番外編
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春征きて
春景。澄み切った青空がどこまで広がる下、春風が吹いた。
遠くの野から運ばれた花の香が漂い、舞う。
柔らかな暖かい風はまだ幼い子どもの頬を優しく撫でていく。しっかりと結ばれた後ろ髪がさらさらと、その風に揺れた。門の内側から運ばれてきた桜の花びらが足元へ、落ちる。
十になったばかりの子どもは大きな門をじっと見上げ続けていた。その表情は不安げでいて、小さな唇を真一文字に結んでいる。
右手側の柱に掲げられた『忍術学園』と書かれた看板。中からは同じくらいの子どもの声が聞こえる。楽しそうに笑う声が胸に少しだけ響き、きゅっと締め付けた。
「ねえ、入らないの?」
聞こえた声に振り返ると、自分と同じぐらいの背丈をした子どもが二人立っていた。
声を掛けてきた子は飴色に似た豊かな髪を一つに結い、この春風のように柔らかい笑みを携える。が、その顔や着物は土埃に塗れていた。どこかで転んでしまったのだろうかと頭に過る。
もう一人は黒緑の短い髷を結った芯の強そうな顔だ。転んだと思われるその子を肩に支えていた。二人は友達なのだろうか。そう考えていると「こいつ、そこで転んで足ひねったんだよ」と互いに初対面らしいことを知る。
「君も入学生だよね。ぼくたちと同じ」
「ああ」
「どうして門をくぐらないんだ?」
「この門をくぐれば、しばらく帰れなくなるから」
寂しい。怖い。負の感情がこの子の足を地面に縫い付けていた。
この門を潜れば、六年間は帰ることを許されない。亡き母、そして父との約束であった。頭でそれを十二分に理解していても、この足が、あと一歩が進められずにいる。
「こわいのか?」
「……こわい」
声に出して初めて自分の感情が動く。
顕わになった恐怖に怯え、小さな眼が伏せられる。その目元に陰りが差すより先に、紅蓮の前に手が差し出された。
「それなら、三人でいっしょに行こうよ。みんないっしょなら、こわくないよ。ね?」
すっと差し出された右手と迷いのない笑顔。
戸惑いながらも紅蓮はその手を掴み、握り返した。伊作の左側では留三郎が歯を見せて笑う。
この土泥だらけの手をした友人と長い付き合いになることを、まだ三人は知らない。
忍術学園の正門に並ぶ三つの小さな背。
門前と青い空を仰ぎ、境界線を共に跳び越えた六年前の出来事は遠い昔のようでいて、昨日のようだと振り返るのだろう。
「せーのっ!」
多くの仲間、後輩と過ごした日々と共に。
◇◆◇
下段の素早い蹴りが仙蔵の顔面に目掛け、繰り出された。
間一髪、それを両腕で凌ぐも速さを伴った威力に退行を余儀なくされる。その後を、紅蓮が追う。追撃の手を緩めずに正拳突きを二、三発と上段へ。読みやすいその手は難なくと回避される。しかし、かわされることは計画の内。手首を返し、裏拳を打ち込んだ後に紅蓮は敢えて間合いを広く取った。
その間合いをすかさず詰めてきた相手の速さを利用し、肩にとんっと手をついて半宙返りで身体を翻す。背後に着地した後、仙蔵の足を勢いよく払った。長い脚に掬われた仙蔵は体勢を刹那崩すも、直ぐに立て直し十分な距離を一度取る。
組手を始めてから十分ばかりが経つ。互いに息は一つも上がらずにいた。
ようやく身体が温まってきた、という範囲ですらある。
「やるな。とても山賊退治の時にヘマをしたとは思えん」
「刀の扱いが不得手なだけだ。元来、体術の方が性に合う」
「不規則でお前らしからぬ型だな」
合同授業で組手をした際とは違う手応え。紅蓮は小平太のように力押しではないことは確かだが、主軸を置いた型が読めずにいた。
にやりと紅蓮の口元が引き締まる。
「褒め言葉だ。常套手段は相手に見せぬのが私の型」
相手、場、所持忍具に応じて戦闘の型を変える。紅蓮が四年次から身に着けてきたことであった。亡き友の言葉を受け、生き残る術を磨き続けてきた。散った命の分まで生きる為に。
組手で負ける度に欠点を洗い出し、補う。熱心なその姿を見た同級生は「負けず嫌いだ」と口にもした。
『負けず嫌いだよね、紅蓮。そこが良い所だ』
友の言葉、屈託のないあの笑顔が紅蓮の背中を押す。
「知らなかったのか? は組一の負けず嫌いなんだよ、私は」
紅蓮が一気に間合いを詰める。瞬風の如く、相手の懐に潜り込む。そう見せかけ、深く曲げた脚をばねにして高く跳び上がった。そして素早く地面に着地、仙蔵の背面目掛けて回し蹴りを叩き込む。飛び込み前転回避でそれをかわした仙蔵が短い舌打ちを鳴らした。打撃よりも蹴撃に重きを置くか、と読めば次には掌底が顔を掠める。玉が転がるように型を変える。一手先が読めずにいた。
仙蔵の長い脚の前蹴り上げが紅蓮の鼻先を掠めた。軽い身のこなしで連撃を受け流し、膝蹴りを両腕の手甲で受け止める。
まだまだ。内に静かなる火を灯した二人は互いに余裕の笑みを零した。
勢いを増した流水の如く、流れる連撃。
紅蓮の上段蹴りが繰り出される度、伊助は心の中で歓声を上げていた。
卒業式典を終え、送別会の準備も順調に進む中で伊助は忘れ物を思い出したのだ。忍たま長屋の自室に取りに来てみれば、一年長屋の庭で卒業生二人が組手を行っているではないか。
成り行きはとんとわからずにいたが、とても声を掛けられる状況ではない。それだけは察した伊助は手近な柱に小さな身体を隠し、息を顰めて行く末を見守っていた。
不意を突いてからの袈裟蹴り。紅蓮の足裏を掴み、動きを止める。捻るように横へ投げ飛ばすも、宙で身体を捻った紅蓮はしなやかな身のこなしで地面へと着地した。まるで猫のようだと伊助は目を見開く。
息をつく間もなく、一寸先で二人はまた攻防戦を繰り広げる。
この組手を観戦する伊助は嘆声をつくばかり。これが最上級生の組手かと目が釘付けになっていた。
どちらが勝つのか。いや、勝ってほしい相手は言うまでもなく委員会の先輩である紅蓮だ。声援の一つでも送りたい気持ちもあるのだが、それを許される雰囲気ではない。固唾を呑んで見守るしかないのだ。
静かにそよぐ風が桜花を揺らす。
この場に聞こえるのは砂地を踏みしめる音、絶えず繰り出される打撃、蹴撃の音。互いに一歩も譲らない攻防戦は一層緊迫した空気に包まれていた。
呼吸すら阻まれてしまいそうなほど、伊助の手には汗が握られる。そのせいで、僅差気づくことに遅れてしまった。
ひゅーっと風を切る音。空の彼方からそれは聞こえた。
白い球体が忍たま忍たま長屋目掛け、有り得ない球速でそれは飛んでくる。それがバレーボールだと伊助の目が捉えた時にはもう、頭上の屋根に衝突した。
雷が落ちたような音を立て、木造の屋根を貫通。まるで石火矢の砲弾並の威力である。空を飛んできた白い砲弾は伊助のすぐ後方の床板にめり込み――縁の下まで――深く埋まった。
伊助は悲鳴を上げ、柱に縋りついた。誰が打ったかこの白い砲弾。直撃はなんとか免れた。しかし、一難去ってまた一難。
ぎしりと嫌な、軋む音が頭上から聞こえた。ぽっかりと穴が空いた天井の屋根が柱もろ共崩壊し、落ちてきた。
足が竦み、動くことができずにいた伊助は咄嗟に頭を抱え、降り注ぐであろう衝撃に備える。屋根の崩れる耳をつんざくような音がした。
だが、一向に痛みも衝撃もこない。あれだけ派手に瓦礫の崩れる音がしたというのにだ。身体に痛みは全く感じられず、むしろ温かい腕に包まれている感覚が妙であった。
恐る恐る、伊助は目を開けた。その目に映ったのは松葉色。
一体何が起きたのか。頭が理解するまでに少々の時間を費やしたが、自分の危機を救ってくれたのは間違いなくこの腕の持ち主であることだけはわかった。紅蓮が伊助の頭を守るようして抱え込んでいた。
「伊助、怪我はないか」腕の力を緩めた紅蓮は柔らかい声でそう訊いた。
組手をこっそりと見ていた伊助の気配に二人はとうに気がついていたのだ。忍具の使用がない組手であれば、被害を被ることもない。紅蓮にとっては後輩が見ている手前、負けるわけに益々いかなくなる。気合を満ちたその矢先の出来事だった。
恐らくは同級生が放ったバレーボール。それによって崩壊しようとする屋根。降り注ぐ瓦礫から伊助を守るべく紅蓮は地面を蹴り上げた。
硬直して身動きが取れない伊助に向かい、飛び込む。庇い抱えるがも勢いは衰えを知らない。咄嗟に背を反対側へ向け、部屋の戸を突き破ったところでようやく動きを止めた。
突き破った戸は真っ二つになり、破片がばらばらと室内に散らばった。
伊助が振り返って戸口の方を見れば、屋根の瓦礫が乱雑に積み上がっている。数秒前までそこに自分が立っていたのかと思うと、末恐ろしくて身が竦み、震えてしまった。
ところで、身体の痛みは全くなかった。衝撃も何もかも全てを代わりに引き受けてくれたことに、伊助の目が潤みだした。
紅蓮は眉を顰め、心配そうに後輩へもう一度呼びかける。
「伊助」
「だい、だいじょうぶです。でも、でも先輩が」
声を聞いた紅蓮は胸を撫でおろし、伊助の頭を撫でながら笑みを浮かべた。
「そうか。怪我がないなら良かった。私のことなら心配は要らない。……まあ、お前と黒木の部屋が大変なことになってしまったけど」
「そんなこと、そんなことはどうだっていいんです! 部屋は片付けて綺麗に掃除すればいいだけですから! ……一体何が起きたんですか」
「犯人の目星はついている。二人とも無事か?」
図らずも開放的になった戸口から仙蔵が姿を現した。小脇にバレーボールが抱えられている。瞬間的に捉えた憶測がここで決定打となる。あれだけの勢いをつけた打球を放つことができるのは、一人しかいない。
「暇を持て余した小平太と長次がバレーでもしていたのだろう。直撃せずに済んだのが幸いだぞ伊助」
「小平太のいけどんアタックは石火矢並の威力だからな」
「あんなの直撃したら気絶じゃすみませんよ~!」
涙目で「冗談じゃない」と訴える伊助の頭を紅蓮がぽんぽんと叩く。半笑いで「本当に当たらなくて良かった」と。
「伊助が無事だったことは良しとして。紅蓮、この勝負は私の勝ちだ。場を離れたこと及びその状態で試合は続行不可とみなす」
「なっ! そんなのありですか⁉」
声を荒げたのは伊助であった。よろよろと立ち上がり、仙蔵の方に向かい必死に抗議の声を上げる。
一方、勝敗の審判に不服を申し立てない紅蓮はすんなりとそれを受け入れていた。伊助を庇った際に怪我を身体中のあちこちに負ってしまったのだ。目立つ創傷が顕わになっていないことが救いでもあった。袖の下でずきずきと傷む右腕は擦過傷。左上腕部はじわじわとした痛みを感じる。この感じは挫創か打撲だろう。
「葉月先輩は不測の事態に応じただけじゃないですか!」
「伊助。致し方あるまい。……で、望みはなんだ。作法委員会委員長が無条件で勝負をけし掛けてきたわけでもあるまい」
「なんだ、読まれておったか。勝敗がついてから明かそうと思っていたのだが。まあ、この際良い。紅蓮、私と共に来い」
「は?」
まず条件を先に提示しないことが狡い。敗北した相手に拒否権はないと踏んでのことであろう。それは読んでいた紅蓮であったが、唐突に予測もしていない条件を提示され、呆けた表情と言葉を返した。
バレーボールをくるくると指先で器用に回転させる仙蔵に苛立ちすら覚えそうにもなる。
「どうせフリーの忍者として動くのならば、組んで動いた方が互いによかろう」
「何を企んでいる」
「理由は前述の通りだが」
鷹の様に睨む紅蓮に対し、仙蔵は涼しい顔で笑う。それ以外、他意はないとでも言いたそうに。
間もなく、紅蓮は短い溜息を吐いた。朽ちた引き戸の残骸を避け、ゆっくりと立ち上がる。ずきりと痛みを訴えた左腕に目をやりながらも、袴についた木くずを払い落した。
「わかった。その要求を呑もう」
「先輩っ!」
「撤回は認めんぞ」
「ああ、男に二言はない。その代わり、不戦勝という不名誉をお前にくれてやる」
「……お前、私に対して当たりが強くないか」
「誰のせいだ、誰の」
そもそもの話、付き纏うような行動を見せたお前が悪い。ジト目で紅蓮は仙蔵を再度睨み返した。その視線をついと受け流した仙蔵は「明日の正午、峠の茶屋で待つ」とだけ言い残し立ち去ってしまった。
さておき、この展開には思わず紅蓮も頭を抱えたくなるというもの。片手で額を覆うその仕草に伊助も眉を下げた。
紅蓮は元より、諸国を放浪するつもりであった。忍びとして生きるにしろ、各国の情勢を知るべく情報を先ずは集めようという算段だった。これも各城に就職を果たした友人たちと敵対しない為。早速出鼻をくじかれてしまった。
「先輩」と不安げな声を出す後輩に、紅蓮は笑い返した
「心配するな、伊助」
「……はい。でも、そもそもなんで立花先輩と勝負してたんですか」
「私は乗り気じゃなかったんだが、仙蔵に三郎次の悪口を言われてしまってな。ついカッとなってしまったよ」
「先輩でもそんなことがあるんですね。意外です」
滅多なことでは感情を爆発させることがない。伊助の目に葉月紅蓮という先輩はそう映っていた。
「それよりも、用があって忍たま長屋へ来たのだろう?」
「あっ、はい。忘れ物を取りに来たんです」
「そうか。……この状態で探せるか?」
改めて二人は室内を見渡した。文机、私物に被害は及んでいない。元より片付いている部屋で、伊助の綺麗好きも垣間見える。大きな損害は何よりもこの引き戸だ。
「破片だけでも拾い集めておくか。ここは私に任せて伊助は戻るといい」
「僕もやります。自分の部屋なんだし」
「破片が刺さっては大変だぞ。それに、破壊したのは私のようなものだ。修補は頼んでおくから、送別会の準備を頼むよ。楽しみにしているんだ」
木片を拾い上げようとする伊助の手を制し、やんわりと笑いながら紅蓮はそう伝える。
それに対し伊助は後ろ髪を引かれながらも、押し入れから忘れ物を取り出して「あと少しで準備が終わるので、もうちょっと待っててください!」と慌ただしく長屋を後にした。
◇
医務室へ向かう紅蓮の足取りは鉛の様に重いものであった。
破壊され、荒れた忍たま長屋の一室を粗方片付けた後に怪我の手当てをするべく赴いたのだが。両腕の状態を先程ちらりと確認するものの、目を背けたくなるほど酷い有様であった。これをもし同級生の目に触れたとなれば。笑顔の後に般若面が間違いなく現れる。「卒業式だっていうのに、なんでそんな怪我をしているんだい」と。長年の付き合いゆえ想像は容易いものであった。
いや、まだその展開を考えるのは時期尚早。医務室にはいないかもしれない。そう願い、紅蓮は医務室の戸を静かに引いた。
「あれ、紅蓮。どうしたんだい」
「いた」
思わず心の声が漏れ出た。それが伊作の不信感を煽ることとなってしまう。
相手に怪訝そうな表情をさせるも、気づかないふりをして紅蓮は話を振る。反射的に右腕を庇うような仕草を見せてしまったのが敗因となることも知らずに。
「伊作、荷物はもう纏め終わったのか」
「うん。さっきね。まあ、荷物といっても忍たま長屋から教員長屋の方に移るだけだからそんなに。送別会までまだ時間もあるし、医務室の整理でもしようと思って」
「そうか」
「それで、その右腕は? 擦り傷かな」
右袖に隠れた擦過傷を瞬時に見破った伊作。これにはぐうの音も出ない。
ただただにこやかに笑うその顔を直視できず、紅蓮は視線を横へ逸らした。一筋の冷や汗が背を伝う。
「……千里眼でも持ってるのか、伊作」
「何年一緒にいると思ってるんだい。紅蓮の癖ですぐわかるよ。ほら、手当てするからここに座って」
「伊作には敵わないな」
ぼそりと呟きながらも紅蓮は医務室の中央に胡座をかいた。
六年間、幾度となくこのやり取りをしてきた。
伊作は小さな棘一つすら見逃さない。病人、怪我人を気遣う心は「忍者に向いてないよ」とお節介な曲者にまで言われる程。
但し、友人の無茶には菩薩顔では居ない。時と場合によっては烈火の如く怒りを顕わにした。それもこれも友を思うが為。口を酸っぱくして言われ続けてきた言葉も暫くは聞けなくなる。そう考えた途端、物寂しい気持ちが表に出てきた。
傷薬、包帯を準備すると伊作は紅蓮の前に座った。
渋々と捲られた右袖に隠れていた前腕を見るや否やその顔が険しいものに変わる。広範囲に擦れた傷、表皮が剥けて鮮血が滲み出ていた。
呆れた溜息が伊作の口から漏れる。
「何してきたんだい。小平太といけどんバレーでもしてきたの」
「当たらずとも遠からず、だ」
勘も鋭い。掠った答えの経緯を紅蓮がそこで話し始めようとした時である。
医務室の戸がすぱんと勢いよく開け放たれ、鬼の形相をした留三郎が声を大にして荒げた。
「うおおおい紅蓮! なんで忍たま一年長屋の屋根がぶっ壊れてんだ!」
「ああ、留三郎。丁度良かった、探していたんだ。そういうわけで、修補を頼む。あのままでは伊助と黒木の部屋が風通し良すぎて困るんだ」
「いや、だからなんで破壊されてんのか聞きたいんだよこっちは!」
「今から話す。少し落ち着け」
「とりあえず中に入って戸を閉めてくれないか留三郎。これじゃあ会話が筒抜けだ」
級友二人に宥められ、促された留三郎は昂る怒りを何とか鎮め、ゆっくりと戸を後ろ手で閉めた。
そして伊作と紅蓮の顔が見える位置に腰をドカリと下ろす。落ち着いたこれで「話してもらおうか」と両腕を身体の前で組みながら紅蓮の顔を見た。
紅蓮は経緯を簡単に纏め、二人に説明をした。
忍たま一年長屋に纏わる怪異の真相、売られた喧嘩のこと、そこへ突如現れた白い砲弾。伊助を庇ったこと、勝負の行方も全て、包み隠さずに二人に語った。伊作の手は傷を手当てするべく堪えず動かされている。
紅蓮の話に両者は時々相槌を打ちながら、黙ってその話に耳を傾けていた。その最中、紅蓮は左腕を膝に預けるように置いたまま、動かそうとしない。それが伊作の目に留まっているとも知らず。
「……というわけで、私たちが壊したわけじゃない。小平太のいけどんアタックが飛んできたせいだ」
同時刻、外にいた留三郎は轟音を聞いた際に「敵襲か⁉」と思ったほどだ。音を聞きつけ、駆け付けた場所は一年の忍たま長屋。そこは酷い有様だった。
廊下は著しく陥没しており、屋根は抜け落ち、さらには一室の引き戸が完全に破壊されていた。この様を見た留三郎は暫し言葉を失ったとも話す。破片を集めていた紅蓮とはそこで鉢合わせにはならず、近くを歩いていた仙蔵に聞けば「紅蓮が何か知っているかもしれんぞ」とだけ。紅蓮を探して行き着いたのが医務室というわけであった。
真犯人が小平太だと知った留三郎は顔を引き攣らせ、やり場のない怒りを抑える為か片手で顔を覆った。大きな溜息がその口から漏れる。
「……修補は引き受けるが、なんで卒業式の日にまで」
「巻き込まれ不運の名は伊達じゃないな、留三郎。それはそうと、すまなかった」
「俺たちの仲だ、今さら気にすることでもないだろ。引き戸はすぐ直せるが、屋根と廊下は時間がかかる。それは作兵衛に引き継いでいく。にしてもだ、お前が仙蔵の喧嘩を買うとはな。紅蓮は後輩に対して見境がなさすぎる」
「仕方がないだろ。腹が立ったんだ」
「血の気が多いんだから、まったくもう」
そう言いながら伊作は二人の顔を交互に見た。その視線に気がついた紅蓮が「私は留三郎ほど熱血ではない」と些か不満げに口を曲げる。どちらも似た様なものだと伊作は心の中で笑った。面倒見がよく、放っておけない性格なのは自分もだと。
腕にしっかりと巻かれた包帯はきつすぎず、緩くもない。袖を下ろせば完全に隠れるので、傍から見てもわからない。後は負った怪我を後輩たちに勘付かれなければ問題はなさそうだ。
ふと、伊作の視線が気になった紅蓮は横へついと目を何気なく逸らした。
「で、不戦勝を相手に叩きつけたのはいいが、仙蔵と組むことになったのか」
「ああ」
「物凄く嫌そうな顔だね」
「馬が合うと思うか? どうして私に執着するのかわからん」
忌々しげに紅蓮が吐息をつく。その傍らで伊作と留三郎は顔を見合わせ、どうしようもないやつだと半笑いを浮かべた。
――色恋沙汰に疎い奴だからな。自分の事には特に。
――そうだね。今までに何人のくノ一教室の子たちを知らずに泣かせたことやら。
ひそりと矢羽音を飛ばすも、自分たちが使う矢羽音は紅蓮も容易く聞き取ることができる。勿論聞こえていたのだが、肝心の最初の言葉を聞き流してしまったようで、誰かが泣かせたという部分しか受け取れずにいた。
「誰が泣かせたって?」
「いや、なんでも。俺はどっちかというと、お前らが恋仲になると思ってたんだがな」
留三郎がにっと白い歯を見せて笑った。
これには伊作も紅蓮ぽかんと呆気にとられてしまう。手当てを受けた側の手で頬杖をつき、動揺の欠片すら見せずに紅蓮は口を開いた。
「伊作は口うるさい兄みたいなものだよ。そういう感情は持ったことがない」
「そうそう。紅蓮は手のかかる妹みたいなものだから。ね?」
言うが早いか、伊作は素早く紅蓮の左手首を掴んだ。刹那、紅蓮の顔が歪む。
鈍痛。腫れた痛みが左上腕を襲う。
「いっ……何をする」
「腕、というか上腕怪我してるんだろ」
「う」
「診せなさい」
「……はい」
この強い口調には逆らえない。これも昔から知ること。
紅蓮は大人しく、そしてまたも渋々といった様子で学年装束を肩から脱ぐ。肩から上腕部にかけて赤黒くなった患部。顕わになった痛々しいそれに「うわ」と声を揃えたのは紅蓮と留三郎の二人。ここまで悪化しているとは本人も思っていなかった。
「仙蔵にやられたのか」と訊けば「伊助を助けた時のものだ」と紅蓮は返す。
それはさておき、伊作の眉間の皺がより一層深くなっていた。
湿布薬の準備をすると言い、やおら立ち上がる伊作。薬棚の引き出しを開け、軟膏や布を取り出しているその背を二人はぼんやりと眺めていた。
「隠そうとした怪我を昔はよく伊作が目聡く見つけてたよな」
ぽつり、留三郎が口を開く。
「千里眼の持ち主なんだよ、伊作は」
「二年の時だったか。裏裏裏山まで授業で走り込んだ時、肩痛めたのも伊作に見抜かれた。ある時は小さな棘が刺さったまま授業受けていたら、鐘が鳴ったと同時に棘抜きと消毒薬を持ってきた」
「救急箱をいつも持ち歩いてたな。おかげで私たちは健やかに成長したというわけだ」
「立派な瘡蓋の役目を果たしてくれたよ」
昔の出来事が次々と二人の頭に浮かぶのはやはり今日という日だからだろうか。
感傷に耽るのは柄にもない。そう思っていた留三郎の表情もほんの僅か、寂しげな色を浮かべた。
伊作は布にオウバクを配合した軟膏薬を塗り、無駄のない手つきで患部を覆う。その上から包帯をくるくると巻いていった。
医務室は最早馴染みがありすぎた。消毒液のツンとした独特な匂い。予算を工面して作られた包帯。基本を守り、改良を重ねた薬の数々。薬草を摘み、擦り潰す手伝いもした。
六年間、数えきれない程世話になったこの場所。見慣れたこの光景もこれで最後か。感慨深く、切ない思いが紅蓮の胸にひたひたと沁みていく。
浮かない顔をした紅蓮と留三郎の心情を察したのか、包帯の端を結び終えた伊作は二人に柔らかく微笑んでみせた。
「いつでも遊びにおいで」
口うるさくも優しい友人。くだらないことで数多のケンカもした。試験の点数も競い合った。
共に学び、笑い、泣いた六年間。「は組で良かったのか」と今訊かれたならばこう答えるだろう。
最高の組だったと。
心の内で紅蓮は問いに答え、装束に袖を通した。
◇
忍術学園の正門を照らす夕陽。
まだ少し肌寒さを含んだ春風が吹き抜けた。
あと数日も経てば、桜の花びらを遠くの地まで運ぶようになる。
学園の外に通じる正門を見上げる一人の忍たまがいた。
高い位置で結われた後ろ髪。柔らかい風がその髪を静かに揺らす。
年は齢十五。この学園を本日卒業した生徒である。名を葉月紅蓮と言う。
紅蓮の横顔に満ちるのは六年間の想い出。耳を澄ませばあの頃の笑い声が聞こえてくる。
そこへ足音が一つ、二つと紅蓮の耳に届いた。
夕陽に照らされて伸びた影が三つ、正門の前に並ぶ。六年前と同じ並びで。
「なんか懐かしいな。あんなに大きく見えていた門なのに」
「それだけ俺たちがでかくなったんだよ」
六年の間に伸びた背。共に少しずつ変化していく視界に違和感を覚えることはなかった。こうして改めて言われなければ存外気づかないものだと。
それぞれ夢を抱き、この門を潜った。中でも幼き背に背負っていた荷を一つ、紅蓮は先日下ろすこととなった。
昨夜、文机に向かい一通の文を認めた。年に一度だけ許される実家とのやり取りである。真面目に筆を走らせていたのを見掛けた留三郎は「まさか恋文か」と揶揄。その返事は素っ気ないもので「実家宛てだ」と真顔の表情。つまらない奴だと笑えば、筆を硯に置いた紅蓮が「恋文は送る相手も、書き方もわからんよ」と静かに笑い返した。
「そういや、あの文はもう出したのか」
「あれは馬借便に頼んだよ。これで一つ憂いは晴れた」
紅蓮は道場を継がない決心を固めた。実家には戻らない。即ち、跡継ぎから離脱することを文に認めた。
「それがお前の決めた道というのならば俺たちがとやかく言いはしない。けど、いつでも頼れよ。友達なんだから」
留三郎は紅蓮の頭に手をぽんと置き、髪をくしゃりと撫でた。
後輩に接するような態度を昔はよく取っていた。それこそ、兄が弟を可愛がるようにだ。紅蓮も嫌な気はしていなかった。一人っ子ゆえに、兄のような存在をどこかで求めていたからかもしれない。
久方ぶりにやられたこれに対し、やや複雑そうな表情で留三郎を睨みつける。
「あんなに小さくて、門見上げながら泣きそうになってた奴がこんなに大きくなっちまったな」
「……同級生に掛ける言葉じゃないだろ、それ。泣いてなどいない。背だって私の方が高かったこともある」
「どっちが背高いかケンカしたこともあったねぇ、そういえば」
「直ぐに追い越してやったけどな。そういやその頃、お前寝惚けて俺たちの部屋に入ってきて伊作の寝床取ったことあったな」
「ああ、厠から戻って来た時に寝惚けて完全に気が緩んでいた。布団の数が多いとはぼんやり思っていたんだ」
「普段は部屋間違えることなんてないから、びっくりしちゃったよ。保健委員会の会議から戻ってきたら布団埋まってたし、ここって僕の部屋だよねって何度も名札を確認した」
「冬場はよく行火代わりにされたし、川の字で寝たこともあったな」
「そうそう、寒いからって。でも季節問わずに一番に起きて支度を終えるのはいつも紅蓮だったね。朝が強くて羨ましいと思ってた」
「幼い頃からの習慣だったからな。道場の朝も早かったんだ」
語る想い出話は底を尽きない。
昔を振り返り、語らい合う時間は今までにもあったはずだ。しかし、それを許されるほどの余裕が彼らにはなく、そうこうしているうちに瞬く間に一年が過ぎ去ってしまった。
「上級生にケンカ売ったこともあったな。紅蓮は大人しい奴かと思ってたら、目吊り上げて本気で食い下がっていきやがった」
「あの時は驚いたよ。みんなで立ち向かっていくんだもの。僕と咲之助はそんなことで……って思ってたんだけど」
「咲と伊作のことを小馬鹿にされたんだ。自慢の友達を馬鹿にされて黙っていられる奴がいるか」
「ほんと、無茶ばかりするんだから。でも、嬉しかったよ。僕たちは良い友達に恵まれた」
伊作はすっと目を閉じ、ゆっくりとその瞼を開く。双眼に友の姿を映し、にっこりと微笑んだ。誇らしい気持ちに満たされた表情で。
軽風に揺れる、伊作と留三郎の前髪。
別れの時が近い。それを思い、紅蓮は二人を真っすぐに見つめ返し、口を開いた。
「伊作、留三郎。二人は私にとって掛け替えのない友だ。お節介で、世話焼きで、口うるさくて。兄が二人もいるようで、つい甘えてしまったよ。あの時ここで二人に出逢っていなければ、今の私は恐らくいない。……咲が亡くなった夏、無理にでも私を留三郎の実家に引っ張っていっただろ。嘘を吐いてまで」
四年次に迎えた夏休み。喪に服し、意気消沈とする友人を放っておけずにいた留三郎は「伊作が落ち込み過ぎている。俺一人じゃどうにもできない」と一芝居を打ったことがあった。友人思いの紅蓮ならば、そんな状態の伊作を気に掛けるだろうと。
それが少なからず演技であり、逆に自分を気に掛けたことだと紅蓮は直ぐに気づいた。だが、嘘だと分かっていながらも二人の心遣いには感謝の念しかない。だからこそ、今こうして共にここに立っている。
「……やっぱり、嘘だってバレてた?」
「ああ、バレバレだったよ。でも、あの時の私にはそれで良かった。胸に空いた穴を二人が埋めてくれたこと、感謝しかない」
目を軽く伏せ、ひっそりと笑う紅蓮の胸元をとんっと留三郎が拳で叩いた。二年前と同じく、友を案ずる表情で。
「その穴、まだ埋め切れてねぇだろ。俺らじゃ埋めきれなかった穴だ。だから、いつかその穴を埋めてくれる奴が現れることを願ってる」
「いや、もう十分だよ。これ以上埋めてしまったら咲の居場所がなくなってしまう」
胸の真ん中に紅蓮は拳を当て、目を瞑る。
彼の世に渡った人間のことを誰もが忘れた時、その魂は本当の死を迎える。自分が忘れない限り、想い出と共に友人はここに生き続けるのだと。
目を開けた紅蓮は口元に笑みを浮かべた。
「私は定期的に立ち寄らせてもらう。三郎次に稽古をつける約束もしているからな」
「俺も暇ができたら顔を見せにくる」
「うん。二人とも、達者でね」
伊作は両手を二人に差し出し、それぞれの手を繋いだ。
繋いだ手と顔を見合わせた後、浮かぶ笑顔。
「せーのっ!」
あの人同じ場所に立ち、内と外の境界線を三人で跳び越える。
夕焼け迫る空はどこまでも澄み切っていた。
春景。澄み切った青空がどこまで広がる下、春風が吹いた。
遠くの野から運ばれた花の香が漂い、舞う。
柔らかな暖かい風はまだ幼い子どもの頬を優しく撫でていく。しっかりと結ばれた後ろ髪がさらさらと、その風に揺れた。門の内側から運ばれてきた桜の花びらが足元へ、落ちる。
十になったばかりの子どもは大きな門をじっと見上げ続けていた。その表情は不安げでいて、小さな唇を真一文字に結んでいる。
右手側の柱に掲げられた『忍術学園』と書かれた看板。中からは同じくらいの子どもの声が聞こえる。楽しそうに笑う声が胸に少しだけ響き、きゅっと締め付けた。
「ねえ、入らないの?」
聞こえた声に振り返ると、自分と同じぐらいの背丈をした子どもが二人立っていた。
声を掛けてきた子は飴色に似た豊かな髪を一つに結い、この春風のように柔らかい笑みを携える。が、その顔や着物は土埃に塗れていた。どこかで転んでしまったのだろうかと頭に過る。
もう一人は黒緑の短い髷を結った芯の強そうな顔だ。転んだと思われるその子を肩に支えていた。二人は友達なのだろうか。そう考えていると「こいつ、そこで転んで足ひねったんだよ」と互いに初対面らしいことを知る。
「君も入学生だよね。ぼくたちと同じ」
「ああ」
「どうして門をくぐらないんだ?」
「この門をくぐれば、しばらく帰れなくなるから」
寂しい。怖い。負の感情がこの子の足を地面に縫い付けていた。
この門を潜れば、六年間は帰ることを許されない。亡き母、そして父との約束であった。頭でそれを十二分に理解していても、この足が、あと一歩が進められずにいる。
「こわいのか?」
「……こわい」
声に出して初めて自分の感情が動く。
顕わになった恐怖に怯え、小さな眼が伏せられる。その目元に陰りが差すより先に、紅蓮の前に手が差し出された。
「それなら、三人でいっしょに行こうよ。みんないっしょなら、こわくないよ。ね?」
すっと差し出された右手と迷いのない笑顔。
戸惑いながらも紅蓮はその手を掴み、握り返した。伊作の左側では留三郎が歯を見せて笑う。
この土泥だらけの手をした友人と長い付き合いになることを、まだ三人は知らない。
忍術学園の正門に並ぶ三つの小さな背。
門前と青い空を仰ぎ、境界線を共に跳び越えた六年前の出来事は遠い昔のようでいて、昨日のようだと振り返るのだろう。
「せーのっ!」
多くの仲間、後輩と過ごした日々と共に。
◇◆◇
下段の素早い蹴りが仙蔵の顔面に目掛け、繰り出された。
間一髪、それを両腕で凌ぐも速さを伴った威力に退行を余儀なくされる。その後を、紅蓮が追う。追撃の手を緩めずに正拳突きを二、三発と上段へ。読みやすいその手は難なくと回避される。しかし、かわされることは計画の内。手首を返し、裏拳を打ち込んだ後に紅蓮は敢えて間合いを広く取った。
その間合いをすかさず詰めてきた相手の速さを利用し、肩にとんっと手をついて半宙返りで身体を翻す。背後に着地した後、仙蔵の足を勢いよく払った。長い脚に掬われた仙蔵は体勢を刹那崩すも、直ぐに立て直し十分な距離を一度取る。
組手を始めてから十分ばかりが経つ。互いに息は一つも上がらずにいた。
ようやく身体が温まってきた、という範囲ですらある。
「やるな。とても山賊退治の時にヘマをしたとは思えん」
「刀の扱いが不得手なだけだ。元来、体術の方が性に合う」
「不規則でお前らしからぬ型だな」
合同授業で組手をした際とは違う手応え。紅蓮は小平太のように力押しではないことは確かだが、主軸を置いた型が読めずにいた。
にやりと紅蓮の口元が引き締まる。
「褒め言葉だ。常套手段は相手に見せぬのが私の型」
相手、場、所持忍具に応じて戦闘の型を変える。紅蓮が四年次から身に着けてきたことであった。亡き友の言葉を受け、生き残る術を磨き続けてきた。散った命の分まで生きる為に。
組手で負ける度に欠点を洗い出し、補う。熱心なその姿を見た同級生は「負けず嫌いだ」と口にもした。
『負けず嫌いだよね、紅蓮。そこが良い所だ』
友の言葉、屈託のないあの笑顔が紅蓮の背中を押す。
「知らなかったのか? は組一の負けず嫌いなんだよ、私は」
紅蓮が一気に間合いを詰める。瞬風の如く、相手の懐に潜り込む。そう見せかけ、深く曲げた脚をばねにして高く跳び上がった。そして素早く地面に着地、仙蔵の背面目掛けて回し蹴りを叩き込む。飛び込み前転回避でそれをかわした仙蔵が短い舌打ちを鳴らした。打撃よりも蹴撃に重きを置くか、と読めば次には掌底が顔を掠める。玉が転がるように型を変える。一手先が読めずにいた。
仙蔵の長い脚の前蹴り上げが紅蓮の鼻先を掠めた。軽い身のこなしで連撃を受け流し、膝蹴りを両腕の手甲で受け止める。
まだまだ。内に静かなる火を灯した二人は互いに余裕の笑みを零した。
勢いを増した流水の如く、流れる連撃。
紅蓮の上段蹴りが繰り出される度、伊助は心の中で歓声を上げていた。
卒業式典を終え、送別会の準備も順調に進む中で伊助は忘れ物を思い出したのだ。忍たま長屋の自室に取りに来てみれば、一年長屋の庭で卒業生二人が組手を行っているではないか。
成り行きはとんとわからずにいたが、とても声を掛けられる状況ではない。それだけは察した伊助は手近な柱に小さな身体を隠し、息を顰めて行く末を見守っていた。
不意を突いてからの袈裟蹴り。紅蓮の足裏を掴み、動きを止める。捻るように横へ投げ飛ばすも、宙で身体を捻った紅蓮はしなやかな身のこなしで地面へと着地した。まるで猫のようだと伊助は目を見開く。
息をつく間もなく、一寸先で二人はまた攻防戦を繰り広げる。
この組手を観戦する伊助は嘆声をつくばかり。これが最上級生の組手かと目が釘付けになっていた。
どちらが勝つのか。いや、勝ってほしい相手は言うまでもなく委員会の先輩である紅蓮だ。声援の一つでも送りたい気持ちもあるのだが、それを許される雰囲気ではない。固唾を呑んで見守るしかないのだ。
静かにそよぐ風が桜花を揺らす。
この場に聞こえるのは砂地を踏みしめる音、絶えず繰り出される打撃、蹴撃の音。互いに一歩も譲らない攻防戦は一層緊迫した空気に包まれていた。
呼吸すら阻まれてしまいそうなほど、伊助の手には汗が握られる。そのせいで、僅差気づくことに遅れてしまった。
ひゅーっと風を切る音。空の彼方からそれは聞こえた。
白い球体が忍たま忍たま長屋目掛け、有り得ない球速でそれは飛んでくる。それがバレーボールだと伊助の目が捉えた時にはもう、頭上の屋根に衝突した。
雷が落ちたような音を立て、木造の屋根を貫通。まるで石火矢の砲弾並の威力である。空を飛んできた白い砲弾は伊助のすぐ後方の床板にめり込み――縁の下まで――深く埋まった。
伊助は悲鳴を上げ、柱に縋りついた。誰が打ったかこの白い砲弾。直撃はなんとか免れた。しかし、一難去ってまた一難。
ぎしりと嫌な、軋む音が頭上から聞こえた。ぽっかりと穴が空いた天井の屋根が柱もろ共崩壊し、落ちてきた。
足が竦み、動くことができずにいた伊助は咄嗟に頭を抱え、降り注ぐであろう衝撃に備える。屋根の崩れる耳をつんざくような音がした。
だが、一向に痛みも衝撃もこない。あれだけ派手に瓦礫の崩れる音がしたというのにだ。身体に痛みは全く感じられず、むしろ温かい腕に包まれている感覚が妙であった。
恐る恐る、伊助は目を開けた。その目に映ったのは松葉色。
一体何が起きたのか。頭が理解するまでに少々の時間を費やしたが、自分の危機を救ってくれたのは間違いなくこの腕の持ち主であることだけはわかった。紅蓮が伊助の頭を守るようして抱え込んでいた。
「伊助、怪我はないか」腕の力を緩めた紅蓮は柔らかい声でそう訊いた。
組手をこっそりと見ていた伊助の気配に二人はとうに気がついていたのだ。忍具の使用がない組手であれば、被害を被ることもない。紅蓮にとっては後輩が見ている手前、負けるわけに益々いかなくなる。気合を満ちたその矢先の出来事だった。
恐らくは同級生が放ったバレーボール。それによって崩壊しようとする屋根。降り注ぐ瓦礫から伊助を守るべく紅蓮は地面を蹴り上げた。
硬直して身動きが取れない伊助に向かい、飛び込む。庇い抱えるがも勢いは衰えを知らない。咄嗟に背を反対側へ向け、部屋の戸を突き破ったところでようやく動きを止めた。
突き破った戸は真っ二つになり、破片がばらばらと室内に散らばった。
伊助が振り返って戸口の方を見れば、屋根の瓦礫が乱雑に積み上がっている。数秒前までそこに自分が立っていたのかと思うと、末恐ろしくて身が竦み、震えてしまった。
ところで、身体の痛みは全くなかった。衝撃も何もかも全てを代わりに引き受けてくれたことに、伊助の目が潤みだした。
紅蓮は眉を顰め、心配そうに後輩へもう一度呼びかける。
「伊助」
「だい、だいじょうぶです。でも、でも先輩が」
声を聞いた紅蓮は胸を撫でおろし、伊助の頭を撫でながら笑みを浮かべた。
「そうか。怪我がないなら良かった。私のことなら心配は要らない。……まあ、お前と黒木の部屋が大変なことになってしまったけど」
「そんなこと、そんなことはどうだっていいんです! 部屋は片付けて綺麗に掃除すればいいだけですから! ……一体何が起きたんですか」
「犯人の目星はついている。二人とも無事か?」
図らずも開放的になった戸口から仙蔵が姿を現した。小脇にバレーボールが抱えられている。瞬間的に捉えた憶測がここで決定打となる。あれだけの勢いをつけた打球を放つことができるのは、一人しかいない。
「暇を持て余した小平太と長次がバレーでもしていたのだろう。直撃せずに済んだのが幸いだぞ伊助」
「小平太のいけどんアタックは石火矢並の威力だからな」
「あんなの直撃したら気絶じゃすみませんよ~!」
涙目で「冗談じゃない」と訴える伊助の頭を紅蓮がぽんぽんと叩く。半笑いで「本当に当たらなくて良かった」と。
「伊助が無事だったことは良しとして。紅蓮、この勝負は私の勝ちだ。場を離れたこと及びその状態で試合は続行不可とみなす」
「なっ! そんなのありですか⁉」
声を荒げたのは伊助であった。よろよろと立ち上がり、仙蔵の方に向かい必死に抗議の声を上げる。
一方、勝敗の審判に不服を申し立てない紅蓮はすんなりとそれを受け入れていた。伊助を庇った際に怪我を身体中のあちこちに負ってしまったのだ。目立つ創傷が顕わになっていないことが救いでもあった。袖の下でずきずきと傷む右腕は擦過傷。左上腕部はじわじわとした痛みを感じる。この感じは挫創か打撲だろう。
「葉月先輩は不測の事態に応じただけじゃないですか!」
「伊助。致し方あるまい。……で、望みはなんだ。作法委員会委員長が無条件で勝負をけし掛けてきたわけでもあるまい」
「なんだ、読まれておったか。勝敗がついてから明かそうと思っていたのだが。まあ、この際良い。紅蓮、私と共に来い」
「は?」
まず条件を先に提示しないことが狡い。敗北した相手に拒否権はないと踏んでのことであろう。それは読んでいた紅蓮であったが、唐突に予測もしていない条件を提示され、呆けた表情と言葉を返した。
バレーボールをくるくると指先で器用に回転させる仙蔵に苛立ちすら覚えそうにもなる。
「どうせフリーの忍者として動くのならば、組んで動いた方が互いによかろう」
「何を企んでいる」
「理由は前述の通りだが」
鷹の様に睨む紅蓮に対し、仙蔵は涼しい顔で笑う。それ以外、他意はないとでも言いたそうに。
間もなく、紅蓮は短い溜息を吐いた。朽ちた引き戸の残骸を避け、ゆっくりと立ち上がる。ずきりと痛みを訴えた左腕に目をやりながらも、袴についた木くずを払い落した。
「わかった。その要求を呑もう」
「先輩っ!」
「撤回は認めんぞ」
「ああ、男に二言はない。その代わり、不戦勝という不名誉をお前にくれてやる」
「……お前、私に対して当たりが強くないか」
「誰のせいだ、誰の」
そもそもの話、付き纏うような行動を見せたお前が悪い。ジト目で紅蓮は仙蔵を再度睨み返した。その視線をついと受け流した仙蔵は「明日の正午、峠の茶屋で待つ」とだけ言い残し立ち去ってしまった。
さておき、この展開には思わず紅蓮も頭を抱えたくなるというもの。片手で額を覆うその仕草に伊助も眉を下げた。
紅蓮は元より、諸国を放浪するつもりであった。忍びとして生きるにしろ、各国の情勢を知るべく情報を先ずは集めようという算段だった。これも各城に就職を果たした友人たちと敵対しない為。早速出鼻をくじかれてしまった。
「先輩」と不安げな声を出す後輩に、紅蓮は笑い返した
「心配するな、伊助」
「……はい。でも、そもそもなんで立花先輩と勝負してたんですか」
「私は乗り気じゃなかったんだが、仙蔵に三郎次の悪口を言われてしまってな。ついカッとなってしまったよ」
「先輩でもそんなことがあるんですね。意外です」
滅多なことでは感情を爆発させることがない。伊助の目に葉月紅蓮という先輩はそう映っていた。
「それよりも、用があって忍たま長屋へ来たのだろう?」
「あっ、はい。忘れ物を取りに来たんです」
「そうか。……この状態で探せるか?」
改めて二人は室内を見渡した。文机、私物に被害は及んでいない。元より片付いている部屋で、伊助の綺麗好きも垣間見える。大きな損害は何よりもこの引き戸だ。
「破片だけでも拾い集めておくか。ここは私に任せて伊助は戻るといい」
「僕もやります。自分の部屋なんだし」
「破片が刺さっては大変だぞ。それに、破壊したのは私のようなものだ。修補は頼んでおくから、送別会の準備を頼むよ。楽しみにしているんだ」
木片を拾い上げようとする伊助の手を制し、やんわりと笑いながら紅蓮はそう伝える。
それに対し伊助は後ろ髪を引かれながらも、押し入れから忘れ物を取り出して「あと少しで準備が終わるので、もうちょっと待っててください!」と慌ただしく長屋を後にした。
◇
医務室へ向かう紅蓮の足取りは鉛の様に重いものであった。
破壊され、荒れた忍たま長屋の一室を粗方片付けた後に怪我の手当てをするべく赴いたのだが。両腕の状態を先程ちらりと確認するものの、目を背けたくなるほど酷い有様であった。これをもし同級生の目に触れたとなれば。笑顔の後に般若面が間違いなく現れる。「卒業式だっていうのに、なんでそんな怪我をしているんだい」と。長年の付き合いゆえ想像は容易いものであった。
いや、まだその展開を考えるのは時期尚早。医務室にはいないかもしれない。そう願い、紅蓮は医務室の戸を静かに引いた。
「あれ、紅蓮。どうしたんだい」
「いた」
思わず心の声が漏れ出た。それが伊作の不信感を煽ることとなってしまう。
相手に怪訝そうな表情をさせるも、気づかないふりをして紅蓮は話を振る。反射的に右腕を庇うような仕草を見せてしまったのが敗因となることも知らずに。
「伊作、荷物はもう纏め終わったのか」
「うん。さっきね。まあ、荷物といっても忍たま長屋から教員長屋の方に移るだけだからそんなに。送別会までまだ時間もあるし、医務室の整理でもしようと思って」
「そうか」
「それで、その右腕は? 擦り傷かな」
右袖に隠れた擦過傷を瞬時に見破った伊作。これにはぐうの音も出ない。
ただただにこやかに笑うその顔を直視できず、紅蓮は視線を横へ逸らした。一筋の冷や汗が背を伝う。
「……千里眼でも持ってるのか、伊作」
「何年一緒にいると思ってるんだい。紅蓮の癖ですぐわかるよ。ほら、手当てするからここに座って」
「伊作には敵わないな」
ぼそりと呟きながらも紅蓮は医務室の中央に胡座をかいた。
六年間、幾度となくこのやり取りをしてきた。
伊作は小さな棘一つすら見逃さない。病人、怪我人を気遣う心は「忍者に向いてないよ」とお節介な曲者にまで言われる程。
但し、友人の無茶には菩薩顔では居ない。時と場合によっては烈火の如く怒りを顕わにした。それもこれも友を思うが為。口を酸っぱくして言われ続けてきた言葉も暫くは聞けなくなる。そう考えた途端、物寂しい気持ちが表に出てきた。
傷薬、包帯を準備すると伊作は紅蓮の前に座った。
渋々と捲られた右袖に隠れていた前腕を見るや否やその顔が険しいものに変わる。広範囲に擦れた傷、表皮が剥けて鮮血が滲み出ていた。
呆れた溜息が伊作の口から漏れる。
「何してきたんだい。小平太といけどんバレーでもしてきたの」
「当たらずとも遠からず、だ」
勘も鋭い。掠った答えの経緯を紅蓮がそこで話し始めようとした時である。
医務室の戸がすぱんと勢いよく開け放たれ、鬼の形相をした留三郎が声を大にして荒げた。
「うおおおい紅蓮! なんで忍たま一年長屋の屋根がぶっ壊れてんだ!」
「ああ、留三郎。丁度良かった、探していたんだ。そういうわけで、修補を頼む。あのままでは伊助と黒木の部屋が風通し良すぎて困るんだ」
「いや、だからなんで破壊されてんのか聞きたいんだよこっちは!」
「今から話す。少し落ち着け」
「とりあえず中に入って戸を閉めてくれないか留三郎。これじゃあ会話が筒抜けだ」
級友二人に宥められ、促された留三郎は昂る怒りを何とか鎮め、ゆっくりと戸を後ろ手で閉めた。
そして伊作と紅蓮の顔が見える位置に腰をドカリと下ろす。落ち着いたこれで「話してもらおうか」と両腕を身体の前で組みながら紅蓮の顔を見た。
紅蓮は経緯を簡単に纏め、二人に説明をした。
忍たま一年長屋に纏わる怪異の真相、売られた喧嘩のこと、そこへ突如現れた白い砲弾。伊助を庇ったこと、勝負の行方も全て、包み隠さずに二人に語った。伊作の手は傷を手当てするべく堪えず動かされている。
紅蓮の話に両者は時々相槌を打ちながら、黙ってその話に耳を傾けていた。その最中、紅蓮は左腕を膝に預けるように置いたまま、動かそうとしない。それが伊作の目に留まっているとも知らず。
「……というわけで、私たちが壊したわけじゃない。小平太のいけどんアタックが飛んできたせいだ」
同時刻、外にいた留三郎は轟音を聞いた際に「敵襲か⁉」と思ったほどだ。音を聞きつけ、駆け付けた場所は一年の忍たま長屋。そこは酷い有様だった。
廊下は著しく陥没しており、屋根は抜け落ち、さらには一室の引き戸が完全に破壊されていた。この様を見た留三郎は暫し言葉を失ったとも話す。破片を集めていた紅蓮とはそこで鉢合わせにはならず、近くを歩いていた仙蔵に聞けば「紅蓮が何か知っているかもしれんぞ」とだけ。紅蓮を探して行き着いたのが医務室というわけであった。
真犯人が小平太だと知った留三郎は顔を引き攣らせ、やり場のない怒りを抑える為か片手で顔を覆った。大きな溜息がその口から漏れる。
「……修補は引き受けるが、なんで卒業式の日にまで」
「巻き込まれ不運の名は伊達じゃないな、留三郎。それはそうと、すまなかった」
「俺たちの仲だ、今さら気にすることでもないだろ。引き戸はすぐ直せるが、屋根と廊下は時間がかかる。それは作兵衛に引き継いでいく。にしてもだ、お前が仙蔵の喧嘩を買うとはな。紅蓮は後輩に対して見境がなさすぎる」
「仕方がないだろ。腹が立ったんだ」
「血の気が多いんだから、まったくもう」
そう言いながら伊作は二人の顔を交互に見た。その視線に気がついた紅蓮が「私は留三郎ほど熱血ではない」と些か不満げに口を曲げる。どちらも似た様なものだと伊作は心の中で笑った。面倒見がよく、放っておけない性格なのは自分もだと。
腕にしっかりと巻かれた包帯はきつすぎず、緩くもない。袖を下ろせば完全に隠れるので、傍から見てもわからない。後は負った怪我を後輩たちに勘付かれなければ問題はなさそうだ。
ふと、伊作の視線が気になった紅蓮は横へついと目を何気なく逸らした。
「で、不戦勝を相手に叩きつけたのはいいが、仙蔵と組むことになったのか」
「ああ」
「物凄く嫌そうな顔だね」
「馬が合うと思うか? どうして私に執着するのかわからん」
忌々しげに紅蓮が吐息をつく。その傍らで伊作と留三郎は顔を見合わせ、どうしようもないやつだと半笑いを浮かべた。
――色恋沙汰に疎い奴だからな。自分の事には特に。
――そうだね。今までに何人のくノ一教室の子たちを知らずに泣かせたことやら。
ひそりと矢羽音を飛ばすも、自分たちが使う矢羽音は紅蓮も容易く聞き取ることができる。勿論聞こえていたのだが、肝心の最初の言葉を聞き流してしまったようで、誰かが泣かせたという部分しか受け取れずにいた。
「誰が泣かせたって?」
「いや、なんでも。俺はどっちかというと、お前らが恋仲になると思ってたんだがな」
留三郎がにっと白い歯を見せて笑った。
これには伊作も紅蓮ぽかんと呆気にとられてしまう。手当てを受けた側の手で頬杖をつき、動揺の欠片すら見せずに紅蓮は口を開いた。
「伊作は口うるさい兄みたいなものだよ。そういう感情は持ったことがない」
「そうそう。紅蓮は手のかかる妹みたいなものだから。ね?」
言うが早いか、伊作は素早く紅蓮の左手首を掴んだ。刹那、紅蓮の顔が歪む。
鈍痛。腫れた痛みが左上腕を襲う。
「いっ……何をする」
「腕、というか上腕怪我してるんだろ」
「う」
「診せなさい」
「……はい」
この強い口調には逆らえない。これも昔から知ること。
紅蓮は大人しく、そしてまたも渋々といった様子で学年装束を肩から脱ぐ。肩から上腕部にかけて赤黒くなった患部。顕わになった痛々しいそれに「うわ」と声を揃えたのは紅蓮と留三郎の二人。ここまで悪化しているとは本人も思っていなかった。
「仙蔵にやられたのか」と訊けば「伊助を助けた時のものだ」と紅蓮は返す。
それはさておき、伊作の眉間の皺がより一層深くなっていた。
湿布薬の準備をすると言い、やおら立ち上がる伊作。薬棚の引き出しを開け、軟膏や布を取り出しているその背を二人はぼんやりと眺めていた。
「隠そうとした怪我を昔はよく伊作が目聡く見つけてたよな」
ぽつり、留三郎が口を開く。
「千里眼の持ち主なんだよ、伊作は」
「二年の時だったか。裏裏裏山まで授業で走り込んだ時、肩痛めたのも伊作に見抜かれた。ある時は小さな棘が刺さったまま授業受けていたら、鐘が鳴ったと同時に棘抜きと消毒薬を持ってきた」
「救急箱をいつも持ち歩いてたな。おかげで私たちは健やかに成長したというわけだ」
「立派な瘡蓋の役目を果たしてくれたよ」
昔の出来事が次々と二人の頭に浮かぶのはやはり今日という日だからだろうか。
感傷に耽るのは柄にもない。そう思っていた留三郎の表情もほんの僅か、寂しげな色を浮かべた。
伊作は布にオウバクを配合した軟膏薬を塗り、無駄のない手つきで患部を覆う。その上から包帯をくるくると巻いていった。
医務室は最早馴染みがありすぎた。消毒液のツンとした独特な匂い。予算を工面して作られた包帯。基本を守り、改良を重ねた薬の数々。薬草を摘み、擦り潰す手伝いもした。
六年間、数えきれない程世話になったこの場所。見慣れたこの光景もこれで最後か。感慨深く、切ない思いが紅蓮の胸にひたひたと沁みていく。
浮かない顔をした紅蓮と留三郎の心情を察したのか、包帯の端を結び終えた伊作は二人に柔らかく微笑んでみせた。
「いつでも遊びにおいで」
口うるさくも優しい友人。くだらないことで数多のケンカもした。試験の点数も競い合った。
共に学び、笑い、泣いた六年間。「は組で良かったのか」と今訊かれたならばこう答えるだろう。
最高の組だったと。
心の内で紅蓮は問いに答え、装束に袖を通した。
◇
忍術学園の正門を照らす夕陽。
まだ少し肌寒さを含んだ春風が吹き抜けた。
あと数日も経てば、桜の花びらを遠くの地まで運ぶようになる。
学園の外に通じる正門を見上げる一人の忍たまがいた。
高い位置で結われた後ろ髪。柔らかい風がその髪を静かに揺らす。
年は齢十五。この学園を本日卒業した生徒である。名を葉月紅蓮と言う。
紅蓮の横顔に満ちるのは六年間の想い出。耳を澄ませばあの頃の笑い声が聞こえてくる。
そこへ足音が一つ、二つと紅蓮の耳に届いた。
夕陽に照らされて伸びた影が三つ、正門の前に並ぶ。六年前と同じ並びで。
「なんか懐かしいな。あんなに大きく見えていた門なのに」
「それだけ俺たちがでかくなったんだよ」
六年の間に伸びた背。共に少しずつ変化していく視界に違和感を覚えることはなかった。こうして改めて言われなければ存外気づかないものだと。
それぞれ夢を抱き、この門を潜った。中でも幼き背に背負っていた荷を一つ、紅蓮は先日下ろすこととなった。
昨夜、文机に向かい一通の文を認めた。年に一度だけ許される実家とのやり取りである。真面目に筆を走らせていたのを見掛けた留三郎は「まさか恋文か」と揶揄。その返事は素っ気ないもので「実家宛てだ」と真顔の表情。つまらない奴だと笑えば、筆を硯に置いた紅蓮が「恋文は送る相手も、書き方もわからんよ」と静かに笑い返した。
「そういや、あの文はもう出したのか」
「あれは馬借便に頼んだよ。これで一つ憂いは晴れた」
紅蓮は道場を継がない決心を固めた。実家には戻らない。即ち、跡継ぎから離脱することを文に認めた。
「それがお前の決めた道というのならば俺たちがとやかく言いはしない。けど、いつでも頼れよ。友達なんだから」
留三郎は紅蓮の頭に手をぽんと置き、髪をくしゃりと撫でた。
後輩に接するような態度を昔はよく取っていた。それこそ、兄が弟を可愛がるようにだ。紅蓮も嫌な気はしていなかった。一人っ子ゆえに、兄のような存在をどこかで求めていたからかもしれない。
久方ぶりにやられたこれに対し、やや複雑そうな表情で留三郎を睨みつける。
「あんなに小さくて、門見上げながら泣きそうになってた奴がこんなに大きくなっちまったな」
「……同級生に掛ける言葉じゃないだろ、それ。泣いてなどいない。背だって私の方が高かったこともある」
「どっちが背高いかケンカしたこともあったねぇ、そういえば」
「直ぐに追い越してやったけどな。そういやその頃、お前寝惚けて俺たちの部屋に入ってきて伊作の寝床取ったことあったな」
「ああ、厠から戻って来た時に寝惚けて完全に気が緩んでいた。布団の数が多いとはぼんやり思っていたんだ」
「普段は部屋間違えることなんてないから、びっくりしちゃったよ。保健委員会の会議から戻ってきたら布団埋まってたし、ここって僕の部屋だよねって何度も名札を確認した」
「冬場はよく行火代わりにされたし、川の字で寝たこともあったな」
「そうそう、寒いからって。でも季節問わずに一番に起きて支度を終えるのはいつも紅蓮だったね。朝が強くて羨ましいと思ってた」
「幼い頃からの習慣だったからな。道場の朝も早かったんだ」
語る想い出話は底を尽きない。
昔を振り返り、語らい合う時間は今までにもあったはずだ。しかし、それを許されるほどの余裕が彼らにはなく、そうこうしているうちに瞬く間に一年が過ぎ去ってしまった。
「上級生にケンカ売ったこともあったな。紅蓮は大人しい奴かと思ってたら、目吊り上げて本気で食い下がっていきやがった」
「あの時は驚いたよ。みんなで立ち向かっていくんだもの。僕と咲之助はそんなことで……って思ってたんだけど」
「咲と伊作のことを小馬鹿にされたんだ。自慢の友達を馬鹿にされて黙っていられる奴がいるか」
「ほんと、無茶ばかりするんだから。でも、嬉しかったよ。僕たちは良い友達に恵まれた」
伊作はすっと目を閉じ、ゆっくりとその瞼を開く。双眼に友の姿を映し、にっこりと微笑んだ。誇らしい気持ちに満たされた表情で。
軽風に揺れる、伊作と留三郎の前髪。
別れの時が近い。それを思い、紅蓮は二人を真っすぐに見つめ返し、口を開いた。
「伊作、留三郎。二人は私にとって掛け替えのない友だ。お節介で、世話焼きで、口うるさくて。兄が二人もいるようで、つい甘えてしまったよ。あの時ここで二人に出逢っていなければ、今の私は恐らくいない。……咲が亡くなった夏、無理にでも私を留三郎の実家に引っ張っていっただろ。嘘を吐いてまで」
四年次に迎えた夏休み。喪に服し、意気消沈とする友人を放っておけずにいた留三郎は「伊作が落ち込み過ぎている。俺一人じゃどうにもできない」と一芝居を打ったことがあった。友人思いの紅蓮ならば、そんな状態の伊作を気に掛けるだろうと。
それが少なからず演技であり、逆に自分を気に掛けたことだと紅蓮は直ぐに気づいた。だが、嘘だと分かっていながらも二人の心遣いには感謝の念しかない。だからこそ、今こうして共にここに立っている。
「……やっぱり、嘘だってバレてた?」
「ああ、バレバレだったよ。でも、あの時の私にはそれで良かった。胸に空いた穴を二人が埋めてくれたこと、感謝しかない」
目を軽く伏せ、ひっそりと笑う紅蓮の胸元をとんっと留三郎が拳で叩いた。二年前と同じく、友を案ずる表情で。
「その穴、まだ埋め切れてねぇだろ。俺らじゃ埋めきれなかった穴だ。だから、いつかその穴を埋めてくれる奴が現れることを願ってる」
「いや、もう十分だよ。これ以上埋めてしまったら咲の居場所がなくなってしまう」
胸の真ん中に紅蓮は拳を当て、目を瞑る。
彼の世に渡った人間のことを誰もが忘れた時、その魂は本当の死を迎える。自分が忘れない限り、想い出と共に友人はここに生き続けるのだと。
目を開けた紅蓮は口元に笑みを浮かべた。
「私は定期的に立ち寄らせてもらう。三郎次に稽古をつける約束もしているからな」
「俺も暇ができたら顔を見せにくる」
「うん。二人とも、達者でね」
伊作は両手を二人に差し出し、それぞれの手を繋いだ。
繋いだ手と顔を見合わせた後、浮かぶ笑顔。
「せーのっ!」
あの人同じ場所に立ち、内と外の境界線を三人で跳び越える。
夕焼け迫る空はどこまでも澄み切っていた。