番外編 其の二
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結:狐月が照らす道
湯浴みを済ませた肌に秋風が沁みゆく。
狐月が照らす木々が色づき始めた昨今、夜風は十分に身体を冷やす原因になり得る。
冷たい風に足元を掬われる前に私は六年長屋へと戻った。
部屋には灯明皿の明かりが一つ、同室者の文机とその手元を照らす。
読書の邪魔をしないようにと静かに戸を閉めた。
癖のない、性格を表すように真っすぐに伸びた髪。
その髪が揺れ動き、勘兵衛の横顔がこちらへと向いた。
「随分と長風呂だったな」
「少し考え事をしていてね。もう少しで逆上せる所だった」
「珍しいな。お前は考えるより先に拳が飛ぶような奴なのに」
「私だって時には一思案することもあるさ」
いやしかし、それでは私が誰彼構わずに深慮することもなく、拳で解決に導こうとするような口ぶりではないか。
まあ、実際にその方が早い時もあるのだけど。
だが今回ばかりはそれも通用しないことであった。
毛先からぽたりと滴る雫を手拭いに吸わせ、髪を拭う。
「悩み事か。いや、委員会活動から帰ってきたお前たちの様子がおかしいと思ってな。特に清右衛門はいつも以上に憂色が濃い表情、というよりも。まるで狐に抓まれたような面持ちをしているではないか」
「ああ、言い得て妙だなそれは。一番しっくりとくる言い方だ」
勘兵衛の言葉で一つ腑に落ちた。
どこか思いあぐねていた私は笑みを返し、言葉を続ける。
「悩みというよりも。勘兵衛、一つ話を聞いてもらえないだろうか」
「構わない」落ち着いた声でそう答えた友人は既に手元の本を閉じていた。
私はその場に腰を下ろし、昼間の摩訶不思議な出来事を思い返すようにして、順に紡ぐこととした。
今日は体育委員会の活動一環として、裏裏山までランニングに赴いたのだ。体力は基本中の基本だからね。
皆、遅れずについてきたのだが道中で三之助が逸れてしまった。
それを探しに回っていたら、熊に襲われそうになっていた若い娘を一人見つけたんだ。
熊に怯えたその娘はすっかり腰を抜かしてしまってね。動けなくなったと話す。ああ、熊自体は私が撃退したので問題がない。何だ勘兵衛、その顔は。熊や猪ぐらい容易く撃退できなくては。
兎に角だ。こんな山中に年若い娘が一人で居るとは普通じゃ考えられないだろう。
年齢は私たちと同じか、下のようにも見えた。
下級生は皆その人を心配していた。小平太が担いで振り回したものだからね。
私と小平太も一概に危険な人物とは思えずにいたが、それでも用心するに越したことはない。
その後、近くの湧き水がある場所まで移動して、暫く様子を窺うことにした。
「桜木先輩、あの娘をどう思われますか」
「怪しい人ではなさそうだ。忍者の変装でもない。が、訳ありの様子と思える」
「ワケあり」
「恰好からして身なりはそこそこ良い。だが、土埃にまみれている。どこかの屋敷から逃げ出してきたんじゃないだろうか。着の身着のまま、無我夢中で駆けてきたのなら辻褄が合う」
小袖の上に着た割烹着から裾、足も土で汚れてきた。
普通に歩いただけではあそこまでは汚れない。
「女中でしょうか。水仕事で荒れたような手をしておりました」
足元がまだおぼつかないその人を支えるフリをして触れた手。あかぎれが多く見受けられた。
「もしかすると厨で働いていたのかもしれません」と小平太も私と同じ考えを持ち合わせていたよ。
武器を隠し持っている様子もないと言うので、その時点で曲者である線は限りなく薄まった。
どこぞの屋敷の主に雇われた気に入りの娘だったのかもしれない。
「可愛らしい娘さんだ。堪らず逃げ出してしまう程に嫌なことがあったのかもしれない」
「となると、追手がいる可能性は捨てきれませんね」
「どれだけ捜索に人手を割いているかは分からないが、一巡もすれば諦めもするだろう。それまでは一人にさせない方が良い」
娘の一人や二人逃しても良いと思う主もいれば、執着心に憑りつかれる場合もある。
私たちは内密に話を纏め、暫くその場に留まることに決めたんだ。
少し落ち着いてきた辺りで、近くの町まで送ろうかと小平太が声を掛けた。しかし、その人は首を横へ振る。
とても思い詰めた表情をされていたよ。迫る追手に怯えているようにも思えた。
しかし、その理由を尋ねるまでには時間が掛かりそうだった。
けど、幸いその娘さんは四郎兵衛と滝夜叉丸には心を開きそうでね。
物憂いに沈みながらも、二人に笑い掛けるまなざしは優しさに満ちていた。
あれはまるで弟を可愛がるような目をしていたよ。
勘兵衛は私の話に腰を据え、耳を傾けていた。
ここまでは逃げ出したごく普通の娘との出会いを描いたものだろう。
娘の心情に寄り添うかのように、眉を寄せて顰め面をしていた。
「相当思い詰めていたのだろうね。私たちが事情を聞く、力になると話せば途端に涙をはらはらと落とし始めてしまって」
「余程の事があったんだろう」
仄暗い表情をした勘兵衛は両腕を組み、ゆっくりと頭を縦に振った。
「それで」とその先を促し、私の方を見やる。
「消えてしまったよ」静かに私はそう答えた。
「は?」
目を点にした勘兵衛は「何を揶揄って」と音声を上げることもなく。
ただ、驚いていた。
その様は言葉を選んでいるようにも窺えた。
ようやくそれが見つかったのか、まるで不慣れな南蛮語を扱うかの如く、たどたどしく口を開く。
「消え、たって。……いや、意味がわからん。逃げたのか」
「いや、言葉の意味通りだ。その娘さんは私たちの目の前で跡形もなく、すっと姿を消した」
雪が溶けるように。いや、あれは次第に身体が透けて消えてしまったと言うのが相応しい。
残されたのは岩の上に置かれた竹の湯呑みだけ。
静寂を現すかのようにぽつんと。
事の顛末を聞いた勘兵衛はまるで怪談を目前にしたかの如く、表情が凍りついてしまった。
灯明皿の明かりが燃える音。それが鮮明に聞こえる。
固唾を飲みこむまでにだいぶ時間を要し、ようやく絞り出した声は震えてもいた。
「……幽霊、か」
「と、後輩たちとも話をしたんだがね」
ここまで話せばそこに行き着くのは至極当たり前。
四郎兵衛も「ゆ、幽霊。だから、あんなに物悲し気な表情で」と青ざめたし、「お、落ち着かないか四郎兵衛。幽霊にしては受け答えがしっかりしていたぞ!」と同じく青い顔で滝夜叉丸は首を横に振った。
それに対し「幽霊はあんなにもしっかりと人の形を保つものでしょうか。どう見ても生身の人間でしたよ」と小平太は落ち着いた様子で。
三之助に至っては「幽霊も迷子になるんですね」と終始平常でいた。
「だが自分はそう思えない。……そう、言いたげだな清右衛門」
「流石だ勘兵衛。消える直前に触れたその人の目元と涙は確かに熱を帯びていたからね」
幽霊が熱い涙を流すのならば話は別だ。と、私が笑い返せば勘兵衛が口をへの字に曲げ答えあぐねる。
「勘兵衛が冒頭で口にした言葉。言い得て妙だと私は賛同したではないか」
幽霊でなければ狐に化かされたのかもしれない。我々全員、一同があの場で。
小さな溜息が友人の口から漏れた。眉間にはこれでもかと皺が寄っている。
「何故、この話を俺にしようと思った」
「これが夢ではないことを共有したかった。ただ、それだけだよ。時が過ぎ去りいつかこの話をしたとして、お前も憶えていれば私が見た光景は夢じゃないと証明できる」
「はあ……おかげでこっちはその夢を今晩見そうだ」
「それは悪いことをした。だが、案ずる必要もない」
あれは悪いものではなさそうだよ。
何故そう言い切れるのかと問われても、何となくとしか答えようがなかった。
湯浴みを済ませた肌に秋風が沁みゆく。
狐月が照らす木々が色づき始めた昨今、夜風は十分に身体を冷やす原因になり得る。
冷たい風に足元を掬われる前に私は六年長屋へと戻った。
部屋には灯明皿の明かりが一つ、同室者の文机とその手元を照らす。
読書の邪魔をしないようにと静かに戸を閉めた。
癖のない、性格を表すように真っすぐに伸びた髪。
その髪が揺れ動き、勘兵衛の横顔がこちらへと向いた。
「随分と長風呂だったな」
「少し考え事をしていてね。もう少しで逆上せる所だった」
「珍しいな。お前は考えるより先に拳が飛ぶような奴なのに」
「私だって時には一思案することもあるさ」
いやしかし、それでは私が誰彼構わずに深慮することもなく、拳で解決に導こうとするような口ぶりではないか。
まあ、実際にその方が早い時もあるのだけど。
だが今回ばかりはそれも通用しないことであった。
毛先からぽたりと滴る雫を手拭いに吸わせ、髪を拭う。
「悩み事か。いや、委員会活動から帰ってきたお前たちの様子がおかしいと思ってな。特に清右衛門はいつも以上に憂色が濃い表情、というよりも。まるで狐に抓まれたような面持ちをしているではないか」
「ああ、言い得て妙だなそれは。一番しっくりとくる言い方だ」
勘兵衛の言葉で一つ腑に落ちた。
どこか思いあぐねていた私は笑みを返し、言葉を続ける。
「悩みというよりも。勘兵衛、一つ話を聞いてもらえないだろうか」
「構わない」落ち着いた声でそう答えた友人は既に手元の本を閉じていた。
私はその場に腰を下ろし、昼間の摩訶不思議な出来事を思い返すようにして、順に紡ぐこととした。
今日は体育委員会の活動一環として、裏裏山までランニングに赴いたのだ。体力は基本中の基本だからね。
皆、遅れずについてきたのだが道中で三之助が逸れてしまった。
それを探しに回っていたら、熊に襲われそうになっていた若い娘を一人見つけたんだ。
熊に怯えたその娘はすっかり腰を抜かしてしまってね。動けなくなったと話す。ああ、熊自体は私が撃退したので問題がない。何だ勘兵衛、その顔は。熊や猪ぐらい容易く撃退できなくては。
兎に角だ。こんな山中に年若い娘が一人で居るとは普通じゃ考えられないだろう。
年齢は私たちと同じか、下のようにも見えた。
下級生は皆その人を心配していた。小平太が担いで振り回したものだからね。
私と小平太も一概に危険な人物とは思えずにいたが、それでも用心するに越したことはない。
その後、近くの湧き水がある場所まで移動して、暫く様子を窺うことにした。
「桜木先輩、あの娘をどう思われますか」
「怪しい人ではなさそうだ。忍者の変装でもない。が、訳ありの様子と思える」
「ワケあり」
「恰好からして身なりはそこそこ良い。だが、土埃にまみれている。どこかの屋敷から逃げ出してきたんじゃないだろうか。着の身着のまま、無我夢中で駆けてきたのなら辻褄が合う」
小袖の上に着た割烹着から裾、足も土で汚れてきた。
普通に歩いただけではあそこまでは汚れない。
「女中でしょうか。水仕事で荒れたような手をしておりました」
足元がまだおぼつかないその人を支えるフリをして触れた手。あかぎれが多く見受けられた。
「もしかすると厨で働いていたのかもしれません」と小平太も私と同じ考えを持ち合わせていたよ。
武器を隠し持っている様子もないと言うので、その時点で曲者である線は限りなく薄まった。
どこぞの屋敷の主に雇われた気に入りの娘だったのかもしれない。
「可愛らしい娘さんだ。堪らず逃げ出してしまう程に嫌なことがあったのかもしれない」
「となると、追手がいる可能性は捨てきれませんね」
「どれだけ捜索に人手を割いているかは分からないが、一巡もすれば諦めもするだろう。それまでは一人にさせない方が良い」
娘の一人や二人逃しても良いと思う主もいれば、執着心に憑りつかれる場合もある。
私たちは内密に話を纏め、暫くその場に留まることに決めたんだ。
少し落ち着いてきた辺りで、近くの町まで送ろうかと小平太が声を掛けた。しかし、その人は首を横へ振る。
とても思い詰めた表情をされていたよ。迫る追手に怯えているようにも思えた。
しかし、その理由を尋ねるまでには時間が掛かりそうだった。
けど、幸いその娘さんは四郎兵衛と滝夜叉丸には心を開きそうでね。
物憂いに沈みながらも、二人に笑い掛けるまなざしは優しさに満ちていた。
あれはまるで弟を可愛がるような目をしていたよ。
勘兵衛は私の話に腰を据え、耳を傾けていた。
ここまでは逃げ出したごく普通の娘との出会いを描いたものだろう。
娘の心情に寄り添うかのように、眉を寄せて顰め面をしていた。
「相当思い詰めていたのだろうね。私たちが事情を聞く、力になると話せば途端に涙をはらはらと落とし始めてしまって」
「余程の事があったんだろう」
仄暗い表情をした勘兵衛は両腕を組み、ゆっくりと頭を縦に振った。
「それで」とその先を促し、私の方を見やる。
「消えてしまったよ」静かに私はそう答えた。
「は?」
目を点にした勘兵衛は「何を揶揄って」と音声を上げることもなく。
ただ、驚いていた。
その様は言葉を選んでいるようにも窺えた。
ようやくそれが見つかったのか、まるで不慣れな南蛮語を扱うかの如く、たどたどしく口を開く。
「消え、たって。……いや、意味がわからん。逃げたのか」
「いや、言葉の意味通りだ。その娘さんは私たちの目の前で跡形もなく、すっと姿を消した」
雪が溶けるように。いや、あれは次第に身体が透けて消えてしまったと言うのが相応しい。
残されたのは岩の上に置かれた竹の湯呑みだけ。
静寂を現すかのようにぽつんと。
事の顛末を聞いた勘兵衛はまるで怪談を目前にしたかの如く、表情が凍りついてしまった。
灯明皿の明かりが燃える音。それが鮮明に聞こえる。
固唾を飲みこむまでにだいぶ時間を要し、ようやく絞り出した声は震えてもいた。
「……幽霊、か」
「と、後輩たちとも話をしたんだがね」
ここまで話せばそこに行き着くのは至極当たり前。
四郎兵衛も「ゆ、幽霊。だから、あんなに物悲し気な表情で」と青ざめたし、「お、落ち着かないか四郎兵衛。幽霊にしては受け答えがしっかりしていたぞ!」と同じく青い顔で滝夜叉丸は首を横に振った。
それに対し「幽霊はあんなにもしっかりと人の形を保つものでしょうか。どう見ても生身の人間でしたよ」と小平太は落ち着いた様子で。
三之助に至っては「幽霊も迷子になるんですね」と終始平常でいた。
「だが自分はそう思えない。……そう、言いたげだな清右衛門」
「流石だ勘兵衛。消える直前に触れたその人の目元と涙は確かに熱を帯びていたからね」
幽霊が熱い涙を流すのならば話は別だ。と、私が笑い返せば勘兵衛が口をへの字に曲げ答えあぐねる。
「勘兵衛が冒頭で口にした言葉。言い得て妙だと私は賛同したではないか」
幽霊でなければ狐に化かされたのかもしれない。我々全員、一同があの場で。
小さな溜息が友人の口から漏れた。眉間にはこれでもかと皺が寄っている。
「何故、この話を俺にしようと思った」
「これが夢ではないことを共有したかった。ただ、それだけだよ。時が過ぎ去りいつかこの話をしたとして、お前も憶えていれば私が見た光景は夢じゃないと証明できる」
「はあ……おかげでこっちはその夢を今晩見そうだ」
「それは悪いことをした。だが、案ずる必要もない」
あれは悪いものではなさそうだよ。
何故そう言い切れるのかと問われても、何となくとしか答えようがなかった。
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