番外編
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一番美味しい定食
六年忍たま長屋の「葉月」と書かれた札が下がる部屋。
羽丹羽石人、池田三郎次の両者がここに訪れた時。室内は既に険悪な空気で満ちていた。
「上級生の長屋に足を踏み入れるのはなんだか緊張しますね」そう口にしながら、周囲を忙しなくキョロキョロと見渡した石人。それはからくりの首振り人形の様であった。
先を歩く三郎次はというと、その足取りは慣れたもの。落ち着き払った表情で長屋の廊下を歩んだ。火薬委員会の連絡等で委員長である紅蓮の部屋を訪れることも少なくないのだ。
今日も顧問からの言伝を頼まれ、それを委員長に伝えに来た。
何やら部屋の中から感じる不穏な気配。妙だと違和感を抱きつつも「失礼します」と普段通りに戸を引いた。
そして話は冒頭に繋がる。
紅蓮の部屋には三人の六年生がいた。
この部屋の主である葉月紅蓮、隣部屋の食満留三郎が中央で睨み据えている。そのやや後方で笑顔を引き攣らせた困り顔の善法寺伊作が胡坐をかいていた。
「留三郎、お前は何もわかっていない」
「紅蓮。お前こそわかっちゃいない」
二人の口調は穏やかでいて、どこか尖っている。静かな物言いが余計にそれを思わせた。
眉を吊り上げ、互いの眼を鋭く睨む。一歩たりとも意見は譲らない。そんな意思が瞳に宿っていた。
「……伊作先輩。お二人はどうなされたんですか。何か言い争いをしているようですが」
伊作にそう訊ねた石人はこの二人の険悪な雰囲気に耐え切れず、思わず三郎次の肩に身を隠しそうになった。どちらかと言えば穏やかな部類に属す自分の先輩がこうなのだ。驚いてしまうのも無理はない。
「いやー。ちょっとね。実は、食堂のメニューで一番美味しいのは何かって話になって」
「食堂で一番美味いのは肉じゃが定食だ」
「いいや、鯖味噌煮定食だ」
「……と言うわけなんだよ」
一触即発にも似た険悪な雰囲気の理由。
それは「食堂のおばちゃんが提供する料理で一番美味いのはどれか」というものであった。
理由を訊いた二人もこれには思わず拍子抜け。三郎次はがくっと肩を落とし、石人は大きな黒目を更に丸くてぱちぱちと瞬きを繰り返した。もっと深刻で、重大な意見の食い違いかと頭の片隅で思っていたのだ。
食堂のおばちゃんが作る料理はどれも絶品だ。
揚げ出し豆腐は噛めば出汁がじゅわっと溢れ出し、熱々の豆腐を舌の上で転がしながら食べるのが最高だ。野菜の煮物は味がしっかりと染み込んでおり、甘い人参としみしみの大根はこの上なく美味しい。カレーライスは刺激的なピリッとした辛さが癖になる。香辛料の組み合わせでまた一味違うものになると聞く南蛮料理だ。
「肉じゃがは芋の原型を保つのがこの上なく難しい。煮込めば味は染みるがどろどろに溶ける上、肉も石のように固くなる。だが、食堂のおばちゃんは芋の形を箸で摘まめるほどしっかりと残せる。口に入れた途端にほろほろと溶ける芋の食感は最高だ。素材に染み込んだ醤油の味、軟らかい肉。これ以上に美味いものは食べたことがない」
「確かにおばちゃんが作る肉じゃが定食は美味い。だがな、紅蓮。鯖の味噌煮定食こそ至高の一品だ。箸を入れた瞬間に解れる鯖の身、甘辛い味噌ダレに絡めて食べると最高に美味い。風味がたっぷりとある味噌ダレを作る技術は素晴らしいとしか言いようがない。米とも相性抜群だ」
ごくりと二年生二人の喉が鳴った。
この通り、食堂のおばちゃんが作る料理はどれもこれも美味しいのだ。甲乙付け難い。二人の品評を聞いているだけでお腹が空いてくるというもの。
否否、今はそれどこれはない。言い争う二人を止めなくては。
「私、忍術学園に来てからは食堂でご飯を食べるのを毎日楽しみにしています。どのお料理も美味しくて。先輩方の好みはあると思いますが、でも、そんな些細なことでケンカするなんて」
「前に滝夜叉丸先輩と田村先輩が目玉焼きか玉子焼きかで揉めた話も聞いたことあるし、食で譲れないことは誰にでもあるんじゃないのか」
あれはいつの話だったか。馬が合わないと思われていた平滝夜叉丸と田村三木ヱ門。この二人が些細なきっかけで息がぴったりと合ったことがあった。互いに協力し、切磋琢磨できる関係になるのかと思いきや、直ぐにそれは決裂。先程述べた玉子料理のことが原因でだ。
ところで、三郎次はこのケンカを完全に傍観する姿勢を見せていた。仕様もないことで争う最上級生に呆れたという様子ではない。その先の末を見たいという気持ちを強く抱いていた。
しかし、石人は真逆でこの二人を止めたいと思っている。このままケンカが激化したとなれば、軽い怪我では済まないだろう。それなのにだ、どうして三郎次も伊作も止めないのか。石人の頭は疑問で溢れていた。
不意に留三郎が「三郎次!」と声を張り上げて、二人の方をキッと睨みつけた。凛々しい眉も目もこれでもかと吊り上げ、まさに怒りそのものが貼り付いた顔だ。
例え言い争いの最中でも、二つの気配が増えたことには気づいていたようだ。
だが、留三郎が後輩に話を振ったのを懸念と捉えた紅蓮の目が僅か、細められた。話の相手はこの自分だ。後輩を巻き込もうとするのは許すまじ言動。
どうやら冷静さを保っているのは紅蓮の方であった。
「お前はどっちが美味いと思う!」
「はい食満先輩! 僕はステーキ定食、若しくはからあげ定食が一番美味しいと思います!」
「三郎次ー! 火に油を注ぐどころか、火薬を降り注がないでください!」
「お、上手いな石人。火薬委員会なだけに油じゃなくて火薬だなんて」
にぃっと笑う三郎次の無垢な顔。さながらいたずらっ子のようで、このケンカを楽しんでいるようだと石人の目に映る。
引火寸前の火薬壺を前にして、更に追い火薬をするなんて。しかも火種を添えてだ。日頃、火気厳禁の焔硝蔵を管理する火薬委員会がそれでいいのか。
そこへあたふたと慌てふためく石人に更なる火の粉が降り注いでしまう。
「石人ぉ! お前はどうなんだ!?」
「は、はいぃっ! その、私は……食堂のおばちゃんが作るご飯はどれも美味しくて。甲乙つけられません。全部美味しいってことでは駄目でしょうか」
「甘いっ! 忍者たるもの優柔不断ではならない! 右か左か、天井裏か床下か。身を隠す場を一つに絞らずにどれでも良いと言ってはならん!」
「ご、ごめんなさいいいっ」
蛇に睨まれた蛙。まさにその言葉が打ってつけであった。物凄い剣幕で留三郎に睨まれ、固まってしまう石人。それはもう石のように。
そこで紅蓮が歩み出た。恐ろしい先輩の顔がその眼に映らないよう、縮こまってしまった石人を後ろ手で庇う様にして。紅蓮の眼光は先程よりも鷹の様に鋭く尖っていた。
「おい、留三郎。うちの後輩を巻き込むな。いちゃもんをつけるならば先ず私を通して貰おうか」
紅蓮の口から発せられた声は清流の如く静かであった。しかしそれは二段階ばかり下がった音調でいて、周囲の温度を凍てつかせるぐらい、怖い。
静かなる怒りを秘めた同級生の声色と表情。これには静観していた伊作も流石に「あ、これは不味いかも」と引き攣らせた笑顔に冷や汗を垂らした。
本気でキレる一歩手前である。伊作は紅蓮の癖をよく知っていた。
「正論を言って何が悪い! 大体紅蓮は後輩を甘やかし過ぎなんだよ!」
「留三郎だけには言われたくない」
紅蓮の影に隠れた石人は顔を恐る恐る覗かせながら「お、お二人とも落ち着いて」と声を発するも、両者にその声は届きそうになかった。
六年は組の三人は仲が良いと聞いていた。それが何故、こんな些細なことでいがみ合うのか。同級生の言う通り、食に関することは揉め事が起きやすいのかもしれない。理解出来ないから争いが生まれる。それが世の常か。
ばちばちと火花を散らし、睨み合うこと数秒。
紅蓮は留三郎の目を見据え、徐に口を開いた。
「やるか」
「やらいでか!」
「よし。表に出ろ留三郎」
「望むところだ!」
「あ、二人とも怪我しないようにね!」
「わかってる」息もぴったりに揃えて返ってきた二つの声。
先に外へ出たのは留三郎の方で、その背を見送るまで部屋に留まる紅蓮。
「葉月先輩」といよいよもって涙ぐむ石人は紅蓮を見上げた。ほぼ同時に紅蓮の手のひらが石人の頭をぽんと叩いた。その手からは温もりが感じられ、いつも優しく頭を撫でてくれていた火薬委員長そのもの。
身長に差がある石人からは明確な表情は窺えない。見えた紅蓮の口元には弧を描いた笑み。怒りは微塵も感じられないものに思えた。
石人は目を瞬かせ、呆然と紅蓮の背を目で追いかける。
壁に立て掛けてある六尺棒を右手に掴んだ紅蓮は戸口で一度足を止めた。
そして背を向けたまま「伊作」と声を掛ける。
右手の指を伸ばし――人さし指、中指、小指の三本を――真横を指すように示す。この合図を見た伊作は「うん」と頷き、にこやかな笑顔をその背に返した。その返事を聞いた紅蓮も部屋の外へ出ていった。
この二人が手で暗号を送り、受け取ったことにいち早く気づいたのは三郎次である。ごく短い間に行われたやり取り。彼が「今のは何ですか」と訊ねるよりも先に石人が割って入ってきた。
「お二人を止めないと!」
「大丈夫だって」
「うん。そこまで心配は要らないよ」
「伊作先輩までそんな」
「落ち着けよ、石人。伊作先輩、さっきの一連のやり取りにはワケがあるんですよね?」
紅蓮の後輩は目聡い。
尊敬の念は勿論こと、強い憧れも抱いている。慕うが故に些細な微兆に気づくこともしばしば。もしかすると、紅蓮の秘密も知っているのではなかろうか。いやしかし「葉月先輩って女子なんですか?」とも「気になることがあるんですけど」と訊かれたことはない。それに、紅蓮は卒業するまで他人に自分から明かすつもりは一切ないと話してもいた。その意思が堅いことも伊作は知っていた。
「あのケンカは紅蓮の企てなんだ」
「先輩の?」
「わざわざそんな」
「まあ、落ち着いて。実はここの所、留三郎の機嫌が悪くてね。暫く曲者騒ぎもなかったから戦う機会が減ってしまったせいで」
忍術学園には様々な忍たまが在籍する。武術が得意な者。罠や仕掛けを得意とする者。医術薬学に長けた者。虫遁の術を心得た者。
まさに十人十色。この学び舎でそれぞれ個性を伸ばし、磨きをかけている。
その中でも留三郎、文次郎は武闘派と呼ばれていた。
「平和なのは良いことではないのですか」
「食満先輩は戦う用具委員会委員長と呼ばれるほど戦うことが好きなんだ。三度の飯よりも好きかもしれない。そんな先輩が戦えずにいて、力も有り余ってしまい不満が爆発寸前というわけですね」
「その通り。文次郎は用事でここ数日不在だから、戦う相手がいなくて余計に苛々しちゃってね。そのせいで後輩に恐い顔することが増えてしまった」
それは目に余るほどであったと伊作は話す。
普段は気にも留めない些細なことが気に障るのか、後輩に対しても声を荒げることが多く見られた。幾ら気が立っているからとはいえ、周囲に当たり散らすのは如何なものか。留三郎自身、気にもしていた。委員会の後輩を一番怖がらせてしまったのだ。そんなつもりはなかったと頭を抱える級友、怯える後輩。
これでは何れ悪循環に陥る。何とか早めに手を打たねばなるまいと考えた紅蓮と伊作は一芝居打つ計画を練ることにした。
溜まりに溜まった鬱憤を晴らす機会を設けてやろう、と。
ならば手合わせが一番手っ取り早い。その為にわざと留三郎を怒らせ、頃合いを見計らい手合わせに誘い出す。
「今の留三郎なら些細なことでも乗ってくるだろうからって紅蓮がね」
「だから食堂で一番美味しいメニューは何かで揉めていたんですか? でも、鍛錬に付き合ってほしいと言えば済む話では」
「それだと食満先輩が気を遣われてると感じて素直になれない。そういうことですね、伊作先輩」
「すごいすごい。御名答だよ三郎次」
伊作はパチパチと手を二度打ち、名推理を働かせた三郎次に拍手を送った。
一連の理由を聞いた石人もようやく合点がいった様子である。
「それで五車の術のうちの一つである怒車の術でわざと食満先輩を煽ったということですか。その方が遠慮なく力を出して戦えるから」
「そういうことだよ。途中、紅蓮が本気で怒りそうだったから焦ったけど。なんとか上手くいったみたいだ」
術をかけたこちらが相手の術中に陥ってしまっては元も子もない。危うく作戦通りにいかなくなるところだった。そう伊作は眉尻を下げる。
先程のただならぬ紅蓮の気迫。三郎次もそれを感じ取っていた。空気が一瞬張り詰めたどころか、凍りつきそうになったので、息をひっそりと吞んでいたのだ。
火薬委員会委員長は滅多なことで怒り狂うことはないし、その姿も今までに見たことがなかった。それは後輩に対しての顔なのかもしれない。同級生、同学年の前ではまた違う顔を見せるやも。例えそうだとしても、根底にある優しさは変わらないだろうと三郎次たちは願う。
「葉月先輩が怒ったところ、見たことがありません。私はまだ編入して日が浅いせいもあるんでしょうけど」
「僕もない。伊作先輩、葉月先輩が怒ることってあるんですか? 注意やお叱りは受けることありますけど、感情任せに怒ったところは見たことがないです」
二年生、まして石人はまだ半年にも満たない付き合いだ。知らないのも当然のことであった。
それに比べ伊作は六年もの付き合いがある。自分たちは仕様もないことでよくケンカをして怒り、泣いたものだと記憶を呼び覚ました。
宿題の答えが正しいのは自分だ。背はこっちの方が高い。かけっこで勝ったのはこっちの方だ。残り一枠の定食を取り合って揉めたこともある。
それでも最後には必ず仲直りをした。意地の張り合いになったことも勿論ある。その時はもう一人の友人がよく仲を取り持ってくれたことを伊作はふと思い出した。
紅蓮が感情を顕わにし、怒りを前面に押し出したのはあの時だろう。
二つ上の先輩相手に啖呵を切ったことがあった。伊作と咲之助を小馬鹿にされたと腹を立てたのは先ず紅蓮。それに続き留三郎、小平太、文次郎と次々に加勢。六人で先輩相手に喰ってかかっていったのだ。
一方、伊作自身ともう一人の友人は「そんなことで」と然程気には留めておらず。唖然とその様を見守っていた。
決着がついた頃には皆ボロボロで、傷だらけであった。無茶をした友人たちの手当てを二人で行ったのも懐かしい記憶だ。
『ね、伊作。僕たち良い友達を持ったと思わない? だって、みんな優しすぎるんだもの。特に紅蓮のあんな怒った顔見たことがなかったよ。びっくりしちゃった』
亡き友の笑い声と言葉が耳元に過ぎていく。
咲いた花の色を褪せさせるにはまだ惜しく、忍びない。
「葉月先輩は昔からお優しい方だったんでしょうか」
「僕は落ち着きがあって優しくて、かっこいい人だったんだと思ってる。今もそうだし」
「きっとそうだったんでしょうね。葉月先輩の立ち振る舞いから私もそう感じられます」
伊作が思い出に耽る間、二人は会話を広げていた。
どうやら紅蓮に対する株がだいぶ上がっている様子。これを聞けば困ったように笑いながらも嬉しそうに友は頬を綻ばせるだろう。後輩が紅蓮を慕う様に、紅蓮もまた後輩たちを珠のように可愛がっているのだから。
「石人たちの言う通り、そのまんま成長した感じだよ。情に厚くて、友達思いだ。さっき留三郎が石人に当たりそうになったのを強く咎めていただろう? 紅蓮は自分のことよりも友達や後輩を悪く言われることに怒りを覚えやすい」
それが長所であり、短所でもある。しかし人間誰しもそれらを持ち合わせるものでもある。
紅蓮にとってこれが命取りにならないことを祈るばかりだと伊作は常々思っていた。
「三郎次。我々の先輩はとてもお優しい方なんですね」
「ああ。六年生の中で一番優しくてカッコいい人だよ、葉月先輩は」
今、彼らにとって好印象を与えているのならば。絶対的な信頼を寄せた笑みを前に敢えて自分が水を差す必要もない。それ以上に、伊作は友人のことを信じていた。
「あ、そうだ。伊作先輩。さっきの合図はなんなんですか?」
「ああ、あれは僕たちの暗号だよ。矢羽音でも良かったんだけど、それだと留三郎にも聞こえちゃうから。状況によって微妙に意味合いは変わる。さっきのは「あとは任せろ」って感じかな」
声や音を出せぬ状況下で近くにいる味方に合図を送る手段。予め決めておくことで意思疎通を図ることが出来るのだ。
昔、覚えたての暗号を授業中に送りあっていた。「今日の昼は麻婆豆腐定食と肉野菜炒め定食のどっちにする?」「放課後に新しくできたうどん屋へ行こうぜ」のような他愛のない会話を。今思えば随分と可愛らしいやり取りをしていたものである。
自分たちがなんとも無邪気なやり取りをしていたことをこの後輩たちは知る由もない。ただ、目を輝かせ「六年生かっこいい」と尊敬の念を抱く。これを機に彼らも互いの暗号を決めてやり取りをするのだろう。過去の自分たちと同じ様に。こうして忍たまは先輩の背を見て育っていくのだから。
キィンッ
鈍い金属音が一つ。外から響き、聞こえてきた。
何度も金属同士がぶつかりあい、弾く音。乾いた地面に鋭いものが突き刺さる音もした。
そこに聞こえてきた二人の会話。
「お前とやり合うのは久しぶりだな!」
「ああ、一年ぶりくらいか。留三郎、鉄双節棍の打撃が重くなったな」
「お前こそ、棒手裏剣の腕を益々上げたじゃないか」
「教えてくれた奴が、優秀だったからな!」
声をすれども、戸口から見える範囲では緑色の飛び交う残像しか見えない。下級生二人にとっては動きが速すぎる。残像を目で追うのも厳しいほどだ。
「すごい。これが、最上級生の戦い方なんですね」
「二人とも本当に本気で戦っていらっしゃる」
「でも、なんだか楽しそうです」
聞こえた会話から察するに、険悪な雰囲気は欠片も見られなかった。
互いの腕前を褒め、認める。先程までいがみ合っていたとはとても思えない。どうやら六年は組の二人による企ては成功したようだ。
「僕たちはケンカしても最後は必ず仲直りしてきたからね。今もそうだよ。もう仲直りして、純粋に楽しんでいる」
「なんと言うか、武闘派のご友人を持つと面倒で大変ですね」
「まあ、いつもってわけじゃないから」
「三郎次。お二人のケンカを止めなかったのは理由を知っていたからなんですか?」
「いいや。知らなかった」
石人の問いにはっきりと三郎次がそう答えた。至って真面目な顔をして。
「葉月先輩が本気で戦う所を見てみたかったんだ。だから止めなかった」
「そんな理由だったんですか」
「ああ。石人、もっと近くで見学しよう! こんな機会滅多に見られないぞ!」
「はいっ!」
尊敬する先輩の戦う姿を目に焼き付けたい。純粋なその気持ちを邪魔するつもりはないが、危ないから近づきすぎないようにとだけ伊作は二人に伝えることにした。
拮抗する戦いの最中で垣間見える六年生二人の表情。
紅蓮は鉄双節棍をクナイで受け、弾き返すと同時に六尺棒で払う。
怯むことなく、真横に棍を振り手首を返す留三郎。
青空の下、両者は久方ぶりの手合わせを楽しんでいた。
六年忍たま長屋の「葉月」と書かれた札が下がる部屋。
羽丹羽石人、池田三郎次の両者がここに訪れた時。室内は既に険悪な空気で満ちていた。
「上級生の長屋に足を踏み入れるのはなんだか緊張しますね」そう口にしながら、周囲を忙しなくキョロキョロと見渡した石人。それはからくりの首振り人形の様であった。
先を歩く三郎次はというと、その足取りは慣れたもの。落ち着き払った表情で長屋の廊下を歩んだ。火薬委員会の連絡等で委員長である紅蓮の部屋を訪れることも少なくないのだ。
今日も顧問からの言伝を頼まれ、それを委員長に伝えに来た。
何やら部屋の中から感じる不穏な気配。妙だと違和感を抱きつつも「失礼します」と普段通りに戸を引いた。
そして話は冒頭に繋がる。
紅蓮の部屋には三人の六年生がいた。
この部屋の主である葉月紅蓮、隣部屋の食満留三郎が中央で睨み据えている。そのやや後方で笑顔を引き攣らせた困り顔の善法寺伊作が胡坐をかいていた。
「留三郎、お前は何もわかっていない」
「紅蓮。お前こそわかっちゃいない」
二人の口調は穏やかでいて、どこか尖っている。静かな物言いが余計にそれを思わせた。
眉を吊り上げ、互いの眼を鋭く睨む。一歩たりとも意見は譲らない。そんな意思が瞳に宿っていた。
「……伊作先輩。お二人はどうなされたんですか。何か言い争いをしているようですが」
伊作にそう訊ねた石人はこの二人の険悪な雰囲気に耐え切れず、思わず三郎次の肩に身を隠しそうになった。どちらかと言えば穏やかな部類に属す自分の先輩がこうなのだ。驚いてしまうのも無理はない。
「いやー。ちょっとね。実は、食堂のメニューで一番美味しいのは何かって話になって」
「食堂で一番美味いのは肉じゃが定食だ」
「いいや、鯖味噌煮定食だ」
「……と言うわけなんだよ」
一触即発にも似た険悪な雰囲気の理由。
それは「食堂のおばちゃんが提供する料理で一番美味いのはどれか」というものであった。
理由を訊いた二人もこれには思わず拍子抜け。三郎次はがくっと肩を落とし、石人は大きな黒目を更に丸くてぱちぱちと瞬きを繰り返した。もっと深刻で、重大な意見の食い違いかと頭の片隅で思っていたのだ。
食堂のおばちゃんが作る料理はどれも絶品だ。
揚げ出し豆腐は噛めば出汁がじゅわっと溢れ出し、熱々の豆腐を舌の上で転がしながら食べるのが最高だ。野菜の煮物は味がしっかりと染み込んでおり、甘い人参としみしみの大根はこの上なく美味しい。カレーライスは刺激的なピリッとした辛さが癖になる。香辛料の組み合わせでまた一味違うものになると聞く南蛮料理だ。
「肉じゃがは芋の原型を保つのがこの上なく難しい。煮込めば味は染みるがどろどろに溶ける上、肉も石のように固くなる。だが、食堂のおばちゃんは芋の形を箸で摘まめるほどしっかりと残せる。口に入れた途端にほろほろと溶ける芋の食感は最高だ。素材に染み込んだ醤油の味、軟らかい肉。これ以上に美味いものは食べたことがない」
「確かにおばちゃんが作る肉じゃが定食は美味い。だがな、紅蓮。鯖の味噌煮定食こそ至高の一品だ。箸を入れた瞬間に解れる鯖の身、甘辛い味噌ダレに絡めて食べると最高に美味い。風味がたっぷりとある味噌ダレを作る技術は素晴らしいとしか言いようがない。米とも相性抜群だ」
ごくりと二年生二人の喉が鳴った。
この通り、食堂のおばちゃんが作る料理はどれもこれも美味しいのだ。甲乙付け難い。二人の品評を聞いているだけでお腹が空いてくるというもの。
否否、今はそれどこれはない。言い争う二人を止めなくては。
「私、忍術学園に来てからは食堂でご飯を食べるのを毎日楽しみにしています。どのお料理も美味しくて。先輩方の好みはあると思いますが、でも、そんな些細なことでケンカするなんて」
「前に滝夜叉丸先輩と田村先輩が目玉焼きか玉子焼きかで揉めた話も聞いたことあるし、食で譲れないことは誰にでもあるんじゃないのか」
あれはいつの話だったか。馬が合わないと思われていた平滝夜叉丸と田村三木ヱ門。この二人が些細なきっかけで息がぴったりと合ったことがあった。互いに協力し、切磋琢磨できる関係になるのかと思いきや、直ぐにそれは決裂。先程述べた玉子料理のことが原因でだ。
ところで、三郎次はこのケンカを完全に傍観する姿勢を見せていた。仕様もないことで争う最上級生に呆れたという様子ではない。その先の末を見たいという気持ちを強く抱いていた。
しかし、石人は真逆でこの二人を止めたいと思っている。このままケンカが激化したとなれば、軽い怪我では済まないだろう。それなのにだ、どうして三郎次も伊作も止めないのか。石人の頭は疑問で溢れていた。
不意に留三郎が「三郎次!」と声を張り上げて、二人の方をキッと睨みつけた。凛々しい眉も目もこれでもかと吊り上げ、まさに怒りそのものが貼り付いた顔だ。
例え言い争いの最中でも、二つの気配が増えたことには気づいていたようだ。
だが、留三郎が後輩に話を振ったのを懸念と捉えた紅蓮の目が僅か、細められた。話の相手はこの自分だ。後輩を巻き込もうとするのは許すまじ言動。
どうやら冷静さを保っているのは紅蓮の方であった。
「お前はどっちが美味いと思う!」
「はい食満先輩! 僕はステーキ定食、若しくはからあげ定食が一番美味しいと思います!」
「三郎次ー! 火に油を注ぐどころか、火薬を降り注がないでください!」
「お、上手いな石人。火薬委員会なだけに油じゃなくて火薬だなんて」
にぃっと笑う三郎次の無垢な顔。さながらいたずらっ子のようで、このケンカを楽しんでいるようだと石人の目に映る。
引火寸前の火薬壺を前にして、更に追い火薬をするなんて。しかも火種を添えてだ。日頃、火気厳禁の焔硝蔵を管理する火薬委員会がそれでいいのか。
そこへあたふたと慌てふためく石人に更なる火の粉が降り注いでしまう。
「石人ぉ! お前はどうなんだ!?」
「は、はいぃっ! その、私は……食堂のおばちゃんが作るご飯はどれも美味しくて。甲乙つけられません。全部美味しいってことでは駄目でしょうか」
「甘いっ! 忍者たるもの優柔不断ではならない! 右か左か、天井裏か床下か。身を隠す場を一つに絞らずにどれでも良いと言ってはならん!」
「ご、ごめんなさいいいっ」
蛇に睨まれた蛙。まさにその言葉が打ってつけであった。物凄い剣幕で留三郎に睨まれ、固まってしまう石人。それはもう石のように。
そこで紅蓮が歩み出た。恐ろしい先輩の顔がその眼に映らないよう、縮こまってしまった石人を後ろ手で庇う様にして。紅蓮の眼光は先程よりも鷹の様に鋭く尖っていた。
「おい、留三郎。うちの後輩を巻き込むな。いちゃもんをつけるならば先ず私を通して貰おうか」
紅蓮の口から発せられた声は清流の如く静かであった。しかしそれは二段階ばかり下がった音調でいて、周囲の温度を凍てつかせるぐらい、怖い。
静かなる怒りを秘めた同級生の声色と表情。これには静観していた伊作も流石に「あ、これは不味いかも」と引き攣らせた笑顔に冷や汗を垂らした。
本気でキレる一歩手前である。伊作は紅蓮の癖をよく知っていた。
「正論を言って何が悪い! 大体紅蓮は後輩を甘やかし過ぎなんだよ!」
「留三郎だけには言われたくない」
紅蓮の影に隠れた石人は顔を恐る恐る覗かせながら「お、お二人とも落ち着いて」と声を発するも、両者にその声は届きそうになかった。
六年は組の三人は仲が良いと聞いていた。それが何故、こんな些細なことでいがみ合うのか。同級生の言う通り、食に関することは揉め事が起きやすいのかもしれない。理解出来ないから争いが生まれる。それが世の常か。
ばちばちと火花を散らし、睨み合うこと数秒。
紅蓮は留三郎の目を見据え、徐に口を開いた。
「やるか」
「やらいでか!」
「よし。表に出ろ留三郎」
「望むところだ!」
「あ、二人とも怪我しないようにね!」
「わかってる」息もぴったりに揃えて返ってきた二つの声。
先に外へ出たのは留三郎の方で、その背を見送るまで部屋に留まる紅蓮。
「葉月先輩」といよいよもって涙ぐむ石人は紅蓮を見上げた。ほぼ同時に紅蓮の手のひらが石人の頭をぽんと叩いた。その手からは温もりが感じられ、いつも優しく頭を撫でてくれていた火薬委員長そのもの。
身長に差がある石人からは明確な表情は窺えない。見えた紅蓮の口元には弧を描いた笑み。怒りは微塵も感じられないものに思えた。
石人は目を瞬かせ、呆然と紅蓮の背を目で追いかける。
壁に立て掛けてある六尺棒を右手に掴んだ紅蓮は戸口で一度足を止めた。
そして背を向けたまま「伊作」と声を掛ける。
右手の指を伸ばし――人さし指、中指、小指の三本を――真横を指すように示す。この合図を見た伊作は「うん」と頷き、にこやかな笑顔をその背に返した。その返事を聞いた紅蓮も部屋の外へ出ていった。
この二人が手で暗号を送り、受け取ったことにいち早く気づいたのは三郎次である。ごく短い間に行われたやり取り。彼が「今のは何ですか」と訊ねるよりも先に石人が割って入ってきた。
「お二人を止めないと!」
「大丈夫だって」
「うん。そこまで心配は要らないよ」
「伊作先輩までそんな」
「落ち着けよ、石人。伊作先輩、さっきの一連のやり取りにはワケがあるんですよね?」
紅蓮の後輩は目聡い。
尊敬の念は勿論こと、強い憧れも抱いている。慕うが故に些細な微兆に気づくこともしばしば。もしかすると、紅蓮の秘密も知っているのではなかろうか。いやしかし「葉月先輩って女子なんですか?」とも「気になることがあるんですけど」と訊かれたことはない。それに、紅蓮は卒業するまで他人に自分から明かすつもりは一切ないと話してもいた。その意思が堅いことも伊作は知っていた。
「あのケンカは紅蓮の企てなんだ」
「先輩の?」
「わざわざそんな」
「まあ、落ち着いて。実はここの所、留三郎の機嫌が悪くてね。暫く曲者騒ぎもなかったから戦う機会が減ってしまったせいで」
忍術学園には様々な忍たまが在籍する。武術が得意な者。罠や仕掛けを得意とする者。医術薬学に長けた者。虫遁の術を心得た者。
まさに十人十色。この学び舎でそれぞれ個性を伸ばし、磨きをかけている。
その中でも留三郎、文次郎は武闘派と呼ばれていた。
「平和なのは良いことではないのですか」
「食満先輩は戦う用具委員会委員長と呼ばれるほど戦うことが好きなんだ。三度の飯よりも好きかもしれない。そんな先輩が戦えずにいて、力も有り余ってしまい不満が爆発寸前というわけですね」
「その通り。文次郎は用事でここ数日不在だから、戦う相手がいなくて余計に苛々しちゃってね。そのせいで後輩に恐い顔することが増えてしまった」
それは目に余るほどであったと伊作は話す。
普段は気にも留めない些細なことが気に障るのか、後輩に対しても声を荒げることが多く見られた。幾ら気が立っているからとはいえ、周囲に当たり散らすのは如何なものか。留三郎自身、気にもしていた。委員会の後輩を一番怖がらせてしまったのだ。そんなつもりはなかったと頭を抱える級友、怯える後輩。
これでは何れ悪循環に陥る。何とか早めに手を打たねばなるまいと考えた紅蓮と伊作は一芝居打つ計画を練ることにした。
溜まりに溜まった鬱憤を晴らす機会を設けてやろう、と。
ならば手合わせが一番手っ取り早い。その為にわざと留三郎を怒らせ、頃合いを見計らい手合わせに誘い出す。
「今の留三郎なら些細なことでも乗ってくるだろうからって紅蓮がね」
「だから食堂で一番美味しいメニューは何かで揉めていたんですか? でも、鍛錬に付き合ってほしいと言えば済む話では」
「それだと食満先輩が気を遣われてると感じて素直になれない。そういうことですね、伊作先輩」
「すごいすごい。御名答だよ三郎次」
伊作はパチパチと手を二度打ち、名推理を働かせた三郎次に拍手を送った。
一連の理由を聞いた石人もようやく合点がいった様子である。
「それで五車の術のうちの一つである怒車の術でわざと食満先輩を煽ったということですか。その方が遠慮なく力を出して戦えるから」
「そういうことだよ。途中、紅蓮が本気で怒りそうだったから焦ったけど。なんとか上手くいったみたいだ」
術をかけたこちらが相手の術中に陥ってしまっては元も子もない。危うく作戦通りにいかなくなるところだった。そう伊作は眉尻を下げる。
先程のただならぬ紅蓮の気迫。三郎次もそれを感じ取っていた。空気が一瞬張り詰めたどころか、凍りつきそうになったので、息をひっそりと吞んでいたのだ。
火薬委員会委員長は滅多なことで怒り狂うことはないし、その姿も今までに見たことがなかった。それは後輩に対しての顔なのかもしれない。同級生、同学年の前ではまた違う顔を見せるやも。例えそうだとしても、根底にある優しさは変わらないだろうと三郎次たちは願う。
「葉月先輩が怒ったところ、見たことがありません。私はまだ編入して日が浅いせいもあるんでしょうけど」
「僕もない。伊作先輩、葉月先輩が怒ることってあるんですか? 注意やお叱りは受けることありますけど、感情任せに怒ったところは見たことがないです」
二年生、まして石人はまだ半年にも満たない付き合いだ。知らないのも当然のことであった。
それに比べ伊作は六年もの付き合いがある。自分たちは仕様もないことでよくケンカをして怒り、泣いたものだと記憶を呼び覚ました。
宿題の答えが正しいのは自分だ。背はこっちの方が高い。かけっこで勝ったのはこっちの方だ。残り一枠の定食を取り合って揉めたこともある。
それでも最後には必ず仲直りをした。意地の張り合いになったことも勿論ある。その時はもう一人の友人がよく仲を取り持ってくれたことを伊作はふと思い出した。
紅蓮が感情を顕わにし、怒りを前面に押し出したのはあの時だろう。
二つ上の先輩相手に啖呵を切ったことがあった。伊作と咲之助を小馬鹿にされたと腹を立てたのは先ず紅蓮。それに続き留三郎、小平太、文次郎と次々に加勢。六人で先輩相手に喰ってかかっていったのだ。
一方、伊作自身ともう一人の友人は「そんなことで」と然程気には留めておらず。唖然とその様を見守っていた。
決着がついた頃には皆ボロボロで、傷だらけであった。無茶をした友人たちの手当てを二人で行ったのも懐かしい記憶だ。
『ね、伊作。僕たち良い友達を持ったと思わない? だって、みんな優しすぎるんだもの。特に紅蓮のあんな怒った顔見たことがなかったよ。びっくりしちゃった』
亡き友の笑い声と言葉が耳元に過ぎていく。
咲いた花の色を褪せさせるにはまだ惜しく、忍びない。
「葉月先輩は昔からお優しい方だったんでしょうか」
「僕は落ち着きがあって優しくて、かっこいい人だったんだと思ってる。今もそうだし」
「きっとそうだったんでしょうね。葉月先輩の立ち振る舞いから私もそう感じられます」
伊作が思い出に耽る間、二人は会話を広げていた。
どうやら紅蓮に対する株がだいぶ上がっている様子。これを聞けば困ったように笑いながらも嬉しそうに友は頬を綻ばせるだろう。後輩が紅蓮を慕う様に、紅蓮もまた後輩たちを珠のように可愛がっているのだから。
「石人たちの言う通り、そのまんま成長した感じだよ。情に厚くて、友達思いだ。さっき留三郎が石人に当たりそうになったのを強く咎めていただろう? 紅蓮は自分のことよりも友達や後輩を悪く言われることに怒りを覚えやすい」
それが長所であり、短所でもある。しかし人間誰しもそれらを持ち合わせるものでもある。
紅蓮にとってこれが命取りにならないことを祈るばかりだと伊作は常々思っていた。
「三郎次。我々の先輩はとてもお優しい方なんですね」
「ああ。六年生の中で一番優しくてカッコいい人だよ、葉月先輩は」
今、彼らにとって好印象を与えているのならば。絶対的な信頼を寄せた笑みを前に敢えて自分が水を差す必要もない。それ以上に、伊作は友人のことを信じていた。
「あ、そうだ。伊作先輩。さっきの合図はなんなんですか?」
「ああ、あれは僕たちの暗号だよ。矢羽音でも良かったんだけど、それだと留三郎にも聞こえちゃうから。状況によって微妙に意味合いは変わる。さっきのは「あとは任せろ」って感じかな」
声や音を出せぬ状況下で近くにいる味方に合図を送る手段。予め決めておくことで意思疎通を図ることが出来るのだ。
昔、覚えたての暗号を授業中に送りあっていた。「今日の昼は麻婆豆腐定食と肉野菜炒め定食のどっちにする?」「放課後に新しくできたうどん屋へ行こうぜ」のような他愛のない会話を。今思えば随分と可愛らしいやり取りをしていたものである。
自分たちがなんとも無邪気なやり取りをしていたことをこの後輩たちは知る由もない。ただ、目を輝かせ「六年生かっこいい」と尊敬の念を抱く。これを機に彼らも互いの暗号を決めてやり取りをするのだろう。過去の自分たちと同じ様に。こうして忍たまは先輩の背を見て育っていくのだから。
キィンッ
鈍い金属音が一つ。外から響き、聞こえてきた。
何度も金属同士がぶつかりあい、弾く音。乾いた地面に鋭いものが突き刺さる音もした。
そこに聞こえてきた二人の会話。
「お前とやり合うのは久しぶりだな!」
「ああ、一年ぶりくらいか。留三郎、鉄双節棍の打撃が重くなったな」
「お前こそ、棒手裏剣の腕を益々上げたじゃないか」
「教えてくれた奴が、優秀だったからな!」
声をすれども、戸口から見える範囲では緑色の飛び交う残像しか見えない。下級生二人にとっては動きが速すぎる。残像を目で追うのも厳しいほどだ。
「すごい。これが、最上級生の戦い方なんですね」
「二人とも本当に本気で戦っていらっしゃる」
「でも、なんだか楽しそうです」
聞こえた会話から察するに、険悪な雰囲気は欠片も見られなかった。
互いの腕前を褒め、認める。先程までいがみ合っていたとはとても思えない。どうやら六年は組の二人による企ては成功したようだ。
「僕たちはケンカしても最後は必ず仲直りしてきたからね。今もそうだよ。もう仲直りして、純粋に楽しんでいる」
「なんと言うか、武闘派のご友人を持つと面倒で大変ですね」
「まあ、いつもってわけじゃないから」
「三郎次。お二人のケンカを止めなかったのは理由を知っていたからなんですか?」
「いいや。知らなかった」
石人の問いにはっきりと三郎次がそう答えた。至って真面目な顔をして。
「葉月先輩が本気で戦う所を見てみたかったんだ。だから止めなかった」
「そんな理由だったんですか」
「ああ。石人、もっと近くで見学しよう! こんな機会滅多に見られないぞ!」
「はいっ!」
尊敬する先輩の戦う姿を目に焼き付けたい。純粋なその気持ちを邪魔するつもりはないが、危ないから近づきすぎないようにとだけ伊作は二人に伝えることにした。
拮抗する戦いの最中で垣間見える六年生二人の表情。
紅蓮は鉄双節棍をクナイで受け、弾き返すと同時に六尺棒で払う。
怯むことなく、真横に棍を振り手首を返す留三郎。
青空の下、両者は久方ぶりの手合わせを楽しんでいた。