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1│不思議な出会い
特別過ぎる事情で路頭に迷っていたところ、なんと雇っていただけました。
伊作の大きな溜息が廊下に溢れた。
それはもう疲労困憊といった様子。あまりに長く息を吐くものなので、身体中の空気が抜けて潰れた紙風船になるではないかと思う程。
彼がこんなにも疲弊するのには理由が二つある。
六年生いろは合同で野外実習があったことが一つ。
もう一つは学園に戻った際、医務室の戸を引くなり委員会の後輩たちが泣きついてきたこと。これ自体に嘆いたわけではない、後輩たちが目の当たりにした惨状に頭を抱えたのだ。
医務室内に散らばる薬草。恐らく薬棚に何かがぶつかった衝撃で引き出しが床にばらばらと落ちたのだろう。
調合途中の乳鉢はひっくり返り、粉末状の薬が畳の目にまで入り込んでいる。乳鉢が割れていないのが幸いか。
誰かが転んだ際に落っことしたのか、まきびしや縄などの忍具も散らばっている。これは左近のものだそうだ。
そして乱雑にばさばさと落ちた医学書の数々。
これらの片付けを保健委員総出で行っている最中にも、何かしら事件が飛び込んでくる。
そう、例えば乱太郎が床に積み重ねた医学書に躓き、調合器具を落とす。転んだ彼にさらに躓いた伏木蔵が障子に額をぶつける。ふらついた伏木蔵が左近にぶつかり、といった具合に瞬く間に連鎖を起こすのだ。
こんな不運が続けざまに起こる彼らについた異名は不運委員。奇しくも集ったのがこの保健委員会。ゆえに、周囲からは「保健委員会は不運な者が集まるところだ」と言われてしまっていた。
◇
伊作が医務室の片付けを終えた頃にはとっくに日が暮れてしまっていた。
夕飯の時間もとうに過ぎており、忍たま生徒の姿も殆ど見かけることはない。これは食堂は既に閉まっているかも。そう危惧の念を抱いた。しかし、食堂のおばちゃんがまだ後片付けで残っていれば余り物で何か作ってくれるかもしれない。淡い期待を胸に抱き、鳴き続ける腹の虫を手で抑えて食堂に続く廊下を進んだ。
幸いなことに食堂の灯りが見えた。それだけのことで「ツイている」と伊作は顔を緩める。
伊作は食堂の厨房を覗き込もうとしたところで、食堂のおばちゃんをと鉢合わせた。伊作を見るなり目を丸めるも、時間外に訪れた彼に嫌な顔をひとつもしない。
「あら、随分遅かったわね」
「ちょっと医務室の片付けに手間がかかっちゃいまして」
疲労の色を浮かべた顔で伊作が笑った。それに対しておばちゃんも「あらあら」と同情を示す。
ここで伊作の腹の虫が大きく鳴いた。宥めるようにお腹を押さえ、照れ臭そうに頬を掻く。
「おばちゃん、まだ何かありますか? 余ってるものならなんでも」
「そうねぇ……そうだ! 丁度いいわ、ちょっと毒……味見してもらいたいものがあるんだけど。それで良かったらどう?」
「おばちゃん。今、毒味って言いませんでした?」
「あらやだ、気のせいよ。今持って行くから、座って待ってて頂戴」
気になる台詞に鋭いツッコミを入れるも、さらりと受け流されてしまう。おばちゃんはニコニコと人の良い笑顔を浮かべ、台所へ戻っていった。
何か嫌な予感がする。そう思いながら伊作は一番奥の席に深く座り込んだ。目を瞑れば今すぐにでも眠れそうだ。そのぐらい身体が疲れている。だが、空腹には勝てない。眠りについたとしても、空腹で目が覚めるだろう。そしてそれを無視すれば、今度は同室の留三郎に迷惑をかけてしまう。
間もなくして良い匂いが漂ってきた。野菜と肉を煮込んだ美味しそうな匂いだ。
なんとか机に突っ伏さないよう姿勢を維持していた伊作が顔を上げる。目の前におばちゃんが運んできてくれたお膳が待っていた。
「はい、お待たせ。お腹空かしてるみたいだから、大盛りにしておいたわよ」
「有難うございます。……これって、肉、じゃが?」
大鉢に盛りつけられたものは肉じゃがらしきもの。というのも、じゃがいもを始めとした野菜が煮崩れていて原型を留めていない。かろうじて匂いと出汁の色で肉じゃがと推測をした伊作に、おばちゃんは断言した。
「ええ、肉じゃが。さ、食べてみて。味の感想を聞かせてほしいのよ」
「頂きます」
食堂のおばちゃんがこんなにも不格好な料理を提供するだろうか。いつも完璧な美味しい料理を提供してくれるというのに、何かがおかしい。些か先程の言動に不審を感じつつも、伊作は肉じゃがに箸をつけた。
比較的原型を留めていた小さなじゃがいもを摘まみ、口に入れる。ほろほろとじゃがいもは口の中で溶けていった。見た目は少し残念ではあるが、味がしっかりと染み込んでいて美味しい。ただ、いつものおばちゃんが作る味付けとはちょっと違うような気もしていた。
「どうかしら」
不安げに顔を曇らせたおばちゃん。伊作は不思議に思いながらも本音の感想を伝えることにした。
「はい、美味しいですよ。味も染み込んでて美味しいです」
「あら良かった!」
パッと晴れやかな笑顔がそこに咲いた。
そして厨房の方へ振り返り、誰かに話し掛けた。
「今の聞いたでしょ。美味しいって」
一体誰に訊ねているのか。気配は特に感じなかったが、忍たまの誰かがいたのか。だが、それであれば見知った顔だ。伊作に対して姿を隠す必要性はない。そして気づかなかった自分は相当疲労と空腹に蝕まれていた。
疑問符が続々と浮かぶも、伊作もそちらに視線を向ける。
柱から少しだけ顔を覗かせる小柄な人物がひとり、いた。
「やればできるってわかったでしょ? ほら、そんな所に隠れてないでこっち来なさいな」
「は、はい!」
おばちゃんに急かされた人物は弾いた様な声を出した。若いが、落ち着きのある女性の声。
厨房の入口からおずおずと姿を現したのは、割烹着姿の女性。まだ二十歳にも満たない、あどけなさが残る容姿。
彼女はおばちゃんの隣にささっと並び、伊作に向けて頭を深く下げた。
「あの、有難うございます!」
次々と不可解なことが起きる。形の崩れた肉じゃが、食堂にいた見知らぬ女性、そして急な御礼。頭の整理が追い付かない伊作に説明するようおばちゃんが口を開いた。
「こちら霧華ちゃん」
「葉月霧華です。一昨日から住み込みで働いてます」
霧華と名乗った女性は顔を上げ「よろしくお願いします」と笑った。
未だ呆然とする伊作は箸を持ったまま目を数回瞬かせていた。
「いつの間に雇ったんですか?」
「ちょっとワケがあってね。六年生は野外実習で暫くいなかったでしょ? 他の皆には紹介したんだけど、伊作くんにはまだだったから」
「そうだったんですか。六年は組の善法寺伊作です。こちらこそよろしくお願いします」
「善法寺さん、ですね。よろしくお願いします。料理下手ですけど、一所懸命頑張ります」
「何言ってんだい。桂剥きくらいはできるようになってもらわないと」
「ええっ! 無理ですよあんな上級技なんて!」
「大丈夫よ、あんた飲み込み早いんだから」
一昨日来たばかりだというのに、既におばちゃんとは打ち解けている様子が会話のやり取りで窺える。
「ワケあって」という単語が伊作の頭に引っ掛かっていた。しかしそれを詮索するのは今ではない。箸を進めながら談笑するふたりに目を向けた。明るく朗らかな人のようだ。
それにしても、初対面で料理の味見をさせられるとは。なんとも奇妙な出会いを果たした。
特別過ぎる事情で路頭に迷っていたところ、なんと雇っていただけました。
伊作の大きな溜息が廊下に溢れた。
それはもう疲労困憊といった様子。あまりに長く息を吐くものなので、身体中の空気が抜けて潰れた紙風船になるではないかと思う程。
彼がこんなにも疲弊するのには理由が二つある。
六年生いろは合同で野外実習があったことが一つ。
もう一つは学園に戻った際、医務室の戸を引くなり委員会の後輩たちが泣きついてきたこと。これ自体に嘆いたわけではない、後輩たちが目の当たりにした惨状に頭を抱えたのだ。
医務室内に散らばる薬草。恐らく薬棚に何かがぶつかった衝撃で引き出しが床にばらばらと落ちたのだろう。
調合途中の乳鉢はひっくり返り、粉末状の薬が畳の目にまで入り込んでいる。乳鉢が割れていないのが幸いか。
誰かが転んだ際に落っことしたのか、まきびしや縄などの忍具も散らばっている。これは左近のものだそうだ。
そして乱雑にばさばさと落ちた医学書の数々。
これらの片付けを保健委員総出で行っている最中にも、何かしら事件が飛び込んでくる。
そう、例えば乱太郎が床に積み重ねた医学書に躓き、調合器具を落とす。転んだ彼にさらに躓いた伏木蔵が障子に額をぶつける。ふらついた伏木蔵が左近にぶつかり、といった具合に瞬く間に連鎖を起こすのだ。
こんな不運が続けざまに起こる彼らについた異名は不運委員。奇しくも集ったのがこの保健委員会。ゆえに、周囲からは「保健委員会は不運な者が集まるところだ」と言われてしまっていた。
◇
伊作が医務室の片付けを終えた頃にはとっくに日が暮れてしまっていた。
夕飯の時間もとうに過ぎており、忍たま生徒の姿も殆ど見かけることはない。これは食堂は既に閉まっているかも。そう危惧の念を抱いた。しかし、食堂のおばちゃんがまだ後片付けで残っていれば余り物で何か作ってくれるかもしれない。淡い期待を胸に抱き、鳴き続ける腹の虫を手で抑えて食堂に続く廊下を進んだ。
幸いなことに食堂の灯りが見えた。それだけのことで「ツイている」と伊作は顔を緩める。
伊作は食堂の厨房を覗き込もうとしたところで、食堂のおばちゃんをと鉢合わせた。伊作を見るなり目を丸めるも、時間外に訪れた彼に嫌な顔をひとつもしない。
「あら、随分遅かったわね」
「ちょっと医務室の片付けに手間がかかっちゃいまして」
疲労の色を浮かべた顔で伊作が笑った。それに対しておばちゃんも「あらあら」と同情を示す。
ここで伊作の腹の虫が大きく鳴いた。宥めるようにお腹を押さえ、照れ臭そうに頬を掻く。
「おばちゃん、まだ何かありますか? 余ってるものならなんでも」
「そうねぇ……そうだ! 丁度いいわ、ちょっと毒……味見してもらいたいものがあるんだけど。それで良かったらどう?」
「おばちゃん。今、毒味って言いませんでした?」
「あらやだ、気のせいよ。今持って行くから、座って待ってて頂戴」
気になる台詞に鋭いツッコミを入れるも、さらりと受け流されてしまう。おばちゃんはニコニコと人の良い笑顔を浮かべ、台所へ戻っていった。
何か嫌な予感がする。そう思いながら伊作は一番奥の席に深く座り込んだ。目を瞑れば今すぐにでも眠れそうだ。そのぐらい身体が疲れている。だが、空腹には勝てない。眠りについたとしても、空腹で目が覚めるだろう。そしてそれを無視すれば、今度は同室の留三郎に迷惑をかけてしまう。
間もなくして良い匂いが漂ってきた。野菜と肉を煮込んだ美味しそうな匂いだ。
なんとか机に突っ伏さないよう姿勢を維持していた伊作が顔を上げる。目の前におばちゃんが運んできてくれたお膳が待っていた。
「はい、お待たせ。お腹空かしてるみたいだから、大盛りにしておいたわよ」
「有難うございます。……これって、肉、じゃが?」
大鉢に盛りつけられたものは肉じゃがらしきもの。というのも、じゃがいもを始めとした野菜が煮崩れていて原型を留めていない。かろうじて匂いと出汁の色で肉じゃがと推測をした伊作に、おばちゃんは断言した。
「ええ、肉じゃが。さ、食べてみて。味の感想を聞かせてほしいのよ」
「頂きます」
食堂のおばちゃんがこんなにも不格好な料理を提供するだろうか。いつも完璧な美味しい料理を提供してくれるというのに、何かがおかしい。些か先程の言動に不審を感じつつも、伊作は肉じゃがに箸をつけた。
比較的原型を留めていた小さなじゃがいもを摘まみ、口に入れる。ほろほろとじゃがいもは口の中で溶けていった。見た目は少し残念ではあるが、味がしっかりと染み込んでいて美味しい。ただ、いつものおばちゃんが作る味付けとはちょっと違うような気もしていた。
「どうかしら」
不安げに顔を曇らせたおばちゃん。伊作は不思議に思いながらも本音の感想を伝えることにした。
「はい、美味しいですよ。味も染み込んでて美味しいです」
「あら良かった!」
パッと晴れやかな笑顔がそこに咲いた。
そして厨房の方へ振り返り、誰かに話し掛けた。
「今の聞いたでしょ。美味しいって」
一体誰に訊ねているのか。気配は特に感じなかったが、忍たまの誰かがいたのか。だが、それであれば見知った顔だ。伊作に対して姿を隠す必要性はない。そして気づかなかった自分は相当疲労と空腹に蝕まれていた。
疑問符が続々と浮かぶも、伊作もそちらに視線を向ける。
柱から少しだけ顔を覗かせる小柄な人物がひとり、いた。
「やればできるってわかったでしょ? ほら、そんな所に隠れてないでこっち来なさいな」
「は、はい!」
おばちゃんに急かされた人物は弾いた様な声を出した。若いが、落ち着きのある女性の声。
厨房の入口からおずおずと姿を現したのは、割烹着姿の女性。まだ二十歳にも満たない、あどけなさが残る容姿。
彼女はおばちゃんの隣にささっと並び、伊作に向けて頭を深く下げた。
「あの、有難うございます!」
次々と不可解なことが起きる。形の崩れた肉じゃが、食堂にいた見知らぬ女性、そして急な御礼。頭の整理が追い付かない伊作に説明するようおばちゃんが口を開いた。
「こちら霧華ちゃん」
「葉月霧華です。一昨日から住み込みで働いてます」
霧華と名乗った女性は顔を上げ「よろしくお願いします」と笑った。
未だ呆然とする伊作は箸を持ったまま目を数回瞬かせていた。
「いつの間に雇ったんですか?」
「ちょっとワケがあってね。六年生は野外実習で暫くいなかったでしょ? 他の皆には紹介したんだけど、伊作くんにはまだだったから」
「そうだったんですか。六年は組の善法寺伊作です。こちらこそよろしくお願いします」
「善法寺さん、ですね。よろしくお願いします。料理下手ですけど、一所懸命頑張ります」
「何言ってんだい。桂剥きくらいはできるようになってもらわないと」
「ええっ! 無理ですよあんな上級技なんて!」
「大丈夫よ、あんた飲み込み早いんだから」
一昨日来たばかりだというのに、既におばちゃんとは打ち解けている様子が会話のやり取りで窺える。
「ワケあって」という単語が伊作の頭に引っ掛かっていた。しかしそれを詮索するのは今ではない。箸を進めながら談笑するふたりに目を向けた。明るく朗らかな人のようだ。
それにしても、初対面で料理の味見をさせられるとは。なんとも奇妙な出会いを果たした。
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