第一章
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
20.対峙
あっ、と零した声と共に右手の先からハードカバーの本がするりと逃げ出した。本棚の一番上に収めようとつま先立ちで頑張っていたのだけど。指先だけでは背表紙を押す力が足りなかった。眼前に迫りくる本と痛みを身構えて目を瞑る。けれども痛みは一向に来る様子がない。分厚い本の角がぶつかった感覚もない。閉じていた目を開けると真紅の袖が視界に入った。礼装用の手袋を嵌めた白い手にその本が受け止められている。
香水に似た匂いが鼻先にふわりと触れた。ラベンダーの様な優しい甘い香り。普段と違う香りだ。いつもは柑橘系にムスクを混ぜたようなさっぱりとした香りを纏っている。
それが珍しいなと思いながらも、わざわざ書斎机からピンチを救ってくれたボルカノさんにお礼を伝えた。
「ありがとうございます。もう少しで顔に穴が空く所でした」
「届きそうもないなら声を掛けてくれ。君の顔に穴が空いてからじゃ遅い。……他の本も寄越してくれ。霧華の背じゃ足りない所ばかりだろ」
「お願いします」
左腕に抱えていた本が纏めて取り上げられてしまった。さっきの本より厚みは無いけれど、何冊ともなると重いし嵩張る。それを軽々と腕に抱えた彼は上段の棚へ本を一冊ずつ収めていく。調べ物をしていたようだから邪魔をしないようにと配慮したつもりだった。それが結局手を煩わせてしまうことに。踏み台を使えばいい話なんだろうけど、少しガタついていたから怖くて足を乗せることができなかった。
黙々と本を片付けるボルカノさんをちらと見上げてみた。どこかぼんやりとした目をしている。昨夜は遅かったんだろうか。いつもの眼差しに覇気が無いように思えた。
ボルカノさんを含め怪我を負っていた彼らは完治するかしないかのうちに日常を取り戻した。体温が高いと新陳代謝が活発になるという理論は流石に分かるけれど、それにしても驚異的な回復力だ。やっぱり私とこの世界の人達では体内構造とやらが違うのかもしれない。
彼も引き続き研究の傍らに既存アイテムの作成に日夜取り掛かっている。その平常に突如取り込まれたことが一つ。「食事は定時とする」と急に言い出したので何があったのか尋ねてみると「生命活動の基礎である睡眠と食事は怠ってはならない」だそうだ。当たり前のことを尤もらしく、真顔で言う姿は今思い出しても可笑しい。食事の面は今の所守られている。ただし睡眠は疎かになりがちみたいだ。
あれから言動がおかしいと思える点はまだあった。溜息が増えたし、口数も少なくなった気がする。元々お喋りさんではないのだけど。あれ、おかしいなと思えてしまう。それが心配でフェイル君に相談を持ち掛けたのに「自分で考えて」と解決策を何も提案してくれなかった。盾を奪われてしまった事、私が余計な事を話したせいではないとフォローはしてくれたけど。
そうなると私が知らない間に何かやらかしてしまったのか。自分が気づいていないうちに相手に影響を与えるとも言うし。
考えてみると心当たりが幾つかあるのを思い出してきた。もしかして皿を一枚割ってしまったのを黙っていることか。それとも奮発してちょっといい茶葉を買ってきたことか。後者は自分のバイト代から払えるものだったから、関係ないと思うけど。
「今日は天気がいいな」
私が云々と悩んでいる所へ呟かれたその一言。間が抜けてしまった。確かにこの最上階の部屋の窓から見える景色は眺めが良い。この地域は雨が少ないように思える。今日も青空がすっきりと眩しかった。
「ピクニックにでも行くか」
天気が良いから外に実験に行くか。てっきりそう続くのかと思えば耳を疑うような台詞が飛び出てくる。行楽に出かけようなどと言われるなんて思いもよらない。熱でもあるのでは。
私がその発言に長い事反応を示せずにいると、彼は不機嫌そうな声色と表情でこちらを見た。
「意外か」
「えっ?!」
「顔にそう書いてある」
「す、すみません。まさかボルカノさんの口からピクニックなんて単語が出てくるなんて思わなかったので。急にどうしたんですか?」
全ての本を所定の位置に戻し終えた彼は書斎机に戻り、椅子に腰を下ろす。その場所から窓の外へと目を向ける。町を一望のもとに見渡し、またぽつりと呟いた。
「気晴らしも必要だ。近場に見晴らしの良い場所もある。……嫌なら無理にとは言わん」
「嫌じゃないですよ。気晴らしは賛成です。根詰めてたら作業も捗らないですし……あ、それなら皆さんにも声掛けていきませんか」
どうやら私のこの提案には気乗りしないようだった。一瞬、顔が曇ったからだ。ピクニックを提案したのはそっちなのに。二人で出掛けるよりは大勢で出掛けた方が楽しいに決まってる。他者からは雰囲気が変わったと言われても、賑わうような場はやっぱり好まないんだろう。
ああ、それともこうだろうか。私がこの世界の人達と親しくなりすぎているのを気にしているのかもしれない。後が辛くなるから。でも私としてはいつか来る別れを気にして親しい人との交流を遠ざけるのは嫌だ。余計に気落ちして悲しくなってしまう。タイムリミットがあるからこそ楽しい時間を一緒に過ごしたい。
私がその時の別れを悲しむ羽目になるからと。気を使われているんだと思った。それはそれで嬉しいと感じたので私がお礼を伝えると緋色の目を丸くした。
「あまり馴染んじゃいけないのは分かってるんですけどね。いざ別れの時が来たら辛くなるのも。でも、どうせならそれまでの時間は楽しく過ごしたいなあって。ボルカノさんはそれを心配してくれてるんですよね」
外の光を含んだ緋色の色素が少し薄くなる。宙を泳いだ視線はやがて下方を向いて止まった。そして歯切れ悪く言葉を紡いできた。
「……いや。良いんじゃないか。彼奴らも君から良い影響を受けているように感じられる。鋭気も養われているようだし。……それに、君が此処での生活を気に入っているのなら、」
言い淀んでいた言葉はその先を続けないまま聞けなかった。聞き返す間もなく、強めのノックによって会話を遮られてしまう。
来客用のドアが開くより先、すっと細められた緋色の目が一点を注視する。独特な甘い香りが静かに開いたそのドアから舞い込んできた。シンプルな白いタイトなローブに身を包み、黒鳥の羽を紡いだ長いストールを肩にかけた妙齢の女性。湖畔色の髪に白い肌。ローブのスリットから覗く足が艶めかしい。赤いルージュを引いた唇が上品に微笑む。
噂の玄武術士にまさかこの館でお目にかかれるとは思いもしなかった。ウンディーネさんの後方に誰かいる。若い男弟子が二人控えているようだ。フードから覗く顔立ちは二十代前後の様に思える。
「ご機嫌よう。……お話の途中だったかしら」
「あ、いえ」
大丈夫です、と私が言うのも可笑しな話だ。彼女の視線が先ずこちらに向いたので思わずそう言いそうになる。代わりに首を横へ振り、盗み見るように朱鳥術士へ私は目を向けた。ガタン、と音をワザと立てる様に書斎机の引き出しが閉められた。ああ、これは苛立っている。
「これはこれは。魔女が自ら出向いていらっしゃるとは。盾だけに留まらず、この私の首を獲りにでも来ましたか。……無断でこの館に上がり込むとは不法侵入も甚だしい」
「許可は頂いたわ。監視役の同行を条件にね」
初っ端から喧嘩腰の彼に対し、ウンディーネさんは冷静に返している。そういえば、協調を重んじているのは彼女の方だった。だからこそ陣形技の研究にも力を入れている。思えばこの二人は正反対だ。他者から見ればどっちもどっちなんだろうけど。
監視役もとい、見慣れたローブを纏った彼の弟子が仁王立ちで彼女達を睨んでいる。
館の主はふんと鼻で笑い、来客者を睨みつける様に見据えた。それで、と静かに話を続ける。
「貴女が望んだ物は既にその御手にある筈。私に用はもう無い。……それとも、息の根を止めなければ気が済まないと?」
「そんな物騒な話をしに来た訳じゃないわ。……貴方、その喧嘩を売るような話し方止めた方がいいわよ」
「私の性分を態々否定にでも来たのか。玄武術士は暇を持て余しているようですね」
言ったそばからこれだ。彼女も呆れたのか小さな溜息をついていた。両腕を前で組み、ドアの前から一歩も動かずに彼を睨み返す。私は迂闊に口を挟むこともできず、ただ成り行きを見守るしかなかった。
「ボルカノ。貴方にはこの町を出ていってもらうわ。貴方にとってこの町に留まる理由は無いわね?今このモウゼスを統治しているのは私。権威を失った貴方に拒否権は無い」
「そちらこそ目的を果たしたのならばこの町に留まる必要はないのでは?」
「私はダメよ。バンガードに弟子を派遣しているの。事が終わるまでは動けないわ」
両者とも一歩も譲らない。彼女の口ぶりからしてバンガードはそろそろ陸から離れる頃に違いない。そしてそれが終わるまでとは、フォルネウスの分身を倒すまで。英雄達がすぐにアビスゲートを閉じに行けばいいけれど、世界をどう回っていくのかまでは読めない。とりあえずバンガードに玄武術士を集めておいて、先に火術要塞へ向かう事も考えられる。
「若しも断るというのなら、さっきの話は撤回。……目障りだから今度こそ消えてもらう。盾の力を手にした私に今の貴方が敵うか、試してみる?」
「流石、玄武術士を束ねる御方。この数日で盾の解析が終わったようで。……その脅しに屈するわけではないが、丁度必要な文献を探しに行こうと思っていた所だ。明々後日には此処を出て行きましょう」
「そう。それなら良いわ。……貴方の所の弟子を何人かなら引き取ってあげてもいいわよ」
「御冗談を。奴等にもなすべき事があるのでね。その心遣いだけでも感謝致そう」
「残念。気が変わったら声を掛けて頂戴。……それと、そこの貴女」
売り言葉に買い言葉。私は固唾を飲みながら静かに繰り広げられる応酬を見守っていた。そこへ突如矛先を向けられる。俄かに身体が固まりそうになり、下手な事は言えないぞと言い聞かせて身構える。
一瞥した彼女の視線が冷たい物に変わり、書斎机の方へ向けられた。
「悪いことは言わない。こんな男、止めておきなさい」
「え、えっと…」
その言葉の意味を理解するまでに時間を要していた。頼るのは止めておけという意味なんだろうか。もしそうだとしたら、彼女に私がこの世界の人間ではない事がバレているのだろうか。返答に困っていると、すかさず横から彼が口を挟んできた。
「何を勘違いしているかは知りませんが……彼女は私の助手。貴女が口出しするような事ではない」
「あら、そう。本当に唯の助手なのかしらね」
「何が言いたい」
彼の口から出た地を這うような声に思わず肩がびくりとした。先程とは打って変わって厳しい視線で彼女を睨みつけている。その反応を楽しむかのように赤い唇が三日月の様に微笑んだ。
「まあ、いいわ。それなら私がお節介をしても構わないでしょう。貴方が今までにしてきた事、彼女も知っておいた方がいいわ。よく覚えておきなさい。この術士は自分の研究にそぐわないと分かれば直ぐに捨てる。そういう男よ。利用するだけ利用してね」
「……黙れウンディーネ」
「だって事実でしょう?貴方のせいでどれだけの助手と銘打った女性が涙を流してきたか。もっとマシな朱鳥術士はいる。傷つく前にその男から離れなさい。最初で最後の私からの忠告よ」
空気がピリピリと張り詰めていた。それが肌を刺す様に痛い。このまま戦闘モードに入ってしまうのでは。背後に控えている二人の弟子達は即座に動けるように態勢を整えているようだった。北と南の術士の決闘を急にここで行われても困る。私は彼女の挑発に乗ってしまわないかとハラハラしていた。
でもどうやらその心配は要らなかったようで。彼は一度瞑った目をゆっくりと開き階段へ続く後方へと目を向けた。
「用件はもう済んだのでしょう。……フェイル、下まで送って差し上げろ」
「はい」
師の命に従った彼は玄武術士達を引き連れて階段を下りていった。後に残された香水の香り。嫌な調香ではないんだけど、なんとなく後味を悪くさせる。
時が止まってしまったように、私もボルカノさんもその場から動こうとしなかった。二人が面と向かって会話しているのを初めて聞いた。自分が思っていた以上に一触即発の状態。犬猿の仲と呼ぶには少々可愛すぎる。術単体で考える分には補い合う必要はあるんだろうけど、人間同士だと相性が伴うから難しいのかもしれない。
がたりと椅子を引く音がした。彼は真紅の外套を手に引っ掛けて、一階直通の階段フロアへ向かう。
「少し外の空気を吸ってくる」そう言い残した彼の表情を見る事はできなかった。
あっ、と零した声と共に右手の先からハードカバーの本がするりと逃げ出した。本棚の一番上に収めようとつま先立ちで頑張っていたのだけど。指先だけでは背表紙を押す力が足りなかった。眼前に迫りくる本と痛みを身構えて目を瞑る。けれども痛みは一向に来る様子がない。分厚い本の角がぶつかった感覚もない。閉じていた目を開けると真紅の袖が視界に入った。礼装用の手袋を嵌めた白い手にその本が受け止められている。
香水に似た匂いが鼻先にふわりと触れた。ラベンダーの様な優しい甘い香り。普段と違う香りだ。いつもは柑橘系にムスクを混ぜたようなさっぱりとした香りを纏っている。
それが珍しいなと思いながらも、わざわざ書斎机からピンチを救ってくれたボルカノさんにお礼を伝えた。
「ありがとうございます。もう少しで顔に穴が空く所でした」
「届きそうもないなら声を掛けてくれ。君の顔に穴が空いてからじゃ遅い。……他の本も寄越してくれ。霧華の背じゃ足りない所ばかりだろ」
「お願いします」
左腕に抱えていた本が纏めて取り上げられてしまった。さっきの本より厚みは無いけれど、何冊ともなると重いし嵩張る。それを軽々と腕に抱えた彼は上段の棚へ本を一冊ずつ収めていく。調べ物をしていたようだから邪魔をしないようにと配慮したつもりだった。それが結局手を煩わせてしまうことに。踏み台を使えばいい話なんだろうけど、少しガタついていたから怖くて足を乗せることができなかった。
黙々と本を片付けるボルカノさんをちらと見上げてみた。どこかぼんやりとした目をしている。昨夜は遅かったんだろうか。いつもの眼差しに覇気が無いように思えた。
ボルカノさんを含め怪我を負っていた彼らは完治するかしないかのうちに日常を取り戻した。体温が高いと新陳代謝が活発になるという理論は流石に分かるけれど、それにしても驚異的な回復力だ。やっぱり私とこの世界の人達では体内構造とやらが違うのかもしれない。
彼も引き続き研究の傍らに既存アイテムの作成に日夜取り掛かっている。その平常に突如取り込まれたことが一つ。「食事は定時とする」と急に言い出したので何があったのか尋ねてみると「生命活動の基礎である睡眠と食事は怠ってはならない」だそうだ。当たり前のことを尤もらしく、真顔で言う姿は今思い出しても可笑しい。食事の面は今の所守られている。ただし睡眠は疎かになりがちみたいだ。
あれから言動がおかしいと思える点はまだあった。溜息が増えたし、口数も少なくなった気がする。元々お喋りさんではないのだけど。あれ、おかしいなと思えてしまう。それが心配でフェイル君に相談を持ち掛けたのに「自分で考えて」と解決策を何も提案してくれなかった。盾を奪われてしまった事、私が余計な事を話したせいではないとフォローはしてくれたけど。
そうなると私が知らない間に何かやらかしてしまったのか。自分が気づいていないうちに相手に影響を与えるとも言うし。
考えてみると心当たりが幾つかあるのを思い出してきた。もしかして皿を一枚割ってしまったのを黙っていることか。それとも奮発してちょっといい茶葉を買ってきたことか。後者は自分のバイト代から払えるものだったから、関係ないと思うけど。
「今日は天気がいいな」
私が云々と悩んでいる所へ呟かれたその一言。間が抜けてしまった。確かにこの最上階の部屋の窓から見える景色は眺めが良い。この地域は雨が少ないように思える。今日も青空がすっきりと眩しかった。
「ピクニックにでも行くか」
天気が良いから外に実験に行くか。てっきりそう続くのかと思えば耳を疑うような台詞が飛び出てくる。行楽に出かけようなどと言われるなんて思いもよらない。熱でもあるのでは。
私がその発言に長い事反応を示せずにいると、彼は不機嫌そうな声色と表情でこちらを見た。
「意外か」
「えっ?!」
「顔にそう書いてある」
「す、すみません。まさかボルカノさんの口からピクニックなんて単語が出てくるなんて思わなかったので。急にどうしたんですか?」
全ての本を所定の位置に戻し終えた彼は書斎机に戻り、椅子に腰を下ろす。その場所から窓の外へと目を向ける。町を一望のもとに見渡し、またぽつりと呟いた。
「気晴らしも必要だ。近場に見晴らしの良い場所もある。……嫌なら無理にとは言わん」
「嫌じゃないですよ。気晴らしは賛成です。根詰めてたら作業も捗らないですし……あ、それなら皆さんにも声掛けていきませんか」
どうやら私のこの提案には気乗りしないようだった。一瞬、顔が曇ったからだ。ピクニックを提案したのはそっちなのに。二人で出掛けるよりは大勢で出掛けた方が楽しいに決まってる。他者からは雰囲気が変わったと言われても、賑わうような場はやっぱり好まないんだろう。
ああ、それともこうだろうか。私がこの世界の人達と親しくなりすぎているのを気にしているのかもしれない。後が辛くなるから。でも私としてはいつか来る別れを気にして親しい人との交流を遠ざけるのは嫌だ。余計に気落ちして悲しくなってしまう。タイムリミットがあるからこそ楽しい時間を一緒に過ごしたい。
私がその時の別れを悲しむ羽目になるからと。気を使われているんだと思った。それはそれで嬉しいと感じたので私がお礼を伝えると緋色の目を丸くした。
「あまり馴染んじゃいけないのは分かってるんですけどね。いざ別れの時が来たら辛くなるのも。でも、どうせならそれまでの時間は楽しく過ごしたいなあって。ボルカノさんはそれを心配してくれてるんですよね」
外の光を含んだ緋色の色素が少し薄くなる。宙を泳いだ視線はやがて下方を向いて止まった。そして歯切れ悪く言葉を紡いできた。
「……いや。良いんじゃないか。彼奴らも君から良い影響を受けているように感じられる。鋭気も養われているようだし。……それに、君が此処での生活を気に入っているのなら、」
言い淀んでいた言葉はその先を続けないまま聞けなかった。聞き返す間もなく、強めのノックによって会話を遮られてしまう。
来客用のドアが開くより先、すっと細められた緋色の目が一点を注視する。独特な甘い香りが静かに開いたそのドアから舞い込んできた。シンプルな白いタイトなローブに身を包み、黒鳥の羽を紡いだ長いストールを肩にかけた妙齢の女性。湖畔色の髪に白い肌。ローブのスリットから覗く足が艶めかしい。赤いルージュを引いた唇が上品に微笑む。
噂の玄武術士にまさかこの館でお目にかかれるとは思いもしなかった。ウンディーネさんの後方に誰かいる。若い男弟子が二人控えているようだ。フードから覗く顔立ちは二十代前後の様に思える。
「ご機嫌よう。……お話の途中だったかしら」
「あ、いえ」
大丈夫です、と私が言うのも可笑しな話だ。彼女の視線が先ずこちらに向いたので思わずそう言いそうになる。代わりに首を横へ振り、盗み見るように朱鳥術士へ私は目を向けた。ガタン、と音をワザと立てる様に書斎机の引き出しが閉められた。ああ、これは苛立っている。
「これはこれは。魔女が自ら出向いていらっしゃるとは。盾だけに留まらず、この私の首を獲りにでも来ましたか。……無断でこの館に上がり込むとは不法侵入も甚だしい」
「許可は頂いたわ。監視役の同行を条件にね」
初っ端から喧嘩腰の彼に対し、ウンディーネさんは冷静に返している。そういえば、協調を重んじているのは彼女の方だった。だからこそ陣形技の研究にも力を入れている。思えばこの二人は正反対だ。他者から見ればどっちもどっちなんだろうけど。
監視役もとい、見慣れたローブを纏った彼の弟子が仁王立ちで彼女達を睨んでいる。
館の主はふんと鼻で笑い、来客者を睨みつける様に見据えた。それで、と静かに話を続ける。
「貴女が望んだ物は既にその御手にある筈。私に用はもう無い。……それとも、息の根を止めなければ気が済まないと?」
「そんな物騒な話をしに来た訳じゃないわ。……貴方、その喧嘩を売るような話し方止めた方がいいわよ」
「私の性分を態々否定にでも来たのか。玄武術士は暇を持て余しているようですね」
言ったそばからこれだ。彼女も呆れたのか小さな溜息をついていた。両腕を前で組み、ドアの前から一歩も動かずに彼を睨み返す。私は迂闊に口を挟むこともできず、ただ成り行きを見守るしかなかった。
「ボルカノ。貴方にはこの町を出ていってもらうわ。貴方にとってこの町に留まる理由は無いわね?今このモウゼスを統治しているのは私。権威を失った貴方に拒否権は無い」
「そちらこそ目的を果たしたのならばこの町に留まる必要はないのでは?」
「私はダメよ。バンガードに弟子を派遣しているの。事が終わるまでは動けないわ」
両者とも一歩も譲らない。彼女の口ぶりからしてバンガードはそろそろ陸から離れる頃に違いない。そしてそれが終わるまでとは、フォルネウスの分身を倒すまで。英雄達がすぐにアビスゲートを閉じに行けばいいけれど、世界をどう回っていくのかまでは読めない。とりあえずバンガードに玄武術士を集めておいて、先に火術要塞へ向かう事も考えられる。
「若しも断るというのなら、さっきの話は撤回。……目障りだから今度こそ消えてもらう。盾の力を手にした私に今の貴方が敵うか、試してみる?」
「流石、玄武術士を束ねる御方。この数日で盾の解析が終わったようで。……その脅しに屈するわけではないが、丁度必要な文献を探しに行こうと思っていた所だ。明々後日には此処を出て行きましょう」
「そう。それなら良いわ。……貴方の所の弟子を何人かなら引き取ってあげてもいいわよ」
「御冗談を。奴等にもなすべき事があるのでね。その心遣いだけでも感謝致そう」
「残念。気が変わったら声を掛けて頂戴。……それと、そこの貴女」
売り言葉に買い言葉。私は固唾を飲みながら静かに繰り広げられる応酬を見守っていた。そこへ突如矛先を向けられる。俄かに身体が固まりそうになり、下手な事は言えないぞと言い聞かせて身構える。
一瞥した彼女の視線が冷たい物に変わり、書斎机の方へ向けられた。
「悪いことは言わない。こんな男、止めておきなさい」
「え、えっと…」
その言葉の意味を理解するまでに時間を要していた。頼るのは止めておけという意味なんだろうか。もしそうだとしたら、彼女に私がこの世界の人間ではない事がバレているのだろうか。返答に困っていると、すかさず横から彼が口を挟んできた。
「何を勘違いしているかは知りませんが……彼女は私の助手。貴女が口出しするような事ではない」
「あら、そう。本当に唯の助手なのかしらね」
「何が言いたい」
彼の口から出た地を這うような声に思わず肩がびくりとした。先程とは打って変わって厳しい視線で彼女を睨みつけている。その反応を楽しむかのように赤い唇が三日月の様に微笑んだ。
「まあ、いいわ。それなら私がお節介をしても構わないでしょう。貴方が今までにしてきた事、彼女も知っておいた方がいいわ。よく覚えておきなさい。この術士は自分の研究にそぐわないと分かれば直ぐに捨てる。そういう男よ。利用するだけ利用してね」
「……黙れウンディーネ」
「だって事実でしょう?貴方のせいでどれだけの助手と銘打った女性が涙を流してきたか。もっとマシな朱鳥術士はいる。傷つく前にその男から離れなさい。最初で最後の私からの忠告よ」
空気がピリピリと張り詰めていた。それが肌を刺す様に痛い。このまま戦闘モードに入ってしまうのでは。背後に控えている二人の弟子達は即座に動けるように態勢を整えているようだった。北と南の術士の決闘を急にここで行われても困る。私は彼女の挑発に乗ってしまわないかとハラハラしていた。
でもどうやらその心配は要らなかったようで。彼は一度瞑った目をゆっくりと開き階段へ続く後方へと目を向けた。
「用件はもう済んだのでしょう。……フェイル、下まで送って差し上げろ」
「はい」
師の命に従った彼は玄武術士達を引き連れて階段を下りていった。後に残された香水の香り。嫌な調香ではないんだけど、なんとなく後味を悪くさせる。
時が止まってしまったように、私もボルカノさんもその場から動こうとしなかった。二人が面と向かって会話しているのを初めて聞いた。自分が思っていた以上に一触即発の状態。犬猿の仲と呼ぶには少々可愛すぎる。術単体で考える分には補い合う必要はあるんだろうけど、人間同士だと相性が伴うから難しいのかもしれない。
がたりと椅子を引く音がした。彼は真紅の外套を手に引っ掛けて、一階直通の階段フロアへ向かう。
「少し外の空気を吸ってくる」そう言い残した彼の表情を見る事はできなかった。