第二章
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28.極光を追いかけて
極寒の大地で暮らす雪の住人。かつて聖王に同行した者もいたと伝記に残されていた。
雪の町へ辿り着くには条件が幾つか必要らしい。一つは夜空にオーロラが出現すること。そして二つ目は空に掛かるオーロラの橋を渡るに値する実力の持ち主であること。この二つが揃わなければ決して雪の町へは辿り着けない。
そこの住人に会いたいと願う彼女はそう話した。
「厳密に言えばちょっと違いますけど。ボルカノさんなら大丈夫です。行けます」
「聖王家の書庫で雪の町に関する文献は目にしたが……君の言葉を信じてみるとしよう」
裏付ける資料も証拠も無い。そんな話をいとも容易く信じようとするのは惚れた弱みか。彼女だからこそ信じられるというもの。それも悪くは無い。
ランスで迎えた三日目の朝は昨日よりも気温が下がっていた。太陽の高度が上がるにつれて僅かに気温は上昇したが、防寒具を手放せるわけもない。幸い天候が落ち着いているので、午前中に天文学者の家を訪ねることにした。オーロラの出現情報はランスの北東に住む天文学者の妹から聞くことができるそうだ。
雪と氷、赤錆が付いた金属のドアノックハンドルを持ち上げ、玄関の戸を二度叩く。暫く待ってみるが反応は返ってこない。
「お留守かな。お兄さんは二階の部屋で寝てるとは思うんですけど」
「妹は出掛けているのだろう。ならば出直そう。研究者は睡眠を邪魔されることを一番嫌う。特に夜型の人間は尚更だ」
ピドナからランスへ移り住んだ天文学者の兄妹。彼等の両親は死食の再来を民衆へ流布したが為に刑を処された。両親の意思を継いだ兄のヨハンネスは今もこの地でアビスゲートの研究をしていると学者の間では有名になっている。
星を中心とした研究ならば昼夜逆転するのは当然。空が明るいうちは何も見えんのだからな。
留守ならば先に旅支度を整えてからにしよう。そう玄関先から踵を返し、三段ばかりの低い階段を下りる。そこで白い毛織のコートを羽織った一人の女性と鉢合わせた。どうやらこの家の住人の様で、紙袋を腕に抱えた彼女は来客とみなしたオレ達に緩く微笑んで見せる。
「あら、家に御用かしら。あいにく兄はこの時間寝ていますの。代わりに私が伺いますわ」
この赤毛の女性がヨハンネスの研究を支えている妹のアンナか。気づかれぬよう、[#dc=2#]に視線を送ると彼女は小さく頷いた。
微笑む彼女に対し、こちらも笑みを返す。
「留守中にこれは失礼を致しました。私どもは朱鳥術を研究している者です。貴殿方のお話を是非ともお伺いしたく参りました」
「まあ…それでは遠路遥々いらしたのは貴方達だったのね。聖王家を訪ねている研究者がいると聞いていたから。どうぞ、お入りになって。温かい飲み物をご用意しますから」
傍らで黙っていた[#dc=2#]がようやく「ありがとうございます」とやや緊張気味に口を開いた。
◇
「最近は兄の所へ話を聞きに来る方が多くて。でも兄は夜型だから滅多に起きてこないし、だから代わりに私がお伺いしているのよ」
今もぐっすり眠っていたと言いながら二階から彼女が下りてきた。真紅に彩った革表紙の本。ざっくりと本を開き、そこから一頁ずつ捲っていく。あるページで指を止め、開いたままこちらに差し出した。
「これが朱鳥術の究極術法、最強術と言われているリヴァイヴァの文献よ」
「有難う御座います。……これが四魔貴族により封印されていたという」
四聖を司る地術の最強術は四魔貴族によって封印されている。それぞれアビスゲートを閉じた際に封印が解かれ、その術が有効となる。リヴァイヴァを含め、最強術についての情報は知っていたが、まさかこんな場所で手にすることができるとは。これも彼等の両親が遺した物なのかと考えれば納得もいく。
オーロラの話を彼女に尋ねた所、あっさりと「今夜あたり出そうね」と答えが返ってきた。日が暮れるまで時間を持て余してしまうので、それならと[#dc=2#]が横から尋ねた。「火術要塞にあるゲートはもう閉じられたのか」と。そこから朱鳥術を研究する身として、最強術に興味があるとこちらへ話を振ってきたのだ。
ざっと目を通した所、複雑な術式では無い。だがアビスの者どもが恐れていただけの術だ。不死鳥の力を対象者に宿らせ、傷を完治させるという。成程、この原理を活かせば己が考えている治癒術にも役立つだろうと彼女が気を利かしたのか。
既に彼女の右手に包帯は巻かれていない。今朝方に解いた際、傷が一つ残らず綺麗に消えていたと興奮気味に話していた。あの程度の軽い傷ならば半日足らずで完治。先ずは第一段階の治験は成功と言える。
「つい先日、火術要塞のアビスゲートが閉じられたと兄が言っていたの」
「良いタイミングでしたね。…ボルカノ先生程の朱鳥術士ならすぐに使いこなせますよ」
一階の応接間では暖炉の火が轟々と燃えていた。
促がされたソファに腰を下ろし、リヴァイヴァの文献を読み進める。その間に彼女達の話し声や足音、隣で本の頁を捲る音を耳が拾い上げる。いつの間にかローテーブルには飲み物が用意されていた。それに目を向ければ「ハチミツ入りのホットミルクですよ」と隣からの声。本を片腕で支えながらマグカップに口をつける。仄かな甘みが今は丁度良い気がした。
「兄の話によればアビスゲートはあと二つ。タフターン山にあるビューネイのゲートと海底宮にあるフォルネウスのゲート。このまま順調に全てのゲートを閉じることができればいいんだけど」
「大丈夫ですよ。ゲートを閉じている冒険者の方々はとても強いって風の噂で聞きましたから」
「……そうね。彼等ならやってくれるかも」
彼女は不安げな表情を見せた。だがそれも束の間、[#dc=2#]の励ましによってそれは払拭された。事実上初対面の相手にすら影響を与える言葉。魔力でも込められているのではないかとさえ思う。
数十分前までは借りてきた猫の様に大人しくしていた[#dc=2#]だが、今ではもう打ち解けて他愛もない雑談を広げていた。彼女相手にそこまで堅苦しくする必要も無いと思ったのだろう。
「そういえば貴女、昨日道で派手に転んでいたでしょう」
「み、見られてたんですね。……お恥ずかしい」
「真っ赤なコートに見覚えがあったから。地元の人はあんな転び方しないし、旅の方だと思っていたのよ」
「……この色、悪目立ちしてるなあ」
そのとめどない会話に耳が傾く。わざとらしく咳払いをすれば話し声がそこで一度止む。ぼやいていた彼女の方を向けばそこで視線が合い、相手は気まずそうに横へとずらしていった。
「それはつまり、私が日頃から悪目立ちしているとでも言いたいようだ」
「そ、そんなワケないじゃないですか。やだなあ。ボルカノ先生意外に赤を着こなせる人っていませんよ」
「そうね。まさに朱鳥術士の権化と思える出で立ちだもの。……あら」
[#dc=2#]のフォローに回っていた彼女がふと足元へ視線を落とした。
そこには音もなく近付いてきた一匹の猫が座っている。挨拶のつもりか彼女を見上げて一声鳴き、また四つ足で歩む。ソファの方へ回り込んできたかと思えば、事もあろうかオレの膝の上に飛び乗った。錆柄で手足が白い模様の猫が体を丸めて寛ぎ始める。膝が重い。
「近所の猫よ。暖を取りにあちこちお邪魔しているみたいなんだけど。珍しい。他所の人にはあまり懐かないのに」
「先生の側は暖かいからじゃないですか?」
「成程。暖炉の前よりも暖かいと思っているのかもしれないわね」
人を暖炉の代わりにしているというのか。[#dc=2#]はこの来客者に笑みを綻ばせている。しかし膝上の塊が煩わしい。それが表面に出ていたようで「猫はお嫌いですか」と赤毛の彼女に笑われてしまう。
「……気まぐれな所があまり好きでは」
「そこが猫のいい所でもありますけど」
「猫好きは総じてそう仰います。……[#dc=2#]、止めておけ」
横から伸びてきた手が猫の頭を撫でようとした。その気配を瞬時に察知した猫は大きく目を見開き、上体を起こした。立てられた爪が膝に食い込んでいる。
警戒態勢を取られ、怖気づいた手が静かに引っ込められた。
「猫は初対面の人間には警戒心が強い。自分に構いにくる相手には余計にな。下手をすれば引っかかれるぞ」
「……ねこちゃん」
「気のないフリをしていればそのうち警戒心を解いて近づいてくる」
あまりにしょぼくれていたので、聞いたことのあるアドバイスを一つ授けた。それを聞いて「気のないフリ…」と本に集中する素振り。表紙には『星座の成り立ち』という題目が書かれている。ちらちらと猫の様子を窺うので不審でしかない。この調子では家を出るまでに気を許しては貰えなさそうだな。
膝元にいる錆柄の猫が大きな欠伸を一つ漏らし、再び体を丸めた。
◇◆◇
「だいぶ日が暮れてきましたね。そろそろ一番星が見えそう」
天文学者の家を後にし、身支度を宿屋で整えてから町の外れに赴いていた。空を見上げれば西の方角から夕闇がにじり寄り始めている。気温も下がってきた。辺り一面に星が輝きだす頃には更に冷え込む。
「それにしても、オーロラの出現条件に気温が関係無いってことに驚きましたよ」
白い吐息が曇り、消えていく。
どうやらオーロラは極度に寒くなると出現するという勘違いを起こしていた。その考え方も強ち間違いではないが、オーロラは磁場の影響で発生するもの。オーロラベルトが存在する極地は高緯度に位置する為、日照時間が短い。平均気温も低くなる。従ってオーロラ観賞には寒さ対策も必要だ。
しかし、オーロラは大変気まぐれなもの。いくら条件が整っていようと、結局は運でしかない。
一等星が一つ、また一つと輝き始めた。
そろそろか、まだかと待ちきれない様子の彼女に自然と笑みが零れ落ちそうになる。無邪気なものだ。
「ボルカノさん。ありがとうございます。オーロラを見るのも初めてだし、雪の町へ行けるなんて夢みたいで」
「礼を言うにはまだ早いんじゃないか。…感謝したいのはこちらの方だ。オレ一人ならばわざわざ赴こうとは考えもしない。いい機会を得られたと思っている」
例え古い文献からその町の存在を知ったとしても、彼女の声が掛からなければ赴くことは無かった。伝説上の物だと受け流していたに違いない。
幾つか会話を交わして数分も経たないうちに頭上一面に星が広がった。西の空が濃い紫水晶のような色を僅かに残している。
空の隅々まで見渡していた彼女がバランスを崩してよろめく。その両肩を支えてやれば「空気が澄んでいるせいか星がすごくキレイに見える」と言う。
静寂が一段と増したその時。夜空に光の帯が現れ、横断する橋の様に真っ直ぐと伸びていく。
その光は青、水色、緑、紫と不規則に色を変えながら揺れ動いている。それは雪原にも映し出され、あまりの美しさに息を呑むのも忘れ、目を奪われていた。
不意に掴まれた手。彼女は夜空に架かるオーロラを指しながらその手を引いていく。
「虹を追いかけるみたいでワクワクしますね」と愉しそうに笑った。
極寒の大地で暮らす雪の住人。かつて聖王に同行した者もいたと伝記に残されていた。
雪の町へ辿り着くには条件が幾つか必要らしい。一つは夜空にオーロラが出現すること。そして二つ目は空に掛かるオーロラの橋を渡るに値する実力の持ち主であること。この二つが揃わなければ決して雪の町へは辿り着けない。
そこの住人に会いたいと願う彼女はそう話した。
「厳密に言えばちょっと違いますけど。ボルカノさんなら大丈夫です。行けます」
「聖王家の書庫で雪の町に関する文献は目にしたが……君の言葉を信じてみるとしよう」
裏付ける資料も証拠も無い。そんな話をいとも容易く信じようとするのは惚れた弱みか。彼女だからこそ信じられるというもの。それも悪くは無い。
ランスで迎えた三日目の朝は昨日よりも気温が下がっていた。太陽の高度が上がるにつれて僅かに気温は上昇したが、防寒具を手放せるわけもない。幸い天候が落ち着いているので、午前中に天文学者の家を訪ねることにした。オーロラの出現情報はランスの北東に住む天文学者の妹から聞くことができるそうだ。
雪と氷、赤錆が付いた金属のドアノックハンドルを持ち上げ、玄関の戸を二度叩く。暫く待ってみるが反応は返ってこない。
「お留守かな。お兄さんは二階の部屋で寝てるとは思うんですけど」
「妹は出掛けているのだろう。ならば出直そう。研究者は睡眠を邪魔されることを一番嫌う。特に夜型の人間は尚更だ」
ピドナからランスへ移り住んだ天文学者の兄妹。彼等の両親は死食の再来を民衆へ流布したが為に刑を処された。両親の意思を継いだ兄のヨハンネスは今もこの地でアビスゲートの研究をしていると学者の間では有名になっている。
星を中心とした研究ならば昼夜逆転するのは当然。空が明るいうちは何も見えんのだからな。
留守ならば先に旅支度を整えてからにしよう。そう玄関先から踵を返し、三段ばかりの低い階段を下りる。そこで白い毛織のコートを羽織った一人の女性と鉢合わせた。どうやらこの家の住人の様で、紙袋を腕に抱えた彼女は来客とみなしたオレ達に緩く微笑んで見せる。
「あら、家に御用かしら。あいにく兄はこの時間寝ていますの。代わりに私が伺いますわ」
この赤毛の女性がヨハンネスの研究を支えている妹のアンナか。気づかれぬよう、[#dc=2#]に視線を送ると彼女は小さく頷いた。
微笑む彼女に対し、こちらも笑みを返す。
「留守中にこれは失礼を致しました。私どもは朱鳥術を研究している者です。貴殿方のお話を是非ともお伺いしたく参りました」
「まあ…それでは遠路遥々いらしたのは貴方達だったのね。聖王家を訪ねている研究者がいると聞いていたから。どうぞ、お入りになって。温かい飲み物をご用意しますから」
傍らで黙っていた[#dc=2#]がようやく「ありがとうございます」とやや緊張気味に口を開いた。
◇
「最近は兄の所へ話を聞きに来る方が多くて。でも兄は夜型だから滅多に起きてこないし、だから代わりに私がお伺いしているのよ」
今もぐっすり眠っていたと言いながら二階から彼女が下りてきた。真紅に彩った革表紙の本。ざっくりと本を開き、そこから一頁ずつ捲っていく。あるページで指を止め、開いたままこちらに差し出した。
「これが朱鳥術の究極術法、最強術と言われているリヴァイヴァの文献よ」
「有難う御座います。……これが四魔貴族により封印されていたという」
四聖を司る地術の最強術は四魔貴族によって封印されている。それぞれアビスゲートを閉じた際に封印が解かれ、その術が有効となる。リヴァイヴァを含め、最強術についての情報は知っていたが、まさかこんな場所で手にすることができるとは。これも彼等の両親が遺した物なのかと考えれば納得もいく。
オーロラの話を彼女に尋ねた所、あっさりと「今夜あたり出そうね」と答えが返ってきた。日が暮れるまで時間を持て余してしまうので、それならと[#dc=2#]が横から尋ねた。「火術要塞にあるゲートはもう閉じられたのか」と。そこから朱鳥術を研究する身として、最強術に興味があるとこちらへ話を振ってきたのだ。
ざっと目を通した所、複雑な術式では無い。だがアビスの者どもが恐れていただけの術だ。不死鳥の力を対象者に宿らせ、傷を完治させるという。成程、この原理を活かせば己が考えている治癒術にも役立つだろうと彼女が気を利かしたのか。
既に彼女の右手に包帯は巻かれていない。今朝方に解いた際、傷が一つ残らず綺麗に消えていたと興奮気味に話していた。あの程度の軽い傷ならば半日足らずで完治。先ずは第一段階の治験は成功と言える。
「つい先日、火術要塞のアビスゲートが閉じられたと兄が言っていたの」
「良いタイミングでしたね。…ボルカノ先生程の朱鳥術士ならすぐに使いこなせますよ」
一階の応接間では暖炉の火が轟々と燃えていた。
促がされたソファに腰を下ろし、リヴァイヴァの文献を読み進める。その間に彼女達の話し声や足音、隣で本の頁を捲る音を耳が拾い上げる。いつの間にかローテーブルには飲み物が用意されていた。それに目を向ければ「ハチミツ入りのホットミルクですよ」と隣からの声。本を片腕で支えながらマグカップに口をつける。仄かな甘みが今は丁度良い気がした。
「兄の話によればアビスゲートはあと二つ。タフターン山にあるビューネイのゲートと海底宮にあるフォルネウスのゲート。このまま順調に全てのゲートを閉じることができればいいんだけど」
「大丈夫ですよ。ゲートを閉じている冒険者の方々はとても強いって風の噂で聞きましたから」
「……そうね。彼等ならやってくれるかも」
彼女は不安げな表情を見せた。だがそれも束の間、[#dc=2#]の励ましによってそれは払拭された。事実上初対面の相手にすら影響を与える言葉。魔力でも込められているのではないかとさえ思う。
数十分前までは借りてきた猫の様に大人しくしていた[#dc=2#]だが、今ではもう打ち解けて他愛もない雑談を広げていた。彼女相手にそこまで堅苦しくする必要も無いと思ったのだろう。
「そういえば貴女、昨日道で派手に転んでいたでしょう」
「み、見られてたんですね。……お恥ずかしい」
「真っ赤なコートに見覚えがあったから。地元の人はあんな転び方しないし、旅の方だと思っていたのよ」
「……この色、悪目立ちしてるなあ」
そのとめどない会話に耳が傾く。わざとらしく咳払いをすれば話し声がそこで一度止む。ぼやいていた彼女の方を向けばそこで視線が合い、相手は気まずそうに横へとずらしていった。
「それはつまり、私が日頃から悪目立ちしているとでも言いたいようだ」
「そ、そんなワケないじゃないですか。やだなあ。ボルカノ先生意外に赤を着こなせる人っていませんよ」
「そうね。まさに朱鳥術士の権化と思える出で立ちだもの。……あら」
[#dc=2#]のフォローに回っていた彼女がふと足元へ視線を落とした。
そこには音もなく近付いてきた一匹の猫が座っている。挨拶のつもりか彼女を見上げて一声鳴き、また四つ足で歩む。ソファの方へ回り込んできたかと思えば、事もあろうかオレの膝の上に飛び乗った。錆柄で手足が白い模様の猫が体を丸めて寛ぎ始める。膝が重い。
「近所の猫よ。暖を取りにあちこちお邪魔しているみたいなんだけど。珍しい。他所の人にはあまり懐かないのに」
「先生の側は暖かいからじゃないですか?」
「成程。暖炉の前よりも暖かいと思っているのかもしれないわね」
人を暖炉の代わりにしているというのか。[#dc=2#]はこの来客者に笑みを綻ばせている。しかし膝上の塊が煩わしい。それが表面に出ていたようで「猫はお嫌いですか」と赤毛の彼女に笑われてしまう。
「……気まぐれな所があまり好きでは」
「そこが猫のいい所でもありますけど」
「猫好きは総じてそう仰います。……[#dc=2#]、止めておけ」
横から伸びてきた手が猫の頭を撫でようとした。その気配を瞬時に察知した猫は大きく目を見開き、上体を起こした。立てられた爪が膝に食い込んでいる。
警戒態勢を取られ、怖気づいた手が静かに引っ込められた。
「猫は初対面の人間には警戒心が強い。自分に構いにくる相手には余計にな。下手をすれば引っかかれるぞ」
「……ねこちゃん」
「気のないフリをしていればそのうち警戒心を解いて近づいてくる」
あまりにしょぼくれていたので、聞いたことのあるアドバイスを一つ授けた。それを聞いて「気のないフリ…」と本に集中する素振り。表紙には『星座の成り立ち』という題目が書かれている。ちらちらと猫の様子を窺うので不審でしかない。この調子では家を出るまでに気を許しては貰えなさそうだな。
膝元にいる錆柄の猫が大きな欠伸を一つ漏らし、再び体を丸めた。
◇◆◇
「だいぶ日が暮れてきましたね。そろそろ一番星が見えそう」
天文学者の家を後にし、身支度を宿屋で整えてから町の外れに赴いていた。空を見上げれば西の方角から夕闇がにじり寄り始めている。気温も下がってきた。辺り一面に星が輝きだす頃には更に冷え込む。
「それにしても、オーロラの出現条件に気温が関係無いってことに驚きましたよ」
白い吐息が曇り、消えていく。
どうやらオーロラは極度に寒くなると出現するという勘違いを起こしていた。その考え方も強ち間違いではないが、オーロラは磁場の影響で発生するもの。オーロラベルトが存在する極地は高緯度に位置する為、日照時間が短い。平均気温も低くなる。従ってオーロラ観賞には寒さ対策も必要だ。
しかし、オーロラは大変気まぐれなもの。いくら条件が整っていようと、結局は運でしかない。
一等星が一つ、また一つと輝き始めた。
そろそろか、まだかと待ちきれない様子の彼女に自然と笑みが零れ落ちそうになる。無邪気なものだ。
「ボルカノさん。ありがとうございます。オーロラを見るのも初めてだし、雪の町へ行けるなんて夢みたいで」
「礼を言うにはまだ早いんじゃないか。…感謝したいのはこちらの方だ。オレ一人ならばわざわざ赴こうとは考えもしない。いい機会を得られたと思っている」
例え古い文献からその町の存在を知ったとしても、彼女の声が掛からなければ赴くことは無かった。伝説上の物だと受け流していたに違いない。
幾つか会話を交わして数分も経たないうちに頭上一面に星が広がった。西の空が濃い紫水晶のような色を僅かに残している。
空の隅々まで見渡していた彼女がバランスを崩してよろめく。その両肩を支えてやれば「空気が澄んでいるせいか星がすごくキレイに見える」と言う。
静寂が一段と増したその時。夜空に光の帯が現れ、横断する橋の様に真っ直ぐと伸びていく。
その光は青、水色、緑、紫と不規則に色を変えながら揺れ動いている。それは雪原にも映し出され、あまりの美しさに息を呑むのも忘れ、目を奪われていた。
不意に掴まれた手。彼女は夜空に架かるオーロラを指しながらその手を引いていく。
「虹を追いかけるみたいでワクワクしますね」と愉しそうに笑った。