第一部
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七|花嵐の唄
一年生の忍たま長屋の片隅に一本の桜の木が生えている。
その桜の木は毎年綺麗な花を咲かせてきた。十六尺ほどの樹高で、蒼穹の空の先を見据えるかのように枝を伸ばす。凛と咲き誇る薄紅色の小さな五枚花が幾重にも重なり、春風に揺れ、淡い薫りを漂わせる。
『花見の特等席だぞ!』
小さな体で木によじ登り、青空と桜を最初に眺めたのは小平太。一年生でまだ幼かった私たちはこぞってその特等席を奪い合っていたもの。主幹から伸びた主枝に並んで花見をするには少々狭い場で。せいぜい二、三人が限度だった。
まだ木登りが苦手だった私に手を差し伸べてくれた三つの手。その小さくて頼りない手を掴み、主枝に辿り着いた。無理やりにでも四人並んで眺めた桜の花と澄んだ青空。それはもう絶景だった。
あの景色を久々に拝みたい。
全員が出払い、人気のない忍たま長屋。今なら誰の邪魔も入らないだろう。
私は頭上にある主枝に跳び乗った。手頃な主幹に背を預け、腰を下ろす。
すっかりと視界を覆う桜の花。薄紅色に包まれたそこはまさに花見の特等席。甘い香りに胸が満たされるこの感覚も懐かしい。
さらさらと風に揺れる柔らかな花の音。目を瞑り、その語らいに耳を傾けた。
春を連れた風は野山に花を咲かせ、木々を芽吹かせる。南から北へ、日本各地に桜前線を巡らせていく。この桜を咲かせた風は今どこにいるのか。もしかすると、東国辺りで一休みをしているかもしれない。
『駆け足で上り続けたら春風だって疲れちゃうよ』
桜が咲く時期が遅い年はそう言っていたな。
目を閉じれば瞼に感じる春の陽射し。今年は私たちを見送る為にか、良い時期に咲いたよ。
忍術学園の六年生は本日をもって卒業をする。
式典の送辞は五年い組の久々知兵助が読み、答辞を六年い組の仙蔵が読み上げた。
厳かな空気の中で進められた卒業式典。学園長先生の有難いお話を頂戴した後、閉式の辞で締めくくられた。
式典が終わった直後、私たちは後輩たちに一斉に囲まれた。
私の元には火薬委員会の後輩たちが、伊作と留三郎の元にも同じように委員会の後輩が集う。皆、涙に濡れた顔で私たちを見上げていた。中でもわあわあと泣き続ける伊助。訊けば三郎次と口論にでもなった様子。「だって、寂しいもんは寂しいじゃないですか!」その伊助の言葉が堰を切り、四人は火のついたように泣き出してしまった。
伊助たちを一緒になって宥めた兵助の目尻にも光る薄っすらとしたもの。涙声に感情を揺さぶられた私は熱くなる目頭をそっと抑えた。
春の香りがすぐ側で静かに揺れる。桜花に手を伸ばし、指先でそっと触れた花弁は絹の様に柔らかく、ひんやりと冷たい。
この眺めも暫くは見納めとなる。同時に学園で過ごした日々を振り返れば、切なくなるというもの。
風にそよぐ桜の房。風と花が奏でる調べに私は言の葉を乗せ、謡を紡ぐ。
陽だまりに響かせる神楽歌。その一節を謡い終えた後、私は地上を見下ろした。
「いつまで傍観しているつもりだ仙蔵」
煩わしい気配を感じ取ったのはほんの数分前。声を掛けてくる様子もなく、ただその気配だけがそこにある。三ヶ月前からこれだ。いい加減鬱陶しくもなるというもの。
桜の木と共に私を見上げるようにしていた仙蔵。何か閃いた面持ちで手をぽんっと打った。
「謎が解けた」
「急にどうした」
「この辺りの噂を聞いたことはないのか? 春になると夜な夜な幽霊が出るという噂を」
何を言うのかと思えば。その噂なら知っている。
一年の忍たま長屋にあるこの桜木。ここに春になると幽霊が現れるという話だ。笑い声、時に不気味な声も聞こえたとか。それだけでも、小さな忍たまたちの恐怖心はだいぶ煽られたようだ。
「確か、私たちがこの木を見つけた次の年からそんな噂が立つようになったな」
「そうだ。春、桜が咲く夜更けにしか現れぬという幽霊。それも花が散り終わればとんと現れなくなるとな」
「そういった類の幽霊も居るだろ」
「この噂には続きがある。笑い声が聞こえたという以外にも、女の謡声が聞こえたと」
「それは初耳だな」
私がそう答えれば訝し気に仙蔵は細い眉を顰めた。「知らんのか」とでも言いたそうに。
そして私の顔を見て両腕を身体の前で組む。
「長年の怪談話ではあったが、真相が全てわかった。幽霊など最初からおらん。この噂の出処は私たちだ、恐らくな」
「どういうことだ」
「この桜の木は小平太たちの気に入りの場所だ。毎年夜桜を観賞するべく訪れていたとも聞く。夜間は死角になりやすく人の姿が見えぬ。そこから話し声が聞こえたとなれば、自ずと幽霊の類だと噂が立つ。報われない死を迎えた女子が桜の時季に現世を彷徨う。哀しげな声で神楽を奏でながら、と」
暗闇から聞こえた声の主は花見に訪れた小平太たちのもので、謡声は私のもの。仙蔵は簡潔にそう纏めた。
「それがお前というわけだ」
「人を幽霊扱いとは失礼だな。私は真夜中に謡ってはいない。確かに花見には偶に来ていたが」
「噂とは尾鰭がつくものだ。事実と相違があろうとな」
声はすれども、主は一方に姿を見せず。この幽霊話は年々激化し、人伝で後輩たちに語り継がれた。
私がここで謡う理由はその彷徨う魂の慰めにでもなればと始めたこと。三年の春のことだった。
それが逆に怖がらせてしまったようで、何とも面目ない。
「何故この場で謡うようになった」
「南蛮では死者の魂を鎮める歌があると長次から聞いたことがある。まあ、神楽歌だから届くかはわからんがな」
授業の一環で覚えた神楽歌。巫女に扮した咲之助と共に神楽を興じたこともある。あいつの舞は素晴らしいものだった。
『紅蓮の謡が上手いからだよ』
桜舞い散る中に佇む笑顔は今もこの胸に咲き続けている。
「霊感があるのか」
「いや、まったく。あれば良かったんだがな。そうすれば」
その先の言葉を私は紡ぐ気はなかった。
風にそよぐ桜の花を見つめ、僅かに目を細める。
「兎に角、幽霊の正体が私たちであるならそれも良い。いっそこの噂、いつまで語り継がれるか見ものだ」
「この手の類は一度消えてもまた現れる。より一層信憑性を事欠いてな」
「違いない」
この美しい桜の木を後世まで残してほしい。
花を終えた夏に青々と葉を茂らせ、秋には紅く葉を染め、葉を落とした冬は雪と共に眠りにつき、また春に繊細で美しい花を咲かせる。
私たちの想い出の場所として、残り続けてほしい。
「仙蔵も送別会が始まるまで席を外せと言われたのか」
「そうだ」
卒業式典が終わった後に各委員会が送別会の場を設けるという話だった。その準備が整うまで卒業生はこうして暇を潰しているというわけだ。
伊作と留三郎とは後に合流すると約束を交わした。六年前に初めて顔を合わせた場所で待つ、と。
荷物が纏め終わっていないからと伊作は自室へ。留三郎は食堂のおばちゃんに頼まれていた鍋の修理を済ませると言っていた。以前「俺たちは修理委員会ではない!」と声を荒げていたこともあったな。今ではすっかり丸くなったものだ。
私は一人ふらりと想い出の場所に立ち寄り、過去を振り返っていた。
「作法委員会はさぞかし驚愕の送別会が行われるんだろうな」
「火薬委員会こそ久々知兵助が作る豆腐料理が振る舞われるんじゃないのか」
「十割そうだな。兵助の作る豆腐料理は絶品だぞ。愛情と情熱をかけているだけはある」
兵助の豆腐料理は多岐に渡る。田楽豆腐、揚出し豆腐、煎り豆腐。豆腐と鶏肉のうま煮などに留まらず、南蛮の豆腐料理も得意だ。ぴりっとした辛みが癖になる麻婆豆腐が私はその中でも好きだ。
「兵助が火薬委員会委員長になったら豆腐委員会と呼ばれるのではないか」
「あいつは喜ぶだろうが、他は微妙な顔をしそうだな。益々何をしてるかわからない委員会になってしまいそうだ。……まあ、豆腐のことで見境がなくなるのは玉に瑕ではあるが、私の自慢の後輩だ」
不意に温かい風が私の横を通り過ぎていった。前髪を揺らしたそれは手を伸ばしていた桜の枝を微かに揺らす。不規則な風の流れが生まれている。
「後輩と言えば、稽古をつけているそうじゃないか」
視界に映した暗紫の長い髪が横へ靡く。
どうも奴はこの場から退く気がない様子。最後の日くらい学園内を散策してくればいいものの。
三郎次から棒術の稽古をつけてほしいと頼まれ、早ひと月半が過ぎた。実技の延長線で培われた技法に基礎を改めて教えているが、飲み込みが早い。瞬く間に技術をものにしていく。
留三郎からは「あいつ筋がいいぞ。立ち回りが昔のお前とそっくりだ」と揶揄われた。客観的に見て初めて気づかされる、浮き彫りになった自分の弱点。そこを指摘しつつ、己の悪癖を直す良い機会ともなった。
私が学び舎を卒業してからも月に一度は稽古をする約束をした。熱心な眼差しを振り払う理由は一つも見つからない。寧ろこの先の成長に楽しさすら覚える。
「三郎次は筋が良いぞ。本気で手合わせできる日もそう遠くない」
何が可笑しいのか。にやけた声が仙蔵の口から漏れた。
既にこの時点でそれが私の気に障っていたようにも思える。
「それで、お前の行く道は決まったのか」
「聞きたいことはそれか。それを聞くだけの為に何ヶ月も私に付き纏う必要があったのか」
数ヶ月に渡る付き纏った理由はそれしか考えられない。
あの日、廃寺で訊かれた問いに明確な答えを導き出せなかった。そうしようとしなかったのは私に迷いがあったせいだ。友人たちと敵対するような事態は避けるようにするつもりではある。
それにしてもだ。私の行く先など気にする必要もないだろうに。
私が見当違いのことでも口にしたのか、仙蔵の細い眉がぴくりと動いた。昔から感情が読みにくい男だ。五車の術で揺さぶりを掛けようと、澄ました表情は崩れることがない。
この冷静な面を崩せるのはあの二人だけ。用具委員会のしんべヱと喜三太の前では形無しになる。ある意味特技だとも思える。
「お前、鈍いと言われないか」
「気配には敏感だが」
「そうじゃない」
「じゃあどういう意味だ」
「もう良い」
二度目の漏れた吐息。挙句の果てには「顔色を窺っていただけだ。お前のようにな」と言い方が鼻につく。
この男は本当に何を企んでいるのかわからなかった。
「紅蓮。私と一勝負せんか」
「断る」
突拍子もないことを言い出したかと思えば。
その誘いに私は乗る気はない。即答の後、咎めるように仙蔵を睨む。
「何故晴れの日にお前と勝負しなければならん」
「ほう、逃げるか。師範代にならぬとはいえ、そう逃げ腰では教えを乞うてる池田も可哀想なものだ。腑抜けにしか育たんぞ」
「おい、聞き捨てならんな」
私は主枝で自由にさせていた片膝に重心を寄せ、勢いをつけて跳び下りた。着地の際に僅か砂埃が舞う。
相手は私を桜の木から引きずり下ろしたことに満足したのか、俄然余裕綽々とした腹の立つ面だ。
「私を侮辱することは構わんが、後輩のことを悪く言われて黙っていられるほど温和な人柄ではない」
刹那、追い風が吹いた。
春気満ちる風に交じり、背中を軽くとんっと押された錯覚を感じた。狐に抓まれたような気分にすら思えた。
あまりにもそれは酷似していた、対抗試合に挑む私に声援を送る友の仕草に。聞こえた幻聴に私はほくそ笑む。
「忍器の仕様はなし。素手のみで一本勝負」
「いいだろう。その端正な顔に当たっても苦情は聞かんぞ」
利き手を肩まで引き、逆の手を対角線上へ。後ろ脚を真っすぐに引き、構えた。
私も仙蔵も組手の構えから初手を読まれるような未熟者ではない。さあ、どう出るか。
薄紅色の花弁が旋風に舞い、宙ではらはらと散った。
一年生の忍たま長屋の片隅に一本の桜の木が生えている。
その桜の木は毎年綺麗な花を咲かせてきた。十六尺ほどの樹高で、蒼穹の空の先を見据えるかのように枝を伸ばす。凛と咲き誇る薄紅色の小さな五枚花が幾重にも重なり、春風に揺れ、淡い薫りを漂わせる。
『花見の特等席だぞ!』
小さな体で木によじ登り、青空と桜を最初に眺めたのは小平太。一年生でまだ幼かった私たちはこぞってその特等席を奪い合っていたもの。主幹から伸びた主枝に並んで花見をするには少々狭い場で。せいぜい二、三人が限度だった。
まだ木登りが苦手だった私に手を差し伸べてくれた三つの手。その小さくて頼りない手を掴み、主枝に辿り着いた。無理やりにでも四人並んで眺めた桜の花と澄んだ青空。それはもう絶景だった。
あの景色を久々に拝みたい。
全員が出払い、人気のない忍たま長屋。今なら誰の邪魔も入らないだろう。
私は頭上にある主枝に跳び乗った。手頃な主幹に背を預け、腰を下ろす。
すっかりと視界を覆う桜の花。薄紅色に包まれたそこはまさに花見の特等席。甘い香りに胸が満たされるこの感覚も懐かしい。
さらさらと風に揺れる柔らかな花の音。目を瞑り、その語らいに耳を傾けた。
春を連れた風は野山に花を咲かせ、木々を芽吹かせる。南から北へ、日本各地に桜前線を巡らせていく。この桜を咲かせた風は今どこにいるのか。もしかすると、東国辺りで一休みをしているかもしれない。
『駆け足で上り続けたら春風だって疲れちゃうよ』
桜が咲く時期が遅い年はそう言っていたな。
目を閉じれば瞼に感じる春の陽射し。今年は私たちを見送る為にか、良い時期に咲いたよ。
忍術学園の六年生は本日をもって卒業をする。
式典の送辞は五年い組の久々知兵助が読み、答辞を六年い組の仙蔵が読み上げた。
厳かな空気の中で進められた卒業式典。学園長先生の有難いお話を頂戴した後、閉式の辞で締めくくられた。
式典が終わった直後、私たちは後輩たちに一斉に囲まれた。
私の元には火薬委員会の後輩たちが、伊作と留三郎の元にも同じように委員会の後輩が集う。皆、涙に濡れた顔で私たちを見上げていた。中でもわあわあと泣き続ける伊助。訊けば三郎次と口論にでもなった様子。「だって、寂しいもんは寂しいじゃないですか!」その伊助の言葉が堰を切り、四人は火のついたように泣き出してしまった。
伊助たちを一緒になって宥めた兵助の目尻にも光る薄っすらとしたもの。涙声に感情を揺さぶられた私は熱くなる目頭をそっと抑えた。
春の香りがすぐ側で静かに揺れる。桜花に手を伸ばし、指先でそっと触れた花弁は絹の様に柔らかく、ひんやりと冷たい。
この眺めも暫くは見納めとなる。同時に学園で過ごした日々を振り返れば、切なくなるというもの。
風にそよぐ桜の房。風と花が奏でる調べに私は言の葉を乗せ、謡を紡ぐ。
陽だまりに響かせる神楽歌。その一節を謡い終えた後、私は地上を見下ろした。
「いつまで傍観しているつもりだ仙蔵」
煩わしい気配を感じ取ったのはほんの数分前。声を掛けてくる様子もなく、ただその気配だけがそこにある。三ヶ月前からこれだ。いい加減鬱陶しくもなるというもの。
桜の木と共に私を見上げるようにしていた仙蔵。何か閃いた面持ちで手をぽんっと打った。
「謎が解けた」
「急にどうした」
「この辺りの噂を聞いたことはないのか? 春になると夜な夜な幽霊が出るという噂を」
何を言うのかと思えば。その噂なら知っている。
一年の忍たま長屋にあるこの桜木。ここに春になると幽霊が現れるという話だ。笑い声、時に不気味な声も聞こえたとか。それだけでも、小さな忍たまたちの恐怖心はだいぶ煽られたようだ。
「確か、私たちがこの木を見つけた次の年からそんな噂が立つようになったな」
「そうだ。春、桜が咲く夜更けにしか現れぬという幽霊。それも花が散り終わればとんと現れなくなるとな」
「そういった類の幽霊も居るだろ」
「この噂には続きがある。笑い声が聞こえたという以外にも、女の謡声が聞こえたと」
「それは初耳だな」
私がそう答えれば訝し気に仙蔵は細い眉を顰めた。「知らんのか」とでも言いたそうに。
そして私の顔を見て両腕を身体の前で組む。
「長年の怪談話ではあったが、真相が全てわかった。幽霊など最初からおらん。この噂の出処は私たちだ、恐らくな」
「どういうことだ」
「この桜の木は小平太たちの気に入りの場所だ。毎年夜桜を観賞するべく訪れていたとも聞く。夜間は死角になりやすく人の姿が見えぬ。そこから話し声が聞こえたとなれば、自ずと幽霊の類だと噂が立つ。報われない死を迎えた女子が桜の時季に現世を彷徨う。哀しげな声で神楽を奏でながら、と」
暗闇から聞こえた声の主は花見に訪れた小平太たちのもので、謡声は私のもの。仙蔵は簡潔にそう纏めた。
「それがお前というわけだ」
「人を幽霊扱いとは失礼だな。私は真夜中に謡ってはいない。確かに花見には偶に来ていたが」
「噂とは尾鰭がつくものだ。事実と相違があろうとな」
声はすれども、主は一方に姿を見せず。この幽霊話は年々激化し、人伝で後輩たちに語り継がれた。
私がここで謡う理由はその彷徨う魂の慰めにでもなればと始めたこと。三年の春のことだった。
それが逆に怖がらせてしまったようで、何とも面目ない。
「何故この場で謡うようになった」
「南蛮では死者の魂を鎮める歌があると長次から聞いたことがある。まあ、神楽歌だから届くかはわからんがな」
授業の一環で覚えた神楽歌。巫女に扮した咲之助と共に神楽を興じたこともある。あいつの舞は素晴らしいものだった。
『紅蓮の謡が上手いからだよ』
桜舞い散る中に佇む笑顔は今もこの胸に咲き続けている。
「霊感があるのか」
「いや、まったく。あれば良かったんだがな。そうすれば」
その先の言葉を私は紡ぐ気はなかった。
風にそよぐ桜の花を見つめ、僅かに目を細める。
「兎に角、幽霊の正体が私たちであるならそれも良い。いっそこの噂、いつまで語り継がれるか見ものだ」
「この手の類は一度消えてもまた現れる。より一層信憑性を事欠いてな」
「違いない」
この美しい桜の木を後世まで残してほしい。
花を終えた夏に青々と葉を茂らせ、秋には紅く葉を染め、葉を落とした冬は雪と共に眠りにつき、また春に繊細で美しい花を咲かせる。
私たちの想い出の場所として、残り続けてほしい。
「仙蔵も送別会が始まるまで席を外せと言われたのか」
「そうだ」
卒業式典が終わった後に各委員会が送別会の場を設けるという話だった。その準備が整うまで卒業生はこうして暇を潰しているというわけだ。
伊作と留三郎とは後に合流すると約束を交わした。六年前に初めて顔を合わせた場所で待つ、と。
荷物が纏め終わっていないからと伊作は自室へ。留三郎は食堂のおばちゃんに頼まれていた鍋の修理を済ませると言っていた。以前「俺たちは修理委員会ではない!」と声を荒げていたこともあったな。今ではすっかり丸くなったものだ。
私は一人ふらりと想い出の場所に立ち寄り、過去を振り返っていた。
「作法委員会はさぞかし驚愕の送別会が行われるんだろうな」
「火薬委員会こそ久々知兵助が作る豆腐料理が振る舞われるんじゃないのか」
「十割そうだな。兵助の作る豆腐料理は絶品だぞ。愛情と情熱をかけているだけはある」
兵助の豆腐料理は多岐に渡る。田楽豆腐、揚出し豆腐、煎り豆腐。豆腐と鶏肉のうま煮などに留まらず、南蛮の豆腐料理も得意だ。ぴりっとした辛みが癖になる麻婆豆腐が私はその中でも好きだ。
「兵助が火薬委員会委員長になったら豆腐委員会と呼ばれるのではないか」
「あいつは喜ぶだろうが、他は微妙な顔をしそうだな。益々何をしてるかわからない委員会になってしまいそうだ。……まあ、豆腐のことで見境がなくなるのは玉に瑕ではあるが、私の自慢の後輩だ」
不意に温かい風が私の横を通り過ぎていった。前髪を揺らしたそれは手を伸ばしていた桜の枝を微かに揺らす。不規則な風の流れが生まれている。
「後輩と言えば、稽古をつけているそうじゃないか」
視界に映した暗紫の長い髪が横へ靡く。
どうも奴はこの場から退く気がない様子。最後の日くらい学園内を散策してくればいいものの。
三郎次から棒術の稽古をつけてほしいと頼まれ、早ひと月半が過ぎた。実技の延長線で培われた技法に基礎を改めて教えているが、飲み込みが早い。瞬く間に技術をものにしていく。
留三郎からは「あいつ筋がいいぞ。立ち回りが昔のお前とそっくりだ」と揶揄われた。客観的に見て初めて気づかされる、浮き彫りになった自分の弱点。そこを指摘しつつ、己の悪癖を直す良い機会ともなった。
私が学び舎を卒業してからも月に一度は稽古をする約束をした。熱心な眼差しを振り払う理由は一つも見つからない。寧ろこの先の成長に楽しさすら覚える。
「三郎次は筋が良いぞ。本気で手合わせできる日もそう遠くない」
何が可笑しいのか。にやけた声が仙蔵の口から漏れた。
既にこの時点でそれが私の気に障っていたようにも思える。
「それで、お前の行く道は決まったのか」
「聞きたいことはそれか。それを聞くだけの為に何ヶ月も私に付き纏う必要があったのか」
数ヶ月に渡る付き纏った理由はそれしか考えられない。
あの日、廃寺で訊かれた問いに明確な答えを導き出せなかった。そうしようとしなかったのは私に迷いがあったせいだ。友人たちと敵対するような事態は避けるようにするつもりではある。
それにしてもだ。私の行く先など気にする必要もないだろうに。
私が見当違いのことでも口にしたのか、仙蔵の細い眉がぴくりと動いた。昔から感情が読みにくい男だ。五車の術で揺さぶりを掛けようと、澄ました表情は崩れることがない。
この冷静な面を崩せるのはあの二人だけ。用具委員会のしんべヱと喜三太の前では形無しになる。ある意味特技だとも思える。
「お前、鈍いと言われないか」
「気配には敏感だが」
「そうじゃない」
「じゃあどういう意味だ」
「もう良い」
二度目の漏れた吐息。挙句の果てには「顔色を窺っていただけだ。お前のようにな」と言い方が鼻につく。
この男は本当に何を企んでいるのかわからなかった。
「紅蓮。私と一勝負せんか」
「断る」
突拍子もないことを言い出したかと思えば。
その誘いに私は乗る気はない。即答の後、咎めるように仙蔵を睨む。
「何故晴れの日にお前と勝負しなければならん」
「ほう、逃げるか。師範代にならぬとはいえ、そう逃げ腰では教えを乞うてる池田も可哀想なものだ。腑抜けにしか育たんぞ」
「おい、聞き捨てならんな」
私は主枝で自由にさせていた片膝に重心を寄せ、勢いをつけて跳び下りた。着地の際に僅か砂埃が舞う。
相手は私を桜の木から引きずり下ろしたことに満足したのか、俄然余裕綽々とした腹の立つ面だ。
「私を侮辱することは構わんが、後輩のことを悪く言われて黙っていられるほど温和な人柄ではない」
刹那、追い風が吹いた。
春気満ちる風に交じり、背中を軽くとんっと押された錯覚を感じた。狐に抓まれたような気分にすら思えた。
あまりにもそれは酷似していた、対抗試合に挑む私に声援を送る友の仕草に。聞こえた幻聴に私はほくそ笑む。
「忍器の仕様はなし。素手のみで一本勝負」
「いいだろう。その端正な顔に当たっても苦情は聞かんぞ」
利き手を肩まで引き、逆の手を対角線上へ。後ろ脚を真っすぐに引き、構えた。
私も仙蔵も組手の構えから初手を読まれるような未熟者ではない。さあ、どう出るか。
薄紅色の花弁が旋風に舞い、宙ではらはらと散った。