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3|恐怖襲来
本当に苦手なんだってば!!
真っ青な空に輝く太陽。
その太陽が頭上に高く、高く昇った頃に授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。
午前の授業が終わったということは、待ちにまった昼休みの始まりである。
食堂へ我先にと駆けつけてくる忍たまたちの為に、腕を振るう食堂のおばちゃんとその見習い人は大忙し。
本日の昼定食は二種類。根菜の煮つけ定食と鮭の塩焼き定食の木札を廊下に貼り出している。
主菜をおばちゃんが作り、副菜を霧華が懸命に作る。その方式でここ暫く厨房は動いていた。なにせ「料理がイマイチ」と学園中で言われている霧華。
「煮込んでた野菜が溶けてなくなりました!」
「魚の焼き加減わからなさ過ぎて黒焦げに!」といった風に失敗が続いたので無理もない。
そんな失敗続きな彼女にも時々嬉しい感想が耳に届く。
自身が副菜として調理した卵焼き、それが「美味しかった」と笑顔で言われたのだ。お膳を受け取った霧華は暫く呆然としていたが、その単語が頭の中で復唱されると「おばちゃあああん私が焼いた卵焼き美味しかったって!!」と思わず厨房に向かって叫んだ。
「良かったわねぇ! 霧華ちゃん磨けば光るってあたしは信じてたわ!」
食堂のおばちゃんもまるで我が身のように、自分の家族のことのように嬉しそうに顔を綻ばせる。
厨房でお互いに手を合わせてきゃっきゃと喜ぶ姿が見られた昼下がりであった。
賑わいを見せた食堂も時間が経つにつれ、次第に人が減っていく。
ぽつり、ぽつりと忍たまは各々の昼休み時間に突入。外からは元気に遊ぶ下級生の声も聞こえてきた。
人が少なくなったところを見計らい、霧華は食堂机の水拭きをしていた。机を拭きながら落とし物や忘れ物がないか目を配る。
二つ目の机を拭き、席の下を覗き込んだ時であった。
視線をどこからか感じる。「またか」と霧華は頭をパッと上げて辺りを見回した。しかし、感じた視線の主は見当たらない。
その代わりといってはなんだが、きょろきょろとしていた霧華に首を傾げたのは乱太郎、きり丸、しんべヱの三人であった。
「どうしたんすか、霧華さん」
「んー……ちょっとね」
「なんだか心配そうな顔してますね。何か悩み事ですか?」
「今日の夕飯のメニューとか?」
「しんべヱくん、さっきお昼食べたばかりだよね」
三人はいつもの定位置――食堂の入口から近い場所――に座っていた。
それぞれ昼食は済ませたようで、今は食後のお茶を啜っている。お残しが許されないこの食堂。彼らの器には米粒ひとつすら残っていなかった。
「夕食のメニューはもう考えてあるよ」
「ほんとですか? なんだろ~何が出るのかなぁ。楽しみにしてます!」
「私も頑張るから、楽しみにしててね」
「はーい!」
片手を上げて元気よく返事をするしんべヱに思わずほっこりとした気持ちになる。素直で可愛い子が多いのだ、この忍術学園には。
それはさておき、霧華はまたもや自分に向けられた視線にバッと振り向いた。しかし、食堂の入口付近には誰もいない。
「うーん」
「霧華さん。私たちで力になれるなら、ご相談に乗りますよ」
「有難う乱太郎くん。……ええと、実はね」
霧華は三人に顔を近づけ、ひそひそ声で気になる件を話し始めた。
「最近、妙に視線を感じるんだよね。なんだか気味が悪くて」
その内容に乱太郎、しんべヱが目をまん丸にして驚き、二人で顔を見合わせた。
「もしかして、曲者が霧華さんをつけ狙ってるとか」
「でもそれなら先生たちが気づくはずだよ」
「じゃあ、学園の誰かが霧華さんに付きまとってるってこと?」
こうじゃないか、ああじゃないか。二人は真剣に意見を交わす。その意見交換会に参加せず、湯呑みから茶を飲むきり丸はふうと息を吐いた。
「それならオレ、心当たりありますよ」
「きりちゃんそれ本当?」
「それで、犯人は?」
「あの人じゃないっすかね」
すっときり丸が霧華の背後を指さす。
「え?」と振り向いた彼女の背後にはいつの間にか人が立っていた。
紫色の忍び装束を着た少年。その髪は鮮やか過ぎる金髪で、豊かな髪を高い位置で結わえている。
彼――斉藤タカ丸は人の良い笑顔を浮かべ、ある物をすちゃっと両手にそれぞれ取り出した。
「どうも」
思わず後ずさろうとした霧華は机の縁に腰を強打した。蛙が潰れたような声がその口から漏れたので乱太郎が「だ、大丈夫ですか!」と席を立つ。
呻き声を上げなら腰を擦り、目の前に立つタカ丸を見る。鋏と柘植櫛を捉えたその目はどこか怯えていた。
「だ、大丈夫。……あの、私に何か用ですか」
「髪を結わせてください」
「嫌です」
即答。
霧華は素早く食堂から逃げ出した。それはもう脱兎の如く。手には布巾を持ったまま。
「乱太郎みたいに足が速い人だな」
「ねえ、今度かけっこで競争してみたらどう?」
つけ狙う輩は誰かと心配をしていた犯人が判明するなり「タカ丸さんなら問題ないか」と呑気にお茶を啜るきり丸としんべヱ。乱太郎だけが「霧華さん、大丈夫かなあ」と宙を見るのであった。
◇
霧華が食堂から逃げ出した頃である。
伊作と留三郎は忍たま長屋へ戻ろうとしていた。六年は組は午後から自習である。伊作は図書室で借りた薬草学の本を取りに、留三郎は補修が済んだ鍵縄を取りにいこうとしていた。
は組の長屋に差し掛かった直後、鶯張りの廊下をお構いなしに走る足音が聞こえてきた。
聞くに堪えない走り方だと留三郎が眉間に皺を寄せる。
「誰だ、どたどたと足音を立てて走るヤツは」
「一年生かな。こっちに向かってきてるみたいだけど」
二人は足音の方を振り返る。
足音の主が廊下の曲がり角から現れた。必死の形相を携えた霧華が勢いそのままに伊作と留三郎にがっしりと抱きついた。
「どっどうしたんですか葉月さん」
「善法寺くん、食満くん助けてえええ……ハサミ男が追いかけてくるううう」
「鋏男?」
恐怖に染まった顔。二人に助けを乞う霧華の目が潤んでいた。
只事ではない。刹那走る緊張感。しかし、その緊張の糸はすぐにぷつりと切れた。
「そんなに逃げないでくださいよー。傷つくなぁ」
間延びした声が聞こえた途端に霧華は二人の背後にくるりと逃げ込んだ。
伊作、留三郎の前に立つ二学年下の後輩であるタカ丸が鋏と櫛を手にそう言った。その手に持つ物を見て、鋏男の由来を察知する留三郎である。
「タカ丸さん」
「どうも、こんにちは」
「タカ丸さん、なんで葉月さんを追い掛けてるんですか」
大体の理由は想像がつく。
タカ丸は髪結いの息子だ。傷んだ髪や手入れされていない髪を見掛けると放っておけずに、執拗に追いかけ回す。以前、五年生の竹谷八左ヱ門と土井半助がターゲットになっていた。それを知る二人ではあったが、見た目霧華の髪は傷んでいる様子が見られない。それに、元髪結いは鬼の様な形相もしていない。何故彼女を追い回すのか。
自分たちの背後で制服をがっしりと掴む霧華は相当怯えているようであった。
「葉月さんの髪、結わせてもらいたいなぁと思って」
「嫌です。なんで私なの? カットモデルなら他にもいっぱいいるでしょー!」
「髪結いとして、葉月さんの髪がすごく気になるんです!」
「それすごく微妙な口説き文句に聞こえるんだけどおお」
「まあ、職業病みたなもんだろうな。いいじゃないか、悪いようにはならないと思いますよ」
タカ丸の様子からしてそう判断した留三郎なのであったが、それを聞いた霧華は「信じられない」と絶望に近い表情で留三郎を睨んだ。
「酷い! 他人事だと思ってー!」
「まあまあ、落ち着いて。タカ丸さんの腕は確かですから。くノ一のお墨付きですし」
「うう、薄情者! ……こうなったら、こうするしか!」
霧華は制服を掴む手をパッと離し、次に伊作の腕をがっしりとホールドした。
「善法寺くんも一緒なら。それで妥協する」
「えっ、ちょっとなんで僕まで!」
「細かいことは気にしないって七松くんも言ってる。それに旅は道連れというでしょ」
「旅は道連れっていう使い方じゃないですよそれ!」
「いいじゃないか伊作。どうせ明後日女装の実習があるんだし、タカ丸さんに髪を整えてもらえよ」
「それじゃあ、お二人の髪結いをするということで。場所を変えましょう~!」
「勝手に決めないでくれぇ」
タカ丸はそっと霧華の手を取り、霧華は伊作の腕をしっかりと掴む。伊作は気乗りしない様子ではあるが、その手を振り払おうとはしなかった。ここで霧華の手を振り払えば悲しむのは目に見えている。
相変わらず優しい性格だ。そこが忍者として向いていないのだが、彼の長所でもある。
ずるずると引きずられていく友を留三郎は笑いながら見送っていた。
◇
人通りが少ない校舎の裏側。そこに切株が誂えたように二つちょこんとある。
タカ丸はそこへ二人を座らせ、学年装束の袂を紐でたすき掛けにする。懐から愛用の柘植櫛を取り出し、先ずは無造作に括られている霧華の髪を解いた。
艶のある髪がさらりと揺れる。髪の状態を瞬時に捉えたタカ丸はにこりと笑った。
「やっぱり思った通り、葉月さんの髪すごく綺麗ですね。毛先が少しだけ傷んでるだけですし」
「あはは……そりゃ、どうも有難う」
「伸ばしっぱなしは勿体ないですよ。随分前に髪を切られたばかりじゃないですか?」
鋏を入れた形跡がある箇所からは随分と髪が伸びていた。その時に揃えられた毛先も今では不揃いとなっている。髪を括ってしまえば然程気にならないものではあるのだが。
それを指摘された霧華は「うっ」と言葉を詰まらせた。
彼女が髪結いを嫌う理由。それは一つしかない。理由に気づいた伊作はタカ丸が髪を梳く様子を眺めながらこう口にした。
「もしかすると、人に髪を弄られるのが苦手なんですか?」
「……」
「図星ですね」
「……髪、切ってもらって満足したことがあまりなくて」
髪型のカタログから入念に選び「この髪型にしてもらおう」と美容師に伝えるも、どこか微妙に違う雰囲気となる。「これで良いですか?」と訊かれても「もう少しこの辺を切ってください!」とは言えず、頷いてしまうのだ。
それを幾度となく繰り返してきた齢十八年。年に二回、美容室に気が向いたら行けばいい方となっていた。
この話を聞いたタカ丸は指を顎に当て、うーんと唸る。
霧華に似合う髪型はどれが良いか。結髪、斬新なアシンメトリー、高い位置で結わえた一本髪。どれも似合いそうだと考える。しかし悩みを聞いてしまった以上、むやみやたらにアレンジするのも気が引けてきたのだ。
タカ丸は毛先に丁寧に鋏を入れながら本人に髪型の希望を聞くことにした。
「どんな髪型にします?」
「んー……邪魔にならなければどんなのでも」
「なんだかさっきと言ってることがちぐはぐですね」
「だってホントのことだもの。料理する時は髪が邪魔だから適当に括ってるし」
ぷくっと両頬を膨らませる様はまるで拗ねた子どものよう。
度々見せるその仕草が年齢を惑わせる。だからこそ、自分より年上だという事実に伊作は驚いたのであった。
「はい、できましたよ」
「えっ、もう?」
髪を結い始めてから時間はそう経っていない。
三十分から一時間の拘束は覚悟していた霧華はタカ丸の方を振り返った。髪結いはニコニコと笑っている。
「綺麗な髪だから短くするのは勿体ないと思って。その代わりに」
そう言いながら手鏡を霧華に渡した。その手鏡に映しだされたのは一本の簪。べっ甲の簪で纏め上げられた髪は動きの邪魔にもならず、すっきりとした。首を振っても纏わりつく髪がない。
手鏡越しに笑うタカ丸は「似合う似合う」とどこか嬉しそうだ。
「こうやって纏めておけば、邪魔にはならないでしょ?」
「……簪ってこんなにきちんと髪留められるんだ」
「それ、葉月さんにあげます。なんだか怖い思いさせちゃったみたいだし、そのお詫びに」
「いいの? 有難う。……自分で纏められるかは分からないけど、頑張ってみるね」
「その時はまた僕を呼んでください。髪を纏めるコツ教えますから」
「うん。じゃあお言葉に甘えて」
あんなに怖がっていた霧華が今ではタカ丸と笑い合っている。苦手な物がひとつでも減ったようで良かった。その簪で留めた髪型も似合っていると伊作は嬉しそうに頷いていた。
と、不意にここでタカ丸と目が合った伊作。
「それじゃあ次は」
「い、いや……やっぱり僕は遠慮して」
「ほらほら、腹をくくって」
「とりあえずこのボサボサの状態を直すね」
言うが早いかタカ丸は伊作の頭巾を取り払い、髪に櫛を通す。刹那、伊作とその髪が悲鳴を上げた。
長ければ長いほど髪は傷み、絡むものではある。だが、これは取り分け酷いと髪結いは憤慨した。
しかし、ここは流石のカリスマ髪結い腕の見せ所。あっという間に伊作の髪はサラサラストレートに生まれ変わるのである。
女装の実習では非常に評判が良かったが、他に忍たまたちからは「誰?」と言われたという。
本当に苦手なんだってば!!
真っ青な空に輝く太陽。
その太陽が頭上に高く、高く昇った頃に授業の終わりを告げる鐘の音が鳴り響いた。
午前の授業が終わったということは、待ちにまった昼休みの始まりである。
食堂へ我先にと駆けつけてくる忍たまたちの為に、腕を振るう食堂のおばちゃんとその見習い人は大忙し。
本日の昼定食は二種類。根菜の煮つけ定食と鮭の塩焼き定食の木札を廊下に貼り出している。
主菜をおばちゃんが作り、副菜を霧華が懸命に作る。その方式でここ暫く厨房は動いていた。なにせ「料理がイマイチ」と学園中で言われている霧華。
「煮込んでた野菜が溶けてなくなりました!」
「魚の焼き加減わからなさ過ぎて黒焦げに!」といった風に失敗が続いたので無理もない。
そんな失敗続きな彼女にも時々嬉しい感想が耳に届く。
自身が副菜として調理した卵焼き、それが「美味しかった」と笑顔で言われたのだ。お膳を受け取った霧華は暫く呆然としていたが、その単語が頭の中で復唱されると「おばちゃあああん私が焼いた卵焼き美味しかったって!!」と思わず厨房に向かって叫んだ。
「良かったわねぇ! 霧華ちゃん磨けば光るってあたしは信じてたわ!」
食堂のおばちゃんもまるで我が身のように、自分の家族のことのように嬉しそうに顔を綻ばせる。
厨房でお互いに手を合わせてきゃっきゃと喜ぶ姿が見られた昼下がりであった。
賑わいを見せた食堂も時間が経つにつれ、次第に人が減っていく。
ぽつり、ぽつりと忍たまは各々の昼休み時間に突入。外からは元気に遊ぶ下級生の声も聞こえてきた。
人が少なくなったところを見計らい、霧華は食堂机の水拭きをしていた。机を拭きながら落とし物や忘れ物がないか目を配る。
二つ目の机を拭き、席の下を覗き込んだ時であった。
視線をどこからか感じる。「またか」と霧華は頭をパッと上げて辺りを見回した。しかし、感じた視線の主は見当たらない。
その代わりといってはなんだが、きょろきょろとしていた霧華に首を傾げたのは乱太郎、きり丸、しんべヱの三人であった。
「どうしたんすか、霧華さん」
「んー……ちょっとね」
「なんだか心配そうな顔してますね。何か悩み事ですか?」
「今日の夕飯のメニューとか?」
「しんべヱくん、さっきお昼食べたばかりだよね」
三人はいつもの定位置――食堂の入口から近い場所――に座っていた。
それぞれ昼食は済ませたようで、今は食後のお茶を啜っている。お残しが許されないこの食堂。彼らの器には米粒ひとつすら残っていなかった。
「夕食のメニューはもう考えてあるよ」
「ほんとですか? なんだろ~何が出るのかなぁ。楽しみにしてます!」
「私も頑張るから、楽しみにしててね」
「はーい!」
片手を上げて元気よく返事をするしんべヱに思わずほっこりとした気持ちになる。素直で可愛い子が多いのだ、この忍術学園には。
それはさておき、霧華はまたもや自分に向けられた視線にバッと振り向いた。しかし、食堂の入口付近には誰もいない。
「うーん」
「霧華さん。私たちで力になれるなら、ご相談に乗りますよ」
「有難う乱太郎くん。……ええと、実はね」
霧華は三人に顔を近づけ、ひそひそ声で気になる件を話し始めた。
「最近、妙に視線を感じるんだよね。なんだか気味が悪くて」
その内容に乱太郎、しんべヱが目をまん丸にして驚き、二人で顔を見合わせた。
「もしかして、曲者が霧華さんをつけ狙ってるとか」
「でもそれなら先生たちが気づくはずだよ」
「じゃあ、学園の誰かが霧華さんに付きまとってるってこと?」
こうじゃないか、ああじゃないか。二人は真剣に意見を交わす。その意見交換会に参加せず、湯呑みから茶を飲むきり丸はふうと息を吐いた。
「それならオレ、心当たりありますよ」
「きりちゃんそれ本当?」
「それで、犯人は?」
「あの人じゃないっすかね」
すっときり丸が霧華の背後を指さす。
「え?」と振り向いた彼女の背後にはいつの間にか人が立っていた。
紫色の忍び装束を着た少年。その髪は鮮やか過ぎる金髪で、豊かな髪を高い位置で結わえている。
彼――斉藤タカ丸は人の良い笑顔を浮かべ、ある物をすちゃっと両手にそれぞれ取り出した。
「どうも」
思わず後ずさろうとした霧華は机の縁に腰を強打した。蛙が潰れたような声がその口から漏れたので乱太郎が「だ、大丈夫ですか!」と席を立つ。
呻き声を上げなら腰を擦り、目の前に立つタカ丸を見る。鋏と柘植櫛を捉えたその目はどこか怯えていた。
「だ、大丈夫。……あの、私に何か用ですか」
「髪を結わせてください」
「嫌です」
即答。
霧華は素早く食堂から逃げ出した。それはもう脱兎の如く。手には布巾を持ったまま。
「乱太郎みたいに足が速い人だな」
「ねえ、今度かけっこで競争してみたらどう?」
つけ狙う輩は誰かと心配をしていた犯人が判明するなり「タカ丸さんなら問題ないか」と呑気にお茶を啜るきり丸としんべヱ。乱太郎だけが「霧華さん、大丈夫かなあ」と宙を見るのであった。
◇
霧華が食堂から逃げ出した頃である。
伊作と留三郎は忍たま長屋へ戻ろうとしていた。六年は組は午後から自習である。伊作は図書室で借りた薬草学の本を取りに、留三郎は補修が済んだ鍵縄を取りにいこうとしていた。
は組の長屋に差し掛かった直後、鶯張りの廊下をお構いなしに走る足音が聞こえてきた。
聞くに堪えない走り方だと留三郎が眉間に皺を寄せる。
「誰だ、どたどたと足音を立てて走るヤツは」
「一年生かな。こっちに向かってきてるみたいだけど」
二人は足音の方を振り返る。
足音の主が廊下の曲がり角から現れた。必死の形相を携えた霧華が勢いそのままに伊作と留三郎にがっしりと抱きついた。
「どっどうしたんですか葉月さん」
「善法寺くん、食満くん助けてえええ……ハサミ男が追いかけてくるううう」
「鋏男?」
恐怖に染まった顔。二人に助けを乞う霧華の目が潤んでいた。
只事ではない。刹那走る緊張感。しかし、その緊張の糸はすぐにぷつりと切れた。
「そんなに逃げないでくださいよー。傷つくなぁ」
間延びした声が聞こえた途端に霧華は二人の背後にくるりと逃げ込んだ。
伊作、留三郎の前に立つ二学年下の後輩であるタカ丸が鋏と櫛を手にそう言った。その手に持つ物を見て、鋏男の由来を察知する留三郎である。
「タカ丸さん」
「どうも、こんにちは」
「タカ丸さん、なんで葉月さんを追い掛けてるんですか」
大体の理由は想像がつく。
タカ丸は髪結いの息子だ。傷んだ髪や手入れされていない髪を見掛けると放っておけずに、執拗に追いかけ回す。以前、五年生の竹谷八左ヱ門と土井半助がターゲットになっていた。それを知る二人ではあったが、見た目霧華の髪は傷んでいる様子が見られない。それに、元髪結いは鬼の様な形相もしていない。何故彼女を追い回すのか。
自分たちの背後で制服をがっしりと掴む霧華は相当怯えているようであった。
「葉月さんの髪、結わせてもらいたいなぁと思って」
「嫌です。なんで私なの? カットモデルなら他にもいっぱいいるでしょー!」
「髪結いとして、葉月さんの髪がすごく気になるんです!」
「それすごく微妙な口説き文句に聞こえるんだけどおお」
「まあ、職業病みたなもんだろうな。いいじゃないか、悪いようにはならないと思いますよ」
タカ丸の様子からしてそう判断した留三郎なのであったが、それを聞いた霧華は「信じられない」と絶望に近い表情で留三郎を睨んだ。
「酷い! 他人事だと思ってー!」
「まあまあ、落ち着いて。タカ丸さんの腕は確かですから。くノ一のお墨付きですし」
「うう、薄情者! ……こうなったら、こうするしか!」
霧華は制服を掴む手をパッと離し、次に伊作の腕をがっしりとホールドした。
「善法寺くんも一緒なら。それで妥協する」
「えっ、ちょっとなんで僕まで!」
「細かいことは気にしないって七松くんも言ってる。それに旅は道連れというでしょ」
「旅は道連れっていう使い方じゃないですよそれ!」
「いいじゃないか伊作。どうせ明後日女装の実習があるんだし、タカ丸さんに髪を整えてもらえよ」
「それじゃあ、お二人の髪結いをするということで。場所を変えましょう~!」
「勝手に決めないでくれぇ」
タカ丸はそっと霧華の手を取り、霧華は伊作の腕をしっかりと掴む。伊作は気乗りしない様子ではあるが、その手を振り払おうとはしなかった。ここで霧華の手を振り払えば悲しむのは目に見えている。
相変わらず優しい性格だ。そこが忍者として向いていないのだが、彼の長所でもある。
ずるずると引きずられていく友を留三郎は笑いながら見送っていた。
◇
人通りが少ない校舎の裏側。そこに切株が誂えたように二つちょこんとある。
タカ丸はそこへ二人を座らせ、学年装束の袂を紐でたすき掛けにする。懐から愛用の柘植櫛を取り出し、先ずは無造作に括られている霧華の髪を解いた。
艶のある髪がさらりと揺れる。髪の状態を瞬時に捉えたタカ丸はにこりと笑った。
「やっぱり思った通り、葉月さんの髪すごく綺麗ですね。毛先が少しだけ傷んでるだけですし」
「あはは……そりゃ、どうも有難う」
「伸ばしっぱなしは勿体ないですよ。随分前に髪を切られたばかりじゃないですか?」
鋏を入れた形跡がある箇所からは随分と髪が伸びていた。その時に揃えられた毛先も今では不揃いとなっている。髪を括ってしまえば然程気にならないものではあるのだが。
それを指摘された霧華は「うっ」と言葉を詰まらせた。
彼女が髪結いを嫌う理由。それは一つしかない。理由に気づいた伊作はタカ丸が髪を梳く様子を眺めながらこう口にした。
「もしかすると、人に髪を弄られるのが苦手なんですか?」
「……」
「図星ですね」
「……髪、切ってもらって満足したことがあまりなくて」
髪型のカタログから入念に選び「この髪型にしてもらおう」と美容師に伝えるも、どこか微妙に違う雰囲気となる。「これで良いですか?」と訊かれても「もう少しこの辺を切ってください!」とは言えず、頷いてしまうのだ。
それを幾度となく繰り返してきた齢十八年。年に二回、美容室に気が向いたら行けばいい方となっていた。
この話を聞いたタカ丸は指を顎に当て、うーんと唸る。
霧華に似合う髪型はどれが良いか。結髪、斬新なアシンメトリー、高い位置で結わえた一本髪。どれも似合いそうだと考える。しかし悩みを聞いてしまった以上、むやみやたらにアレンジするのも気が引けてきたのだ。
タカ丸は毛先に丁寧に鋏を入れながら本人に髪型の希望を聞くことにした。
「どんな髪型にします?」
「んー……邪魔にならなければどんなのでも」
「なんだかさっきと言ってることがちぐはぐですね」
「だってホントのことだもの。料理する時は髪が邪魔だから適当に括ってるし」
ぷくっと両頬を膨らませる様はまるで拗ねた子どものよう。
度々見せるその仕草が年齢を惑わせる。だからこそ、自分より年上だという事実に伊作は驚いたのであった。
「はい、できましたよ」
「えっ、もう?」
髪を結い始めてから時間はそう経っていない。
三十分から一時間の拘束は覚悟していた霧華はタカ丸の方を振り返った。髪結いはニコニコと笑っている。
「綺麗な髪だから短くするのは勿体ないと思って。その代わりに」
そう言いながら手鏡を霧華に渡した。その手鏡に映しだされたのは一本の簪。べっ甲の簪で纏め上げられた髪は動きの邪魔にもならず、すっきりとした。首を振っても纏わりつく髪がない。
手鏡越しに笑うタカ丸は「似合う似合う」とどこか嬉しそうだ。
「こうやって纏めておけば、邪魔にはならないでしょ?」
「……簪ってこんなにきちんと髪留められるんだ」
「それ、葉月さんにあげます。なんだか怖い思いさせちゃったみたいだし、そのお詫びに」
「いいの? 有難う。……自分で纏められるかは分からないけど、頑張ってみるね」
「その時はまた僕を呼んでください。髪を纏めるコツ教えますから」
「うん。じゃあお言葉に甘えて」
あんなに怖がっていた霧華が今ではタカ丸と笑い合っている。苦手な物がひとつでも減ったようで良かった。その簪で留めた髪型も似合っていると伊作は嬉しそうに頷いていた。
と、不意にここでタカ丸と目が合った伊作。
「それじゃあ次は」
「い、いや……やっぱり僕は遠慮して」
「ほらほら、腹をくくって」
「とりあえずこのボサボサの状態を直すね」
言うが早いかタカ丸は伊作の頭巾を取り払い、髪に櫛を通す。刹那、伊作とその髪が悲鳴を上げた。
長ければ長いほど髪は傷み、絡むものではある。だが、これは取り分け酷いと髪結いは憤慨した。
しかし、ここは流石のカリスマ髪結い腕の見せ所。あっという間に伊作の髪はサラサラストレートに生まれ変わるのである。
女装の実習では非常に評判が良かったが、他に忍たまたちからは「誰?」と言われたという。