第一章
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13.予定調和
階段の踊り場で一夜を明かした私は朝日が昇る前に一階に下りて身支度を整えた。鏡に映った顔、それはもう酷い有様で泣き腫らした目が真っ赤になっていた。冷たい水で腫れを引かせようとしたけど、効果は薄かった。これ以上もたもたしていたら朝早い人と鉢合わせてしまう。誰とも顔を合わせずに外へ出ようと考えていたのに、一番早い彼の弟子とばったりと会ってしまった。こんなに早いなんて珍しいと言われ、それ以上勘繰られる前に「雑貨屋の手伝いが今日は早いの」と笑顔を繕って逃げるように館を出た。
空がゆっくりと表情を変えていく。白んでいた空は青い絵の具を溶かしたように薄く色づいていた。今日も雲一つない快晴となりそうだ。
気温がまだ上がり切らない外の空気は肺に突き刺さるような冷たさだった。
出来る限り遅い歩みで雑貨屋へ向かう。御主人達がまだ起きていなければ外の掃き掃除でもして待つつもりだったから。ところが、雑貨屋の朝はとても早いようで、既にルインさんが箒で外を掃いていた。
極力明るい声で「おはようございます」と声をかければ目を丸くされる。
「おはよう。随分早いね。まだお天道様が昇ったばっかりじゃないか」
「えへへ……目が覚めちゃいまして。お手伝いしてもいいですか」
「そりゃ、構わないけどさ。……今日は旦那も朝から仕入れで居ないから、助かるけどね」
「あ……今日、御主人いないんでしたっけ」
数日前、雑貨屋の手伝いをした際に「仕入れで一日留守にするからこの日に来てほしい」と言われていたのを今になって思い出した。完全に頭から抜けていた。昨夜の事が無ければ忘れていたかもしれない。不幸中の幸い、とでも言えばいいんだろうか。それはそれで物悲しい気もした。
「外の掃除が終わったら朝ご飯にするかい。こんなに早く来てくれたんだ。まだ食べてないんだろう?」
「あ、いいえ。なんか食欲も無いので……お気持ちだけ」
「それでも少しは胃に食べ物を入れた方がいいよ。温かいスープ作ってあげるから、それでも飲んで身体温めな」
ルインさんの何気ない優しさが胸に沁みる。また涙が零れ落ちそうになるのをぐっと堪えて、俯きがちだった顔を上げた。
◇◆◇
日が高く昇った後、階段を下っていくも彼女の姿は見つけられなかった。一階ロビーにはテーブルを囲む弟子達が数人。その中にも紛れていない。誰か見かけていないかと尋ねても首を横に振る者ばかり。
カウンター内に居た一人の弟子が「雑貨屋の手伝いに行くって、日が昇る前に出ていきましたよ」と答えた。愛想がいいせいか彼女とも親しげに話をしている奴だ。天秤皿を拭いていた手を止め、こちらを見ながら「オレ、霧華さんには此処に居てもらいたいです」と訳の分からない事を言う。数人から冷ややかな視線を向けられる。
戻ってきたら上に来てくれるよう言伝を頼み、その視線を振り払うようにして自室へ戻っていった。
作業台は昨夜のまま放置されている。何かを作っていたようだが、ビーカーの中身が七色の得体の知れない物に出来上がっている。思わず何だこれはと口をついて出る。
ノートの頁には教えた通りの手順が丁寧に書き込まれている。重要な個所は丸印で囲い、強調までして。ここまでメモされているというのに、どうして完成までに至らなかったのか。それに答える本人が今は居ない。
あんな風に声を張り上げた彼女は初めて見た。嘘を付いて人を騙すような性分じゃない事は分かっている。だが、彼女の話は支離滅裂だ。存在し得る未来の一つにオレがあの冒険者に殺されると言った。ウンディーネの差し金だとそう話した。奴が考えそうな事ではある。自分の手を汚さずに始末しようと目論むのはこちらとて同じ。
しかし、どうして井戸の中身を彼女が知っている。それも明確に魔王の盾だと。町を二分にしてまで争っていることも事細やかに。それだけじゃない。アビスゲート、四魔貴族の存在、海上要塞の伝説、そしてそれを起動させる術。嗚呼、これらの辻褄は確かに合致している。彼女は占星者、もしくは預言者だとでもいうのか。その素性を隠していたとでも。己の感情が顔にすぐ出る性格だぞ。有り得ない。
俄に信じられるような話ではなかった。だから自分は聞こうとしなかった。
書斎机の引出しから手にしたなめし革の手帖。表紙を捲り、自身が記した定義の頁で指を止める。術法を増幅させ、安定した魔力の源があれば成り立つ。送還術を完成させる為には魔王の盾が必要だ。彼女を送り返す事が出来る。この好機を逃せば次はいつになるか。
凍てついた感触が胸元にざわついた。氷の様なそれは決して心地の良い冷たさではない。首から提げていた水晶の召喚石をチェーンから外し、掌の上に。サテンの布地越しにでさえ痛いと感じる程に冷え切っている。
六角錐の結晶は透明度を失っていた。中央に漂っていた靄は鼠色にくすみ、動きが鈍い。鮮やかな橙色の炎を宿していた核が色を失い、水晶全体が灰褐色に支配されていた。
この召喚石が見せる表情を観察しているうちにある法則を発見した。召喚された者、つまり彼女の体調及び感情とリンクしている。主に暖色を示している時は良好。それに含まれる赤は例外で怒りを表していた。調子が悪い、荒涼とした際は逆に寒色を示す。大方把握はしたつもりだった。そのはずが現在この手にある物はどちらの色彩にも属していない。
このまま石化してしまうのではないか。ふとそう思いもしたが、元来鉱石だというのにそれも可笑しな話だ。唯、この色彩が絶望を抱えたような色に感じたのは昨夜の彼女が脳裏に過ったせいか。
「仮説、か。……盾の力を上手く使えなければ、その通りだな」
氷の様に凍てつかせてしまったのは紛れもなく自分だ。石を握り締めた所でその温度が変わる様子はない。変に寂しい感情に囚われる。こうも感傷に浸るとは何年振りだ。
物憂いに満ちた溜息が肺の底から溢れ出る。
階段を上る足音が聞こえてきた。足音の主がこの部屋の前で止まる。上手く隠しているようだが、不穏な気配を完全に消し去ってはいない。数日前にも同様の殺気を感じた。ドアの向こう側から顔を見せたのは、先日この館を荒らした曲刀の男。ハリードと言ったか。その無骨な顔を見て、思わず自嘲することになるとはな。
「……何の用だ。早くウンディーネを始末してくれ。前金は払ったはずだ」
視線をわざと逸らし、手帖を引出しに片付ける。曲刀が鞘から引き抜かれる音を頼りに体を反らし、後方へ飛び退く。曲刀の切っ先が顔の下を皮膚一枚、触れるか触れないかの所を掠めていった。その際、掌から召喚咳が零れ落ちた。刹那、宙に舞うそれに水平に斬り払われた曲刀と触れる。鉱石と金属の衝撃音が耳障りに響いた。手を伸ばしそれを奪取した際、曲刀が僅かに腕を掠めていった。途端に身体に纏っていた保護の朱鳥術が反応、火の粉となって男に降り注ぐ。
男に一瞬の隙が生じた。充分な間合いを取り、直ぐさま保護術を掛け直す。
灰色の水晶の先端が欠けていた。チェーンは切れてどこかへいってしまったようだ。気のせいだろうか。中心核の色が変化している。いや、色じゃない。小さな光が煌めいたような。
あからさまな殺意を男は抱いていた。手練れの戦士の目つき。引く気は毛頭ないようだ。
握り締めた召喚石を上着のポケットへ奥深くしまい込み、精神を研ぎ澄ませる。皮肉なものだな。彼女の言う通りに事が進められている。だが、オレは此処で死ぬつもりなど更々ない。
「北の術士に寝返ったか」
「こちらにも事情があるんでな」
「……バンガードを動かすためには玄武術士が必要、という訳か」
「話が早くて助かる。あんたを始末しなければ協力を仰がないそうだ。悪く思わんでくれ」
踏み込まれた薙ぎ払いをかわし、即座に炎の壁を打ち立てる。渦巻く熱風を操り、包囲網を形成。内側で空気中の酸素を奪い続けるこの業火に成す術がないだろう。酸素濃度が薄くなり始めた頃、男の顔が歪み始めた。
「自分の家を燃やすほど愚かではないんでな。手短に済まさせてもらおう。……その猛威を振るう炎の壁を突破できたとしても、オレの身に触れれば火傷では済まない。灰と化するまで焼き尽くしてやろう」
深碧の炎を掌底に宿らせる。術法を増幅させる術から本詠唱へと続け、頭上に手を掲げた。
◇◆◇
深い溜息が出た。今日でもう何度目だろうか。意識して呼吸をしないと酸素が上手く取り込めずにいた。
午前中にお客さんを二組ほど接客した後、ぱたりと客足が途絶えた。今日は暇な日かもしれない。御主人もその日を狙って仕入れに出ているんだろう。でも、私にとっては苦痛で仕方がない時間だ。暇を持て余せばつい考えてしまう。
昨夜、もっと違う言い方があったんじゃないか、と。私の話し方が悪かったせいで、嘘臭いと思われてしまったのかもしれない。或いは、具体的ではなく仄めかせるように伝えれば良かったのか。こういった出来事が想定されるから、気を付けた方がいい、とか。
いろいろと考えてはみても堂々巡りだった。気分はどんよりとしていて、今日の青空の様には晴れてくれそうにない。
「ケンカでもしたのかい」
バックヤードからカウンターを通って店内に出てきたルインさんがすれ違いざまにそう声を掛けてきた。篭に山の様に詰め込まれた薬草の束を陳列棚へ並べていく。束になっているとは言え、数種類の薬草が篭に混ざっている。それを間違いなく仕分けしていくのは熟練の業だなあとぼんやり眺めていた。
ちらと私の方に向いた視線。返事を待たれているのだと気が付く。
「……どうして分かったんですか」
「そりゃ分かるさ。あんな酷い顔して朝早くに来たんだ。化粧で誤魔化してんだろうけど、目が真っ赤に腫れてた。何かあったとしか考えられないよ」
商品の陳列を手早く終えて、カウンターに頬杖をついている私の元へ。いつも明るい笑顔が売りのルインさんが顔を曇らせていた。ここまで心配を掛けてしまっている事が申し訳なさすぎる。
私は昔から感情が顔に出やすいと言われ続けてきた。裏表が無いとか、分かりやすくて助かるとか。愛嬌があると褒められもする。でも、裏を返せば嘘がすぐ見破られる性格だから損をしてきた事もあった。
昨夜の話を事細やかに話す訳にもいかず、掻い摘んだ要点を私は少しずつ話し始めた。
「私、ボルカノさんにどうしても聞いてほしい話があって。でも、話した所で…信じてもらえなかった。それでついカッとなって…怒鳴って出て来ちゃったんです」
「ああ…あの人、他人の話聞かなさそうだものねえ」
「そうなんですよ」
町の人からもそう見られていると知って、つい可笑しいと笑ってみせた。ルインさんは笑い返すようなことはせず、口をへの字に曲げて「あまり気にしちゃダメだよ」と慰めてくれる。
「……でも、怒鳴ったの良くなかったよなって。冷静になって考えてみたら…そう思ったんです。もっと別の話し方をしていれば、きっと少しは聞いてもらえたのかもって」
「詳しい事情は聞かない方がいいんだろうけどね。……霧華ちゃんはよく頑張ってると思うよ。ぶっちゃけあの人、町の連中に評判良くないんだ。悪い噂ばっかりさ。館に引き籠って変な研究ばっかりしてるとか、魔物雇ってるとか。おまけに女はとっかえひっかえしてるって言うし」
町の人が迷惑しているレベルではなく、人として評判が悪すぎることに苦笑いを浮かべてしまう。根も葉もない噂が一人歩きしているみたいだ。
「そ、それは誤解もありますよ。変な研究……は否定できませんけど。女の人に関しては勝手に言い寄られてるみたいで、むしろ心配になるぐらい興味ないみたいです」
「へえーそうなのかい?それは初めて聞いたね。……まあ、そんな評判の人だったけどさ。霧華ちゃんが来てから少し変わったなあって思ってたのよ。ロクに姿も見かけなかったのが外に出るようになったし、偶に挨拶もする。何だか雰囲気も変わった気がしてね」
「雰囲気、ですか?」
「ああ。なんて言うんだろうね。表情が出てきたっていうか……感情が丸くなったというか。だから、アンタ達上手くやってんだなーって思ってたのさ」
自分はボルカノさんの事をよく知らない。彼がどんな人で、どういう風にこの町で過ごしてきたのかなんて知る筈もなかった。私は遠い昔に画面越しに見ていただけだから。モウゼスの人達の方が彼の事を余程知っている。あれでも丸くなったというんだ。元を知らないから、何とも言えない。
「人間生きてりゃ色んな事があるさ。どうにもならなくて、怒りをぶちまける時だってあるんだ。…だから、そう思い悩む必要はないと思うよ」
「……そう、ですね」
私の両肩に触れたルインさんの手は大きくて、温かい。懐かしい気持ちがこみ上げてきた。小さい頃に友達とケンカして、大泣きして帰ってきた日に母親がやっぱりこんな風に諭してくれた。この優しい眼差しに胸がきゅっと締め付けられる。
「あの人の事、嫌いじゃないんだろう?」
「…あ、はい。好き嫌いとかじゃなくて……何て言うか、この人になら任せても大丈夫だっていう気持ちが。悩んでたり、迷ってる時に自信満々に大丈夫だって…言ってくれて、安心できたんです」
「アンタは信頼してんだね、あの人の事」
ああ、そうだったんだ。この気持ちが信頼という感情だと、言葉にして初めて気づくことができた。
この世界に急に喚び出されて、不安で仕方なかった時にそれを見透かすように声を掛けてくれた。心配は要らない。オレに任せておけ、と。
だから私は、迫る可能性がある危機を報せたかった。でも、どうしたらいいんだろう。
「……どうしたら、私の話聞いてもらえるんだろう」
「まずは謝る事。相手にも非はあるんだろうけど、どっちかが折れないと一生話なんか出来やしないよ。頭に血が上ってると余計にね。相手はプライドの塊みたいなもんだろうし」
「まあ確かに……プライド高いですね」
彼の弟子達もいずれはそうなってしまうんだろうか。師は弟子の鏡とも言うし。ちょっと心配だ。
不意にルインさんの優しい目がすっと細められた。どこか、物悲しい色をしている。その理由はすぐに分かった。
「昔ね、若い頃に友達と大喧嘩したんだ。原因は下らない事だったけど、どっちも謝るに謝れなくてね。随分長い間口を利かなかった。……結局、仲直り出来ないままその子は遠い町に嫁に行っちゃったよ。もう何年も経つよ。ゴメンってたった三文字がどうして出てこなかったのか」
「……ルインさん」
「だから、アンタは後悔しないうちに早く行っといで。今日はもう上がっていいから」
「え、でも。今日はルインさん一人で」
「そんなの慣れっこだよ。霧華ちゃんが来る前はいつも一人で店番してたんだ。ほら、駆け足!」
「は、はいっ!」
両手を打ち鳴らす乾いた音がパンッと響いた。それに動かされた私は仕事用のエプロンを慌てて畳む。それをルインさんに預けた時、彼女はいつものにこやかな笑顔で私を見送ってくれた。
勢い任せに外へ飛び出したはいいものの、何て話せばいいんだろうか。私がこの世界の物語を知っていると話せばいいんだろうか。でもそれだとますます胡散臭いと渋い顔をされそうだ。目に浮かぶ。
とにかく、先ずは謝ろう。一方的に感情を取り乱して怒鳴ったのは自分だから。私は胸元のネックレスをそっと握りしめた。
躊躇いがちに進めていた歩みが一変したのはこの直ぐ後だ。
町の人がどよめいていた。館の方で騒動が起きている、死者が多数出ていると。
階段の踊り場で一夜を明かした私は朝日が昇る前に一階に下りて身支度を整えた。鏡に映った顔、それはもう酷い有様で泣き腫らした目が真っ赤になっていた。冷たい水で腫れを引かせようとしたけど、効果は薄かった。これ以上もたもたしていたら朝早い人と鉢合わせてしまう。誰とも顔を合わせずに外へ出ようと考えていたのに、一番早い彼の弟子とばったりと会ってしまった。こんなに早いなんて珍しいと言われ、それ以上勘繰られる前に「雑貨屋の手伝いが今日は早いの」と笑顔を繕って逃げるように館を出た。
空がゆっくりと表情を変えていく。白んでいた空は青い絵の具を溶かしたように薄く色づいていた。今日も雲一つない快晴となりそうだ。
気温がまだ上がり切らない外の空気は肺に突き刺さるような冷たさだった。
出来る限り遅い歩みで雑貨屋へ向かう。御主人達がまだ起きていなければ外の掃き掃除でもして待つつもりだったから。ところが、雑貨屋の朝はとても早いようで、既にルインさんが箒で外を掃いていた。
極力明るい声で「おはようございます」と声をかければ目を丸くされる。
「おはよう。随分早いね。まだお天道様が昇ったばっかりじゃないか」
「えへへ……目が覚めちゃいまして。お手伝いしてもいいですか」
「そりゃ、構わないけどさ。……今日は旦那も朝から仕入れで居ないから、助かるけどね」
「あ……今日、御主人いないんでしたっけ」
数日前、雑貨屋の手伝いをした際に「仕入れで一日留守にするからこの日に来てほしい」と言われていたのを今になって思い出した。完全に頭から抜けていた。昨夜の事が無ければ忘れていたかもしれない。不幸中の幸い、とでも言えばいいんだろうか。それはそれで物悲しい気もした。
「外の掃除が終わったら朝ご飯にするかい。こんなに早く来てくれたんだ。まだ食べてないんだろう?」
「あ、いいえ。なんか食欲も無いので……お気持ちだけ」
「それでも少しは胃に食べ物を入れた方がいいよ。温かいスープ作ってあげるから、それでも飲んで身体温めな」
ルインさんの何気ない優しさが胸に沁みる。また涙が零れ落ちそうになるのをぐっと堪えて、俯きがちだった顔を上げた。
◇◆◇
日が高く昇った後、階段を下っていくも彼女の姿は見つけられなかった。一階ロビーにはテーブルを囲む弟子達が数人。その中にも紛れていない。誰か見かけていないかと尋ねても首を横に振る者ばかり。
カウンター内に居た一人の弟子が「雑貨屋の手伝いに行くって、日が昇る前に出ていきましたよ」と答えた。愛想がいいせいか彼女とも親しげに話をしている奴だ。天秤皿を拭いていた手を止め、こちらを見ながら「オレ、霧華さんには此処に居てもらいたいです」と訳の分からない事を言う。数人から冷ややかな視線を向けられる。
戻ってきたら上に来てくれるよう言伝を頼み、その視線を振り払うようにして自室へ戻っていった。
作業台は昨夜のまま放置されている。何かを作っていたようだが、ビーカーの中身が七色の得体の知れない物に出来上がっている。思わず何だこれはと口をついて出る。
ノートの頁には教えた通りの手順が丁寧に書き込まれている。重要な個所は丸印で囲い、強調までして。ここまでメモされているというのに、どうして完成までに至らなかったのか。それに答える本人が今は居ない。
あんな風に声を張り上げた彼女は初めて見た。嘘を付いて人を騙すような性分じゃない事は分かっている。だが、彼女の話は支離滅裂だ。存在し得る未来の一つにオレがあの冒険者に殺されると言った。ウンディーネの差し金だとそう話した。奴が考えそうな事ではある。自分の手を汚さずに始末しようと目論むのはこちらとて同じ。
しかし、どうして井戸の中身を彼女が知っている。それも明確に魔王の盾だと。町を二分にしてまで争っていることも事細やかに。それだけじゃない。アビスゲート、四魔貴族の存在、海上要塞の伝説、そしてそれを起動させる術。嗚呼、これらの辻褄は確かに合致している。彼女は占星者、もしくは預言者だとでもいうのか。その素性を隠していたとでも。己の感情が顔にすぐ出る性格だぞ。有り得ない。
俄に信じられるような話ではなかった。だから自分は聞こうとしなかった。
書斎机の引出しから手にしたなめし革の手帖。表紙を捲り、自身が記した定義の頁で指を止める。術法を増幅させ、安定した魔力の源があれば成り立つ。送還術を完成させる為には魔王の盾が必要だ。彼女を送り返す事が出来る。この好機を逃せば次はいつになるか。
凍てついた感触が胸元にざわついた。氷の様なそれは決して心地の良い冷たさではない。首から提げていた水晶の召喚石をチェーンから外し、掌の上に。サテンの布地越しにでさえ痛いと感じる程に冷え切っている。
六角錐の結晶は透明度を失っていた。中央に漂っていた靄は鼠色にくすみ、動きが鈍い。鮮やかな橙色の炎を宿していた核が色を失い、水晶全体が灰褐色に支配されていた。
この召喚石が見せる表情を観察しているうちにある法則を発見した。召喚された者、つまり彼女の体調及び感情とリンクしている。主に暖色を示している時は良好。それに含まれる赤は例外で怒りを表していた。調子が悪い、荒涼とした際は逆に寒色を示す。大方把握はしたつもりだった。そのはずが現在この手にある物はどちらの色彩にも属していない。
このまま石化してしまうのではないか。ふとそう思いもしたが、元来鉱石だというのにそれも可笑しな話だ。唯、この色彩が絶望を抱えたような色に感じたのは昨夜の彼女が脳裏に過ったせいか。
「仮説、か。……盾の力を上手く使えなければ、その通りだな」
氷の様に凍てつかせてしまったのは紛れもなく自分だ。石を握り締めた所でその温度が変わる様子はない。変に寂しい感情に囚われる。こうも感傷に浸るとは何年振りだ。
物憂いに満ちた溜息が肺の底から溢れ出る。
階段を上る足音が聞こえてきた。足音の主がこの部屋の前で止まる。上手く隠しているようだが、不穏な気配を完全に消し去ってはいない。数日前にも同様の殺気を感じた。ドアの向こう側から顔を見せたのは、先日この館を荒らした曲刀の男。ハリードと言ったか。その無骨な顔を見て、思わず自嘲することになるとはな。
「……何の用だ。早くウンディーネを始末してくれ。前金は払ったはずだ」
視線をわざと逸らし、手帖を引出しに片付ける。曲刀が鞘から引き抜かれる音を頼りに体を反らし、後方へ飛び退く。曲刀の切っ先が顔の下を皮膚一枚、触れるか触れないかの所を掠めていった。その際、掌から召喚咳が零れ落ちた。刹那、宙に舞うそれに水平に斬り払われた曲刀と触れる。鉱石と金属の衝撃音が耳障りに響いた。手を伸ばしそれを奪取した際、曲刀が僅かに腕を掠めていった。途端に身体に纏っていた保護の朱鳥術が反応、火の粉となって男に降り注ぐ。
男に一瞬の隙が生じた。充分な間合いを取り、直ぐさま保護術を掛け直す。
灰色の水晶の先端が欠けていた。チェーンは切れてどこかへいってしまったようだ。気のせいだろうか。中心核の色が変化している。いや、色じゃない。小さな光が煌めいたような。
あからさまな殺意を男は抱いていた。手練れの戦士の目つき。引く気は毛頭ないようだ。
握り締めた召喚石を上着のポケットへ奥深くしまい込み、精神を研ぎ澄ませる。皮肉なものだな。彼女の言う通りに事が進められている。だが、オレは此処で死ぬつもりなど更々ない。
「北の術士に寝返ったか」
「こちらにも事情があるんでな」
「……バンガードを動かすためには玄武術士が必要、という訳か」
「話が早くて助かる。あんたを始末しなければ協力を仰がないそうだ。悪く思わんでくれ」
踏み込まれた薙ぎ払いをかわし、即座に炎の壁を打ち立てる。渦巻く熱風を操り、包囲網を形成。内側で空気中の酸素を奪い続けるこの業火に成す術がないだろう。酸素濃度が薄くなり始めた頃、男の顔が歪み始めた。
「自分の家を燃やすほど愚かではないんでな。手短に済まさせてもらおう。……その猛威を振るう炎の壁を突破できたとしても、オレの身に触れれば火傷では済まない。灰と化するまで焼き尽くしてやろう」
深碧の炎を掌底に宿らせる。術法を増幅させる術から本詠唱へと続け、頭上に手を掲げた。
◇◆◇
深い溜息が出た。今日でもう何度目だろうか。意識して呼吸をしないと酸素が上手く取り込めずにいた。
午前中にお客さんを二組ほど接客した後、ぱたりと客足が途絶えた。今日は暇な日かもしれない。御主人もその日を狙って仕入れに出ているんだろう。でも、私にとっては苦痛で仕方がない時間だ。暇を持て余せばつい考えてしまう。
昨夜、もっと違う言い方があったんじゃないか、と。私の話し方が悪かったせいで、嘘臭いと思われてしまったのかもしれない。或いは、具体的ではなく仄めかせるように伝えれば良かったのか。こういった出来事が想定されるから、気を付けた方がいい、とか。
いろいろと考えてはみても堂々巡りだった。気分はどんよりとしていて、今日の青空の様には晴れてくれそうにない。
「ケンカでもしたのかい」
バックヤードからカウンターを通って店内に出てきたルインさんがすれ違いざまにそう声を掛けてきた。篭に山の様に詰め込まれた薬草の束を陳列棚へ並べていく。束になっているとは言え、数種類の薬草が篭に混ざっている。それを間違いなく仕分けしていくのは熟練の業だなあとぼんやり眺めていた。
ちらと私の方に向いた視線。返事を待たれているのだと気が付く。
「……どうして分かったんですか」
「そりゃ分かるさ。あんな酷い顔して朝早くに来たんだ。化粧で誤魔化してんだろうけど、目が真っ赤に腫れてた。何かあったとしか考えられないよ」
商品の陳列を手早く終えて、カウンターに頬杖をついている私の元へ。いつも明るい笑顔が売りのルインさんが顔を曇らせていた。ここまで心配を掛けてしまっている事が申し訳なさすぎる。
私は昔から感情が顔に出やすいと言われ続けてきた。裏表が無いとか、分かりやすくて助かるとか。愛嬌があると褒められもする。でも、裏を返せば嘘がすぐ見破られる性格だから損をしてきた事もあった。
昨夜の話を事細やかに話す訳にもいかず、掻い摘んだ要点を私は少しずつ話し始めた。
「私、ボルカノさんにどうしても聞いてほしい話があって。でも、話した所で…信じてもらえなかった。それでついカッとなって…怒鳴って出て来ちゃったんです」
「ああ…あの人、他人の話聞かなさそうだものねえ」
「そうなんですよ」
町の人からもそう見られていると知って、つい可笑しいと笑ってみせた。ルインさんは笑い返すようなことはせず、口をへの字に曲げて「あまり気にしちゃダメだよ」と慰めてくれる。
「……でも、怒鳴ったの良くなかったよなって。冷静になって考えてみたら…そう思ったんです。もっと別の話し方をしていれば、きっと少しは聞いてもらえたのかもって」
「詳しい事情は聞かない方がいいんだろうけどね。……霧華ちゃんはよく頑張ってると思うよ。ぶっちゃけあの人、町の連中に評判良くないんだ。悪い噂ばっかりさ。館に引き籠って変な研究ばっかりしてるとか、魔物雇ってるとか。おまけに女はとっかえひっかえしてるって言うし」
町の人が迷惑しているレベルではなく、人として評判が悪すぎることに苦笑いを浮かべてしまう。根も葉もない噂が一人歩きしているみたいだ。
「そ、それは誤解もありますよ。変な研究……は否定できませんけど。女の人に関しては勝手に言い寄られてるみたいで、むしろ心配になるぐらい興味ないみたいです」
「へえーそうなのかい?それは初めて聞いたね。……まあ、そんな評判の人だったけどさ。霧華ちゃんが来てから少し変わったなあって思ってたのよ。ロクに姿も見かけなかったのが外に出るようになったし、偶に挨拶もする。何だか雰囲気も変わった気がしてね」
「雰囲気、ですか?」
「ああ。なんて言うんだろうね。表情が出てきたっていうか……感情が丸くなったというか。だから、アンタ達上手くやってんだなーって思ってたのさ」
自分はボルカノさんの事をよく知らない。彼がどんな人で、どういう風にこの町で過ごしてきたのかなんて知る筈もなかった。私は遠い昔に画面越しに見ていただけだから。モウゼスの人達の方が彼の事を余程知っている。あれでも丸くなったというんだ。元を知らないから、何とも言えない。
「人間生きてりゃ色んな事があるさ。どうにもならなくて、怒りをぶちまける時だってあるんだ。…だから、そう思い悩む必要はないと思うよ」
「……そう、ですね」
私の両肩に触れたルインさんの手は大きくて、温かい。懐かしい気持ちがこみ上げてきた。小さい頃に友達とケンカして、大泣きして帰ってきた日に母親がやっぱりこんな風に諭してくれた。この優しい眼差しに胸がきゅっと締め付けられる。
「あの人の事、嫌いじゃないんだろう?」
「…あ、はい。好き嫌いとかじゃなくて……何て言うか、この人になら任せても大丈夫だっていう気持ちが。悩んでたり、迷ってる時に自信満々に大丈夫だって…言ってくれて、安心できたんです」
「アンタは信頼してんだね、あの人の事」
ああ、そうだったんだ。この気持ちが信頼という感情だと、言葉にして初めて気づくことができた。
この世界に急に喚び出されて、不安で仕方なかった時にそれを見透かすように声を掛けてくれた。心配は要らない。オレに任せておけ、と。
だから私は、迫る可能性がある危機を報せたかった。でも、どうしたらいいんだろう。
「……どうしたら、私の話聞いてもらえるんだろう」
「まずは謝る事。相手にも非はあるんだろうけど、どっちかが折れないと一生話なんか出来やしないよ。頭に血が上ってると余計にね。相手はプライドの塊みたいなもんだろうし」
「まあ確かに……プライド高いですね」
彼の弟子達もいずれはそうなってしまうんだろうか。師は弟子の鏡とも言うし。ちょっと心配だ。
不意にルインさんの優しい目がすっと細められた。どこか、物悲しい色をしている。その理由はすぐに分かった。
「昔ね、若い頃に友達と大喧嘩したんだ。原因は下らない事だったけど、どっちも謝るに謝れなくてね。随分長い間口を利かなかった。……結局、仲直り出来ないままその子は遠い町に嫁に行っちゃったよ。もう何年も経つよ。ゴメンってたった三文字がどうして出てこなかったのか」
「……ルインさん」
「だから、アンタは後悔しないうちに早く行っといで。今日はもう上がっていいから」
「え、でも。今日はルインさん一人で」
「そんなの慣れっこだよ。霧華ちゃんが来る前はいつも一人で店番してたんだ。ほら、駆け足!」
「は、はいっ!」
両手を打ち鳴らす乾いた音がパンッと響いた。それに動かされた私は仕事用のエプロンを慌てて畳む。それをルインさんに預けた時、彼女はいつものにこやかな笑顔で私を見送ってくれた。
勢い任せに外へ飛び出したはいいものの、何て話せばいいんだろうか。私がこの世界の物語を知っていると話せばいいんだろうか。でもそれだとますます胡散臭いと渋い顔をされそうだ。目に浮かぶ。
とにかく、先ずは謝ろう。一方的に感情を取り乱して怒鳴ったのは自分だから。私は胸元のネックレスをそっと握りしめた。
躊躇いがちに進めていた歩みが一変したのはこの直ぐ後だ。
町の人がどよめいていた。館の方で騒動が起きている、死者が多数出ていると。