第二章
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22.モウゼスより北へ
夜が明けないうちに私達は身支度を整えて館を後にした。
冷たい朝の空気を胸の奥に感じながら町の南に向かう。この通りを歩くのも最後かと思うと感慨深い物がある。振り返る先には聳え立つ塔。煙が消えた煙突が寂しげに見えてしまう。雑貨屋の煙突からは煙が昇っている。窓にはカーテンが引かれていて中を覗くことはできなかった。
ひと月ばかり寝食の世話になった場所、そしてこの町にも感謝の気持ちしかない。
先を歩いていたボルカノさんが町と街路の境目で立ち止まり、こちらを振り返った。私に向けたはずのその視線がすっと横隣へ動く。何に驚いているのか。彼の視線を追うように振り返ると、そこに女性が一人。ここまで走って追いかけてきたんだろう。苦しそうに息を弾ませて、膝に手をついて体を屈めている。私はルインさんの元へ駆け寄って大丈夫ですかと背中をさする。彼女の腕には紙袋が抱えられていた。
「ありがとう霧華ちゃん。……声も掛けずに町を出て行っちまうなんて。最初から最後までアンタは自分勝手な人間だね」
「……元々歓迎されていない身だ。見送りなど必要無い」
「アンタには無いだろうけどね。少なくともあたしにはあるんだよ。……そりゃあ、町を分断するし、向こうと顔を合わせればドンパチ始めちまうし。ホント迷惑だったよ」
話を聞く限りでは私が此処へ来るより前に結構な頻度で有事があったらしい。彼は痛い所を衝かれて言葉を詰まらせていた。眉間に寄せた皺を深く刻み、目を背ける。
「その争いの火種となる一派閥が居なくなればそれも無くなる。迷惑をかけてすまなかったな」
投げやりにも近い彼の謝罪。それが意外な物だったようで、町の人間からすれば初めて聞いた言葉だったのかもしれない。決して愛想の良い人ではないし。
ルインさんは暫くの間何も言わずに腕を組んでいた。色素の薄いブラウンの目がきゅっと細められる。
「ま、素直に謝ってくれたんだ。許さないわけにはいかないか。アンタ、やっぱり少し変わったね。この町に来た時とはえらい違いだよ」
そう言って私の方を見た。これも私の影響だろうと言いたげに。この世界に私が与える影響は微々たるものだ。彼らに与えた変化は確かに小さなものかもしれない。でも、それが悪い方向で無ければそれはそれでいいと思えた。
「霧華ちゃんに感謝しなよ。この子に免じて水に流してやるんだ。……酷い目に遭わせてごらん。とっちめに行ってやるからね」
「だ、大丈夫ですよ。ボルカノさんいい人ですから」
「いい人ねえ」
その辺はまだ信用ならないのか、疑り深い目を彼に向けた。じっと見つめられた視線が居心地悪そうに、今度は顔ごとそっぽを向けてしまう。
東の空が薄っすらと青に変わっていく。もうすぐ日が昇ってくる。
ルインさんは抱えていた紙袋をボルカノさんに押し付ける様に渡した。嵩のあるそれが彼の腕に収まる、と言っても渋々受け取ったような形だ。
「餞別だよ。食料はあっても困らないだろ。目的地が何処であれ気を付けな。それとボルカノ、しっかりこの子を守ってやんな」
「言われなくともそのつもりだ。……世話になったな」
「ルインさん。ほんとに、本当にありがとうございました」
ふわりと甘い香りに私の体と視界が包まれた。焼きたてのパンの匂いがする。朝の支度の途中、駆けつけてくれたんだろう。「寂しくなるね」と涙ぐむ声が聞こえ、涙腺から堪えていた涙が溢れ出そうになった。私をひとしきり抱きしめた後、両肩に手を乗せる。あの日と同じ様に温かく、優しい手の平。
「また立ち寄った時は声を掛けておくれ。その時は歓迎してやるからさ」
髪の結び目に挿したルインさんの髪飾りが朝日を反射してきらきらと輝いていた。
◇
モウゼスを後にした私達は石畳の続く街路を北へと進み、バンガード沿岸部を目指していた。旅路は順調かと思いきや、やはり魔物との遭遇は避けられなかった。でもそこは『朱鳥術を使わせたら右に出る者が居ない』と謳われた術士。囲まれても物怖じ一つせずに対処。町中とは違い周囲に気を払う必要がないので、数が多い時はファイアストームで一掃する事も。私が援護する暇も無く、あっという間に片付いてしまう。
焼け跡を見ながら私にも何か出来る事があればいいのに。そう考えている矢先に「無理しなくていい」と諭されてしまった。
太陽が頭上で輝く頃、沿岸部の都市に到着。けれどバンガードの町は跡形も無く消え去っていた。大きく抉り取られた沿岸、断崖に打ち寄せる波しぶき。町の残骸と思わしき建物の外壁が崩れ落ちていた。
どうやら海上要塞バンガードは無事に発進した様子。今頃は最果ての島か、はたまた海底宮に乗り込んでいるのか。
海上で鳴く鴎に見送られながらさらに北へ進路を取り、ルーブ山地の近くまでやって来た。てっきりこの先の麓にある小さな村に滞在するのかと思えば、その手前をキャンプ地にすると彼は話す。
「村の近くまでは行かないんですか?」
「竜による被害の巻き添えは避けたい。可能性のあるリスクは極力避けるべきだ」
「あー……そうですね、うん。本当は村の人にも知らせたいけど…信じてもらえなさそうだし」
「根拠も無い事を口走れば民衆は怯える。そしてその原因を排除しようとする。死食の再来を流布した者の末路がそうだった。霧華も迂闊に話さない方がいい」
「う……気を付けます」
この世界の事を誰彼構わず話すつもりはない。本当のことを言っているのに信じて貰えない苦しみはもう味わいたくない。いずれまたあの時みたいに歯痒くて辛い思いをする事もあるだろう。でも、その時はもう一人で抱え込んで悩まなくていい。心強い相談相手が居るのだから。
街路の石畳の均整が崩れてきた道を進んでいる時だった。彼は急に足を止めて「日が沈む直前、この周囲に結界を張る。オレは結界の準備をするから薪を調達してくれ」と言ってトランクケースを下ろした。
すぐ近くに焚火の痕が残っている。誰かが前に野宿した証だ。日が沈む前にと言ったが、もうすでに山の向こうに太陽が隠れようとしている。
私はトランクケースを焚火の側に置いて、腕を目いっぱい頭上に伸ばした。慣れない荷物を持つと肩が凝ってしまう。
足元に落ちていた細い木の枝を拾い上げ、周囲を見渡した。強い風が吹いた後なのか、辺りに木の枝が結構落ちている。遠くに見える森から飛んできたものかもしれない。お陰で直ぐに薪が集まりそうだ。
西の空が茜色に染まっていく。やがて半月が明るく見え始めた。この世界の夜は星が綺麗に見えそうだ。
◇
「バンガード、大地から見事に切り離されてましたね。あれは事情知らない人が見たら町が一夜にして消滅、町民はどこへ!……なんて一面の新聞が出そう」
「聖王時代に作られた海上要塞だと知る者はそう多くない。怪奇現象だと暫くは騒がれるだろうな。……しかし道が寸断されていなくて助かった。危うくウィルミントンまで戻る破目になる所だったぞ」
バンガードはルーブ山地とデマンダ地方の間に位置していた。その町が二つの陸を繋ぐ役割を果たしていたとしたら。徒歩の手段しか持ち合わせていない私達は引き返すしかない。そう考えていたけど、人が歩ける幅の道が幸運にも残っていた。そこを渡ってルーブ山地地方までやって来たのだ。
焚火を対角上に囲んだ私達は軽い夕食を取っていた。リンゴの皮を剥いて六等分に切り分け、パンはスライスしてベーコンを挟んで軽く炙る。そのままパンに挟めば手間が要らないと疑問を投げられたので、ホットサンドという調理方法があることを説明した。中に挟む具材はその都度変えても美味しく出来上がる。気温が下がる夜だし、少しでも温かい物を口にした方がいいと思ってだ。
「どうですか?私の世界じゃ結構流行ってるんですよ。本当はパンの縁をぎゅっと押さえて焼くんですけどね」
「……パンが香ばしくて美味いな。ボイルエッグやチーズを挟んでも良さそうだ」
「生野菜やポテトサラダを一緒に挟んでも美味しいですよ。今度機会があれば作りますね」
「ああ、楽しみにしている」
ボルカノさんの異変のうちの一つ。今までは振る舞った料理を褒めることが無かった。それが最近では味や見た目の感想を述べてくれる機会が増えたのだ。味に関しては褒めてくれた後に、この食材や調味料を加えてみたらどうだと持論も述べる。参考になるし有難いのだけど、どうして急にそうなったのか。私は一度も「料理の感想ぐらい言ったらどうなんですか!」と怒ったことは無い。言われた相手が煩いと感じるのを知ってるから口にしない。そりゃ、美味しいですねと言われたら嬉しい。でも言葉にするのが苦手な人も世の中には居る。そこは料理が食べ残されていなければよしとしてきた。可もなく不可も無く。不可じゃなければ私はいいのだ。
「手料理を振る舞ってくれた相手に対し無関心では失礼に当たる」
「まあ、感想やアドバイスは有難いですけど……」
「なんだ」
「ボルカノさんって人の心読めるんですか?ことごとく私の考えてる事ズバッと当ててきますよね」
幾ら顔に出やすいとは言え、まるで筒抜けている。今さっき考えていた事もこの通りだ。若しや読心術に長けているどころか、人の心そのものを読めるのではと疑ってしまう。流石にここまで胸中を当ててきた人も珍しいものだから。
彼は六等分したリンゴに齧りつき、顰めた表情で「何を馬鹿な事を」と一蹴した。
夕食を済ませた後、各々寝床を決めて寝転がる。肌触りがいいからと持ってきた薄手のブランケットに私は包まって横になった。
野宿の際は火の見張りを交代でする物だと思っていた。今夜は結界を張っているので、焚火が消えても問題はないらしい。それだけで安心感が増した。私達の周囲を覆っている結界は目に見えない。てっきり半透明な緑の薄いヴェールとかを想像していた。おかげで頭上に広がる満点の星空を堪能することができる。向こうの夜とは違って邪魔をする光が全くない。星空を空の宝石箱と例えた人はこんな光景を見たから浮かんだ言葉なんだろうな。
天の川のように北から南へ流れている星の川をぼんやりと眺めていた。ランスに行くのならオーロラを見たい。運が良ければ見られるかな。雪の町の住人達にも会ってみたい。
焚火を挟んで反対側に寝転がる彼は手帖を片手に持ち、頁をゆっくりと捲っていた。私が声を掛けるとその手帖をぱたんと閉じてこちらに体を傾ける。
「疲れてませんか。あんなに術使ったんだし」
「誰に聞いてるんだ。あの程度で体力を消耗などしない。君の方が疲れているだろ」
「ふくらはぎがパンパンですよ。普段こんな距離歩くことないですし」
「……もっと早めに気づくべきだった。辛ければ言ってくれ、ペースを落とす」
「はーい」
「…寒くはないか」
「大丈夫です」
結界の内側は安心して休めるように様々な加護が働いているという。不安や焦りを感じないのはそのおかげもある。それと、頼もしい人が一緒だからだと思う。
此処へ来たばかりの頃は町の外へ出る事に恐怖を抱いていた。外に連れ出されるまでは。スライムの酸で足を負傷した時も不思議と恐怖が増すことは無かった。
「明日にはヤーマスに着けますかね」
「滞りなく進めればな。多少ペースを落としても夕方には着く計算だ」
「ボルカノさんが居れば不測の事態は無いだろうし、大丈夫ですね。だって強いですもん。ボルカノさんが一緒なら怖いものナシだなーって。どこへでも行けちゃいそう」
濃褐色の瞳に映した炎がゆらゆらと静かに揺れていた。私を捉えていたその二つの目が徐に伏せられる。それは直ぐに持ち上げられて、少し眠たそうな目で笑いかけてきた。
「そうか。……この旅路の不安を少しでも解消出来るのなら尽力しよう」
「無理はしないでくださいね。気楽に、気長に行きましょ」
「……そうだな。もう眠った方がいい。明日も早い」
彼は星空を一度仰ぎ、周囲の明かりを遮る様に目元を腕で覆った。反対側へ寝返りを打つ彼に「おやすみなさい」と言えば一拍置いてから「おやすみ」とその背から返ってくる。
その後も暫く星を眺めていた私は空を駆ける一筋の流れ星を見つけた。
夜が明けないうちに私達は身支度を整えて館を後にした。
冷たい朝の空気を胸の奥に感じながら町の南に向かう。この通りを歩くのも最後かと思うと感慨深い物がある。振り返る先には聳え立つ塔。煙が消えた煙突が寂しげに見えてしまう。雑貨屋の煙突からは煙が昇っている。窓にはカーテンが引かれていて中を覗くことはできなかった。
ひと月ばかり寝食の世話になった場所、そしてこの町にも感謝の気持ちしかない。
先を歩いていたボルカノさんが町と街路の境目で立ち止まり、こちらを振り返った。私に向けたはずのその視線がすっと横隣へ動く。何に驚いているのか。彼の視線を追うように振り返ると、そこに女性が一人。ここまで走って追いかけてきたんだろう。苦しそうに息を弾ませて、膝に手をついて体を屈めている。私はルインさんの元へ駆け寄って大丈夫ですかと背中をさする。彼女の腕には紙袋が抱えられていた。
「ありがとう霧華ちゃん。……声も掛けずに町を出て行っちまうなんて。最初から最後までアンタは自分勝手な人間だね」
「……元々歓迎されていない身だ。見送りなど必要無い」
「アンタには無いだろうけどね。少なくともあたしにはあるんだよ。……そりゃあ、町を分断するし、向こうと顔を合わせればドンパチ始めちまうし。ホント迷惑だったよ」
話を聞く限りでは私が此処へ来るより前に結構な頻度で有事があったらしい。彼は痛い所を衝かれて言葉を詰まらせていた。眉間に寄せた皺を深く刻み、目を背ける。
「その争いの火種となる一派閥が居なくなればそれも無くなる。迷惑をかけてすまなかったな」
投げやりにも近い彼の謝罪。それが意外な物だったようで、町の人間からすれば初めて聞いた言葉だったのかもしれない。決して愛想の良い人ではないし。
ルインさんは暫くの間何も言わずに腕を組んでいた。色素の薄いブラウンの目がきゅっと細められる。
「ま、素直に謝ってくれたんだ。許さないわけにはいかないか。アンタ、やっぱり少し変わったね。この町に来た時とはえらい違いだよ」
そう言って私の方を見た。これも私の影響だろうと言いたげに。この世界に私が与える影響は微々たるものだ。彼らに与えた変化は確かに小さなものかもしれない。でも、それが悪い方向で無ければそれはそれでいいと思えた。
「霧華ちゃんに感謝しなよ。この子に免じて水に流してやるんだ。……酷い目に遭わせてごらん。とっちめに行ってやるからね」
「だ、大丈夫ですよ。ボルカノさんいい人ですから」
「いい人ねえ」
その辺はまだ信用ならないのか、疑り深い目を彼に向けた。じっと見つめられた視線が居心地悪そうに、今度は顔ごとそっぽを向けてしまう。
東の空が薄っすらと青に変わっていく。もうすぐ日が昇ってくる。
ルインさんは抱えていた紙袋をボルカノさんに押し付ける様に渡した。嵩のあるそれが彼の腕に収まる、と言っても渋々受け取ったような形だ。
「餞別だよ。食料はあっても困らないだろ。目的地が何処であれ気を付けな。それとボルカノ、しっかりこの子を守ってやんな」
「言われなくともそのつもりだ。……世話になったな」
「ルインさん。ほんとに、本当にありがとうございました」
ふわりと甘い香りに私の体と視界が包まれた。焼きたてのパンの匂いがする。朝の支度の途中、駆けつけてくれたんだろう。「寂しくなるね」と涙ぐむ声が聞こえ、涙腺から堪えていた涙が溢れ出そうになった。私をひとしきり抱きしめた後、両肩に手を乗せる。あの日と同じ様に温かく、優しい手の平。
「また立ち寄った時は声を掛けておくれ。その時は歓迎してやるからさ」
髪の結び目に挿したルインさんの髪飾りが朝日を反射してきらきらと輝いていた。
◇
モウゼスを後にした私達は石畳の続く街路を北へと進み、バンガード沿岸部を目指していた。旅路は順調かと思いきや、やはり魔物との遭遇は避けられなかった。でもそこは『朱鳥術を使わせたら右に出る者が居ない』と謳われた術士。囲まれても物怖じ一つせずに対処。町中とは違い周囲に気を払う必要がないので、数が多い時はファイアストームで一掃する事も。私が援護する暇も無く、あっという間に片付いてしまう。
焼け跡を見ながら私にも何か出来る事があればいいのに。そう考えている矢先に「無理しなくていい」と諭されてしまった。
太陽が頭上で輝く頃、沿岸部の都市に到着。けれどバンガードの町は跡形も無く消え去っていた。大きく抉り取られた沿岸、断崖に打ち寄せる波しぶき。町の残骸と思わしき建物の外壁が崩れ落ちていた。
どうやら海上要塞バンガードは無事に発進した様子。今頃は最果ての島か、はたまた海底宮に乗り込んでいるのか。
海上で鳴く鴎に見送られながらさらに北へ進路を取り、ルーブ山地の近くまでやって来た。てっきりこの先の麓にある小さな村に滞在するのかと思えば、その手前をキャンプ地にすると彼は話す。
「村の近くまでは行かないんですか?」
「竜による被害の巻き添えは避けたい。可能性のあるリスクは極力避けるべきだ」
「あー……そうですね、うん。本当は村の人にも知らせたいけど…信じてもらえなさそうだし」
「根拠も無い事を口走れば民衆は怯える。そしてその原因を排除しようとする。死食の再来を流布した者の末路がそうだった。霧華も迂闊に話さない方がいい」
「う……気を付けます」
この世界の事を誰彼構わず話すつもりはない。本当のことを言っているのに信じて貰えない苦しみはもう味わいたくない。いずれまたあの時みたいに歯痒くて辛い思いをする事もあるだろう。でも、その時はもう一人で抱え込んで悩まなくていい。心強い相談相手が居るのだから。
街路の石畳の均整が崩れてきた道を進んでいる時だった。彼は急に足を止めて「日が沈む直前、この周囲に結界を張る。オレは結界の準備をするから薪を調達してくれ」と言ってトランクケースを下ろした。
すぐ近くに焚火の痕が残っている。誰かが前に野宿した証だ。日が沈む前にと言ったが、もうすでに山の向こうに太陽が隠れようとしている。
私はトランクケースを焚火の側に置いて、腕を目いっぱい頭上に伸ばした。慣れない荷物を持つと肩が凝ってしまう。
足元に落ちていた細い木の枝を拾い上げ、周囲を見渡した。強い風が吹いた後なのか、辺りに木の枝が結構落ちている。遠くに見える森から飛んできたものかもしれない。お陰で直ぐに薪が集まりそうだ。
西の空が茜色に染まっていく。やがて半月が明るく見え始めた。この世界の夜は星が綺麗に見えそうだ。
◇
「バンガード、大地から見事に切り離されてましたね。あれは事情知らない人が見たら町が一夜にして消滅、町民はどこへ!……なんて一面の新聞が出そう」
「聖王時代に作られた海上要塞だと知る者はそう多くない。怪奇現象だと暫くは騒がれるだろうな。……しかし道が寸断されていなくて助かった。危うくウィルミントンまで戻る破目になる所だったぞ」
バンガードはルーブ山地とデマンダ地方の間に位置していた。その町が二つの陸を繋ぐ役割を果たしていたとしたら。徒歩の手段しか持ち合わせていない私達は引き返すしかない。そう考えていたけど、人が歩ける幅の道が幸運にも残っていた。そこを渡ってルーブ山地地方までやって来たのだ。
焚火を対角上に囲んだ私達は軽い夕食を取っていた。リンゴの皮を剥いて六等分に切り分け、パンはスライスしてベーコンを挟んで軽く炙る。そのままパンに挟めば手間が要らないと疑問を投げられたので、ホットサンドという調理方法があることを説明した。中に挟む具材はその都度変えても美味しく出来上がる。気温が下がる夜だし、少しでも温かい物を口にした方がいいと思ってだ。
「どうですか?私の世界じゃ結構流行ってるんですよ。本当はパンの縁をぎゅっと押さえて焼くんですけどね」
「……パンが香ばしくて美味いな。ボイルエッグやチーズを挟んでも良さそうだ」
「生野菜やポテトサラダを一緒に挟んでも美味しいですよ。今度機会があれば作りますね」
「ああ、楽しみにしている」
ボルカノさんの異変のうちの一つ。今までは振る舞った料理を褒めることが無かった。それが最近では味や見た目の感想を述べてくれる機会が増えたのだ。味に関しては褒めてくれた後に、この食材や調味料を加えてみたらどうだと持論も述べる。参考になるし有難いのだけど、どうして急にそうなったのか。私は一度も「料理の感想ぐらい言ったらどうなんですか!」と怒ったことは無い。言われた相手が煩いと感じるのを知ってるから口にしない。そりゃ、美味しいですねと言われたら嬉しい。でも言葉にするのが苦手な人も世の中には居る。そこは料理が食べ残されていなければよしとしてきた。可もなく不可も無く。不可じゃなければ私はいいのだ。
「手料理を振る舞ってくれた相手に対し無関心では失礼に当たる」
「まあ、感想やアドバイスは有難いですけど……」
「なんだ」
「ボルカノさんって人の心読めるんですか?ことごとく私の考えてる事ズバッと当ててきますよね」
幾ら顔に出やすいとは言え、まるで筒抜けている。今さっき考えていた事もこの通りだ。若しや読心術に長けているどころか、人の心そのものを読めるのではと疑ってしまう。流石にここまで胸中を当ててきた人も珍しいものだから。
彼は六等分したリンゴに齧りつき、顰めた表情で「何を馬鹿な事を」と一蹴した。
夕食を済ませた後、各々寝床を決めて寝転がる。肌触りがいいからと持ってきた薄手のブランケットに私は包まって横になった。
野宿の際は火の見張りを交代でする物だと思っていた。今夜は結界を張っているので、焚火が消えても問題はないらしい。それだけで安心感が増した。私達の周囲を覆っている結界は目に見えない。てっきり半透明な緑の薄いヴェールとかを想像していた。おかげで頭上に広がる満点の星空を堪能することができる。向こうの夜とは違って邪魔をする光が全くない。星空を空の宝石箱と例えた人はこんな光景を見たから浮かんだ言葉なんだろうな。
天の川のように北から南へ流れている星の川をぼんやりと眺めていた。ランスに行くのならオーロラを見たい。運が良ければ見られるかな。雪の町の住人達にも会ってみたい。
焚火を挟んで反対側に寝転がる彼は手帖を片手に持ち、頁をゆっくりと捲っていた。私が声を掛けるとその手帖をぱたんと閉じてこちらに体を傾ける。
「疲れてませんか。あんなに術使ったんだし」
「誰に聞いてるんだ。あの程度で体力を消耗などしない。君の方が疲れているだろ」
「ふくらはぎがパンパンですよ。普段こんな距離歩くことないですし」
「……もっと早めに気づくべきだった。辛ければ言ってくれ、ペースを落とす」
「はーい」
「…寒くはないか」
「大丈夫です」
結界の内側は安心して休めるように様々な加護が働いているという。不安や焦りを感じないのはそのおかげもある。それと、頼もしい人が一緒だからだと思う。
此処へ来たばかりの頃は町の外へ出る事に恐怖を抱いていた。外に連れ出されるまでは。スライムの酸で足を負傷した時も不思議と恐怖が増すことは無かった。
「明日にはヤーマスに着けますかね」
「滞りなく進めればな。多少ペースを落としても夕方には着く計算だ」
「ボルカノさんが居れば不測の事態は無いだろうし、大丈夫ですね。だって強いですもん。ボルカノさんが一緒なら怖いものナシだなーって。どこへでも行けちゃいそう」
濃褐色の瞳に映した炎がゆらゆらと静かに揺れていた。私を捉えていたその二つの目が徐に伏せられる。それは直ぐに持ち上げられて、少し眠たそうな目で笑いかけてきた。
「そうか。……この旅路の不安を少しでも解消出来るのなら尽力しよう」
「無理はしないでくださいね。気楽に、気長に行きましょ」
「……そうだな。もう眠った方がいい。明日も早い」
彼は星空を一度仰ぎ、周囲の明かりを遮る様に目元を腕で覆った。反対側へ寝返りを打つ彼に「おやすみなさい」と言えば一拍置いてから「おやすみ」とその背から返ってくる。
その後も暫く星を眺めていた私は空を駆ける一筋の流れ星を見つけた。
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