第一章
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12.予兆
「……なんだこれ」
目の高さに持ち上げたビーカーの中身は不思議さに満ちていた。数種類の液体を混ぜていたはずが、何層にも分離してしまい、七色になっている。作業台に置いたランプの灯りに頑張って透かしたところで同じ。本来ならば手元のメモの通りに黒くなるはずだ。これはどう見ても失敗作。ここに至るまでの経緯も思い出せない。確かなのは上の空で作業していたことぐらい。
私が零した溜息は静かな空間に空しく吸い込まれていった。
集中できない理由は三日前に来訪した曲刀の男にある。一階ロビーで暴れていったきり今の今まで何の音沙汰もない。町の中で動きも噂も特にない。それが余計に不安を煽っていた。もしかしたら町の周辺には居ないのかもしれない。だとしても、この館に乗り込んでくる可能性は充分にある。
ボルカノさんはあれ以来、頻繁に館を留守にするようになった。外出時間はほんの数時間程度。恐らくは死者の井戸を探りに行っている。北側の術士も動きを見せているのかは分からない。
二人の衝突はもう避けられないのだろうか。ウンディーネさんとは直接会って話をしたことはないけど、どちらかが死んでしまうのは嫌だった。いつだって私は二人が生還する道を選んだ。それは魔王の盾狙いでもあったからだけど。それと同じ様にハリードも先に井戸の中身を手に入れてしまえばいいのに。これから先、どの未来に辿り着くんだろうか。
ビーカーの中身を処分しなければ。再利用をと考えてみた所でいいアイディアが浮かばない。いっそこのまま飾ったらどうだろう。見た目は面白いし。ちょっとしたインテリアに最適ではないだろうか。作業台に頬杖をついて目を瞑りながらそんな事を考えていた。
◇◆◇
荒らされた室内。真っ黒に焦げ付いた痕跡、床や壁に刃物で斬りつけた無数の傷痕。書棚の中央から下へと引きずった血の痕。その真下で深紅の服を着た人間が書棚に力なくもたれかかっている。男は既に息を引き取っていた。
大きな物音に私はハッと目が覚めた。酷い夢を見た。胸を抉られるような圧迫感。呼吸が苦しくて、心音が煩い。
うすらぼんやりと映る光景は先程と何一つ変わらない。調合を途中で断念した失敗作、B5サイズのメモ書きとして使っているノート、薬包紙や匙がそのまま作業台に放置されていた。室内も荒らされた様子もなく、異常が無い。私が居眠りをしている間に館の主が外から戻ってきた以外は何も変わらなかった。
彼はスーツと同系色の外套をコート掛けに引っ掛けて、「風邪を引くぞ」とだけ言ってきた。
「作業に集中できない程の睡魔を感じるなら一度睡眠を取れ。効率も良くなる」
「……そう、ですね。……あの、ボルカノさん」
「どうした」
さっきのはあくまで夢だ。それは分かっている。でも、これ以上私一人の胸の内に留めておくことは出来そうにない。不安値はとっくに許容量を超えていた。今から話す事は後になって唯のエゴだと気づくだろう。でも、もしかしたら何かが変わるかもしれない。ほんの少しでも未来を変えることができたら。そんな淡い期待を私は抱いていた。
「お願いです。私の話を聞いてもらえませんか」
作業台の上に目を落としていた彼の視線がこちらに向く。何か言いたそうだったけど、その失敗作の話は後で幾らでも聞く。だから、先ずは話を聞いて欲しかった。
私はさっき見た夢の内容、これから起こり得る未来の話、寝返った冒険者が暗殺に来るかもしれないことを話し始めた。
それを黙って聞く姿勢は単に呆れているだけかもしれなかった。
書斎机の椅子に足を組んで腰掛け、膝の上で手を組む。それから感情の起伏がない声色でこう返した。
「正夢にでもなるというのか。……信憑性がない上に馬鹿げている」
「……確かに考えすぎかもしれません。でも!有り得る未来なんです。井戸の中身、魔王の盾はまだ誰の手にも渡っていないんですよね?ウンディーネさんにも、この前来た冒険者…ハリード達にも」
琥珀色の澄んだ目が色を変えた。私が到底知る筈も無い情報を何故知っているのか。そう言いたそうに整った薄い唇を開こうとするも、そこで言葉を噤んだ。
暖炉の火がパチパチと音を立てる。置かれた間が酷く長く感じたのは私だけだろうか。相手を探る様な目つきに怯えそうにもなった。ここで目を逸らしたら今度は私が疑われる。私は迫りくる危険を報せたいだけだ。
「どうして君が井戸の中身を知っている」
「ボルカノさんがウンディーネさんとそれを巡って睨み合いをしているのも知っています。向こうも同じように腕利きの冒険者を雇って暗殺を目論んでいる。それと近々バンガードで術士を集めることになるんです。アビスゲートを閉じる……海底宮にいる四魔貴族のフォルネウスと戦う為には海上要塞であるバンガードを浮上させないといけない。その動力は玄武術なんです。そうなれば必要とされるのは玄武術士であるウンディーネさんの方。ボルカノさんに牙が向く可能性は充分あるんです」
「いい加減にしてくれ。……憶測も甚だしい。どこで盾の話を聞いたかは知らないが、それが手に入れば送還術の仮定が成り立つ。……それにもう大分前から練っていた計画で」
「それこそ唯の仮説じゃないですかっ!」
とりつく島も許されなかった。絵空事だと全く信じてもらえていない事、淡い期待を砕かれた事。体の奥底から込み上げてきた憤りが声を張り上げていた。次第にどうしようもなく沸々と怒りが湧いて、その捌け口は何処にも無いと下唇を噛みしめた。喚き散らした所で聞いてはくれない。
相手の顔も見ていられなくなった私はくるりと背を向けた。階段フロアに続くドアノブを押し下げ「下にいます」と聞こえるかどうか分からない声量で伝えて、ドアを静かに閉めた。
一階まで続く長い階段は薄暗くて月明かりだけを頼りにしていた。あまりにも足取りが重くて、少しでも踏み外したら転げ落ちてしまいそうだった。
四階まで下りただろうか。このまま一階まで下りるか悩ましい。ロビーに誰かが居たら事情を聴かれてしまう。今は誰とも口を利きたくない。話した所で信じてもらえる自信は全くない。今さっきの会話、疑惑の目を思い返すと目頭がじわりと熱を持つ。やがて大粒の涙が頬を伝っていき、視界が一気にぼやけた。
悔しかった。私は唯、迫る危機を伝えたかっただけだ。存在し得る未来を少しでも変えたかった。でもそれは無理なのかもしれない。シナリオは筋書き通りに辿っていく。
真っ向から否定されてしまったことが何よりも辛いと感じてしまった。少しも耳を傾けてくれなかった。もしかしたら、という気持ちがあった。そうだよね。急に「死ぬかもしれないから気をつけろ」って言われても信じるはずない。何の力も無い私の声じゃ彼には届かないんだ。
一段目の階段で膝を抱えた私は手摺に頭を預けた。涙が当分止まりそうにない。
「……なんだこれ」
目の高さに持ち上げたビーカーの中身は不思議さに満ちていた。数種類の液体を混ぜていたはずが、何層にも分離してしまい、七色になっている。作業台に置いたランプの灯りに頑張って透かしたところで同じ。本来ならば手元のメモの通りに黒くなるはずだ。これはどう見ても失敗作。ここに至るまでの経緯も思い出せない。確かなのは上の空で作業していたことぐらい。
私が零した溜息は静かな空間に空しく吸い込まれていった。
集中できない理由は三日前に来訪した曲刀の男にある。一階ロビーで暴れていったきり今の今まで何の音沙汰もない。町の中で動きも噂も特にない。それが余計に不安を煽っていた。もしかしたら町の周辺には居ないのかもしれない。だとしても、この館に乗り込んでくる可能性は充分にある。
ボルカノさんはあれ以来、頻繁に館を留守にするようになった。外出時間はほんの数時間程度。恐らくは死者の井戸を探りに行っている。北側の術士も動きを見せているのかは分からない。
二人の衝突はもう避けられないのだろうか。ウンディーネさんとは直接会って話をしたことはないけど、どちらかが死んでしまうのは嫌だった。いつだって私は二人が生還する道を選んだ。それは魔王の盾狙いでもあったからだけど。それと同じ様にハリードも先に井戸の中身を手に入れてしまえばいいのに。これから先、どの未来に辿り着くんだろうか。
ビーカーの中身を処分しなければ。再利用をと考えてみた所でいいアイディアが浮かばない。いっそこのまま飾ったらどうだろう。見た目は面白いし。ちょっとしたインテリアに最適ではないだろうか。作業台に頬杖をついて目を瞑りながらそんな事を考えていた。
◇◆◇
荒らされた室内。真っ黒に焦げ付いた痕跡、床や壁に刃物で斬りつけた無数の傷痕。書棚の中央から下へと引きずった血の痕。その真下で深紅の服を着た人間が書棚に力なくもたれかかっている。男は既に息を引き取っていた。
大きな物音に私はハッと目が覚めた。酷い夢を見た。胸を抉られるような圧迫感。呼吸が苦しくて、心音が煩い。
うすらぼんやりと映る光景は先程と何一つ変わらない。調合を途中で断念した失敗作、B5サイズのメモ書きとして使っているノート、薬包紙や匙がそのまま作業台に放置されていた。室内も荒らされた様子もなく、異常が無い。私が居眠りをしている間に館の主が外から戻ってきた以外は何も変わらなかった。
彼はスーツと同系色の外套をコート掛けに引っ掛けて、「風邪を引くぞ」とだけ言ってきた。
「作業に集中できない程の睡魔を感じるなら一度睡眠を取れ。効率も良くなる」
「……そう、ですね。……あの、ボルカノさん」
「どうした」
さっきのはあくまで夢だ。それは分かっている。でも、これ以上私一人の胸の内に留めておくことは出来そうにない。不安値はとっくに許容量を超えていた。今から話す事は後になって唯のエゴだと気づくだろう。でも、もしかしたら何かが変わるかもしれない。ほんの少しでも未来を変えることができたら。そんな淡い期待を私は抱いていた。
「お願いです。私の話を聞いてもらえませんか」
作業台の上に目を落としていた彼の視線がこちらに向く。何か言いたそうだったけど、その失敗作の話は後で幾らでも聞く。だから、先ずは話を聞いて欲しかった。
私はさっき見た夢の内容、これから起こり得る未来の話、寝返った冒険者が暗殺に来るかもしれないことを話し始めた。
それを黙って聞く姿勢は単に呆れているだけかもしれなかった。
書斎机の椅子に足を組んで腰掛け、膝の上で手を組む。それから感情の起伏がない声色でこう返した。
「正夢にでもなるというのか。……信憑性がない上に馬鹿げている」
「……確かに考えすぎかもしれません。でも!有り得る未来なんです。井戸の中身、魔王の盾はまだ誰の手にも渡っていないんですよね?ウンディーネさんにも、この前来た冒険者…ハリード達にも」
琥珀色の澄んだ目が色を変えた。私が到底知る筈も無い情報を何故知っているのか。そう言いたそうに整った薄い唇を開こうとするも、そこで言葉を噤んだ。
暖炉の火がパチパチと音を立てる。置かれた間が酷く長く感じたのは私だけだろうか。相手を探る様な目つきに怯えそうにもなった。ここで目を逸らしたら今度は私が疑われる。私は迫りくる危険を報せたいだけだ。
「どうして君が井戸の中身を知っている」
「ボルカノさんがウンディーネさんとそれを巡って睨み合いをしているのも知っています。向こうも同じように腕利きの冒険者を雇って暗殺を目論んでいる。それと近々バンガードで術士を集めることになるんです。アビスゲートを閉じる……海底宮にいる四魔貴族のフォルネウスと戦う為には海上要塞であるバンガードを浮上させないといけない。その動力は玄武術なんです。そうなれば必要とされるのは玄武術士であるウンディーネさんの方。ボルカノさんに牙が向く可能性は充分あるんです」
「いい加減にしてくれ。……憶測も甚だしい。どこで盾の話を聞いたかは知らないが、それが手に入れば送還術の仮定が成り立つ。……それにもう大分前から練っていた計画で」
「それこそ唯の仮説じゃないですかっ!」
とりつく島も許されなかった。絵空事だと全く信じてもらえていない事、淡い期待を砕かれた事。体の奥底から込み上げてきた憤りが声を張り上げていた。次第にどうしようもなく沸々と怒りが湧いて、その捌け口は何処にも無いと下唇を噛みしめた。喚き散らした所で聞いてはくれない。
相手の顔も見ていられなくなった私はくるりと背を向けた。階段フロアに続くドアノブを押し下げ「下にいます」と聞こえるかどうか分からない声量で伝えて、ドアを静かに閉めた。
一階まで続く長い階段は薄暗くて月明かりだけを頼りにしていた。あまりにも足取りが重くて、少しでも踏み外したら転げ落ちてしまいそうだった。
四階まで下りただろうか。このまま一階まで下りるか悩ましい。ロビーに誰かが居たら事情を聴かれてしまう。今は誰とも口を利きたくない。話した所で信じてもらえる自信は全くない。今さっきの会話、疑惑の目を思い返すと目頭がじわりと熱を持つ。やがて大粒の涙が頬を伝っていき、視界が一気にぼやけた。
悔しかった。私は唯、迫る危機を伝えたかっただけだ。存在し得る未来を少しでも変えたかった。でもそれは無理なのかもしれない。シナリオは筋書き通りに辿っていく。
真っ向から否定されてしまったことが何よりも辛いと感じてしまった。少しも耳を傾けてくれなかった。もしかしたら、という気持ちがあった。そうだよね。急に「死ぬかもしれないから気をつけろ」って言われても信じるはずない。何の力も無い私の声じゃ彼には届かないんだ。
一段目の階段で膝を抱えた私は手摺に頭を預けた。涙が当分止まりそうにない。