番外編
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あたたかい、その手
快晴を迎えた忍術学園の空。
その好天気は午後まで崩れることなく、現在に至る。
週末の放課後に正門前で。
火薬委員会の後輩たちに委員長から予め声を掛けたのは週の始まりのこと。
先日の火薬壺搬入作業を労うべく、紅蓮は町で評判のうどん屋でご馳走すると一人ずつに声を掛けた。
授業が終わり次第、正門で落ち合う約束に四つの返事は快いものであった。
放課後を告げる鐘が鳴り終わった後、紅蓮は伊作と留三郎に「先に行く」と断りを入れ、忍たま長屋に戻ってきた。
自室の戸を閉め、手早く松葉色の学年装束から桐模様の上衣に袖を通し、藍色の袴を履く。脱いだ学年装束は乱れ箱にきれいに畳み、収めた。
菜の花色の風呂敷に荷物を包み、肩から前に掛けて結ぶ。懐に財布があることを確かめ、紅蓮は足早に自室を後にした。
はらり、ひらりと風に舞う落ち葉。
正門前に飛ばされてきた細かい枝や枯草を竹箒でせっせと履くのは事務員の小松田秀作。今日はまだ学園内に不法侵入する者も居らず、実に穏やかな表情で事務仕事をこなしていた。
ふと、近くで聞こえた足音に顔を上げると私服姿の三郎次が側に立っていた。秀作は手を止め、ふにゃりと笑う。
「三郎次くん。授業お疲れ様でした」
「小松田さんもお掃除お疲れ様です」
「今日は火薬委員会のみんなで町へお出かけする日だったね」
「えっ、どうしてそのことを」
「今朝、紅蓮くんが火薬委員会全員分の外出届を出してくれたんだ。放課後町に出かけにいくからって」
授業が始まるより前に事務室へ提出しに来たのだと秀作は得意げに話した。それをちゃんと受理したんだと胸を張ってみせる。
「三郎次くん楽しみで仕方ないんだねぇ。こうして待ち合わせ場所にも一番乗りだし」
「そっ、そんなことないですよ!」
三郎次は力一杯に否定した。焦りの色を浮かべながら。
そこまで否定することなのだろうかと秀作は目を丸め、首を傾げる。
「べ、別に楽しみなんかじゃ。ただ、一年ボーズよりは早く来ないと先輩として示しがつかないじゃないですか」
「うーん。そういうもんかなぁ」
「そうですよ! その為に一週間前から予習復習をきっちりこなして、わからない所はそのままにせず先生に聞いたり、図書の返却も昨日のうちに済ませたり。今日だって掃除当番だったけど真面目にやってすぐ終わらせてきたんですから」
息継ぎも曖昧なまま、そう言い切った。
ここ一週間、あまりに熱心な三郎次の姿を見た同級生が「めちゃくちゃ楽しみにしてるんだなぁ」と思っていたことを彼は知らない。言えば今のように「全然楽しみになんかしていない!」と反論する性格なのをよく知っているのだ。
秀作は瞬きをぱちぱちと繰り返した後、にっこりと三郎次に笑いかけた。
「うん。すごーく楽しみにしてたってことがよくわかったよ」
「そこまで楽しみにしてもらえて私も嬉しいよ」
「葉月先輩!? い、いつの間に。もしかして、今の話」
それはほんの少し前のこと。
正門前で秀作と後輩が何やら話をしているのを遠目で見た紅蓮。向かい風に乗った会話が耳に届いたのだ。一字一句とまではいかないが、今日のために様々な努力をした様子は伝わってきた。
盗み聞きするつもりは全くなかったと眉尻を下げる。
「ちょうど風下でな。聞こえてしまった」
「紅蓮くん。三郎次くんすっごく楽しみにしてるみたいだよ。良かったねぇ」
「ええ。……あ、小松田さん。集めた落ち葉が風で」
「ああっ! せっかく集めたのにい」
気まぐれな風が落ち葉を舞わせ、遊ばせる。
秀作は滑るように逃げるそれを追い掛けていった。箒を高く振り上げて。
「私が一番先かと思っていたが、三郎次に先を越されてしまったな」
「……いや、これはその」
三郎次の目は泳ぎ、新秋の紅葉を散らしたかのように顔が赤く染まる。先程の話をまるっと聞かれていたのかと思うと、何とも決まりが悪い。
今日という日を楽しみにしていたことに偽りはなかった。しかし一年生でもあるまいし、大喜びしているとも思われたくない。なんとも複雑な感情を小さなその胸に抱いていた。
それにもう一つ。先日、うっかり弱音を吐きかけたことも三郎次は気に留めていた。
宙を彷徨わせていた三郎次の視線はついに地面へと落ちた。
首の動きに合わせて結われた髷が流れる。その時に覚えた髪の違和感。微兆に気づいたその時にはもう、髪を括っていた元結がぷつりと切れていた。慌てて手を結び目に当てるも、それが助長してばさりと結んでいた髪が肩に広がってしまった。
指先に残ったのは元結の残骸。ぼろぼろに傷んでおり、真っ二つに千切れている。
「うわ」
「随分と長く使っていたんだな」
「二年に上がるよりずっと前から使ってたので。なんでこんな時に」
立て続けに起きた気まずい出来事に溜息が漏れる。替えの元結は今持っていない。
直ぐに長屋へ戻り、髪を結ってくると話す三郎次を紅蓮が「ちょっと待った」と呼び止めた。
紅蓮の懐から取り出されたのは、新品の元結と半月状の柘植櫛。
「これで良ければ使ってくれ。結ってやるから後ろを向いてくれないか」
「ええっ、悪いですよ。長屋に戻れば予備がありますし」
「だが今から戻っては遅くなるぞ。そろそろ伊助たちも来る頃合いだろうし。折角早めに来たんだから、このまま待っていた方がいい」
紅蓮の言うとおりであった。髪を結って戻って来た頃には他の火薬委員は全て揃っているだろう。一番最初に来ていた実績が解除されてしまう。それどころか「遅刻ですか三郎次先輩」とこれ見よがしに嫌味が飛んでくるであろう。
それは小さな自尊心がそれを許さなかった。
くるりと三郎次は背を紅蓮に向け「お願いします」と小声で仕方なしに髪結いを依頼することにした。
柳色の髪は特段傷んだ様子もなく、櫛が滑らかに通る。
実家が漁師ともなれば、潮風に晒され海水に浸かる頻度も高い。今は海岸から離れた陸で過ごすことが多い為か、タカ丸が目を光らせることもない。顧問や五年生の一部忍たまには「その髪は酷い」と掴みかかる。文字通り、髪を鷲掴みにして目を尖らせるのだ。
「意外と柔らかいんだな」
「そう、ですか? ……あまり手入れにはこだわってないので、タカ丸さんには内緒にしておいてください」
「執念を燃やしているからな、タカ丸は」
忍び笑いが三郎次の耳に届く。
多くの忍たまはタカ丸の早業髪結いを経験していた。そればかりか、曲者相手にも怯まず技を披露する。その仕上がりはどれも個性的な髪型。あんまりな髪型に敵は脱力し、無力化。効果が覿面な早業なのだ。
三郎次も何度かタカ丸に髪を結ってもらう――向こうから声を掛けてくる――機会があった。髪を引っ張られた、切られ過ぎたという事態も先ずない。髪に触れる指も、櫛を通す手つきも。何ら感情は湧かなかった。
しかし、今は何故かやおら頬に熱が帯びる。続けざまに失態を晒したせいか、それとも別の理由か。
三郎次がこの感情の名前を知るのはまだ先のことであった。
「私はタカ丸ほど髪結いが上手くない。そこは勘弁してくれ」
「だっ大丈夫です。むしろ先輩にこんなことをさせてしまって、すみません」
「気にするな。私がそうしたかっただけだから。……元結が切れたからといって、落ち込むことはないぞ」
思ってもいない言葉に三郎次は思わず振り向きそうになった。
元結が不意に切れたことにより、縁起が悪いと気にしているのだろう。紅蓮はそう考えていたのだ。
「縁が切れるだとか、不運が訪れるだとかよく言われるが私はそう思わない。それよりもこう考えた方がいい。身代わりとなってくれたと。先程ので三郎次に起きる悪いことが一つ減った。そう思えば心も軽くなる」
数々の不運に巻き込まれた者だからこそ言える言葉。不謹慎ながらも三郎次はそう思ってしまう。だが、その前向きな考え方は嫌いじゃないと胸に留めた。
「先輩って前向きですよね」
「嫌でもそうなるさ」
「……本当は、今日楽しみにしてたんです。委員会のみんなで出掛けること」
「ああ。私もだよ。授業の課題や実習で行くことは多いが、ただのんびりと見て回ること自体が久しぶりなんだ。だからみんな楽しみにしていてくれたと思うと嬉しい。よし、できた」
元の位置よりも少し低く、三郎次の髷が結われた。元結できっちりとした結び目、髪の弛みも目立たない。自分では満足のいく仕上がりにはなったが、本人としてはどうなのか。
「ありがとうございます」
「気に入らなかったらタカ丸に結い直してもらってくれ。ちょうど来たようだし」
正門前にぞろぞろと集まってきた委員会の顔ぶれ。タカ丸が伊助と兵助の手を引っ張って小走りに駆けつけてきた。
「お待たせー。さっきそこで二人と会ったから一緒に」
「タカ丸さん、そんなに引っ張らないでくださいよ~」
「伊助もタカ丸さんも久々知先輩も遅いですよ。待ちくたびれすぎて日が暮れちゃうところでしたよ」
「すまんすまん。ちょっと自家製豆腐の様子を見に行っていたら遅くなってしまった」
また豆腐か。
その場にいた兵助以外が一同心の声を揃えた。豆腐小僧の異名を持つ兵助は悪びれた様子なく笑う。
「さて、揃ったことだし出発するとしよう」
「おー!」
「先輩、うどん屋で腹ごしらえをした後に寄りたい場所があるんですが」
「構わないぞ。町を見て歩くつもりだしな。……まあ、兵助のことだ。目をつけた豆腐屋があるんだろう」
「先輩もあのお豆腐屋さんをご存知でしたか! 最近そこのお豆腐がかなり評判でして。是非とも賞味したいんです」
出入り用の門から外へ出た兵助は目を爛々と輝かせた。
やっぱり豆腐か。
最後に門から出た三郎次と伊助は呆れた顔をしていた。と、そこで伊助は三郎次の後ろ姿に違和感を覚えた。何かが違う。首を捻り、その違和感は髪型であることに気がついた。
「三郎次先輩。いつもより髷の位置が低くないですか? 少しだけですけど」
「伊助くんも気がついた? 三郎次くん、結い直してあげようか」
何故髷の位置がそうなったのか理由を知らない伊助とタカ丸。元髪結いとしては「気になるのであれば直してあげたい」というお節介からの発言だ。
止まらない豆腐談義を傍らに紅蓮が三人の様子をちらりと窺った。三郎次は二人をぐっと睨みつけている。
「今日はこれでいいんだ。タカ丸さん、ぜっったいに髪結いしないでくださいよ!」
「う、うん。わかった」
「なんか様子が変ですよね。おかしな三郎次先輩」
「何かあったのかなぁ」
三郎次が少し離れた所でひそひそと頭を寄せて話す伊助とタカ丸。しかしその会話は筒抜けであった。
紅蓮の横についた三郎次が目を吊り上げ振り返る。
「聞こえてるぞ伊助!」
「うわあ、すみません!」
「ご、ごめんね三郎次くん」
「ほらほら、ケンカしてないでそろそろ行くぞ。本当に日が暮れてしまう。でも、何かあったんですか葉月先輩。お二人が先に正門で待っていましたよね」
その間に何かあったのではと着眼点が鋭い兵助の質問。短い時間のやり取りを明かされてしまうのでは。一松の不安が過った三郎次は無言で隣を見上げた。
兵助の問い掛けに対し紅蓮は端正な横顔に笑みを潜ませた。
「いや、何もなかった。小松田さん! それでは行って参ります」
「はーい! 門限までには戻ってくるようにねー! いってらっしゃい」
慌てて駆けつけてきた秀作は箒を片手に携えたままだ。まだ落ち葉を集めきれていないのだろう。
門から顔をひょっこりと覗かせ、笑顔で五人に手を振る。
「いってきます!」
五つの笑顔が小松田に手を振り返した。
快晴を迎えた忍術学園の空。
その好天気は午後まで崩れることなく、現在に至る。
週末の放課後に正門前で。
火薬委員会の後輩たちに委員長から予め声を掛けたのは週の始まりのこと。
先日の火薬壺搬入作業を労うべく、紅蓮は町で評判のうどん屋でご馳走すると一人ずつに声を掛けた。
授業が終わり次第、正門で落ち合う約束に四つの返事は快いものであった。
放課後を告げる鐘が鳴り終わった後、紅蓮は伊作と留三郎に「先に行く」と断りを入れ、忍たま長屋に戻ってきた。
自室の戸を閉め、手早く松葉色の学年装束から桐模様の上衣に袖を通し、藍色の袴を履く。脱いだ学年装束は乱れ箱にきれいに畳み、収めた。
菜の花色の風呂敷に荷物を包み、肩から前に掛けて結ぶ。懐に財布があることを確かめ、紅蓮は足早に自室を後にした。
はらり、ひらりと風に舞う落ち葉。
正門前に飛ばされてきた細かい枝や枯草を竹箒でせっせと履くのは事務員の小松田秀作。今日はまだ学園内に不法侵入する者も居らず、実に穏やかな表情で事務仕事をこなしていた。
ふと、近くで聞こえた足音に顔を上げると私服姿の三郎次が側に立っていた。秀作は手を止め、ふにゃりと笑う。
「三郎次くん。授業お疲れ様でした」
「小松田さんもお掃除お疲れ様です」
「今日は火薬委員会のみんなで町へお出かけする日だったね」
「えっ、どうしてそのことを」
「今朝、紅蓮くんが火薬委員会全員分の外出届を出してくれたんだ。放課後町に出かけにいくからって」
授業が始まるより前に事務室へ提出しに来たのだと秀作は得意げに話した。それをちゃんと受理したんだと胸を張ってみせる。
「三郎次くん楽しみで仕方ないんだねぇ。こうして待ち合わせ場所にも一番乗りだし」
「そっ、そんなことないですよ!」
三郎次は力一杯に否定した。焦りの色を浮かべながら。
そこまで否定することなのだろうかと秀作は目を丸め、首を傾げる。
「べ、別に楽しみなんかじゃ。ただ、一年ボーズよりは早く来ないと先輩として示しがつかないじゃないですか」
「うーん。そういうもんかなぁ」
「そうですよ! その為に一週間前から予習復習をきっちりこなして、わからない所はそのままにせず先生に聞いたり、図書の返却も昨日のうちに済ませたり。今日だって掃除当番だったけど真面目にやってすぐ終わらせてきたんですから」
息継ぎも曖昧なまま、そう言い切った。
ここ一週間、あまりに熱心な三郎次の姿を見た同級生が「めちゃくちゃ楽しみにしてるんだなぁ」と思っていたことを彼は知らない。言えば今のように「全然楽しみになんかしていない!」と反論する性格なのをよく知っているのだ。
秀作は瞬きをぱちぱちと繰り返した後、にっこりと三郎次に笑いかけた。
「うん。すごーく楽しみにしてたってことがよくわかったよ」
「そこまで楽しみにしてもらえて私も嬉しいよ」
「葉月先輩!? い、いつの間に。もしかして、今の話」
それはほんの少し前のこと。
正門前で秀作と後輩が何やら話をしているのを遠目で見た紅蓮。向かい風に乗った会話が耳に届いたのだ。一字一句とまではいかないが、今日のために様々な努力をした様子は伝わってきた。
盗み聞きするつもりは全くなかったと眉尻を下げる。
「ちょうど風下でな。聞こえてしまった」
「紅蓮くん。三郎次くんすっごく楽しみにしてるみたいだよ。良かったねぇ」
「ええ。……あ、小松田さん。集めた落ち葉が風で」
「ああっ! せっかく集めたのにい」
気まぐれな風が落ち葉を舞わせ、遊ばせる。
秀作は滑るように逃げるそれを追い掛けていった。箒を高く振り上げて。
「私が一番先かと思っていたが、三郎次に先を越されてしまったな」
「……いや、これはその」
三郎次の目は泳ぎ、新秋の紅葉を散らしたかのように顔が赤く染まる。先程の話をまるっと聞かれていたのかと思うと、何とも決まりが悪い。
今日という日を楽しみにしていたことに偽りはなかった。しかし一年生でもあるまいし、大喜びしているとも思われたくない。なんとも複雑な感情を小さなその胸に抱いていた。
それにもう一つ。先日、うっかり弱音を吐きかけたことも三郎次は気に留めていた。
宙を彷徨わせていた三郎次の視線はついに地面へと落ちた。
首の動きに合わせて結われた髷が流れる。その時に覚えた髪の違和感。微兆に気づいたその時にはもう、髪を括っていた元結がぷつりと切れていた。慌てて手を結び目に当てるも、それが助長してばさりと結んでいた髪が肩に広がってしまった。
指先に残ったのは元結の残骸。ぼろぼろに傷んでおり、真っ二つに千切れている。
「うわ」
「随分と長く使っていたんだな」
「二年に上がるよりずっと前から使ってたので。なんでこんな時に」
立て続けに起きた気まずい出来事に溜息が漏れる。替えの元結は今持っていない。
直ぐに長屋へ戻り、髪を結ってくると話す三郎次を紅蓮が「ちょっと待った」と呼び止めた。
紅蓮の懐から取り出されたのは、新品の元結と半月状の柘植櫛。
「これで良ければ使ってくれ。結ってやるから後ろを向いてくれないか」
「ええっ、悪いですよ。長屋に戻れば予備がありますし」
「だが今から戻っては遅くなるぞ。そろそろ伊助たちも来る頃合いだろうし。折角早めに来たんだから、このまま待っていた方がいい」
紅蓮の言うとおりであった。髪を結って戻って来た頃には他の火薬委員は全て揃っているだろう。一番最初に来ていた実績が解除されてしまう。それどころか「遅刻ですか三郎次先輩」とこれ見よがしに嫌味が飛んでくるであろう。
それは小さな自尊心がそれを許さなかった。
くるりと三郎次は背を紅蓮に向け「お願いします」と小声で仕方なしに髪結いを依頼することにした。
柳色の髪は特段傷んだ様子もなく、櫛が滑らかに通る。
実家が漁師ともなれば、潮風に晒され海水に浸かる頻度も高い。今は海岸から離れた陸で過ごすことが多い為か、タカ丸が目を光らせることもない。顧問や五年生の一部忍たまには「その髪は酷い」と掴みかかる。文字通り、髪を鷲掴みにして目を尖らせるのだ。
「意外と柔らかいんだな」
「そう、ですか? ……あまり手入れにはこだわってないので、タカ丸さんには内緒にしておいてください」
「執念を燃やしているからな、タカ丸は」
忍び笑いが三郎次の耳に届く。
多くの忍たまはタカ丸の早業髪結いを経験していた。そればかりか、曲者相手にも怯まず技を披露する。その仕上がりはどれも個性的な髪型。あんまりな髪型に敵は脱力し、無力化。効果が覿面な早業なのだ。
三郎次も何度かタカ丸に髪を結ってもらう――向こうから声を掛けてくる――機会があった。髪を引っ張られた、切られ過ぎたという事態も先ずない。髪に触れる指も、櫛を通す手つきも。何ら感情は湧かなかった。
しかし、今は何故かやおら頬に熱が帯びる。続けざまに失態を晒したせいか、それとも別の理由か。
三郎次がこの感情の名前を知るのはまだ先のことであった。
「私はタカ丸ほど髪結いが上手くない。そこは勘弁してくれ」
「だっ大丈夫です。むしろ先輩にこんなことをさせてしまって、すみません」
「気にするな。私がそうしたかっただけだから。……元結が切れたからといって、落ち込むことはないぞ」
思ってもいない言葉に三郎次は思わず振り向きそうになった。
元結が不意に切れたことにより、縁起が悪いと気にしているのだろう。紅蓮はそう考えていたのだ。
「縁が切れるだとか、不運が訪れるだとかよく言われるが私はそう思わない。それよりもこう考えた方がいい。身代わりとなってくれたと。先程ので三郎次に起きる悪いことが一つ減った。そう思えば心も軽くなる」
数々の不運に巻き込まれた者だからこそ言える言葉。不謹慎ながらも三郎次はそう思ってしまう。だが、その前向きな考え方は嫌いじゃないと胸に留めた。
「先輩って前向きですよね」
「嫌でもそうなるさ」
「……本当は、今日楽しみにしてたんです。委員会のみんなで出掛けること」
「ああ。私もだよ。授業の課題や実習で行くことは多いが、ただのんびりと見て回ること自体が久しぶりなんだ。だからみんな楽しみにしていてくれたと思うと嬉しい。よし、できた」
元の位置よりも少し低く、三郎次の髷が結われた。元結できっちりとした結び目、髪の弛みも目立たない。自分では満足のいく仕上がりにはなったが、本人としてはどうなのか。
「ありがとうございます」
「気に入らなかったらタカ丸に結い直してもらってくれ。ちょうど来たようだし」
正門前にぞろぞろと集まってきた委員会の顔ぶれ。タカ丸が伊助と兵助の手を引っ張って小走りに駆けつけてきた。
「お待たせー。さっきそこで二人と会ったから一緒に」
「タカ丸さん、そんなに引っ張らないでくださいよ~」
「伊助もタカ丸さんも久々知先輩も遅いですよ。待ちくたびれすぎて日が暮れちゃうところでしたよ」
「すまんすまん。ちょっと自家製豆腐の様子を見に行っていたら遅くなってしまった」
また豆腐か。
その場にいた兵助以外が一同心の声を揃えた。豆腐小僧の異名を持つ兵助は悪びれた様子なく笑う。
「さて、揃ったことだし出発するとしよう」
「おー!」
「先輩、うどん屋で腹ごしらえをした後に寄りたい場所があるんですが」
「構わないぞ。町を見て歩くつもりだしな。……まあ、兵助のことだ。目をつけた豆腐屋があるんだろう」
「先輩もあのお豆腐屋さんをご存知でしたか! 最近そこのお豆腐がかなり評判でして。是非とも賞味したいんです」
出入り用の門から外へ出た兵助は目を爛々と輝かせた。
やっぱり豆腐か。
最後に門から出た三郎次と伊助は呆れた顔をしていた。と、そこで伊助は三郎次の後ろ姿に違和感を覚えた。何かが違う。首を捻り、その違和感は髪型であることに気がついた。
「三郎次先輩。いつもより髷の位置が低くないですか? 少しだけですけど」
「伊助くんも気がついた? 三郎次くん、結い直してあげようか」
何故髷の位置がそうなったのか理由を知らない伊助とタカ丸。元髪結いとしては「気になるのであれば直してあげたい」というお節介からの発言だ。
止まらない豆腐談義を傍らに紅蓮が三人の様子をちらりと窺った。三郎次は二人をぐっと睨みつけている。
「今日はこれでいいんだ。タカ丸さん、ぜっったいに髪結いしないでくださいよ!」
「う、うん。わかった」
「なんか様子が変ですよね。おかしな三郎次先輩」
「何かあったのかなぁ」
三郎次が少し離れた所でひそひそと頭を寄せて話す伊助とタカ丸。しかしその会話は筒抜けであった。
紅蓮の横についた三郎次が目を吊り上げ振り返る。
「聞こえてるぞ伊助!」
「うわあ、すみません!」
「ご、ごめんね三郎次くん」
「ほらほら、ケンカしてないでそろそろ行くぞ。本当に日が暮れてしまう。でも、何かあったんですか葉月先輩。お二人が先に正門で待っていましたよね」
その間に何かあったのではと着眼点が鋭い兵助の質問。短い時間のやり取りを明かされてしまうのでは。一松の不安が過った三郎次は無言で隣を見上げた。
兵助の問い掛けに対し紅蓮は端正な横顔に笑みを潜ませた。
「いや、何もなかった。小松田さん! それでは行って参ります」
「はーい! 門限までには戻ってくるようにねー! いってらっしゃい」
慌てて駆けつけてきた秀作は箒を片手に携えたままだ。まだ落ち葉を集めきれていないのだろう。
門から顔をひょっこりと覗かせ、笑顔で五人に手を振る。
「いってきます!」
五つの笑顔が小松田に手を振り返した。