第一章
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21.羅針盤が示す方角
正味二日の猶予しかない旅支度は慌ただしいものだった。
外から戻って来た彼に「明後日の明朝に出発する」とだけ言われ、革のトランクケースに必要な物を詰める様に指示を受ける。それはいいのだが、彼の弟子達はどうするのかと尋ねれば「各地に赴かせる」と簡単に答えた。基本の術は教えたし、後は己自信が術を磨くだけだと。流石にその話を告げた時はどよめきが起きたらしい。誰一人として反対意見を述べる者はいなかったそうだ。既にモウゼスを旅立った人もいる。
荷物を纏めるといっても私物が少ないからすぐに荷造りを終えてしまった。借り受けた焦げ茶色のトランクの中身はまだまだ余裕がある。荷物を最小限に抑えようとしていた彼に、本棚に有り余っている書物は持っていかないのか。そう聞けば「頭に入っている」と言うので恐れ入る。天才の頭の作りは違うなあ。そう感心していた傍ら、貴重な文献に交じって基礎の調合書がトランクに。まだ使うだろ、と私の為に荷物に加えたようだ。
◇◆◇
「自分が研究していた物を他者に晒したくない。ましてそれを基に解釈違いを起こされては憤慨しかねる」
「ボルカノさんって根っからの研究者ですよね。……私なら勿体なくてこんな事できないです」
大量の書物が目の前で燃えている。私は膝を屈めて脇に積まれた本を一冊手に取り、躊躇いながらも炎の中に放り込んだ。一瞬赤い炎が不規則な形を見せる。表紙にじわじわと火が燃え移る様をじっと眺めていた。
館に残していった書物を誰かに漁られるのは我慢がならない。相容れない者は勿論の事、同胞ですらそれは嫌だと言うので案外頑固な性格をしている。ゲームの中では館に訪れても「今日は何の用だ」としか言ってくれないし。そこから趣味嗜好や性格を窺い知ることなんて出来なかったから。
部屋の本棚は殆ど空になって、あるのは食器やビーカー等の調合器具だけ。それもヒビが入って割れそうな物やもう使えない物。とりあえず邪魔だからそこに納めているだけだ。
見渡した室内に変わった所は特にない。それこそ本棚から本が消えたことぐらい。「館ごと焼失させたい」と言った彼に私はギョッとした。町が大騒ぎになるからそれは止めようと窘めても渋るので「モウゼスの南に偉大な朱鳥術士が居たという痕跡を遺しておきましょうよ」と何とか館焼失事件だけは喰い止めた。
部屋に増えたトランクケース二つ。明日の朝に出発するのは自分達とフェイル君のみだ。
町でお世話になった人達の顔がふと頭に浮かんできた。せめて雑貨屋のご夫婦にはお別れの挨拶をしたかった。でも、元々歓迎されていなかった身分だ。町を出る時だけ丁重にというのもおかしいと館の主に言われてしまう。迷惑である一派閥が姿を消せば町の人間も安堵する。それでいい。淡々とそう話した彼の反対を押し切ってまで挨拶に行くのも気が引けてしまった。
コンコンと部屋のドアをノックする音にボルカノさんが「入れ」と応じた。術士のローブを身に着けた青年が部屋に入ってくる。この館に残っている彼の弟子は一人だけだ。目元まで深々とローブのフードを被っていた彼はそれを取り払い、いつになく真面目な顔で一礼。窓から差し込む光に彼の髪がキラキラと輝いているように見えた。
「ボルカノ様。ご挨拶に参りました。短い間ではありましたが貴方様の元で術を学べた事、この先も我が誇りとなるでしょう。ここで学んだ事を己の糧となるよう日々精進致します」
この挨拶が町を離れる際にする物だと私も気づいていた。明日の朝じゃなかったのかと口を挟みたかったけど、師弟の挨拶にそうするわけにもいかない。
書斎机の中を片付けていたボルカノさんが彼に向き合い「そうか」と短く答えた。
「出発は明朝の予定では無かったのか」
「予定ではそうだったんですけど……一箇所寄る所が増えて。急遽出発する事に決めました」
「今からでは町へ着く前に日が暮れる。気を付ける様に」
「はい。……霧華さん、なにそんな悲しい顔してんのさ」
そう言われて私は今にも泣きそうな顔をしているんだと気づかされた。他の人達はそれなりに悲しみを感じながらも、笑顔で見送ってきた。フェイル君の時もそうしようと思っていたのに、勝手に涙が溢れ出てきそうになる。短い間だったのに。居心地が良いと感じられたのはフェイル君を通して彼らと良好な関係を持てたからだ。
俯いた私の頭を温かく優しい手が触れる。よしよしと声を出して撫でられていた。胸に込み上げてくる感情をぐっと抑え込んで、私は顔を上げた。笑っていた彼はどこか悲しそうにしていた。
「オレさ、霧華さんと会えて良かったよ」
「うん。私も、フェイル君に会えて良かった」
「あの時に霧華さんがクッキー分けてくれなかったら、きっとこんな風な関係にはなって無かったんだろうなーって昨日の夜に考えてたんだ。……まあ、一期一会とは言うけどさ。今生の別れじゃないんだから、またどっかで会えるって。そん時はまた美味い飯作ってよ」
「うん。……故郷に帰った時はお姉さんによろしくね」
「ああ。姉ちゃんよりも優しい姉ちゃんみたいな人が居たって自慢しとく。あ、そだ。これ」
ローブの胸元から彼は六角形のアクセサリーの様なものを取り出した。手の平に乗るサイズで、中央には淡い白色の宝石が嵌め込まれている。首から提げる太めのチェーンに見覚えがあった。彼が身に着けていた物と似ている。
「オレが弟子入りした時に初めて作ったやつ。ま、術を使わない霧華さんには持ち腐れかもしんないけど……タリスマンって御守りにもなるし。この間のストールの代わりにと思って……ダメ?」
「ううん。大切な物なのに、ありがとう」
両手で受け取ったその宝石は角度を変えると淡い緑や青のシラーが現れる。この独特な柔らかい光を見せる石はムーンストーンの様に思えた。
「それじゃ、そろそろ出発します。あ、ボルカノ様」
私達の会話を黙って見守っていた彼の側にフェイル君がツツーっと近寄った。彼に小声で耳打ちをして、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべる。その途端にボルカノさんの表情が焦りに近い物へと変わった。それから怒鳴りつける様に声を上げる。
「人の世話を焼く暇があれば自分の術を磨け!」
「はーい。それじゃ、お世話になりました!」
バタバタと階段を駆け下りていく足音がやがて聞こえなくなった。別れの最後には笑顔を浮かべていた彼を見習わなければいけない。もう行ってしまったんだと思うと、改めて寂しさが込み上げてくる。
書斎机の方から咳払いが聞こえてきた。さっき、フェイル君に何を言われたんだろう。気にもなるけど、私が聞いても教えてはくれないだろうな。
「みんな行っちゃいましたね」
「……そうだな。オレ達も明朝には出発する。今日は早めに休んでおいた方がいい」
「分かりました。でも、モウゼスを出てから行く宛ては決まってるんですか?」
「ああ」
彼が折り畳んだ地図を机上に広げた。それを覗き込み、指が示す地点を見る。地図には前に書き込まれたであろう古い跡が残っていた。近郊の町、街道が地図に載っている。
彼がまず示したのはモウゼス、そこから北東に離れたある場所で指を止めた。
「まずはランス地方を目指す。かつて聖王の領地であった自治都市、ランスへ。聖王の子孫が今でも住んでいる」
「聖王廟もあるんですよね。……その聖王家を訪ねるんですか?」
「そうだ。聖王の故郷であれば術に関する文献も何かしら見つかりそうだからな。但し、閲覧許可が下りればの話だが」
そう難しい顔をするので、大丈夫だと彼に伝えた。
「何故そう言い切れるんだ」
「聖王家の現当主は魔王殿のアビスゲートを閉じる冒険者を待ってるんです。魔王殿の最深部に行く為の指輪を預けてくれる人だし……だからアビスゲートの関連で調べたいことがあるとか言えば許可出してくれると思います」
「……成程な。まさか君の口から悪知恵が聞けるとは思わなかった。良いアイディアだ」
「随分意外そうですね」
「そんなことは無い。その許可を求める際にはオレから言う。霧華だと直ぐ顔に出るからな」
「……まあ、そーですね。お願いします」
顔に出やすいのは痛いほど分かっている。私がお願いするよりも彼の方が何倍も信用してもらえるだろう。
投げやりに私がそう答えると、彼はふっと笑みを一つ零した。面白がられている。
「ランスに向かうってことは、途中でどこかに立ち寄りますよね」
「徒歩では移動距離も限られる。野宿は極力避けて行きたいが……バンガードを経由して」
「あ、バンガードもう無いかもしれませんよ」
モウゼスから北の経路を辿った指がバンガードの手前でぴたりと止まった。軽く見開かれた目、真顔を向けられた。それから数秒後、私が前に話したことを思い出したようで溜息を一つ。
「まるで消滅したような言い方をしないでくれ」
「陸にはもう無いっていう意味で……今頃は最果ての島に向かってるかも」
「……その可能性は高いな。ならば、そこから先に行けば村が」
「あ、そこの村……もしかしたら消滅してるかもしれないです。ルーブ山地の麓ですよね」
今度は濁さずにストレートな表現をした。けど、それが逆効果だったようで彼の顔がひくりと引き攣ってしまった。
「君が言うと洒落にならん」
「だって事実そうなる可能性ありますよ。ルーブ山地に住んでるグウェインが村を襲うことあるんですから」
「聖王とかつて協力関係にあった巨竜ドーラの子どもか。……まあ、行ってみない事には分からんな。今の所は村が壊滅したという情報も入ってきていない」
私は運が良かったのか小さな村が滅ぼされた事は一度も無かった。どこかのタイミングなんだろうけど、それが今いち掴めていなかった。
広げられた地図を眺めていた私に彼が声を掛けてくる。
「霧華が知っている範囲でいい。他に古い文献が閲覧できそうな場所は無いだろうか」
「古い文献ですか……うーん。あ、ポドールイのレオニード城はどうですか」
その単語を聞いたボルカノさんの顔が曇った。その城の主がどういう人物なのか知っての反応。口をへの字に曲げて顎をさする。魅力的ではあるが、足を運ぶか迷っていそうだった。
「あの吸血鬼がいる町か。……確かに得られる物はありそうだが。いや、しかし」
「確か地下に書庫があります。魔物はわんさか沸いてますけど」
「そうだろうな。何せ吸血鬼の城だ。……リスクが高い」
「レオニードさん変わり者だから断る事ないと思いますよ。地下の魔物はアンデットばかりだからボルカノさんの朱鳥術があれば苦戦せずに進めると思うし。道案内は任せてください。…覚えてる限りですけど」
その一言が更に不安を煽ってしまったみたいだ。彼の眉間に皺が寄り始める。ああ、そっか。彼一人で進むには支障はないだろうけど、一般人の私を連れながら進むのは大変なんだろう。
「私もできるだけお荷物にならないようにします。火星の砂もだいぶ扱い方を覚えましたし」
「オレが心配しているのはそういう事では……まあいい。とりあえずその案も頭に入れて置こう」
◇◆◇
明朝の出発を調え、暖炉の火を一つ消した。夜が更ける前に休んだ方がいいと彼女に声を掛けると、率先してもう一つの暖炉の前に寝転ぶ。こちらのベッドを使っていいと言うより先に。初めの頃に眠る時はベッドを使うようにと言ったのだが、気を利かしてか「暖炉の前の方が温かくていい」と床で寝る様になってしまった。本人が良いならそれでいいかと黙認をしてきた。だが、それを改めてもらいたい。
それよりもだ。普通は年頃の女性ならば男と同室で寝食共に過ごす事に何らかの抵抗を感じるものではないのか。彼女からは全くその兆候が見られない。意識しているのはオレだけか。
昼間、弟子が耳打ちしてきた言葉の意味をようやく理解する事が出来た。少しでもオレの事を意識してくれるのならば、と淡い期待も打ち砕かれる。前途多難だ。それはそれでいつか諦めも付くだろう。
横になったベッドから天井を見上げていた。暖炉の火が爆ぜる音が時折聞こえてくる。それに雑ざる寝返りを打つ音。それが何度も聞こえてくるので、眠れずに寝返りを何度も打っているようだ。同じく睡魔の訪れを微塵も感じない。眠れないのかと声を掛けると、ぴたりと寝返りが止まった。狸寝入りにしてはお粗末すぎる。返事がない彼女に二度声を掛け、半身を起こした。
「固い床で眠るよりもこっちで眠った方が良い。場所を変わる」
「……いや、その。遠足前の気分みたいなもので…。すみません、うるさかったですよね」
「ああ。君が床で眠っているのが気になって眠れない」
「大丈夫ですよ。気使わなくても」
彼女はそう言うが。体に掛けていた薄手の毛布を手に、彼女の居る暖炉の前へ。隣に腰を下ろし、肩から毛布を羽織る。ようやくオレの気配に気づいた彼女も体を起こして膝を抱えた。
「別に私イヤじゃないですよ、床で寝るの。暖炉の火、温かくて安心できるし」
「そうか。……マットは固くないか」
「はい。丁度いい固さで寝心地良いです」
「……そうか」
取り留めのない話はそこで一度途切れてしまう。
暖炉の火を見つめる横顔が少し物憂げに思えた。無理もないか。あれだけ親しかった者と別れたのだから。辛いものがあるのだろう。
そう考えた自分に笑ってしまった。他人の感情について推測をするなど、今までに無かった事だ。他者を思いやる気持ちか。彼女の言う通り、自分は変わってきているのかもしれない。
「すっかり巻き込んでしまったな。すまない」
盾の事件を皮切りに目まぐるしい日々が過ぎ去っていった。生死を分かつ道、本来ならば死を受け入れる運命の筈だった。それを彼女が別の道を切り開いた。彼女に生かされたと称しても過言ではない。
そもそも、オレの失態でこの世界に招いてしまった。一連の出来事に巻き込んでしまったのは自分のせいだ。慣れない世界で暮らし、経験した事の無い恐怖にも晒してしまった。ようやく慣れた土地だというのに、今度はそこから離れる羽目にもなる。
「……ボルカノさん、もしかして自分のせいだとか考えてません?」
膝頭に顔を乗せながらこちらを向いた彼女が思いもよらぬ言葉を掛けてきた。そうでなければ、一体何だと言うのか。短い肯定を返せば不貞腐れた様に口を尖らせる。
「もう止めましょうよ。誰のせいとか、何が悪いとか正しいとか。キリないですもん」
「しかし」
「責任ばっかり背負い込んでたら潰れますよ?……それで潰れてった人、何人も見てきたからボルカノさんにはそうなってほしくないです」
「……君はどこまで優しい人間なんだ。そっちこそ気の使いすぎで精神を削り過ぎないように注意した方がいい」
「分かってます。……その辺は自分でも分かってるつもりですから」
そう呟いた彼女は暖炉に向き直り、目を伏せた。その小さな肩から逃げようとしている毛布を掛け直そうと手を伸ばした時、ふと視線が合う。ぼんやりとした眼から睡魔が徐々に訪れているのかと思いきや、口調はまだしっかりとしている。
「モウゼス以外の場所に行けるのが実は楽しみなんです。でも、この先どうなるのかなって、少し不安もあって」
「何が不安なんだ。……差し支えなければ話してくれないか」
「……ボルカノさんが生き残った事で、世界の動きが変わるんじゃないかなって。世界滅亡したらどうしよう」
「たかが術士一人が生き残ったところで多大な影響を与えんだろう。英雄達の邪魔をするつもりもないし、腹いせに陥れよう等とも考えていない。……霧華だってそうだ。この広い世界に一人増えたくらいで些細な変化しか与えない」
「…そっか。そうですよね」
この説明で納得が付いたのか、二度頷いて柔らかい微笑みを浮かべる。その表情に心を揺さぶられる。世界には過少な影響でも、自分に大きな影響を与えていた。
右肩に重みを感じて横を向けば、彼女の頭がそこに預けられていた。規則正しい呼吸が聞こえてくる。ようやく眠りにつけたようだ。その肩を抱き寄せようと右手が伸びた。指先が触れる寸前で思い留まり手を下ろす。
三日前に奴が話した事を彼女はどう思っているのだろうか。それを気にしてはいないのだろうか。あの話ぶりではこちらが一方的に悪者扱いだ。今までに腕の良い助手は確かに居たが、私利私欲に塗れた者ばかり。互いの利益が一致する事などまず無かった。一方的な熱情を向けられても同じ事。鬱陶しいだけだ。愛想を尽かし、泣き喚いて勝手に去っていく。必要ない物を切り捨てて何が悪い。それを冷たい男だの女癖が悪いだの言われる筋合いはない。
彼女が自分に対して向けてくるのは信頼。それを裏切らない様に努めよう。だが若しも、いつの日かその信頼を裏切る事になったとしたら。想いに諦めがつかなかったとしたら。この世界に、オレの傍に君は居てくれるのだろうか。
正味二日の猶予しかない旅支度は慌ただしいものだった。
外から戻って来た彼に「明後日の明朝に出発する」とだけ言われ、革のトランクケースに必要な物を詰める様に指示を受ける。それはいいのだが、彼の弟子達はどうするのかと尋ねれば「各地に赴かせる」と簡単に答えた。基本の術は教えたし、後は己自信が術を磨くだけだと。流石にその話を告げた時はどよめきが起きたらしい。誰一人として反対意見を述べる者はいなかったそうだ。既にモウゼスを旅立った人もいる。
荷物を纏めるといっても私物が少ないからすぐに荷造りを終えてしまった。借り受けた焦げ茶色のトランクの中身はまだまだ余裕がある。荷物を最小限に抑えようとしていた彼に、本棚に有り余っている書物は持っていかないのか。そう聞けば「頭に入っている」と言うので恐れ入る。天才の頭の作りは違うなあ。そう感心していた傍ら、貴重な文献に交じって基礎の調合書がトランクに。まだ使うだろ、と私の為に荷物に加えたようだ。
◇◆◇
「自分が研究していた物を他者に晒したくない。ましてそれを基に解釈違いを起こされては憤慨しかねる」
「ボルカノさんって根っからの研究者ですよね。……私なら勿体なくてこんな事できないです」
大量の書物が目の前で燃えている。私は膝を屈めて脇に積まれた本を一冊手に取り、躊躇いながらも炎の中に放り込んだ。一瞬赤い炎が不規則な形を見せる。表紙にじわじわと火が燃え移る様をじっと眺めていた。
館に残していった書物を誰かに漁られるのは我慢がならない。相容れない者は勿論の事、同胞ですらそれは嫌だと言うので案外頑固な性格をしている。ゲームの中では館に訪れても「今日は何の用だ」としか言ってくれないし。そこから趣味嗜好や性格を窺い知ることなんて出来なかったから。
部屋の本棚は殆ど空になって、あるのは食器やビーカー等の調合器具だけ。それもヒビが入って割れそうな物やもう使えない物。とりあえず邪魔だからそこに納めているだけだ。
見渡した室内に変わった所は特にない。それこそ本棚から本が消えたことぐらい。「館ごと焼失させたい」と言った彼に私はギョッとした。町が大騒ぎになるからそれは止めようと窘めても渋るので「モウゼスの南に偉大な朱鳥術士が居たという痕跡を遺しておきましょうよ」と何とか館焼失事件だけは喰い止めた。
部屋に増えたトランクケース二つ。明日の朝に出発するのは自分達とフェイル君のみだ。
町でお世話になった人達の顔がふと頭に浮かんできた。せめて雑貨屋のご夫婦にはお別れの挨拶をしたかった。でも、元々歓迎されていなかった身分だ。町を出る時だけ丁重にというのもおかしいと館の主に言われてしまう。迷惑である一派閥が姿を消せば町の人間も安堵する。それでいい。淡々とそう話した彼の反対を押し切ってまで挨拶に行くのも気が引けてしまった。
コンコンと部屋のドアをノックする音にボルカノさんが「入れ」と応じた。術士のローブを身に着けた青年が部屋に入ってくる。この館に残っている彼の弟子は一人だけだ。目元まで深々とローブのフードを被っていた彼はそれを取り払い、いつになく真面目な顔で一礼。窓から差し込む光に彼の髪がキラキラと輝いているように見えた。
「ボルカノ様。ご挨拶に参りました。短い間ではありましたが貴方様の元で術を学べた事、この先も我が誇りとなるでしょう。ここで学んだ事を己の糧となるよう日々精進致します」
この挨拶が町を離れる際にする物だと私も気づいていた。明日の朝じゃなかったのかと口を挟みたかったけど、師弟の挨拶にそうするわけにもいかない。
書斎机の中を片付けていたボルカノさんが彼に向き合い「そうか」と短く答えた。
「出発は明朝の予定では無かったのか」
「予定ではそうだったんですけど……一箇所寄る所が増えて。急遽出発する事に決めました」
「今からでは町へ着く前に日が暮れる。気を付ける様に」
「はい。……霧華さん、なにそんな悲しい顔してんのさ」
そう言われて私は今にも泣きそうな顔をしているんだと気づかされた。他の人達はそれなりに悲しみを感じながらも、笑顔で見送ってきた。フェイル君の時もそうしようと思っていたのに、勝手に涙が溢れ出てきそうになる。短い間だったのに。居心地が良いと感じられたのはフェイル君を通して彼らと良好な関係を持てたからだ。
俯いた私の頭を温かく優しい手が触れる。よしよしと声を出して撫でられていた。胸に込み上げてくる感情をぐっと抑え込んで、私は顔を上げた。笑っていた彼はどこか悲しそうにしていた。
「オレさ、霧華さんと会えて良かったよ」
「うん。私も、フェイル君に会えて良かった」
「あの時に霧華さんがクッキー分けてくれなかったら、きっとこんな風な関係にはなって無かったんだろうなーって昨日の夜に考えてたんだ。……まあ、一期一会とは言うけどさ。今生の別れじゃないんだから、またどっかで会えるって。そん時はまた美味い飯作ってよ」
「うん。……故郷に帰った時はお姉さんによろしくね」
「ああ。姉ちゃんよりも優しい姉ちゃんみたいな人が居たって自慢しとく。あ、そだ。これ」
ローブの胸元から彼は六角形のアクセサリーの様なものを取り出した。手の平に乗るサイズで、中央には淡い白色の宝石が嵌め込まれている。首から提げる太めのチェーンに見覚えがあった。彼が身に着けていた物と似ている。
「オレが弟子入りした時に初めて作ったやつ。ま、術を使わない霧華さんには持ち腐れかもしんないけど……タリスマンって御守りにもなるし。この間のストールの代わりにと思って……ダメ?」
「ううん。大切な物なのに、ありがとう」
両手で受け取ったその宝石は角度を変えると淡い緑や青のシラーが現れる。この独特な柔らかい光を見せる石はムーンストーンの様に思えた。
「それじゃ、そろそろ出発します。あ、ボルカノ様」
私達の会話を黙って見守っていた彼の側にフェイル君がツツーっと近寄った。彼に小声で耳打ちをして、ニヤリと悪戯な笑みを浮かべる。その途端にボルカノさんの表情が焦りに近い物へと変わった。それから怒鳴りつける様に声を上げる。
「人の世話を焼く暇があれば自分の術を磨け!」
「はーい。それじゃ、お世話になりました!」
バタバタと階段を駆け下りていく足音がやがて聞こえなくなった。別れの最後には笑顔を浮かべていた彼を見習わなければいけない。もう行ってしまったんだと思うと、改めて寂しさが込み上げてくる。
書斎机の方から咳払いが聞こえてきた。さっき、フェイル君に何を言われたんだろう。気にもなるけど、私が聞いても教えてはくれないだろうな。
「みんな行っちゃいましたね」
「……そうだな。オレ達も明朝には出発する。今日は早めに休んでおいた方がいい」
「分かりました。でも、モウゼスを出てから行く宛ては決まってるんですか?」
「ああ」
彼が折り畳んだ地図を机上に広げた。それを覗き込み、指が示す地点を見る。地図には前に書き込まれたであろう古い跡が残っていた。近郊の町、街道が地図に載っている。
彼がまず示したのはモウゼス、そこから北東に離れたある場所で指を止めた。
「まずはランス地方を目指す。かつて聖王の領地であった自治都市、ランスへ。聖王の子孫が今でも住んでいる」
「聖王廟もあるんですよね。……その聖王家を訪ねるんですか?」
「そうだ。聖王の故郷であれば術に関する文献も何かしら見つかりそうだからな。但し、閲覧許可が下りればの話だが」
そう難しい顔をするので、大丈夫だと彼に伝えた。
「何故そう言い切れるんだ」
「聖王家の現当主は魔王殿のアビスゲートを閉じる冒険者を待ってるんです。魔王殿の最深部に行く為の指輪を預けてくれる人だし……だからアビスゲートの関連で調べたいことがあるとか言えば許可出してくれると思います」
「……成程な。まさか君の口から悪知恵が聞けるとは思わなかった。良いアイディアだ」
「随分意外そうですね」
「そんなことは無い。その許可を求める際にはオレから言う。霧華だと直ぐ顔に出るからな」
「……まあ、そーですね。お願いします」
顔に出やすいのは痛いほど分かっている。私がお願いするよりも彼の方が何倍も信用してもらえるだろう。
投げやりに私がそう答えると、彼はふっと笑みを一つ零した。面白がられている。
「ランスに向かうってことは、途中でどこかに立ち寄りますよね」
「徒歩では移動距離も限られる。野宿は極力避けて行きたいが……バンガードを経由して」
「あ、バンガードもう無いかもしれませんよ」
モウゼスから北の経路を辿った指がバンガードの手前でぴたりと止まった。軽く見開かれた目、真顔を向けられた。それから数秒後、私が前に話したことを思い出したようで溜息を一つ。
「まるで消滅したような言い方をしないでくれ」
「陸にはもう無いっていう意味で……今頃は最果ての島に向かってるかも」
「……その可能性は高いな。ならば、そこから先に行けば村が」
「あ、そこの村……もしかしたら消滅してるかもしれないです。ルーブ山地の麓ですよね」
今度は濁さずにストレートな表現をした。けど、それが逆効果だったようで彼の顔がひくりと引き攣ってしまった。
「君が言うと洒落にならん」
「だって事実そうなる可能性ありますよ。ルーブ山地に住んでるグウェインが村を襲うことあるんですから」
「聖王とかつて協力関係にあった巨竜ドーラの子どもか。……まあ、行ってみない事には分からんな。今の所は村が壊滅したという情報も入ってきていない」
私は運が良かったのか小さな村が滅ぼされた事は一度も無かった。どこかのタイミングなんだろうけど、それが今いち掴めていなかった。
広げられた地図を眺めていた私に彼が声を掛けてくる。
「霧華が知っている範囲でいい。他に古い文献が閲覧できそうな場所は無いだろうか」
「古い文献ですか……うーん。あ、ポドールイのレオニード城はどうですか」
その単語を聞いたボルカノさんの顔が曇った。その城の主がどういう人物なのか知っての反応。口をへの字に曲げて顎をさする。魅力的ではあるが、足を運ぶか迷っていそうだった。
「あの吸血鬼がいる町か。……確かに得られる物はありそうだが。いや、しかし」
「確か地下に書庫があります。魔物はわんさか沸いてますけど」
「そうだろうな。何せ吸血鬼の城だ。……リスクが高い」
「レオニードさん変わり者だから断る事ないと思いますよ。地下の魔物はアンデットばかりだからボルカノさんの朱鳥術があれば苦戦せずに進めると思うし。道案内は任せてください。…覚えてる限りですけど」
その一言が更に不安を煽ってしまったみたいだ。彼の眉間に皺が寄り始める。ああ、そっか。彼一人で進むには支障はないだろうけど、一般人の私を連れながら進むのは大変なんだろう。
「私もできるだけお荷物にならないようにします。火星の砂もだいぶ扱い方を覚えましたし」
「オレが心配しているのはそういう事では……まあいい。とりあえずその案も頭に入れて置こう」
◇◆◇
明朝の出発を調え、暖炉の火を一つ消した。夜が更ける前に休んだ方がいいと彼女に声を掛けると、率先してもう一つの暖炉の前に寝転ぶ。こちらのベッドを使っていいと言うより先に。初めの頃に眠る時はベッドを使うようにと言ったのだが、気を利かしてか「暖炉の前の方が温かくていい」と床で寝る様になってしまった。本人が良いならそれでいいかと黙認をしてきた。だが、それを改めてもらいたい。
それよりもだ。普通は年頃の女性ならば男と同室で寝食共に過ごす事に何らかの抵抗を感じるものではないのか。彼女からは全くその兆候が見られない。意識しているのはオレだけか。
昼間、弟子が耳打ちしてきた言葉の意味をようやく理解する事が出来た。少しでもオレの事を意識してくれるのならば、と淡い期待も打ち砕かれる。前途多難だ。それはそれでいつか諦めも付くだろう。
横になったベッドから天井を見上げていた。暖炉の火が爆ぜる音が時折聞こえてくる。それに雑ざる寝返りを打つ音。それが何度も聞こえてくるので、眠れずに寝返りを何度も打っているようだ。同じく睡魔の訪れを微塵も感じない。眠れないのかと声を掛けると、ぴたりと寝返りが止まった。狸寝入りにしてはお粗末すぎる。返事がない彼女に二度声を掛け、半身を起こした。
「固い床で眠るよりもこっちで眠った方が良い。場所を変わる」
「……いや、その。遠足前の気分みたいなもので…。すみません、うるさかったですよね」
「ああ。君が床で眠っているのが気になって眠れない」
「大丈夫ですよ。気使わなくても」
彼女はそう言うが。体に掛けていた薄手の毛布を手に、彼女の居る暖炉の前へ。隣に腰を下ろし、肩から毛布を羽織る。ようやくオレの気配に気づいた彼女も体を起こして膝を抱えた。
「別に私イヤじゃないですよ、床で寝るの。暖炉の火、温かくて安心できるし」
「そうか。……マットは固くないか」
「はい。丁度いい固さで寝心地良いです」
「……そうか」
取り留めのない話はそこで一度途切れてしまう。
暖炉の火を見つめる横顔が少し物憂げに思えた。無理もないか。あれだけ親しかった者と別れたのだから。辛いものがあるのだろう。
そう考えた自分に笑ってしまった。他人の感情について推測をするなど、今までに無かった事だ。他者を思いやる気持ちか。彼女の言う通り、自分は変わってきているのかもしれない。
「すっかり巻き込んでしまったな。すまない」
盾の事件を皮切りに目まぐるしい日々が過ぎ去っていった。生死を分かつ道、本来ならば死を受け入れる運命の筈だった。それを彼女が別の道を切り開いた。彼女に生かされたと称しても過言ではない。
そもそも、オレの失態でこの世界に招いてしまった。一連の出来事に巻き込んでしまったのは自分のせいだ。慣れない世界で暮らし、経験した事の無い恐怖にも晒してしまった。ようやく慣れた土地だというのに、今度はそこから離れる羽目にもなる。
「……ボルカノさん、もしかして自分のせいだとか考えてません?」
膝頭に顔を乗せながらこちらを向いた彼女が思いもよらぬ言葉を掛けてきた。そうでなければ、一体何だと言うのか。短い肯定を返せば不貞腐れた様に口を尖らせる。
「もう止めましょうよ。誰のせいとか、何が悪いとか正しいとか。キリないですもん」
「しかし」
「責任ばっかり背負い込んでたら潰れますよ?……それで潰れてった人、何人も見てきたからボルカノさんにはそうなってほしくないです」
「……君はどこまで優しい人間なんだ。そっちこそ気の使いすぎで精神を削り過ぎないように注意した方がいい」
「分かってます。……その辺は自分でも分かってるつもりですから」
そう呟いた彼女は暖炉に向き直り、目を伏せた。その小さな肩から逃げようとしている毛布を掛け直そうと手を伸ばした時、ふと視線が合う。ぼんやりとした眼から睡魔が徐々に訪れているのかと思いきや、口調はまだしっかりとしている。
「モウゼス以外の場所に行けるのが実は楽しみなんです。でも、この先どうなるのかなって、少し不安もあって」
「何が不安なんだ。……差し支えなければ話してくれないか」
「……ボルカノさんが生き残った事で、世界の動きが変わるんじゃないかなって。世界滅亡したらどうしよう」
「たかが術士一人が生き残ったところで多大な影響を与えんだろう。英雄達の邪魔をするつもりもないし、腹いせに陥れよう等とも考えていない。……霧華だってそうだ。この広い世界に一人増えたくらいで些細な変化しか与えない」
「…そっか。そうですよね」
この説明で納得が付いたのか、二度頷いて柔らかい微笑みを浮かべる。その表情に心を揺さぶられる。世界には過少な影響でも、自分に大きな影響を与えていた。
右肩に重みを感じて横を向けば、彼女の頭がそこに預けられていた。規則正しい呼吸が聞こえてくる。ようやく眠りにつけたようだ。その肩を抱き寄せようと右手が伸びた。指先が触れる寸前で思い留まり手を下ろす。
三日前に奴が話した事を彼女はどう思っているのだろうか。それを気にしてはいないのだろうか。あの話ぶりではこちらが一方的に悪者扱いだ。今までに腕の良い助手は確かに居たが、私利私欲に塗れた者ばかり。互いの利益が一致する事などまず無かった。一方的な熱情を向けられても同じ事。鬱陶しいだけだ。愛想を尽かし、泣き喚いて勝手に去っていく。必要ない物を切り捨てて何が悪い。それを冷たい男だの女癖が悪いだの言われる筋合いはない。
彼女が自分に対して向けてくるのは信頼。それを裏切らない様に努めよう。だが若しも、いつの日かその信頼を裏切る事になったとしたら。想いに諦めがつかなかったとしたら。この世界に、オレの傍に君は居てくれるのだろうか。
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