第一章
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14.襲撃
館内の有り様はとても酷いものだった。ロビーのあちらこちらに倒れ伏した術士達。赤黒い染みが床板にべっとりと付着している。血の匂いが充満しているせいで、食道の奥から胃酸が逆流しそうにもなる。
見慣れたローブを纏う彼らとは昨日まで会話を交わしていた。みんな、死んでしまったんだろうか。ダメ、諦めたら。まだ息があるかもしれない。例えそれが虫の息だとしても、生命を繋ぎ止める方法が僅かにでもあるのなら諦めてはいけない。
頭ではそう考えられても、実際は恐怖に身体が支配されて今にも動けなくなりそうだった。じわりと目尻に涙が滲む。今この時に呻き声を拾うことができなければきっとそうなっていた。
入口から正面に設置されたカウンターの横、その壁に体を預けるようにして項垂れている術士が居た。私はそこへ駆け寄り、膝をついて彼に声を掛ける。引き裂かれたローブに血の染みが点々と付いている。額の切り傷から流れた血によって自慢だと言っていた髪の先を赤黒く染めていた。私は何度も彼に呼びかけ、ようやくブラウンの瞳が私の姿を捉えた。
「フェイル君。しっかりして」
「……霧華、さ、ん。……よかった。ここに、いなくて……ぐっ」
力なく笑った彼は苦しそうな呻き声を上げた。だらりと垂れ下がった左腕に目線が移る。異常なまでに力が抜けている様子だった。
「うでの骨、…やっちまった……みたいで、さ」
「動かしちゃダメ」
私は首に巻いていたストールを解き、三角に折り畳んだそれを手早く彼の左腕を固定するように吊り上げる。首の後ろで解けない様固く結び目を作った。
他に怪我はないかと矢継ぎ早に尋ねても、大袈裟だと小さく笑われる。
「だいじょーぶだって……これでも術士、だ。回復術使え、る………でも、あいつらの、補助に回るより先に……っ」
「フェイル君っ」
彼は私が不在で良かったと言う。でも、私はこうなる未来を予め知っていたのに。何もできなかった。どうすることも、できなかった。悲しみや怒りが渦を巻いてしまい、どうしようもない感情に囚われてしまう。それを表現する術が何もなくて、ただ私はぼろぼろと涙を零してしまった。
泣き虫。と笑った彼の額に頭を押し付けて、願うように私は呟く。
「しっかりして……お願いだから、死なないで」
「……霧華、さん。あいつ、上に行ったから……ボルカノさまのところ。…霧華さんに頼むの、変な話…だよな。近道、つかえば…まだ、」
間に合うかもしれない。彼はそう言いたかったんだろう。
皮膚を伝う脂汗を袖で拭い、大丈夫だと何度も声を掛ける。額に皺を寄せた彼がぽつりと呟いた。
「オレ、さ。……霧華さんのコト、姉ちゃんみたいに……思えて。つい、甘えちまう」
「……もっと甘えてくれていい。だから、絶対死なないで。生きて!」
ここで私が膝を折れば二度と立ち上がれなくなる。竦む足を奮い立たせ、私は最上階に続く近道へと走る。途中、足が縺れてしまいそうになりながらも階段を下りた先にあるドアを開けて飛び込んだ。
室内に熱気が籠っていた。下の階とは比べ物にならない気温。なんとなく呼吸が苦しい気がした。
鼻をつく焦げた臭い、それは熱風が渦巻いた後だという証拠だった。戦いは既に終止符を打たれてしまったのだろうか。部屋中に残された斬撃の痕が不安を最大限にまで煽る。加えて嫌な静けさが辺りを包み込んでいた。
急いで彼の姿を探した。反対側の出入口の方から床板の軋む音、そこに顔を向けると二人が居た。褐色の肌をした男が曲刀を下方へ向けて立っている。曲刀を突き付けられているのは、両足を床に投げ出した状態で書棚にもたれかかる館の主。彼の表情は苦痛に歪んでいた。夢の内容と酷似したこの状況に戦慄が身体を走り抜けていく。彼の喉元に突き付けられた湾曲した刀剣。箇所に返り血を浴びたハリードの冷酷な眼光が恐ろしかった。それでも私は声を張り上げて、足を蹴り出した。
「やめてっ!!」
彼の注意が逸れた隙に、二人の間合いに滑り込む。まさか人が来るとは思わなかったんだろう。構えを解いたハリードを前に私は両手を広げて立ち塞がった。半歩身を引いてはくれるものの、諦めてくれる様子は微塵もない。ぎらついた刃物と戦士の気迫に圧倒されて、身体が小刻みに震えていた。
「退け。……死に急ぐ気か」
「……っ!…やめ、ろ。彼女は…関係ない。……退くんだ、っ」
霧華。息も絶え絶えに呟かれた私の名前。ここで私が退けば、正夢になってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。
私は首を横へ振り、ハリードに懸命に訴えかけた。
「お願い!この人を殺さないでっ!」
「……二度同じ事は言わん。邪魔だてするのならば」
持ち上げられた曲刀の剣先が鼻に触れそうになった。息を短く吐いた所でぐっと呼吸を止め、目を固く閉じた。
「やめろ!」と叫ぶ声が後ろから聞こえたその直後だった。眩い光を瞼の裏に感じ、恐る恐る目を開く。刹那、赤い光の筋が弧を素早く描き、六条の線を結ぶとそこから爆風が発生した。その衝撃にハリードが向こう側の壁際まで吹き飛ばされる。私自身も風圧に耐えられずバランスを崩した。書棚に体を打ち付けずに済んだのはボルカノさんが受け止めてくれたからだ。
パキンと金属の割れる音がした後、私の胸元から赤い宝石が弾け飛んだ。カランカランと床板の上にそれは転がり落ちる。持ち主の危機に応じて術が発動する。その力がたった今役目を果たした。
呆けていた私は動けない状態だった。吹き飛ばされたハリードはふらつきながらも剣を支えにして立ち上がろうと膝をついていた。相手の舌打ちが聞こえる。まだ完全に態勢は整えられていない。でもどう考えてもこちらが不利だ。次に一太刀振るわれたら、そう不安がよぎる。
息を呑む音が傍で聞こえ、次いで「これだけ時間があれば十分だ」と掠れた声。朱鳥術士は向こう側を見据え、不敵な笑みを口元に浮かべた。こんなボロボロの状態で身体に負担のかかる術を使うなんて無謀だ。術の詠唱に入ろうとする彼を止めるより先に、バタバタと階段を上る複数の足音が聞こえてきた。
「ハリード!」
部屋に一人の男性が踏み込んでくる。茶髪の長い髪を後ろで一つに括り、茶系統で纏められた衣服に長いマントを羽織っていた。複数の足音が聞こえたはずが、眼鏡をかけた二十歳前後のこの男性以外に見当たらない。彼は画面越しに見ていた時とは比べ物にならないぐらい凛とした顔立ちだ。ふと、当時抱いていた憧れの念が胸に蘇ってくる。
彼はハリードが立ち上がるのを手助けするように見えたが、その掴んだ腕を離さずに強い力で彼を制止しているようだった。
「もういいだろ。ボルカノは動ける状態じゃない。……それに依頼主は目的を果たしたそうだ。これ以上の殺生は意味を為さない」
依頼主、つまりウンディーネの目的。この混乱に乗じて魔王の盾を手にしたと言う意味に私は捉えた。その僅かなニュアンスから彼も同じように感じ取ったんだろう。二人を静観している。
彼らは睨み合いを続けた末、ハリードの方が仕方なくと言った形で折れたようだった。曲刀を鞘に納め、少々乱暴な足取りで部屋を出ていく。出入り口の方で人の声が聞こえた。女性の声もする。
眼鏡の青年、トーマスが私達の方へ顔を向けた。「すまない」とだけ言葉を残してマントを翻していった。
嵐の後に訪れた静けさのようだった。目まぐるしい速さで起きた出来事にまだ頭がついていけてない。私はただ冷たい床の上にへたりと座り込んだままで。ぼんやりと空虚を見つめていた。そこに静寂を破る長い溜息。それに弾かれた様に私は彼の方へ振り返った。
「……なんて無茶を。君まで殺され、」
呆れた表情と声。多数の傷を体中に負っていた。自慢の赤い一張羅に黒ずんだ染みが滲んでいる。そんな状態にも関わらず、私は彼が無事だった事に深い安堵感が広がっていった。大きく吐き出した息と共に零れた「よかった」という言葉。
ボルカノさんはそれ以上説教を続ける様子はなかった。きっと私が人前でみっともなく泣き崩れてしまったからに違いない。
◇◆◇
二度訪れた嵐は瞬く間に過ぎ去っていった。掌を返した男によって生まれた惨劇。下に居た弟子はほぼ壊滅状態。辛うじて一命を取り留めた弟子が数人、既に事切れてしまった者も居る。話によれば術の施行で傷口を塞いで回った眼鏡の男が目撃されていた。そのおかげで助かった者が多いと。
最上階と階下を行き来する霧華も奔走していた。自分の手当ては後回しでいいと伝えれば「一番重症者なんですよ!自覚してないでしょ?!」と烈火のごとく叱られてしまう。
毒は盛られていないか、手足に麻痺は無いかと医者顔負けの診察を受ける。「全異常耐性を持ち合わせていないんだから」と訳の分からない事も呟いていた。敢えて症状を挙げるならば肋骨を何本か骨折、あとは切り傷が占めている。深手を負ったのは左脇腹ぐらいだ。幸い神経に傷は無い。ただ口の中に滲む鉄の味が少し不快ではある。
ベッドサイドに引き寄せられた低いテーブル。作業台として使われているその上でランプの灯が不規則に揺れていた。傷薬、包帯、湯を張った手洗い桶、手拭いと揃えられている。その傍らに赤いルビーのルースと壊れたチェーンネックレスの部品。あれだけの爆風を起こしておきながら、ルースにはヒビ一つ入っていないようだった。
「染みるので我慢してください」と聞こえた直後に腹部に走る激痛。傷口の汚れを遠慮がちに拭うので余計な痛みが伴う。だが、手当てをされている以上文句は言えない。それに、彼女の表情も痛みに歪んでいるようだった。無傷でいるはずの彼女に対して、痛いだの加減しろだのと喚くのは無様でしかない。
元来、相手が触れるよりも先に総てを焼き尽くしてきた。回復の術を持たずとも事足りていた。その過信が己を滅ぼす破目になるとは。それが恨めしいとさえ感じている。
包帯の端を結び終えた彼女は手元に視線を落としていた。「包帯、きつくないですか」と一言だけ尋ねてくる。左腕、腹部の処置は迅速かつ丁寧で何一つとして隙は無い。これのどこに不満を挙げろというのか。「問題は無い」と返したきり、会話はそこで途切れてしまう。
どうして此処に戻ってきたのか。騒ぎを聞きつけたにしろ、惨劇を予め知っていたはずだ。事は彼女の話通りに起きた。そして幾多ある未来の一つ、魔王の盾を巡った抗争は望まない形で終止符を打つ。それらが分かっていた上で、何故戻ってきた。態々殺されに来るような真似を、どうして。彼女が出ていく原因となったのは自分だ。命を賭してまで庇う理由は無い。
胸中では幾つもの猜疑が泡の様に浮かんでくる。だが、上手く言葉に出来ずにいた。結局会話の糸口が見つからないまま時間が過ぎていく。
互いに黙り込んでどれだけの時間が経ったのか分からない。彼女の視線がこちらを僅かに見上げた。しかしそれは直ぐに伏せられたが、慎重に言葉を紡ぎ出す形で口を開いた。
「昨日、怒鳴ってすみませんでした。……私、謝りたくて」
頭を垂れた彼女の口から「ごめんなさい」と謝罪の言葉が静かな空気を震わせた。ただ、その為だけに危険を冒してまで此処に戻ってきたというのか。あまりの見当違いの詫び事に己の不甲斐なさを感じた。
「どうして君が頭を下げる必要があるんだ。……この惨状を見ただろう。君の話を真面目に聞こうとしなかった、オレが悪い。忠告を無下にした無様な結末だ」
「ボルカノさんは悪くないです。だって、普通信じられる話じゃないもの。私が自己満足で話したかっただけで。信じてもらおうなんて期待した私がお粗末だったんです」
「霧華。どうしてその話をしようと思った。オレに死なれては困るから、か。自分の世界に戻れなくなるから」
彼女の無謀な行動に際して浮上した一つの理由。召喚者が命を落としたからといって、対象者が元の世界に戻れる保証はどこにもない。確実な方法は術者が送還術を確立させることだ。それを恐れてかと尋ねてはみたが、彼女は首を縦には振らなかった。
こちらを見上げた霧華の目元に薄っすらと光る物が浮かんでいた。愁いに満ちた表情が昨夜の物と酷似する。そんな表情を見せないでくれ、頼むから。
「私、ボルカノさんに死んでほしくないって…思っただけです。いつもそうしてたから。……ほら、私お人好しだし、お世話になってる人が困ってたらすぐ手を差し伸べちゃうんです。昔から。損得とか少しは考えろってよく言われて、世渡り下手だって。頭で考えるよりも先に体が動くから……仕方ないんですよね」
彼女の慈悲深さに命拾いしたのだと改めて認識させられた。深手を負ったあの場に彼女が来なければ息の根を絶たれていただろう。悲運から逃れた後、泣き崩れながらもオレの身を案じていた。嗚呼、本当にお人好しだ。
気が付けば傷が浅い右手を伸ばし、彼女の頬を包み込んでいた。瞬きから落ちた雫が指から手の甲へと伝う。この涙が自分の為に流されていると知った今、胸中で複雑な感情が絡み合っていた。
館内の有り様はとても酷いものだった。ロビーのあちらこちらに倒れ伏した術士達。赤黒い染みが床板にべっとりと付着している。血の匂いが充満しているせいで、食道の奥から胃酸が逆流しそうにもなる。
見慣れたローブを纏う彼らとは昨日まで会話を交わしていた。みんな、死んでしまったんだろうか。ダメ、諦めたら。まだ息があるかもしれない。例えそれが虫の息だとしても、生命を繋ぎ止める方法が僅かにでもあるのなら諦めてはいけない。
頭ではそう考えられても、実際は恐怖に身体が支配されて今にも動けなくなりそうだった。じわりと目尻に涙が滲む。今この時に呻き声を拾うことができなければきっとそうなっていた。
入口から正面に設置されたカウンターの横、その壁に体を預けるようにして項垂れている術士が居た。私はそこへ駆け寄り、膝をついて彼に声を掛ける。引き裂かれたローブに血の染みが点々と付いている。額の切り傷から流れた血によって自慢だと言っていた髪の先を赤黒く染めていた。私は何度も彼に呼びかけ、ようやくブラウンの瞳が私の姿を捉えた。
「フェイル君。しっかりして」
「……霧華、さ、ん。……よかった。ここに、いなくて……ぐっ」
力なく笑った彼は苦しそうな呻き声を上げた。だらりと垂れ下がった左腕に目線が移る。異常なまでに力が抜けている様子だった。
「うでの骨、…やっちまった……みたいで、さ」
「動かしちゃダメ」
私は首に巻いていたストールを解き、三角に折り畳んだそれを手早く彼の左腕を固定するように吊り上げる。首の後ろで解けない様固く結び目を作った。
他に怪我はないかと矢継ぎ早に尋ねても、大袈裟だと小さく笑われる。
「だいじょーぶだって……これでも術士、だ。回復術使え、る………でも、あいつらの、補助に回るより先に……っ」
「フェイル君っ」
彼は私が不在で良かったと言う。でも、私はこうなる未来を予め知っていたのに。何もできなかった。どうすることも、できなかった。悲しみや怒りが渦を巻いてしまい、どうしようもない感情に囚われてしまう。それを表現する術が何もなくて、ただ私はぼろぼろと涙を零してしまった。
泣き虫。と笑った彼の額に頭を押し付けて、願うように私は呟く。
「しっかりして……お願いだから、死なないで」
「……霧華、さん。あいつ、上に行ったから……ボルカノさまのところ。…霧華さんに頼むの、変な話…だよな。近道、つかえば…まだ、」
間に合うかもしれない。彼はそう言いたかったんだろう。
皮膚を伝う脂汗を袖で拭い、大丈夫だと何度も声を掛ける。額に皺を寄せた彼がぽつりと呟いた。
「オレ、さ。……霧華さんのコト、姉ちゃんみたいに……思えて。つい、甘えちまう」
「……もっと甘えてくれていい。だから、絶対死なないで。生きて!」
ここで私が膝を折れば二度と立ち上がれなくなる。竦む足を奮い立たせ、私は最上階に続く近道へと走る。途中、足が縺れてしまいそうになりながらも階段を下りた先にあるドアを開けて飛び込んだ。
室内に熱気が籠っていた。下の階とは比べ物にならない気温。なんとなく呼吸が苦しい気がした。
鼻をつく焦げた臭い、それは熱風が渦巻いた後だという証拠だった。戦いは既に終止符を打たれてしまったのだろうか。部屋中に残された斬撃の痕が不安を最大限にまで煽る。加えて嫌な静けさが辺りを包み込んでいた。
急いで彼の姿を探した。反対側の出入口の方から床板の軋む音、そこに顔を向けると二人が居た。褐色の肌をした男が曲刀を下方へ向けて立っている。曲刀を突き付けられているのは、両足を床に投げ出した状態で書棚にもたれかかる館の主。彼の表情は苦痛に歪んでいた。夢の内容と酷似したこの状況に戦慄が身体を走り抜けていく。彼の喉元に突き付けられた湾曲した刀剣。箇所に返り血を浴びたハリードの冷酷な眼光が恐ろしかった。それでも私は声を張り上げて、足を蹴り出した。
「やめてっ!!」
彼の注意が逸れた隙に、二人の間合いに滑り込む。まさか人が来るとは思わなかったんだろう。構えを解いたハリードを前に私は両手を広げて立ち塞がった。半歩身を引いてはくれるものの、諦めてくれる様子は微塵もない。ぎらついた刃物と戦士の気迫に圧倒されて、身体が小刻みに震えていた。
「退け。……死に急ぐ気か」
「……っ!…やめ、ろ。彼女は…関係ない。……退くんだ、っ」
霧華。息も絶え絶えに呟かれた私の名前。ここで私が退けば、正夢になってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。
私は首を横へ振り、ハリードに懸命に訴えかけた。
「お願い!この人を殺さないでっ!」
「……二度同じ事は言わん。邪魔だてするのならば」
持ち上げられた曲刀の剣先が鼻に触れそうになった。息を短く吐いた所でぐっと呼吸を止め、目を固く閉じた。
「やめろ!」と叫ぶ声が後ろから聞こえたその直後だった。眩い光を瞼の裏に感じ、恐る恐る目を開く。刹那、赤い光の筋が弧を素早く描き、六条の線を結ぶとそこから爆風が発生した。その衝撃にハリードが向こう側の壁際まで吹き飛ばされる。私自身も風圧に耐えられずバランスを崩した。書棚に体を打ち付けずに済んだのはボルカノさんが受け止めてくれたからだ。
パキンと金属の割れる音がした後、私の胸元から赤い宝石が弾け飛んだ。カランカランと床板の上にそれは転がり落ちる。持ち主の危機に応じて術が発動する。その力がたった今役目を果たした。
呆けていた私は動けない状態だった。吹き飛ばされたハリードはふらつきながらも剣を支えにして立ち上がろうと膝をついていた。相手の舌打ちが聞こえる。まだ完全に態勢は整えられていない。でもどう考えてもこちらが不利だ。次に一太刀振るわれたら、そう不安がよぎる。
息を呑む音が傍で聞こえ、次いで「これだけ時間があれば十分だ」と掠れた声。朱鳥術士は向こう側を見据え、不敵な笑みを口元に浮かべた。こんなボロボロの状態で身体に負担のかかる術を使うなんて無謀だ。術の詠唱に入ろうとする彼を止めるより先に、バタバタと階段を上る複数の足音が聞こえてきた。
「ハリード!」
部屋に一人の男性が踏み込んでくる。茶髪の長い髪を後ろで一つに括り、茶系統で纏められた衣服に長いマントを羽織っていた。複数の足音が聞こえたはずが、眼鏡をかけた二十歳前後のこの男性以外に見当たらない。彼は画面越しに見ていた時とは比べ物にならないぐらい凛とした顔立ちだ。ふと、当時抱いていた憧れの念が胸に蘇ってくる。
彼はハリードが立ち上がるのを手助けするように見えたが、その掴んだ腕を離さずに強い力で彼を制止しているようだった。
「もういいだろ。ボルカノは動ける状態じゃない。……それに依頼主は目的を果たしたそうだ。これ以上の殺生は意味を為さない」
依頼主、つまりウンディーネの目的。この混乱に乗じて魔王の盾を手にしたと言う意味に私は捉えた。その僅かなニュアンスから彼も同じように感じ取ったんだろう。二人を静観している。
彼らは睨み合いを続けた末、ハリードの方が仕方なくと言った形で折れたようだった。曲刀を鞘に納め、少々乱暴な足取りで部屋を出ていく。出入り口の方で人の声が聞こえた。女性の声もする。
眼鏡の青年、トーマスが私達の方へ顔を向けた。「すまない」とだけ言葉を残してマントを翻していった。
嵐の後に訪れた静けさのようだった。目まぐるしい速さで起きた出来事にまだ頭がついていけてない。私はただ冷たい床の上にへたりと座り込んだままで。ぼんやりと空虚を見つめていた。そこに静寂を破る長い溜息。それに弾かれた様に私は彼の方へ振り返った。
「……なんて無茶を。君まで殺され、」
呆れた表情と声。多数の傷を体中に負っていた。自慢の赤い一張羅に黒ずんだ染みが滲んでいる。そんな状態にも関わらず、私は彼が無事だった事に深い安堵感が広がっていった。大きく吐き出した息と共に零れた「よかった」という言葉。
ボルカノさんはそれ以上説教を続ける様子はなかった。きっと私が人前でみっともなく泣き崩れてしまったからに違いない。
◇◆◇
二度訪れた嵐は瞬く間に過ぎ去っていった。掌を返した男によって生まれた惨劇。下に居た弟子はほぼ壊滅状態。辛うじて一命を取り留めた弟子が数人、既に事切れてしまった者も居る。話によれば術の施行で傷口を塞いで回った眼鏡の男が目撃されていた。そのおかげで助かった者が多いと。
最上階と階下を行き来する霧華も奔走していた。自分の手当ては後回しでいいと伝えれば「一番重症者なんですよ!自覚してないでしょ?!」と烈火のごとく叱られてしまう。
毒は盛られていないか、手足に麻痺は無いかと医者顔負けの診察を受ける。「全異常耐性を持ち合わせていないんだから」と訳の分からない事も呟いていた。敢えて症状を挙げるならば肋骨を何本か骨折、あとは切り傷が占めている。深手を負ったのは左脇腹ぐらいだ。幸い神経に傷は無い。ただ口の中に滲む鉄の味が少し不快ではある。
ベッドサイドに引き寄せられた低いテーブル。作業台として使われているその上でランプの灯が不規則に揺れていた。傷薬、包帯、湯を張った手洗い桶、手拭いと揃えられている。その傍らに赤いルビーのルースと壊れたチェーンネックレスの部品。あれだけの爆風を起こしておきながら、ルースにはヒビ一つ入っていないようだった。
「染みるので我慢してください」と聞こえた直後に腹部に走る激痛。傷口の汚れを遠慮がちに拭うので余計な痛みが伴う。だが、手当てをされている以上文句は言えない。それに、彼女の表情も痛みに歪んでいるようだった。無傷でいるはずの彼女に対して、痛いだの加減しろだのと喚くのは無様でしかない。
元来、相手が触れるよりも先に総てを焼き尽くしてきた。回復の術を持たずとも事足りていた。その過信が己を滅ぼす破目になるとは。それが恨めしいとさえ感じている。
包帯の端を結び終えた彼女は手元に視線を落としていた。「包帯、きつくないですか」と一言だけ尋ねてくる。左腕、腹部の処置は迅速かつ丁寧で何一つとして隙は無い。これのどこに不満を挙げろというのか。「問題は無い」と返したきり、会話はそこで途切れてしまう。
どうして此処に戻ってきたのか。騒ぎを聞きつけたにしろ、惨劇を予め知っていたはずだ。事は彼女の話通りに起きた。そして幾多ある未来の一つ、魔王の盾を巡った抗争は望まない形で終止符を打つ。それらが分かっていた上で、何故戻ってきた。態々殺されに来るような真似を、どうして。彼女が出ていく原因となったのは自分だ。命を賭してまで庇う理由は無い。
胸中では幾つもの猜疑が泡の様に浮かんでくる。だが、上手く言葉に出来ずにいた。結局会話の糸口が見つからないまま時間が過ぎていく。
互いに黙り込んでどれだけの時間が経ったのか分からない。彼女の視線がこちらを僅かに見上げた。しかしそれは直ぐに伏せられたが、慎重に言葉を紡ぎ出す形で口を開いた。
「昨日、怒鳴ってすみませんでした。……私、謝りたくて」
頭を垂れた彼女の口から「ごめんなさい」と謝罪の言葉が静かな空気を震わせた。ただ、その為だけに危険を冒してまで此処に戻ってきたというのか。あまりの見当違いの詫び事に己の不甲斐なさを感じた。
「どうして君が頭を下げる必要があるんだ。……この惨状を見ただろう。君の話を真面目に聞こうとしなかった、オレが悪い。忠告を無下にした無様な結末だ」
「ボルカノさんは悪くないです。だって、普通信じられる話じゃないもの。私が自己満足で話したかっただけで。信じてもらおうなんて期待した私がお粗末だったんです」
「霧華。どうしてその話をしようと思った。オレに死なれては困るから、か。自分の世界に戻れなくなるから」
彼女の無謀な行動に際して浮上した一つの理由。召喚者が命を落としたからといって、対象者が元の世界に戻れる保証はどこにもない。確実な方法は術者が送還術を確立させることだ。それを恐れてかと尋ねてはみたが、彼女は首を縦には振らなかった。
こちらを見上げた霧華の目元に薄っすらと光る物が浮かんでいた。愁いに満ちた表情が昨夜の物と酷似する。そんな表情を見せないでくれ、頼むから。
「私、ボルカノさんに死んでほしくないって…思っただけです。いつもそうしてたから。……ほら、私お人好しだし、お世話になってる人が困ってたらすぐ手を差し伸べちゃうんです。昔から。損得とか少しは考えろってよく言われて、世渡り下手だって。頭で考えるよりも先に体が動くから……仕方ないんですよね」
彼女の慈悲深さに命拾いしたのだと改めて認識させられた。深手を負ったあの場に彼女が来なければ息の根を絶たれていただろう。悲運から逃れた後、泣き崩れながらもオレの身を案じていた。嗚呼、本当にお人好しだ。
気が付けば傷が浅い右手を伸ばし、彼女の頬を包み込んでいた。瞬きから落ちた雫が指から手の甲へと伝う。この涙が自分の為に流されていると知った今、胸中で複雑な感情が絡み合っていた。