番外編 其の二
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起:菜園に野菜を採りにいっただけなのに
夕飯の仕込みに使う野菜を採りに私は菜園に向かった。
そのはずなんだけど。どうして私は山道にぽつんと佇んでいるのでしょうか。
食堂から菜園に行くまでに山なんて通ったかなぁ。いや、通るわけがないのであって。
どんな方向音痴。私は無自覚で決断力のある方向音痴じゃないのよ。
割烹着と小袖の裾についた土を手でパンパンっと払い落とした。
確かに私は菜園で野菜を採っていた。その証拠がこの土汚れだ。
菜園に続く道は平らで歩きやすかった。
それなのに、今私が立っている場所は前も後ろも山道が広がっていて、その先に緩いカーブが描かれている。
人道なのが幸いだった。でも今は人の姿が全く見当たらない。道を尋ねようにも人っ子一人いないんじゃどうしようもない。
此処が何処かも見当がつかない。
嗚呼、これを迷子と呼ぶんだった。
葉月霧華、今度は一人で不本意ながら迷子になりました。
雑木林からヒーヒーと口笛みたいに高い音が響く。
どうやら鳥の鳴き声のようで、他にも色んな鳥が姿を隠したまま鳴き交わしていた。
何の会話をしているかは当然わからない。けど、それすら私の孤独感を増すには充分過ぎるもので。
「学園の近くだといいな」願いを込めて私は呟いた。
私は未来から転がり込んできた居候の身だ。
おばちゃんに料理を教わりながら、住み込みという形で働いている。
突然室町時代に飛ばされて困り果て、往く宛てのなかった私は数々の恩情に感謝しきれない。
それがまた同じ様な状況に立たされてしまうなんて。
考えたくもなかった。
ひゅっと吹き抜けた風が緑の香りを運んできた。
その風に足元が掬われた様な心地すら覚える。
私は両肩から撫でおろすようにして擦り、身体を抱きすくめた。
この足が竦んで動けなくなる前に移動しなきゃ。でも、どこへ。
とりあえず山を下ろう。
道中、若しくは山を下りた先で良い人に会えますように。
「山には山賊がいるから一人では決して行かぬように」仙蔵くんにもそう釘を刺されている。
無論、一人で学園外に出歩くことはない。金楽寺へのお使いを頼まれた時も忍たまの誰かが同行してくれた。三之助くんと出掛けた時はうっかり迷子になってしまって『全忍たま対抗、迷子救出大作戦!』とかいう課題にされてしまったんだけど。
その後無事に救出された私は「今後、迷子属性二人には絶っっ対に頼まないように」と再三釘を刺されてしまい、私の身体はもう釘だらけな気もする。
私は山道をゆっくりと下る足を止め、空を仰いだ。
すっきりと澄んだ青空に白い雲がぽっかりと一つ浮かんでいる。
この空を見上げていたら無性に涙が込み上げてきた。瞼の裏が熱くなってしまわないよう、私は前に向き直る。
兎に角、先に進まないと。
今にも立ちすくみそうな足に「動け」と念じ、前に一歩踏み出した時だった。
脇の茂みが大きくがさりと揺れた。
音が聞こえた方へ反射的に振り向いたまでは良かった。
そこで目にした物が、まさか真っ黒な熊だとは思わないじゃない。全然良くなかった。
意外にもつぶらな瞳をしているそれとばっちり目が合ってしまい。
一瞬にして私の身体は凍り付いてしまった。
足が地面に縫い付けられたようで、ぴくりとも動かない。
人間、本当に危険な目に遭った時は声が全く出てこないもので。
「助けて」の一文字目すら浮かんでこない。どう発音するのかも忘れてしまった。
その場で身動きが全く取れない私に、熊がのそりのそりと近づいてくる。
つぶらな瞳は獲物を捉えた鋭いものに変わっていて、やばい。
ちょっと横を通りますよって感じじゃない。明らかに私の方に向かってきてる。
体長が一メートルぐらいはある。いやもっと大きいかも。
待って待って。こんな所で熊に襲われて死ぬとか嫌過ぎる。誰も真相を知らないまま「元の時代に帰ったのかもね」と思われても仕方ない身の上だし。お別れするならちゃんとご挨拶を各方面にしたいんですけど。
でも現実はそう上手くいかないもので。
いよいよ目と鼻の先にまで熊が迫ってきた。やっぱり横を通りますよじゃなく、完全に標的にされている。
熊と遭遇したらどうしたらいいんだっけ。死んだふり。両腕を広げて身体を大きく見せる。背中を見せずにゆっくりと去る。
どれが正解なのかもう判断が出来ないし、身体が全く動かない。まさしく恰好の的。
母さん、父さん。
思ったより早くそちらに合流できそうです。
辛うじて最期に浮かんだ言葉を胸に留め、私は恐怖で滲んだ眼を固く閉ざした。
覚悟を決めた直後、ぼこっという鈍い音が側で聞こえた気がした。
いや、どごっていう感じの鈍器が当たったような音かな。
そのすぐ後に呻く獣の声。何が起きたっていうんだろう。
私は恐る恐る閉ざしていた瞼を持ち上げた。
眼前に広がる見覚えのあるものは深緑色。
その人の足元には大きめの石ころが転がっている。
六年生の誰かが助けてくれた。
でも、誰かわからない。纏う色は確かにそれなのに、後ろ姿には見覚えがない。
淡く、儚げな浅紫色の雪割草を思わせる髪が揺れていた。
髪質が喜八郎くんと少し似ている気もする。
私と熊の間に割って入るようにして現れたその人は、熊の出方を窺っているようだった。
数秒悶え苦しんでいた熊は頭を大きく振り払い、ぐおおという雄叫びをあげると二本足で立ちあがる。
熊の牧場でよく見るあのポーズだ。そしてやっぱり全長がデカい。
そんな威嚇に全くたじろぐ様子もなく。その人は間髪入れずに肘鉄砲を喰らわせ、よろめいたところをその長い脚で、下段蹴りで薙ぎ払った。
待って。蹴りでそんなに吹っ飛ぶものなの。しかも相手は熊だよ。軽くボールを蹴ったぐらいの勢いで飛んでいったけど。その足袋にキック力増強なんちゃらでもついてますか。え、あの熊大丈夫かな。
二メートルぐらい吹っ飛ばされた熊はぴくりとも動かなかった。
まさか、素手で熊を仕留めたの。熊よりこの人の方が恐くなってきた。
暫くして、よたよたと体を起こした熊とまた目が合う。それは完全に怯えた獣の目をしていた。
「ねぐらへお帰り」
優し気で、落ち着いた声色。
そう仰られたその人の横顔はとても穏やかだった。
視えない殺気とやらを感じたのか、熊は尻尾を巻いて茂みの中へ飛び込み、姿を消した。
私はその場に崩れ落ちるようにしてへたり込む。
「お怪我はありませんか、お嬢さん」
声が頭上から降ってきた。と思えば、その六年生は私と視線を合わせるべく腰を屈めてくれる。
眉を下げたその人はどことなく仙蔵くんに似ている顔つきだった。でも、仙蔵くんじゃないし喜八郎くんでもない。
私の知らない人だ。
六年生は六人のはず。
私の脳裏に一抹の不安が過った。
もしかすると、私はみんながいない時代に来てしまったのでは。
あれから十数年前、若しくは十数年後とか。そうなると誰も私のことを知らないし、私の知っている子たちもいない。
「大丈夫ですか」
「だ……大丈夫、じゃないです」
不安が次第に顕わになっていくのとは別に、物理的な問題が私の身体に発生していた。
「こ」
「こ?」
「……腰が抜けました」
立ち上がろうとしても、全く足に力が入らない。
まともに口が利けているいるだけマシなんだろうけど、四肢が言うことを利かないのはだいぶ困る。
馬鹿にされるだろうか。可笑しそうに笑う声が飛んでくるのを覚悟していたけど、端正な顔がさらに深刻そうなものに変わるだけだった。
「それは大変だ。まあ、熊に襲われかけたらそうもなる」
「……あの。助けて頂いてありがとうございます。死を、死を覚悟していました……ほんと」
「礼には及びませんよ。偶然通りかかったものですから。若い娘さんが熊に喰われてしまう場面に遭遇するのは流石に後味が悪い。間に合って良かった」
間に合ってくれて本当に有難う。熊にはちょっと不憫かもしれないけど。
心の中で感謝を述べていると、彼は私の格好を物珍しそうに見ていた。
ああ、そうだった。私、割烹着のままだ。地面にへたり込んだせいで更に土で汚れちゃってる。
菜園から戻って来ないって、おばちゃんに心配掛けちゃうかも。
早くみんなの所に帰りたい。
此処は一体何年後なんだろう。
私の帰る場所はあるんだろうか。
また零れ落ちそうになる涙を堪えて、下唇を噛んだ。
その時だ。また茂みが大きくがさりと揺れて、今度は元気の良い声と一緒に人が飛び出してきた。
「先輩! バレーボールと三之助が見つかりました!」
底抜けに明るい声と群青色の制服を見た私の涙は一瞬で引っ込んだ。
五年生の制服を着た小平太くんがバレーボールを頭上に掲げて、変わらぬ笑顔を見せていた。
ああ、此処はもしかすると。
私は菜園に野菜を採りに行っただけなのに、何故か一年前にやってきてしまいました。
夕飯の仕込みに使う野菜を採りに私は菜園に向かった。
そのはずなんだけど。どうして私は山道にぽつんと佇んでいるのでしょうか。
食堂から菜園に行くまでに山なんて通ったかなぁ。いや、通るわけがないのであって。
どんな方向音痴。私は無自覚で決断力のある方向音痴じゃないのよ。
割烹着と小袖の裾についた土を手でパンパンっと払い落とした。
確かに私は菜園で野菜を採っていた。その証拠がこの土汚れだ。
菜園に続く道は平らで歩きやすかった。
それなのに、今私が立っている場所は前も後ろも山道が広がっていて、その先に緩いカーブが描かれている。
人道なのが幸いだった。でも今は人の姿が全く見当たらない。道を尋ねようにも人っ子一人いないんじゃどうしようもない。
此処が何処かも見当がつかない。
嗚呼、これを迷子と呼ぶんだった。
葉月霧華、今度は一人で不本意ながら迷子になりました。
雑木林からヒーヒーと口笛みたいに高い音が響く。
どうやら鳥の鳴き声のようで、他にも色んな鳥が姿を隠したまま鳴き交わしていた。
何の会話をしているかは当然わからない。けど、それすら私の孤独感を増すには充分過ぎるもので。
「学園の近くだといいな」願いを込めて私は呟いた。
私は未来から転がり込んできた居候の身だ。
おばちゃんに料理を教わりながら、住み込みという形で働いている。
突然室町時代に飛ばされて困り果て、往く宛てのなかった私は数々の恩情に感謝しきれない。
それがまた同じ様な状況に立たされてしまうなんて。
考えたくもなかった。
ひゅっと吹き抜けた風が緑の香りを運んできた。
その風に足元が掬われた様な心地すら覚える。
私は両肩から撫でおろすようにして擦り、身体を抱きすくめた。
この足が竦んで動けなくなる前に移動しなきゃ。でも、どこへ。
とりあえず山を下ろう。
道中、若しくは山を下りた先で良い人に会えますように。
「山には山賊がいるから一人では決して行かぬように」仙蔵くんにもそう釘を刺されている。
無論、一人で学園外に出歩くことはない。金楽寺へのお使いを頼まれた時も忍たまの誰かが同行してくれた。三之助くんと出掛けた時はうっかり迷子になってしまって『全忍たま対抗、迷子救出大作戦!』とかいう課題にされてしまったんだけど。
その後無事に救出された私は「今後、迷子属性二人には絶っっ対に頼まないように」と再三釘を刺されてしまい、私の身体はもう釘だらけな気もする。
私は山道をゆっくりと下る足を止め、空を仰いだ。
すっきりと澄んだ青空に白い雲がぽっかりと一つ浮かんでいる。
この空を見上げていたら無性に涙が込み上げてきた。瞼の裏が熱くなってしまわないよう、私は前に向き直る。
兎に角、先に進まないと。
今にも立ちすくみそうな足に「動け」と念じ、前に一歩踏み出した時だった。
脇の茂みが大きくがさりと揺れた。
音が聞こえた方へ反射的に振り向いたまでは良かった。
そこで目にした物が、まさか真っ黒な熊だとは思わないじゃない。全然良くなかった。
意外にもつぶらな瞳をしているそれとばっちり目が合ってしまい。
一瞬にして私の身体は凍り付いてしまった。
足が地面に縫い付けられたようで、ぴくりとも動かない。
人間、本当に危険な目に遭った時は声が全く出てこないもので。
「助けて」の一文字目すら浮かんでこない。どう発音するのかも忘れてしまった。
その場で身動きが全く取れない私に、熊がのそりのそりと近づいてくる。
つぶらな瞳は獲物を捉えた鋭いものに変わっていて、やばい。
ちょっと横を通りますよって感じじゃない。明らかに私の方に向かってきてる。
体長が一メートルぐらいはある。いやもっと大きいかも。
待って待って。こんな所で熊に襲われて死ぬとか嫌過ぎる。誰も真相を知らないまま「元の時代に帰ったのかもね」と思われても仕方ない身の上だし。お別れするならちゃんとご挨拶を各方面にしたいんですけど。
でも現実はそう上手くいかないもので。
いよいよ目と鼻の先にまで熊が迫ってきた。やっぱり横を通りますよじゃなく、完全に標的にされている。
熊と遭遇したらどうしたらいいんだっけ。死んだふり。両腕を広げて身体を大きく見せる。背中を見せずにゆっくりと去る。
どれが正解なのかもう判断が出来ないし、身体が全く動かない。まさしく恰好の的。
母さん、父さん。
思ったより早くそちらに合流できそうです。
辛うじて最期に浮かんだ言葉を胸に留め、私は恐怖で滲んだ眼を固く閉ざした。
覚悟を決めた直後、ぼこっという鈍い音が側で聞こえた気がした。
いや、どごっていう感じの鈍器が当たったような音かな。
そのすぐ後に呻く獣の声。何が起きたっていうんだろう。
私は恐る恐る閉ざしていた瞼を持ち上げた。
眼前に広がる見覚えのあるものは深緑色。
その人の足元には大きめの石ころが転がっている。
六年生の誰かが助けてくれた。
でも、誰かわからない。纏う色は確かにそれなのに、後ろ姿には見覚えがない。
淡く、儚げな浅紫色の雪割草を思わせる髪が揺れていた。
髪質が喜八郎くんと少し似ている気もする。
私と熊の間に割って入るようにして現れたその人は、熊の出方を窺っているようだった。
数秒悶え苦しんでいた熊は頭を大きく振り払い、ぐおおという雄叫びをあげると二本足で立ちあがる。
熊の牧場でよく見るあのポーズだ。そしてやっぱり全長がデカい。
そんな威嚇に全くたじろぐ様子もなく。その人は間髪入れずに肘鉄砲を喰らわせ、よろめいたところをその長い脚で、下段蹴りで薙ぎ払った。
待って。蹴りでそんなに吹っ飛ぶものなの。しかも相手は熊だよ。軽くボールを蹴ったぐらいの勢いで飛んでいったけど。その足袋にキック力増強なんちゃらでもついてますか。え、あの熊大丈夫かな。
二メートルぐらい吹っ飛ばされた熊はぴくりとも動かなかった。
まさか、素手で熊を仕留めたの。熊よりこの人の方が恐くなってきた。
暫くして、よたよたと体を起こした熊とまた目が合う。それは完全に怯えた獣の目をしていた。
「ねぐらへお帰り」
優し気で、落ち着いた声色。
そう仰られたその人の横顔はとても穏やかだった。
視えない殺気とやらを感じたのか、熊は尻尾を巻いて茂みの中へ飛び込み、姿を消した。
私はその場に崩れ落ちるようにしてへたり込む。
「お怪我はありませんか、お嬢さん」
声が頭上から降ってきた。と思えば、その六年生は私と視線を合わせるべく腰を屈めてくれる。
眉を下げたその人はどことなく仙蔵くんに似ている顔つきだった。でも、仙蔵くんじゃないし喜八郎くんでもない。
私の知らない人だ。
六年生は六人のはず。
私の脳裏に一抹の不安が過った。
もしかすると、私はみんながいない時代に来てしまったのでは。
あれから十数年前、若しくは十数年後とか。そうなると誰も私のことを知らないし、私の知っている子たちもいない。
「大丈夫ですか」
「だ……大丈夫、じゃないです」
不安が次第に顕わになっていくのとは別に、物理的な問題が私の身体に発生していた。
「こ」
「こ?」
「……腰が抜けました」
立ち上がろうとしても、全く足に力が入らない。
まともに口が利けているいるだけマシなんだろうけど、四肢が言うことを利かないのはだいぶ困る。
馬鹿にされるだろうか。可笑しそうに笑う声が飛んでくるのを覚悟していたけど、端正な顔がさらに深刻そうなものに変わるだけだった。
「それは大変だ。まあ、熊に襲われかけたらそうもなる」
「……あの。助けて頂いてありがとうございます。死を、死を覚悟していました……ほんと」
「礼には及びませんよ。偶然通りかかったものですから。若い娘さんが熊に喰われてしまう場面に遭遇するのは流石に後味が悪い。間に合って良かった」
間に合ってくれて本当に有難う。熊にはちょっと不憫かもしれないけど。
心の中で感謝を述べていると、彼は私の格好を物珍しそうに見ていた。
ああ、そうだった。私、割烹着のままだ。地面にへたり込んだせいで更に土で汚れちゃってる。
菜園から戻って来ないって、おばちゃんに心配掛けちゃうかも。
早くみんなの所に帰りたい。
此処は一体何年後なんだろう。
私の帰る場所はあるんだろうか。
また零れ落ちそうになる涙を堪えて、下唇を噛んだ。
その時だ。また茂みが大きくがさりと揺れて、今度は元気の良い声と一緒に人が飛び出してきた。
「先輩! バレーボールと三之助が見つかりました!」
底抜けに明るい声と群青色の制服を見た私の涙は一瞬で引っ込んだ。
五年生の制服を着た小平太くんがバレーボールを頭上に掲げて、変わらぬ笑顔を見せていた。
ああ、此処はもしかすると。
私は菜園に野菜を採りに行っただけなのに、何故か一年前にやってきてしまいました。
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