第二部
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壱 | 切れない縁
とっぷりと暮れた夜の海に浮かぶ月舟。細い弓のような月が北西の空に見える。
時刻は亥の刻を迎えようとした。
三年忍たま長屋の一室――池田、川西、能勢の三つの札がかかっている――に灯りが一つ。戸の隙間から揺ら揺らと灯りが漏れ出ていた。
部屋の中央には布団が三つ並べ敷いてある。右端では左近がうつ伏せになりながら本を読んでいた。反対側の端は半刻前に敷かれたままの状態が保たれている。久作は図書委員会の会議で留守中であった。
真ん中の布団も同じ様な状態ではあるが、その主は文机に向かっていた。薄暗がりの手元には教科書と図書室から借りた歴史書。三郎次は真剣な眼差しを携え、勉学に励んでいた。
「……さぶろーじ。まだ起きてるの?」
欠伸を一つした左近は眠い目を擦り、勉強熱心な友人の背に眠そうな声を掛けた。
「きりの良いとこまでやったら寝る」
三郎次は背を向けたままそう返し、歴史書の頁を捲った。
三年い組は週明けに試験を控えている。三郎次はその為の試験勉強に励んでいたのだ。
夕食を取り終えた後、左近たちは思い思いに過ごした。
左近が医務室当番から自室に戻った時には久作と入れ違いになっており、既に夜着に着替えた三郎次はこうして文机に向かっていた。
その理由を訊いた左近は「まだ週中なのに試験勉強するの流石に早すぎじゃないか?」と些か驚いたものだ。
「……明日の放課後は火薬委員会で町の社会科見学。明後日は火薬委員会で勉強会。その次の日はなんだっけ」
「葉月先輩の稽古。だから勉強する纏まった時間が今しか取れない。……よし、今日はここまで」
教科書、歴史書の表紙がぱたりと閉じられた。
三郎次は肩、腕を天井に向けてうんと伸ばし、脱力する。それから左近の方へ振り返った。
彼は顎を乗せた枕を抱え、うつ伏せの状態で三郎次の方をぼんやりと見ている。寝惚けた眼がうつらうつらとしていた。
「左近は試験勉強やらなくていいのか?」
「僕は明日やる。明日は医務室当番じゃないし。というか、勉強会するならそこで勉強すればいいんじゃないの。わからない所、久々知先輩にも聞けるだろ」
現火薬委員会の委員長は六年い組の久々知兵助が務める。知識は三年生よりも豊富であり、優秀な生徒だ。勉強会という名目で行うのであれば、わからない箇所は遠慮なく訊けるであろう。それにだ、集まった全員が勉強を目的にしているならば余計な雑念も減る。と、左近の考えであった。
しかし、三郎次は口元をやや引き攣らせる。
「いや、それが……勉強会と言っても大半はタカ丸さんの勉強を見るんだ。久々知先輩が殆ど付きっ切りで。僕も偶に教えることあるし」
昨年、編入生として忍術学園にやってきた斉藤タカ丸。元々忍者の家系ではあったが、ある理由により本人には忍術の知識は全くと言ってほどなかった。故に、低学年の自分たちが知っていることも知らない。
同じ編入生の浜守一郎は忍術の知識は古けれど、基礎がある。その基礎がタカ丸にはない。
つまり全員がタカ丸に教えられる立場なのである。
「それはもう勉強会というよりもタカ丸さんの勉強を見る会なんじゃ」
「そうとも言える」
乾いた笑いを一つ三郎次が零した。
「去年は葉月先輩もいたからそこまでじゃなかったんだけど」
昨年から火薬委員会は委員会活動の一環として火薬について学ぶ勉強会を定期的に行うこととした。
黒色火薬の原料となる硝石、木炭、硫黄。これらの配合により延焼速度や時間、炎色反応に違いが出ること。また狼煙、松明などの使用目的に応じた最適な配合を学ぶ。上級生二人の知識量に敬仰の眼差しが集まっていたものだ。
最初はそれこそ火薬全般の知識のみを学ぶ勉強会であった。そこへ「宿題でわからないところがある」と訊いたタカ丸をきっかけに、各々宿題を持ち寄るようになったのである。
上級生二人の教え方は実にわかりやすく、大変好評であった。
特に紅蓮は面倒見の良さがいいあまりに「先輩が宿題を全部解いたらタカ丸さんの為になりませんよ」と兵助にツッコミを入れられるほど。
三郎次も何度か教わる機会があり、確かにわかりやすいと感じた。
先ずわからない点を洗い出し、どこで躓き、どこまで理解しているのか遡る。そこから紐解いて答えを導いていく。何より親身になって話を聞いてくれるので、質問がしやすい。紅蓮は根っから面倒見が良いのだ。
今では兵助がその役割を一人で担っている。
「まあ、他人に教えられるってことは自分も理解してるってことなんだ。それが逆にわからないことであれば、自分にとって復習にもなる」
「三郎次、面倒見が良くなったよなぁ。伊助も最近言ってたよ。意地悪してこなくなったって」
「前から面倒見は良かっただろ」
「そうかなぁ。それにしても「火薬委員会なんて次の新学期は絶対にやめてやるー!」とか言ってたくせに、今年もまた火薬委員だもんな。火器の扱いが苦手な生徒が集まるところだから嫌だってボヤいてたのにさ」
同室の友人は後輩の面倒見が明らかに良くなったと左近は語る。先輩方の影響を多大に受けているのだろう。
ニヤニヤと笑う友人の視線から逃れるように三郎次は目を逸らした。
火器の扱いが苦手だから火薬委員に抜擢されている。
つまり、自分は火器の扱いがなっていない。そうやさぐれた時期が三郎次にはあった。それを在学中の委員長である紅蓮に愚痴として零したことがある。
「我々は火薬の管轄者だ。即ち、火薬に関する知識がなければいけない。その知識が豊富な者が集まる委員会でもある。いくら火器の扱いが得意手であろうと、正しい知識が伴わなければ予期せぬ事故を誘発する。それを未然に防ぐため我々がいるんだ。いわば頭脳なんだよ。もっと誇りを持って良い」
それを聞いて目から鱗が落ちたのである。あまりにも的確な理由だと。
火薬の知識を持ち得た上で火器の扱いもできるようになるのが最善であるとも諭された。
この言葉を聞いてからは「卑下する必要がない」という自信にも繋がったのだ。
「火薬の専門家なんだよ、火薬委員は。なくてはならない存在なんだ」
今なら胸を張ってそう言える。
元火薬委員会委員長の言葉にこうして目を覚まされた場面は数えきれないほどであった。
文机の上を片付けた三郎次は灯明皿の火を消し、真ん中の布団に潜り込んだ。
左近の枕元には開きっぱなしの本が置かれている。どうも彼は本を閉じるつもりがないようで、枕に頭乗せて舟を漕ぎ始めていた。三郎次は仕方なくその本の表紙を閉じ、手の届く範囲に避けて置く。
「わるいな」
「本を雑に扱ったら久作が煩いだろ。それこそ中在家先輩みたいになる」
「だよなぁ」
左近が寝惚けた顔でにへらと笑う。流暢に会話を交わしていたと思いきや、もうだいぶ眠たそうにしていた。
「でもさ」と左近が布団を首元まで持ち上げ、一度目を瞑る。
「なんか安心したよ」
「何が」
「ほら、一時期お前上の空だったろ。だから、いつもの三郎次に戻って安心したーってこと」
予算会議後から暫くぼんやりしていたことを左近は友人としてそれなりに心配していたのだ。
それはある日を境にぱったりとなくなった。何か吹っ切れたのだろうと思っているが、まだその真相は知らずにいる。
この秘めた想いを三郎次は友人たちにすら打ち明けていなかった。元より打ち明けるつもりもない。からかわれるのが目に見えているからだ。
しかし心配をかけていたことは面目なくも思う。が、素直な言葉は口から出てこなかった。
「左近はお節介で心配性なんだよ。僕はなんともない」
「そりゃあ良かった。僕は保健委員だからな。元気がない人は放っておけない性分なんだよ。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
目を瞑って間もなく隣から寝息が聞こえてきた。
廊下から久作の足音は一向に聞こえてこない。会議が長引いているのだろう。
草むらで鳴くリィリィリィと夏虫の声が心地良い眠りを誘うのもあと数日。
もうすぐ夏の暑さに茹だり寝付きの悪い夜がやってくる。
◇◆◇
頭上には薄曇りの淡い空が広がっていた。
そよそよと吹く涼風が頬を掠めていくのが心地よく、過ごしやすい気温であった。
授業終わりの放課後。私服に着替えて正門前に集合した火薬委員一同が町へ向けて出発した。
「久々知くん。実家の髪結処に寄ってもいいかな?」
「あ、私もタカ丸さんのご実家に行ってみたいです!」
「いいぞー。今日の目的は社会科見学だ。町の様子を観察して回ろう。伊助と三郎次も行きたい場所が決まってるなら言ってくれ」
「はい! ぼくはその近所に出来た鋳物屋を覗きたいです」
「僕は行商を中心に見て回りたいです」
それぞれの目的を把握した兵助はにこりと笑った。
「よーし。じゃあその順番で見て回ろう」
「はーい!」
「そうだ。お腹が空いたら高野豆腐があるからいつでも遠慮なく言ってくれよ」
「は、はーい」
高野豆腐をおやつ代わりに携帯するのは忍術学園の中でもこの男唯一人である。
道中、天気が急変することも、突然猪に襲われることもなく順調な旅路となった。
これが保健委員一行であれば通り雨に見舞われ、猪どころか熊と出くわしていただろう。
「この間、薬草採りに出かけたら熊と狼同時に出くわしてさ。参っちゃったよほんと」
同室の友は笑い話の様に語るので、それを聞いた久作と三郎次が「笑いごとじゃないし、あり得ないだろ⁉」と同時に叫んだ。
よく無事だったなと血の気が引いた顔で聞く久作に対し「それが熊と狼がお互いに争い始めて。その隙に逃げてきた」とこれまた左近は笑い返した。
流石、不運委員会と呼ばれるだけある。この様に並大抵のことでは動じない。肝が据わっている。
町の入口に差し掛かると、我先にタカ丸が橋へ向かう。中程で皆の方を振り返り、晴れやかな顔で手を振った。
この場所からでも町の賑わいがわかるほど活気が溢れており、行き交う人々の顔も明るい。戦の情報や微兆が見られない証拠でもあった。
「みんなー早く早くう」
「待ってくださいよー!」
「そんなに急ぐと転んじゃいますよ」
実家に顔を出すのが久々であるせいか、タカ丸の顔は嬉々としたもの。
早足で右手に折れた後ろ姿を伊助、石人が追い掛けていく。それを微笑ましく見守る兵助。三郎次は無邪気だなぁと若干一歩引いた所で二人を見守っていた。二人は歩みを早める様子もなく、木橋を渡っていく。
その途中、兵助が徐に左手側を指で示し、三郎次の視線を誘導した。
「そういえば、あそこに出来た店の田楽豆腐がとっても美味しいんだ。後でみんなで食べに行こう」
「またお豆腐ですか。まあ、久々知先輩が言うなら間違いないんでしょうけど」
豆腐にこれでもかと愛情を注ぐ兵助だ。その舌に間違いはない。まあ、味の好みはわかれるだろうが。委員長の豆腐好きに三郎次も最早何も言うことはない。
その田楽豆腐屋の位置を憶えるべく、三郎次が店の特徴を捉えようとした時のことであった。
店の傍らに立つ、一人の若者が三郎次の目に留まる。
桐模様の私服を纏った紅蓮がそこにいた。
紅蓮は店の前を通る町人に目を配りながら、誰かを待っている様子であった。
何故こんな所に。顔にそう浮かべた三郎次が兵助を無言で見上げる。当然、兵助もその姿に気づいているはずだ。しかし、彼はそのことに触れずただ笑みを深めて三郎次にこう言った。
「一刻後にあの田楽豆腐屋で落ち合おう。それじゃあ」
「え、ちょっ……久々知先輩⁈」
爽やかに片手を上げて別れた兵助は右手の方へそそくさと駆けてゆく。
その後ろ姿を呆然と見送る破目になった三郎次。「これは一杯食わされた」と焦りの色を顔に浮かべた。
稽古の約束は二日後。まさかその前に会う機会が巡ってくるとは思いもしない。兵助としては気を利かせたつもりなのだろうが、こちらとしては心の準備が何も整っていないのだ。それにむしろ何故そうされたのか。もしかすると。
そこまで考えに耽った三郎次であったが、はたと我に返った。これが委員長の仕業であるならば、待ち人はこの自分だ。これ以上待たせてはいけない。その意識が三郎次の足を動かした。
雑踏を縫って進み、田楽豆腐屋の前に辿り着いた三郎次が紅蓮に声を掛けると、端正な横顔が振り向く。
紅蓮は三郎次の顔を見るなり穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、三郎次」
「先輩。……もしかしなくとも、僕を待ってらっしゃったんですか」
遠慮がちにそう訊ねれば、三郎次が思った通りの表情を見せた。きょとんとした次にはおかしいなと顎を擦る。
「兵助から相談事があると訊いていたんだが。違うのか」
これで真実が明らかとなった。
紅蓮を呼び寄せたのは久々知兵助で間違いない。学園の外で話せるようにと粋な計らいをしたつもりだろうが、三郎次にとっては要らない気遣いであった。しかしやはりこれは、己の気持ちが少なくとも兵助にバレている。そうでなければ、あの様な笑みを浮かべない。
「明後日の稽古時にでも話を訊こうと思ってもいたんだが、深刻そうだとも文に書いてあったから」
要らない気遣い其の二である。
これでは「久々知先輩の気の所為じゃないでしょうか」と言い訳もできない。そして「何でもありません」とは答え難いというもの。相手は仕事が忙しい中、態々時間を割いてきたのだ。
紅蓮という人間は優しい。後輩の為であればそうするのだ。つまり「大事な後輩」であり、三郎次もその枠の中に収まっている。それが心を些か複雑な気持ちにさせる。
「葉月先輩。もし、同じ様に久々知先輩が悩みを抱えていると知った時は今日の様に駆け付けるんですか」
不貞腐れ、拗ねた面持ちの三郎次がそう訊ねた。
何を訊いているのか。訊いたところで肯定しか返ってこないことはわかりきっている。兵助もまた紅蓮にとって大事な後輩だからだ。
ところが、紅蓮は直ぐには答えずにいた。薄空を仰ぎ、少し考えてから口を開く。
「度合いにもよる。こう言ってはなんだが、兵助の悩みは豆腐絡みのことが非常に多い。以前、豆腐を作り過ぎて新しい豆腐の資金繰りが……とも言われたことがあった」
「……ああ、ありましたね。そんなこと」
「だから、兵助に悩みがあると言われても先ずそこに行き着いてしまうんだ。本人にとっては深刻かもしれんが、豆腐のことで毎度呼び出されてもな。それに比べ三郎次は滅多に悩みがあるとは口にしないだろう? だから、心配にもなる」
実に説得力のある話であった。微妙な所ではあるが、少なくとも気にかけてもらえている。今はそれで十分なのかもしれないと、複雑な思いを飲み込むことにした。
「ここで立ち話もなんだ。どこか茶屋にでも入ろう」
「はい」
◇
町外れに構えた茶屋で三郎次は頭を悩ませていた。
人通りに面した床几 に並び座り、番茶と串団子を片手に雑談を交わす。当たり障りのない天気の話を始めとし、委員会の近況や授業の話。今日の実技授業は大木雅之助の乱入により一時中断となった。これを訊いた紅蓮は「あのお二方は相変わらずだ」と笑い話のように頬を緩ませる。
こうして語らうこと自体は何ら問題はないのだが、兵助の不要な気遣いにより生まれてしまった“悩み”をどう捻出するか。それを考えながら会話を繰り広げている。
一方、紅蓮の方は無理にその“悩み”を聞き出すような真似はしなかった。優しさゆえに自然と話題に持ち出すまで待っているのか、それとも単なる呼び出しの口実だとバレてしまっているのか。
後者であった場合は実に厄介だ。三郎次は薄い味の団子を噛み、一際苦く感じる茶を喉に流し込む。
「先輩。相談事、なんですが」
丁度話題も区切りよく、束の間の無言が生じた時であった。
三郎次はそれっぽく話を切り出すようにぽつりと漏らす。横目でちらと隣を窺えば真面目な表情で待ち構える紅蓮の面差し。
結局の所、"深刻そうな悩み事”が浮かばなかったので一つ段階を下げることにした。
「六尺棒の扱いなんですけど。払いから返す時に手首が上手く回らなくて。ぶれによる隙が生じやすい気がするんです」
これは実際に三郎次が悩んでいる事であった。
利き手をぐるりと返し、その場面を再現してみせる。三郎次の手つきに注目した紅蓮は「ふむ」と頷いた。
「手首だけで返そうとせず、指先も上手く使ってやると解消できる」そう言うなりやおら立ち上がり、茶屋の壁に立て掛けてある一本の竹を手に取った。
六尺に満たない、五尺ばかりの真竹で直径は一寸ほどのものだ。
紅蓮は床几から離れた所で横の構えを取り、払いからの手首を返し巧みに竹の棒を回転させた。
鮮やかなその手つきと技に見惚れ嘆声を漏らした三郎次。
脇に竹の棒を構え「こんな感じだな」と紅蓮が口角を上げる。
「手首が固まっていると上手く回らない。指先もそこに附随してくるんだ。だから柔軟性を維持するように心がけると良い」
「成程。御指南有難う御座います!」
「これから成長期を迎えるだろうから、痛みが伴う場合は無理のない範囲でやること」
「はい! ……どうかされたんですか?」
くすりと笑みを零していた紅蓮。その顔はまるで小さな子どもを見ているように穏やかであった。
「いや、私も同じところで昔躓いていたと思い出したんだ。八つの時だったか」
「先輩でもそんなことが」
「誰しもぶつかる壁が幾つかあるさ。それを乗り越えた時に真価を発揮する。私の母が残してくれた言葉の一つだ」
紅蓮の母親は七つの時に病気で他界した。
それは確か委員会活動中に家族の話題になった時である。
染物屋、武士、漁師、髪結い、山守。職業を詳しく知る良い機会ともなったが、紅蓮の家族構成を聞いた際に先の話が浮き彫りになる。
刹那お通夜のような空気になるも当人はむしろ「厳しくも優しい人だったよ」と微笑を浮かべた。
気高く、麗しい。されど男顔負けの武術使いだったとも話していた。若い頃は一人で二十人もの門下生を相手にして薙ぎ倒したという。その話を訊いた三郎次は血は争えないものだと感じていた。
「葉月先輩の御母上は武術に長けた方だったんですよね。面倒見が良い所も受け継いでいるのでは」
「……どうだろうな。どちらかと言えばそれは」
「掏摸 だああ! 誰かっ、そいつを捕まえてくれええ!」
緊迫した男の声が辺り一帯に響いた。
その場にいた者達はこぞって振り返るも、慌てて一歩退く。掏摸と思わしき男が抜き身の刀を振り翳し、食い逃げよろしくこちらに走ってくる。逆の手には掏った財布がしっかりと握られていた。
掏摸は茶屋の前を横切ろうとするが、行く手には紅蓮が目に映る。逃げ道に偶々居合わせただけではあるが、紅蓮は退くつもりもなく、肩に預けていた竹の棒を下段にすっと構えた。男を睨むその眼光は、鋭い。
「退けっ! 若造!」
乱暴に振り上げられた太刀を瞬時にかわした紅蓮は相手の手甲目掛けて棒を払う。その衝撃で男の手から刀が離れた。男は瞬く間も許されず、鳩尾に重い突きが叩き込まれたと脳が認識した時にはもう、意識を手放す事態となっていた。
あっという間の出来事に周囲は暫し呆然とする。一部始終を間近で見ていた三郎次だけは「お見事!」と心の内で拍手喝采するのであった。武器を選ばずに対処した姿は流石である。
紅蓮が掏摸の手から巾着を拾い上げ、これの持ち主が縺れそうな足で駆けてきてからようやく時が動き出した。
俄か、歓声が沸き起こる。
「兄ちゃん強いね!」
「かっこいい~!」
「あんた、今の見たかい? 速すぎてあたしゃ何が起きたのかわかんなかったよ!」
「カッコいい……!」
歓声に黄色い声も若干交ざっていた。ちらりとそちらを窺えば若い町娘が二人、紅蓮の方を逆上せた様な顔で見ている。あれには見覚えがあった。くノ一教室が利吉を見る時の目だ。この時、三郎次は留三郎が以前話していたことを思い出していた。
「盗られたものはこちらですか」
「はっ、はい……そうです、私の財布……有難う御座います。なんと御礼を申し上げてよいのやら」
財布を受け取った男はその場に膝をがくりとつき、紅蓮をまるで拝むようにしていた。
男の年は三十代といったところか。少し瘦せ型で、着物の解れが目立つ。だが、人のよさそうな顔をしていた。必死に掏摸を追い掛けたのであろう。呼吸を整えようと度々咳き込んでいた。
紅蓮も地面に片膝をつき、男の背を宥めるように擦る。
「礼などお気になさらずに」
「何処のどなたかも存じ上げませんのに、本当に有難う」
「……ああっ! あんただったのかい。掏摸だって聞いて飛び出してきたら」
茶屋から慌ただしく出てきた女主人が男に駆け寄ってきた。どうやらこの男の顔見知りのようである。
「あんた、有難うねぇ。この人ね、今日が娘さんの誕生日なのよ。この日の為に銭を稼いで、お祝い物を買うって」
「そうでしたか。それは御目出度う御座います。娘さん喜ばれると良いですね」
「はい。ほんに、ほんに有難う御座います」
ふらつきながらも立ち上がった男は何度も御礼を紅蓮に伝え、茶屋の女主人に付き添われていった。その後ろ姿を見送る眼差しは温かいもの。
「先輩、お見事でした。流石です」
「有難う。怪我人も出なかったようだ。あの掏摸を除いてだが」
地面に転がっていた掏摸の男が町の衆に両脇を抱えられ、ずるずると連れて行かれる様子が二人の目に映る。
「二刻は目を覚まさんかもな」
「自業自得ですよ」
「それもそうだ。……さて」
紅蓮は自分に突き刺さる幾つかの熱い視線から逃れるように背を向け、竹の棒を元の場所へ戻した。
懐から財布を取り出し、二人分の茶飲み代を床几に置いて看板娘に「御馳走様」と声を掛ける。
「居づらくなってしまったので場所を変えよう」
「そうですね。このままここに居たら先輩が町娘に囲まれてしまいそうですし」
三郎次の嫌味がないその一言に紅蓮は眉を寄せ、困ったように笑っていた。
◇
二人は木橋の上から川の流れを見つめていた。
送り梅雨で増水した水位も徐々に下がり、川の濁りも消失している。
耳を掠める音は雑踏から川のせせらぎへと移り変わり、安らぎを得るのに心地の良いものであった。
掏摸騒ぎから町をふらふらと歩き回ったのだが、これが不思議なことに兵助たちと出くわすことがなかった。いや、見掛けてもそれとなく兵助が伊助たちの気を逸らしていたのだろう。どこまでも気遣いの深い男である。
紅蓮は木橋の欄干に背を預け、通行人の様子を眺めていた。
特段目を光らせるような曲者もおらず、その表情は温和である。
「先輩は道場を継がなかったことに悔いはないんですか」
これはいつ何時も疑問に思うことであった。先程のような鮮やかな技術を目の当たりにすれば尚のこと。
あらゆる人に訊かれたであろう、その進路。三郎次も人伝てに話だけは聞いており、驚きもした。それでも紅蓮ほどの実力ならば忍者として生きる道も有りだと納得したのだ。
跡継ぎに関するごたごたは解消済みであるとその口から出てはいるものの。完全に蟠りはなくなっているのか否か。
三郎次の問いに紅蓮は暫く口を閉ざしていた。
他所のお家事情に口を挟むのは厳禁であったか。焦りの色が三郎次の顔に浮かび始めた頃、先ず短い返事が耳に届いた。
「私があの場に居たとしても、訪ねてくるはずだった人は来ないからな」
僅か伏せられた目。それは過去を偲ばせ、哀愁を帯びているようにも感じられた。
いつからだったか。時折、この様に愁然とした表情を見せる。思い返せば昨年の厳しい冬辺りからだったような気もしていた。
「それよりその元結、だいぶぼろぼろになっていないか」
「えっ。いや、……まあそうですね。先輩から頂いた物なので、大事に扱ってはいるんですが」
不意の質問に答えはしたが、語尾を窄める三郎次。
これには紅蓮もきょとんとせざるを得ない。その話で行くならば、相当前のはずなのだ。
火薬委員会の顔ぶれで町で出掛ける際に、元結が切れてしまった三郎次に渡した物である。物持ちが良いとはいえ、また思いも寄らない時に切れてしまいかねない。
「物持ちが良いな」
「なんというか御守りみたいな感じになってて」
「御守り、か」
「でも、切れる前に替えようとは思ってます。これだけは切れない縁にしたいので」
どこかこそばゆそうに三郎次は笑ってみせた。
とっぷりと暮れた夜の海に浮かぶ月舟。細い弓のような月が北西の空に見える。
時刻は亥の刻を迎えようとした。
三年忍たま長屋の一室――池田、川西、能勢の三つの札がかかっている――に灯りが一つ。戸の隙間から揺ら揺らと灯りが漏れ出ていた。
部屋の中央には布団が三つ並べ敷いてある。右端では左近がうつ伏せになりながら本を読んでいた。反対側の端は半刻前に敷かれたままの状態が保たれている。久作は図書委員会の会議で留守中であった。
真ん中の布団も同じ様な状態ではあるが、その主は文机に向かっていた。薄暗がりの手元には教科書と図書室から借りた歴史書。三郎次は真剣な眼差しを携え、勉学に励んでいた。
「……さぶろーじ。まだ起きてるの?」
欠伸を一つした左近は眠い目を擦り、勉強熱心な友人の背に眠そうな声を掛けた。
「きりの良いとこまでやったら寝る」
三郎次は背を向けたままそう返し、歴史書の頁を捲った。
三年い組は週明けに試験を控えている。三郎次はその為の試験勉強に励んでいたのだ。
夕食を取り終えた後、左近たちは思い思いに過ごした。
左近が医務室当番から自室に戻った時には久作と入れ違いになっており、既に夜着に着替えた三郎次はこうして文机に向かっていた。
その理由を訊いた左近は「まだ週中なのに試験勉強するの流石に早すぎじゃないか?」と些か驚いたものだ。
「……明日の放課後は火薬委員会で町の社会科見学。明後日は火薬委員会で勉強会。その次の日はなんだっけ」
「葉月先輩の稽古。だから勉強する纏まった時間が今しか取れない。……よし、今日はここまで」
教科書、歴史書の表紙がぱたりと閉じられた。
三郎次は肩、腕を天井に向けてうんと伸ばし、脱力する。それから左近の方へ振り返った。
彼は顎を乗せた枕を抱え、うつ伏せの状態で三郎次の方をぼんやりと見ている。寝惚けた眼がうつらうつらとしていた。
「左近は試験勉強やらなくていいのか?」
「僕は明日やる。明日は医務室当番じゃないし。というか、勉強会するならそこで勉強すればいいんじゃないの。わからない所、久々知先輩にも聞けるだろ」
現火薬委員会の委員長は六年い組の久々知兵助が務める。知識は三年生よりも豊富であり、優秀な生徒だ。勉強会という名目で行うのであれば、わからない箇所は遠慮なく訊けるであろう。それにだ、集まった全員が勉強を目的にしているならば余計な雑念も減る。と、左近の考えであった。
しかし、三郎次は口元をやや引き攣らせる。
「いや、それが……勉強会と言っても大半はタカ丸さんの勉強を見るんだ。久々知先輩が殆ど付きっ切りで。僕も偶に教えることあるし」
昨年、編入生として忍術学園にやってきた斉藤タカ丸。元々忍者の家系ではあったが、ある理由により本人には忍術の知識は全くと言ってほどなかった。故に、低学年の自分たちが知っていることも知らない。
同じ編入生の浜守一郎は忍術の知識は古けれど、基礎がある。その基礎がタカ丸にはない。
つまり全員がタカ丸に教えられる立場なのである。
「それはもう勉強会というよりもタカ丸さんの勉強を見る会なんじゃ」
「そうとも言える」
乾いた笑いを一つ三郎次が零した。
「去年は葉月先輩もいたからそこまでじゃなかったんだけど」
昨年から火薬委員会は委員会活動の一環として火薬について学ぶ勉強会を定期的に行うこととした。
黒色火薬の原料となる硝石、木炭、硫黄。これらの配合により延焼速度や時間、炎色反応に違いが出ること。また狼煙、松明などの使用目的に応じた最適な配合を学ぶ。上級生二人の知識量に敬仰の眼差しが集まっていたものだ。
最初はそれこそ火薬全般の知識のみを学ぶ勉強会であった。そこへ「宿題でわからないところがある」と訊いたタカ丸をきっかけに、各々宿題を持ち寄るようになったのである。
上級生二人の教え方は実にわかりやすく、大変好評であった。
特に紅蓮は面倒見の良さがいいあまりに「先輩が宿題を全部解いたらタカ丸さんの為になりませんよ」と兵助にツッコミを入れられるほど。
三郎次も何度か教わる機会があり、確かにわかりやすいと感じた。
先ずわからない点を洗い出し、どこで躓き、どこまで理解しているのか遡る。そこから紐解いて答えを導いていく。何より親身になって話を聞いてくれるので、質問がしやすい。紅蓮は根っから面倒見が良いのだ。
今では兵助がその役割を一人で担っている。
「まあ、他人に教えられるってことは自分も理解してるってことなんだ。それが逆にわからないことであれば、自分にとって復習にもなる」
「三郎次、面倒見が良くなったよなぁ。伊助も最近言ってたよ。意地悪してこなくなったって」
「前から面倒見は良かっただろ」
「そうかなぁ。それにしても「火薬委員会なんて次の新学期は絶対にやめてやるー!」とか言ってたくせに、今年もまた火薬委員だもんな。火器の扱いが苦手な生徒が集まるところだから嫌だってボヤいてたのにさ」
同室の友人は後輩の面倒見が明らかに良くなったと左近は語る。先輩方の影響を多大に受けているのだろう。
ニヤニヤと笑う友人の視線から逃れるように三郎次は目を逸らした。
火器の扱いが苦手だから火薬委員に抜擢されている。
つまり、自分は火器の扱いがなっていない。そうやさぐれた時期が三郎次にはあった。それを在学中の委員長である紅蓮に愚痴として零したことがある。
「我々は火薬の管轄者だ。即ち、火薬に関する知識がなければいけない。その知識が豊富な者が集まる委員会でもある。いくら火器の扱いが得意手であろうと、正しい知識が伴わなければ予期せぬ事故を誘発する。それを未然に防ぐため我々がいるんだ。いわば頭脳なんだよ。もっと誇りを持って良い」
それを聞いて目から鱗が落ちたのである。あまりにも的確な理由だと。
火薬の知識を持ち得た上で火器の扱いもできるようになるのが最善であるとも諭された。
この言葉を聞いてからは「卑下する必要がない」という自信にも繋がったのだ。
「火薬の専門家なんだよ、火薬委員は。なくてはならない存在なんだ」
今なら胸を張ってそう言える。
元火薬委員会委員長の言葉にこうして目を覚まされた場面は数えきれないほどであった。
文机の上を片付けた三郎次は灯明皿の火を消し、真ん中の布団に潜り込んだ。
左近の枕元には開きっぱなしの本が置かれている。どうも彼は本を閉じるつもりがないようで、枕に頭乗せて舟を漕ぎ始めていた。三郎次は仕方なくその本の表紙を閉じ、手の届く範囲に避けて置く。
「わるいな」
「本を雑に扱ったら久作が煩いだろ。それこそ中在家先輩みたいになる」
「だよなぁ」
左近が寝惚けた顔でにへらと笑う。流暢に会話を交わしていたと思いきや、もうだいぶ眠たそうにしていた。
「でもさ」と左近が布団を首元まで持ち上げ、一度目を瞑る。
「なんか安心したよ」
「何が」
「ほら、一時期お前上の空だったろ。だから、いつもの三郎次に戻って安心したーってこと」
予算会議後から暫くぼんやりしていたことを左近は友人としてそれなりに心配していたのだ。
それはある日を境にぱったりとなくなった。何か吹っ切れたのだろうと思っているが、まだその真相は知らずにいる。
この秘めた想いを三郎次は友人たちにすら打ち明けていなかった。元より打ち明けるつもりもない。からかわれるのが目に見えているからだ。
しかし心配をかけていたことは面目なくも思う。が、素直な言葉は口から出てこなかった。
「左近はお節介で心配性なんだよ。僕はなんともない」
「そりゃあ良かった。僕は保健委員だからな。元気がない人は放っておけない性分なんだよ。それじゃ、おやすみ」
「おやすみ」
目を瞑って間もなく隣から寝息が聞こえてきた。
廊下から久作の足音は一向に聞こえてこない。会議が長引いているのだろう。
草むらで鳴くリィリィリィと夏虫の声が心地良い眠りを誘うのもあと数日。
もうすぐ夏の暑さに茹だり寝付きの悪い夜がやってくる。
◇◆◇
頭上には薄曇りの淡い空が広がっていた。
そよそよと吹く涼風が頬を掠めていくのが心地よく、過ごしやすい気温であった。
授業終わりの放課後。私服に着替えて正門前に集合した火薬委員一同が町へ向けて出発した。
「久々知くん。実家の髪結処に寄ってもいいかな?」
「あ、私もタカ丸さんのご実家に行ってみたいです!」
「いいぞー。今日の目的は社会科見学だ。町の様子を観察して回ろう。伊助と三郎次も行きたい場所が決まってるなら言ってくれ」
「はい! ぼくはその近所に出来た鋳物屋を覗きたいです」
「僕は行商を中心に見て回りたいです」
それぞれの目的を把握した兵助はにこりと笑った。
「よーし。じゃあその順番で見て回ろう」
「はーい!」
「そうだ。お腹が空いたら高野豆腐があるからいつでも遠慮なく言ってくれよ」
「は、はーい」
高野豆腐をおやつ代わりに携帯するのは忍術学園の中でもこの男唯一人である。
道中、天気が急変することも、突然猪に襲われることもなく順調な旅路となった。
これが保健委員一行であれば通り雨に見舞われ、猪どころか熊と出くわしていただろう。
「この間、薬草採りに出かけたら熊と狼同時に出くわしてさ。参っちゃったよほんと」
同室の友は笑い話の様に語るので、それを聞いた久作と三郎次が「笑いごとじゃないし、あり得ないだろ⁉」と同時に叫んだ。
よく無事だったなと血の気が引いた顔で聞く久作に対し「それが熊と狼がお互いに争い始めて。その隙に逃げてきた」とこれまた左近は笑い返した。
流石、不運委員会と呼ばれるだけある。この様に並大抵のことでは動じない。肝が据わっている。
町の入口に差し掛かると、我先にタカ丸が橋へ向かう。中程で皆の方を振り返り、晴れやかな顔で手を振った。
この場所からでも町の賑わいがわかるほど活気が溢れており、行き交う人々の顔も明るい。戦の情報や微兆が見られない証拠でもあった。
「みんなー早く早くう」
「待ってくださいよー!」
「そんなに急ぐと転んじゃいますよ」
実家に顔を出すのが久々であるせいか、タカ丸の顔は嬉々としたもの。
早足で右手に折れた後ろ姿を伊助、石人が追い掛けていく。それを微笑ましく見守る兵助。三郎次は無邪気だなぁと若干一歩引いた所で二人を見守っていた。二人は歩みを早める様子もなく、木橋を渡っていく。
その途中、兵助が徐に左手側を指で示し、三郎次の視線を誘導した。
「そういえば、あそこに出来た店の田楽豆腐がとっても美味しいんだ。後でみんなで食べに行こう」
「またお豆腐ですか。まあ、久々知先輩が言うなら間違いないんでしょうけど」
豆腐にこれでもかと愛情を注ぐ兵助だ。その舌に間違いはない。まあ、味の好みはわかれるだろうが。委員長の豆腐好きに三郎次も最早何も言うことはない。
その田楽豆腐屋の位置を憶えるべく、三郎次が店の特徴を捉えようとした時のことであった。
店の傍らに立つ、一人の若者が三郎次の目に留まる。
桐模様の私服を纏った紅蓮がそこにいた。
紅蓮は店の前を通る町人に目を配りながら、誰かを待っている様子であった。
何故こんな所に。顔にそう浮かべた三郎次が兵助を無言で見上げる。当然、兵助もその姿に気づいているはずだ。しかし、彼はそのことに触れずただ笑みを深めて三郎次にこう言った。
「一刻後にあの田楽豆腐屋で落ち合おう。それじゃあ」
「え、ちょっ……久々知先輩⁈」
爽やかに片手を上げて別れた兵助は右手の方へそそくさと駆けてゆく。
その後ろ姿を呆然と見送る破目になった三郎次。「これは一杯食わされた」と焦りの色を顔に浮かべた。
稽古の約束は二日後。まさかその前に会う機会が巡ってくるとは思いもしない。兵助としては気を利かせたつもりなのだろうが、こちらとしては心の準備が何も整っていないのだ。それにむしろ何故そうされたのか。もしかすると。
そこまで考えに耽った三郎次であったが、はたと我に返った。これが委員長の仕業であるならば、待ち人はこの自分だ。これ以上待たせてはいけない。その意識が三郎次の足を動かした。
雑踏を縫って進み、田楽豆腐屋の前に辿り着いた三郎次が紅蓮に声を掛けると、端正な横顔が振り向く。
紅蓮は三郎次の顔を見るなり穏やかな笑みを浮かべた。
「ああ、三郎次」
「先輩。……もしかしなくとも、僕を待ってらっしゃったんですか」
遠慮がちにそう訊ねれば、三郎次が思った通りの表情を見せた。きょとんとした次にはおかしいなと顎を擦る。
「兵助から相談事があると訊いていたんだが。違うのか」
これで真実が明らかとなった。
紅蓮を呼び寄せたのは久々知兵助で間違いない。学園の外で話せるようにと粋な計らいをしたつもりだろうが、三郎次にとっては要らない気遣いであった。しかしやはりこれは、己の気持ちが少なくとも兵助にバレている。そうでなければ、あの様な笑みを浮かべない。
「明後日の稽古時にでも話を訊こうと思ってもいたんだが、深刻そうだとも文に書いてあったから」
要らない気遣い其の二である。
これでは「久々知先輩の気の所為じゃないでしょうか」と言い訳もできない。そして「何でもありません」とは答え難いというもの。相手は仕事が忙しい中、態々時間を割いてきたのだ。
紅蓮という人間は優しい。後輩の為であればそうするのだ。つまり「大事な後輩」であり、三郎次もその枠の中に収まっている。それが心を些か複雑な気持ちにさせる。
「葉月先輩。もし、同じ様に久々知先輩が悩みを抱えていると知った時は今日の様に駆け付けるんですか」
不貞腐れ、拗ねた面持ちの三郎次がそう訊ねた。
何を訊いているのか。訊いたところで肯定しか返ってこないことはわかりきっている。兵助もまた紅蓮にとって大事な後輩だからだ。
ところが、紅蓮は直ぐには答えずにいた。薄空を仰ぎ、少し考えてから口を開く。
「度合いにもよる。こう言ってはなんだが、兵助の悩みは豆腐絡みのことが非常に多い。以前、豆腐を作り過ぎて新しい豆腐の資金繰りが……とも言われたことがあった」
「……ああ、ありましたね。そんなこと」
「だから、兵助に悩みがあると言われても先ずそこに行き着いてしまうんだ。本人にとっては深刻かもしれんが、豆腐のことで毎度呼び出されてもな。それに比べ三郎次は滅多に悩みがあるとは口にしないだろう? だから、心配にもなる」
実に説得力のある話であった。微妙な所ではあるが、少なくとも気にかけてもらえている。今はそれで十分なのかもしれないと、複雑な思いを飲み込むことにした。
「ここで立ち話もなんだ。どこか茶屋にでも入ろう」
「はい」
◇
町外れに構えた茶屋で三郎次は頭を悩ませていた。
人通りに面した
こうして語らうこと自体は何ら問題はないのだが、兵助の不要な気遣いにより生まれてしまった“悩み”をどう捻出するか。それを考えながら会話を繰り広げている。
一方、紅蓮の方は無理にその“悩み”を聞き出すような真似はしなかった。優しさゆえに自然と話題に持ち出すまで待っているのか、それとも単なる呼び出しの口実だとバレてしまっているのか。
後者であった場合は実に厄介だ。三郎次は薄い味の団子を噛み、一際苦く感じる茶を喉に流し込む。
「先輩。相談事、なんですが」
丁度話題も区切りよく、束の間の無言が生じた時であった。
三郎次はそれっぽく話を切り出すようにぽつりと漏らす。横目でちらと隣を窺えば真面目な表情で待ち構える紅蓮の面差し。
結局の所、"深刻そうな悩み事”が浮かばなかったので一つ段階を下げることにした。
「六尺棒の扱いなんですけど。払いから返す時に手首が上手く回らなくて。ぶれによる隙が生じやすい気がするんです」
これは実際に三郎次が悩んでいる事であった。
利き手をぐるりと返し、その場面を再現してみせる。三郎次の手つきに注目した紅蓮は「ふむ」と頷いた。
「手首だけで返そうとせず、指先も上手く使ってやると解消できる」そう言うなりやおら立ち上がり、茶屋の壁に立て掛けてある一本の竹を手に取った。
六尺に満たない、五尺ばかりの真竹で直径は一寸ほどのものだ。
紅蓮は床几から離れた所で横の構えを取り、払いからの手首を返し巧みに竹の棒を回転させた。
鮮やかなその手つきと技に見惚れ嘆声を漏らした三郎次。
脇に竹の棒を構え「こんな感じだな」と紅蓮が口角を上げる。
「手首が固まっていると上手く回らない。指先もそこに附随してくるんだ。だから柔軟性を維持するように心がけると良い」
「成程。御指南有難う御座います!」
「これから成長期を迎えるだろうから、痛みが伴う場合は無理のない範囲でやること」
「はい! ……どうかされたんですか?」
くすりと笑みを零していた紅蓮。その顔はまるで小さな子どもを見ているように穏やかであった。
「いや、私も同じところで昔躓いていたと思い出したんだ。八つの時だったか」
「先輩でもそんなことが」
「誰しもぶつかる壁が幾つかあるさ。それを乗り越えた時に真価を発揮する。私の母が残してくれた言葉の一つだ」
紅蓮の母親は七つの時に病気で他界した。
それは確か委員会活動中に家族の話題になった時である。
染物屋、武士、漁師、髪結い、山守。職業を詳しく知る良い機会ともなったが、紅蓮の家族構成を聞いた際に先の話が浮き彫りになる。
刹那お通夜のような空気になるも当人はむしろ「厳しくも優しい人だったよ」と微笑を浮かべた。
気高く、麗しい。されど男顔負けの武術使いだったとも話していた。若い頃は一人で二十人もの門下生を相手にして薙ぎ倒したという。その話を訊いた三郎次は血は争えないものだと感じていた。
「葉月先輩の御母上は武術に長けた方だったんですよね。面倒見が良い所も受け継いでいるのでは」
「……どうだろうな。どちらかと言えばそれは」
「
緊迫した男の声が辺り一帯に響いた。
その場にいた者達はこぞって振り返るも、慌てて一歩退く。掏摸と思わしき男が抜き身の刀を振り翳し、食い逃げよろしくこちらに走ってくる。逆の手には掏った財布がしっかりと握られていた。
掏摸は茶屋の前を横切ろうとするが、行く手には紅蓮が目に映る。逃げ道に偶々居合わせただけではあるが、紅蓮は退くつもりもなく、肩に預けていた竹の棒を下段にすっと構えた。男を睨むその眼光は、鋭い。
「退けっ! 若造!」
乱暴に振り上げられた太刀を瞬時にかわした紅蓮は相手の手甲目掛けて棒を払う。その衝撃で男の手から刀が離れた。男は瞬く間も許されず、鳩尾に重い突きが叩き込まれたと脳が認識した時にはもう、意識を手放す事態となっていた。
あっという間の出来事に周囲は暫し呆然とする。一部始終を間近で見ていた三郎次だけは「お見事!」と心の内で拍手喝采するのであった。武器を選ばずに対処した姿は流石である。
紅蓮が掏摸の手から巾着を拾い上げ、これの持ち主が縺れそうな足で駆けてきてからようやく時が動き出した。
俄か、歓声が沸き起こる。
「兄ちゃん強いね!」
「かっこいい~!」
「あんた、今の見たかい? 速すぎてあたしゃ何が起きたのかわかんなかったよ!」
「カッコいい……!」
歓声に黄色い声も若干交ざっていた。ちらりとそちらを窺えば若い町娘が二人、紅蓮の方を逆上せた様な顔で見ている。あれには見覚えがあった。くノ一教室が利吉を見る時の目だ。この時、三郎次は留三郎が以前話していたことを思い出していた。
「盗られたものはこちらですか」
「はっ、はい……そうです、私の財布……有難う御座います。なんと御礼を申し上げてよいのやら」
財布を受け取った男はその場に膝をがくりとつき、紅蓮をまるで拝むようにしていた。
男の年は三十代といったところか。少し瘦せ型で、着物の解れが目立つ。だが、人のよさそうな顔をしていた。必死に掏摸を追い掛けたのであろう。呼吸を整えようと度々咳き込んでいた。
紅蓮も地面に片膝をつき、男の背を宥めるように擦る。
「礼などお気になさらずに」
「何処のどなたかも存じ上げませんのに、本当に有難う」
「……ああっ! あんただったのかい。掏摸だって聞いて飛び出してきたら」
茶屋から慌ただしく出てきた女主人が男に駆け寄ってきた。どうやらこの男の顔見知りのようである。
「あんた、有難うねぇ。この人ね、今日が娘さんの誕生日なのよ。この日の為に銭を稼いで、お祝い物を買うって」
「そうでしたか。それは御目出度う御座います。娘さん喜ばれると良いですね」
「はい。ほんに、ほんに有難う御座います」
ふらつきながらも立ち上がった男は何度も御礼を紅蓮に伝え、茶屋の女主人に付き添われていった。その後ろ姿を見送る眼差しは温かいもの。
「先輩、お見事でした。流石です」
「有難う。怪我人も出なかったようだ。あの掏摸を除いてだが」
地面に転がっていた掏摸の男が町の衆に両脇を抱えられ、ずるずると連れて行かれる様子が二人の目に映る。
「二刻は目を覚まさんかもな」
「自業自得ですよ」
「それもそうだ。……さて」
紅蓮は自分に突き刺さる幾つかの熱い視線から逃れるように背を向け、竹の棒を元の場所へ戻した。
懐から財布を取り出し、二人分の茶飲み代を床几に置いて看板娘に「御馳走様」と声を掛ける。
「居づらくなってしまったので場所を変えよう」
「そうですね。このままここに居たら先輩が町娘に囲まれてしまいそうですし」
三郎次の嫌味がないその一言に紅蓮は眉を寄せ、困ったように笑っていた。
◇
二人は木橋の上から川の流れを見つめていた。
送り梅雨で増水した水位も徐々に下がり、川の濁りも消失している。
耳を掠める音は雑踏から川のせせらぎへと移り変わり、安らぎを得るのに心地の良いものであった。
掏摸騒ぎから町をふらふらと歩き回ったのだが、これが不思議なことに兵助たちと出くわすことがなかった。いや、見掛けてもそれとなく兵助が伊助たちの気を逸らしていたのだろう。どこまでも気遣いの深い男である。
紅蓮は木橋の欄干に背を預け、通行人の様子を眺めていた。
特段目を光らせるような曲者もおらず、その表情は温和である。
「先輩は道場を継がなかったことに悔いはないんですか」
これはいつ何時も疑問に思うことであった。先程のような鮮やかな技術を目の当たりにすれば尚のこと。
あらゆる人に訊かれたであろう、その進路。三郎次も人伝てに話だけは聞いており、驚きもした。それでも紅蓮ほどの実力ならば忍者として生きる道も有りだと納得したのだ。
跡継ぎに関するごたごたは解消済みであるとその口から出てはいるものの。完全に蟠りはなくなっているのか否か。
三郎次の問いに紅蓮は暫く口を閉ざしていた。
他所のお家事情に口を挟むのは厳禁であったか。焦りの色が三郎次の顔に浮かび始めた頃、先ず短い返事が耳に届いた。
「私があの場に居たとしても、訪ねてくるはずだった人は来ないからな」
僅か伏せられた目。それは過去を偲ばせ、哀愁を帯びているようにも感じられた。
いつからだったか。時折、この様に愁然とした表情を見せる。思い返せば昨年の厳しい冬辺りからだったような気もしていた。
「それよりその元結、だいぶぼろぼろになっていないか」
「えっ。いや、……まあそうですね。先輩から頂いた物なので、大事に扱ってはいるんですが」
不意の質問に答えはしたが、語尾を窄める三郎次。
これには紅蓮もきょとんとせざるを得ない。その話で行くならば、相当前のはずなのだ。
火薬委員会の顔ぶれで町で出掛ける際に、元結が切れてしまった三郎次に渡した物である。物持ちが良いとはいえ、また思いも寄らない時に切れてしまいかねない。
「物持ちが良いな」
「なんというか御守りみたいな感じになってて」
「御守り、か」
「でも、切れる前に替えようとは思ってます。これだけは切れない縁にしたいので」
どこかこそばゆそうに三郎次は笑ってみせた。