第二部
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
憧れが好きに変わる瞬間
ある忍たまには強い憧れを抱く相手がいる。
その者は武術に長け、教養もあり、強く優しい。情にも厚く、己の友人や後輩のこととなると見境ないのが珠に瑕ではあった。時に己の身も顧みないのだ。先日も委員会の後輩を庇い、両腕に怪我を負ったという話も聞く。
忍術学園を今春卒業した忍びのたまご――名を葉月紅蓮と言う。
彼の者を慕い、敬う熱心なその姿勢。三年に進級した池田三郎次は二年前からその思いを抱き続けていた。
それが今期の予算会議を境目に揺らぎ始めるとはゆめゆめ考えもしない。
葉月紅蓮が在学中、本来の姿を知る者は一握りだけであった。過去に思いがけず露見した場合もありはしたが、多くは「知らなかった」と目を点にして仰天。その中でも特に三郎次は驚愕していた。
騙されていたことに憤りを覚えたとか、不快に思ったなどとは雀の涙ほどもない。むしろその素晴らしい演技力に賞賛したほどだ。
また一つ尊敬する先輩の株が上がるも、複雑な思いが一つ三郎次の中に芽生えていた。
その背をずっと追い続けていたというのに、何故気づかなかったのか。男だろうという意識、思い込みが前提にあったかもしれない。疑う余地が何一つとしてなかったのだ。
しかし、正体が明らかになったからとはいえ尊敬の念に揺らぎはない。
問題はこのすっきりとしない、もやもやとした己の感情だと三郎次は重い溜息を吐いた。
「三郎次。最近お前集中力がないというか、なんかぼんやりしてない?」
同級生にこう言われてしまう始末なのである。
座学授業終わりの放課後、三年い組の教室から久作がいの一番に出ていった。何をそんなに慌てているのかと不思議そうにしていた三郎次は今朝方「図書当番だから」と話していたのを今になって思い出す。
ところで、自分は掃除当番ではなかったはずだ。記憶を頼りに今一度「掃除当番は来週だったよな」と左近に確認を取る。「そうだよ」と返ってきた言葉に内心ほっと胸を撫でおろした。どこまでもぼんやりしているわけではない。
「ぼんやりなんかしてない。気の所為だろ」
「いいや、してる。じゃなきゃ玉子焼きをわざわざ味噌汁に入れて食べない」
三郎次は言葉を詰まらせた。
それは昨夜の話である。夕食で用意された玉子焼きを味噌汁に浸していたのだ。それは箸で摘まんだ玉子焼きが滑ったという様子ではなかったと左近が続ける。同じ時間帯に食事を取っていた石人も声は上げずに目を丸くしていた。
「三郎次、お前それ流石に」
「そういう食べ方もあるんだね」
久作と四郎兵衛にそう言われて初めてハッと気がついたほどである。味噌汁でひたひたになった玉子焼きを頬張り「結構美味いぞ」とその場を何となく繕いはしたが、微妙でいて呆れた顔を同級生たちに向けられたというもの。
現在も左近に疑り深い目をされている。何かあったのでは、という探りの目だ。ついっと思わず三郎次はその視線から逃げた。
「上の空にも程があるぞ」
「そういう食べ方もあるって聞いたことがあって。ちょっと試してみたかったんだよ」
「誰に聞いたんだよ。葉月先輩か?」
「……先輩はそんなことしないだろ」
不意に出てきた名前に軽く動揺するも、それを上手く隠して半笑いを左近に返す。
水浅葱の空が広がる五月下旬。安定した気温も続き、外で過ごしやすい日和となっていた。それも梅雨入りを迎えるまでの話。火薬が湿りやすくなる時期がまた来るのかと思うと、管理を任される火薬委員は憂鬱になるものだ。
「あ、そういえば」
何かを思い出したように左近が口を開き、隣を歩く友人に朗報があると言った。
「葉月先輩と食満先輩を食堂の方で見掛けたって乱太郎が言ってた」
「先輩方が?」
「ああ。乱太郎は伏木蔵に聞いて、伏木蔵は平太に聞いたって言ってて、平太は富松先輩が見掛けたのを聞いたってさ」
「なんだよその伝言ゲームみたいなやつ。そこまで人伝だと信憑性が薄いな」
左近は瞬きをパシパシと二度繰り返した。
この友人は元火薬委員会委員長の紅蓮を慕っている。直々に稽古も頼むほどであり、卒業後も月に一度学園に来て指南を受ける約束をしたとも聞いた。在学中も何かにつけては「葉月先輩が」と先輩自慢をしてきた。
憧れの的であり、尊敬している。それは誰が見ても明らかであった。
その三郎次がこの情報に食いつくどころか、一歩離れて様子を窺う様な態度を取るのだ。これはどうもおかしい。
「嬉しくないのか?」
「な、なんで」
「いや、だって三郎次のことだから「今から会いに行ってくる!」って言うと思ったし。いつもこんな風に目輝かせてるだろ」
「そんな表情してない」
「いーや、してるね。なに、ケンカでもしたの?」
「してない。するわけないだろ」
「だよなぁ」
この友人はちょっと一言は多い所があるが、慕う先輩を怒らせるようなことはしないだろう。仮に怒らせたとしても向こうが軽く受け流すのは目に見える。そんな先輩と後輩の間柄だと左近もよく知っていた。
一方、三郎次の方は紅蓮たちの来訪を素直に喜べずにいた。理由は冒頭に書いた通りである。予算会議からずっともやもやとした、よくわからない感情を引きずっている。
この状態を打破したい気持ちは十二分にはある。周囲が見て分かるほど上の空でずっといるわけにもいかない。
会って話をすればこの違和感が解消されるのだろうか。
稽古の約束は来週だ。その時間を割くぐらいならば。解決の糸口を見つけた方が良い。縺れに縺れるよりも早く。
「ちょっと挨拶してくる」
友人が神妙な面持ちで俯き始めた時には余程深刻な事態かと心配をしたが、その台詞を聞いた左近は肩の力をそっと抜いた。どこか意を決した様子でもあるが、一先ずいつもの三郎次だと。
左近は駆けて行く背を「いってらっしゃい」と手を振って見送った。
◇
とうに過ぎた昼下がり。夕食の支度にはまだ早いこの時間帯、覗いた食堂は閑散としていた。
食堂のおばちゃんは席を外しているらしく、居るのは一番奥の席に座る黒緑の短い髷を結った男が一人だけ。食卓には急須と湯呑みが二つ置かれている。
その男――食満留三郎は気配に顔を上げ、三郎次に笑いかけた。
「お、来たな三郎次」
「お久しぶりです食満先輩」
「紅蓮なら食堂の裏口で薪割りしてるぞ」
開口二番にその名前を出されたので、三郎次は思わず不意をつかれた。
やはり同級生の指摘通りだ。尊敬する先輩が仕事の合間を縫って訪れてくれているというのに、それを純粋に喜べない己はどうかしている。
こういった場面でどう返していたのかすら直ぐに出てこない。三郎次はうんともすんとも言わずに視線を僅か彷徨わせた。
紅蓮の後輩がこの場に立ち尽くし、何とも言えない表情を浮かべている。この時点で留三郎は様子が何やらおかしいと踏んだ。紅蓮絡みかそれとも別件か。兎に角、話を聞いてみなければ。先ずは座るようにと三郎次に着席を促した。
自分も後輩に対して真摯に向き合っている自信がある。しかし、向かい合わせに座った友人の後輩はどこか強張った表情で居心地が悪そうにしていた。
「先輩方はどうして今日こちらに」
「俺は非番を貰ったんだ。紅蓮とはこの近くで偶然会ってな。それなら学園に顔を出しに行くかと意気投合したというわけだ。で、食堂に寄ったらおばちゃんに薪割りを頼まれたから、どっちがやるかあっち向いてホイで決めたんだよ」
カコンッ、カコンッという規則的に聞こえてくる小気味よい音。
裏口で小斧を振り下ろす紅蓮の様子が三郎次の頭に浮かんでいた。その音を気に掛けながらも留三郎に話を返す。
「あっち向いてホイって、存外可愛らしいことするんですね先輩方」
「二勝一敗で俺が勝ったと」嬉しそうに顔を笑わせる。偶には童心に返るのも悪くないといった風に。それにと案外馬鹿にできないものだと留三郎が続ける。
「瞬時に相手の行動を読み取る為の観察眼を養う練習にもなる。それに瞬発力や判断力も必要とする遊びだ。俺たちぐらいにもなれば勝敗が中々つかずに長期戦ともなる」
一勝が決まるまでに五分もかかったと聞き、もっと簡単に勝敗がつくもので勝負すれば良かったのではと半笑いを浮かべる。
「立花先輩は御一緒ではないんですね」
気になっていたことを一つ、三郎次が訊ねた。
外の気配は紅蓮のみ。周囲にそれらしき気配もなく、左近もそれについては触れていなかった。二人で行動を共にしているのならば、此処にも来ているのではないかと読んだのだ。
別の用事で学園内に居るかもしれないが、居ない方がいい。そんな少しの気持ちが三郎次の中にあった。
不意に留三郎が吹き出し、笑った。
カラッとした明るい声を上げ、それから忍び笑いに務める。
突然笑われた方は一体何がおかしいというのか。一つもおかしなことは聞いていないはずだ。ぽかんとする三郎次の目が訝しいものへと変わった頃に「すまんすまん」と含み笑いの声が返ってきた。
「さっき俺も同じことを聞いたんだよ紅蓮に。そうしたら「四六時中一緒に居られるか!」って怒ってな」
それでつい思い出し笑いをしてしまったという。
太く凛々しい眉を八の字に下げ、可笑しそうに笑う留三郎と怒る紅蓮。
この二人のやり取りが浮かびそうで、浮かばない。同学年で軽い冗談を言い合う姿をあまり目にしたことがないのだ。
改めて思い返してみれば、自分のような後輩に見せる顔は幾多も見てきたが、対等な友人たちとどう接しているのかは知らない点が多い。三郎次は何故かそれを気にするようにもなっていた。
「そういうわけで、単独行動が増えているらしい」
「そうだったんですね」
それはそうと、仙蔵がこの敷地内に居ないことを知り、三郎次の表情と声色に安堵が灯る。その僅かな表情の差分が留三郎の目に留まった。どうやらこれは紅蓮絡みのようだ、と。
「あいつら相性が悪いかもしれんな」
なんとなしにぽつりと零した留三郎は頬杖をついた。
三郎次の眉がぴくりと微かに動く。
仕方なしに組んで仕事をしているというあの二人。懐柔しようとする者、片や反発する者。本人も「馬が合うはずがない」と愚痴を零した。それでもちぐはぐながらも仕事は滞りなくこなしているそうだ。
紅蓮の性格もだが、卒業を間近に控えた頃から急激に仙蔵を悪い意味で気にしていた。気配に敏感ゆえ、尾行されることを嫌ってもいた。致し方がないとはいえ、紅蓮の不満は塵の様に降り積もるばかりだろう。
それでも、もしかしたら。何かをきっかけに芽生えるのではないか。留三郎はそう考えてもいたのだが。
ちらと目の前にいる紅蓮の後輩を見れば、不服の色が全開だ。
「釣り合うわけないですよ。葉月先輩と立花先輩は全っ然性格が違うじゃないですか」
そしてチクチクとした棘を含ませた物言い。鋭利に尖ったそれは指先で少し触れただけで深く刺さりそうだ。
四つ下の後輩は先輩相手にも遠慮なしにずけずけと物を言う性格だと知ってはいる。ただ、こんなにも仙蔵を毛嫌いしていただろうか。自分たちが卒業し、紫陽花が咲くこの短い間に何かあったのか。
恐らくは仙蔵と組んでいることに不満を抱いている。だが、それ以上のものがありそうだ。
先程の様子がおかしい件も含め、もう少し話を探ってみるかと留三郎は顎をさすった。
「三郎次。何か悩み事があるんじゃないのか」
話題をがらりと変え、単刀直入に訊ねればまさに当たり。
問われた三郎次は背筋を反射的に強張らせ、ぴっと反り返す。一文字に結ばれた口はへの字に近い。三白眼から放たれる妙な威圧感に負け、その口元が更に角度をつける。
気づけばカラカラに渇いていた喉。ぺったりと貼り付いた喉に唾を飲み込み、声を絞り出そうとした
「食満先輩は、葉月先輩の正体を知った時、どう思われたんですか」
それは想定内の“悩み”であった。否、そう言ってしまうのは悩みとして抱える当人に失礼か。
つい先日、紅蓮は己の正体を委員会の後輩に明かした。
「予算会議に現れた卒業生の中に別嬪な女子がいる」と些か話題にもなった。
久々すぎる女装姿もとい小袖に身を包む友人に違和感を覚えるも、中身はそのまま。山本シナ先生が見ればお小言が飛んできただろう。衣装は変われどいつもの紅蓮だ。伊作と留三郎は笑ったのである。
嗚呼、そういえば。留三郎はあることを思い出した。仙蔵に「少しは女らしく振舞わんか」とつつかれていたのを。それが大層気に障った様な表情で受け流していた。馬が合わない一因かもしれない。
そこが自分や伊作との違いだ。正体を知ったからと態度を一つも変えなかったからこそ、育まれた友情がある。怪我をする度に「女の子なんだから」と人知れず怒るのはもっと自分を大事にしてほしいという意味合いも含む。男だろうと女だろうと意識の根底は変わらないのだ。紅蓮もそれを理解し、気の置ける友人だからこそ素直に受け入れていた。
それはさておき、突如明かされた真実に惑うのはごく当たり前のこと。とりわけ三郎次は紅蓮のことを慕い、まさに尊敬の象徴としている。
だが、優秀で目聡い彼が全くもって気づかなかった。洞察力の欠落。思い込み。傷心。様々な感情が三郎次の胸中を駆け巡っているのだろう。そしてそれ以外の感情がもしかすると、存在しているのでは。
留三郎は自身の腕を食卓の上にゆっくりと伏せた。後輩の表情一つ見逃すまいと。
「どうって、その時は確かに驚いた記憶はある」
「意図せずバレたみたいなことを仰ってましたけど、食満先輩は疑ってたんですか?」
「いや全く。一分たりともな。まあ、その時は向こうもそこまで狼狽えてはいなかった。「なんだ知られてしまったか」ぐらいで。強い口止めもされなかったし」
「それって要はどっちでも良かったってことなんじゃ」
「そうかもしれんな。拘りがないと言っていた。実家から「男同様の力を身に着けて来い」みたいなことを言われたとか話してたなそういえば」
生家の事情を踏まえ、それを受け入れた様子でもあった。そのはずが跡継ぎから離脱し、本人は忍びとして生きる道を選んだわけだが。跡継ぎ問題に関わるごたごたは片付いたと聞いているが、実際のところはどうなのか闇の中である。
「自分から正体を明かす真似はなかったようだ。親しかった友人にも話さなかったらしいからな」
「……葉月先輩は意思が固い人ですからね。僕ら委員会の後輩にも告げずにいたこと、心苦しそうな顔で話されてました」
「だろうな。一番可愛がってたお前たちにも言わなかったぐらいだ。あいつの意思はちょっとやそっとのことじゃ揺らがない。それだけ強い信念を持ち合わせている」
自慢の友人だと留三郎が表情を緩めた。
そして、その柔和な笑みを浮かべたまま三郎次にこう問いかけた。
「それで、お前は紅蓮が女だと知り幻滅したか」
「まさか」
間髪容れずに即答。
その真っ直ぐな眼差しに嘘偽りは見られない。この目に留三郎は憶えがあった。まさに揺らがない意思の強さを宿した双眼。慕う先輩の背を見て育ったからだろう。
「葉月先輩は葉月先輩です。男だろうと、女だろうと尊敬の念は変わりません」
確かで強いその言葉。留三郎は笑みを深めた。
これに関しては要らぬ心配だった。友は態度を変えられるのを一番嫌がるのだから。
「ただ」と三郎次が目を伏せる。
「なんか、もやもやした気持ちが晴れなくて」
「成程な。それは普段見ない格好を見たせいじゃないのか?」
「それは、そうかもしれないです。先輩の女装姿、初めて見たので」
「極力女装は避けてたからな、あいつ。……で、お前はその姿を見てどう思ったんだ」
「どうって」
淡黄蘗 染めの小袖に身を包み、涼し気で凛とした眼差し。控えめに引かれた橙色の紅も似合っていた。その顔で微笑まれたのを思い出すや否や、三郎次の頬が薄紅色に染まりかける。
「綺麗な人だなって、思いました」
素直に抱いた感想だ。これ以外では形容し難い。
何とも言えぬ照れた表情で、もごもごと喋る。やや俯き加減に伏せられた目。これらから留三郎は確信を遂に得たのか、にこりと頷いた。
「つまり、三郎次は先ず忍たまとしてのあいつに惚れ、次に本来の姿を見て惚れた。二度惚れてるというわけだ」
間。
裏口から聞こえていた薪を割る音はいつの間にか止んでいた。
何を言われているかわからない。そんな無表情で固まり続ける三郎次の前で手をひらひらと振れば、ようやく我に返ったのか火が点いたように顔を真っ赤に染めた。
友人の如く鈍い感性の持ち主でなくて良かった。これは喜ばしいことだと胸を撫でおろした後、新たに芽生えた恋心に目を細めて笑いかける。
「……ほ、惚れっ⁉」
「違うのか? 俺にはそう見えたし、そう聞こえたが。余すとこなくあいつに惚れてるんだよ、三郎次は」
目を大きく見開いたり、視線を忙しなく彷徨わせたりと落ち着かない。
まさに百面相の表情であったが、意外なことに否定の言葉は出てこなかった。
三郎次は片手で顔半分を覆い、目を一度瞑る。それから軽い溜息を一つ吐いた。
自分の中で答えが出たのだろう。その目を開けた次には落ち着きを取り戻していた。顔はまだ赤らんでいたが。
「否定しないんだな」
「なんというか、腑に落ちたので」
これは意外にも冷静である。感心せざるを得ないというべきか、己の感情をすんなりと受け止めたのか。恐らくは薄々勘づいていた恋慕。ようやく靄が晴れて視界が良好になり、狼狽える必要性がなくなったのだろう。
不確かな感情とは一度認めてしまえば楽になるもの。それまでの道程が長く、苦しむものである。
さてさて、これは思わぬ対抗馬が出現した。実力差はあれど、それ以外では有力候補である。
なにせこの二人、紅蓮と三郎次は良い人間関係を築いている。しかしそれはあくまで先輩と後輩の関係性。この決められた枠からどう抜け出すか。あの鈍い友人のことだ。いつ気づくかわかったものではない。
だが、もしかすると。大きく空いた穴の一部をこの三郎次が埋めてくれるやもしれない。無論、故人の居場所も残した上で。
四つ上の燃える戦国作法。亡き友への揺るがない想い。障壁は高けれど、この後輩ならば。
「そうか。頑張れよ、三郎次。ああ、一つだけ伝えておくことがある」
「なんですか」
「あいつは鈍い。とことん鈍いぞ。回りくどいやり方では一生気づかん。これだけは断言できる。六年共にしてきた俺たちだからこそハッキリと言えることだ」
留三郎は拳を握りしめ、熱弁する。そのあまりな言い草に本当だろうかと三郎次は疑いをかけた。
紅蓮は気配を消すのが上手い。呼吸をする瞬く間に気配を消し、予想だにしない所から姿を現す。気配を消すのが上手ければ、読むのも上手い。
「周囲の気配には物凄く敏感だと思いますけど」
「気配を察するのはな。それとこれとは別問題なんだよ。相手の気持ちに一寸たりとも気づかず、知らずに振ってきた。色恋沙汰にとんと疎い。だから、心しておけよ」
悲しくも無惨に散る恋を傍で何度も見届けた。その一人にならないようにと助言をくれたはいいが、その先は自分で考えどうにかしなくてはならない。まあ、要は手応えがなくとも諦めるなと言いたいのであろう。
諦めの二文字を浮かべるには時期尚早。まだ駆け出したばかりなのだから。
「僕は気づくまで食い下がりますよ」
「その意気だ。頑張れよ。俺はお前を応援する」
恋心の若い芽がいつか花咲くように。
期待と願いを込めた屈託のない笑顔を留三郎が浮かべた。
薪を割る音が途絶え、暫くしてから紅蓮が食堂の勝手口から戻って来た。
いつもの見慣れた格好でいて、首にかけた手ぬぐいで額から滴る汗を拭う。友の向かい側に座る柳色を見つけると顔を綻ばせた。
「三郎次。来ていたのか」
「お疲れ様です葉月先輩」
「薪割りご苦労さん。随分と時間がかかってたみたいじゃないか」
「ああ、土井先生が来られてな。立ち話をしていた。今夜の夕食に練り物が出るらしく、食べていってくれないかとせがまれたよ」
練り物克服はまだまだできないようだ。そう言って端正な眉を下げて笑った。
「いいじゃないか。食っていけよ。どうせ仕事までまだ時間もあるんだろ」
「まあな。おばちゃんの料理で精をつけていくのも悪くない」
「それなら夕食の時間まで指南していただけませんか」
やや食い気味に三郎次がそう言った。現に席をがたりと立ち、身を乗り出している。
早速行動を起こしたか。ひっそりと口元に弧を描いた留三郎は温くなった茶を喉に流し込んだ。
突然の申し出に紅蓮は瞬きを二度繰り返した。
ふらりと学園に立ち寄った為、特段この後に用事はない。火薬委員の顔を見に行こうかと考えていたぐらいである。
「それは構わないが。稽古は来週の予定だったはずだぞ」
「有難うございます! それはそうですが、むしろ月一じゃ足りないので増やしてもらいたいぐらいです」
熱心に頼む後輩の姿。希望を極力叶えてやりたい気持ちは大いにある。自由であるようで、不自由な己の状態。週一は厳しいだろう。
「隔週で月二回なら時間は取れそうだ。自主鍛錬も考慮した上でその間隔としよう」
「はい! 是非お願いします!」
卒業した忍たまと会うには絶好の口実だ。それを上手く利用するとは抜け目がない。
そして相変わらず後輩には甘い友人だ。
この関係がどう変化していくだろうか。
願わくば上手くいくようにと静かに見守ることを心に決めた留三郎であった。
ある忍たまには強い憧れを抱く相手がいる。
その者は武術に長け、教養もあり、強く優しい。情にも厚く、己の友人や後輩のこととなると見境ないのが珠に瑕ではあった。時に己の身も顧みないのだ。先日も委員会の後輩を庇い、両腕に怪我を負ったという話も聞く。
忍術学園を今春卒業した忍びのたまご――名を葉月紅蓮と言う。
彼の者を慕い、敬う熱心なその姿勢。三年に進級した池田三郎次は二年前からその思いを抱き続けていた。
それが今期の予算会議を境目に揺らぎ始めるとはゆめゆめ考えもしない。
葉月紅蓮が在学中、本来の姿を知る者は一握りだけであった。過去に思いがけず露見した場合もありはしたが、多くは「知らなかった」と目を点にして仰天。その中でも特に三郎次は驚愕していた。
騙されていたことに憤りを覚えたとか、不快に思ったなどとは雀の涙ほどもない。むしろその素晴らしい演技力に賞賛したほどだ。
また一つ尊敬する先輩の株が上がるも、複雑な思いが一つ三郎次の中に芽生えていた。
その背をずっと追い続けていたというのに、何故気づかなかったのか。男だろうという意識、思い込みが前提にあったかもしれない。疑う余地が何一つとしてなかったのだ。
しかし、正体が明らかになったからとはいえ尊敬の念に揺らぎはない。
問題はこのすっきりとしない、もやもやとした己の感情だと三郎次は重い溜息を吐いた。
「三郎次。最近お前集中力がないというか、なんかぼんやりしてない?」
同級生にこう言われてしまう始末なのである。
座学授業終わりの放課後、三年い組の教室から久作がいの一番に出ていった。何をそんなに慌てているのかと不思議そうにしていた三郎次は今朝方「図書当番だから」と話していたのを今になって思い出す。
ところで、自分は掃除当番ではなかったはずだ。記憶を頼りに今一度「掃除当番は来週だったよな」と左近に確認を取る。「そうだよ」と返ってきた言葉に内心ほっと胸を撫でおろした。どこまでもぼんやりしているわけではない。
「ぼんやりなんかしてない。気の所為だろ」
「いいや、してる。じゃなきゃ玉子焼きをわざわざ味噌汁に入れて食べない」
三郎次は言葉を詰まらせた。
それは昨夜の話である。夕食で用意された玉子焼きを味噌汁に浸していたのだ。それは箸で摘まんだ玉子焼きが滑ったという様子ではなかったと左近が続ける。同じ時間帯に食事を取っていた石人も声は上げずに目を丸くしていた。
「三郎次、お前それ流石に」
「そういう食べ方もあるんだね」
久作と四郎兵衛にそう言われて初めてハッと気がついたほどである。味噌汁でひたひたになった玉子焼きを頬張り「結構美味いぞ」とその場を何となく繕いはしたが、微妙でいて呆れた顔を同級生たちに向けられたというもの。
現在も左近に疑り深い目をされている。何かあったのでは、という探りの目だ。ついっと思わず三郎次はその視線から逃げた。
「上の空にも程があるぞ」
「そういう食べ方もあるって聞いたことがあって。ちょっと試してみたかったんだよ」
「誰に聞いたんだよ。葉月先輩か?」
「……先輩はそんなことしないだろ」
不意に出てきた名前に軽く動揺するも、それを上手く隠して半笑いを左近に返す。
水浅葱の空が広がる五月下旬。安定した気温も続き、外で過ごしやすい日和となっていた。それも梅雨入りを迎えるまでの話。火薬が湿りやすくなる時期がまた来るのかと思うと、管理を任される火薬委員は憂鬱になるものだ。
「あ、そういえば」
何かを思い出したように左近が口を開き、隣を歩く友人に朗報があると言った。
「葉月先輩と食満先輩を食堂の方で見掛けたって乱太郎が言ってた」
「先輩方が?」
「ああ。乱太郎は伏木蔵に聞いて、伏木蔵は平太に聞いたって言ってて、平太は富松先輩が見掛けたのを聞いたってさ」
「なんだよその伝言ゲームみたいなやつ。そこまで人伝だと信憑性が薄いな」
左近は瞬きをパシパシと二度繰り返した。
この友人は元火薬委員会委員長の紅蓮を慕っている。直々に稽古も頼むほどであり、卒業後も月に一度学園に来て指南を受ける約束をしたとも聞いた。在学中も何かにつけては「葉月先輩が」と先輩自慢をしてきた。
憧れの的であり、尊敬している。それは誰が見ても明らかであった。
その三郎次がこの情報に食いつくどころか、一歩離れて様子を窺う様な態度を取るのだ。これはどうもおかしい。
「嬉しくないのか?」
「な、なんで」
「いや、だって三郎次のことだから「今から会いに行ってくる!」って言うと思ったし。いつもこんな風に目輝かせてるだろ」
「そんな表情してない」
「いーや、してるね。なに、ケンカでもしたの?」
「してない。するわけないだろ」
「だよなぁ」
この友人はちょっと一言は多い所があるが、慕う先輩を怒らせるようなことはしないだろう。仮に怒らせたとしても向こうが軽く受け流すのは目に見える。そんな先輩と後輩の間柄だと左近もよく知っていた。
一方、三郎次の方は紅蓮たちの来訪を素直に喜べずにいた。理由は冒頭に書いた通りである。予算会議からずっともやもやとした、よくわからない感情を引きずっている。
この状態を打破したい気持ちは十二分にはある。周囲が見て分かるほど上の空でずっといるわけにもいかない。
会って話をすればこの違和感が解消されるのだろうか。
稽古の約束は来週だ。その時間を割くぐらいならば。解決の糸口を見つけた方が良い。縺れに縺れるよりも早く。
「ちょっと挨拶してくる」
友人が神妙な面持ちで俯き始めた時には余程深刻な事態かと心配をしたが、その台詞を聞いた左近は肩の力をそっと抜いた。どこか意を決した様子でもあるが、一先ずいつもの三郎次だと。
左近は駆けて行く背を「いってらっしゃい」と手を振って見送った。
◇
とうに過ぎた昼下がり。夕食の支度にはまだ早いこの時間帯、覗いた食堂は閑散としていた。
食堂のおばちゃんは席を外しているらしく、居るのは一番奥の席に座る黒緑の短い髷を結った男が一人だけ。食卓には急須と湯呑みが二つ置かれている。
その男――食満留三郎は気配に顔を上げ、三郎次に笑いかけた。
「お、来たな三郎次」
「お久しぶりです食満先輩」
「紅蓮なら食堂の裏口で薪割りしてるぞ」
開口二番にその名前を出されたので、三郎次は思わず不意をつかれた。
やはり同級生の指摘通りだ。尊敬する先輩が仕事の合間を縫って訪れてくれているというのに、それを純粋に喜べない己はどうかしている。
こういった場面でどう返していたのかすら直ぐに出てこない。三郎次はうんともすんとも言わずに視線を僅か彷徨わせた。
紅蓮の後輩がこの場に立ち尽くし、何とも言えない表情を浮かべている。この時点で留三郎は様子が何やらおかしいと踏んだ。紅蓮絡みかそれとも別件か。兎に角、話を聞いてみなければ。先ずは座るようにと三郎次に着席を促した。
自分も後輩に対して真摯に向き合っている自信がある。しかし、向かい合わせに座った友人の後輩はどこか強張った表情で居心地が悪そうにしていた。
「先輩方はどうして今日こちらに」
「俺は非番を貰ったんだ。紅蓮とはこの近くで偶然会ってな。それなら学園に顔を出しに行くかと意気投合したというわけだ。で、食堂に寄ったらおばちゃんに薪割りを頼まれたから、どっちがやるかあっち向いてホイで決めたんだよ」
カコンッ、カコンッという規則的に聞こえてくる小気味よい音。
裏口で小斧を振り下ろす紅蓮の様子が三郎次の頭に浮かんでいた。その音を気に掛けながらも留三郎に話を返す。
「あっち向いてホイって、存外可愛らしいことするんですね先輩方」
「二勝一敗で俺が勝ったと」嬉しそうに顔を笑わせる。偶には童心に返るのも悪くないといった風に。それにと案外馬鹿にできないものだと留三郎が続ける。
「瞬時に相手の行動を読み取る為の観察眼を養う練習にもなる。それに瞬発力や判断力も必要とする遊びだ。俺たちぐらいにもなれば勝敗が中々つかずに長期戦ともなる」
一勝が決まるまでに五分もかかったと聞き、もっと簡単に勝敗がつくもので勝負すれば良かったのではと半笑いを浮かべる。
「立花先輩は御一緒ではないんですね」
気になっていたことを一つ、三郎次が訊ねた。
外の気配は紅蓮のみ。周囲にそれらしき気配もなく、左近もそれについては触れていなかった。二人で行動を共にしているのならば、此処にも来ているのではないかと読んだのだ。
別の用事で学園内に居るかもしれないが、居ない方がいい。そんな少しの気持ちが三郎次の中にあった。
不意に留三郎が吹き出し、笑った。
カラッとした明るい声を上げ、それから忍び笑いに務める。
突然笑われた方は一体何がおかしいというのか。一つもおかしなことは聞いていないはずだ。ぽかんとする三郎次の目が訝しいものへと変わった頃に「すまんすまん」と含み笑いの声が返ってきた。
「さっき俺も同じことを聞いたんだよ紅蓮に。そうしたら「四六時中一緒に居られるか!」って怒ってな」
それでつい思い出し笑いをしてしまったという。
太く凛々しい眉を八の字に下げ、可笑しそうに笑う留三郎と怒る紅蓮。
この二人のやり取りが浮かびそうで、浮かばない。同学年で軽い冗談を言い合う姿をあまり目にしたことがないのだ。
改めて思い返してみれば、自分のような後輩に見せる顔は幾多も見てきたが、対等な友人たちとどう接しているのかは知らない点が多い。三郎次は何故かそれを気にするようにもなっていた。
「そういうわけで、単独行動が増えているらしい」
「そうだったんですね」
それはそうと、仙蔵がこの敷地内に居ないことを知り、三郎次の表情と声色に安堵が灯る。その僅かな表情の差分が留三郎の目に留まった。どうやらこれは紅蓮絡みのようだ、と。
「あいつら相性が悪いかもしれんな」
なんとなしにぽつりと零した留三郎は頬杖をついた。
三郎次の眉がぴくりと微かに動く。
仕方なしに組んで仕事をしているというあの二人。懐柔しようとする者、片や反発する者。本人も「馬が合うはずがない」と愚痴を零した。それでもちぐはぐながらも仕事は滞りなくこなしているそうだ。
紅蓮の性格もだが、卒業を間近に控えた頃から急激に仙蔵を悪い意味で気にしていた。気配に敏感ゆえ、尾行されることを嫌ってもいた。致し方がないとはいえ、紅蓮の不満は塵の様に降り積もるばかりだろう。
それでも、もしかしたら。何かをきっかけに芽生えるのではないか。留三郎はそう考えてもいたのだが。
ちらと目の前にいる紅蓮の後輩を見れば、不服の色が全開だ。
「釣り合うわけないですよ。葉月先輩と立花先輩は全っ然性格が違うじゃないですか」
そしてチクチクとした棘を含ませた物言い。鋭利に尖ったそれは指先で少し触れただけで深く刺さりそうだ。
四つ下の後輩は先輩相手にも遠慮なしにずけずけと物を言う性格だと知ってはいる。ただ、こんなにも仙蔵を毛嫌いしていただろうか。自分たちが卒業し、紫陽花が咲くこの短い間に何かあったのか。
恐らくは仙蔵と組んでいることに不満を抱いている。だが、それ以上のものがありそうだ。
先程の様子がおかしい件も含め、もう少し話を探ってみるかと留三郎は顎をさすった。
「三郎次。何か悩み事があるんじゃないのか」
話題をがらりと変え、単刀直入に訊ねればまさに当たり。
問われた三郎次は背筋を反射的に強張らせ、ぴっと反り返す。一文字に結ばれた口はへの字に近い。三白眼から放たれる妙な威圧感に負け、その口元が更に角度をつける。
気づけばカラカラに渇いていた喉。ぺったりと貼り付いた喉に唾を飲み込み、声を絞り出そうとした
「食満先輩は、葉月先輩の正体を知った時、どう思われたんですか」
それは想定内の“悩み”であった。否、そう言ってしまうのは悩みとして抱える当人に失礼か。
つい先日、紅蓮は己の正体を委員会の後輩に明かした。
「予算会議に現れた卒業生の中に別嬪な女子がいる」と些か話題にもなった。
久々すぎる女装姿もとい小袖に身を包む友人に違和感を覚えるも、中身はそのまま。山本シナ先生が見ればお小言が飛んできただろう。衣装は変われどいつもの紅蓮だ。伊作と留三郎は笑ったのである。
嗚呼、そういえば。留三郎はあることを思い出した。仙蔵に「少しは女らしく振舞わんか」とつつかれていたのを。それが大層気に障った様な表情で受け流していた。馬が合わない一因かもしれない。
そこが自分や伊作との違いだ。正体を知ったからと態度を一つも変えなかったからこそ、育まれた友情がある。怪我をする度に「女の子なんだから」と人知れず怒るのはもっと自分を大事にしてほしいという意味合いも含む。男だろうと女だろうと意識の根底は変わらないのだ。紅蓮もそれを理解し、気の置ける友人だからこそ素直に受け入れていた。
それはさておき、突如明かされた真実に惑うのはごく当たり前のこと。とりわけ三郎次は紅蓮のことを慕い、まさに尊敬の象徴としている。
だが、優秀で目聡い彼が全くもって気づかなかった。洞察力の欠落。思い込み。傷心。様々な感情が三郎次の胸中を駆け巡っているのだろう。そしてそれ以外の感情がもしかすると、存在しているのでは。
留三郎は自身の腕を食卓の上にゆっくりと伏せた。後輩の表情一つ見逃すまいと。
「どうって、その時は確かに驚いた記憶はある」
「意図せずバレたみたいなことを仰ってましたけど、食満先輩は疑ってたんですか?」
「いや全く。一分たりともな。まあ、その時は向こうもそこまで狼狽えてはいなかった。「なんだ知られてしまったか」ぐらいで。強い口止めもされなかったし」
「それって要はどっちでも良かったってことなんじゃ」
「そうかもしれんな。拘りがないと言っていた。実家から「男同様の力を身に着けて来い」みたいなことを言われたとか話してたなそういえば」
生家の事情を踏まえ、それを受け入れた様子でもあった。そのはずが跡継ぎから離脱し、本人は忍びとして生きる道を選んだわけだが。跡継ぎ問題に関わるごたごたは片付いたと聞いているが、実際のところはどうなのか闇の中である。
「自分から正体を明かす真似はなかったようだ。親しかった友人にも話さなかったらしいからな」
「……葉月先輩は意思が固い人ですからね。僕ら委員会の後輩にも告げずにいたこと、心苦しそうな顔で話されてました」
「だろうな。一番可愛がってたお前たちにも言わなかったぐらいだ。あいつの意思はちょっとやそっとのことじゃ揺らがない。それだけ強い信念を持ち合わせている」
自慢の友人だと留三郎が表情を緩めた。
そして、その柔和な笑みを浮かべたまま三郎次にこう問いかけた。
「それで、お前は紅蓮が女だと知り幻滅したか」
「まさか」
間髪容れずに即答。
その真っ直ぐな眼差しに嘘偽りは見られない。この目に留三郎は憶えがあった。まさに揺らがない意思の強さを宿した双眼。慕う先輩の背を見て育ったからだろう。
「葉月先輩は葉月先輩です。男だろうと、女だろうと尊敬の念は変わりません」
確かで強いその言葉。留三郎は笑みを深めた。
これに関しては要らぬ心配だった。友は態度を変えられるのを一番嫌がるのだから。
「ただ」と三郎次が目を伏せる。
「なんか、もやもやした気持ちが晴れなくて」
「成程な。それは普段見ない格好を見たせいじゃないのか?」
「それは、そうかもしれないです。先輩の女装姿、初めて見たので」
「極力女装は避けてたからな、あいつ。……で、お前はその姿を見てどう思ったんだ」
「どうって」
「綺麗な人だなって、思いました」
素直に抱いた感想だ。これ以外では形容し難い。
何とも言えぬ照れた表情で、もごもごと喋る。やや俯き加減に伏せられた目。これらから留三郎は確信を遂に得たのか、にこりと頷いた。
「つまり、三郎次は先ず忍たまとしてのあいつに惚れ、次に本来の姿を見て惚れた。二度惚れてるというわけだ」
間。
裏口から聞こえていた薪を割る音はいつの間にか止んでいた。
何を言われているかわからない。そんな無表情で固まり続ける三郎次の前で手をひらひらと振れば、ようやく我に返ったのか火が点いたように顔を真っ赤に染めた。
友人の如く鈍い感性の持ち主でなくて良かった。これは喜ばしいことだと胸を撫でおろした後、新たに芽生えた恋心に目を細めて笑いかける。
「……ほ、惚れっ⁉」
「違うのか? 俺にはそう見えたし、そう聞こえたが。余すとこなくあいつに惚れてるんだよ、三郎次は」
目を大きく見開いたり、視線を忙しなく彷徨わせたりと落ち着かない。
まさに百面相の表情であったが、意外なことに否定の言葉は出てこなかった。
三郎次は片手で顔半分を覆い、目を一度瞑る。それから軽い溜息を一つ吐いた。
自分の中で答えが出たのだろう。その目を開けた次には落ち着きを取り戻していた。顔はまだ赤らんでいたが。
「否定しないんだな」
「なんというか、腑に落ちたので」
これは意外にも冷静である。感心せざるを得ないというべきか、己の感情をすんなりと受け止めたのか。恐らくは薄々勘づいていた恋慕。ようやく靄が晴れて視界が良好になり、狼狽える必要性がなくなったのだろう。
不確かな感情とは一度認めてしまえば楽になるもの。それまでの道程が長く、苦しむものである。
さてさて、これは思わぬ対抗馬が出現した。実力差はあれど、それ以外では有力候補である。
なにせこの二人、紅蓮と三郎次は良い人間関係を築いている。しかしそれはあくまで先輩と後輩の関係性。この決められた枠からどう抜け出すか。あの鈍い友人のことだ。いつ気づくかわかったものではない。
だが、もしかすると。大きく空いた穴の一部をこの三郎次が埋めてくれるやもしれない。無論、故人の居場所も残した上で。
四つ上の燃える戦国作法。亡き友への揺るがない想い。障壁は高けれど、この後輩ならば。
「そうか。頑張れよ、三郎次。ああ、一つだけ伝えておくことがある」
「なんですか」
「あいつは鈍い。とことん鈍いぞ。回りくどいやり方では一生気づかん。これだけは断言できる。六年共にしてきた俺たちだからこそハッキリと言えることだ」
留三郎は拳を握りしめ、熱弁する。そのあまりな言い草に本当だろうかと三郎次は疑いをかけた。
紅蓮は気配を消すのが上手い。呼吸をする瞬く間に気配を消し、予想だにしない所から姿を現す。気配を消すのが上手ければ、読むのも上手い。
「周囲の気配には物凄く敏感だと思いますけど」
「気配を察するのはな。それとこれとは別問題なんだよ。相手の気持ちに一寸たりとも気づかず、知らずに振ってきた。色恋沙汰にとんと疎い。だから、心しておけよ」
悲しくも無惨に散る恋を傍で何度も見届けた。その一人にならないようにと助言をくれたはいいが、その先は自分で考えどうにかしなくてはならない。まあ、要は手応えがなくとも諦めるなと言いたいのであろう。
諦めの二文字を浮かべるには時期尚早。まだ駆け出したばかりなのだから。
「僕は気づくまで食い下がりますよ」
「その意気だ。頑張れよ。俺はお前を応援する」
恋心の若い芽がいつか花咲くように。
期待と願いを込めた屈託のない笑顔を留三郎が浮かべた。
薪を割る音が途絶え、暫くしてから紅蓮が食堂の勝手口から戻って来た。
いつもの見慣れた格好でいて、首にかけた手ぬぐいで額から滴る汗を拭う。友の向かい側に座る柳色を見つけると顔を綻ばせた。
「三郎次。来ていたのか」
「お疲れ様です葉月先輩」
「薪割りご苦労さん。随分と時間がかかってたみたいじゃないか」
「ああ、土井先生が来られてな。立ち話をしていた。今夜の夕食に練り物が出るらしく、食べていってくれないかとせがまれたよ」
練り物克服はまだまだできないようだ。そう言って端正な眉を下げて笑った。
「いいじゃないか。食っていけよ。どうせ仕事までまだ時間もあるんだろ」
「まあな。おばちゃんの料理で精をつけていくのも悪くない」
「それなら夕食の時間まで指南していただけませんか」
やや食い気味に三郎次がそう言った。現に席をがたりと立ち、身を乗り出している。
早速行動を起こしたか。ひっそりと口元に弧を描いた留三郎は温くなった茶を喉に流し込んだ。
突然の申し出に紅蓮は瞬きを二度繰り返した。
ふらりと学園に立ち寄った為、特段この後に用事はない。火薬委員の顔を見に行こうかと考えていたぐらいである。
「それは構わないが。稽古は来週の予定だったはずだぞ」
「有難うございます! それはそうですが、むしろ月一じゃ足りないので増やしてもらいたいぐらいです」
熱心に頼む後輩の姿。希望を極力叶えてやりたい気持ちは大いにある。自由であるようで、不自由な己の状態。週一は厳しいだろう。
「隔週で月二回なら時間は取れそうだ。自主鍛錬も考慮した上でその間隔としよう」
「はい! 是非お願いします!」
卒業した忍たまと会うには絶好の口実だ。それを上手く利用するとは抜け目がない。
そして相変わらず後輩には甘い友人だ。
この関係がどう変化していくだろうか。
願わくば上手くいくようにと静かに見守ることを心に決めた留三郎であった。