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4|泣かないで
信じますよ、みんな。
もちろん僕も。
蒼穹の空に響く放課後の鐘音。
石頭で鐘を鳴らし終えたヘムヘムは半鐘台から校庭の方を見下ろした。校舎から続々と忍たまたちが飛び出してくる。今日も元気でよろしいと言わんばかりにヘムヘムとニコニコ頷いた。
さて、放課後の医務室は保健委員が日替わりで当番を任されている。本日の医務室当番は伊作、左近の二人である。
放課後に医務室を利用する者は普段片手で数える程度で収まるのだが、今日に限って次から次へと医務室を忍たまたちが訪れていた。利用者は主に下級生。訴える症状は打撲、捻挫が中心であった。そして必ず全員が土まみれになっていた。医務室は不適切ながらも満員御礼、伊作と左近の二人では手が回らない状態だ。
その原因もとい元凶は四年い組の綾部喜八郎。彼が学園のあらゆる場所に落とし穴及び蛸壺を掘りまくったせいで、この大惨事を呼んだのである。
「綾部先輩なんであんな所に落とし穴掘るんだよ~!」
「競合地域だからなぁ。こればっかしは文句言えねぇし、サインを見落としたこっちも悪い」
足首を添え木と包帯で固定した三年は組の三反田数馬が嘆く。その隣で腕に負った擦り傷の手当てを受けた三年ろ組の富松作兵衛が溜息を吐いた。
「どうせなら塹壕にあいつら落ちててくんねーかな」
「何気に酷いこと言いますね、富松先輩」
「その方がおれも探しやすい」
遠く、虚ろな目で宙を見つめる作兵衛。同じ組の次屋三之助、神崎左門が絶賛迷子中なのだ。二人を捜索中にうっかり落とし穴を踏み抜いてしまった。捻挫や打撲は免れたものの、腕に擦り傷を負ってしまい、その様子を数馬に目撃されたので医務室へ連行されたのだが。数馬が怪我をした理由は最早説明する必要はないだろう。
迷子二人の面倒を見るのも大変そうだ。左近は気の毒に思いながらも手は休めずにいた。湿布薬の準備に取り掛かっている。
「大変ですね、富松先輩も」
「いつものことだよ。数馬、おめぇはどうすんだ?」
「このまま医務室を手伝うよ。左近と伊作先輩の目が回っちゃいそうだし」
数馬が目を向けた先にはてきぱきと患者の処置を行う伊作の姿。息を吐く間もなく手を動かしていた。手当てが終わった忍たまには必ず「気をつけてね、お大事に」という言葉を掛けるのを忘れない。
今日は当番ではないが、委員長と後輩二人では大変だ。数馬はよいしょと立ち上がり、空いたスペースに医療具を用意した。
それから順番待ちの忍たまに声を掛け、症状を聞き、適切な処置を始める。
「助かるよ数馬」
「有難うございます先輩!」
「僕も保健委員ですから」
「おれも手伝ってやりたいとこだけど、その前にあいつら探しにいかねぇと。……あ」
級友二人の緊張感がない顔を思い浮かべ、立ち上がった作兵衛。そこで何か思いだしたように声を出した。落とし穴に引っ掛かると言えば、あの人なのだが。その姿をまだ見ない。
「そういや、葉月さんは大丈夫なんすか? あの人、罠に引っ掛かる率をぶち抜いてますし」
「僕は見てないな。先輩見掛けました?」
「いや、今日はまだ来てないと思う。昼間に食堂で見かけたきりかな」
直後、保健委員の脳裏に過ぎる嫌な予感。
霧華は自分たちと同様、いやそれ以上に不運で罠に引っ掛かりやすい。忍たまたちでこの惨事だ。彼女が引っ掛からないはずがない。
「もしかして、どこかで身動きが取れなくなってるんじゃ!」
「大変だ! 探しに行きましょう!」
「葉月さん、絶対落ちてますよ!」
この言い草である。
こうして保健委員が一致団結したのはいいが。その直後にひょっこりと霧華が顔を出したので思わず彼らは驚いてしまった。まるで幽霊を見たかのように驚いている者もいた。
「葉月さん!」
「無事だったんですね! どこも怪我されてないですか⁉」
「絶対どこかで身動き取れなくなってると思ってました! ご無事で何よりです!」
「さっきの話、聞こえてたからね君たち」
霧華は医務室に面した廊下で彼らの会話を偶然聞いてしまっていた。
自分が不運だ、絶対に落とし穴に落ちているという話を。否定はできないが、うら悲しくなるというもの。
「いや、だって葉月さん……ここに来てから落とし穴に何回落ちましたっけ」
「えーと……通算三十回ぐらい?」
「落ちすぎですよ。罠のサインのことは誰かに教えてもらったんすよね?」
「うん。でも、何故か私が引っ掛かるものってサインが消えてるんだよね。風で飛ばされたりとかで」
嗚呼、この人は天性の不運だ。その場にいた者は皆そう思っていた。
一度沈んだ顔を見せた霧華だが、そう悪いことばかりじゃないと顔をパッと明るくする。
「でもね、この間は池田くんがいる目の前で落とし穴に落ちたんだよ。だからすぐ助けてもらえたの! すごくラッキー、幸運だと思わない?」
「いや、それ全然幸運って言わない。落ちてるし」
「幸運だよ。今日はまだ落ちてないし」
「まだって……怪我しないように気をつけてくださいよ」
そしてどこかずれている。持ち前の明るさゆえにだろうか。
ボケに真っ当なツッコミを入れていた作兵衛はここで我に返った。こんなことをしているバヤイではないと。
「すみません。おれ、左門と三之助を探しに行くんで失礼します」
「あ、うん。気をつけてね」
作兵衛は医務室に押し寄せる忍たまたちをかき分け、霧華に軽く頭を下げて廊下を早足で進んでいった。
迷子になる確率が高いという三年生二人をいつも彼は探し回っている。悲しいことにそんなイメージが既についていた。
「葉月さん、怪我をされていないなら別の用事ですか?」
「あ、えっと……うん。善法寺くんに話があったんだけど」
左近が包帯を手に取りながら霧華にそう訊ねた。一度伊作の方へ目をやるが、直ぐに医務室内を見渡す。
どう考えても話どころではない。こうして会話をする間にも彼ら保健委員は手際よく患者の手当てを進めているのだ。
「それどこじゃないよね」
「すみません。急ぎであれば今聞きますよ」
「あ、全然。急ぎとかじゃないから」
霧華は両手を胸の前でぱたぱたと振り、笑顔を浮かべる。それはどこか取り急ぎ繕ったようなもので、ぎこちない。伏せられたその目が左近には寂し気に映った。
本人はそう言っているが、本当は今話をしたいのだろう。何とか場を設けてやりたいところではあるが、この状況だ。医務室に押し寄せる忍たまの手当てを全て終えるのはいつになるやら。
「伊作せんぱ〜い。綾部先輩が掘った落とし穴に落ちましたぁ」
「ぼくはその隣の蛸壺に落ちましたぁ」
そこへとぼとぼとやってきた乱太郎、伏木蔵の二人。土や泥まみれになった格好は何とも可哀想だと霧華の目に映る。
そして辛くも保健委員のメンバーが揃ってしまった。
「ちょ、二人とも大丈夫?」
「あ、霧華さんだ。こんにちはぁ」
「こんにちはー」
「はい、こんにちは。いや、挨拶は大事だけども。足とか捻ってない? 大丈夫?」
「だいじょーぶです。ちょっと顔とか擦りむいただけなので」
「それもだいぶ痛そうだよ。……うん、決めた。善法寺くん、私も医務室でみんなの手当てを手伝う」
乱太郎の額についた泥を袖口で拭い、頬についた真新しい擦り傷に眉を顰める霧華。怪我人だらけの現場を目にしておきながら「じゃあまた後で」と去れるような性格ではない。
それにだ、医務室には最早数えきれないぐらい世話になっているのだから。
「でも、悪いですよ」
「いいってば。いつもお世話になってる恩返しもしたいし。それに、怪我の手当ては何度もしてもらってるから覚えました!」
「それ、胸張って言えることじゃないですよね。でも、正直助かります。伊作先輩、葉月さんにも手伝ってもらいましょうよ」
一年生の腕に巻き付けた包帯の端をきゅっと結んだ左近は伊作に目を向ける。少しでも早く収拾をつける。そうすれば「霧華が話したいこと」の時間を取れるかもしれない。
伊作はというと、猫の手を借りたいほどなのは事実。食堂手伝いで就職したのに、医務室の手伝いをさせるのは気が引けていたのだ。だが、そうも言っていられない。
「……すみません。葉月さん、少しだけ手伝ってもらってもいいですか?」
「わっかりました保健委員会委員長!」
快い返事に「元気がいいなぁ」と乱太郎たちが微笑う。
左近に手招かれた霧華は隣に腰を下ろし、左近の言葉に耳を傾けた。
まずは見本として自分のやり方を見て覚えてもらいたい。それから個々の対応を任せる。症状は打撲か、擦り傷なのか。使用する薬は湿布薬か、傷薬か。添え木が必要であれば包帯で固定をする。判断がつかない場合は保健委員に指示を仰いでほしい。
左近はそう話しながら目の前にいる患者の処置をてきぱきと施していく。霧華は真剣に聞き、包帯を巻く手つきを見る。
伊作は双方に感心した。同じ保健委員である左近はまだ二年生なのだが、説明も手順も分かりやすい。それは立派に保健委員として務めてきた証でもあった。そして霧華は物覚えが早い。包帯の巻き方も左近を倣い、申し分がない。
彼女がここに来たばかりの頃は、それこそ失敗が多く見受けられた。しかし、失敗をバネにめきめきと上達している。これにはおばちゃんもニコニコと嬉しそうなのだ。
これなら安心して任せられる。伊作もにこりと笑ってみせた。
◇
湿布を頬に貼り付けた一年生が「ありがとうございました!」と霧華に御礼を言い、医務室を出た。
最後の患者を診終わった頃には日がだいぶ傾いていた。
乱太郎、伏木蔵は互いに背を預けて力が抜けたようにへたりと座り込む。数馬と左近もその場に伏せるように倒れこんでしまった。皆、疲弊した顔で「やっと終わったあ」と口を揃える。
「みんな、お疲れ様」
「お疲れ様ですー。もうクタクタですよお」
「葉月さんが手伝ってくれなかったら、今頃まだ終わってなかったです。有難うございます、葉月さん」
「どう致しまして。微力ながらお手伝いできて良かった」
「微力だなんてとんでもない。立派な戦力でしたよ~。ねえ、伊作先輩」
「うん。食堂のおばちゃんが褒めてただけあるよ。霧華さんは物覚えが早くて助かるって」
「いやあ。そんなに褒められても、明日の朝食で卵焼きおまけぐらいしかできないよ~?」
喜車の術で煽てたわけではないのだが、心からの感謝を伝えると霧華はにやにやと照れた様子で笑った。料理が美味しいと褒められるのがこの上なく嬉しいのだ。自分の努力が実を結んだ証拠。これは本当にいつか桂剥きも出来てしまうのではとさえ考えてしまう。
「やったー。ぼく、霧華さんの作る卵焼き美味しいから好きです」
「私も! ……あれ、食堂と言えば。霧華さん、夕食の手伝いは?」
手放しで喜んだ二人は格子窓の外を見た。
空は夕焼け色に綺麗に染まっている。この時間帯にもなれば、忍たまたちがそろそろ食堂に行く時間だ。
だが、本来の職業である食堂手伝いの霧華はここに居る。何故だろうと一年生二人が揃って首を横へ傾げた。
「今日の夕食はくノ一教室のみんなが作るんだって。だから私はお休みを……って、みんなどうしたの?」
世にも恐ろしい単語を聞いた。途端に乱太郎たちは顔をさっと青ざめた。
「くノ一教室が」
「夕食当番」
「その情報、先に聞けてよかった」
「今夜は食堂に立ち寄るのは止めておこう」
口元をひくひくと引き攣らせ、伊作以外の保健委員が一同頷きあう。
今度は霧華が首を傾げた。料理に不慣れな自分よりも何倍も美味しい料理が期待できるのでは、と思っていたのだ。これは彼女がここに来て初めての出来事なのでそう思うのも無理はない。
「え、え? どういうこと?」
「葉月さんはまだ知らないですよね。くノ一教室が作った料理には大抵何か入ってるんですよ」
「何かって、なに……? まさか、身体が縮んでしまう薬とか⁉」
「身体が縮む……すごいスリルとサスペンスの匂いがする」
「流石にそれはないけど、下剤とかそういったものですよ」
「私は三日間お腹がごろごろしてました」
「ぼくもずっとその日はお腹が痛くて。授業休みました」
その時は主に腹痛の症状だったと保健委員の面々は訴えた。
彼女たちはこの時代にとっての今どきの女子。さぞかし流行りにのった美味しいものだろう。それはどうやら浅はかな考えだったらしい。いつも手を振りながら「葉月さーん」と笑顔で話をしてくれるカワイイ子たちだ。しかし、彼女たちもくノ一の見習い。「流石忍者、忍者コワイ」と今の話で改めて霧華は実感するのであった。
「今夜はみんなで何か作って食べようか」
「さんせーい! 霧華さんもご一緒にどうですか?」
「と言っても、大したものは振舞えないんですけど。僕たちが持ってるのは保存食が主ですし」
「保存食……ここって、虫食べる?」
そうであれば一食抜く。その方が断然マシだと霧華は真顔で伊作に訊ねた。
「いえ、干飯と味噌汁にしようかと」
「あ、それなら食べられる。うん。お言葉に甘えてご一緒しようかな。でも、ほしいいって何?」
「米を蒸してから乾燥させた携帯食です。水に浸すとすぐ食べられるんですよ。あと味噌玉は水に溶かして、焼き石を入れればあっという間に味噌汁も出来上がります」
「へぇ~。昔はそうやってたのかあ。勉強になる。……あ」
乱太郎の説明を熱心に聞いた霧華はうんうんと頷いた。
彼女は時たまおかしな発言をする。今の様に「昔は」「この時代は」とよく口にするのだ。まるで、この時代の人間ではないような口ぶりで。それが今はっきりとこの場にいる者たちの耳に届いてしまった。
今の発言は不味い。しかし自身が気付いた時には既に遅し。皆がじっと呆けた表情で見てくる。
「霧華さんって、時々変なこと言いますよね。この時代は〜とか、こういう物使ってたんだーとか」
「そういえば、ぼくたちが当たり前だと思ってることも知らないこと多いですよね。着物の合わせが反対な時もあるし」
「もしかして、霧華さんは未来からやってきた人なのかも!」
乱太郎、左近の隣で伏木蔵が目を爛々と輝かせてそう言った。
その刹那、場がしんと静まり返る。
数秒後「まさか〜」と彼らの笑い声で室内が満ちる。ただ、霧華だけは笑っておらず、乾いた笑みを浮かべ口の端を引き攣らせる。
このまま誤魔化すこともできただろう。しかし、彼女はそうしなかった。
「あ、あったり〜。実はそう、なんだよね」
間。
「ええええぇっ⁉」
「ほ、ほんとーに?」
「霧華さん、未来人なんですかぁ!」
「どのぐらい未来から来たんですか!」
「どんな服着て、どんな物食べて生活をしてるんですか?」
「こらこら。矢継ぎ早に質問されても答えられないだろ。ちょっとみんな落ち着こう」
意外なこのこの反応に霧華は脱力していた。
「嘘だ」という反応が一つもないのだ。疑われる、怪しまれると身構えていたのに。それを素直にこのよい子たちは受け取り、信じている様子。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で呆けている霧華。そんな彼女を心配した数馬が「大丈夫ですか?」と優しい声を掛けるものだから。「どうして」という気持ちで頭がいっぱいになる。
「え……みんな、信じてくれるの? 嘘だとか思わないの?」
「だって、霧華さん嘘吐くような人に見えませんよ。ね、左近先輩」
「うん。うっかり声に出てることも多かったし」
「それに霧華さん優しい人だし。大嘘吐くような人は私たちの手伝いしてくれませんよ」
「あとちょっぴり不運なとこが共感できます」
「うう……みんな良い子すぎない? あとちょっぴり不運は余計だからね三反田くん」
霧華は顔を両手で覆い、俯いた。指の隙間から見える頬は紅を差している。「私、バレバレじゃん」と呟く声が伊作の耳に届く。素直で純真なのは彼女もそうだ。
「なんていうか、これで納得がいきました。でも、どうして急にそのことを? あ、もしかして僕に話って」
昼間、伊作に話があると訪れたのはもしやこのことなのか。
よく会話を交える自分を信用して、打ち明けようとしてくれたのでは。いや、それは自惚れ過ぎるだろうか。
伊作の頭にふわりと浮かんだその考え。それを肯定するかのように、霧華はこくりと頷いた。
「ほんとは善法寺くんだけに言おうと思ってたんだよね。ほら、怪我とかで一番お世話になってるし」
「お世話だなんてそんな。怪我してる人を放っておけないだけですよ。僕も、保健委員のみんなも」
「困ってる人を放っておけないのが保健委員ですから」
伊作が笑えば、周りの後輩も同じように笑顔を見せる。作り物ではない、心から人を気遣う思いが込められたもの。
その優しさを前にした霧華は涙腺が緩みそうになる。
「でも、どうやってこの時代にいらしたんですか?」
「それが私もよくわからなくて。普通に道を歩いてて、うっかり足踏み外して斜面滑り落ちて気がついたら」
この時代にいた。
俄かには信じ難い話だが、霧華は事実をありのままに話した。それ以外、どうとも説明ができないのだ。
「うわぁ……不運ですね。足を踏み外すなんて流石霧華さん」
「いやぁ、それほどでも」
「褒めてないですからね、それ」
照れる霧華に冷静な数馬のツッコミが入る。しかしそれにもめげず、朗らかな声で笑う。
それが次の瞬間、この笑顔が曇るとは誰も予想などしていない。
「それで、何か周りの風景がおかしいことに気がついて。電線もないし、車も走ってないし、道路も舗装されてないし。見慣れない景色しかなかった。途方に暮れてたの。そこに、食堂のおばちゃんが偶然通りかかって、助けてください!って縋り付いたんだ。それで、今に至る、んだけど」
そこで霧華は口を噤んだ。代わりに零れ落ちてきたのは大粒の涙。両目からはらはらと涙を零していた。その雫が頬を伝い、膝へと落ちる。
本人も突然のことで困惑した様子で顔を顰める。周囲のざわつきでようやく、ぱたぱたと降り続く雨に気がついた。どうにも、この雨は止まない。
「ごめ、んね。なんか、思い出したら急に」
怖かった。
見知らぬ土地に放り出され、右も左もわからない。頼れるものが誰もいない、何もない。
藁にも縋る思いで此処へ連れてきてもらった。
学園関係者は気が良く、自分を受け入れてくれた。性格と行動が幸いしたのか、徐々に周囲とも打ち解けてきた。
それでも拭え切れない、不安と恐怖。自分の境遇を話したところで、ほら吹き、大嘘吐きだと嫌悪されるかもしれない。その覚悟をずっと今も抱えていた。
自分でも信じられない状況下に陥っているのだ。毎朝頬を抓り、夢じゃないと震える肩を両腕で抱えた。
「葉月さん」
「ごめ、ごめん。……怖くて、ずっと、嘘つきとか思われるんだろうって」
袖口で目元を抑える霧華の背を伊作が優しく撫でた。
彼らは座り込んで泣きじゃくる霧華の周囲に集まり、思い思いに慰めようとする。伏木蔵と乱太郎はその小さな手で頭を撫で、左近と数馬は両側から肩に優しく手を置いた。
「信じますよ。大丈夫。だって、嘘つきの人はそんなに大泣きしませんから」
「怖かったですよね。迷子になったようなもんですもんね。私たちがついてますから、安心してください!」
「困ったことがあったら、いつでも言ってください。僕たちが相談に乗ります」
「わからないことがあったら何でも聞いてください」
霧華はこの時代の人ではない。それをすんなりと受け入れた彼らは全面的にサポートをすると口にした。
疑うことを知らない良い子たちすぎる。もしかしたら忍者に向いてないのではと薄らぼんやりと霧華の脳裏に過ぎった。それだけ人に優しいのだ。
「みんな、葉月さんのこと信じてますよ。もちろん、僕も」
ようやくしゃっくりの回数も減り、もう少しで泣き止めるだろう。そう思っていたところに伊作の言葉が頭上から降ってきたので、また霧華の涙腺が緩んでしまった。
信じますよ、みんな。
もちろん僕も。
蒼穹の空に響く放課後の鐘音。
石頭で鐘を鳴らし終えたヘムヘムは半鐘台から校庭の方を見下ろした。校舎から続々と忍たまたちが飛び出してくる。今日も元気でよろしいと言わんばかりにヘムヘムとニコニコ頷いた。
さて、放課後の医務室は保健委員が日替わりで当番を任されている。本日の医務室当番は伊作、左近の二人である。
放課後に医務室を利用する者は普段片手で数える程度で収まるのだが、今日に限って次から次へと医務室を忍たまたちが訪れていた。利用者は主に下級生。訴える症状は打撲、捻挫が中心であった。そして必ず全員が土まみれになっていた。医務室は不適切ながらも満員御礼、伊作と左近の二人では手が回らない状態だ。
その原因もとい元凶は四年い組の綾部喜八郎。彼が学園のあらゆる場所に落とし穴及び蛸壺を掘りまくったせいで、この大惨事を呼んだのである。
「綾部先輩なんであんな所に落とし穴掘るんだよ~!」
「競合地域だからなぁ。こればっかしは文句言えねぇし、サインを見落としたこっちも悪い」
足首を添え木と包帯で固定した三年は組の三反田数馬が嘆く。その隣で腕に負った擦り傷の手当てを受けた三年ろ組の富松作兵衛が溜息を吐いた。
「どうせなら塹壕にあいつら落ちててくんねーかな」
「何気に酷いこと言いますね、富松先輩」
「その方がおれも探しやすい」
遠く、虚ろな目で宙を見つめる作兵衛。同じ組の次屋三之助、神崎左門が絶賛迷子中なのだ。二人を捜索中にうっかり落とし穴を踏み抜いてしまった。捻挫や打撲は免れたものの、腕に擦り傷を負ってしまい、その様子を数馬に目撃されたので医務室へ連行されたのだが。数馬が怪我をした理由は最早説明する必要はないだろう。
迷子二人の面倒を見るのも大変そうだ。左近は気の毒に思いながらも手は休めずにいた。湿布薬の準備に取り掛かっている。
「大変ですね、富松先輩も」
「いつものことだよ。数馬、おめぇはどうすんだ?」
「このまま医務室を手伝うよ。左近と伊作先輩の目が回っちゃいそうだし」
数馬が目を向けた先にはてきぱきと患者の処置を行う伊作の姿。息を吐く間もなく手を動かしていた。手当てが終わった忍たまには必ず「気をつけてね、お大事に」という言葉を掛けるのを忘れない。
今日は当番ではないが、委員長と後輩二人では大変だ。数馬はよいしょと立ち上がり、空いたスペースに医療具を用意した。
それから順番待ちの忍たまに声を掛け、症状を聞き、適切な処置を始める。
「助かるよ数馬」
「有難うございます先輩!」
「僕も保健委員ですから」
「おれも手伝ってやりたいとこだけど、その前にあいつら探しにいかねぇと。……あ」
級友二人の緊張感がない顔を思い浮かべ、立ち上がった作兵衛。そこで何か思いだしたように声を出した。落とし穴に引っ掛かると言えば、あの人なのだが。その姿をまだ見ない。
「そういや、葉月さんは大丈夫なんすか? あの人、罠に引っ掛かる率をぶち抜いてますし」
「僕は見てないな。先輩見掛けました?」
「いや、今日はまだ来てないと思う。昼間に食堂で見かけたきりかな」
直後、保健委員の脳裏に過ぎる嫌な予感。
霧華は自分たちと同様、いやそれ以上に不運で罠に引っ掛かりやすい。忍たまたちでこの惨事だ。彼女が引っ掛からないはずがない。
「もしかして、どこかで身動きが取れなくなってるんじゃ!」
「大変だ! 探しに行きましょう!」
「葉月さん、絶対落ちてますよ!」
この言い草である。
こうして保健委員が一致団結したのはいいが。その直後にひょっこりと霧華が顔を出したので思わず彼らは驚いてしまった。まるで幽霊を見たかのように驚いている者もいた。
「葉月さん!」
「無事だったんですね! どこも怪我されてないですか⁉」
「絶対どこかで身動き取れなくなってると思ってました! ご無事で何よりです!」
「さっきの話、聞こえてたからね君たち」
霧華は医務室に面した廊下で彼らの会話を偶然聞いてしまっていた。
自分が不運だ、絶対に落とし穴に落ちているという話を。否定はできないが、うら悲しくなるというもの。
「いや、だって葉月さん……ここに来てから落とし穴に何回落ちましたっけ」
「えーと……通算三十回ぐらい?」
「落ちすぎですよ。罠のサインのことは誰かに教えてもらったんすよね?」
「うん。でも、何故か私が引っ掛かるものってサインが消えてるんだよね。風で飛ばされたりとかで」
嗚呼、この人は天性の不運だ。その場にいた者は皆そう思っていた。
一度沈んだ顔を見せた霧華だが、そう悪いことばかりじゃないと顔をパッと明るくする。
「でもね、この間は池田くんがいる目の前で落とし穴に落ちたんだよ。だからすぐ助けてもらえたの! すごくラッキー、幸運だと思わない?」
「いや、それ全然幸運って言わない。落ちてるし」
「幸運だよ。今日はまだ落ちてないし」
「まだって……怪我しないように気をつけてくださいよ」
そしてどこかずれている。持ち前の明るさゆえにだろうか。
ボケに真っ当なツッコミを入れていた作兵衛はここで我に返った。こんなことをしているバヤイではないと。
「すみません。おれ、左門と三之助を探しに行くんで失礼します」
「あ、うん。気をつけてね」
作兵衛は医務室に押し寄せる忍たまたちをかき分け、霧華に軽く頭を下げて廊下を早足で進んでいった。
迷子になる確率が高いという三年生二人をいつも彼は探し回っている。悲しいことにそんなイメージが既についていた。
「葉月さん、怪我をされていないなら別の用事ですか?」
「あ、えっと……うん。善法寺くんに話があったんだけど」
左近が包帯を手に取りながら霧華にそう訊ねた。一度伊作の方へ目をやるが、直ぐに医務室内を見渡す。
どう考えても話どころではない。こうして会話をする間にも彼ら保健委員は手際よく患者の手当てを進めているのだ。
「それどこじゃないよね」
「すみません。急ぎであれば今聞きますよ」
「あ、全然。急ぎとかじゃないから」
霧華は両手を胸の前でぱたぱたと振り、笑顔を浮かべる。それはどこか取り急ぎ繕ったようなもので、ぎこちない。伏せられたその目が左近には寂し気に映った。
本人はそう言っているが、本当は今話をしたいのだろう。何とか場を設けてやりたいところではあるが、この状況だ。医務室に押し寄せる忍たまの手当てを全て終えるのはいつになるやら。
「伊作せんぱ〜い。綾部先輩が掘った落とし穴に落ちましたぁ」
「ぼくはその隣の蛸壺に落ちましたぁ」
そこへとぼとぼとやってきた乱太郎、伏木蔵の二人。土や泥まみれになった格好は何とも可哀想だと霧華の目に映る。
そして辛くも保健委員のメンバーが揃ってしまった。
「ちょ、二人とも大丈夫?」
「あ、霧華さんだ。こんにちはぁ」
「こんにちはー」
「はい、こんにちは。いや、挨拶は大事だけども。足とか捻ってない? 大丈夫?」
「だいじょーぶです。ちょっと顔とか擦りむいただけなので」
「それもだいぶ痛そうだよ。……うん、決めた。善法寺くん、私も医務室でみんなの手当てを手伝う」
乱太郎の額についた泥を袖口で拭い、頬についた真新しい擦り傷に眉を顰める霧華。怪我人だらけの現場を目にしておきながら「じゃあまた後で」と去れるような性格ではない。
それにだ、医務室には最早数えきれないぐらい世話になっているのだから。
「でも、悪いですよ」
「いいってば。いつもお世話になってる恩返しもしたいし。それに、怪我の手当ては何度もしてもらってるから覚えました!」
「それ、胸張って言えることじゃないですよね。でも、正直助かります。伊作先輩、葉月さんにも手伝ってもらいましょうよ」
一年生の腕に巻き付けた包帯の端をきゅっと結んだ左近は伊作に目を向ける。少しでも早く収拾をつける。そうすれば「霧華が話したいこと」の時間を取れるかもしれない。
伊作はというと、猫の手を借りたいほどなのは事実。食堂手伝いで就職したのに、医務室の手伝いをさせるのは気が引けていたのだ。だが、そうも言っていられない。
「……すみません。葉月さん、少しだけ手伝ってもらってもいいですか?」
「わっかりました保健委員会委員長!」
快い返事に「元気がいいなぁ」と乱太郎たちが微笑う。
左近に手招かれた霧華は隣に腰を下ろし、左近の言葉に耳を傾けた。
まずは見本として自分のやり方を見て覚えてもらいたい。それから個々の対応を任せる。症状は打撲か、擦り傷なのか。使用する薬は湿布薬か、傷薬か。添え木が必要であれば包帯で固定をする。判断がつかない場合は保健委員に指示を仰いでほしい。
左近はそう話しながら目の前にいる患者の処置をてきぱきと施していく。霧華は真剣に聞き、包帯を巻く手つきを見る。
伊作は双方に感心した。同じ保健委員である左近はまだ二年生なのだが、説明も手順も分かりやすい。それは立派に保健委員として務めてきた証でもあった。そして霧華は物覚えが早い。包帯の巻き方も左近を倣い、申し分がない。
彼女がここに来たばかりの頃は、それこそ失敗が多く見受けられた。しかし、失敗をバネにめきめきと上達している。これにはおばちゃんもニコニコと嬉しそうなのだ。
これなら安心して任せられる。伊作もにこりと笑ってみせた。
◇
湿布を頬に貼り付けた一年生が「ありがとうございました!」と霧華に御礼を言い、医務室を出た。
最後の患者を診終わった頃には日がだいぶ傾いていた。
乱太郎、伏木蔵は互いに背を預けて力が抜けたようにへたりと座り込む。数馬と左近もその場に伏せるように倒れこんでしまった。皆、疲弊した顔で「やっと終わったあ」と口を揃える。
「みんな、お疲れ様」
「お疲れ様ですー。もうクタクタですよお」
「葉月さんが手伝ってくれなかったら、今頃まだ終わってなかったです。有難うございます、葉月さん」
「どう致しまして。微力ながらお手伝いできて良かった」
「微力だなんてとんでもない。立派な戦力でしたよ~。ねえ、伊作先輩」
「うん。食堂のおばちゃんが褒めてただけあるよ。霧華さんは物覚えが早くて助かるって」
「いやあ。そんなに褒められても、明日の朝食で卵焼きおまけぐらいしかできないよ~?」
喜車の術で煽てたわけではないのだが、心からの感謝を伝えると霧華はにやにやと照れた様子で笑った。料理が美味しいと褒められるのがこの上なく嬉しいのだ。自分の努力が実を結んだ証拠。これは本当にいつか桂剥きも出来てしまうのではとさえ考えてしまう。
「やったー。ぼく、霧華さんの作る卵焼き美味しいから好きです」
「私も! ……あれ、食堂と言えば。霧華さん、夕食の手伝いは?」
手放しで喜んだ二人は格子窓の外を見た。
空は夕焼け色に綺麗に染まっている。この時間帯にもなれば、忍たまたちがそろそろ食堂に行く時間だ。
だが、本来の職業である食堂手伝いの霧華はここに居る。何故だろうと一年生二人が揃って首を横へ傾げた。
「今日の夕食はくノ一教室のみんなが作るんだって。だから私はお休みを……って、みんなどうしたの?」
世にも恐ろしい単語を聞いた。途端に乱太郎たちは顔をさっと青ざめた。
「くノ一教室が」
「夕食当番」
「その情報、先に聞けてよかった」
「今夜は食堂に立ち寄るのは止めておこう」
口元をひくひくと引き攣らせ、伊作以外の保健委員が一同頷きあう。
今度は霧華が首を傾げた。料理に不慣れな自分よりも何倍も美味しい料理が期待できるのでは、と思っていたのだ。これは彼女がここに来て初めての出来事なのでそう思うのも無理はない。
「え、え? どういうこと?」
「葉月さんはまだ知らないですよね。くノ一教室が作った料理には大抵何か入ってるんですよ」
「何かって、なに……? まさか、身体が縮んでしまう薬とか⁉」
「身体が縮む……すごいスリルとサスペンスの匂いがする」
「流石にそれはないけど、下剤とかそういったものですよ」
「私は三日間お腹がごろごろしてました」
「ぼくもずっとその日はお腹が痛くて。授業休みました」
その時は主に腹痛の症状だったと保健委員の面々は訴えた。
彼女たちはこの時代にとっての今どきの女子。さぞかし流行りにのった美味しいものだろう。それはどうやら浅はかな考えだったらしい。いつも手を振りながら「葉月さーん」と笑顔で話をしてくれるカワイイ子たちだ。しかし、彼女たちもくノ一の見習い。「流石忍者、忍者コワイ」と今の話で改めて霧華は実感するのであった。
「今夜はみんなで何か作って食べようか」
「さんせーい! 霧華さんもご一緒にどうですか?」
「と言っても、大したものは振舞えないんですけど。僕たちが持ってるのは保存食が主ですし」
「保存食……ここって、虫食べる?」
そうであれば一食抜く。その方が断然マシだと霧華は真顔で伊作に訊ねた。
「いえ、干飯と味噌汁にしようかと」
「あ、それなら食べられる。うん。お言葉に甘えてご一緒しようかな。でも、ほしいいって何?」
「米を蒸してから乾燥させた携帯食です。水に浸すとすぐ食べられるんですよ。あと味噌玉は水に溶かして、焼き石を入れればあっという間に味噌汁も出来上がります」
「へぇ~。昔はそうやってたのかあ。勉強になる。……あ」
乱太郎の説明を熱心に聞いた霧華はうんうんと頷いた。
彼女は時たまおかしな発言をする。今の様に「昔は」「この時代は」とよく口にするのだ。まるで、この時代の人間ではないような口ぶりで。それが今はっきりとこの場にいる者たちの耳に届いてしまった。
今の発言は不味い。しかし自身が気付いた時には既に遅し。皆がじっと呆けた表情で見てくる。
「霧華さんって、時々変なこと言いますよね。この時代は〜とか、こういう物使ってたんだーとか」
「そういえば、ぼくたちが当たり前だと思ってることも知らないこと多いですよね。着物の合わせが反対な時もあるし」
「もしかして、霧華さんは未来からやってきた人なのかも!」
乱太郎、左近の隣で伏木蔵が目を爛々と輝かせてそう言った。
その刹那、場がしんと静まり返る。
数秒後「まさか〜」と彼らの笑い声で室内が満ちる。ただ、霧華だけは笑っておらず、乾いた笑みを浮かべ口の端を引き攣らせる。
このまま誤魔化すこともできただろう。しかし、彼女はそうしなかった。
「あ、あったり〜。実はそう、なんだよね」
間。
「ええええぇっ⁉」
「ほ、ほんとーに?」
「霧華さん、未来人なんですかぁ!」
「どのぐらい未来から来たんですか!」
「どんな服着て、どんな物食べて生活をしてるんですか?」
「こらこら。矢継ぎ早に質問されても答えられないだろ。ちょっとみんな落ち着こう」
意外なこのこの反応に霧華は脱力していた。
「嘘だ」という反応が一つもないのだ。疑われる、怪しまれると身構えていたのに。それを素直にこのよい子たちは受け取り、信じている様子。
鳩が豆鉄砲を食ったような表情で呆けている霧華。そんな彼女を心配した数馬が「大丈夫ですか?」と優しい声を掛けるものだから。「どうして」という気持ちで頭がいっぱいになる。
「え……みんな、信じてくれるの? 嘘だとか思わないの?」
「だって、霧華さん嘘吐くような人に見えませんよ。ね、左近先輩」
「うん。うっかり声に出てることも多かったし」
「それに霧華さん優しい人だし。大嘘吐くような人は私たちの手伝いしてくれませんよ」
「あとちょっぴり不運なとこが共感できます」
「うう……みんな良い子すぎない? あとちょっぴり不運は余計だからね三反田くん」
霧華は顔を両手で覆い、俯いた。指の隙間から見える頬は紅を差している。「私、バレバレじゃん」と呟く声が伊作の耳に届く。素直で純真なのは彼女もそうだ。
「なんていうか、これで納得がいきました。でも、どうして急にそのことを? あ、もしかして僕に話って」
昼間、伊作に話があると訪れたのはもしやこのことなのか。
よく会話を交える自分を信用して、打ち明けようとしてくれたのでは。いや、それは自惚れ過ぎるだろうか。
伊作の頭にふわりと浮かんだその考え。それを肯定するかのように、霧華はこくりと頷いた。
「ほんとは善法寺くんだけに言おうと思ってたんだよね。ほら、怪我とかで一番お世話になってるし」
「お世話だなんてそんな。怪我してる人を放っておけないだけですよ。僕も、保健委員のみんなも」
「困ってる人を放っておけないのが保健委員ですから」
伊作が笑えば、周りの後輩も同じように笑顔を見せる。作り物ではない、心から人を気遣う思いが込められたもの。
その優しさを前にした霧華は涙腺が緩みそうになる。
「でも、どうやってこの時代にいらしたんですか?」
「それが私もよくわからなくて。普通に道を歩いてて、うっかり足踏み外して斜面滑り落ちて気がついたら」
この時代にいた。
俄かには信じ難い話だが、霧華は事実をありのままに話した。それ以外、どうとも説明ができないのだ。
「うわぁ……不運ですね。足を踏み外すなんて流石霧華さん」
「いやぁ、それほどでも」
「褒めてないですからね、それ」
照れる霧華に冷静な数馬のツッコミが入る。しかしそれにもめげず、朗らかな声で笑う。
それが次の瞬間、この笑顔が曇るとは誰も予想などしていない。
「それで、何か周りの風景がおかしいことに気がついて。電線もないし、車も走ってないし、道路も舗装されてないし。見慣れない景色しかなかった。途方に暮れてたの。そこに、食堂のおばちゃんが偶然通りかかって、助けてください!って縋り付いたんだ。それで、今に至る、んだけど」
そこで霧華は口を噤んだ。代わりに零れ落ちてきたのは大粒の涙。両目からはらはらと涙を零していた。その雫が頬を伝い、膝へと落ちる。
本人も突然のことで困惑した様子で顔を顰める。周囲のざわつきでようやく、ぱたぱたと降り続く雨に気がついた。どうにも、この雨は止まない。
「ごめ、んね。なんか、思い出したら急に」
怖かった。
見知らぬ土地に放り出され、右も左もわからない。頼れるものが誰もいない、何もない。
藁にも縋る思いで此処へ連れてきてもらった。
学園関係者は気が良く、自分を受け入れてくれた。性格と行動が幸いしたのか、徐々に周囲とも打ち解けてきた。
それでも拭え切れない、不安と恐怖。自分の境遇を話したところで、ほら吹き、大嘘吐きだと嫌悪されるかもしれない。その覚悟をずっと今も抱えていた。
自分でも信じられない状況下に陥っているのだ。毎朝頬を抓り、夢じゃないと震える肩を両腕で抱えた。
「葉月さん」
「ごめ、ごめん。……怖くて、ずっと、嘘つきとか思われるんだろうって」
袖口で目元を抑える霧華の背を伊作が優しく撫でた。
彼らは座り込んで泣きじゃくる霧華の周囲に集まり、思い思いに慰めようとする。伏木蔵と乱太郎はその小さな手で頭を撫で、左近と数馬は両側から肩に優しく手を置いた。
「信じますよ。大丈夫。だって、嘘つきの人はそんなに大泣きしませんから」
「怖かったですよね。迷子になったようなもんですもんね。私たちがついてますから、安心してください!」
「困ったことがあったら、いつでも言ってください。僕たちが相談に乗ります」
「わからないことがあったら何でも聞いてください」
霧華はこの時代の人ではない。それをすんなりと受け入れた彼らは全面的にサポートをすると口にした。
疑うことを知らない良い子たちすぎる。もしかしたら忍者に向いてないのではと薄らぼんやりと霧華の脳裏に過ぎった。それだけ人に優しいのだ。
「みんな、葉月さんのこと信じてますよ。もちろん、僕も」
ようやくしゃっくりの回数も減り、もう少しで泣き止めるだろう。そう思っていたところに伊作の言葉が頭上から降ってきたので、また霧華の涙腺が緩んでしまった。