番外編
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追想
刀傷による負傷から療養を強いられていた紅蓮は監視の目を掻い潜り、学園の外に出ていた。
鉄壁の門番は偽書印の術で難なく突破し、学園の裏手側へと足を運ぶ。
見晴らしの良い景色は木枯らしに吹かれ、色褪せていた。
葉を落とした広葉樹は枝を空に伸ばし、沈黙を貫く。長い冬を耐え忍び、春を待ち続けていた。
一際強く、冷たい風が短い枯れ草を靡かせる。紅蓮の頬を、髪を撫ぜた。
遠くを見やるように立っていた紅蓮は傍らに聳える欅を見上げた。何層にも包まれた硬い冬芽。木肌には幾つもの小さな刺し傷。古いそれに交じり、新しい傷も増えていた。恐らくこれは紅蓮の後輩がつけた跡だろう。
一陣の風が吹き抜けた。
タンッ
「ねぇ、紅蓮」
タンッ
「紅蓮ってば」
欅の木に向かい、棒手裏剣を打ち込む友人に声を掛ける。しかしその手は止まることがない。
集中している彼の邪魔をするつもりは毛頭ない。だが、かれこれ半刻は手裏剣打ちを続けている。額から流れる汗も増えてきた。根を詰めすぎるのも良くない。そう思いながらも座って見守る咲之助。
ようやくその声が耳に届いたのか、紅蓮は手を止めた。袖口で額の汗を拭い、片手で風を仰ぐ。
「そろそろ休憩したら? 疲れちゃうよ」
「あと少し。打ち込んでから、休むよっ……くそっ、外した」
直線を描いた棒手裏剣は木肌を掠め、滑るように地面に落下した。
的にした欅の木に命中した棒手裏剣の数は好成績と言える。惜しくも落下した数と比較してもその成績は良い方だ。数ヶ月前から熱心に鍛錬を始めたにも関わらず、めきめきとその腕を上げた。
「七割八分ってとこかなー」
紅蓮は的から外れた棒手裏剣を先に拾い上げ、縦一列に刺さった棒手裏剣を一つずつ引き抜く。棒手裏剣は他の手裏剣よりも深く突き刺さる。車返しされにくい利点はあるが、練習用として放ったものを回収するには些か力を要した。
「……物によって、当たらない気がする。私の気の所為か」
三本目を引き抜いたところで漏れた愚痴という名の不満。それを口にしたところで己の技量不足の言い訳だ。そう取られるかと思いきや、紅蓮の友人は顔を輝かせた。
それはまるで、大輪の花が咲いたかのような明るい笑顔であった。
「気づいた? 気づいてくれた? そう、そうなんだよね。それぞれ個性があるんだ」
「……個性? 棒手裏剣に?」
引き抜いた棒手裏剣を手に持ち、裏表左右と傾けてみる。友の言葉を真剣に受け止めてはみたが、どれも同じに見える。紅蓮は眉を顰めていた。
「例えば」と咲之助が懐からじゃらりと数本の棒手裏剣を取り出した。その中から二本を選び抜き、紅蓮に手渡す。
「これと、これ。打ってみて」
「ああ」
「いつも通りにね。打ち方変えずに」
「わかった」
何の変哲のない二本の棒手裏剣。紅蓮が扱っていた三寸のものと長さ、重さも変わらず。特段変わった様子は見られない。
紅蓮は的である欅の木から数歩離れ、いつも通りの構えをとる。手の中で一度くるりと棒手裏剣を回した。
狙いを定め、素早く腕を振り下ろす。
タンッと小気味よい音を立て、一本目は見事命中。
続けて間髪入れずに二本目を打ち込む。しかし、それは僅か切っ先が逸れ、からんと音を立てて落ちた。
咲之助は欅の木にとんっと弾むような足取りで近寄り、惜しくも外れてしまった棒手裏剣を拾い上げて紅蓮の元へ。
その顔は至極嬉しそうでいて、嫌味を全く感じさせない笑顔を携えている。
「さて、じゃあ当たらなかったこれ。もう一度構えて。えーと、紅蓮の打ち方なら、うん。こうかな。この角度から勢いつけてみて」
棒手裏剣を紅蓮の手に握らせ、腕の位置、手首の角度を調整する指示を出す。一年生や二年生にはもう少し細かく入念な指示が必要だが、同級生の彼にならこれで充分伝わるだろう。
紅蓮もその大まかな指示で理解した様子で「わかった」と頷いた。
的を意識し、狙いを定めた箇所へ。
再度、打つ。
紅蓮が打ち込んだ棒手裏剣はすとんっと狙った一点に命中した。
自分の手癖とはまた違う手応えに目を丸くする紅蓮とパチパチと拍手を打つ咲之助。
「当たった」
「お見事っ! さてさて、では解説のお時間です。この二本の棒手裏剣、実は僅かに違いがあるんだよ」
引き抜いた棒手裏剣をそれぞれ片手に一本ずつ持ち、その違いを見つけてほしいと再び紅蓮に手渡した。
渡された咲之助愛用の棒手裏剣。それらを比べてみるが、特に違いは見つからない。
「よーく見て。ここ、僅かにしなってると思わない?」
「……本当だ。揃えて比べないとわからない差分だぞ、これ」
「そう。これが棒手裏剣の難しいところなんだよね。少しでも曲がってると中々思った通りには当たらない。打ち方をその都度変えてあげなきゃならないんだ」
「それで個性、か」
棒手裏剣は刺さる点が一点しかない。難易度は他の手裏剣よりも高く、そして技量の高さも要求される。
「鎖鎌投げるよりは簡単だけだどね。あれは回転するから狙いが定まりにくいし」と人差し指をぴっと立て、また笑ってみせる。
「これに気づいた紅蓮は一歩達人への道へ踏み出したのだ。上級者の道にようこそ〜!」
咲之助は両手を広げ、同じ武器を扱う相手は大歓迎だと大層ご機嫌な様子であった。
先日行われた種類問わずの手裏剣打ち試験。そこでは実技を得意とする咲之助が首位を占める結果となった。
彼は特に棒手裏剣を得意手とし、軽くて持ち運びやすいからと好んでいる。
「棒手裏剣は打つ者の癖にもより、棒手裏剣自体にも歪みや癖がある。それを瞬時に見抜いて打つ。つまり、そういうことだな」
「そうそう。紅蓮は飲み込みが早いね。紅蓮なら次の試験で一位狙えるよ。器用だし、腕が良いもの。首位争奪戦もそう遠くない話かも。楽しみだなぁ」
「まだ咲の足元にも及ばないよ。こうして教わらなければ気づかないこともあったし」
紅蓮はその場に腰を下ろし、仰向けに寝転んだ。空は青く、清々しい。
同じ様に咲之助も寝転がり、大の字になって両手両足を伸ばす。
「咲、これ少し借りててもいいか。違いを見極めたい」
「いいよー。印も付いてるから、他のと混ざらないから安心して。その子は特別癖がある"よもぎちゃん"」
「よもぎちゃんって、武器に名前つけてるのか」
「うん。よもぎ薫る時期に出逢ったんだ。とっても良い子なんだけど、少しお転婆なところがあって。あと、もう一本の方は"あんこちゃん"で」
嬉々と語る最中、はたと動きを止めた咲之助。身振り手振りもそのままに、笑顔のまま固まった。と、次の瞬間にはぽっと顔を赤らめた。まるで頬に椿の花が咲いたように。
「どうした?」
「いや、その……武器に名前つけてるとか、ちょっとおかしな子とか思われそうだなって」
紅顔を恥じる理由が意外なそれだったので、紅蓮は瞬きを数回した後に吹き出して笑い声をあげた。
「なんだ、そんなこと気にしてるのか。私は咲らしくて良いと思う。愛着が湧いて手にも馴染みやすそうだし、前に話してた付喪神の考え方も私は好きだ」
「……ほんと? うう、恥ずかしいなあ。つい気分が高揚したから喋っちゃった。このこと、黙っててよ。い組にバレたら馬鹿にされそう」
「その時は私が成敗してくれるさ。この秘密は墓場まで持っていくと誓うよ」
「うん。紅蓮は口が堅いから安心だ」
揺れる木漏れ日に目を細める。
気持ちの良い夏風。梅雨明けで伸びた青々とした草原をざわざわと駆け抜けていった。
小さな黄色い蝶々が蜜を求め、ふわふわと漂う。並ぶ二つの紫色を花を勘違いしたのか、それとも翅を休めにきたのか。咲之助の頭巾に止まる様を黙って見ていた。
「それにしても、急に棒手裏剣打ち込み始めたよね。この場所で、みんなの目を盗んでさ」
紅蓮が主とする武器は握り物である六尺棒。実家が棒術の道場を開いているので、その理由は誰もが納得している。腕は確かなものであり、このまま得意武器としていくのかと思いきやだ。
先日から他の武器の鍛錬を熱心に行うようになったのだ。決して実技の成績が悪いわけでもないが、その中でも棒手裏剣を選択した。
なぜだろうか。咲之助が空に浮かぶ白い雲を見上げ、唸る。紅蓮は黙っていた。
その間にあった出来事といえば。ろ組との武器を使用した組手が行われたことを咲之助は思い出す。紅蓮は小平太と対戦したことも。そこでぴんと思いついた一説。
「もしかして、小平太に六尺棒へし折られたこと気にしてるの」
「気にしてない」
低い、あからさまに機嫌の悪い声が隣から聞こえた。その顔はむすっとしており、口をへの字に曲げている。
言葉とは裏腹にかなり気にしているようだ。これには咲之助も思わず苦笑いしかない。紅蓮は負けず嫌いの節があるのだ。
「小平太、力が強いからね。押し切られると勝ち目がないよね」
不意にがばりと紅蓮が上半身を起こした。切れた短い草がはらはらと頭巾から落ちる。
その顔は不機嫌に怒るどころか、共感を得られたと目を見張っていた。「わかってくれるか、友よ」とでも言いたそうである。
「そうなんだよ。だから、主たる武器を失った時の備えを考えたくて」
「いいと思う。得意武器は一つだけじゃ心許ないから。複数扱えるようにするの賛成だな。使えるものは何でも使うのが忍者だもんね。それで手裏剣かぁ。でもなんで棒手裏剣?」
「持ち運びがしやすい。それに咲が得意だろ? 教えてもらおうと思って」
咲之助も上半身を勢いよく起こし、紅蓮の顔を見てにこりと笑った。人懐っこく、愛くるしい表情は他人を安心させる。即ち、他者の心に潜りやすい。巧みな話術で情報を聞き出すことを得意としていた。因みに女装の授業はい組の立花仙蔵に次いで評価も良い。
そんな彼でも、気の置ける友には甘い節がある。
「もちろんいいよ! 紅蓮の戦闘型なら素早さ活かすのもありじゃないかなぁ。それで敵を翻弄するんだ。この間の組手を見ててそう思ったよ」
「あの時は殆ど余裕がなかった。小平太から距離を取るので精一杯だったよ」
「それでも反撃の手を緩めずにいた紅蓮も凄いよ。先生も咄嗟の判断力が培われてるって褒めてたし」
主要武器を失ったにも関わらず、手持ちの忍具で相手を牽制し隙を窺う戦法を取った。持ち前の柔軟性を活かし一時は優勢となるも、惜しくも一本取られてしまう結末となってしまったが。
「時と場合によって戦闘の型を変えるのはありだな。……咲?」
守り、攻め。それぞれの型を確立させれば余裕も生まれる。臨機応変に立ち回ることができれば尚良い。
今後はその戦法でいこう。紅蓮が頷く傍ら、咲之助はじっと彼の顔を見つめていた。
「どうしたんだ」
「紅蓮は将来実家の道場を継ぐんだよね」
「まあ、そのつもり」
「紅蓮なら一流忍者も目指せると思うんだよなぁ。でも、道場師範の紅蓮もかっこいいよね。沢山の門下生を前に指導する師範代の紅蓮、そしてゆくゆくは師範に。想像しただけで最高にかっこいいよ」
半ば興奮した様子で遠い明日を語るものだから、まだまだ先の話だと眉尻を下げた紅蓮。
「だいぶ先の話だぞ」
「ね、卒業したら遊びに行ってもいい? 紅蓮の実家に」
「ああ。……その時は、うちの流派で良ければ教えるよ」
この時ばかりは満更でもなかった。
胸の前で小さくガッツポーズを取る咲之助の顔は、この空の様に晴れやかなものであった。
日が暮れるまで友と語らい合うのは忍術にとどまらず世間話まで。
二人の笑い声は夏の風に乗り、遠く運ばれた場所で、掻き消された。
冷たい上風が吹き抜ける。
緩く首に巻いた襟巻が風に連れて行かれそうになり、左手でそれを押さえた。もう片方の手に握るのは懐から取り出した一本の棒手裏剣。丁寧に磨かれたそれは錆一つすら見当たらない。尾の方には目印のようなものが刻まれている。
ゆっくりと瞬きを一つ。
風が止むのを待つよりも先に、目を開けた瞬間に欅の幹を目掛け素早く腕を振り下ろした。
タンッ
僅かなブレもなく、風の抵抗を無視したそれは一直線に飛ぶ。紅蓮が狙いを定めた箇所に静かに命中し、深々と突き刺さった。
あの日の様に、自分を褒める声は一向に聞こえてはこない。
「お前にこの上達ぶりを見せられなくて残念だよ」
伏せた目に映るは懐かしい、友の姿。
此処にはもういない友へ語り掛けるように紅蓮は薄い唇を開く。
「咲。私は何者になれば良いんだろうな。あの時までは確かに目指していたものがあった。だが、今は。朧気になってしまった私の道はどこへ続いているんだろうな」
吐息は白く曇り、たちまちに消えていった。
「葉月先輩! やっぱりこんな所に」
欅の木に背を預けていた紅蓮は聞き慣れた呼び声に目をゆっくりと開けた。
襟巻に顔を半分ばかりをうずめていたその姿に三郎次はぎょっとする。真冬かつ療養中だというのに、身に着けた防寒具はそれだけなのだ。雪が降り出しそうな厚い雲が空を覆ってもいる。
「伊作先輩が探していらっしゃいましたよ」
「もうバレてしまったのか。緊急会議だと聞いたから抜け出してきたというのに」
急遽保健委員会で会議を行うと慌ただしく出て行った伊作。留三郎も委員会活動で長屋を留守にしている。紅蓮はこれは好機と捉え抜け出した。その話を聞いた三郎次は呆れ半分に笑って返す。
「こんな所で何を」
「昼寝」
「正気ですか!? 凍えますよ!」
思わず真っ当な反応を返した。そこで慌てて口を閉じる三郎次。彼は年上に対してもずばずばと言う方なのだ。それに対して紅蓮は特に気に留めず、悪戯に笑い返した。
「冗談だ。ちょっとこの風景が見たくなったんだ」
特段、景色が良い場所ではない。静かで、見晴らしが良いだけだ。
二人の目に映る景色は物悲しいもの。
紅蓮がこの場に足を運ぶ理由が何かあるのだろう。気になりはすれど、三郎次はまだそれを聞けずにいた。
「冬は少し物悲しいですね、ここ」
「草木が眠ればどこもこんなものさ。春が起こしにくればまた緑も生い茂り、花も咲く」
そして、桜咲くその頃には最上級生が学園を去る。
いよいよもって近付いてきた卒業の二文字。これが余計に哀愁を纏わせているのかもしれない。
迫る寂しさに背を向け、笑って見送ると約束を交わしたあの日。されど、やはり学園生活で見慣れた先輩の姿が見えなくなるのは寂しい。
三郎次はある話を紅蓮に持ち掛けることに躊躇っていた。卒業試験から負傷して戻ってきたことがそれを助長してしまった。
もう少し先にしよう。そうも考えていたのだが、もはや猶予している場合ではない。
「先輩。烏滸がましいかもしれませんが、棒術の稽古をつけていただけませんか」
それは紅蓮にとって思いがけない言葉であった。冷たい空気を吸い込んだあまりに、声を呑む。
熱望の眼差しで教えを乞う後輩は真っすぐに見つめてくる。僅か、その表情が亡き友と重なりかける。
紅蓮は襟巻に顔を伏せ、徐に目を瞑った。その仕草が躊躇しているものだと思ったのだろう。三郎次の表情に陰りが差す。
顔を上げた紅蓮は、満更でもない様子で口元に笑みを浮かべていた。
「うちの流派で良ければ教えよう」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」
「私の療養は今日で明ける。明日から早速やるとするか。先ずは基本の型からだな……ああ、三郎次の都合を聞いていなかった」
「ぼくは大丈夫ですけど。葉月先輩、お身体の方は」
「これ以上怠けていたら地蔵になってしまうよ。私の肩慣らしにも付き合ってくれると助かる」
「はいっ」
「さてと、伊作の頭にツノが生える前に戻るとするか。三郎次、報せに来てくれて有難う」
一足早く春の花を咲かせた顔と、それを見守る親愛の目。
欅の木から二つの足音が遠ざかっていった。
刀傷による負傷から療養を強いられていた紅蓮は監視の目を掻い潜り、学園の外に出ていた。
鉄壁の門番は偽書印の術で難なく突破し、学園の裏手側へと足を運ぶ。
見晴らしの良い景色は木枯らしに吹かれ、色褪せていた。
葉を落とした広葉樹は枝を空に伸ばし、沈黙を貫く。長い冬を耐え忍び、春を待ち続けていた。
一際強く、冷たい風が短い枯れ草を靡かせる。紅蓮の頬を、髪を撫ぜた。
遠くを見やるように立っていた紅蓮は傍らに聳える欅を見上げた。何層にも包まれた硬い冬芽。木肌には幾つもの小さな刺し傷。古いそれに交じり、新しい傷も増えていた。恐らくこれは紅蓮の後輩がつけた跡だろう。
一陣の風が吹き抜けた。
タンッ
「ねぇ、紅蓮」
タンッ
「紅蓮ってば」
欅の木に向かい、棒手裏剣を打ち込む友人に声を掛ける。しかしその手は止まることがない。
集中している彼の邪魔をするつもりは毛頭ない。だが、かれこれ半刻は手裏剣打ちを続けている。額から流れる汗も増えてきた。根を詰めすぎるのも良くない。そう思いながらも座って見守る咲之助。
ようやくその声が耳に届いたのか、紅蓮は手を止めた。袖口で額の汗を拭い、片手で風を仰ぐ。
「そろそろ休憩したら? 疲れちゃうよ」
「あと少し。打ち込んでから、休むよっ……くそっ、外した」
直線を描いた棒手裏剣は木肌を掠め、滑るように地面に落下した。
的にした欅の木に命中した棒手裏剣の数は好成績と言える。惜しくも落下した数と比較してもその成績は良い方だ。数ヶ月前から熱心に鍛錬を始めたにも関わらず、めきめきとその腕を上げた。
「七割八分ってとこかなー」
紅蓮は的から外れた棒手裏剣を先に拾い上げ、縦一列に刺さった棒手裏剣を一つずつ引き抜く。棒手裏剣は他の手裏剣よりも深く突き刺さる。車返しされにくい利点はあるが、練習用として放ったものを回収するには些か力を要した。
「……物によって、当たらない気がする。私の気の所為か」
三本目を引き抜いたところで漏れた愚痴という名の不満。それを口にしたところで己の技量不足の言い訳だ。そう取られるかと思いきや、紅蓮の友人は顔を輝かせた。
それはまるで、大輪の花が咲いたかのような明るい笑顔であった。
「気づいた? 気づいてくれた? そう、そうなんだよね。それぞれ個性があるんだ」
「……個性? 棒手裏剣に?」
引き抜いた棒手裏剣を手に持ち、裏表左右と傾けてみる。友の言葉を真剣に受け止めてはみたが、どれも同じに見える。紅蓮は眉を顰めていた。
「例えば」と咲之助が懐からじゃらりと数本の棒手裏剣を取り出した。その中から二本を選び抜き、紅蓮に手渡す。
「これと、これ。打ってみて」
「ああ」
「いつも通りにね。打ち方変えずに」
「わかった」
何の変哲のない二本の棒手裏剣。紅蓮が扱っていた三寸のものと長さ、重さも変わらず。特段変わった様子は見られない。
紅蓮は的である欅の木から数歩離れ、いつも通りの構えをとる。手の中で一度くるりと棒手裏剣を回した。
狙いを定め、素早く腕を振り下ろす。
タンッと小気味よい音を立て、一本目は見事命中。
続けて間髪入れずに二本目を打ち込む。しかし、それは僅か切っ先が逸れ、からんと音を立てて落ちた。
咲之助は欅の木にとんっと弾むような足取りで近寄り、惜しくも外れてしまった棒手裏剣を拾い上げて紅蓮の元へ。
その顔は至極嬉しそうでいて、嫌味を全く感じさせない笑顔を携えている。
「さて、じゃあ当たらなかったこれ。もう一度構えて。えーと、紅蓮の打ち方なら、うん。こうかな。この角度から勢いつけてみて」
棒手裏剣を紅蓮の手に握らせ、腕の位置、手首の角度を調整する指示を出す。一年生や二年生にはもう少し細かく入念な指示が必要だが、同級生の彼にならこれで充分伝わるだろう。
紅蓮もその大まかな指示で理解した様子で「わかった」と頷いた。
的を意識し、狙いを定めた箇所へ。
再度、打つ。
紅蓮が打ち込んだ棒手裏剣はすとんっと狙った一点に命中した。
自分の手癖とはまた違う手応えに目を丸くする紅蓮とパチパチと拍手を打つ咲之助。
「当たった」
「お見事っ! さてさて、では解説のお時間です。この二本の棒手裏剣、実は僅かに違いがあるんだよ」
引き抜いた棒手裏剣をそれぞれ片手に一本ずつ持ち、その違いを見つけてほしいと再び紅蓮に手渡した。
渡された咲之助愛用の棒手裏剣。それらを比べてみるが、特に違いは見つからない。
「よーく見て。ここ、僅かにしなってると思わない?」
「……本当だ。揃えて比べないとわからない差分だぞ、これ」
「そう。これが棒手裏剣の難しいところなんだよね。少しでも曲がってると中々思った通りには当たらない。打ち方をその都度変えてあげなきゃならないんだ」
「それで個性、か」
棒手裏剣は刺さる点が一点しかない。難易度は他の手裏剣よりも高く、そして技量の高さも要求される。
「鎖鎌投げるよりは簡単だけだどね。あれは回転するから狙いが定まりにくいし」と人差し指をぴっと立て、また笑ってみせる。
「これに気づいた紅蓮は一歩達人への道へ踏み出したのだ。上級者の道にようこそ〜!」
咲之助は両手を広げ、同じ武器を扱う相手は大歓迎だと大層ご機嫌な様子であった。
先日行われた種類問わずの手裏剣打ち試験。そこでは実技を得意とする咲之助が首位を占める結果となった。
彼は特に棒手裏剣を得意手とし、軽くて持ち運びやすいからと好んでいる。
「棒手裏剣は打つ者の癖にもより、棒手裏剣自体にも歪みや癖がある。それを瞬時に見抜いて打つ。つまり、そういうことだな」
「そうそう。紅蓮は飲み込みが早いね。紅蓮なら次の試験で一位狙えるよ。器用だし、腕が良いもの。首位争奪戦もそう遠くない話かも。楽しみだなぁ」
「まだ咲の足元にも及ばないよ。こうして教わらなければ気づかないこともあったし」
紅蓮はその場に腰を下ろし、仰向けに寝転んだ。空は青く、清々しい。
同じ様に咲之助も寝転がり、大の字になって両手両足を伸ばす。
「咲、これ少し借りててもいいか。違いを見極めたい」
「いいよー。印も付いてるから、他のと混ざらないから安心して。その子は特別癖がある"よもぎちゃん"」
「よもぎちゃんって、武器に名前つけてるのか」
「うん。よもぎ薫る時期に出逢ったんだ。とっても良い子なんだけど、少しお転婆なところがあって。あと、もう一本の方は"あんこちゃん"で」
嬉々と語る最中、はたと動きを止めた咲之助。身振り手振りもそのままに、笑顔のまま固まった。と、次の瞬間にはぽっと顔を赤らめた。まるで頬に椿の花が咲いたように。
「どうした?」
「いや、その……武器に名前つけてるとか、ちょっとおかしな子とか思われそうだなって」
紅顔を恥じる理由が意外なそれだったので、紅蓮は瞬きを数回した後に吹き出して笑い声をあげた。
「なんだ、そんなこと気にしてるのか。私は咲らしくて良いと思う。愛着が湧いて手にも馴染みやすそうだし、前に話してた付喪神の考え方も私は好きだ」
「……ほんと? うう、恥ずかしいなあ。つい気分が高揚したから喋っちゃった。このこと、黙っててよ。い組にバレたら馬鹿にされそう」
「その時は私が成敗してくれるさ。この秘密は墓場まで持っていくと誓うよ」
「うん。紅蓮は口が堅いから安心だ」
揺れる木漏れ日に目を細める。
気持ちの良い夏風。梅雨明けで伸びた青々とした草原をざわざわと駆け抜けていった。
小さな黄色い蝶々が蜜を求め、ふわふわと漂う。並ぶ二つの紫色を花を勘違いしたのか、それとも翅を休めにきたのか。咲之助の頭巾に止まる様を黙って見ていた。
「それにしても、急に棒手裏剣打ち込み始めたよね。この場所で、みんなの目を盗んでさ」
紅蓮が主とする武器は握り物である六尺棒。実家が棒術の道場を開いているので、その理由は誰もが納得している。腕は確かなものであり、このまま得意武器としていくのかと思いきやだ。
先日から他の武器の鍛錬を熱心に行うようになったのだ。決して実技の成績が悪いわけでもないが、その中でも棒手裏剣を選択した。
なぜだろうか。咲之助が空に浮かぶ白い雲を見上げ、唸る。紅蓮は黙っていた。
その間にあった出来事といえば。ろ組との武器を使用した組手が行われたことを咲之助は思い出す。紅蓮は小平太と対戦したことも。そこでぴんと思いついた一説。
「もしかして、小平太に六尺棒へし折られたこと気にしてるの」
「気にしてない」
低い、あからさまに機嫌の悪い声が隣から聞こえた。その顔はむすっとしており、口をへの字に曲げている。
言葉とは裏腹にかなり気にしているようだ。これには咲之助も思わず苦笑いしかない。紅蓮は負けず嫌いの節があるのだ。
「小平太、力が強いからね。押し切られると勝ち目がないよね」
不意にがばりと紅蓮が上半身を起こした。切れた短い草がはらはらと頭巾から落ちる。
その顔は不機嫌に怒るどころか、共感を得られたと目を見張っていた。「わかってくれるか、友よ」とでも言いたそうである。
「そうなんだよ。だから、主たる武器を失った時の備えを考えたくて」
「いいと思う。得意武器は一つだけじゃ心許ないから。複数扱えるようにするの賛成だな。使えるものは何でも使うのが忍者だもんね。それで手裏剣かぁ。でもなんで棒手裏剣?」
「持ち運びがしやすい。それに咲が得意だろ? 教えてもらおうと思って」
咲之助も上半身を勢いよく起こし、紅蓮の顔を見てにこりと笑った。人懐っこく、愛くるしい表情は他人を安心させる。即ち、他者の心に潜りやすい。巧みな話術で情報を聞き出すことを得意としていた。因みに女装の授業はい組の立花仙蔵に次いで評価も良い。
そんな彼でも、気の置ける友には甘い節がある。
「もちろんいいよ! 紅蓮の戦闘型なら素早さ活かすのもありじゃないかなぁ。それで敵を翻弄するんだ。この間の組手を見ててそう思ったよ」
「あの時は殆ど余裕がなかった。小平太から距離を取るので精一杯だったよ」
「それでも反撃の手を緩めずにいた紅蓮も凄いよ。先生も咄嗟の判断力が培われてるって褒めてたし」
主要武器を失ったにも関わらず、手持ちの忍具で相手を牽制し隙を窺う戦法を取った。持ち前の柔軟性を活かし一時は優勢となるも、惜しくも一本取られてしまう結末となってしまったが。
「時と場合によって戦闘の型を変えるのはありだな。……咲?」
守り、攻め。それぞれの型を確立させれば余裕も生まれる。臨機応変に立ち回ることができれば尚良い。
今後はその戦法でいこう。紅蓮が頷く傍ら、咲之助はじっと彼の顔を見つめていた。
「どうしたんだ」
「紅蓮は将来実家の道場を継ぐんだよね」
「まあ、そのつもり」
「紅蓮なら一流忍者も目指せると思うんだよなぁ。でも、道場師範の紅蓮もかっこいいよね。沢山の門下生を前に指導する師範代の紅蓮、そしてゆくゆくは師範に。想像しただけで最高にかっこいいよ」
半ば興奮した様子で遠い明日を語るものだから、まだまだ先の話だと眉尻を下げた紅蓮。
「だいぶ先の話だぞ」
「ね、卒業したら遊びに行ってもいい? 紅蓮の実家に」
「ああ。……その時は、うちの流派で良ければ教えるよ」
この時ばかりは満更でもなかった。
胸の前で小さくガッツポーズを取る咲之助の顔は、この空の様に晴れやかなものであった。
日が暮れるまで友と語らい合うのは忍術にとどまらず世間話まで。
二人の笑い声は夏の風に乗り、遠く運ばれた場所で、掻き消された。
冷たい上風が吹き抜ける。
緩く首に巻いた襟巻が風に連れて行かれそうになり、左手でそれを押さえた。もう片方の手に握るのは懐から取り出した一本の棒手裏剣。丁寧に磨かれたそれは錆一つすら見当たらない。尾の方には目印のようなものが刻まれている。
ゆっくりと瞬きを一つ。
風が止むのを待つよりも先に、目を開けた瞬間に欅の幹を目掛け素早く腕を振り下ろした。
タンッ
僅かなブレもなく、風の抵抗を無視したそれは一直線に飛ぶ。紅蓮が狙いを定めた箇所に静かに命中し、深々と突き刺さった。
あの日の様に、自分を褒める声は一向に聞こえてはこない。
「お前にこの上達ぶりを見せられなくて残念だよ」
伏せた目に映るは懐かしい、友の姿。
此処にはもういない友へ語り掛けるように紅蓮は薄い唇を開く。
「咲。私は何者になれば良いんだろうな。あの時までは確かに目指していたものがあった。だが、今は。朧気になってしまった私の道はどこへ続いているんだろうな」
吐息は白く曇り、たちまちに消えていった。
「葉月先輩! やっぱりこんな所に」
欅の木に背を預けていた紅蓮は聞き慣れた呼び声に目をゆっくりと開けた。
襟巻に顔を半分ばかりをうずめていたその姿に三郎次はぎょっとする。真冬かつ療養中だというのに、身に着けた防寒具はそれだけなのだ。雪が降り出しそうな厚い雲が空を覆ってもいる。
「伊作先輩が探していらっしゃいましたよ」
「もうバレてしまったのか。緊急会議だと聞いたから抜け出してきたというのに」
急遽保健委員会で会議を行うと慌ただしく出て行った伊作。留三郎も委員会活動で長屋を留守にしている。紅蓮はこれは好機と捉え抜け出した。その話を聞いた三郎次は呆れ半分に笑って返す。
「こんな所で何を」
「昼寝」
「正気ですか!? 凍えますよ!」
思わず真っ当な反応を返した。そこで慌てて口を閉じる三郎次。彼は年上に対してもずばずばと言う方なのだ。それに対して紅蓮は特に気に留めず、悪戯に笑い返した。
「冗談だ。ちょっとこの風景が見たくなったんだ」
特段、景色が良い場所ではない。静かで、見晴らしが良いだけだ。
二人の目に映る景色は物悲しいもの。
紅蓮がこの場に足を運ぶ理由が何かあるのだろう。気になりはすれど、三郎次はまだそれを聞けずにいた。
「冬は少し物悲しいですね、ここ」
「草木が眠ればどこもこんなものさ。春が起こしにくればまた緑も生い茂り、花も咲く」
そして、桜咲くその頃には最上級生が学園を去る。
いよいよもって近付いてきた卒業の二文字。これが余計に哀愁を纏わせているのかもしれない。
迫る寂しさに背を向け、笑って見送ると約束を交わしたあの日。されど、やはり学園生活で見慣れた先輩の姿が見えなくなるのは寂しい。
三郎次はある話を紅蓮に持ち掛けることに躊躇っていた。卒業試験から負傷して戻ってきたことがそれを助長してしまった。
もう少し先にしよう。そうも考えていたのだが、もはや猶予している場合ではない。
「先輩。烏滸がましいかもしれませんが、棒術の稽古をつけていただけませんか」
それは紅蓮にとって思いがけない言葉であった。冷たい空気を吸い込んだあまりに、声を呑む。
熱望の眼差しで教えを乞う後輩は真っすぐに見つめてくる。僅か、その表情が亡き友と重なりかける。
紅蓮は襟巻に顔を伏せ、徐に目を瞑った。その仕草が躊躇しているものだと思ったのだろう。三郎次の表情に陰りが差す。
顔を上げた紅蓮は、満更でもない様子で口元に笑みを浮かべていた。
「うちの流派で良ければ教えよう」
「ほ、本当ですか! ありがとうございます!」
「私の療養は今日で明ける。明日から早速やるとするか。先ずは基本の型からだな……ああ、三郎次の都合を聞いていなかった」
「ぼくは大丈夫ですけど。葉月先輩、お身体の方は」
「これ以上怠けていたら地蔵になってしまうよ。私の肩慣らしにも付き合ってくれると助かる」
「はいっ」
「さてと、伊作の頭にツノが生える前に戻るとするか。三郎次、報せに来てくれて有難う」
一足早く春の花を咲かせた顔と、それを見守る親愛の目。
欅の木から二つの足音が遠ざかっていった。