ひがんのひなぎくたち

二、練習


秦広しんこう様、間違えています」

 指摘され、秦広王は今しがた書いた文字を確認した。王という文字を書くも、横線が一本多かった。もう一度書く。今度は間違えることなく書くことが出来た。目の前の女性冥官みょうかんは頷くと、別の文字を書くよう指示する。

 二人は文字書きの練習をしていた。秦広王は生前文字を書いた事がなく、冥府に来てからこの冥官に教えて貰っていた。十王じゅうおうになったら、必然的に文字を沢山書く。だからこそ、懸命に練習をしているのだ。

 今は自分の呼び名である「秦広王」という字を練習していた。何度書いても上手くいかない。お手本をじっくりと見つつ、秦広王は歪な形で名前を書いた。

「お上手です」

 そう冥官が答える。上手いとは言えない字を見て、彼女はほんの少し口角を上げ微笑んだ。

「秦広様、そろそろ休憩にしましょう。今お茶を淹れてきます」

 立ち上がると素早く部屋から出て行く。それを見届けると、秦広王は思い切り息を吐き出した。椅子に深く寄りかかると、ぼうっと天井を見る。他の十王候補達は文字が書ける。なのに自分は未だに書けない。そう思うと焦燥感に襲われる。

 そんな時、部屋の外から楽しそうな声が聞こえてきた。声からして、閻魔王と五官王ごかんこうだ。きっと二人も休憩をしているのだろう。声が近くなってくる。聞きたくないのに自然と声が入ってきてしまう。

 思わず、舌打ちが漏れた。

 思っていたよりも大きな音が出てしまい、秦広王は直ぐに口元を抑えた。外の二人に聞こえていない事を祈りつつ、また耳をそばだてる。

「それでね、ごかんくん」
「おい、少しは前見て歩け。転ぶぞ」
「だいじょ――」

 派手な音が聞こえてくる。きっと閻魔王が転んだのだろう。先程した舌打ちはどうやら聞こえていないようだった。ほっと胸を撫で下ろす。

 ――閻魔王大丈夫か……。いや、自分には関係ない事だ。

 首を横に振る。今は殆ど関わる事のない相手なのだ。心配した所で無駄だろう。秦広王はそう考え、ほかの事を考えようとした。だが、どうしても閻魔王の事が頭から離れず、また大きく息を漏らした。その瞬間、扉を控え目に叩く音がした。きっと冥官が戻ってきたのだろう。先程お茶を淹れて来ると言っていた。もしかしたら両手が塞がっているかもしれない。立ち上がり、扉をゆっくりと開く。

「ありがとうございます。秦広様」

 扉が開くとは思っていなかったのだろう。冥官は驚いた様子で秦広王を見ていた。

 通れるよう秦広王は端へ寄る。お辞儀をすると冥官は部屋へと入り、机の上へお茶とお茶菓子を置いた。

「秦広様。いちご大福があったので、ひとつ頂いて来ました。どうぞお召し上がりください」
「ありがとう」

 感謝の言葉を言い、秦広王は座り慣れた椅子へと座る。文字書きの練習に使っていた道具を一式どかす。

 いちご大福とお茶を交互に見る。どちらからいくかで少し悩むも、すぐにお茶から飲む事を決めた。飲み慣れた味のお茶は、何故かほっとさせてくれる。秦広王は肩の力を抜き、湯呑みを置くといちご大福を手に取った。中のいちごが大きいのだろう。食べ応えがありそうだ。一口齧ると餡子の甘みと、いちごの甘酸っぱい爽やかな味が一気に押し寄せた。夢中で貪っているも、視線を感じそちらを見る。冥官にじっと見られていた。

「美味しいですか?」

 声には出さず、頷いて返事をする。ずっと見られていた。恥ずかしく、顔が熱くなったような気がする。だが、いちご大福が美味しいのがいけないのだ。秦広王はそう思うと、残りを一気に食べる。喉に詰まらないよう、よく噛んでから飲み込む。

 ――美味しかった。

 お茶を一口飲む。餡子と緑茶。その両方が合わさった事により、幸福度が増す。もう、閻魔王の事は頭に無かった。今が幸せなのだ。ならば、それで良い事にしよう。

 空っぽになった湯呑みをお盆に戻す。夕方まで文字書きの練習を頑張ろう。よし、と小声で言い、秦広王はまた練習を再開した。
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