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互いの胸中を知るのは唯一人
五月晴れの様な澄んだ青空が広がっていた。姿が見えない小鳥達の囀りも心なしか弾んでいるように聞こえる。
春に咲いた桜も終わり、すっかり葉桜へ姿を落ち着かせた。青々とした並木道を通れば、風が吹く度に心地よく青葉の擦れる音がする。
新緑の季節は気持ちが良い。原っぱに寝転がって、空を仰ぎながら風を感じて眠りたい。と、そんな願望を塔士の朱鳥術士に伝えると「無用心過ぎる」と止められてしまった。いくら外壁に囲まれた街中とはいえ、気を弛めすぎだと。そんなこと言ってもついこの間まで自分の世界に居たのだから、そういう感覚があるのは仕方ないこと。
街路樹の散策を楽しんだ後、バンガード市内の広場まで足を向けてきた。お店が集まっているこの辺りには喫茶店も複数構えている。
そのうちの一つ、テラス席を設けている喫茶店を通りすぎようとした時だった。大きなストリートに面した席で本を山積みにしているお客さんが居た。参考書を積み上げたような三つの高い本の山が出来上がっている。
こんな所で随分と勉強熱心な人がいるものだと感心。ただ、その本人が見当たらなかった。ところがよく観察すると本の影に小さな体が隠れているようで、ちらと覗いた赤毛にもしやと思い、角度を変えて私はその席へ近づいていく。
赤毛の少年が辞典の様に厚い本をテーブルに広げていた。四人掛けのお洒落な白い丸テーブルでは少し窮屈そうだ。
「ボルカノくん。こんにちは」
こうして本に没頭している彼は声を掛けても気づかない。その癖を良く知っていたので、声量を絞って話しかけたつもりだ。でもどうやら少年時代の彼は周囲の音を拾っている。
顔を上げたボルカノ少年は大きな目で私を見上げ、その瞳を瞬かせた。この彼と会ったのは一度だけ。もしかしたら覚えていないかもしれない。よもや不審者と思われている可能性も。そんな不安もあったけれど、彼はぺこりと頭を下げて「お久しぶりです」と答えてくれたことにほっとした。
「こんな所で勉強?ここよりも図書館の方が机広いんじゃないかな」
「……外の風を、精霊の声を聞きながら学びたい。その方が理解も深まるので」
「へえ~精霊の声がボルカノくんには聞こえるんだ。……私には木々のざわめきしか聞こえないけど。ね、何て言ってるの?」
私がそう尋ねると彼は目を閉じた。風の音にじっと耳を澄ませている。それから間もなくして彼は目を開け、私の方をじっと見ながらこう話した。
「雪解けが遅れている地域へ春風を届けに行こう。…そう言ってます」
「へえ~!…そっか、この辺は暖かいけどまだ北の方は雪が残ってるんだね。私にも聞こえたらいいのになあ。そうしたら楽しそう」
「……楽しいかどうかは分からない。貴女は散歩ですか」
「うん。今日はお店の当番じゃないからね。ふらふらーっとお散歩してるの」
「くれぐれも迷子にならないようにしてください」
彼の私に対する印象は完全に迷子だ。図書館へ案内する時もそうだったけど、このバンガードに来たばかりの頃、宿舎へ帰れなくなったことがあった。もはや半泣き状態で辿り着いた暁にはエレンに物凄く心配される始末。あれ以来、エレンに何かと世話を掛けている。「どっちが年上なんだか分からないわ」とまで言われた。
そんな失敗があるので言い返せないのが悔しい。
このまま彼と別れてもいいけど、折角また会えたんだし。もう少しお喋りをしたい気もする。ダメ元で私は相席を頼んでみた。
「こっちの席に座ってもいいかな」
「どうぞ」
案外あっさりと了承してくれた。きっと誰が側に居ようとお構いなしに集中できる性質だからなんだろう。外野の音を完全に遮断する特技があるし。既に視線が手元の本へ向いていた。
私は彼の向かい側にある椅子を引いてそこに腰を下ろす。
山積みになっている本はそこまで厚くない。今読んでいる物が一番読み応えありそう。一冊の厚みは無くとも、これだけの量だ。図書館から此処まで運んでくるのは大変だっただろうに。今日返しに行くのなら手伝ってあげようかな。
「本、返しに行く時手伝おうか?」
「いえ、結構です。自分で持ち運べない量を借りてはいませんから」
「そ、そうだよね。……私が読んでもいいやつって何かある?」
「こちらの方はもう読み終わったので。お好きにしてください」
彼は自分から見て左の山を示した。明らかにこちらの山の方が積み上がっている。一日でこんなに読んでしまったのか。
私は一番上に積んである本をとりあえず手に取ってみた。表紙に『玄武術の基礎と精霊』というタイトルが書かれている。厚い表紙を捲ると、そこには玄武術を操る綺麗な女性の絵が描かれていた。人間ではなく、人魚の様な出で立ち。ネレイドの姿に似ている。この女性は水の精霊なんだろう。
第一章を読み進めながら彼の方をちらりと窺った。本に視線を落とす表情に見覚えがある。
「ボルカノくんは凄いね。半日でこんなに本を読んじゃうんだから」
「そんなことはありません。図書館で借りられる量は限度もある。それにフィールドワークにも行きたいので……一日の時間が足りない」
研究熱心で興味を引く物には時間を惜しまない。彼の性分は歳を重ねても変わらないようだ。まるでそのまま大人になったみたい。無邪気な所は無くなっているけどね。
中々読み進まない本から顔を上げたところで、目と目がパチりと合う。私はいつの間にか頬を緩めていたようで、不審者を見るかのような疑いに満ちた表情をされてしまった。
「ご、ごめんね。……昔から変わってないんだなあって思って。研究熱心な所とか」
「それを聞いて安心しました。探究心はいくつになっても持ち続けたいものですから」
表立って感情を外に出さない所も変わらず。もう少し笑って過ごしてもいいと思うのに。元気一杯に笑顔で外を走り回っているこの子を想像したけど、違和感がありすぎてすぐにその映像は頭から消え去った。
それからは特にこれといった会話が続かず、無言の時間が長引くようになる。ふとした時にスイッチが入るタイミングも同じだ。これ以上彼の勉強の邪魔をしないようにと私も本に集中する事にした。
この玄武術の本は文章の書き方、専門用語からしてその道を目指す人向けだ。初心者用としてある程度噛み砕いた記述でも、私の様に全くこういった術とは無縁の世界から来た人間には難しい。もしも本気で学ぶならこれと別冊で参考書を用意しないと。まあ、玄武術を学びたいなんて言ったらボルカノさんが苦渋の表情を浮かべるに違いない。前もそうだったし。こうして全ての術を満遍なく勉強していたのに、どうして今の彼は朱鳥術ばかり推してくるんだろうか。
「貴女は、あの人のどこに惹かれたんですか」
周囲は蚊帳の外かと思いきや、こうして急な質問が飛んでくる。不意を打つその問い掛けに私は少しの間呆けてしまった。まさかそんな事聞かれると思ってもいない。
「ど、どこって……急に言われても。うーん」
「好いているから共にいる。わざわざ好きでもない相手の隣にはいないと思いますが」
「それはそうだけど。……好きな所、か」
そう言われてみれば改めて考えたことが無い。召喚術が失敗したせいでこの世界に喚び出されて、一時はどうなるのかと思った。ふとした瞬間に訪れる身体を覆うような恐怖、目の前を暗くするような不安を拭い去ってくれたのは他の誰でもない、彼だった。彼の言葉や態度にどれだけ救われていたか。揺るぎない信頼は四季が移り変わる様に、ゆっくりと変わっていったのかもしれない。
私は彼の質問に答える為に彼の表情や仕草を思い浮かべた。
「……ありきたりかもしれないけど。優しい所、かな。優しくて強くて…頼りになる。何度も助けてもらったの。それに、一緒に居て安心できる人はボルカノさんぐらいだな…って」
ここまで自分の胸の内を言葉にして、ハッと私は気づいてしまった。これは惚気では。いくら少年時代の彼とはいえ、本人相手に話しているようなもの。そう思うと恥ずかしさが一瞬のうちに沸騰してしまった。しかも何のリアクションも取ってくれないので、余計に気恥ずかしい。
「いっ今のは聞かなかったことに。面と向かって言ったことないし」
「僕は本人であって、そうじゃない。貴女がどう惚気ようと別に構いませんけど」
「え、いや…その……て、哲学すぎる!お願いだから内緒にしといて!」
「貴女は感情表現が豊かな人だ」
すっと彼の視線が本へ落ちると同時に口角が僅かに持ち上げられる。弄ばれているんだとそこで気が付いた。私が拗ねてそっぽを向いていると、押し殺すような小さな笑い声が聞こえたような気さえする。
「……何か飲む?奢ってあげるよ」
「口止め料ならお気になさらずに」
「そんなんじゃないってば。ほら、今日は気温も高いし喉乾いたかなあって。ここのブレンドティー美味しいんだよ」
テーブルの隅に追いやられた小さなメニュー表に手を伸ばす。伝票もその近くに伏せられている。この店に入った時に飲物を一度頼んでいるようだ。日よけのパラソルも無いこの席にずっと座って居たら干からびてしまう。
メニューの紅茶一覧からブレンドティーを指し、それから下へ順に指を滑らせていく。
「おススメはブレンドティーだけど、アールグレイとダージリンも美味しいの。ティーポットで提供されるからそれぞれ違うの頼んで飲み比べしてもいいし……うん、相席のお礼と言う事で奢らせて」
「……あの」
「あ、ゴメンね。一人で盛り上がって……コーヒーの方が良かった?私は紅茶の方が好きだけど、豆の種類が豊富だってトーマスが言ってたよ」
「いえ、紅茶もコーヒーもまだ飲めないので」
彼の口から意外な言葉が出たと私は驚いた。そうだ、今目の前に座って居るのは九歳の少年だ。味覚は紅茶もコーヒーもただ苦いと感じるだけの年齢なんだ。
「そっか、そうだよね。あんまりにも大人っぽいからつい」
「…これがいい」
メニュー表の右上に『ベリーヨーグルト』と書かれたドリンクを彼が示した。ヨーグルトドリンクなんだろう。この時期限定のドリンクの様だ。
「評判では甘すぎず、果実の酸味ともバランスが取れているそうです」
「いいね。季節限定みたいだし、じゃあこれを二つ。すみませーん!」
近くのテラス席を片付けていた店員さんに私は声を掛け、ドリンクを二つ注文した。「楽しみだね」と笑いかければ「そうですね」と返ってきた。
◇
清涼の風が吹いている。精霊の囁き声が至る所で聞こえていた。新緑の季節に浮足立っているようだ。春風を北へ届けに行こうかと話している者もいた。
中央広場に面した喫茶店の前を通りかかると、テラス席に本を山積みにして占領している人間が居た。こんな場所で読書かと相手の顔を見る。それが昔の自分だったので呆れてしまった。しかもその向かい側に霧華が自分の腕を枕にして居眠りをしている。
一体どういう状況なのか。それを探る猶予も無く、過去の自分と目が合う。あらゆる時点の自分が存在すると頭で理解していても、やはり慣れそうにない。
互いに無言を貫き通すので、居たたまれない。一先ず、自分の上着を脱いで彼女の肩へ掛けてやった。一挙一動を探るその目つき。昔の自分はこんな目をしていたのか。
「お前はこんな所で読書か。…人の迷惑を少しは考えないか」
「誰にも迷惑をかけているつもりは無い。この店にも対価を支払っている」
口を開けば可愛げのない台詞。頭を抱えたくなる。過去の自分と接触するのを極力避けていたのは、己の言動が度々刺さるからだ。考えを改めろと言うつもりもないが。
「我ながら可愛げのない子どもだな。…ところで、どうして彼女がこんな所で居眠りをしているんだ」
「偶々通りかかっただけです。他に席も空いていなかったので、相席してもいいかと」
「それを許可した、という訳か。確かに此処の紅茶は彼女も好んで……」
何度も足を運んでいる、と続けようとした言葉はそこで留まった。彼女のすぐ側に『玄武術の基礎と精霊』という題目の本。それを見た刹那、不愉快な感情が込み上げてきた。
「……ようやく術を学ぶ気になったかと思えば、よりによって玄武術か」
「朱鳥と玄武、互いに補えるからいいじゃないですか。この世界は精霊のバランスで成り立っている。それは貴方もよく知っているはずだ」
感情よりも先に正論とする言い方にも腹の虫が余計に苛立つ。例え理に適うとしても、こればかりは譲れない。
「そういう問題ではないんだ。……玄武術を学ぶと言い出したら徹底的に朱鳥術を教え込んでやる」
「……大人げない。ただ暇潰しに一番上にあった本を手に取っただけです。眉間に皺を寄せながら読んでいた。そもそも地術は向いていないのでは」
地術は体力を基盤とする。扱うにはそれなりの体力が必要だ。それでも身に着ければ基礎は扱えるようになる。体力に自信が無いから天術をという訳にもいかない。天術は強靭な精神力を必要とする。考えすぎる節がある彼女にはそれこそ向いていない。
広場を背に向けた席へ座り、彼女の肩から落ちそうな上着を再度掛け直す。この陽気に包まれたせいか、よく眠っていた。
テーブルに積まれた本には見覚えのある題目が幾つかある。知識を得るために次から次へと読んでいたあの頃。適当な本の表紙を開けばこの胸に懐かしさが芽生えてくる。
本の山がまた一つ高くなる。まだ目を通していない本は残り二冊。『天術の応用編』と書かれた本を手に取り、こちらを見た。
「貴方はこの人のどこに、いつ惹かれたんですか」
「……藪から棒になんだ。記憶が確かであれば、恋愛に興味を持ってはいなかった筈だが」
「だからこそだ。……今は知りたいことが多すぎて、人を思いやる気持ちなんて一欠けらも無い。こんな自分が特定の誰かを想うようになるとは到底思えない」
かつての自分も同じ考えを持ち合わせていた。当然と言えば当然だ。
世界の理を明らかにするべく日々学び、術を鍛えていた。解き明かしたいという純粋な気持ちは次第に力を求めるようになった。それが良いか悪いかと聞かれれば、どちらでもない。術士が更なる力を欲するのは道理だ。故に争いも生じた。
どちらにせよ彼女と出逢わなければ今のオレは存在していない。
「明るく無邪気で、人を疑わない素直さがある。あまりに無垢で心配にもなるが…。人は自分に無い物を求める。彼女はオレには無い物を多く持ち合わせている。そんな彼女にいつの間にか惹かれたんだろう。……誰かを守りたいという気持ちは案外悪くないものだ」
この答えが求めている物とは相違が生じたようで、納得がいかないと眉を顰める。人間の感情というものは一筋縄ではいかないものだ。仕方のない事。
「僕にはその感情が理解できるようになるかは分からない。でも、この人は対等に接してくれた。それが嬉しかったのは事実だ」
「そう感じた事を忘れずに過ごしていけばいい。今はそれだけで充分だ」
彼女と何を話したのかを聞くつもりはないが、胸に響いた言葉があったのだろう。傍らで眠る霧華の方へ向けた表情は子どもらしい笑みを携えていた。
五月晴れの様な澄んだ青空が広がっていた。姿が見えない小鳥達の囀りも心なしか弾んでいるように聞こえる。
春に咲いた桜も終わり、すっかり葉桜へ姿を落ち着かせた。青々とした並木道を通れば、風が吹く度に心地よく青葉の擦れる音がする。
新緑の季節は気持ちが良い。原っぱに寝転がって、空を仰ぎながら風を感じて眠りたい。と、そんな願望を塔士の朱鳥術士に伝えると「無用心過ぎる」と止められてしまった。いくら外壁に囲まれた街中とはいえ、気を弛めすぎだと。そんなこと言ってもついこの間まで自分の世界に居たのだから、そういう感覚があるのは仕方ないこと。
街路樹の散策を楽しんだ後、バンガード市内の広場まで足を向けてきた。お店が集まっているこの辺りには喫茶店も複数構えている。
そのうちの一つ、テラス席を設けている喫茶店を通りすぎようとした時だった。大きなストリートに面した席で本を山積みにしているお客さんが居た。参考書を積み上げたような三つの高い本の山が出来上がっている。
こんな所で随分と勉強熱心な人がいるものだと感心。ただ、その本人が見当たらなかった。ところがよく観察すると本の影に小さな体が隠れているようで、ちらと覗いた赤毛にもしやと思い、角度を変えて私はその席へ近づいていく。
赤毛の少年が辞典の様に厚い本をテーブルに広げていた。四人掛けのお洒落な白い丸テーブルでは少し窮屈そうだ。
「ボルカノくん。こんにちは」
こうして本に没頭している彼は声を掛けても気づかない。その癖を良く知っていたので、声量を絞って話しかけたつもりだ。でもどうやら少年時代の彼は周囲の音を拾っている。
顔を上げたボルカノ少年は大きな目で私を見上げ、その瞳を瞬かせた。この彼と会ったのは一度だけ。もしかしたら覚えていないかもしれない。よもや不審者と思われている可能性も。そんな不安もあったけれど、彼はぺこりと頭を下げて「お久しぶりです」と答えてくれたことにほっとした。
「こんな所で勉強?ここよりも図書館の方が机広いんじゃないかな」
「……外の風を、精霊の声を聞きながら学びたい。その方が理解も深まるので」
「へえ~精霊の声がボルカノくんには聞こえるんだ。……私には木々のざわめきしか聞こえないけど。ね、何て言ってるの?」
私がそう尋ねると彼は目を閉じた。風の音にじっと耳を澄ませている。それから間もなくして彼は目を開け、私の方をじっと見ながらこう話した。
「雪解けが遅れている地域へ春風を届けに行こう。…そう言ってます」
「へえ~!…そっか、この辺は暖かいけどまだ北の方は雪が残ってるんだね。私にも聞こえたらいいのになあ。そうしたら楽しそう」
「……楽しいかどうかは分からない。貴女は散歩ですか」
「うん。今日はお店の当番じゃないからね。ふらふらーっとお散歩してるの」
「くれぐれも迷子にならないようにしてください」
彼の私に対する印象は完全に迷子だ。図書館へ案内する時もそうだったけど、このバンガードに来たばかりの頃、宿舎へ帰れなくなったことがあった。もはや半泣き状態で辿り着いた暁にはエレンに物凄く心配される始末。あれ以来、エレンに何かと世話を掛けている。「どっちが年上なんだか分からないわ」とまで言われた。
そんな失敗があるので言い返せないのが悔しい。
このまま彼と別れてもいいけど、折角また会えたんだし。もう少しお喋りをしたい気もする。ダメ元で私は相席を頼んでみた。
「こっちの席に座ってもいいかな」
「どうぞ」
案外あっさりと了承してくれた。きっと誰が側に居ようとお構いなしに集中できる性質だからなんだろう。外野の音を完全に遮断する特技があるし。既に視線が手元の本へ向いていた。
私は彼の向かい側にある椅子を引いてそこに腰を下ろす。
山積みになっている本はそこまで厚くない。今読んでいる物が一番読み応えありそう。一冊の厚みは無くとも、これだけの量だ。図書館から此処まで運んでくるのは大変だっただろうに。今日返しに行くのなら手伝ってあげようかな。
「本、返しに行く時手伝おうか?」
「いえ、結構です。自分で持ち運べない量を借りてはいませんから」
「そ、そうだよね。……私が読んでもいいやつって何かある?」
「こちらの方はもう読み終わったので。お好きにしてください」
彼は自分から見て左の山を示した。明らかにこちらの山の方が積み上がっている。一日でこんなに読んでしまったのか。
私は一番上に積んである本をとりあえず手に取ってみた。表紙に『玄武術の基礎と精霊』というタイトルが書かれている。厚い表紙を捲ると、そこには玄武術を操る綺麗な女性の絵が描かれていた。人間ではなく、人魚の様な出で立ち。ネレイドの姿に似ている。この女性は水の精霊なんだろう。
第一章を読み進めながら彼の方をちらりと窺った。本に視線を落とす表情に見覚えがある。
「ボルカノくんは凄いね。半日でこんなに本を読んじゃうんだから」
「そんなことはありません。図書館で借りられる量は限度もある。それにフィールドワークにも行きたいので……一日の時間が足りない」
研究熱心で興味を引く物には時間を惜しまない。彼の性分は歳を重ねても変わらないようだ。まるでそのまま大人になったみたい。無邪気な所は無くなっているけどね。
中々読み進まない本から顔を上げたところで、目と目がパチりと合う。私はいつの間にか頬を緩めていたようで、不審者を見るかのような疑いに満ちた表情をされてしまった。
「ご、ごめんね。……昔から変わってないんだなあって思って。研究熱心な所とか」
「それを聞いて安心しました。探究心はいくつになっても持ち続けたいものですから」
表立って感情を外に出さない所も変わらず。もう少し笑って過ごしてもいいと思うのに。元気一杯に笑顔で外を走り回っているこの子を想像したけど、違和感がありすぎてすぐにその映像は頭から消え去った。
それからは特にこれといった会話が続かず、無言の時間が長引くようになる。ふとした時にスイッチが入るタイミングも同じだ。これ以上彼の勉強の邪魔をしないようにと私も本に集中する事にした。
この玄武術の本は文章の書き方、専門用語からしてその道を目指す人向けだ。初心者用としてある程度噛み砕いた記述でも、私の様に全くこういった術とは無縁の世界から来た人間には難しい。もしも本気で学ぶならこれと別冊で参考書を用意しないと。まあ、玄武術を学びたいなんて言ったらボルカノさんが苦渋の表情を浮かべるに違いない。前もそうだったし。こうして全ての術を満遍なく勉強していたのに、どうして今の彼は朱鳥術ばかり推してくるんだろうか。
「貴女は、あの人のどこに惹かれたんですか」
周囲は蚊帳の外かと思いきや、こうして急な質問が飛んでくる。不意を打つその問い掛けに私は少しの間呆けてしまった。まさかそんな事聞かれると思ってもいない。
「ど、どこって……急に言われても。うーん」
「好いているから共にいる。わざわざ好きでもない相手の隣にはいないと思いますが」
「それはそうだけど。……好きな所、か」
そう言われてみれば改めて考えたことが無い。召喚術が失敗したせいでこの世界に喚び出されて、一時はどうなるのかと思った。ふとした瞬間に訪れる身体を覆うような恐怖、目の前を暗くするような不安を拭い去ってくれたのは他の誰でもない、彼だった。彼の言葉や態度にどれだけ救われていたか。揺るぎない信頼は四季が移り変わる様に、ゆっくりと変わっていったのかもしれない。
私は彼の質問に答える為に彼の表情や仕草を思い浮かべた。
「……ありきたりかもしれないけど。優しい所、かな。優しくて強くて…頼りになる。何度も助けてもらったの。それに、一緒に居て安心できる人はボルカノさんぐらいだな…って」
ここまで自分の胸の内を言葉にして、ハッと私は気づいてしまった。これは惚気では。いくら少年時代の彼とはいえ、本人相手に話しているようなもの。そう思うと恥ずかしさが一瞬のうちに沸騰してしまった。しかも何のリアクションも取ってくれないので、余計に気恥ずかしい。
「いっ今のは聞かなかったことに。面と向かって言ったことないし」
「僕は本人であって、そうじゃない。貴女がどう惚気ようと別に構いませんけど」
「え、いや…その……て、哲学すぎる!お願いだから内緒にしといて!」
「貴女は感情表現が豊かな人だ」
すっと彼の視線が本へ落ちると同時に口角が僅かに持ち上げられる。弄ばれているんだとそこで気が付いた。私が拗ねてそっぽを向いていると、押し殺すような小さな笑い声が聞こえたような気さえする。
「……何か飲む?奢ってあげるよ」
「口止め料ならお気になさらずに」
「そんなんじゃないってば。ほら、今日は気温も高いし喉乾いたかなあって。ここのブレンドティー美味しいんだよ」
テーブルの隅に追いやられた小さなメニュー表に手を伸ばす。伝票もその近くに伏せられている。この店に入った時に飲物を一度頼んでいるようだ。日よけのパラソルも無いこの席にずっと座って居たら干からびてしまう。
メニューの紅茶一覧からブレンドティーを指し、それから下へ順に指を滑らせていく。
「おススメはブレンドティーだけど、アールグレイとダージリンも美味しいの。ティーポットで提供されるからそれぞれ違うの頼んで飲み比べしてもいいし……うん、相席のお礼と言う事で奢らせて」
「……あの」
「あ、ゴメンね。一人で盛り上がって……コーヒーの方が良かった?私は紅茶の方が好きだけど、豆の種類が豊富だってトーマスが言ってたよ」
「いえ、紅茶もコーヒーもまだ飲めないので」
彼の口から意外な言葉が出たと私は驚いた。そうだ、今目の前に座って居るのは九歳の少年だ。味覚は紅茶もコーヒーもただ苦いと感じるだけの年齢なんだ。
「そっか、そうだよね。あんまりにも大人っぽいからつい」
「…これがいい」
メニュー表の右上に『ベリーヨーグルト』と書かれたドリンクを彼が示した。ヨーグルトドリンクなんだろう。この時期限定のドリンクの様だ。
「評判では甘すぎず、果実の酸味ともバランスが取れているそうです」
「いいね。季節限定みたいだし、じゃあこれを二つ。すみませーん!」
近くのテラス席を片付けていた店員さんに私は声を掛け、ドリンクを二つ注文した。「楽しみだね」と笑いかければ「そうですね」と返ってきた。
◇
清涼の風が吹いている。精霊の囁き声が至る所で聞こえていた。新緑の季節に浮足立っているようだ。春風を北へ届けに行こうかと話している者もいた。
中央広場に面した喫茶店の前を通りかかると、テラス席に本を山積みにして占領している人間が居た。こんな場所で読書かと相手の顔を見る。それが昔の自分だったので呆れてしまった。しかもその向かい側に霧華が自分の腕を枕にして居眠りをしている。
一体どういう状況なのか。それを探る猶予も無く、過去の自分と目が合う。あらゆる時点の自分が存在すると頭で理解していても、やはり慣れそうにない。
互いに無言を貫き通すので、居たたまれない。一先ず、自分の上着を脱いで彼女の肩へ掛けてやった。一挙一動を探るその目つき。昔の自分はこんな目をしていたのか。
「お前はこんな所で読書か。…人の迷惑を少しは考えないか」
「誰にも迷惑をかけているつもりは無い。この店にも対価を支払っている」
口を開けば可愛げのない台詞。頭を抱えたくなる。過去の自分と接触するのを極力避けていたのは、己の言動が度々刺さるからだ。考えを改めろと言うつもりもないが。
「我ながら可愛げのない子どもだな。…ところで、どうして彼女がこんな所で居眠りをしているんだ」
「偶々通りかかっただけです。他に席も空いていなかったので、相席してもいいかと」
「それを許可した、という訳か。確かに此処の紅茶は彼女も好んで……」
何度も足を運んでいる、と続けようとした言葉はそこで留まった。彼女のすぐ側に『玄武術の基礎と精霊』という題目の本。それを見た刹那、不愉快な感情が込み上げてきた。
「……ようやく術を学ぶ気になったかと思えば、よりによって玄武術か」
「朱鳥と玄武、互いに補えるからいいじゃないですか。この世界は精霊のバランスで成り立っている。それは貴方もよく知っているはずだ」
感情よりも先に正論とする言い方にも腹の虫が余計に苛立つ。例え理に適うとしても、こればかりは譲れない。
「そういう問題ではないんだ。……玄武術を学ぶと言い出したら徹底的に朱鳥術を教え込んでやる」
「……大人げない。ただ暇潰しに一番上にあった本を手に取っただけです。眉間に皺を寄せながら読んでいた。そもそも地術は向いていないのでは」
地術は体力を基盤とする。扱うにはそれなりの体力が必要だ。それでも身に着ければ基礎は扱えるようになる。体力に自信が無いから天術をという訳にもいかない。天術は強靭な精神力を必要とする。考えすぎる節がある彼女にはそれこそ向いていない。
広場を背に向けた席へ座り、彼女の肩から落ちそうな上着を再度掛け直す。この陽気に包まれたせいか、よく眠っていた。
テーブルに積まれた本には見覚えのある題目が幾つかある。知識を得るために次から次へと読んでいたあの頃。適当な本の表紙を開けばこの胸に懐かしさが芽生えてくる。
本の山がまた一つ高くなる。まだ目を通していない本は残り二冊。『天術の応用編』と書かれた本を手に取り、こちらを見た。
「貴方はこの人のどこに、いつ惹かれたんですか」
「……藪から棒になんだ。記憶が確かであれば、恋愛に興味を持ってはいなかった筈だが」
「だからこそだ。……今は知りたいことが多すぎて、人を思いやる気持ちなんて一欠けらも無い。こんな自分が特定の誰かを想うようになるとは到底思えない」
かつての自分も同じ考えを持ち合わせていた。当然と言えば当然だ。
世界の理を明らかにするべく日々学び、術を鍛えていた。解き明かしたいという純粋な気持ちは次第に力を求めるようになった。それが良いか悪いかと聞かれれば、どちらでもない。術士が更なる力を欲するのは道理だ。故に争いも生じた。
どちらにせよ彼女と出逢わなければ今のオレは存在していない。
「明るく無邪気で、人を疑わない素直さがある。あまりに無垢で心配にもなるが…。人は自分に無い物を求める。彼女はオレには無い物を多く持ち合わせている。そんな彼女にいつの間にか惹かれたんだろう。……誰かを守りたいという気持ちは案外悪くないものだ」
この答えが求めている物とは相違が生じたようで、納得がいかないと眉を顰める。人間の感情というものは一筋縄ではいかないものだ。仕方のない事。
「僕にはその感情が理解できるようになるかは分からない。でも、この人は対等に接してくれた。それが嬉しかったのは事実だ」
「そう感じた事を忘れずに過ごしていけばいい。今はそれだけで充分だ」
彼女と何を話したのかを聞くつもりはないが、胸に響いた言葉があったのだろう。傍らで眠る霧華の方へ向けた表情は子どもらしい笑みを携えていた。