番外編
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前世からエールを込めて
僕には唯一無二の親友がいる。
「咲。向こうに面白い魚がいた。幼魚と成魚で模様が異なるそうだ」
「へぇ〜! どんなの? 見てみたいな」
「こっちだ」
心楽しい。水辺に拭く風のような表情で彼女は僕の手を掴み、その面白い魚が展示された水槽の前まで連れて行く。
彼女の名前は葉月霧華。同じ大学の学部に所属する同い年の子。ちょっとだけ、いやだいぶ昔から縁があって。僕たちはその時から変わらない友情を育んでいる。
水族館の展示コーナーは館内全体の照明が絞られているから薄暗い。だから、足元危ないよとかいう理由もありそうだけど、彼女の場合無意識に僕の手を引いて歩いているに違いない。
「手を繋いで歩くなんて恋人みたい」と思う人は大多数いる。でも、そんな関係じゃないんだ僕たちは。ずっと昔、友達だった頃のことを今でも憶えているだけ。
紅を散らしたように顔を赤らめたり、恥じらうような手つきで繋いだりすることは全然ない。小さな子どもが仲良しな子と手を繋いでぶんぶん振りながら歩くような感覚に近かった。ぎゅっと握られた手を握り返せば、君も安心するから、僕もこの手を掴む。
でも、昔はどちらかといえば僕の方から手を差し出していた。落とし穴に落ちたり、上級生の罠に引っ掛かって転んだりしたことが多かったから。
『紅蓮は伊作に次いで落とし穴に落っこちてるよねぇ。ケガしてない?』
『大丈夫、だ。……咲にいつも助けられている気がする。本当に世話かけてごめん』
『気にしないでいいよ。僕も宿題でわかんないところよく教えてもらってるんだし。お互い様ってやつ』
今でもあの頃の想い出を鮮明に呼び起こせた。
危険が多かった時代だけど、君たちと過ごした日々は掛け替えのないもの。時を経てまた友達になった僕たちは現世を謳歌している真っ最中。
そして、その唯一無二の親友を気にしている人がいた。
連れてこられた水槽には熱帯魚が泳いでいた。
赤や黄色のカラフルで小さな熱帯魚が群れで泳ぐ中、悠々と水中を泳ぐ二匹の中型の熱帯魚。三十センチくらいはあるかな。透明色の胸ビレをひらひらとさせている。
一匹は濃紺の体色で白い同心状の円模様。見ていると目が回っちゃいそうな模様だ。もう一匹は鮮やかな青と黄色のストライプ模様を体に纏っている。黄色い尾ビレもチャームポイントだね。
タテジマキンチャクダイ。この魚の名前が記されたプレートの横に僕たちの後輩が仁王立ちでいる。
この薄暗がりでもよくわかる、ご機嫌斜めな二つ下の大学の後輩。彼は池田三郎次といって、同じサークル仲間。ジト目で睨む視線が向くのは彼女じゃなく、僕の方。
機嫌が悪い理由は主に二つかな。折角二人でお魚を見てたのに、僕を呼びに行ったこと。しかも手を繋いで戻って来たから殊更イラッとしてしまった様子。ごめんね。この手を振り払ったら物凄く悲しい顔をさせちゃうから、それも出来なくて。
「わ、ほんとだ。模様が全然違うのに同じ魚なんだね」
「同種の縄張り争いを上手く回避する為に幼魚はこの姿らしい。成魚になればこっちの模様になる」
「へえ~。まるで変装の達人だね」
そこで僕たちは互いに目を合わせ、にこりと笑いあう。どうやら同じ人物を頭に思い描いていたみたい。
変装の名人と謳われたはちや三郎くん。同じ大学にはいるみたいだけど、まだ見掛けたことがない。今も雷蔵くんと同じ顔をしているのかな。
「詳しいね、霧華」
「さっき池田が教えてくれたんだ。水族館が好きで日本各地を巡っているらしい。ここの年間パスも持ってるそうだ」
「ええー! すごいね。年間パス持ってる人初めて見たかも」
「一応、専攻してるんで」
「海洋生物専門学部だっけ。池田くんの故郷も海に近いんだよね。いいなぁ海。定期的に行きたくなるよねぇ」
池田くんは海の生き物に関して学んでいる。だから水族館によく来るって話だ。中でもペンギンが好きみたい。この水族館にはペンギン館がある。だから彼のお気に入りと言っても過言じゃなさそうだった。サークルで顔合わせをした時、好きな動物の話になってその時に「ペンギン」って池田くんは答えた。クールでカッコいい第一印象だったけど、意外と可愛いもの好きなんだなってほっこりしたんだ。
「ここの水族館、ペンギンがいっぱいいて可愛いよね。あ、そういえばペンギンのフィーディングタイムあったよね?」
「あと三十分で始まります」
「今から移動すれば丁度いい頃合いだ。咲も一緒に見に行かないか」
「うん。行く行く。あれ、そういえばタカ丸くんたちの姿見ないけど。どこ行っちゃったんだろ」
「さっきウミガメの水槽前で見かけた。まあ、うちのサークルは迷子になるような奴はいないだろうから、大丈夫だろう」
確かに、迷子注意の子はうちのサークルにはいない。個別行動でも何ら問題はないと思う。
とあるサークルに属す次屋くん、および神崎くんは迷子の二つ名がつくほど迷子になる。こういったお出掛け先だけに留まらず、大学構内でもそうなんだよね。講義も遅刻常習犯で、単位落とさないか他人事だけど心配になる。此処でも富松くんが彼らの面倒を見ているようで、よく探し回ってる光景を見かけた。昔からそうだったなぁ。裏裏山から帰ってきた彼はボロボロになりながら二人を連れ帰ってきた。
それに比べ、僕らのサークルは真面目な人が多い。いつの間にか姿を晦ましたり、徹夜明けで発狂したりする人がいないから比較的まともな方だと思ってる。個々の個性は一癖あるけれど。
「行こう、咲。池田」
彼女の温もりを感じる手のひら。当たり前のことが今はとてつもなく嬉しくて、この上ない幸せが胸を満たす。
君はよく「咲の笑顔は花が咲いたみたいだ」って言ってくれたけど、陽の光があるから花は咲くんだ。僕だけじゃ無理なんだよ。君や、みんながいてくれたからこそ咲かせられる。
この時代でまた巡り会えた喜び。それを胸に留めたくて、この手を繋いで僕は歩く。矢のように突き刺さる後輩からの視線を背に受けながら。
◇
自販機のボタンを押して二つ目の缶コーヒーをガコンッと落とした。取り出し口からミルク入りのコーヒーを掴み、休憩スペースに向かう。
僕は軽い足取りで青いベンチに近づき、ブラックコーヒーの缶を池田くんに差し出した。
「池田くん、どーぞ」
「……有り難うございます」
彼は少し驚いたような顔をしながらも僕の手から缶コーヒーを受け取った。良かった。無視されなくて。あれだけ敵視されてたから、口も利いてくれないんじゃないかと思っていたから。
ベンチの空いたスペースに僕は腰を下ろし、プルタブに指を掛けたところで「それ、霧華が好きなメーカーのコーヒーなんだよ」と彼の顔を見た。きょとんとするその表情から、彼の知らない情報だったんだと分かる。まあ、このメーカーのコーヒーはあまり見かけないからね。大学構内の自販機にもなかったし。
池田くんの視線がすっと手元に戻った。
「俺がブラック飲めるってよく知ってましたね」
「あれ、嫌いだった? カフェでバイトしてるって聞いてたから、てっきり」
「カフェ店員だからってブラック飲めるとは限らないですよ。俺はミルクも砂糖入りでもなんでも飲めますけど」
「大人だなぁ池田くん。僕はミルク入ってないとダメで。霧華もいつもブラックで飲んでるんだ。ほんとブラック飲める人すごいよ」
プルタブを引く音が二連続で響いた。
このメーカーのコーヒーは香りが高くて、ミルクとの相性も良い。同じ自販機にブラックと並んで置いてないこともある。その時はグレープの炭酸飲料を飲むんだ。
「ブラックの方が豆の香りと味がわかるから。……あ、美味いこれ」
混じり気のないブラック。その方が豆の香りと味を感じられる。同じことを彼女も言っていた。こんな所まで似るんだなあ。それが嬉しくて、つい顔に出てしまっていたみたい。にこにこしながら池田くんの方を向いていたら怪訝そうな目をされた。
「美味しいでしょ。霧華も香りが良いって言ってた。今度ミルク入りも飲んでみて、美味しいからオススメ」
「はい」
ブラックばかり飲んでいると土井先生みたく胃を壊しちゃうから。でも、先生が胃を痛めてる理由は他にもあるんだろうけどね。それを口にすると池田くんは「そーですね」と適当な相槌を返してくれた。
休憩スペースを横切る人たちはみんな楽しそうで、笑顔が咲いている。水族館は家族連れだけじゃなく、友達、恋人、僕らのようにサークルのメンバーが訪れる場所でもある。
中でも人気があるのは熱帯魚コーナー。カラフルで綺麗な物に惹かれる人が多い。僕たちは一つずつ満遍なくコーナーを回っていた。みんな注目する点が違うから見聞が面白く、飽きることがない。
今は羽丹羽くんが化石魚の展示を見たいと言うので、霧華たちが一緒についている。
僕たちはちょっと疲れたから休憩するよと断りを入れ、休憩スペースにいるというわけ。
「ペンギンってお魚食べる時は頭から食べるんだって初めて知ったよ。理由を訊いたらなるほどーって思っちゃった」
「今日は遠くて見えなかったけど、口の中はギザギザしてるんで獲った魚を逃がさないようになってます」
「へ~! 同じ鳥でもペンギンって結構独特な進化してるよね。空も飛ばなくなったのも生き残る為だっていうし。今日は池田くんのおかげでペンギンに詳しくなれたよ。ありがとー」
「どう致しまして」
「あっ、そういえば実習中に翼……えーと、フリッパーだっけ? それで足叩かれたって聞いたけど大丈夫?」
学部の実習でペンギンの体重測定をする時に、雛を抱き上げようとしたら親ペンギンに「うちの子に何するかー!」って具合でべしべしフリッパーで叩かれたらしく。あの可愛らしいお手々で叩かれるとかなり痛いって聞いたことがある。
ちらりと左脚に池田くんの視線が向いた。
「今もじんじん痛んでますよ」
「うわあ……お大事にね。無理しないで」
「まあ、好きで選んだ道だし。全然苦じゃないんで大丈夫です」
「そっか。頑張ってね。僕も応援してる」
心からのエールを贈るよ。両手で拳をぐっと握って、体現しそうになる衝動を咄嗟に抑える。あまりはしゃぐとまた不審者を見るような目をされちゃうから。
だから今回はにこりと笑うだけで留めたのに、池田くんの視線がじーっと僕に向けられた。
「平間先輩っていつも楽しそうですよね」
「え、そうかな?」
「いつもニコニコ笑ってるじゃないですか」
「うーん……そう、かも。うん、楽しいからね。みんなと一緒にいられるのが嬉しくって。あと、池田くんに嫌われてなくてよかったなあって思ってほっとしたのもあるかも。さっきもの凄く睨まれたし。鬼になっちゃうんじゃないかと思うぐらい」
「……先輩って、思ってること口に出るタイプですよね。そんな鬼の形相したつもりないんですけど」
そう言って額の真ん中、目頭辺りに手の甲を当てて溜息を吐く。
嫉妬っていうのは無意識に出ちゃうことだから。それを顧みて反省できるのはやっぱり大人だ。
「話出たついでに聞きますけど、先輩方って距離感おかしくないですか?」
名前は出さないけど、明らかに僕と霧華のことを指すその言葉。
池田くんの気持ちは昔も今も、彼女に向いている。慕い、尊敬する念はいつしか恋慕に変化した。真っ直ぐな彼の気持ちは昔から変わってない。
巡り巡ってまた出逢った二人。僕はそのことが本当に嬉しかった。
「本当に付き合ってないんですか、お二人」
「うん。よく言われるけどそういう関係じゃないんだよね、僕たち。みんなあまり信じてくれないんだけど」
「あれだけ仲良さそうにしてたらそりゃそうですよ。食満先輩、善法寺先輩とも距離感バグってるし」
「あの三人は幼馴染みだからね。昔からよくケンカもしてたし、むしろ兄妹みたいな関係かも」
霧華と再会したのは大学受験の試験会場だった。その後、入学してから伊作と留三郎とも顔を合わせた。二人は僕のことを憶えていてくれたけど、霧華は何となくしか記憶がなかったんだ。でも、それも二年前の学祭までの話。
前世の記憶を呼び起こすきっかけは本当に些細なもので。言葉が記憶を引っかけて釣り上げたくれた時には、号泣されてちょっとびっくりした。
晴れた暖かい日には四人で草むらに寝そべって、裏裏山までマラソンに行った帰りはご飯を食べながらうたた寝しちゃって。くだらないことでケンカして、泣いて、ごめんって謝った日もあった。
僕たちは互いにお互いを尊重して、認め合って学園で過ごしてきた。
懐かしいあの日々を想い、目を細める。
「なんだろうね。今まで友達として過ごせなかった分を取り戻そうとしてるのかもしれない」
短すぎる生涯だった。
もっと一緒に学び、歩みたかった。
たとえ乱世だったとしても、そうありたかった。
「ごめん。こっちの話。それより、池田くんって霧華のこと好きなんだよね」
僕がそう訊ねると、ぐっと息を呑んで視線を泳がせた。君の態度、周囲でもバレバレなんだってこと気づいてないのかな、もしかして。サークルのメンバーみんな知ってるんだよなぁ。
「そんなに僕たちのこと気にするってことは、そうなのかなーって。あ、図星?」
片手で口元を覆う池田くんは顔を横へ背けてしまった。ほら、わかりやすいでしょ。
君が恋慕を抱くのは大歓迎なんだけど、ただこのままの状態だとちょっと問題が一つあるんだ。
紅蓮こと霧華はまだ池田くんのことを思い出してない。
「私のことを慕っていた後輩がいたような気がする」とぼんやりとしか。もう一息なんだよ。
おまけにあの子は昔から鈍感だ。
「頑張れとしか言いようがないかも。超が六つもつくぐらい鈍感なんだよね、あの子。今までもくノ一教室……えっと、同じ学部の子を知らないうちに振ってるんだよね」
三年生の時に結構くノ一教室や町娘から想いを寄せられてたんだ。優しくて面倒見が良いし、顔も良かったから人気あったんだよね。でも本人は全く気づいていなかった。本当に、全く。
それが今も影響してるのか、告白する前から玉砕してる子たちをよく見かける。きっと中学や高校でもそうだったんだろうなあと安易に想像ができるよ。無意識ってタチ悪い。うん。
「この間は立花くんのこと振ってたよ。しかも真正面から」
「あの立花先輩を?! 学内一の眉目秀麗と言われてるあの先輩を振ったんですか」
「うん。「気に喰わない」って真顔で一刀両断」
「……一体何したんだ立花先輩」
前世のしがらみかもね。とは言わずにおいた。
立花くんを振ったと聞いた池田くんの表情が曇ってしまう。確かにあの立花くんを振ったと聞いたら自信なくすよね。
でも、その心配も過ぎるものだと思う。
「池田といると何か落ち着かない」そう零していたのを思い返した。それは負の意味じゃない。
「咲といる時はまた違う、別の感情が根底にある気がするんだ。温かくて、大事なもの。ずっと繋ぎ留めてくれていたような気がして」自分の両手に目を落としながら、紅蓮はそう話してくれた。
「勝機はあると思うなぁ。だって君たちお似合いだもの。僕は君たちを応援してるよ。ずっと、昔からね」
いつか君のことを思い出す。それも遠くない話だと僕は信じている。
二人とも良い夫婦だったんだから。今世ではどうか二人の行く末をこの目で見届けられますように。
僕には唯一無二の親友がいる。
「咲。向こうに面白い魚がいた。幼魚と成魚で模様が異なるそうだ」
「へぇ〜! どんなの? 見てみたいな」
「こっちだ」
心楽しい。水辺に拭く風のような表情で彼女は僕の手を掴み、その面白い魚が展示された水槽の前まで連れて行く。
彼女の名前は葉月霧華。同じ大学の学部に所属する同い年の子。ちょっとだけ、いやだいぶ昔から縁があって。僕たちはその時から変わらない友情を育んでいる。
水族館の展示コーナーは館内全体の照明が絞られているから薄暗い。だから、足元危ないよとかいう理由もありそうだけど、彼女の場合無意識に僕の手を引いて歩いているに違いない。
「手を繋いで歩くなんて恋人みたい」と思う人は大多数いる。でも、そんな関係じゃないんだ僕たちは。ずっと昔、友達だった頃のことを今でも憶えているだけ。
紅を散らしたように顔を赤らめたり、恥じらうような手つきで繋いだりすることは全然ない。小さな子どもが仲良しな子と手を繋いでぶんぶん振りながら歩くような感覚に近かった。ぎゅっと握られた手を握り返せば、君も安心するから、僕もこの手を掴む。
でも、昔はどちらかといえば僕の方から手を差し出していた。落とし穴に落ちたり、上級生の罠に引っ掛かって転んだりしたことが多かったから。
『紅蓮は伊作に次いで落とし穴に落っこちてるよねぇ。ケガしてない?』
『大丈夫、だ。……咲にいつも助けられている気がする。本当に世話かけてごめん』
『気にしないでいいよ。僕も宿題でわかんないところよく教えてもらってるんだし。お互い様ってやつ』
今でもあの頃の想い出を鮮明に呼び起こせた。
危険が多かった時代だけど、君たちと過ごした日々は掛け替えのないもの。時を経てまた友達になった僕たちは現世を謳歌している真っ最中。
そして、その唯一無二の親友を気にしている人がいた。
連れてこられた水槽には熱帯魚が泳いでいた。
赤や黄色のカラフルで小さな熱帯魚が群れで泳ぐ中、悠々と水中を泳ぐ二匹の中型の熱帯魚。三十センチくらいはあるかな。透明色の胸ビレをひらひらとさせている。
一匹は濃紺の体色で白い同心状の円模様。見ていると目が回っちゃいそうな模様だ。もう一匹は鮮やかな青と黄色のストライプ模様を体に纏っている。黄色い尾ビレもチャームポイントだね。
タテジマキンチャクダイ。この魚の名前が記されたプレートの横に僕たちの後輩が仁王立ちでいる。
この薄暗がりでもよくわかる、ご機嫌斜めな二つ下の大学の後輩。彼は池田三郎次といって、同じサークル仲間。ジト目で睨む視線が向くのは彼女じゃなく、僕の方。
機嫌が悪い理由は主に二つかな。折角二人でお魚を見てたのに、僕を呼びに行ったこと。しかも手を繋いで戻って来たから殊更イラッとしてしまった様子。ごめんね。この手を振り払ったら物凄く悲しい顔をさせちゃうから、それも出来なくて。
「わ、ほんとだ。模様が全然違うのに同じ魚なんだね」
「同種の縄張り争いを上手く回避する為に幼魚はこの姿らしい。成魚になればこっちの模様になる」
「へえ~。まるで変装の達人だね」
そこで僕たちは互いに目を合わせ、にこりと笑いあう。どうやら同じ人物を頭に思い描いていたみたい。
変装の名人と謳われたはちや三郎くん。同じ大学にはいるみたいだけど、まだ見掛けたことがない。今も雷蔵くんと同じ顔をしているのかな。
「詳しいね、霧華」
「さっき池田が教えてくれたんだ。水族館が好きで日本各地を巡っているらしい。ここの年間パスも持ってるそうだ」
「ええー! すごいね。年間パス持ってる人初めて見たかも」
「一応、専攻してるんで」
「海洋生物専門学部だっけ。池田くんの故郷も海に近いんだよね。いいなぁ海。定期的に行きたくなるよねぇ」
池田くんは海の生き物に関して学んでいる。だから水族館によく来るって話だ。中でもペンギンが好きみたい。この水族館にはペンギン館がある。だから彼のお気に入りと言っても過言じゃなさそうだった。サークルで顔合わせをした時、好きな動物の話になってその時に「ペンギン」って池田くんは答えた。クールでカッコいい第一印象だったけど、意外と可愛いもの好きなんだなってほっこりしたんだ。
「ここの水族館、ペンギンがいっぱいいて可愛いよね。あ、そういえばペンギンのフィーディングタイムあったよね?」
「あと三十分で始まります」
「今から移動すれば丁度いい頃合いだ。咲も一緒に見に行かないか」
「うん。行く行く。あれ、そういえばタカ丸くんたちの姿見ないけど。どこ行っちゃったんだろ」
「さっきウミガメの水槽前で見かけた。まあ、うちのサークルは迷子になるような奴はいないだろうから、大丈夫だろう」
確かに、迷子注意の子はうちのサークルにはいない。個別行動でも何ら問題はないと思う。
とあるサークルに属す次屋くん、および神崎くんは迷子の二つ名がつくほど迷子になる。こういったお出掛け先だけに留まらず、大学構内でもそうなんだよね。講義も遅刻常習犯で、単位落とさないか他人事だけど心配になる。此処でも富松くんが彼らの面倒を見ているようで、よく探し回ってる光景を見かけた。昔からそうだったなぁ。裏裏山から帰ってきた彼はボロボロになりながら二人を連れ帰ってきた。
それに比べ、僕らのサークルは真面目な人が多い。いつの間にか姿を晦ましたり、徹夜明けで発狂したりする人がいないから比較的まともな方だと思ってる。個々の個性は一癖あるけれど。
「行こう、咲。池田」
彼女の温もりを感じる手のひら。当たり前のことが今はとてつもなく嬉しくて、この上ない幸せが胸を満たす。
君はよく「咲の笑顔は花が咲いたみたいだ」って言ってくれたけど、陽の光があるから花は咲くんだ。僕だけじゃ無理なんだよ。君や、みんながいてくれたからこそ咲かせられる。
この時代でまた巡り会えた喜び。それを胸に留めたくて、この手を繋いで僕は歩く。矢のように突き刺さる後輩からの視線を背に受けながら。
◇
自販機のボタンを押して二つ目の缶コーヒーをガコンッと落とした。取り出し口からミルク入りのコーヒーを掴み、休憩スペースに向かう。
僕は軽い足取りで青いベンチに近づき、ブラックコーヒーの缶を池田くんに差し出した。
「池田くん、どーぞ」
「……有り難うございます」
彼は少し驚いたような顔をしながらも僕の手から缶コーヒーを受け取った。良かった。無視されなくて。あれだけ敵視されてたから、口も利いてくれないんじゃないかと思っていたから。
ベンチの空いたスペースに僕は腰を下ろし、プルタブに指を掛けたところで「それ、霧華が好きなメーカーのコーヒーなんだよ」と彼の顔を見た。きょとんとするその表情から、彼の知らない情報だったんだと分かる。まあ、このメーカーのコーヒーはあまり見かけないからね。大学構内の自販機にもなかったし。
池田くんの視線がすっと手元に戻った。
「俺がブラック飲めるってよく知ってましたね」
「あれ、嫌いだった? カフェでバイトしてるって聞いてたから、てっきり」
「カフェ店員だからってブラック飲めるとは限らないですよ。俺はミルクも砂糖入りでもなんでも飲めますけど」
「大人だなぁ池田くん。僕はミルク入ってないとダメで。霧華もいつもブラックで飲んでるんだ。ほんとブラック飲める人すごいよ」
プルタブを引く音が二連続で響いた。
このメーカーのコーヒーは香りが高くて、ミルクとの相性も良い。同じ自販機にブラックと並んで置いてないこともある。その時はグレープの炭酸飲料を飲むんだ。
「ブラックの方が豆の香りと味がわかるから。……あ、美味いこれ」
混じり気のないブラック。その方が豆の香りと味を感じられる。同じことを彼女も言っていた。こんな所まで似るんだなあ。それが嬉しくて、つい顔に出てしまっていたみたい。にこにこしながら池田くんの方を向いていたら怪訝そうな目をされた。
「美味しいでしょ。霧華も香りが良いって言ってた。今度ミルク入りも飲んでみて、美味しいからオススメ」
「はい」
ブラックばかり飲んでいると土井先生みたく胃を壊しちゃうから。でも、先生が胃を痛めてる理由は他にもあるんだろうけどね。それを口にすると池田くんは「そーですね」と適当な相槌を返してくれた。
休憩スペースを横切る人たちはみんな楽しそうで、笑顔が咲いている。水族館は家族連れだけじゃなく、友達、恋人、僕らのようにサークルのメンバーが訪れる場所でもある。
中でも人気があるのは熱帯魚コーナー。カラフルで綺麗な物に惹かれる人が多い。僕たちは一つずつ満遍なくコーナーを回っていた。みんな注目する点が違うから見聞が面白く、飽きることがない。
今は羽丹羽くんが化石魚の展示を見たいと言うので、霧華たちが一緒についている。
僕たちはちょっと疲れたから休憩するよと断りを入れ、休憩スペースにいるというわけ。
「ペンギンってお魚食べる時は頭から食べるんだって初めて知ったよ。理由を訊いたらなるほどーって思っちゃった」
「今日は遠くて見えなかったけど、口の中はギザギザしてるんで獲った魚を逃がさないようになってます」
「へ~! 同じ鳥でもペンギンって結構独特な進化してるよね。空も飛ばなくなったのも生き残る為だっていうし。今日は池田くんのおかげでペンギンに詳しくなれたよ。ありがとー」
「どう致しまして」
「あっ、そういえば実習中に翼……えーと、フリッパーだっけ? それで足叩かれたって聞いたけど大丈夫?」
学部の実習でペンギンの体重測定をする時に、雛を抱き上げようとしたら親ペンギンに「うちの子に何するかー!」って具合でべしべしフリッパーで叩かれたらしく。あの可愛らしいお手々で叩かれるとかなり痛いって聞いたことがある。
ちらりと左脚に池田くんの視線が向いた。
「今もじんじん痛んでますよ」
「うわあ……お大事にね。無理しないで」
「まあ、好きで選んだ道だし。全然苦じゃないんで大丈夫です」
「そっか。頑張ってね。僕も応援してる」
心からのエールを贈るよ。両手で拳をぐっと握って、体現しそうになる衝動を咄嗟に抑える。あまりはしゃぐとまた不審者を見るような目をされちゃうから。
だから今回はにこりと笑うだけで留めたのに、池田くんの視線がじーっと僕に向けられた。
「平間先輩っていつも楽しそうですよね」
「え、そうかな?」
「いつもニコニコ笑ってるじゃないですか」
「うーん……そう、かも。うん、楽しいからね。みんなと一緒にいられるのが嬉しくって。あと、池田くんに嫌われてなくてよかったなあって思ってほっとしたのもあるかも。さっきもの凄く睨まれたし。鬼になっちゃうんじゃないかと思うぐらい」
「……先輩って、思ってること口に出るタイプですよね。そんな鬼の形相したつもりないんですけど」
そう言って額の真ん中、目頭辺りに手の甲を当てて溜息を吐く。
嫉妬っていうのは無意識に出ちゃうことだから。それを顧みて反省できるのはやっぱり大人だ。
「話出たついでに聞きますけど、先輩方って距離感おかしくないですか?」
名前は出さないけど、明らかに僕と霧華のことを指すその言葉。
池田くんの気持ちは昔も今も、彼女に向いている。慕い、尊敬する念はいつしか恋慕に変化した。真っ直ぐな彼の気持ちは昔から変わってない。
巡り巡ってまた出逢った二人。僕はそのことが本当に嬉しかった。
「本当に付き合ってないんですか、お二人」
「うん。よく言われるけどそういう関係じゃないんだよね、僕たち。みんなあまり信じてくれないんだけど」
「あれだけ仲良さそうにしてたらそりゃそうですよ。食満先輩、善法寺先輩とも距離感バグってるし」
「あの三人は幼馴染みだからね。昔からよくケンカもしてたし、むしろ兄妹みたいな関係かも」
霧華と再会したのは大学受験の試験会場だった。その後、入学してから伊作と留三郎とも顔を合わせた。二人は僕のことを憶えていてくれたけど、霧華は何となくしか記憶がなかったんだ。でも、それも二年前の学祭までの話。
前世の記憶を呼び起こすきっかけは本当に些細なもので。言葉が記憶を引っかけて釣り上げたくれた時には、号泣されてちょっとびっくりした。
晴れた暖かい日には四人で草むらに寝そべって、裏裏山までマラソンに行った帰りはご飯を食べながらうたた寝しちゃって。くだらないことでケンカして、泣いて、ごめんって謝った日もあった。
僕たちは互いにお互いを尊重して、認め合って学園で過ごしてきた。
懐かしいあの日々を想い、目を細める。
「なんだろうね。今まで友達として過ごせなかった分を取り戻そうとしてるのかもしれない」
短すぎる生涯だった。
もっと一緒に学び、歩みたかった。
たとえ乱世だったとしても、そうありたかった。
「ごめん。こっちの話。それより、池田くんって霧華のこと好きなんだよね」
僕がそう訊ねると、ぐっと息を呑んで視線を泳がせた。君の態度、周囲でもバレバレなんだってこと気づいてないのかな、もしかして。サークルのメンバーみんな知ってるんだよなぁ。
「そんなに僕たちのこと気にするってことは、そうなのかなーって。あ、図星?」
片手で口元を覆う池田くんは顔を横へ背けてしまった。ほら、わかりやすいでしょ。
君が恋慕を抱くのは大歓迎なんだけど、ただこのままの状態だとちょっと問題が一つあるんだ。
紅蓮こと霧華はまだ池田くんのことを思い出してない。
「私のことを慕っていた後輩がいたような気がする」とぼんやりとしか。もう一息なんだよ。
おまけにあの子は昔から鈍感だ。
「頑張れとしか言いようがないかも。超が六つもつくぐらい鈍感なんだよね、あの子。今までもくノ一教室……えっと、同じ学部の子を知らないうちに振ってるんだよね」
三年生の時に結構くノ一教室や町娘から想いを寄せられてたんだ。優しくて面倒見が良いし、顔も良かったから人気あったんだよね。でも本人は全く気づいていなかった。本当に、全く。
それが今も影響してるのか、告白する前から玉砕してる子たちをよく見かける。きっと中学や高校でもそうだったんだろうなあと安易に想像ができるよ。無意識ってタチ悪い。うん。
「この間は立花くんのこと振ってたよ。しかも真正面から」
「あの立花先輩を?! 学内一の眉目秀麗と言われてるあの先輩を振ったんですか」
「うん。「気に喰わない」って真顔で一刀両断」
「……一体何したんだ立花先輩」
前世のしがらみかもね。とは言わずにおいた。
立花くんを振ったと聞いた池田くんの表情が曇ってしまう。確かにあの立花くんを振ったと聞いたら自信なくすよね。
でも、その心配も過ぎるものだと思う。
「池田といると何か落ち着かない」そう零していたのを思い返した。それは負の意味じゃない。
「咲といる時はまた違う、別の感情が根底にある気がするんだ。温かくて、大事なもの。ずっと繋ぎ留めてくれていたような気がして」自分の両手に目を落としながら、紅蓮はそう話してくれた。
「勝機はあると思うなぁ。だって君たちお似合いだもの。僕は君たちを応援してるよ。ずっと、昔からね」
いつか君のことを思い出す。それも遠くない話だと僕は信じている。
二人とも良い夫婦だったんだから。今世ではどうか二人の行く末をこの目で見届けられますように。