第一部
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六|視界に映る紫暗の髪
課された卒業試験を突破してから数日が経過した。
今日は小平太たちが挑む。数日前から陽動作戦を取り、出城から密書を盗み出す忍務だと長次から聞いた。そろそろ六年生の卒業試験が全て終わる。今のところ脱落者はいないと聞いた。
山賊退治を終え、明朝に廃寺を出発した日のことだ。
学園への帰路に着く道中で、まさか伊作と後輩たちが出迎えに来ているとは夢にも思わず。怪我の程度を後輩たちに悟られぬように平静を装うも、相当な脂汗を流していたらしい。
処置は校医と保健委員長で行うからと他者を閉め出した後、お二人から説教を頂戴した。
「止血が後少しでも遅ければ命はなかった」
「二週間は安静にしていること」
「監視は私がします。くれぐれも夜間鍛錬とかには行かないようにね」
傷口を縫合する痛みよりも、諸々の説教の方が耳に痛かった。
傷痕は残る。やりきれない言葉が新野先生から零れた。私の代わりに嘆いてくれる人がいるだけで掬われるというもの。
適切な処置のおかげで日常生活に影響をきたすことは然程なかった。二、三日ほど身体を動かさずにいたおかげもある。裂けた傷口も少しずつ塞がってきた。食堂のおばちゃんが作る栄養価の高い料理のおかげだ。
身体の修復に力が集中しているのか、日中に襲いくる酷い眠気はこの際致し方なかった。
委員会の後輩が度々見舞いにも来てくれた。袈裟懸け巻かれた包帯が制服の衿から覗いたのだろう。痛々しいと顔を歪めるものだから「もう痛みはない」と優しく宥めた。火薬委員会は兵助が委員長代理として動いている。その様子の報告を三郎次と石人がしてくれたのだが、半分は豆腐のことであった。相変わらずだとこれには私も苦笑いしかない。
和気藹々とした委員会活動の風景が目に浮かぶ。委員会の顔ぶれがこのまま変わらなければ、来期も安泰だろう。
療養八日目。
私は自室にいることも飽きたので、隣の伊作を訪れた。
この時期は自習時間が多くなる。提出する課題をとうに終わらせた私は伊作の調合に付き合わされていた。文机の周囲に無造作に置かれた貸出図書。長次に見られないといいのだが。雑に扱うと怒るからな、あいつ。薬草、東洋医学、人体などの医学に関するものばかりだった。
私は伊作の指示通りに頁を捲り、薬草を仕分ける。昨日、留三郎と共に収穫してきた薬草で傷薬を作るそうだ。竹籠に山となって摘まれた薬草はまだ半分も減っていない。
「助かるよ、紅蓮」
「こっちも暇だから。いい加減身体を動かさないと鉛になってしまいそうだけどな」
「僕としては横になって休んでてもらいたいんだけどね」
「そろそろ棒手裏剣の一つでも打ちたいんだが」
「駄目です」
ぴしゃりと言い放つ伊作。保健委員長のお許しが出なければ、満足に身体を動かすこともできない。
実はというと、既に脇腹の傷口が二回も開いた。一度目は留三郎、文次郎を宥めた際。二度目は委員会活動に顔を出した時だ。目の前でタカ丸が落とし穴に落下し、反射的に腕を伸ばしてタカ丸の手を掴んだ。鋭い痛みが走ったのは後者の方で、後輩の前で隠し通すのは必死だった。
そして傷口が開く度に「傷痕が深くなるでしょ!」と伊作に怒られる。誰も好きで傷口を開いているわけじゃないんだ。
手裏剣一つ打つのを許されない期間。それでも忍具の手入れだけは怠らない。出番がない懐の忍具は新品同様の輝きを放ち始めていた。
乳鉢でごりごりと薬草をすり潰す音。
薬草同士が擦れ合う音。本の頁を捲る音。
私はそれに交じる微かな音を耳に捉え、顔を上げた。天井、床下、廊下の気配を窺う。
「どうかした?」
「いや、今誰かいた気がした」
「僕は特に感じなかったけど」
「……気の所為か。悪い。最近少し過敏になっているみたいで」
物音、遠ざかる足音の類は聞こえない。どうやら気の所為のようだ
学園に戻ってきてからというものの、妙な視線を感じる機会が増えた。表立ったものとはまた別で、こっそりとこちらを窺うようなものだ。視線の主が大方見当がついているので、どうにも歯痒く。
知らぬうちに漏れた溜息を拾い上げた伊作の顔が曇る。
「誰かにつけられてるとか」
「どうだろうな。……まあ、大方見当はついているんだ」
「一体誰が」
伊作の表情に険しさが増す。
日頃共に行動をしているというのに、伊作は気づいていない様子。実技と委員会活動以外は負傷者の監視という名目で移動中は四六時中私のことを見張っているのに。
無理もないか。私は短い溜息を吐いた。
「仙蔵だよ。あの一件以来、やたらと奴の視線と気配を感じる」
煩わしい。私がそう零すと伊作の手が止まった。目を珠のように丸くしたかと思えば、何とも言えぬ複雑な表情を浮かべる。
「心配してるんじゃないのかな」
「見舞いに来るまではわかる。だが、それ以外の場面でもあいつの視線が刺さって鬱陶しい。一体なんだって言うんだ。言いたいことがあるなら直接言えばいいだろ」
積もりに積もった不満が爆発しかけていた。伊作に不満をぶつけたとてただの愚痴として消化されることは十も承知の上。
仙蔵に私が女だとバレたことは伊作と留三郎に話した。残り少ない学園生活。今更不都合もないと踏んで特に口止めもしていないのだが。
「強請りに使えそうだと思われていそうな気がしてならない」
「それはないんじゃないかな。多分」
「あいつは作法委員会だぞ。確かに試験の時は仙蔵に助けられて感謝はしている。恩を着せるつもりもないとは言っていた。でもそれとこれとは別問題だ。油断ならん」
私は勢いのまま言葉を吐き捨て、籠から薬草を手で掴んだ。薬草の独特な匂いが強く香る。
ごりごりと薬草を潰す音が再び聞こえてきた。
「仙蔵なりに心配してるだけだよ、きっと」
「そうだといいな」
会話はそこで途切れた。
互いに作業に集中しているだけなのだと、そう思っていた。伊作の真面目な声色を聞くまでは。
「紅蓮。まだ言っていなかったんだけどさ」
「ああ、なんだ」
「僕、忍者にはならずに医者になることにしたよ」
私の手からドクダミの葉が滑り落ちた。
顔を上げた先で伊作は穏やかに、いつものように微笑んでいる。冗談や嘘を吐く目では到底ない。
伊作は、この間見城から内定を貰っていたはずだろう。嫌な予感に胸が、締め付けられた。
「悪い噂をあちらが耳にしたようでね。ついこの間、取り消されてしまったんだ」
不運だから。先方がそれを強く気に留めた。理由を淡々と話す伊作に私は声が出せずにいた。
内定を貰ったと聞いた時は留三郎と共に喜びを分かち合ったというのに。どうしてこんなことに。
無意識に握られていた拳。私の手のひらには血が滲んでいた。
「まあ、おかげで医者を心置きなく目指せるから良いんだけど。卒業後は新野先生について医学を学ぶ。忍術の知識は活かせるし無駄にはならないよ」
伊作は自分の考えを、そう話した。「医学の知識を更に身に着けたい」と四年の頃からそう、言っていた。
そう、二年前だ。あの時から。
四年次の夏季休暇に入る前、私たちは合戦場での実習に赴いた。
実習を終え、続々と学園に戻る同級生たち。ただ、一人だけが戻って来なかった。
同級生の平間咲之助が命を落とした。私たちの大切な友人だった。
『そうそう。紅蓮は飲み込みが早いね。紅蓮なら次の試験で一位狙えるよ。器用だし、腕が良いもの。首位争奪戦もそう遠くない話かも。楽しみだなぁ』
あいつの、咲の声が、鮮明に聞こえた気がした。
目の奥が熱い。流すまいと決めていた涙が堰を切ったように溢れる。
声を押し殺して泣くうちに脇腹の痛みが増していった。同情、苦痛、哀悼。最早どれが感情の優位に立っているのか、私にはわからなかった。激しく渦巻く感情が、止まない。
「紅蓮は優しいね。僕はいい友達に恵まれたよ。本当に」
ぼやけて霞む視界に伊作の影が映る。
陽だまりのように温かな手の平が触れた。幼子をあやすように頭を優しく撫でつける伊作の手。
胸に穴が空いたあの日も、私が泣き止むまでずっと、そうしてくれていた。
課された卒業試験を突破してから数日が経過した。
今日は小平太たちが挑む。数日前から陽動作戦を取り、出城から密書を盗み出す忍務だと長次から聞いた。そろそろ六年生の卒業試験が全て終わる。今のところ脱落者はいないと聞いた。
山賊退治を終え、明朝に廃寺を出発した日のことだ。
学園への帰路に着く道中で、まさか伊作と後輩たちが出迎えに来ているとは夢にも思わず。怪我の程度を後輩たちに悟られぬように平静を装うも、相当な脂汗を流していたらしい。
処置は校医と保健委員長で行うからと他者を閉め出した後、お二人から説教を頂戴した。
「止血が後少しでも遅ければ命はなかった」
「二週間は安静にしていること」
「監視は私がします。くれぐれも夜間鍛錬とかには行かないようにね」
傷口を縫合する痛みよりも、諸々の説教の方が耳に痛かった。
傷痕は残る。やりきれない言葉が新野先生から零れた。私の代わりに嘆いてくれる人がいるだけで掬われるというもの。
適切な処置のおかげで日常生活に影響をきたすことは然程なかった。二、三日ほど身体を動かさずにいたおかげもある。裂けた傷口も少しずつ塞がってきた。食堂のおばちゃんが作る栄養価の高い料理のおかげだ。
身体の修復に力が集中しているのか、日中に襲いくる酷い眠気はこの際致し方なかった。
委員会の後輩が度々見舞いにも来てくれた。袈裟懸け巻かれた包帯が制服の衿から覗いたのだろう。痛々しいと顔を歪めるものだから「もう痛みはない」と優しく宥めた。火薬委員会は兵助が委員長代理として動いている。その様子の報告を三郎次と石人がしてくれたのだが、半分は豆腐のことであった。相変わらずだとこれには私も苦笑いしかない。
和気藹々とした委員会活動の風景が目に浮かぶ。委員会の顔ぶれがこのまま変わらなければ、来期も安泰だろう。
療養八日目。
私は自室にいることも飽きたので、隣の伊作を訪れた。
この時期は自習時間が多くなる。提出する課題をとうに終わらせた私は伊作の調合に付き合わされていた。文机の周囲に無造作に置かれた貸出図書。長次に見られないといいのだが。雑に扱うと怒るからな、あいつ。薬草、東洋医学、人体などの医学に関するものばかりだった。
私は伊作の指示通りに頁を捲り、薬草を仕分ける。昨日、留三郎と共に収穫してきた薬草で傷薬を作るそうだ。竹籠に山となって摘まれた薬草はまだ半分も減っていない。
「助かるよ、紅蓮」
「こっちも暇だから。いい加減身体を動かさないと鉛になってしまいそうだけどな」
「僕としては横になって休んでてもらいたいんだけどね」
「そろそろ棒手裏剣の一つでも打ちたいんだが」
「駄目です」
ぴしゃりと言い放つ伊作。保健委員長のお許しが出なければ、満足に身体を動かすこともできない。
実はというと、既に脇腹の傷口が二回も開いた。一度目は留三郎、文次郎を宥めた際。二度目は委員会活動に顔を出した時だ。目の前でタカ丸が落とし穴に落下し、反射的に腕を伸ばしてタカ丸の手を掴んだ。鋭い痛みが走ったのは後者の方で、後輩の前で隠し通すのは必死だった。
そして傷口が開く度に「傷痕が深くなるでしょ!」と伊作に怒られる。誰も好きで傷口を開いているわけじゃないんだ。
手裏剣一つ打つのを許されない期間。それでも忍具の手入れだけは怠らない。出番がない懐の忍具は新品同様の輝きを放ち始めていた。
乳鉢でごりごりと薬草をすり潰す音。
薬草同士が擦れ合う音。本の頁を捲る音。
私はそれに交じる微かな音を耳に捉え、顔を上げた。天井、床下、廊下の気配を窺う。
「どうかした?」
「いや、今誰かいた気がした」
「僕は特に感じなかったけど」
「……気の所為か。悪い。最近少し過敏になっているみたいで」
物音、遠ざかる足音の類は聞こえない。どうやら気の所為のようだ
学園に戻ってきてからというものの、妙な視線を感じる機会が増えた。表立ったものとはまた別で、こっそりとこちらを窺うようなものだ。視線の主が大方見当がついているので、どうにも歯痒く。
知らぬうちに漏れた溜息を拾い上げた伊作の顔が曇る。
「誰かにつけられてるとか」
「どうだろうな。……まあ、大方見当はついているんだ」
「一体誰が」
伊作の表情に険しさが増す。
日頃共に行動をしているというのに、伊作は気づいていない様子。実技と委員会活動以外は負傷者の監視という名目で移動中は四六時中私のことを見張っているのに。
無理もないか。私は短い溜息を吐いた。
「仙蔵だよ。あの一件以来、やたらと奴の視線と気配を感じる」
煩わしい。私がそう零すと伊作の手が止まった。目を珠のように丸くしたかと思えば、何とも言えぬ複雑な表情を浮かべる。
「心配してるんじゃないのかな」
「見舞いに来るまではわかる。だが、それ以外の場面でもあいつの視線が刺さって鬱陶しい。一体なんだって言うんだ。言いたいことがあるなら直接言えばいいだろ」
積もりに積もった不満が爆発しかけていた。伊作に不満をぶつけたとてただの愚痴として消化されることは十も承知の上。
仙蔵に私が女だとバレたことは伊作と留三郎に話した。残り少ない学園生活。今更不都合もないと踏んで特に口止めもしていないのだが。
「強請りに使えそうだと思われていそうな気がしてならない」
「それはないんじゃないかな。多分」
「あいつは作法委員会だぞ。確かに試験の時は仙蔵に助けられて感謝はしている。恩を着せるつもりもないとは言っていた。でもそれとこれとは別問題だ。油断ならん」
私は勢いのまま言葉を吐き捨て、籠から薬草を手で掴んだ。薬草の独特な匂いが強く香る。
ごりごりと薬草を潰す音が再び聞こえてきた。
「仙蔵なりに心配してるだけだよ、きっと」
「そうだといいな」
会話はそこで途切れた。
互いに作業に集中しているだけなのだと、そう思っていた。伊作の真面目な声色を聞くまでは。
「紅蓮。まだ言っていなかったんだけどさ」
「ああ、なんだ」
「僕、忍者にはならずに医者になることにしたよ」
私の手からドクダミの葉が滑り落ちた。
顔を上げた先で伊作は穏やかに、いつものように微笑んでいる。冗談や嘘を吐く目では到底ない。
伊作は、この間見城から内定を貰っていたはずだろう。嫌な予感に胸が、締め付けられた。
「悪い噂をあちらが耳にしたようでね。ついこの間、取り消されてしまったんだ」
不運だから。先方がそれを強く気に留めた。理由を淡々と話す伊作に私は声が出せずにいた。
内定を貰ったと聞いた時は留三郎と共に喜びを分かち合ったというのに。どうしてこんなことに。
無意識に握られていた拳。私の手のひらには血が滲んでいた。
「まあ、おかげで医者を心置きなく目指せるから良いんだけど。卒業後は新野先生について医学を学ぶ。忍術の知識は活かせるし無駄にはならないよ」
伊作は自分の考えを、そう話した。「医学の知識を更に身に着けたい」と四年の頃からそう、言っていた。
そう、二年前だ。あの時から。
四年次の夏季休暇に入る前、私たちは合戦場での実習に赴いた。
実習を終え、続々と学園に戻る同級生たち。ただ、一人だけが戻って来なかった。
同級生の平間咲之助が命を落とした。私たちの大切な友人だった。
『そうそう。紅蓮は飲み込みが早いね。紅蓮なら次の試験で一位狙えるよ。器用だし、腕が良いもの。首位争奪戦もそう遠くない話かも。楽しみだなぁ』
あいつの、咲の声が、鮮明に聞こえた気がした。
目の奥が熱い。流すまいと決めていた涙が堰を切ったように溢れる。
声を押し殺して泣くうちに脇腹の痛みが増していった。同情、苦痛、哀悼。最早どれが感情の優位に立っているのか、私にはわからなかった。激しく渦巻く感情が、止まない。
「紅蓮は優しいね。僕はいい友達に恵まれたよ。本当に」
ぼやけて霞む視界に伊作の影が映る。
陽だまりのように温かな手の平が触れた。幼子をあやすように頭を優しく撫でつける伊作の手。
胸に穴が空いたあの日も、私が泣き止むまでずっと、そうしてくれていた。