連載
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
2|授業中の保健室
医務室の常連にならないでくださいよ、お願いですから。
それはよく晴れたある日の午後。
忍術学園の食堂から医務室に足を運ぶひとりの女性がいた。霧華は両手を身体の前でぶらぶらとさせ、医務室に続く渡り廊下を進む。その指先には無数の切り傷がついていた。
霧華は学園の食堂で働き始めてまだ日が浅い。しかし料理が特別得意というわけではないので、包丁の手つきは危なっかしいそのもの。食堂の厨房を任されているおばちゃんに初歩から教わり、今まさに猛特訓中なのだ。
この傷は努力の証、といわば美しいのだが少々目に余るレベル。
それでも「千里の道も一歩から」という食堂のおばちゃんの教えを胸に今日も頑張っていた。
医務室に訪れるのは早二度目。
つい先日も傷をこしらえて新野先生に治療をしてもらったばかりである。優しく大らかな人柄という印象を受けた人物であったが、大した期間を空けずにこれではお説教は免れないだろう。
お説教タイムはどのぐらいか。覚悟を決め、戸が開いたままの医務室に霧華は足を踏み入れた。
「新野先生~。またやっちゃいましたー……あれ、善法寺さん?」
ここにいるはずの白い忍び装束を纏う新野の姿はなく、代わりに松葉色に身を包んだ忍たまがひとりいた。
伊作は壁際に面した薬棚の引き出しを収め、呼ばれた方に振り向いた。この時間帯に忍たまが教室以外の場所にいることを不思議に思った霧華は小首を傾げる。
「新野先生なら出掛けてらっしゃいますよ……って、葉月さんその手どうしたんですか!」
細かい傷がついた霧華の手を見た伊作はぎょっと声を出した。
両手を胸の位置まで持ち上げてみせ「思ってるほど痛くはないよ、今は」へらりと笑う。
「何をしたらこんな傷だらけになるんですか、もう。手当てするからそこに座ってください」
「有難うございます。野菜の皮むきをしていたらこんなことに」
「野菜の皮むきで両手を一度に傷だらけにする人、初めて見ましたよ」
「私、料理苦手なんですよ。この間も言いましたけど」
急遽、食堂で雇われる身となったこの娘。
取り決めの際に学園長先生及び各先生方も満場一致で首を縦に振ったという話だ。それが学園長先生の命令だからか、各個人の意思としてかはわからない。兎に角、学園を運営する者たちが否と言わないのだ。学び舎に集う伊作たちに拒否権はない。
それでも生徒の中には僅か数名、霧華のことを怪しむ者もいるという噂話を聞いた。素性を隠し、学園内の偵察に来ている城のくノ一ではないか、と。
理由のひとつとして、料理が下手であること。料理人の見習いだとは言うが、あまりにも残念な腕前なのだ。包丁ひとつまともに扱えない。本人曰く「包丁が重い」らしい。そして料理の味付けも今一つ。悪くはないのだが、決め手となる美味さがない。これは普段からおばちゃんの美味しい料理を食べているからであり、舌が慣れきっているせいもある。
見習いも見習い、駆け出しの料理人。料理が下手という演技をしているのでは。そう当て推量をする者もいた。
しかし、その噂は直ぐに立ち消えた。
霧華という娘、不運なのだ。
学園に来て日が浅いというのに、既に学園内に仕掛けられた罠に幾度も引っ掛かっている。
落とし穴がそこにあれば、一日に四度落ちる。腐りかけた廊下の床板を踏み抜くこともあれば、あからさまに見えている用心縄に足を取られ転倒。忍たま同士のケンカに偶々通りがかった際に巻き込まれたこともあった。その時は一般人を巻き込んだと気づいた両者が直ぐにケンカを止めたので、事無きを得る。「怪我の功名だね」と疲れた表情で笑ってもいた。
この娘は只の料理が下手な一般人だ。
その噂が瞬く間に先の話を塗り替えたのであった。
「それは聞いていますけど。もう少し注意してください。前の傷も治っていないみたいだし」
「……バレました? 厨房で水仕事してるとどうしても皮膚がふやけるから、中々治らないんですよね」
「完治するまで水仕事禁止」
「ええっ」
「って言ったら仕事にならないですよね。なるべく水に触れないようにとだけ忠告しておきます。おばちゃんにも相談してみてください。わかってくれると思いますから」
「はい。今朝も心配されちゃいました。あんた若い子がそんなに手を傷だらけにしてもうー!って」
「それでも見習いとして頑張っているんですね」
「千里の道も一歩から。苦手だし、まだまだ未熟者だけど少しずつ上手くなっていけばいいなぁって思ってます。あ、この間の肉じゃがもリベンジさせてくださいね。今度は芋が崩れないようにしてみせますから!」
「楽しみにしてます」
あの肉じゃがは奇跡的な味付けになったと作った本人も豪語する。見た目はあれだったが。
形は歪であっても、初めて振舞った手料理が美味しいと褒められたことが余程嬉しかったのだろう。
健気で前向きな人だと伊作は柔らかく笑った。
伊作は差し出された指に軟膏を丁寧に塗っていく。細い指先は華奢そのもので、力を入れればすぐに折れてしまいそうなほど。細かい傷は全て同じ類のもの。他に目立つものといえば、落とし穴に落ちた時に擦りむいた傷跡くらいか。これもまだ瘡蓋が取れていない。
「この軟膏は撥水性があるので、少しの水なら弾きます。一日二回は塗り直した方がいいので、また夕方に医務室へいらしてください。みんなにも伝えておくので、言えばわかるようにしておきますから」
「至れり尽くせり。有難うございます。ところで、この時間って授業中じゃないんですか」
「今日は新野先生が出張でいらっしゃらないので、一日医務室を任されているんです。六年生は自習なので」
「へぇ~偉いなぁ。善法寺さんは保健委員会の委員長でしたっけ」
傷の手当てを終えた伊作は救急箱に用品をきれいに収めていく。手際の良さに半ば感心を覚えた霧華は子どものようにじっとその様を見ていた。
「そうですよ。保健委員を務めて六年目です」
「余程保健委員が好きなんですね。そうじゃなきゃ六年も続けられないですよ。エキスパートですよ」
霧華はまだ知らずにいた。保健委員会が不運委員会と呼ばれていることを。
不運な者が集まる場。則ち、伊作自身が不運であるということも。
何とも言えぬ表情で笑い、救急箱を片付けようと立ち上がった。と、その時である。
俄かに痺れた足が上手く身体を支えられず、伊作がよろめく。後方に身体が傾き、どんっと音を立ててぶつかったのは薬棚。その弾みで薬棚の引き出しが五つ、いや六つ一度に飛び出して床に落ちた。薬草、丸薬、小瓶があたりに散らばってしまった。幸いなことに小瓶は割れずに転がっている。
霧華は一連の流れに唖然とした。「そんな簡単に引き出し飛び出す?」と言いたげな目をパチパチとさせた。あまりにも漫画の一コマみたいな展開だと。
「だ、大丈夫ですか善法寺さん。いや、これ大丈夫じゃないですよね」
「うーん……僕は大丈夫なんだけど、またか」
散らかった医務室。この光景を少し前にも見た。綺麗に清潔に保たなければいけない医務室がどうしていつもこうなってしまうのか。やはり不運に纏わりつかれているせいか。これには溜息も自然と出てしまう。
「この間片付けたばかりなんだけどなぁ」
「片付けるの手伝います」
「え、そんなの悪いですよ」
「いや、この惨事を見て見ぬふりするのは人としてどうかと思うし」
霧華は伊作の頭に手を伸ばし、一枚の葉を摘まんだ。引き出しが落ちた時に舞い上がり、伊作の頭上に落ちたのだろう。「頭に葉っぱ乗せてると狸みたいですね」と何やら冗談を口にした。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「任せてください。手当てしてもらった御礼もしたいですし」
こうして医務室のちょっとした大掃除が始まった。
今年に入って何度目なのかは数えたくはないが、手伝ってくれる人がいれば早く片付く。それにこの間よりもまだマシな方だ。伊作は自分にそう言い聞かせ、てきぱきと散らばった薬草をそれぞれの棚に仕分けていく。
「善法寺さん、これはここの棚で良いですか?」
「はい。あ、そっちの袋はこちらに」
「わかりました。……にしても、薬の量が半端じゃないですよね。病院の処置室みたい」
「それはそうですよ。どんな怪我や病気にも対処できるようにしていますから」
「やっぱりすごいなぁ」
霧華はうんうんと頷きながら「忍者すごい」と独り言をぶつぶつと口にする。
それはそうと、彼女は何処から来たのだろうか。物凄く遠い田舎から来たと聞いてはいるが、出身や身分は不明だ。時折妙な物言いもする。聞き覚えのない南蛮のような言葉、皆が知る当たり前のことを知らなかったりもする。もしかすると、事情があり身分を偽ったどこかの城の姫だとか。世間知らずなのはそれで合点がいく。
間者ではないにしろ、気になるところではあった。
「失礼します。……うわあ」
「左近、入ってすぐにそう言いたくなるのもわかるけど、そんなに嫌そうな顔をしないでくれ」
医務室に訪れた左近は惨状を目の当たりにし、思わず絶句。伊作同様に前回のことを思い返していた。
「えーと、川西くんだ。こんにちは」
「こんにちは葉月さん」
「あれ、というかもう授業終わったのかい?」
「さっき授業が終わる鐘が鳴りましたよ」
医務室にいて鐘が聞こえないはずがない。もし鳴ったとするならば、伊作が薬棚にぶつかった瞬間か。引き出しが次々と床に散乱したので、鐘が鳴ったかどうかも覚えていないふたりであった。
「川西くんも医務室に用事?」
「用事というか、医務室当番なので急いで来ました。葉月さんはなんでここに……って、なんですかその手⁉」
薬草を収めた引き出しを持つ霧華の手を見た左近が驚きのあまり叫んだ。
自分の手はそんなにもぞっとされるほどなのか。あまり人前に出さない方がいいなと乾いた笑みを霧華は左近に返した。
「何やったらこんな傷だらけの手になるんですか!」
「野菜の皮むき」
「どんな剥き方を⁉」
「やっぱりそうなるよな。左近、この軟膏を一日二回塗ってあげてほしいんだ。もし医務室に僕がいなければ頼んだよ」
「わかりました。葉月さん、僕が片付け代わりますから休んでてください。見てて痛々しいですその手」
「すみません。お願いします」
仕事をしっかりと引き継いだ――引き出しの中身を再びぶちまけないように手渡し――霧華は一歩下がって邪魔にならないよう医務室の隅に移動した。
年端もいかない子どもだというのに、実にしっかりとしている。左近の見事な手際にこれまた霧華は感心していた。
「川西くんって二年生なんだっけ」
「はい。この色の装束を着た忍たまはみんな二年生です」
「何歳?」
「十一です」
「十一歳。え、しっかりしすぎじゃないこの時代の子どもたち」
「普通だと思いますけど。そういう葉月さんは何歳なんですか」
「十八になりました」
「ええっ!」
今度は伊作が素っ頓狂な声を上げた。左近に対し、女性に年齢を訊ねるのは御法度だと教えるより前に。女は怖いのだ。見た目だけでは年齢は全く予想できない。くノ一教室を担当する山本シナ先生がまさにそれ。老若どちらが本当の姿なのかは誰も知らない。
そして自分の年齢をあっけらかんと晒す霧華にも驚いていた。
「そんなに驚かれることなんですかね」
「え、えっと……てっきり同い年くらいかなぁって勝手に思ってたので。意外と年上だったんだなあって」
間。
呆けた表情で固まっていた霧華は両手で顔を覆い隠した。
「言わなきゃよかった」と震える声で呟き、その場に蹲る。
「えっ、えっ。すみません! 気に障ることを」
「白い目で見られる……できればこのこと内緒にしておいてください。後ろ指を指されるの堪えられない」
「言いません、言いませんから。ねっ、伊作先輩!」
「勿論ですよ! 三人だけの秘密にしましょう!」
膝頭からちょこんと顔を覗かせた霧華の表情はとても演技とは思えないほどの哀愁が漂う。今にも泣きぐずりそうな彼女を宥める保健委員のふたり。
約束を交わしたのはいいものの、不運なことに「葉月霧華は十八歳」という事実が次の日には学園中に広まるのであった。
医務室の常連にならないでくださいよ、お願いですから。
それはよく晴れたある日の午後。
忍術学園の食堂から医務室に足を運ぶひとりの女性がいた。霧華は両手を身体の前でぶらぶらとさせ、医務室に続く渡り廊下を進む。その指先には無数の切り傷がついていた。
霧華は学園の食堂で働き始めてまだ日が浅い。しかし料理が特別得意というわけではないので、包丁の手つきは危なっかしいそのもの。食堂の厨房を任されているおばちゃんに初歩から教わり、今まさに猛特訓中なのだ。
この傷は努力の証、といわば美しいのだが少々目に余るレベル。
それでも「千里の道も一歩から」という食堂のおばちゃんの教えを胸に今日も頑張っていた。
医務室に訪れるのは早二度目。
つい先日も傷をこしらえて新野先生に治療をしてもらったばかりである。優しく大らかな人柄という印象を受けた人物であったが、大した期間を空けずにこれではお説教は免れないだろう。
お説教タイムはどのぐらいか。覚悟を決め、戸が開いたままの医務室に霧華は足を踏み入れた。
「新野先生~。またやっちゃいましたー……あれ、善法寺さん?」
ここにいるはずの白い忍び装束を纏う新野の姿はなく、代わりに松葉色に身を包んだ忍たまがひとりいた。
伊作は壁際に面した薬棚の引き出しを収め、呼ばれた方に振り向いた。この時間帯に忍たまが教室以外の場所にいることを不思議に思った霧華は小首を傾げる。
「新野先生なら出掛けてらっしゃいますよ……って、葉月さんその手どうしたんですか!」
細かい傷がついた霧華の手を見た伊作はぎょっと声を出した。
両手を胸の位置まで持ち上げてみせ「思ってるほど痛くはないよ、今は」へらりと笑う。
「何をしたらこんな傷だらけになるんですか、もう。手当てするからそこに座ってください」
「有難うございます。野菜の皮むきをしていたらこんなことに」
「野菜の皮むきで両手を一度に傷だらけにする人、初めて見ましたよ」
「私、料理苦手なんですよ。この間も言いましたけど」
急遽、食堂で雇われる身となったこの娘。
取り決めの際に学園長先生及び各先生方も満場一致で首を縦に振ったという話だ。それが学園長先生の命令だからか、各個人の意思としてかはわからない。兎に角、学園を運営する者たちが否と言わないのだ。学び舎に集う伊作たちに拒否権はない。
それでも生徒の中には僅か数名、霧華のことを怪しむ者もいるという噂話を聞いた。素性を隠し、学園内の偵察に来ている城のくノ一ではないか、と。
理由のひとつとして、料理が下手であること。料理人の見習いだとは言うが、あまりにも残念な腕前なのだ。包丁ひとつまともに扱えない。本人曰く「包丁が重い」らしい。そして料理の味付けも今一つ。悪くはないのだが、決め手となる美味さがない。これは普段からおばちゃんの美味しい料理を食べているからであり、舌が慣れきっているせいもある。
見習いも見習い、駆け出しの料理人。料理が下手という演技をしているのでは。そう当て推量をする者もいた。
しかし、その噂は直ぐに立ち消えた。
霧華という娘、不運なのだ。
学園に来て日が浅いというのに、既に学園内に仕掛けられた罠に幾度も引っ掛かっている。
落とし穴がそこにあれば、一日に四度落ちる。腐りかけた廊下の床板を踏み抜くこともあれば、あからさまに見えている用心縄に足を取られ転倒。忍たま同士のケンカに偶々通りがかった際に巻き込まれたこともあった。その時は一般人を巻き込んだと気づいた両者が直ぐにケンカを止めたので、事無きを得る。「怪我の功名だね」と疲れた表情で笑ってもいた。
この娘は只の料理が下手な一般人だ。
その噂が瞬く間に先の話を塗り替えたのであった。
「それは聞いていますけど。もう少し注意してください。前の傷も治っていないみたいだし」
「……バレました? 厨房で水仕事してるとどうしても皮膚がふやけるから、中々治らないんですよね」
「完治するまで水仕事禁止」
「ええっ」
「って言ったら仕事にならないですよね。なるべく水に触れないようにとだけ忠告しておきます。おばちゃんにも相談してみてください。わかってくれると思いますから」
「はい。今朝も心配されちゃいました。あんた若い子がそんなに手を傷だらけにしてもうー!って」
「それでも見習いとして頑張っているんですね」
「千里の道も一歩から。苦手だし、まだまだ未熟者だけど少しずつ上手くなっていけばいいなぁって思ってます。あ、この間の肉じゃがもリベンジさせてくださいね。今度は芋が崩れないようにしてみせますから!」
「楽しみにしてます」
あの肉じゃがは奇跡的な味付けになったと作った本人も豪語する。見た目はあれだったが。
形は歪であっても、初めて振舞った手料理が美味しいと褒められたことが余程嬉しかったのだろう。
健気で前向きな人だと伊作は柔らかく笑った。
伊作は差し出された指に軟膏を丁寧に塗っていく。細い指先は華奢そのもので、力を入れればすぐに折れてしまいそうなほど。細かい傷は全て同じ類のもの。他に目立つものといえば、落とし穴に落ちた時に擦りむいた傷跡くらいか。これもまだ瘡蓋が取れていない。
「この軟膏は撥水性があるので、少しの水なら弾きます。一日二回は塗り直した方がいいので、また夕方に医務室へいらしてください。みんなにも伝えておくので、言えばわかるようにしておきますから」
「至れり尽くせり。有難うございます。ところで、この時間って授業中じゃないんですか」
「今日は新野先生が出張でいらっしゃらないので、一日医務室を任されているんです。六年生は自習なので」
「へぇ~偉いなぁ。善法寺さんは保健委員会の委員長でしたっけ」
傷の手当てを終えた伊作は救急箱に用品をきれいに収めていく。手際の良さに半ば感心を覚えた霧華は子どものようにじっとその様を見ていた。
「そうですよ。保健委員を務めて六年目です」
「余程保健委員が好きなんですね。そうじゃなきゃ六年も続けられないですよ。エキスパートですよ」
霧華はまだ知らずにいた。保健委員会が不運委員会と呼ばれていることを。
不運な者が集まる場。則ち、伊作自身が不運であるということも。
何とも言えぬ表情で笑い、救急箱を片付けようと立ち上がった。と、その時である。
俄かに痺れた足が上手く身体を支えられず、伊作がよろめく。後方に身体が傾き、どんっと音を立ててぶつかったのは薬棚。その弾みで薬棚の引き出しが五つ、いや六つ一度に飛び出して床に落ちた。薬草、丸薬、小瓶があたりに散らばってしまった。幸いなことに小瓶は割れずに転がっている。
霧華は一連の流れに唖然とした。「そんな簡単に引き出し飛び出す?」と言いたげな目をパチパチとさせた。あまりにも漫画の一コマみたいな展開だと。
「だ、大丈夫ですか善法寺さん。いや、これ大丈夫じゃないですよね」
「うーん……僕は大丈夫なんだけど、またか」
散らかった医務室。この光景を少し前にも見た。綺麗に清潔に保たなければいけない医務室がどうしていつもこうなってしまうのか。やはり不運に纏わりつかれているせいか。これには溜息も自然と出てしまう。
「この間片付けたばかりなんだけどなぁ」
「片付けるの手伝います」
「え、そんなの悪いですよ」
「いや、この惨事を見て見ぬふりするのは人としてどうかと思うし」
霧華は伊作の頭に手を伸ばし、一枚の葉を摘まんだ。引き出しが落ちた時に舞い上がり、伊作の頭上に落ちたのだろう。「頭に葉っぱ乗せてると狸みたいですね」と何やら冗談を口にした。
「それじゃあ、お言葉に甘えてお願いします」
「任せてください。手当てしてもらった御礼もしたいですし」
こうして医務室のちょっとした大掃除が始まった。
今年に入って何度目なのかは数えたくはないが、手伝ってくれる人がいれば早く片付く。それにこの間よりもまだマシな方だ。伊作は自分にそう言い聞かせ、てきぱきと散らばった薬草をそれぞれの棚に仕分けていく。
「善法寺さん、これはここの棚で良いですか?」
「はい。あ、そっちの袋はこちらに」
「わかりました。……にしても、薬の量が半端じゃないですよね。病院の処置室みたい」
「それはそうですよ。どんな怪我や病気にも対処できるようにしていますから」
「やっぱりすごいなぁ」
霧華はうんうんと頷きながら「忍者すごい」と独り言をぶつぶつと口にする。
それはそうと、彼女は何処から来たのだろうか。物凄く遠い田舎から来たと聞いてはいるが、出身や身分は不明だ。時折妙な物言いもする。聞き覚えのない南蛮のような言葉、皆が知る当たり前のことを知らなかったりもする。もしかすると、事情があり身分を偽ったどこかの城の姫だとか。世間知らずなのはそれで合点がいく。
間者ではないにしろ、気になるところではあった。
「失礼します。……うわあ」
「左近、入ってすぐにそう言いたくなるのもわかるけど、そんなに嫌そうな顔をしないでくれ」
医務室に訪れた左近は惨状を目の当たりにし、思わず絶句。伊作同様に前回のことを思い返していた。
「えーと、川西くんだ。こんにちは」
「こんにちは葉月さん」
「あれ、というかもう授業終わったのかい?」
「さっき授業が終わる鐘が鳴りましたよ」
医務室にいて鐘が聞こえないはずがない。もし鳴ったとするならば、伊作が薬棚にぶつかった瞬間か。引き出しが次々と床に散乱したので、鐘が鳴ったかどうかも覚えていないふたりであった。
「川西くんも医務室に用事?」
「用事というか、医務室当番なので急いで来ました。葉月さんはなんでここに……って、なんですかその手⁉」
薬草を収めた引き出しを持つ霧華の手を見た左近が驚きのあまり叫んだ。
自分の手はそんなにもぞっとされるほどなのか。あまり人前に出さない方がいいなと乾いた笑みを霧華は左近に返した。
「何やったらこんな傷だらけの手になるんですか!」
「野菜の皮むき」
「どんな剥き方を⁉」
「やっぱりそうなるよな。左近、この軟膏を一日二回塗ってあげてほしいんだ。もし医務室に僕がいなければ頼んだよ」
「わかりました。葉月さん、僕が片付け代わりますから休んでてください。見てて痛々しいですその手」
「すみません。お願いします」
仕事をしっかりと引き継いだ――引き出しの中身を再びぶちまけないように手渡し――霧華は一歩下がって邪魔にならないよう医務室の隅に移動した。
年端もいかない子どもだというのに、実にしっかりとしている。左近の見事な手際にこれまた霧華は感心していた。
「川西くんって二年生なんだっけ」
「はい。この色の装束を着た忍たまはみんな二年生です」
「何歳?」
「十一です」
「十一歳。え、しっかりしすぎじゃないこの時代の子どもたち」
「普通だと思いますけど。そういう葉月さんは何歳なんですか」
「十八になりました」
「ええっ!」
今度は伊作が素っ頓狂な声を上げた。左近に対し、女性に年齢を訊ねるのは御法度だと教えるより前に。女は怖いのだ。見た目だけでは年齢は全く予想できない。くノ一教室を担当する山本シナ先生がまさにそれ。老若どちらが本当の姿なのかは誰も知らない。
そして自分の年齢をあっけらかんと晒す霧華にも驚いていた。
「そんなに驚かれることなんですかね」
「え、えっと……てっきり同い年くらいかなぁって勝手に思ってたので。意外と年上だったんだなあって」
間。
呆けた表情で固まっていた霧華は両手で顔を覆い隠した。
「言わなきゃよかった」と震える声で呟き、その場に蹲る。
「えっ、えっ。すみません! 気に障ることを」
「白い目で見られる……できればこのこと内緒にしておいてください。後ろ指を指されるの堪えられない」
「言いません、言いませんから。ねっ、伊作先輩!」
「勿論ですよ! 三人だけの秘密にしましょう!」
膝頭からちょこんと顔を覗かせた霧華の表情はとても演技とは思えないほどの哀愁が漂う。今にも泣きぐずりそうな彼女を宥める保健委員のふたり。
約束を交わしたのはいいものの、不運なことに「葉月霧華は十八歳」という事実が次の日には学園中に広まるのであった。