第一章
名前変換
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
18.繋ぎ止めたいもの
『恋とは一瞬で落ちるものだ』
バンガードタイムズの広告で謳われていた文句。いつだったか偶然目にしたもので、それが何の媒体だったか。本か芝居だったような気もする。如何せん馬鹿げた常套句だ。そう嗤っていた過去を自ら嘲笑う事になるとはゆめゆめ思うまい。
一先ず胸のわだかまりが解けたのはいい。だがその先に続く感情が問題だ。本の内容が全く頭に入らない程に重症と化している。微熱程度と軽く見ていたのが間違いだった。何気ない表情、仕草にいとも容易く感情を乱され翻弄される。今までどう接していたかすら思い出せないほどだ。
書斎机に広げた書物を幾つか見比べ、アビスに関する文献を纏めていた。過去に起きた二度の死食。その際に君臨した魔王、聖王。魔王時代に開かれたアビスゲートはその後聖王と十二将により閉じられた。聖王三傑の一人、玄武術士のヴァッサールはこのモウゼスとも深い関係がある。町の北半分が玄武術士で占めているのはその影響だとも言われていた。
三度起きた死食によってアビスゲートが開かれようとしている。そのゲートを後に英雄と呼ばれる者達が各地を訪れて閉じていると。彼女はそう話していた。
魔王、聖王時代に遺された文献に何か手がかりはないかと探していたのだが。召喚術に関する情報は雀の涙ほど。此処にある文献だけでは満足に分析もできない。送還術を確立させるためにはやはり、この町に留まり続けるのは得策ではない。
召喚術の開発に取り組んでいたと言えば聞こえは良い。だが過ちを犯したことに変わりはない。意図せずに呼び出してしまった以上、送り返す義務が生じる。自ら招いた不祥事は自らが片をつけなければ。
嗚呼、そうだ。彼女はいずれこの世界から居なくなる。元の世界へ還る。そんな相手に恋慕を抱くなどどうかしているではないか。元より叶わぬ想い。己の一方的な我儘でこの世界に縛り付けるのは御法度。最初から実らない恋だ。
いつの日か還ってしまう。目の前から消えて、居なくなる。そうなればあの声も聞けなくなり、笑った表情も見れなくなる。二度とだ。頭では分かってはいる。それなのに、そう考えただけで締め付けられるような胸の痛みを訴える。どうして割り切れないのか。
アビスゲートに関する記述を追っていた目を静かに閉じた。組んだ手指の上に額を乗せる。肺に溜め込んでいた息を静かに吐き出した時だ。ばたばたと階段を駆け上がってくる足音が一つ。それだけでただ事ではない状況だと軽く把握できる。通常の出入口へと重い頭を向けた。間もなくしてドアが乱雑に開け放たれ、血相を変えた弟子が飛び込んでくる。フェイルが息を弾ませながら口を開くと同時に今度は反対側の出入り口が開け放たれた。揃いも揃って何なんだ。
「ボルカノ様!霧華さんが倒れましたっ!」
「倒れてませんっ!フェイル君、大袈裟なのよ!」
「あっ、霧華さんそれ反則だろ!これじゃあオレが嘘つきに来たみたいじゃないか!そっちの階段使われたらどんだけ急いだって敵うワケがないっての!」
「ちょっと眩暈がしてふらついただけじゃない!わざわざ報せる様な事じゃないし!」
暖炉二つを挟んでの応酬は止めなければいつまで続きそうな気配だ。騒ぎ立てる二人の声に頭が痛くなる前に傍観を止め、咳払いを態と聞こえるように一つ。途端に二つの視線がこちらを向いた。下手な事を言えばこちらまで噛みつかれそうだ。
「あー……分かった。分かったから二人とも落ち着け。霧華、体調が優れないならもう休んでくれ。フェイル、報告ご苦労。下がっていいぞ」
これではまるで姉弟喧嘩の仲裁ではないか。どちらかと言えば弟子の肩を持つような形になったが、眩暈を感じる程の体調不良ならば身を休めて欲しいのが本音。だが、オレの思惑は伝わらなかったようで、双方納得がいかないと口を尖らせたままでいた。やがてフェイルの方が渋々と「分かりました」と食い下がる。が、不満気な表情でこちらを見ていた。
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「ボルカノ様。オレもそっちの近道使いたいです」
「駄目だ。地術の基盤は体力。修行だと思って昇降しろ」
「分かりました」
素直な返答ではあるが、完全に不満を残している目。踵を返し、元来た階段フロアへ向かおうとするが何か思い出したように彼女の方へ振り向いた。
「下はオレが片付けておくから、姉ちゃんはちゃんと休ん……霧華さんは休んでくださいよ!」
相手の呼称を間違えたのが流石に恥ずかしかったのだろう。慌てて訂正して言い直すも、顔は赤く染まっていた。来た時と同じように階段をバタバタと駆け下りていく。
姉と呼び間違われた彼女は可笑しそうに笑みを零していた。先程までのやり取りなどすっかり忘れてしまったように晴れやかな様子だ。こちらの気など知らずに。
「本当に姉弟みたいなやり取りをする」
「…ふふ。それだけ慕われてるのかな。他のみんなも気兼ねなく話してくれるようになったし、私としては良いんですけどね」
「最近あいつらが軽口を叩くようになったのは君の影響か」
「えっ。そんな事まで私のせいにしないでくださいよ。ボルカノさんが変わったからじゃないですか」
「オレが、変わった…?」
彼女が此処へ来てからというものの、弟子の態度が一変した。最低限の会話しか無かったのが、最近では無駄に話しかけてくる。研究の進み具合はどうだとか、何か使いは無いかなど。挙句の果てには今日は天気が良いから遠出してきますと要らぬ報告までしてくるようになった。その変化を与えたのは自分自身が変わったからだと。そうは言うが、特段これと言った変化を自分では実感が湧かない。
「話しかけやすいってのは良い事ですよ。……あ、それじゃあ私も下に行って」
「待て」
何事も無かったように下へ行こうとする。今さっき、休めと言ったのが聞こえなかったのか。引き留める為にその手首を掴んだ時、あまりの細さにひやりとした。どうして気が付かなかった。いつからまともに食事を摂っていない。
掴んだ手を放さずにいれば、白々しくもどうしたのかと尋ねてくる。
「……異常を感じたら直ぐに言えと、最初にそう伝えたはずだ」
自分が気づかなかった事を責任転嫁してどうなるというのか。最初こそは気にかけていたというのに。ある日を境にしてそれが疎かになってしまった。あの男が襲来してからだ。嗚呼、そうだ。盾の入手が実現できそうだと、現を抜かしていたから。己の不甲斐なさが惨めでしかない。
「さ、さっきのは…その。ちょっとふらーってしただけで」
「彼奴らには体調不良を訴えることができて、オレにはできないと?」
「そういうワケじゃ」
困惑の色と共に薄い笑みを浮かべた彼女の表情が僅かに歪む。刹那、体が支えを失って傾いた。引き寄せて腕の中に収まった体はこんなにも小さかっただろうか。彼女はきまりの悪そうに「すみません」と力なく呟く。まだ眩暈を起こしているのか暫く目を瞑っていた。
「……これで言い訳は利かん。頼むから大人しく休んでくれないか」
抱え上げた体はやはり軽かった。魔物の群を討伐したあの時よりもだ。
僅かな距離ですら慎重に移動し、ベッドにゆっくりと下ろす。自分から靴を脱いでベッドの中に潜り込んだので、その肩までブランケットを引き寄せた。洗いあがりのそれから石鹸の香りがすると言う。
彼女の頬に手を当てると、熱が引いていた。体温が低下している。この掌の体温が心地よいのか、猫の様にぴたりと摺り寄せてきた。
「手、あったかいですね」
「君の体温が下がり過ぎているんだ。……食事も睡眠も疎かになったのはオレのせいだ。すまない」
「え、……別にボルカノさんが謝る必要ないと思うんですけど。私が気にしすぎな性格で、ストレスに弱いからですよ。考えすぎる癖があって。これでも昔から比べたらだいぶマシになった方なんです。ボルカノさんには色々お世話になってるし、余計な迷惑は掛けられないなって…思ってただけで」
だから全然悪くない。彼女はそう言った。まただ。どうしてオレを責めようとしないのか。こちらに非があるにも関わらず、それを庇おうとする。その気遣いが余計に棘となって突き刺さってくる。いっそ罵声を浴びせてくれた方がいい。
手近に置かれていた丸椅子を引き寄せ、そこへ腰を下ろす。歪みが出ているようで重心をずらせば傾いてしまう。
「どうして」胸中でそう呟いた筈の言葉が意図せず吐き出されていた。触れている頬を伝った涙の温度がまだこの掌に残っているような気さえした。
「オレを責めないんだ、君は。一連の件からどう考えても非はこちら側にあるんだ。……それに迷惑だなんて思っていない。もっと頼ってくれてもいい。尤も、オレが頼りにならないというのなら……話は別だ」
「そっそんなこと無いです。めちゃくちゃ頼りにしてますよ。だって私、此処の世界で頼りになる人ボルカノさんしか居ないし…。それを責めるだなんて私にはできないです」
オレは今、どんな表情をしているのだろうか。彼女の心が離れていないと分かっただけで充分だった。安堵の色に染まっているには違いない。
血色の悪い目元を指の腹でなぞるとくすぐったいのか目を細めた。
「それなら今後は一人で抱え込まないでくれ。君の事情を知っている相手が居るならば、少しは心強いだろう。何か問題が生じたとしても一人で考えるよりは解決策が浮かぶはずだ。……もう疑ったりはしない」
この世界の道標を知っている。それだけで彼女に負荷がかかるのなら、一人で抱え込むよりは幾分かマシになる筈だ。心身共に壊れてしまいかねない。少しでも拠り所があれば。今回の様な事を二度と起こさせはしない。
「私の話、信じてくれるんですか。……ほんとに?」
「ああ。君の事を信じる」
微睡んでいた瞳がこちらを見上げる。次第に和らいでいった表情に思わず胸が高鳴る。
「ありがとうございます。……実は気が気じゃなくて。その時私に何ができるんだろうって…色々考えてたら正直発狂するかと思ってました」
「……本当にすまなかった」
「いーですよ。結果的にボルカノさん助かったんだし。形はちょっと違うけど、私の望んだ未来でした。唯、これからどうなるのかなって。…懲りずにまた刺客が来るんじゃないかとか…考えたらキリないですけど」
「そうだな。キリが無い。いずれにしろ物事が起こる前に予兆は必ず現れる。その時に対処すればいいだけだ。……それと今後はあんな真似は止してくれ。オレを庇うような真似は」
「……出しゃばってすみませんでした」
「咎めている訳じゃない。……守られてばかりではこちらが恰好悪いだろ」
二度と醜態を晒さないよう己の術を磨かなければ。そして次に彼女が窮地に陥った時は守る。必ずだ。
「そんな事気にしているのか」と軽く笑うが、オレにとっては重大な事だ。が、自分で口にしておいて恥ずかしくなってきた。
椅子から腰を浮かせ、書棚の方へ目を向けた。陣を描くだけの量はまだ残っているはずだ。
「少し下へ行ってくる」
「あ、はい」
「君の助言を元にこの館一帯に結界を張る。不法侵入者を防ぐ為にな。そうした方が安心して休める」
何をしに下へ行くのかと聞きたそうにしていたので、その場で口元に弧を描いてみせた。
◇◆◇
ロビーにいた弟子を集め、館を囲む様に配置。建物周囲に結界石を砕いて固めたもので魔法陣を描く。最後の線を繋ぎ終えた後、天術に長けているフェイルに声を掛けた。足元に描いた六芒星の陣。その中央に立たせる。赤い宝玉の付いた身の丈程の杖を手の内でくるりと回し、やる気に満ちた余裕の表情。その杖には六角形のタリスマンが四つ提げられていた。
「結界を張るのは久しぶりですね。こっちは準備オーケーですよ」
「天術の要はお前だ。……よし、始めろ」
六芒星の陣に足を踏み入れないよう半歩下がり、片手を上げて各ポイントに配置した弟子に合図を送る。杖を水平に構えた中心核の弟子が術の詠唱を始めた。
「南方の守護を司る聖獣、大気の流れを此処に集らせよ。遥か彼方の月より注がれし光を授けん。今、天と地を紡ぎ合わせその加護を与えよ。大地に生を受ける者総てに安らぎを」
天術と地術の掛け合わせによる結界術。成功例はまだ数える程度だ。術を補う為に結界石で魔法陣を描いた。こうすることでより安定した強力な結界を張る事が可能になる。
宝玉とタリスマンに光が宿る。描いた陣が同時に発光を始め、その線から真っすぐに赤い光の壁が伸びていく。それに続き今度は眩い白い光が追いかける。やがてその光の点は塔の頂点に達して繋ぎ合わせられた。どうやら上手くいったようだ。
詠唱を終わらせたフェイルが長い溜息をつく。相当な集中力を必要とするこの術に他の連中も疲労の色を見せているようだ。
「腕を上げたな」
「え、ホントですか?……へへっ。オレ達だって日々努力してますからね」
「これなら三日間は持つ」
「前は一日も持たなかったですからね。ま、こういう補助の術は誰かを守りたいっていう気持ちが強ければ強いほど上手く行くもんですよね」
「精神力を必要とする天術には重要な事だ」
「ボルカノ様も加わった方が良かったんじゃないですか?一番その気持ち強そうだし」
タリスマンの様子を見ながらフェイルがそう呟いた。同胞の形見であるそれに異常が無い事を確かめてから、こちらを見る。ニヤついた顔に些か腹が立った。
「……何を」
「ボルカノ様って素直じゃないですよね。…まあ、オレ達も霧華さんを守りたいっていう気持ち、負けずに強いですから」
「……」
「あれ、妬いてます?」
「随分と大口を叩くようになったな…?お前には基礎、礼儀を再度叩き込んだ方がいいようだ」
「口が過ぎました。反省しております」
恭しく頭を下げる姿に溜息が出る。全く都合の良い口と性格をしている。
◇◆◇
自室へ戻る際、物音を極力立てないように気を払っていた。眠っている所を起こしては悪い。静寂に包まれた室内を静かに歩き、ベッドに近づいていく。目を閉じていた筈の彼女は気配に気が付いたのか、薄っすらと目を開いた。
「起こしてしまったか。気にせず眠るといい」
「……おわったんですか」
「ああ。弟子を集めて結界を施した。この館に近づける者はいない。だから安心して休むといい」
夢現で話を聞いていた彼女はすっと眠りに落ちていった。先程よりも顔色が幾分か良い。結界の効果が現れているようだ。この分なら体調も直ぐに安定するだろう。
自然と伸びていた手が頭を撫でていた。柔らかい髪だ。それは細い絹糸の様な手触りで、滑るように指の間から逃げていく。ふと、赤みを差した唇に目が留まった。あの事は絶対に知られてはいけない。他に手段は無かったのかと軽蔑されるに決まっている。
ずっと触れていたい気もしたが、余計な気を起こしそうなのでこの場から離れようとした。だが、急にベッド側へと引っ張られる。なんだと振り返れば、肩から提げているストラの端を彼女に掴まれていた。用があるのかと思い、彼女の顔を見るが本人は目を瞑ったままで、寝息も立てている。無意識のうちに掴んだのか。
このままでは身動きが取れない。単にストラだけを外してしまえばいいだけの話だった。だが、そこまで頭が回らなかった。その手から直接解こうと、彼女の指に触れてしまったのが間違いだ。ストラを掴む力は緩められたが、その手が今度は近くにあったオレの手を掴む。本能的に温もりを求めていたのか、片手のみならず寝返りを打って両手で包み込んできた。完全に身動きが取れなくなったじゃないか。
十数秒前の自分に腹を立てても意味が無い。それに、彼女がこの手を掴む事を望んでくれるのならば。それを振り払うような真似はしたくなかった。
『恋とは一瞬で落ちるものだ』
バンガードタイムズの広告で謳われていた文句。いつだったか偶然目にしたもので、それが何の媒体だったか。本か芝居だったような気もする。如何せん馬鹿げた常套句だ。そう嗤っていた過去を自ら嘲笑う事になるとはゆめゆめ思うまい。
一先ず胸のわだかまりが解けたのはいい。だがその先に続く感情が問題だ。本の内容が全く頭に入らない程に重症と化している。微熱程度と軽く見ていたのが間違いだった。何気ない表情、仕草にいとも容易く感情を乱され翻弄される。今までどう接していたかすら思い出せないほどだ。
書斎机に広げた書物を幾つか見比べ、アビスに関する文献を纏めていた。過去に起きた二度の死食。その際に君臨した魔王、聖王。魔王時代に開かれたアビスゲートはその後聖王と十二将により閉じられた。聖王三傑の一人、玄武術士のヴァッサールはこのモウゼスとも深い関係がある。町の北半分が玄武術士で占めているのはその影響だとも言われていた。
三度起きた死食によってアビスゲートが開かれようとしている。そのゲートを後に英雄と呼ばれる者達が各地を訪れて閉じていると。彼女はそう話していた。
魔王、聖王時代に遺された文献に何か手がかりはないかと探していたのだが。召喚術に関する情報は雀の涙ほど。此処にある文献だけでは満足に分析もできない。送還術を確立させるためにはやはり、この町に留まり続けるのは得策ではない。
召喚術の開発に取り組んでいたと言えば聞こえは良い。だが過ちを犯したことに変わりはない。意図せずに呼び出してしまった以上、送り返す義務が生じる。自ら招いた不祥事は自らが片をつけなければ。
嗚呼、そうだ。彼女はいずれこの世界から居なくなる。元の世界へ還る。そんな相手に恋慕を抱くなどどうかしているではないか。元より叶わぬ想い。己の一方的な我儘でこの世界に縛り付けるのは御法度。最初から実らない恋だ。
いつの日か還ってしまう。目の前から消えて、居なくなる。そうなればあの声も聞けなくなり、笑った表情も見れなくなる。二度とだ。頭では分かってはいる。それなのに、そう考えただけで締め付けられるような胸の痛みを訴える。どうして割り切れないのか。
アビスゲートに関する記述を追っていた目を静かに閉じた。組んだ手指の上に額を乗せる。肺に溜め込んでいた息を静かに吐き出した時だ。ばたばたと階段を駆け上がってくる足音が一つ。それだけでただ事ではない状況だと軽く把握できる。通常の出入口へと重い頭を向けた。間もなくしてドアが乱雑に開け放たれ、血相を変えた弟子が飛び込んでくる。フェイルが息を弾ませながら口を開くと同時に今度は反対側の出入り口が開け放たれた。揃いも揃って何なんだ。
「ボルカノ様!霧華さんが倒れましたっ!」
「倒れてませんっ!フェイル君、大袈裟なのよ!」
「あっ、霧華さんそれ反則だろ!これじゃあオレが嘘つきに来たみたいじゃないか!そっちの階段使われたらどんだけ急いだって敵うワケがないっての!」
「ちょっと眩暈がしてふらついただけじゃない!わざわざ報せる様な事じゃないし!」
暖炉二つを挟んでの応酬は止めなければいつまで続きそうな気配だ。騒ぎ立てる二人の声に頭が痛くなる前に傍観を止め、咳払いを態と聞こえるように一つ。途端に二つの視線がこちらを向いた。下手な事を言えばこちらまで噛みつかれそうだ。
「あー……分かった。分かったから二人とも落ち着け。霧華、体調が優れないならもう休んでくれ。フェイル、報告ご苦労。下がっていいぞ」
これではまるで姉弟喧嘩の仲裁ではないか。どちらかと言えば弟子の肩を持つような形になったが、眩暈を感じる程の体調不良ならば身を休めて欲しいのが本音。だが、オレの思惑は伝わらなかったようで、双方納得がいかないと口を尖らせたままでいた。やがてフェイルの方が渋々と「分かりました」と食い下がる。が、不満気な表情でこちらを見ていた。
「なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「ボルカノ様。オレもそっちの近道使いたいです」
「駄目だ。地術の基盤は体力。修行だと思って昇降しろ」
「分かりました」
素直な返答ではあるが、完全に不満を残している目。踵を返し、元来た階段フロアへ向かおうとするが何か思い出したように彼女の方へ振り向いた。
「下はオレが片付けておくから、姉ちゃんはちゃんと休ん……霧華さんは休んでくださいよ!」
相手の呼称を間違えたのが流石に恥ずかしかったのだろう。慌てて訂正して言い直すも、顔は赤く染まっていた。来た時と同じように階段をバタバタと駆け下りていく。
姉と呼び間違われた彼女は可笑しそうに笑みを零していた。先程までのやり取りなどすっかり忘れてしまったように晴れやかな様子だ。こちらの気など知らずに。
「本当に姉弟みたいなやり取りをする」
「…ふふ。それだけ慕われてるのかな。他のみんなも気兼ねなく話してくれるようになったし、私としては良いんですけどね」
「最近あいつらが軽口を叩くようになったのは君の影響か」
「えっ。そんな事まで私のせいにしないでくださいよ。ボルカノさんが変わったからじゃないですか」
「オレが、変わった…?」
彼女が此処へ来てからというものの、弟子の態度が一変した。最低限の会話しか無かったのが、最近では無駄に話しかけてくる。研究の進み具合はどうだとか、何か使いは無いかなど。挙句の果てには今日は天気が良いから遠出してきますと要らぬ報告までしてくるようになった。その変化を与えたのは自分自身が変わったからだと。そうは言うが、特段これと言った変化を自分では実感が湧かない。
「話しかけやすいってのは良い事ですよ。……あ、それじゃあ私も下に行って」
「待て」
何事も無かったように下へ行こうとする。今さっき、休めと言ったのが聞こえなかったのか。引き留める為にその手首を掴んだ時、あまりの細さにひやりとした。どうして気が付かなかった。いつからまともに食事を摂っていない。
掴んだ手を放さずにいれば、白々しくもどうしたのかと尋ねてくる。
「……異常を感じたら直ぐに言えと、最初にそう伝えたはずだ」
自分が気づかなかった事を責任転嫁してどうなるというのか。最初こそは気にかけていたというのに。ある日を境にしてそれが疎かになってしまった。あの男が襲来してからだ。嗚呼、そうだ。盾の入手が実現できそうだと、現を抜かしていたから。己の不甲斐なさが惨めでしかない。
「さ、さっきのは…その。ちょっとふらーってしただけで」
「彼奴らには体調不良を訴えることができて、オレにはできないと?」
「そういうワケじゃ」
困惑の色と共に薄い笑みを浮かべた彼女の表情が僅かに歪む。刹那、体が支えを失って傾いた。引き寄せて腕の中に収まった体はこんなにも小さかっただろうか。彼女はきまりの悪そうに「すみません」と力なく呟く。まだ眩暈を起こしているのか暫く目を瞑っていた。
「……これで言い訳は利かん。頼むから大人しく休んでくれないか」
抱え上げた体はやはり軽かった。魔物の群を討伐したあの時よりもだ。
僅かな距離ですら慎重に移動し、ベッドにゆっくりと下ろす。自分から靴を脱いでベッドの中に潜り込んだので、その肩までブランケットを引き寄せた。洗いあがりのそれから石鹸の香りがすると言う。
彼女の頬に手を当てると、熱が引いていた。体温が低下している。この掌の体温が心地よいのか、猫の様にぴたりと摺り寄せてきた。
「手、あったかいですね」
「君の体温が下がり過ぎているんだ。……食事も睡眠も疎かになったのはオレのせいだ。すまない」
「え、……別にボルカノさんが謝る必要ないと思うんですけど。私が気にしすぎな性格で、ストレスに弱いからですよ。考えすぎる癖があって。これでも昔から比べたらだいぶマシになった方なんです。ボルカノさんには色々お世話になってるし、余計な迷惑は掛けられないなって…思ってただけで」
だから全然悪くない。彼女はそう言った。まただ。どうしてオレを責めようとしないのか。こちらに非があるにも関わらず、それを庇おうとする。その気遣いが余計に棘となって突き刺さってくる。いっそ罵声を浴びせてくれた方がいい。
手近に置かれていた丸椅子を引き寄せ、そこへ腰を下ろす。歪みが出ているようで重心をずらせば傾いてしまう。
「どうして」胸中でそう呟いた筈の言葉が意図せず吐き出されていた。触れている頬を伝った涙の温度がまだこの掌に残っているような気さえした。
「オレを責めないんだ、君は。一連の件からどう考えても非はこちら側にあるんだ。……それに迷惑だなんて思っていない。もっと頼ってくれてもいい。尤も、オレが頼りにならないというのなら……話は別だ」
「そっそんなこと無いです。めちゃくちゃ頼りにしてますよ。だって私、此処の世界で頼りになる人ボルカノさんしか居ないし…。それを責めるだなんて私にはできないです」
オレは今、どんな表情をしているのだろうか。彼女の心が離れていないと分かっただけで充分だった。安堵の色に染まっているには違いない。
血色の悪い目元を指の腹でなぞるとくすぐったいのか目を細めた。
「それなら今後は一人で抱え込まないでくれ。君の事情を知っている相手が居るならば、少しは心強いだろう。何か問題が生じたとしても一人で考えるよりは解決策が浮かぶはずだ。……もう疑ったりはしない」
この世界の道標を知っている。それだけで彼女に負荷がかかるのなら、一人で抱え込むよりは幾分かマシになる筈だ。心身共に壊れてしまいかねない。少しでも拠り所があれば。今回の様な事を二度と起こさせはしない。
「私の話、信じてくれるんですか。……ほんとに?」
「ああ。君の事を信じる」
微睡んでいた瞳がこちらを見上げる。次第に和らいでいった表情に思わず胸が高鳴る。
「ありがとうございます。……実は気が気じゃなくて。その時私に何ができるんだろうって…色々考えてたら正直発狂するかと思ってました」
「……本当にすまなかった」
「いーですよ。結果的にボルカノさん助かったんだし。形はちょっと違うけど、私の望んだ未来でした。唯、これからどうなるのかなって。…懲りずにまた刺客が来るんじゃないかとか…考えたらキリないですけど」
「そうだな。キリが無い。いずれにしろ物事が起こる前に予兆は必ず現れる。その時に対処すればいいだけだ。……それと今後はあんな真似は止してくれ。オレを庇うような真似は」
「……出しゃばってすみませんでした」
「咎めている訳じゃない。……守られてばかりではこちらが恰好悪いだろ」
二度と醜態を晒さないよう己の術を磨かなければ。そして次に彼女が窮地に陥った時は守る。必ずだ。
「そんな事気にしているのか」と軽く笑うが、オレにとっては重大な事だ。が、自分で口にしておいて恥ずかしくなってきた。
椅子から腰を浮かせ、書棚の方へ目を向けた。陣を描くだけの量はまだ残っているはずだ。
「少し下へ行ってくる」
「あ、はい」
「君の助言を元にこの館一帯に結界を張る。不法侵入者を防ぐ為にな。そうした方が安心して休める」
何をしに下へ行くのかと聞きたそうにしていたので、その場で口元に弧を描いてみせた。
◇◆◇
ロビーにいた弟子を集め、館を囲む様に配置。建物周囲に結界石を砕いて固めたもので魔法陣を描く。最後の線を繋ぎ終えた後、天術に長けているフェイルに声を掛けた。足元に描いた六芒星の陣。その中央に立たせる。赤い宝玉の付いた身の丈程の杖を手の内でくるりと回し、やる気に満ちた余裕の表情。その杖には六角形のタリスマンが四つ提げられていた。
「結界を張るのは久しぶりですね。こっちは準備オーケーですよ」
「天術の要はお前だ。……よし、始めろ」
六芒星の陣に足を踏み入れないよう半歩下がり、片手を上げて各ポイントに配置した弟子に合図を送る。杖を水平に構えた中心核の弟子が術の詠唱を始めた。
「南方の守護を司る聖獣、大気の流れを此処に集らせよ。遥か彼方の月より注がれし光を授けん。今、天と地を紡ぎ合わせその加護を与えよ。大地に生を受ける者総てに安らぎを」
天術と地術の掛け合わせによる結界術。成功例はまだ数える程度だ。術を補う為に結界石で魔法陣を描いた。こうすることでより安定した強力な結界を張る事が可能になる。
宝玉とタリスマンに光が宿る。描いた陣が同時に発光を始め、その線から真っすぐに赤い光の壁が伸びていく。それに続き今度は眩い白い光が追いかける。やがてその光の点は塔の頂点に達して繋ぎ合わせられた。どうやら上手くいったようだ。
詠唱を終わらせたフェイルが長い溜息をつく。相当な集中力を必要とするこの術に他の連中も疲労の色を見せているようだ。
「腕を上げたな」
「え、ホントですか?……へへっ。オレ達だって日々努力してますからね」
「これなら三日間は持つ」
「前は一日も持たなかったですからね。ま、こういう補助の術は誰かを守りたいっていう気持ちが強ければ強いほど上手く行くもんですよね」
「精神力を必要とする天術には重要な事だ」
「ボルカノ様も加わった方が良かったんじゃないですか?一番その気持ち強そうだし」
タリスマンの様子を見ながらフェイルがそう呟いた。同胞の形見であるそれに異常が無い事を確かめてから、こちらを見る。ニヤついた顔に些か腹が立った。
「……何を」
「ボルカノ様って素直じゃないですよね。…まあ、オレ達も霧華さんを守りたいっていう気持ち、負けずに強いですから」
「……」
「あれ、妬いてます?」
「随分と大口を叩くようになったな…?お前には基礎、礼儀を再度叩き込んだ方がいいようだ」
「口が過ぎました。反省しております」
恭しく頭を下げる姿に溜息が出る。全く都合の良い口と性格をしている。
◇◆◇
自室へ戻る際、物音を極力立てないように気を払っていた。眠っている所を起こしては悪い。静寂に包まれた室内を静かに歩き、ベッドに近づいていく。目を閉じていた筈の彼女は気配に気が付いたのか、薄っすらと目を開いた。
「起こしてしまったか。気にせず眠るといい」
「……おわったんですか」
「ああ。弟子を集めて結界を施した。この館に近づける者はいない。だから安心して休むといい」
夢現で話を聞いていた彼女はすっと眠りに落ちていった。先程よりも顔色が幾分か良い。結界の効果が現れているようだ。この分なら体調も直ぐに安定するだろう。
自然と伸びていた手が頭を撫でていた。柔らかい髪だ。それは細い絹糸の様な手触りで、滑るように指の間から逃げていく。ふと、赤みを差した唇に目が留まった。あの事は絶対に知られてはいけない。他に手段は無かったのかと軽蔑されるに決まっている。
ずっと触れていたい気もしたが、余計な気を起こしそうなのでこの場から離れようとした。だが、急にベッド側へと引っ張られる。なんだと振り返れば、肩から提げているストラの端を彼女に掴まれていた。用があるのかと思い、彼女の顔を見るが本人は目を瞑ったままで、寝息も立てている。無意識のうちに掴んだのか。
このままでは身動きが取れない。単にストラだけを外してしまえばいいだけの話だった。だが、そこまで頭が回らなかった。その手から直接解こうと、彼女の指に触れてしまったのが間違いだ。ストラを掴む力は緩められたが、その手が今度は近くにあったオレの手を掴む。本能的に温もりを求めていたのか、片手のみならず寝返りを打って両手で包み込んできた。完全に身動きが取れなくなったじゃないか。
十数秒前の自分に腹を立てても意味が無い。それに、彼女がこの手を掴む事を望んでくれるのならば。それを振り払うような真似はしたくなかった。