番外編
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ショコラ一粒
「戻りましたー!」
リビング兼作業部屋に霧華の声が渡る。いつになく明るさを含む声に今までの疲れが僅か吹き飛ぶ気がした。
しかし、今日は早かったなとこちらが声を掛ける間もなく、彼女は慌ただしく身支度を整え始めている。また何処かへ出掛けるのかと調合作業の手を止めて尋ねた。
「また出掛けるのか」
「はい。トーマスの所へ行ってきます」
外出先を聞き出した際に彼女の口から出た男の名前。危うく試験管にヒビが入るところだ。いや、細かい無数のヒビが入ってしまった。この試験管と中身はもう使えない。試験管立ての右端にそれをそっと戻し、悟られないよう一呼吸おいてから彼女の方へ向く。随分と浮かれた様子なのが余計に腹の虫をざわつかせた。
「何か用事があるのか」
「用事というか、チョコレートとコーヒーを用意したから良かったらどうぞって」
お茶の時間に誘われたのだと彼女は話した。嗚呼、確かに昼を過ぎていつの間にか午後のティータイムが近づいている。
トーマス・ベント。ポドールイで顔を合わせた際、彼女とよく会話を交わしていた。その様子は仲睦まじいものに思え、気に入らなかったのだが。向こうに色恋沙汰の意識は無いようで、良き友人として関係を築いていると本人の口から聞いた。彼女自身も「憧れだった人」と話してはいたが、それがいつ変化するか分からない。
奴は商談の関係でピドナに立ち寄る機会が増えたと話していたそうだが、その度に彼女をお茶に誘うのが正直気に入らない。
「最近奴の所へ行きすぎだ」
「そうですか?…あ、そうだ。ボルカノさんも行きませんか?お茶は人数が多い方が楽しいし」
「オレは忙しい」
「……すみません。調合の途中ですもんね」
作業台に設置された調合器具の数々。これらを見た彼女はオレの顔色を窺い、邪魔をしては申し訳ないと目を伏せていた。
別に謝られたいわけじゃない。そう思うのならば奴の所へは行かないでほしい。そう口に出せたらどれほど良かったか。念じるだけでは彼女に通じる筈もなく、願いは虚しい結末となる。
一人リビングに残された空気は先程よりも重く、虚無を抱えていた。
右端の試験管を眺め、先に中和剤を作るかと溜息が漏れる。
中和剤の材料をかき集め、細かく刻んだ薬草をビーカーへ放り込みアルコールランプに火を点ける。薬草の成分が抽出されていく様をぼんやりと眺めながら、先程の会話を思い返していた。
チョコレートの下りを話す際、彼女は心なしかいつもより嬉しそうにしていた。お茶の誘いというよりも、チョコレートに釣られていったのでは。
雫が滴り始めた方のビーカーを見ながら、新市街の洋菓子店でチョコレートを扱っていた筈だと記憶の糸を手繰り寄せていた。
◇◆◇
「霧華。そろそろ一息入れないか」
学会へ提出する論文がようやく一段落ついた。纏めていた資料を作業台の隅に束ね、彼女へそう声を掛ける。オレからそう声を掛けてくるのが珍しいとでも言いたげにしていたが、すぐに「いいですね」と答えが返ってきた。
「ああ、紅茶はオレが淹れる。テーブルのセッティングを頼む」
「分かりました」
大した散らかってもいないテーブルのセッティングを頼み、自分はキッチンへと向かった。
湯を沸かし入れ、ティーポットと対のティーカップを温めている間に午前中に調達した茶葉の缶とチョコレートの箱を戸棚から取り出した。どちらも洋菓子店で購入したものだ。
ティーポットの中で茶葉が開くのを待つ間、喜んでくれるだろうかと一抹の不安が過ぎる。どちらも彼女の嗜好品に違いないが、それでも付き纏うものはある。
彼女の喜ぶ顔を思い浮かべながら銀のトレイにそれらをセットし、リビングへ戻っていく。
テーブルに面した椅子に座って居た彼女が腰を浮かすが、それを制して紅茶をティーカップへと注いだ。カップとソーサーを彼女の前に置き、テーブルの中央へチョコレートの箱を置く。黒いベルベット調の箱を開けるとセパレートで分けられた一口サイズのチョコレートが姿を現した。
「なんだか高そうなチョコレートですね。それに、紅茶もいつものじゃないですし」
「君の手伝いのお陰で難癖をつけてきた輩を黙らせる物が書き上がった。ほんの礼だ」
「論文お疲れさまです。私は特に何もしてませんよ。邪魔しない様にして、少し手伝っただけですし」
そう謙遜する彼女はくすぐったそうに笑みを零す。
いつもより調子が良かったのは事実。館に籠っていた時よりも質の良い物が書けているし、実際に評価も上々だ。食事の面、調合器具の洗浄、片付け等など些細な気遣いがそれに繋がったのは過言ではない。気にかけている相手が傍に居るというだけで捗るものだ。
「良い香りですね」
「洋菓子店でチョコレートに合う紅茶を選んでもらった。……コーヒーよりも相性が良いそうだ。遠慮無く味わってくれ」
「それじゃあ、いただきます」
彼女の細い指がチョコレートを一粒摘み、小さな口へ頬張った。すると、パッと顔を綻ばせて「美味しい!」と子どものような笑みを見せる。
「このほろ苦い絶妙な甘さ、滑らかで溶けるような舌触り…すごく美味しいです。こんなの食べたことない」
期待通りの反応で胸に痞えていた不安が消え去った。陽だまりの様な彼女の笑顔を見ているとこちらも自然と頬が緩んでいく。
セイロンをベースにブレンドした紅茶もあっさりとしていて中々良い味わいだ。
「喜んでもらえたようだな」
「……でも、これ高かったんじゃないですか。一つずつ分けられてるし、箱も豪華だし」
「そうでもない。二千オーラム程度だ」
もう少し出しても良かったが、こういった類の菓子は値が張るほど数が減る。値段と数を総合的に考えた結果、これが番手頃なものだと見繕ってきた。
二粒目を口の中で転がしていた彼女は箱を眺め、無言で紅茶に口をつける。ソーサーラーにカップを戻す音が静かに響いた。
「…ってことは、一粒一オーラムですよね…。ちょ、高すぎじゃないですか!?」
「換算すればそうなる」
「なんでそんな平然としてられるんですか……宿泊代一人分と変わらない値段なんですよ!」
物の価値が未だに掴めないと言っていた彼女も流石に顔色を変える事態。高級品だと分かると箱をテーブルの中央へ押し退け、椅子を少し引いた。
「こんな高級チョコ一日二粒、いや一粒しか食べられません。…二粒食べちゃったけど」
「日が経てば風味が損なわれてしまう」
「う……それは一理ありますけど。それにしたって、ボルカノさんチョコレートにお金出し過ぎです」
「そうは思わん」
彼女が押し退けた箱の反対側からチョコレートを摘まむ。一口サイズのそれを頬張り、甘さを充分に味わった後に紅茶で喉を潤した。
「これぐらいの菓子で君の喜ぶ顔が見られるなら、そう高いとも感じない」
「戻りましたー!」
リビング兼作業部屋に霧華の声が渡る。いつになく明るさを含む声に今までの疲れが僅か吹き飛ぶ気がした。
しかし、今日は早かったなとこちらが声を掛ける間もなく、彼女は慌ただしく身支度を整え始めている。また何処かへ出掛けるのかと調合作業の手を止めて尋ねた。
「また出掛けるのか」
「はい。トーマスの所へ行ってきます」
外出先を聞き出した際に彼女の口から出た男の名前。危うく試験管にヒビが入るところだ。いや、細かい無数のヒビが入ってしまった。この試験管と中身はもう使えない。試験管立ての右端にそれをそっと戻し、悟られないよう一呼吸おいてから彼女の方へ向く。随分と浮かれた様子なのが余計に腹の虫をざわつかせた。
「何か用事があるのか」
「用事というか、チョコレートとコーヒーを用意したから良かったらどうぞって」
お茶の時間に誘われたのだと彼女は話した。嗚呼、確かに昼を過ぎていつの間にか午後のティータイムが近づいている。
トーマス・ベント。ポドールイで顔を合わせた際、彼女とよく会話を交わしていた。その様子は仲睦まじいものに思え、気に入らなかったのだが。向こうに色恋沙汰の意識は無いようで、良き友人として関係を築いていると本人の口から聞いた。彼女自身も「憧れだった人」と話してはいたが、それがいつ変化するか分からない。
奴は商談の関係でピドナに立ち寄る機会が増えたと話していたそうだが、その度に彼女をお茶に誘うのが正直気に入らない。
「最近奴の所へ行きすぎだ」
「そうですか?…あ、そうだ。ボルカノさんも行きませんか?お茶は人数が多い方が楽しいし」
「オレは忙しい」
「……すみません。調合の途中ですもんね」
作業台に設置された調合器具の数々。これらを見た彼女はオレの顔色を窺い、邪魔をしては申し訳ないと目を伏せていた。
別に謝られたいわけじゃない。そう思うのならば奴の所へは行かないでほしい。そう口に出せたらどれほど良かったか。念じるだけでは彼女に通じる筈もなく、願いは虚しい結末となる。
一人リビングに残された空気は先程よりも重く、虚無を抱えていた。
右端の試験管を眺め、先に中和剤を作るかと溜息が漏れる。
中和剤の材料をかき集め、細かく刻んだ薬草をビーカーへ放り込みアルコールランプに火を点ける。薬草の成分が抽出されていく様をぼんやりと眺めながら、先程の会話を思い返していた。
チョコレートの下りを話す際、彼女は心なしかいつもより嬉しそうにしていた。お茶の誘いというよりも、チョコレートに釣られていったのでは。
雫が滴り始めた方のビーカーを見ながら、新市街の洋菓子店でチョコレートを扱っていた筈だと記憶の糸を手繰り寄せていた。
◇◆◇
「霧華。そろそろ一息入れないか」
学会へ提出する論文がようやく一段落ついた。纏めていた資料を作業台の隅に束ね、彼女へそう声を掛ける。オレからそう声を掛けてくるのが珍しいとでも言いたげにしていたが、すぐに「いいですね」と答えが返ってきた。
「ああ、紅茶はオレが淹れる。テーブルのセッティングを頼む」
「分かりました」
大した散らかってもいないテーブルのセッティングを頼み、自分はキッチンへと向かった。
湯を沸かし入れ、ティーポットと対のティーカップを温めている間に午前中に調達した茶葉の缶とチョコレートの箱を戸棚から取り出した。どちらも洋菓子店で購入したものだ。
ティーポットの中で茶葉が開くのを待つ間、喜んでくれるだろうかと一抹の不安が過ぎる。どちらも彼女の嗜好品に違いないが、それでも付き纏うものはある。
彼女の喜ぶ顔を思い浮かべながら銀のトレイにそれらをセットし、リビングへ戻っていく。
テーブルに面した椅子に座って居た彼女が腰を浮かすが、それを制して紅茶をティーカップへと注いだ。カップとソーサーを彼女の前に置き、テーブルの中央へチョコレートの箱を置く。黒いベルベット調の箱を開けるとセパレートで分けられた一口サイズのチョコレートが姿を現した。
「なんだか高そうなチョコレートですね。それに、紅茶もいつものじゃないですし」
「君の手伝いのお陰で難癖をつけてきた輩を黙らせる物が書き上がった。ほんの礼だ」
「論文お疲れさまです。私は特に何もしてませんよ。邪魔しない様にして、少し手伝っただけですし」
そう謙遜する彼女はくすぐったそうに笑みを零す。
いつもより調子が良かったのは事実。館に籠っていた時よりも質の良い物が書けているし、実際に評価も上々だ。食事の面、調合器具の洗浄、片付け等など些細な気遣いがそれに繋がったのは過言ではない。気にかけている相手が傍に居るというだけで捗るものだ。
「良い香りですね」
「洋菓子店でチョコレートに合う紅茶を選んでもらった。……コーヒーよりも相性が良いそうだ。遠慮無く味わってくれ」
「それじゃあ、いただきます」
彼女の細い指がチョコレートを一粒摘み、小さな口へ頬張った。すると、パッと顔を綻ばせて「美味しい!」と子どものような笑みを見せる。
「このほろ苦い絶妙な甘さ、滑らかで溶けるような舌触り…すごく美味しいです。こんなの食べたことない」
期待通りの反応で胸に痞えていた不安が消え去った。陽だまりの様な彼女の笑顔を見ているとこちらも自然と頬が緩んでいく。
セイロンをベースにブレンドした紅茶もあっさりとしていて中々良い味わいだ。
「喜んでもらえたようだな」
「……でも、これ高かったんじゃないですか。一つずつ分けられてるし、箱も豪華だし」
「そうでもない。二千オーラム程度だ」
もう少し出しても良かったが、こういった類の菓子は値が張るほど数が減る。値段と数を総合的に考えた結果、これが番手頃なものだと見繕ってきた。
二粒目を口の中で転がしていた彼女は箱を眺め、無言で紅茶に口をつける。ソーサーラーにカップを戻す音が静かに響いた。
「…ってことは、一粒一オーラムですよね…。ちょ、高すぎじゃないですか!?」
「換算すればそうなる」
「なんでそんな平然としてられるんですか……宿泊代一人分と変わらない値段なんですよ!」
物の価値が未だに掴めないと言っていた彼女も流石に顔色を変える事態。高級品だと分かると箱をテーブルの中央へ押し退け、椅子を少し引いた。
「こんな高級チョコ一日二粒、いや一粒しか食べられません。…二粒食べちゃったけど」
「日が経てば風味が損なわれてしまう」
「う……それは一理ありますけど。それにしたって、ボルカノさんチョコレートにお金出し過ぎです」
「そうは思わん」
彼女が押し退けた箱の反対側からチョコレートを摘まむ。一口サイズのそれを頬張り、甘さを充分に味わった後に紅茶で喉を潤した。
「これぐらいの菓子で君の喜ぶ顔が見られるなら、そう高いとも感じない」