第二章
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31.医者要らず
ランス、ファルス間の街道で遭遇した野盗の集団。命が惜しければ荷物を置いていけと常套句を引っ提げてきたものの、歴代皇帝の意志を継ぐ剣士と朱鳥術士の前では全く通用しなかった。可哀想に思う程痛い目に遭わされ、最後には尻尾を巻いて逃げていった。
でもお陰で誰も怪我することなく、無傷でファルスに到着。道具屋で荷物を引渡した後、その場で皇帝陛下と別れることになった。
気づくのが遅れたとは言え、皇位を継承していた人に失礼をしていたかもしれない。むしろこの世界にバレンヌ皇帝がいるなんて考えもしない。
「気にしないでくれ。私はもう皇帝ではない。短い間ではあったが君達と共に過ごせたこと感謝する」
見たことの無い術、聞いたことの無い地名。私が昔見ていたのは表面の一部だけの世界。知らない人間がいるのは当たり前。そうだと分かっていたから、何の疑問も抱かずに過ごしていた。
でも、別世界の皇帝陛下が出現したことによって、いよいよもって分からなくなってくる。
この世界は本当に私が知っている処なんだろうか。
◇◆◇
ファルスに寄港した船に乗り込み、ツヴァイクへと私達は向かった。大陸間を移動する手段は船。それがこの世界の常識。私の世界では飛行機という鉄の塊が空をびゅーんと飛ぶ。前にボルカノさんにそう話したら物凄く驚かれた。この世界も何百年後には飛行機が飛ぶんだと思う。
とても久しぶりに船に乗ったので、甲板で受けた風が心地よく感じられた。穏やかな水面。白波を切って進む様子を眺めていると、ぼんやりしていると指摘される。今思えばこれが前兆だったのかもしれない。
ツヴァイクに到着したその日、身体が重だるくて早々にベッドに潜り込んだ。そして翌朝。案の定、熱を出してしまった。
「発熱、倦怠感、喉の痛み……他に症状は無いか」
「…ないです」
「感冒の初期症状のようだな」
私は昨日の夕方からずっとベッドに潜り込んでいた。そのせいで様子がおかしいと思われていたんだろう。朝に目を開けたとき、額に手の平を当てられていた。ボルカノさんの手はいつも温かくて心地良いのに、その時ばかりは手の平の感触だけで温かみを全く感じなかった。その直後に「熱がある」としかめ面をされたのが今朝の話。
軽い問診を終えた後、ボルカノさんはトランクケースの中を漁り始めた。「薬作るんですか」と尋ねた自分の声は思ったより弱々しい。テーブルの上に乳鉢やこの間買っていた薬草、小瓶が並べられていく様子をぼーっと眺めていた。
「…すみません」
「これは不要か。代わりにこちらを……何がだ?」
申し訳ないという意味を込めて呟いた言葉に対し、使う薬草を吟味していた彼が不思議そうに聞き返した。
「なんか、色々。…体調崩してボルカノさんに迷惑かけるの二度目だし。宿の日数だって延ばしたんですよね。…この部屋高そうなのに」
ツヴァイクは「自分の国が世界一!」と豪語しているだけあって物の質が良い。それに比例して物価も高い。まあそれは相応の価値なんだろうけど。
昨日から宿泊しているこの部屋は小奇麗で、絨毯や装飾が凝っている。三人掛けのソファが備え付けてあるし、小さなキッチンもついていた。当然その分部屋も広い。ベッドもふかふか。テーブルも二つあるし。お風呂場と洗面所も別々だ。これ、俗にいうこの世界でのスイートルームってやつでは。
「慣れない旅の疲れが溜まる頃だ。それに気温差のある地域を移動していた。身体の調整が上手く働かなかったんだろう。君が気に病む必要は無い」
「…はい」
「宿代も大したものではない。元よりこの時期は混む。部屋の空きも限られているから仕方のないことだ」
「そうは言いますけど…旅の資金、大丈夫ですか?」
通常の宿泊代は一人一オーラム。この部屋だとその三倍、いや五倍くらいしそう。そう考えていたら頭が余計にくらくらしてきた。熱が上がりそう。額に乗せていたタオルも温くて気持ちが悪い。指でつまみ上げていたそれを横から奪われ、またすぐに冷たいタオルが額を覆う。
「ああ。全く問題ない。…調子の悪い時ぐらいそういう杞憂はしない方がいい。[#dc=2#]の性格上、余計に悪化しかねん。ポドールイも降雪地帯だ。今のうちに体調を調えておくのが良策。ゆっくり休んでくれ」
横目でボルカノさんの様子を窺うと、思いの外柔和な表情を浮かべていた。
不思議なことにそれを見ていると瞼がだんだん重くなってきた。不安とか頭の痛みがすっと消えていく。まるで魔法みたいだな。眠りに落ちる瞬間、私はそう考えていた。
◇
懐かしい夢を見た気がする。暖かくて、優しい夢だった。それは意識が浮上した途端に泡のようにパチンと弾けて、夢の内容が消えてしまった。僅かな余韻を残して。
目が覚めたのはいい匂いが漂っていたからかもしれない。イタリアンのお店で嗅ぐ、美味しそうなトマトソースの香りがさらに空腹を刺激する。
お腹空いたなあと寝ぼけている頭で考え、身体をのそりと起こした。
ここから見える小さなキッチン。その周囲を動き回る赤い色が目に留まった。他の誰でもないボルカノさんなんだろうけど、キッチンに立っている姿がとても意外だった。
珍しいなあとぼけっと見ていると、振り向いた彼と視線が合う。
「目が覚めたか。気分はどうだ」
「朝よりはだいぶマシな気がします」
「そうか。…顔色も悪くない。悪化はしていないようだな」
「たぶん。何作ってるんですか?」
もう出来上がると言いながら再び背を向けた。ご飯を食べずに眠ってしまったので今は何時頃なのか。もうお昼を過ぎているのかもしれないと、高価なアンティーク調の置き時計を見れば十一時を過ぎていた。
重たい身体を引きずりながらテーブルへ掛けると、白いリゾット皿が目の前に現れる。見ただけで材料が分かる鮮やかな色。良い匂いの正体はトマトリゾットだった。
ボルカノさんはワイシャツの袖を肘まで捲り上げていたのを正し、エプロンの紐を解いてテーブルの左側に着席した。そのエプロンは元々私がモウゼスで普段使わせてもらってたもので、この旅に持参したもの。
空のグラス二つに水を注ぎながら料理の簡単な説明を話し始める。
「消化に良く栄養価の高いものを。米が食べたいと言っていたのでリゾットにした」
「ありがとうございます。すごく美味しそう。いただきます!」
木製のスプーンで掬ったトマトリゾットをすこし冷ましてから頬張った。じわりとトマトの旨味が口の中に広がってくる。ご飯にスープの味が馴染んでいてクセもない。出汁は何で取ってるんだろう。
風邪の初期症状だから味覚も鈍ってるんだろうけど、その状態でも美味しく感じるからボルカノさんの腕前が良いんだろう。
「味は塩辛くないか。味覚が麻痺しているだろうから味を調整している」
「美味しいです!味もちょうどいいし…でもやっぱりトマトなんですね」
「トマトに含まれる栄養素はバランスが取れている。免疫力を高め、抗炎症作用もある。今の君に適した食材だ」
「へえ…熱を取るっていうのは知ってましたけど、炎症抑えてくれるのは嬉しいですね。……まあ、今の私にぴったりなのは分かりました」
数ある食材の中でも真っ赤なトマトを選び出すあたりが彼らしいと思ったのだ。この人は赤緑黄色と色とりどりの野菜が並んでいても、手を伸ばすのはこのトマトのように赤を宿した野菜なんだろうな。
「それだけ食欲と会話の意欲があるならば心配は無さそうだな」
「はい。私の朝ご飯…昼ご飯にボルカノさんも付き合わせちゃってすみません」
彼の持つスプーンは同じ赤いリゾットを掬い上げている。健常者が食べても美味しいのは分かるし、作る手間を考えたら同じ方がいいんだろうけど。
「気にするな。食事は一人で摂るよりも誰かと共にテーブルを囲む方がいい。そう教えてくれたのは君だ」
「私が来る前って、弟子の皆さんと一緒に食べること殆んど無かったんでしたっけ」
研究やアイテム開発に熱を上げていると食事の時間が不定期になる。時を忘れるほどにのめり込むのは師匠の方で、弟子の彼らは三食きちんと食べていたそう。
階下のロビーで彼らが和気藹々と食事をする傍ら、彼は空いた時間で黙々と。同じ料理を食べている筈なのに、違う味がしそうだった。
寂しくないんですかって聞いたこともあった。一人の方が落ち着ける。そう返してきた。
「数える程もないぐらいだ。オレの活動時間に合わせろと強いるのも可笑しな話だからな。好きにさせていたし、こちらも好きなようにしていた」
「声掛けても無視でしたもんね。私がご飯作るときはボルカノさんの分確保するの大変だったんですから。ちょっと目を離した隙にお鍋空っぽになってるんですもん」
「苦労をかけていたようだな」
そう言う割に反省の色は特に見られない。元々放任主義なのはなんとなく察していた。だからみんなが構ってくれたから私は寂しい思いをせずにすんだのだけど。
ふと明るい笑い声が甦る。各地に旅立ったフェイルくん達は元気だろうか。
少しだけもの苦しい感傷に浸りそうになった。かちゃり。スプーンが食器に触れる音に顔を上げてみると「どうした」と声をかけられる。
「なんでもないです。…ボルカノさんが居てくれて良かったなあって。体調崩した時って一人だと心細くなるし」
「…そういうものか」
「そうですよ。ボルカノさんだって風邪引いた時とか誰か居てくれた方がよくないですか?」
珍しく悩んでいた。返しに困っているというよりもこれは自分が経験したことないから分からないといった風な。
「……もしかして風邪引いたことないんですか。朱鳥術士って風邪も引かないとか」
「君はオレを何だと思っているんだ。風邪ぐらい引く。ただ悪化させることは稀だ」
「それ充分羨ましいです。私は風邪引いたら大体こじらせるし」
風邪の引き始めに無理をするとかなりの確率で悪化させる。微熱が何日も続いたり、咳やくしゃみが止まらなかったり。お陰で夜眠れなくて結果的に症状も長引く。悪循環に陥って治りが遅くなるパターン。
「症状が変化、悪化した場合はそれに応じた薬も作るから安心しろ」
目の前に縦長のグラスが静かに置かれる。どす黒い色をした液体が入っていて、飲み物とはとても思えない。何を混ぜたらこんな色になるんだ。
これは私の諸症状に合わせた飲み薬だ。空になった皿を下げながら調合者がしれっと言う。できれば飲みたくない。絶対美味しくないこれ。
「味の良い薬などオレの見聞には無い」
「……そりゃあ良薬は口に苦しって言いますけどお」
「実に良い言い回しだ。分かっているならそれを飲んでゆっくりと休養をとることだな」
「…はーい。ボルカノさんが居れば医者要らずですね」
グラスにそっと鼻を近づけてみると薬草の臭いがツンとした。宿屋で薬草を煎じることはしないと言ってたから、これは煎じなくても作れるものだったのかもしれない。
そこで一つの疑問がふっと沸いた。この世界に来たばかりの頃も熱を出した。けれど、薬を飲んだ記憶が無い。
「どうした」
「あ、いえ…私、前にも熱を出したじゃないですか。その時もボルカノさんが薬を調合してくれたって聞いたけど…飲んだ記憶が全く無いんですよね」
ガシャンと皿のぶつかる音がシンクの方から聞こえてきた。食事の済んだ食器を洗っていたボルカノさんに「大丈夫ですか」と声をかけてから三秒後。
「何を言っている。自分で飲んだに決まっているだろう。熱で意識が朦朧としていたんじゃないのか」
背を向けたままの彼からごく当たり前の答えがかえってきた。そりゃそうだろうけど。前の薬の味も覚えて無いほど熱に浮かされていたのかな。
私はグラスから薬を一口含んだ。想像通り苦い。いつか飲んだ漢方薬の味がする。これは飲み干すのに時間がかかりそうだ。
「…お水もう一杯もらえますか」
ランス、ファルス間の街道で遭遇した野盗の集団。命が惜しければ荷物を置いていけと常套句を引っ提げてきたものの、歴代皇帝の意志を継ぐ剣士と朱鳥術士の前では全く通用しなかった。可哀想に思う程痛い目に遭わされ、最後には尻尾を巻いて逃げていった。
でもお陰で誰も怪我することなく、無傷でファルスに到着。道具屋で荷物を引渡した後、その場で皇帝陛下と別れることになった。
気づくのが遅れたとは言え、皇位を継承していた人に失礼をしていたかもしれない。むしろこの世界にバレンヌ皇帝がいるなんて考えもしない。
「気にしないでくれ。私はもう皇帝ではない。短い間ではあったが君達と共に過ごせたこと感謝する」
見たことの無い術、聞いたことの無い地名。私が昔見ていたのは表面の一部だけの世界。知らない人間がいるのは当たり前。そうだと分かっていたから、何の疑問も抱かずに過ごしていた。
でも、別世界の皇帝陛下が出現したことによって、いよいよもって分からなくなってくる。
この世界は本当に私が知っている処なんだろうか。
◇◆◇
ファルスに寄港した船に乗り込み、ツヴァイクへと私達は向かった。大陸間を移動する手段は船。それがこの世界の常識。私の世界では飛行機という鉄の塊が空をびゅーんと飛ぶ。前にボルカノさんにそう話したら物凄く驚かれた。この世界も何百年後には飛行機が飛ぶんだと思う。
とても久しぶりに船に乗ったので、甲板で受けた風が心地よく感じられた。穏やかな水面。白波を切って進む様子を眺めていると、ぼんやりしていると指摘される。今思えばこれが前兆だったのかもしれない。
ツヴァイクに到着したその日、身体が重だるくて早々にベッドに潜り込んだ。そして翌朝。案の定、熱を出してしまった。
「発熱、倦怠感、喉の痛み……他に症状は無いか」
「…ないです」
「感冒の初期症状のようだな」
私は昨日の夕方からずっとベッドに潜り込んでいた。そのせいで様子がおかしいと思われていたんだろう。朝に目を開けたとき、額に手の平を当てられていた。ボルカノさんの手はいつも温かくて心地良いのに、その時ばかりは手の平の感触だけで温かみを全く感じなかった。その直後に「熱がある」としかめ面をされたのが今朝の話。
軽い問診を終えた後、ボルカノさんはトランクケースの中を漁り始めた。「薬作るんですか」と尋ねた自分の声は思ったより弱々しい。テーブルの上に乳鉢やこの間買っていた薬草、小瓶が並べられていく様子をぼーっと眺めていた。
「…すみません」
「これは不要か。代わりにこちらを……何がだ?」
申し訳ないという意味を込めて呟いた言葉に対し、使う薬草を吟味していた彼が不思議そうに聞き返した。
「なんか、色々。…体調崩してボルカノさんに迷惑かけるの二度目だし。宿の日数だって延ばしたんですよね。…この部屋高そうなのに」
ツヴァイクは「自分の国が世界一!」と豪語しているだけあって物の質が良い。それに比例して物価も高い。まあそれは相応の価値なんだろうけど。
昨日から宿泊しているこの部屋は小奇麗で、絨毯や装飾が凝っている。三人掛けのソファが備え付けてあるし、小さなキッチンもついていた。当然その分部屋も広い。ベッドもふかふか。テーブルも二つあるし。お風呂場と洗面所も別々だ。これ、俗にいうこの世界でのスイートルームってやつでは。
「慣れない旅の疲れが溜まる頃だ。それに気温差のある地域を移動していた。身体の調整が上手く働かなかったんだろう。君が気に病む必要は無い」
「…はい」
「宿代も大したものではない。元よりこの時期は混む。部屋の空きも限られているから仕方のないことだ」
「そうは言いますけど…旅の資金、大丈夫ですか?」
通常の宿泊代は一人一オーラム。この部屋だとその三倍、いや五倍くらいしそう。そう考えていたら頭が余計にくらくらしてきた。熱が上がりそう。額に乗せていたタオルも温くて気持ちが悪い。指でつまみ上げていたそれを横から奪われ、またすぐに冷たいタオルが額を覆う。
「ああ。全く問題ない。…調子の悪い時ぐらいそういう杞憂はしない方がいい。[#dc=2#]の性格上、余計に悪化しかねん。ポドールイも降雪地帯だ。今のうちに体調を調えておくのが良策。ゆっくり休んでくれ」
横目でボルカノさんの様子を窺うと、思いの外柔和な表情を浮かべていた。
不思議なことにそれを見ていると瞼がだんだん重くなってきた。不安とか頭の痛みがすっと消えていく。まるで魔法みたいだな。眠りに落ちる瞬間、私はそう考えていた。
◇
懐かしい夢を見た気がする。暖かくて、優しい夢だった。それは意識が浮上した途端に泡のようにパチンと弾けて、夢の内容が消えてしまった。僅かな余韻を残して。
目が覚めたのはいい匂いが漂っていたからかもしれない。イタリアンのお店で嗅ぐ、美味しそうなトマトソースの香りがさらに空腹を刺激する。
お腹空いたなあと寝ぼけている頭で考え、身体をのそりと起こした。
ここから見える小さなキッチン。その周囲を動き回る赤い色が目に留まった。他の誰でもないボルカノさんなんだろうけど、キッチンに立っている姿がとても意外だった。
珍しいなあとぼけっと見ていると、振り向いた彼と視線が合う。
「目が覚めたか。気分はどうだ」
「朝よりはだいぶマシな気がします」
「そうか。…顔色も悪くない。悪化はしていないようだな」
「たぶん。何作ってるんですか?」
もう出来上がると言いながら再び背を向けた。ご飯を食べずに眠ってしまったので今は何時頃なのか。もうお昼を過ぎているのかもしれないと、高価なアンティーク調の置き時計を見れば十一時を過ぎていた。
重たい身体を引きずりながらテーブルへ掛けると、白いリゾット皿が目の前に現れる。見ただけで材料が分かる鮮やかな色。良い匂いの正体はトマトリゾットだった。
ボルカノさんはワイシャツの袖を肘まで捲り上げていたのを正し、エプロンの紐を解いてテーブルの左側に着席した。そのエプロンは元々私がモウゼスで普段使わせてもらってたもので、この旅に持参したもの。
空のグラス二つに水を注ぎながら料理の簡単な説明を話し始める。
「消化に良く栄養価の高いものを。米が食べたいと言っていたのでリゾットにした」
「ありがとうございます。すごく美味しそう。いただきます!」
木製のスプーンで掬ったトマトリゾットをすこし冷ましてから頬張った。じわりとトマトの旨味が口の中に広がってくる。ご飯にスープの味が馴染んでいてクセもない。出汁は何で取ってるんだろう。
風邪の初期症状だから味覚も鈍ってるんだろうけど、その状態でも美味しく感じるからボルカノさんの腕前が良いんだろう。
「味は塩辛くないか。味覚が麻痺しているだろうから味を調整している」
「美味しいです!味もちょうどいいし…でもやっぱりトマトなんですね」
「トマトに含まれる栄養素はバランスが取れている。免疫力を高め、抗炎症作用もある。今の君に適した食材だ」
「へえ…熱を取るっていうのは知ってましたけど、炎症抑えてくれるのは嬉しいですね。……まあ、今の私にぴったりなのは分かりました」
数ある食材の中でも真っ赤なトマトを選び出すあたりが彼らしいと思ったのだ。この人は赤緑黄色と色とりどりの野菜が並んでいても、手を伸ばすのはこのトマトのように赤を宿した野菜なんだろうな。
「それだけ食欲と会話の意欲があるならば心配は無さそうだな」
「はい。私の朝ご飯…昼ご飯にボルカノさんも付き合わせちゃってすみません」
彼の持つスプーンは同じ赤いリゾットを掬い上げている。健常者が食べても美味しいのは分かるし、作る手間を考えたら同じ方がいいんだろうけど。
「気にするな。食事は一人で摂るよりも誰かと共にテーブルを囲む方がいい。そう教えてくれたのは君だ」
「私が来る前って、弟子の皆さんと一緒に食べること殆んど無かったんでしたっけ」
研究やアイテム開発に熱を上げていると食事の時間が不定期になる。時を忘れるほどにのめり込むのは師匠の方で、弟子の彼らは三食きちんと食べていたそう。
階下のロビーで彼らが和気藹々と食事をする傍ら、彼は空いた時間で黙々と。同じ料理を食べている筈なのに、違う味がしそうだった。
寂しくないんですかって聞いたこともあった。一人の方が落ち着ける。そう返してきた。
「数える程もないぐらいだ。オレの活動時間に合わせろと強いるのも可笑しな話だからな。好きにさせていたし、こちらも好きなようにしていた」
「声掛けても無視でしたもんね。私がご飯作るときはボルカノさんの分確保するの大変だったんですから。ちょっと目を離した隙にお鍋空っぽになってるんですもん」
「苦労をかけていたようだな」
そう言う割に反省の色は特に見られない。元々放任主義なのはなんとなく察していた。だからみんなが構ってくれたから私は寂しい思いをせずにすんだのだけど。
ふと明るい笑い声が甦る。各地に旅立ったフェイルくん達は元気だろうか。
少しだけもの苦しい感傷に浸りそうになった。かちゃり。スプーンが食器に触れる音に顔を上げてみると「どうした」と声をかけられる。
「なんでもないです。…ボルカノさんが居てくれて良かったなあって。体調崩した時って一人だと心細くなるし」
「…そういうものか」
「そうですよ。ボルカノさんだって風邪引いた時とか誰か居てくれた方がよくないですか?」
珍しく悩んでいた。返しに困っているというよりもこれは自分が経験したことないから分からないといった風な。
「……もしかして風邪引いたことないんですか。朱鳥術士って風邪も引かないとか」
「君はオレを何だと思っているんだ。風邪ぐらい引く。ただ悪化させることは稀だ」
「それ充分羨ましいです。私は風邪引いたら大体こじらせるし」
風邪の引き始めに無理をするとかなりの確率で悪化させる。微熱が何日も続いたり、咳やくしゃみが止まらなかったり。お陰で夜眠れなくて結果的に症状も長引く。悪循環に陥って治りが遅くなるパターン。
「症状が変化、悪化した場合はそれに応じた薬も作るから安心しろ」
目の前に縦長のグラスが静かに置かれる。どす黒い色をした液体が入っていて、飲み物とはとても思えない。何を混ぜたらこんな色になるんだ。
これは私の諸症状に合わせた飲み薬だ。空になった皿を下げながら調合者がしれっと言う。できれば飲みたくない。絶対美味しくないこれ。
「味の良い薬などオレの見聞には無い」
「……そりゃあ良薬は口に苦しって言いますけどお」
「実に良い言い回しだ。分かっているならそれを飲んでゆっくりと休養をとることだな」
「…はーい。ボルカノさんが居れば医者要らずですね」
グラスにそっと鼻を近づけてみると薬草の臭いがツンとした。宿屋で薬草を煎じることはしないと言ってたから、これは煎じなくても作れるものだったのかもしれない。
そこで一つの疑問がふっと沸いた。この世界に来たばかりの頃も熱を出した。けれど、薬を飲んだ記憶が無い。
「どうした」
「あ、いえ…私、前にも熱を出したじゃないですか。その時もボルカノさんが薬を調合してくれたって聞いたけど…飲んだ記憶が全く無いんですよね」
ガシャンと皿のぶつかる音がシンクの方から聞こえてきた。食事の済んだ食器を洗っていたボルカノさんに「大丈夫ですか」と声をかけてから三秒後。
「何を言っている。自分で飲んだに決まっているだろう。熱で意識が朦朧としていたんじゃないのか」
背を向けたままの彼からごく当たり前の答えがかえってきた。そりゃそうだろうけど。前の薬の味も覚えて無いほど熱に浮かされていたのかな。
私はグラスから薬を一口含んだ。想像通り苦い。いつか飲んだ漢方薬の味がする。これは飲み干すのに時間がかかりそうだ。
「…お水もう一杯もらえますか」
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