に何かがあった後だ。今度は何があったのやら。ここで問い詰めるまでもない。どうせすぐに他から情報が舞い込んでくるのだ。
「ま、まあまあ今はそれよりもだ。お前たちのことが心配だぞ。なあ伊作」
「そうですね。三郎次はまだ怒ってる……というか、大抵は紅蓮から折れて謝ってると思うんだけど。それでもまだ怒ってるってことだろ? こんな風に拗れるのも珍しいよねえ」
昔からこの友人は自分に非があると思えば直ぐに詫びる。後輩相手になら尚の事。
意地の張り合いをすることもあるが、それは遠い昔の話。それに修復不可となるまで拗れることは滅多にない。
しかし、今回は何やら拗れてしまったようで。
「寝言の件については詫びた。その直後は特に問題もなく、普通だったと思う」
「その後にまた何かあったとか」
「いや……思い当たる節はないんだ。ただ、詫びのつもりで買って来たわらび餅を見た途端に機嫌が悪くなったような気もする」
その後直ぐに「出掛けてきます」と言って長屋を出てしまった。そう話した紅蓮はどこかしょぼくれている。こんな風に肩を落とし、俯く様も珍しい。
友人に味方したい気持ちはやまやまだが、問題は一つまみほど紅蓮にある気がした。
「僕は三郎次が君の中で十一歳のまま時が止まってるような気がしてならないよ」
「まあ、甘味で喜ぶような年でもないかもなぁ。しんべヱなら大喜びしそうだが」
「昔は喜んでくれたんですが」
「それだよ、それ。趣味嗜好が今も昔も同じとは限らない。紅蓮は相手のことをよく見ているはずなのに、色恋になると本当に大雑把というか、繊細さに欠けるというか」
「……だから、こうして相談に来ているんだよ」
紅蓮は伊作のお説教ならぬ、お小言にすっかり肩を窄めて縮こまってしまう。その姿が不憫だなあと思いつつ、半助が助け舟をそっと差し出した。
「しかし、こういった話ならば我々よりも久々知さんにした方が良いんじゃないか」
「先程、食堂に三郎次が入っていくのを見掛けまして。今顔を合わせるのはとても気まずいです」
行き先を告げずに出かけた相手が同じ敷地内におり、同じ場所へ向かっていたのだ。あと寸刻でも遅ければ食堂で鉢合わせていただろう。紅蓮は直ぐに踵を返し、こちらへ来たのだと話す。
ところで、この状況に伊作は憶えがある。確かあれは「三郎次に好きだと言われたんだがどうしたらいい」と相談された時だ。紅蓮は女子の様に恥じらい、顔を紅潮させていた。顔を合わせるのが気まずいからと、敢えて三郎次を避けて学園に赴いていた時期もあったと。それによって相手を大変やきもきさせていたことも伊作は知っていた。
しかし、今回は少しばかり状況が異なる。時が解決するといえばそうなのだが、こうして弱音に近いものを吐きだす友人を放ってはおけない。
何はともあれ、先方の主張も訊きださなければ解決の糸口も見つけられない。
伊作は意を決し、片膝を立てた。
◇
「寝言、ねぇ。そればっかりはどうしようもないんじゃないかなぁ」
紅蓮が教員長屋に訪れていた時、三郎次は食堂で久々知夫妻と茶を飲んでいた。
茶請けには町で評判の甘味処で買って来たわらび餅。この包みを持って訪れた三郎次は浮かない表情をしていたので、不二子が「どうしたの?」と訊ねた。すると、最初こそ言いにくそうにしていた三郎次ではあったが「霧華さんと気まずくなってしまって」と零す。それを聞くや否や「それは大変だぁ!」と大袈裟に構えた不二子は茶の用意をしてから兵助を急いで連れてきたのである。
三者面談よろしく二対一で始まった茶飲み話。
「事を荒立てないでほしい」とは言えないまま、経緯をぽつりぽつりと三郎次は話した。
「僕もそう思いますよ。まあ、多少の苛立ちは覚えましたけど」
「三郎次はヤキモチ焼きだなぁ」
「久々知先輩にだけはそれ言われたくないです」
伊作と留三郎は紅蓮の友人であり、掛け替えのない存在だと三郎次も知っている。毎晩落とし穴に落とされているのもどうかとも思うが。それだけ心配で気に掛けているのだろう。
彼らについてはこの際だからと目を瞑ることができる。ただ、一つだけ。許容できないものが。故人である、かつての友人の名を呼ぶことがあるのだ。
それ自体は一向に構わない。故人を偲ぶこともだ。
「逆に霧華さんってヤキモチ焼かなさそうだよね」
もやついていた思考がその一言でハッと引き戻される。
「確かに」
「それはそれで悲しいんですけど」
三郎次は愛想笑いを一つ浮かべ、頬杖をつく。
「いや、そもそも三郎次たちはお互いのことしか見てないだろうからな」
「なっ」
「そうだね。昔から三郎次くんは霧華さんのことしか見てなかったし」
振り返られた話はかなり昔のこと。七年近く前のことを今更「こうだった」と第三者の目から語られるのは何とも恥ずかしい。顔を赤らめながら三郎次は兵助の方を軽く睨みつけるようにした。
「他の先輩のことだって尊敬してましたよ。久々知先輩とか。……一番は葉月先輩でしたけど」
言葉の最後を尻すぼみにし、ごにょごにょと言いながら三郎次は湯呑みを傾けた。その顔は実に恥ずかしそうである。
「で、三郎次的にはちょっと言い過ぎたかもと思って、お土産を買ってきたら」
「同じ店の同じもので、更に気まずくなっちゃったってことだよね」
茶請けとなったわらび餅に目を落とす兵助と不二子。息もぴったりな言動と仕草に似た者夫婦だなあと思い、三郎次が軽く頷いた。
「だって、被るにも程があるじゃないですか? 同じ店で、同じ甘味買ってきて。店で鉢合わせなかったのが不思議なぐらいですよ」
「むしろ同じこと考えてるなあって微笑ましいけどね」
「は、恥ずかしいじゃないですか。同じ風呂敷包み見た時はびっくりし過ぎて思わず行き先告げずに出てきてしまったんですから」
「なんていうか、可愛いよね三郎次くん」
「どこがですか!」
可愛い可愛いと後輩を揶揄う隣で兵助は竹楊枝でわらび餅を一つ摘まんだ。
もっちりとした食感と弾力。良い大豆を使用したきな粉も美味い。この味に兵助は憶えがあった。記憶の糸を手繰り、行き着いたのは七年前のある日。
「あ、このわらび餅ってもしかして。先輩が前に委員会会議の時に買ってきてくださったやつじゃないか?」
「よく憶えていらっしゃいましたね」
三郎次と同じ記憶に辿り着いた兵助は口元を緩めて微笑んだ。
もうだいぶ前の話だというのに、と三郎次は驚いていた。
「みんな美味しい美味しいって言ってたからな。先輩も伊助たちの喜ぶ顔を見てとても嬉しそうにされていたから」
「へえ~。……ほんとだ、すっごく美味しい!」
「あの時の三郎次も、今の不二子さんみたくほっぺが落ちそうなくらい美味しいって喜んでたんですよ。それはもう甚く感動して」
「久々知先輩。ほっぺが落ちそうなんて誰も言ってません」
「そうだったか? まあ、それは置いといて。同じものを買ってきたことが余計に小恥ずかしくて、此処へ来たんだな。まあ、でも」
兵助は食堂の入口付近にいる気配をちらりと窺い、言葉を続けた。
「きっと先輩も同じこと考えてたんじゃないか。また三郎次の喜ぶ顔が見たいと思ってたんだ」
「似た者夫婦だね、二人とも」
「まあそもそも三郎次は先輩の間合いの取り方や立ち回り方を真似ていたし、似るのは当然かと」
小恥ずかしい。三郎次は口をへの字に歪め、表情を手で覆い隠すように俯いた。
と、ここで素早い矢羽音が一つ食堂の廊下に向けて飛んだ。何だと思い、三郎次がそちらへ顔を上げる。
そこには伊作が顔だけをひょこりと出していた。非常に気まずそうである。
「伊作先輩。ご無沙汰しております」
「や、やあ三郎次。久しぶり。元気そうでよかった」
「……なんでそんな中途半端に顔を出してるんですか」
「いやあ、ちょっとね」
気まずそうに、伊作が兵助の顔色を窺う。兵助は穴が空きそうなほど伊作を見ていた。真顔のそれが少し怖いと三郎次が気づき、もしかして何かあったのかと頭に過る。
「それより、言伝があるんだ」
「言伝? 誰からですか」
「月見亭にいるから、来てほしいって。紅蓮から」
言伝の相手を知るなり、三郎次は目を見開いた。まさか同じ敷地内に居たとは思いもよらない。いや、恐らくは誰かの元を訪ねていたのかもしれない。此処は紅蓮にとって第二の故郷でもある。
刹那、仙蔵の顔がチラついた。そうではないと信じたいところだ。
「霧華さんも来ていたんですか?」
「うん。それじゃあ、僕は言伝もしたから失礼するね」
伊作は簡単な言伝を終えた後、わざと足音を立てながら急いで立ち去っていった。何かから逃げるような足取りで。
絶対にこの二人絡みで何かがあった。だが、今はその情報を仕入れているバヤイではない。
「すみません。僕も失礼します」
「うん。行ってらっしゃい」
「あんまり意地張るんじゃないぞー」
席を立ち、食堂を出る際にキッと兵助の方をひと睨みした三郎次は近道をして月見亭へと急いだ。
◇
池に面した月見亭。その東屋が見えてきたが、そこには人の姿がない。
刹那、伊作に謀られたかと過るもその考えは直ぐに消え去った。
反対側からやってきた紅蓮の姿が見えたのだ。その片手には鳶色の風呂敷包みを持っている。
紅蓮も三郎次の姿を捉え、東屋の前で微妙な間合いを取って立ち止まった。三尺ばかり取られた距離。気まずそうに無言で互いの顔を見ている。
どう話を切り出せばいいものか。「今日はいい天気ですね」と世間話をするのは明らかにおかしい。自分から勝手に長屋を飛び出した手前、謝るのが先か。
「とりあえず、座らないか」
三郎次が思案を巡らせる中、特段変わった様子のない紅蓮がそう声を掛けた。
池のほとりに吹いた風が水面を揺らす。
大きな蓮の葉に雨蛙が一匹。風で揺れたことに驚いたのか、ぽちゃんと音を立てて水面に吸い込まれていった。
「三郎次も忍術学園に来ていたとは思わなかったよ」
「まあ、気が向いた先が此処だったので。……いつも久々知さんの所に寄るのに、今日はどちらへ」
「土井先生の所に。伊作もいたから世間話に花を咲かせていたよ」
「そうでしたか」
「不二子さんたちはいつも通りだったか」
「概ねいつも通りでしたよ。まあ、何かあった感じはしましたね」
「私もそれは思った」
東屋で並び座る二人の会話はどこかぎこちない。
それぞれの場で話していた内容を互いに口にはしない。似通った悩みを抱え、同じ様に相談をしていたとは言い辛いものだ。
「三郎次。その、まだ怒ってるか」
「何がです」
「私の寝言の件だよ。……実はさっき、伊作にも相談したんだが解決策が特に見つからなくてな」
「別にその件は……って本人に言ったんですかそれ。毎晩落とし穴に落とされてるって」
「ああ。夢の中でまで不運な目に遭わせるなと怒られた」
「それはそうですよ」
力なく笑う紅蓮に三郎次も苦笑する。
他の名を呼ぶのが気に食わない。そう強い口調で言ったつもりはなかったあの言葉。思いの外気にさせてしまっていたようで、三郎次は眉を顰めた。
「別にいいんですよ、それは。その、俺は。……あの人の夢を見た時の貴女は必ずといっていいほど、夜中に起きて思いに沈んでいる。気づいていないとでも思ってましたか」
月が煌々と照らす夜も、新月の夜も。夜風に当たりながら偲ぶその姿が居た堪れなかった。
嫉妬にも似たこの感情。決して越えることが出来ない壁。だが、それ以上に思うところが三郎次にはあった。
「好きな人が哀しんでいる姿をあまり見たくないんです。その人が大事な学友で、掛け替えのない友人だったことは重々承知だ。抱えてるもの捨てろなんて言いません。ただ、少しくらいはその荷を俺にも持たせてください」
床板に置かれていた左手に手を重ね、指先を纏めて包み込むように握る。己の手よりも大きく、逞しくなった手のひらの温もり。真っ直ぐな熱い視線に紅蓮の頬も俄かに熱を帯びる。
はにかんで俯きそうになるも、その表情は相好を崩した。
「有難う」
2024.7.13
◇◆◆◇
take1
「悪夢を見て魘されてる時は、耳元で豆腐の城って囁いてあげるといいぞ」
「ねえ、まって。私この間豆腐の城が夢に出てきたんだけど。まさか」
「魘されてたので、豆腐で緩和させようと思って」
「先輩、それ洗脳っていうんですよ」
take2
「お豆腐パーティーを開いて仲直りしよう」
「先輩。なんでもお豆腐にすれば良いわけじゃないんですよ」