第二章
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26.聖王家の書庫にて
「朱鳥術の研究をしておりますボルカノと申します。この度は聖王家現当主を伺いたく、ガーター半島から馳せ参じた次第で御座います」
ランスに居を構える聖王の子孫を訪ねにきたのはいい。私は彼のあまりにも意外な姿に言葉を失っていた。
聖王家と言っても一般民家で、正確には聖王自体に子孫は居ないらしくその姉の子孫だと。初めて知った情報に「へえ~」「そうなんですか」とボルカノさんの知識量に素直に驚いていた。
聖王家の玄関口で恭しく一礼をし、人受けの良い柔和な笑みを携え、穏やかな口調。その姿が今も目に焼き付いたように離れない。
あまりにも普段見ない姿だ。別人じゃないのかと疑いたくなるほどだった。
口を開けばボロが出るだろうからと、私は黙って立っていればいいと言われ、その通りにしていた。そこを不意打ちに「彼女は私の助手を務めております」と紹介されてしまい、頭から爪先までカチカチになりながらも作り笑いを浮かべる。これは不審に思われたなと焦った。すかさず「彼女はまだ日が浅く、厳かな場を訪れることに慣れていないもので…」とフォローが飛んでくる。
此度のアビスゲート出現により各地でアビスの影響が確認されております。特にアビスの瘴気に曝された魔物が人々の生活を脅かしている。私共は道中その魔物を討伐しておりますが、ある話をお聞きしました。僅かに開放されたアビスゲートを再び閉ざすべく、先陣を切って闘う者達がいると。私共も彼等と同じ志。しかしながら一介の術士が力になれる事は高が知れております。ならば、この非力な私共が出来るとなれば……アビスの魔物から人々の安寧を護る事。そのような考えに達した次第に御座います。聖王様が平和に導いたこの世界をアビスの者共に奪われてはなりませぬ。
本当に良く回る口だと感心してしまった。後の英雄達の力になりたいので、聖王時代に残された文献の閲覧許可を頂きたい。そう頼むとあっさりと承諾してもらえた。私が提案した話をここまで膨らませ、その上相手を納得させる話術も凄い。
ランスには三日ばかりの滞在と話し、持ち出しをしない代わりにと三日間出入りの許可を得た。
聖王時代の図書文献は地下の書庫にある。外の明かりが一切届かない室内だ。壁のランプだけでは心許ないだろうと小型のランプを二つ貸してくれた。
薄暗く、頬がピリピリするような寒さを肌に感じた。古紙が湿気た独特の匂いが充満している。
聖王家の現当主は「先祖が遺した物がお役に立てるように」とボルカノさんに声を掛け、上に戻っていった。
書庫と言っても六畳ほどの広さの一室に本棚を並べた空間。四方の壁は天井まで届く本棚に覆われ、両面本棚が間に三つ。私にとっては充分すぎる量の本だけど、彼にとっては少ない部類に入るんだろう。この中に目当ての文献があるとも限らないし。
何百年もの時を経た書物はどれもボロボロだ。ちょっと触れただけで革張りの表紙の一部が崩れそうになる。どれも格式高い装丁で、手に取るのすら気が引けてしまう。
「気になった物があれば教えてくれ。オレもそれに目を通す」
「分かりました。…なんだかホントに助手になった気分」
「それと扱いには気を使うように。どれも貴重な文献だ」
「き、気を付けます。二度と手に入らない様な物ばかりですもんね」
踏み台の天板にランプを置いて明かりを確保。私は一番下の棚から調べていた。
分厚い本の背表紙に指を引っかけると、表紙と中身が分離してしまいそうになる。言った側からこれでは先が思いやられた。対してボルカノさんはこういった類の物を扱い慣れているようで、まるで普通の本の様に頁を捲っていく。しかもいつもの手袋を嵌めたまま。
何気なく見上げた彼の表情はいつになく真剣なものだった。聖王時代に遺された物に触れる機会なんて、それこそあんな理由が無ければ閲覧許可は降りなかっただろう。ボルカノさんならば三日もあれば全て読みつくし、頭脳にインプット出来そうだ。
先の玄関でのやり取りに感服していた私は独り言の様に話し始めた。集中していれば彼の耳には届かない。どちらでも私は構わなかった。
「ボルカノさんは知恵も働くし、口も回る。世渡り上手ですよね。あまりの豹変ぶりに別人なんじゃないかと思いましたよ。……あんな、人受けの良い笑顔作れるんですね」
「第一印象が良ければ八割方良い方向へ進む。求める情報を得るための術に過ぎない」
意外な事に私の声が真っすぐ届いた。適当な返しでも無く、ちゃんと内容に沿っている。上の空で返事をすることもあったからそれも意外だった。
「そーいえば、人の第一印象は五秒で決まるとか就活の時に習いましたね。……そんな短い間に笑顔取り繕って話をするなんて芸当、私には出来ませんでしたけど」
捻りに捻って考えた自己PR。身だしなみやメイクの仕方。面接で好印象を与える受け答え。いくら前準備を整えても、ドアをノックして部屋に足を踏み入れた瞬間に頭の中が真っ白になる。喋る事すら舌が縺れてままならないのに、そこへプラス笑顔で。なんて出来るわけがなかった。だからあんな風に切り替えがスッと出来る彼の処世術が羨ましいと思えた。
後に氷河期時代と謡われた就職難に活動していた苦い思い出がふと蘇ろうとする。胸が息苦しい。止めよう。思い出した所で一つも良いことなんてないんだから。
「裏表が無く素直に感情を表現する。人にも好かれやすい。その性格がオレにとっては羨ましくも思うが……所詮は無い物ねだりだ。そのままの方が君らしくて好ましい。現に助けられているからな」
人としては良い性格だと慰められているんだろうか。モウゼスの雑貨屋でもそう言われた。少し窮屈さを感じる。
突然、胸がきゅっと苦しくなって咳が出た。けほけほと渇いた咳を数回。どうやら埃を吸い込んでしまったみたいだ。
「大丈夫か」
「……あ、はい。ちょっと埃を吸ったみたいで。大したことないです」
ゆっくりと息を整えて私はそう答えた。
彼は手にしていた文献を元の棚に戻し、私の方を見る。大丈夫ですと軽く手を振って見せても彼は次の本に手をかけなかった。それよりも周囲の本棚に均一に積もっている埃を気にしている。
「掃除が定期的にされているとはいえ、細かい所は埃が積もっている。今日は短時間で切り上げるとしよう」
「え、いいですよ。三日しかないんですし」
「君の体調に影響を及ぼす方が心配だ。それにこの量ならば目を通すのにそう時間はかからない」
「……流石ですね。でも私なら大丈夫ですから」
私は手元の本へ目を落とし、頁を捲った。この本には北欧の伝説が書かれている。雪の国の住人、氷の剣、永久氷晶の存在。そういえばランスから雪の町への道が開かれるんだった。この本にはオーロラの光を道標に辿り着いたと残されている。
左腕に輝く雪の結晶を象ったチェーンブレスレット。これを渡してくれた雪だるまさんは雪の町に居るんだろうか。それとも永久氷晶を身につけて外の世界へ飛び出しているのか。
「[#dc=2#]?」
「……え、あ。はい、なんですか」
「随分と熱心に読んでいたようだが……何か気になる物でもあったのかと聞いている」
「すみません。……集中してたから聞こえてなくて。大したことは書いてなかったです。ほら、難しい言い回しで書かれてたから。……こんな本ばかり読めるボルカノさんは凄いですよね。頭もいいし顔もいいからモテモテなんですねー」
「……なんだ急に」
「だって声掛けてくる人結構いたじゃないですか。ヤーマスでもそうだし、さっきもすれ違いざまに見てくる女性いましたよ」
あの人カッコいい、隣にいる人彼女かな、という会話も聞こえた。私は彼女ではないけど、確かにカッコいいと思う。
防寒用として羽織ったチャコールグレイのロングコートもよく似合っていた。赤以外も似合うんだなあと。
私には相変わらず赤いコートを薦めてきた。最初は渋ったけど、私の背丈に合うコートが他になくて結局それを選ぶことに。それに白いフワフワのボアがフードについていて肌触りがよくて結構気に入っている。
「顔がいいと大変ですね」
少し茶化した言い方をしたから怒られるかなと思った。それがいつまで経っても返事は無い。
そっと盗み見た彼は分厚い本を開いて、頁を捲っては手を止め、また数頁を捲っては手を止めていた。このタイミングで気になる文献を見つけたんだろう。そうなればこれ以上話しかけても邪魔になるだけだ。
私が隣の本に手を掛けた時、彼の声が聞こえてきた。
「どれだけ他者から好意を向けられようと、自分が想いを寄せる相手からでなければ何も意味はない」
怒った様子も無く、淡々として冷静な口調。意外な言葉だった。それは所謂持論なのか、それとも。
「ボルカノさん好きな人いるんですか?」
自分が今その立場にあるから、そう言えるのかもしれない。そのどちらかだ。
私がそう尋ねると、彼は暫くの間黙っていた。ここからじゃ薄暗さと顔の角度で表情は窺えない。頁を捲る音だけが静かに響く。
私が手元の本に視線を落とした所で今度は短い返事が返ってきた。やけに時間差を感じる。別に話したくないなら無理に話さなくてもいいのに。自分から話を振った手前「もういいです」と打ち切るのも冷たく思われそうだ。
「どんな人なんですか?」
「……普通の女性だ。後先考えずに行動を起こして、自己犠牲の念が強い。だから目を離せないし、放ってもおけない。無邪気で純粋……誰にでも優しい」
「へえー。ボルカノさんのことだからもっと理想が高いかと思ってました。綺麗で頭も良くて…博識な才色兼備。術にも長けていて、お互いに高めあえるような…そんな感じの女性かなあって」
ふと、ツヴァイクの西に住む教授の顔が浮かんだ。容姿端麗なサイエンティストだから話は合いそうな気もする。
「……そんな高根の花を好むと思われているのか」
「ボルカノさんに釣り合うならそういう人かと。でも気が強かったら反発しそうですね」
「そうだな。研究者は己の理念がそれぞれある。その意見が食い違えば争いとなるだけだ。全く同じ考えを持つ人間などそうそういない」
「そっか。研究者同士は大変そうですね」
「ああ。……ただ側で支えてくれるだけでいい」
その言葉はまるで願うように静かに呟かれた。それはどこか寂しげに聞こえる。彼の好きな人は中々会える距離に居ないのかもしれない。片想いであれば余計に辛いものもあるだろうし。
その人の事が本気で好きだから、他の人から声を掛けられても応じない。無関心なのもそれで納得ができる。この人は一途で純粋なんだ。
「ボルカノさんの一途な想いが届くといいですね。大丈夫ですよ、今は会えなくてもまた会えますって」
「……最近気がついたことだが。彼女は物凄く鈍い」
「あー…それなら直接はっきり伝えた方がいいですよ!そうじゃなきゃボルカノさんの想いは伝わらないと思います」
頑張ってくださいねとエールを送ったつもりが、聞こえてきたのは長い溜息だった。「そうだな」と少々投げやりな返しを境にその話は打ち切りとされた。
「朱鳥術の研究をしておりますボルカノと申します。この度は聖王家現当主を伺いたく、ガーター半島から馳せ参じた次第で御座います」
ランスに居を構える聖王の子孫を訪ねにきたのはいい。私は彼のあまりにも意外な姿に言葉を失っていた。
聖王家と言っても一般民家で、正確には聖王自体に子孫は居ないらしくその姉の子孫だと。初めて知った情報に「へえ~」「そうなんですか」とボルカノさんの知識量に素直に驚いていた。
聖王家の玄関口で恭しく一礼をし、人受けの良い柔和な笑みを携え、穏やかな口調。その姿が今も目に焼き付いたように離れない。
あまりにも普段見ない姿だ。別人じゃないのかと疑いたくなるほどだった。
口を開けばボロが出るだろうからと、私は黙って立っていればいいと言われ、その通りにしていた。そこを不意打ちに「彼女は私の助手を務めております」と紹介されてしまい、頭から爪先までカチカチになりながらも作り笑いを浮かべる。これは不審に思われたなと焦った。すかさず「彼女はまだ日が浅く、厳かな場を訪れることに慣れていないもので…」とフォローが飛んでくる。
此度のアビスゲート出現により各地でアビスの影響が確認されております。特にアビスの瘴気に曝された魔物が人々の生活を脅かしている。私共は道中その魔物を討伐しておりますが、ある話をお聞きしました。僅かに開放されたアビスゲートを再び閉ざすべく、先陣を切って闘う者達がいると。私共も彼等と同じ志。しかしながら一介の術士が力になれる事は高が知れております。ならば、この非力な私共が出来るとなれば……アビスの魔物から人々の安寧を護る事。そのような考えに達した次第に御座います。聖王様が平和に導いたこの世界をアビスの者共に奪われてはなりませぬ。
本当に良く回る口だと感心してしまった。後の英雄達の力になりたいので、聖王時代に残された文献の閲覧許可を頂きたい。そう頼むとあっさりと承諾してもらえた。私が提案した話をここまで膨らませ、その上相手を納得させる話術も凄い。
ランスには三日ばかりの滞在と話し、持ち出しをしない代わりにと三日間出入りの許可を得た。
聖王時代の図書文献は地下の書庫にある。外の明かりが一切届かない室内だ。壁のランプだけでは心許ないだろうと小型のランプを二つ貸してくれた。
薄暗く、頬がピリピリするような寒さを肌に感じた。古紙が湿気た独特の匂いが充満している。
聖王家の現当主は「先祖が遺した物がお役に立てるように」とボルカノさんに声を掛け、上に戻っていった。
書庫と言っても六畳ほどの広さの一室に本棚を並べた空間。四方の壁は天井まで届く本棚に覆われ、両面本棚が間に三つ。私にとっては充分すぎる量の本だけど、彼にとっては少ない部類に入るんだろう。この中に目当ての文献があるとも限らないし。
何百年もの時を経た書物はどれもボロボロだ。ちょっと触れただけで革張りの表紙の一部が崩れそうになる。どれも格式高い装丁で、手に取るのすら気が引けてしまう。
「気になった物があれば教えてくれ。オレもそれに目を通す」
「分かりました。…なんだかホントに助手になった気分」
「それと扱いには気を使うように。どれも貴重な文献だ」
「き、気を付けます。二度と手に入らない様な物ばかりですもんね」
踏み台の天板にランプを置いて明かりを確保。私は一番下の棚から調べていた。
分厚い本の背表紙に指を引っかけると、表紙と中身が分離してしまいそうになる。言った側からこれでは先が思いやられた。対してボルカノさんはこういった類の物を扱い慣れているようで、まるで普通の本の様に頁を捲っていく。しかもいつもの手袋を嵌めたまま。
何気なく見上げた彼の表情はいつになく真剣なものだった。聖王時代に遺された物に触れる機会なんて、それこそあんな理由が無ければ閲覧許可は降りなかっただろう。ボルカノさんならば三日もあれば全て読みつくし、頭脳にインプット出来そうだ。
先の玄関でのやり取りに感服していた私は独り言の様に話し始めた。集中していれば彼の耳には届かない。どちらでも私は構わなかった。
「ボルカノさんは知恵も働くし、口も回る。世渡り上手ですよね。あまりの豹変ぶりに別人なんじゃないかと思いましたよ。……あんな、人受けの良い笑顔作れるんですね」
「第一印象が良ければ八割方良い方向へ進む。求める情報を得るための術に過ぎない」
意外な事に私の声が真っすぐ届いた。適当な返しでも無く、ちゃんと内容に沿っている。上の空で返事をすることもあったからそれも意外だった。
「そーいえば、人の第一印象は五秒で決まるとか就活の時に習いましたね。……そんな短い間に笑顔取り繕って話をするなんて芸当、私には出来ませんでしたけど」
捻りに捻って考えた自己PR。身だしなみやメイクの仕方。面接で好印象を与える受け答え。いくら前準備を整えても、ドアをノックして部屋に足を踏み入れた瞬間に頭の中が真っ白になる。喋る事すら舌が縺れてままならないのに、そこへプラス笑顔で。なんて出来るわけがなかった。だからあんな風に切り替えがスッと出来る彼の処世術が羨ましいと思えた。
後に氷河期時代と謡われた就職難に活動していた苦い思い出がふと蘇ろうとする。胸が息苦しい。止めよう。思い出した所で一つも良いことなんてないんだから。
「裏表が無く素直に感情を表現する。人にも好かれやすい。その性格がオレにとっては羨ましくも思うが……所詮は無い物ねだりだ。そのままの方が君らしくて好ましい。現に助けられているからな」
人としては良い性格だと慰められているんだろうか。モウゼスの雑貨屋でもそう言われた。少し窮屈さを感じる。
突然、胸がきゅっと苦しくなって咳が出た。けほけほと渇いた咳を数回。どうやら埃を吸い込んでしまったみたいだ。
「大丈夫か」
「……あ、はい。ちょっと埃を吸ったみたいで。大したことないです」
ゆっくりと息を整えて私はそう答えた。
彼は手にしていた文献を元の棚に戻し、私の方を見る。大丈夫ですと軽く手を振って見せても彼は次の本に手をかけなかった。それよりも周囲の本棚に均一に積もっている埃を気にしている。
「掃除が定期的にされているとはいえ、細かい所は埃が積もっている。今日は短時間で切り上げるとしよう」
「え、いいですよ。三日しかないんですし」
「君の体調に影響を及ぼす方が心配だ。それにこの量ならば目を通すのにそう時間はかからない」
「……流石ですね。でも私なら大丈夫ですから」
私は手元の本へ目を落とし、頁を捲った。この本には北欧の伝説が書かれている。雪の国の住人、氷の剣、永久氷晶の存在。そういえばランスから雪の町への道が開かれるんだった。この本にはオーロラの光を道標に辿り着いたと残されている。
左腕に輝く雪の結晶を象ったチェーンブレスレット。これを渡してくれた雪だるまさんは雪の町に居るんだろうか。それとも永久氷晶を身につけて外の世界へ飛び出しているのか。
「[#dc=2#]?」
「……え、あ。はい、なんですか」
「随分と熱心に読んでいたようだが……何か気になる物でもあったのかと聞いている」
「すみません。……集中してたから聞こえてなくて。大したことは書いてなかったです。ほら、難しい言い回しで書かれてたから。……こんな本ばかり読めるボルカノさんは凄いですよね。頭もいいし顔もいいからモテモテなんですねー」
「……なんだ急に」
「だって声掛けてくる人結構いたじゃないですか。ヤーマスでもそうだし、さっきもすれ違いざまに見てくる女性いましたよ」
あの人カッコいい、隣にいる人彼女かな、という会話も聞こえた。私は彼女ではないけど、確かにカッコいいと思う。
防寒用として羽織ったチャコールグレイのロングコートもよく似合っていた。赤以外も似合うんだなあと。
私には相変わらず赤いコートを薦めてきた。最初は渋ったけど、私の背丈に合うコートが他になくて結局それを選ぶことに。それに白いフワフワのボアがフードについていて肌触りがよくて結構気に入っている。
「顔がいいと大変ですね」
少し茶化した言い方をしたから怒られるかなと思った。それがいつまで経っても返事は無い。
そっと盗み見た彼は分厚い本を開いて、頁を捲っては手を止め、また数頁を捲っては手を止めていた。このタイミングで気になる文献を見つけたんだろう。そうなればこれ以上話しかけても邪魔になるだけだ。
私が隣の本に手を掛けた時、彼の声が聞こえてきた。
「どれだけ他者から好意を向けられようと、自分が想いを寄せる相手からでなければ何も意味はない」
怒った様子も無く、淡々として冷静な口調。意外な言葉だった。それは所謂持論なのか、それとも。
「ボルカノさん好きな人いるんですか?」
自分が今その立場にあるから、そう言えるのかもしれない。そのどちらかだ。
私がそう尋ねると、彼は暫くの間黙っていた。ここからじゃ薄暗さと顔の角度で表情は窺えない。頁を捲る音だけが静かに響く。
私が手元の本に視線を落とした所で今度は短い返事が返ってきた。やけに時間差を感じる。別に話したくないなら無理に話さなくてもいいのに。自分から話を振った手前「もういいです」と打ち切るのも冷たく思われそうだ。
「どんな人なんですか?」
「……普通の女性だ。後先考えずに行動を起こして、自己犠牲の念が強い。だから目を離せないし、放ってもおけない。無邪気で純粋……誰にでも優しい」
「へえー。ボルカノさんのことだからもっと理想が高いかと思ってました。綺麗で頭も良くて…博識な才色兼備。術にも長けていて、お互いに高めあえるような…そんな感じの女性かなあって」
ふと、ツヴァイクの西に住む教授の顔が浮かんだ。容姿端麗なサイエンティストだから話は合いそうな気もする。
「……そんな高根の花を好むと思われているのか」
「ボルカノさんに釣り合うならそういう人かと。でも気が強かったら反発しそうですね」
「そうだな。研究者は己の理念がそれぞれある。その意見が食い違えば争いとなるだけだ。全く同じ考えを持つ人間などそうそういない」
「そっか。研究者同士は大変そうですね」
「ああ。……ただ側で支えてくれるだけでいい」
その言葉はまるで願うように静かに呟かれた。それはどこか寂しげに聞こえる。彼の好きな人は中々会える距離に居ないのかもしれない。片想いであれば余計に辛いものもあるだろうし。
その人の事が本気で好きだから、他の人から声を掛けられても応じない。無関心なのもそれで納得ができる。この人は一途で純粋なんだ。
「ボルカノさんの一途な想いが届くといいですね。大丈夫ですよ、今は会えなくてもまた会えますって」
「……最近気がついたことだが。彼女は物凄く鈍い」
「あー…それなら直接はっきり伝えた方がいいですよ!そうじゃなきゃボルカノさんの想いは伝わらないと思います」
頑張ってくださいねとエールを送ったつもりが、聞こえてきたのは長い溜息だった。「そうだな」と少々投げやりな返しを境にその話は打ち切りとされた。