ひがんのひなぎくたち

一、気付く


 死んだら楽になる。そんな事、誰かが言った。しかし、本当にそうなのだろうか。

 聞こうにも、死んでしまったらもう聞けない。聞けるとすれば、死後の世界の住人だけだ。
 




 静かな部屋に、唸り声が響く。難しい顔をしながら、五官王ごかんおうは目の前の書類と睨めっこしていた。

 ――秦広王しんこうおうの秦の字、どうやって書くんだ。

 同じ部屋にいる冥官みょうかんへ聞くか悩んだが、五官王はやめた。何となく聞くのが恥ずかしかったからだ。生前であれば、スマートフォンを開けば直ぐに確認が出来た。しかし、ここ死後の世界には使い慣れたそれは無い。代わりに代替品の似たようなものはあった。

 ――このスマホみたいなやつ、緊急連絡時以外、何故か仕事中開けないんだよな。

 机の上に置いたスマートフォンのような物体を一瞬見るも、今は使えない。五官王は溜息を吐く。こうなったら仕方がない。

 ――何となくで書いとくか。

 一か八かの勝負に出る事にした。間違えていても、きっと笑って許してくれるだろう。そう思い、五官王は筆を滑らせた。

 その様子を後ろで見ている青年がいた。真っ赤な髪と瞳で、微笑みを浮かべているのが印象的だ。青年は今しがた五官王の書いた文字が間違えている事に気が付くも、それを指摘するかで悩んでいた。それをしてしまえば、漢字が読めて、書ける事を五官王に知られてしまうからだ。それはどうしても避けたかった。ましてや、秦を奏と書き間違えているのだ。これを指摘してしまえば、細かい間違いにまで気が付き、今まで漢字が書けない振りをしていた事がバレてしまう。

 やはり、ここは気が付かなかった事にした方が良いだろう。そう考えると、青年は壁に寄りかかった。そんな時、五官王が振り返り、青年の事を見ると口を開いた。

「なあ、閻魔。座んねえの?」

 五官王は青年――閻魔王へそう声を掛ける。閻魔王は朝からずっと五官王の斜め後ろに立っており、時折手元を覗き込んでいた。椅子があるのに何故だか座らない。疲れてしまうだろうと五官王は思い、それとなく声を掛けた。

 声を掛けられると思っていなかった閻魔王は少し驚くも、直ぐに笑みを浮かべ首を振る。

「きょうは、たってたいきぶん」
「そ。疲れたら座れよ」
「うん。ありがとう」

 そう言うと、五官王はまた目の前の書類と睨めっこし始めた。二人の会話が終わると、ずっと同じ部屋で仕事をしていた青年の冥官は、一段落したのか立ち上がり閻魔王へ近付く。身長が高く、顔の半分を前髪で隠しているのが印象的だ。

「閻魔様」

 優し気に声を掛ける。壁に寄りかかったまま、閻魔王は顔だけその冥官へ向けた。

 冥官は一瞬、閻魔王から視線を外す。しかし、直ぐに視線を戻すと口を開いた。

「昨晩はその……。眠れましたか?」

 その言葉に今度は閻魔王が視線を逸らした。直ぐに答えれば怪しまれずに済むだろうと気が付くと、閻魔王は冥官へ視線を戻し、笑顔で答えた。

「……うん」

 だが、少しだけ間が空いてしまう。冥官も、その場にいた五官王もその事に気が付いた。閻魔王は眠れていない。だが、その事を二人は指摘しなかった。

「眠れたのなら、良かったです」

 優しくそれだけ返すと冥官は自分の机に戻り、仕事を再開する。また部屋が静かになり、筆を滑らせる音だけが響いた。

 閻魔王は先程嘘をついてしまった事を気にしていた。時期閻魔王候補なのに、妄言を吐いてしまったからだ。思わず溜息が漏れ出る。

 何となしに仕事をしている二人を見る。自分だけ、する事が無い。そう思うだけで心が重くなる。閻魔王はただ、眺めていた。


 


 死後の世界。冥府と呼ばれるその場所に、時期十王じゅうおう候補と呼ばれる青年達がいた。十王とは亡者を裁く、冥府にいる十人の裁判官のことを指す。

 現十王に見出された十人の青年達は、十王になるべく日々手伝いに追われていた。彼らは死してなお、生前の記憶を持ったまま冥府にいる。

 ――死んだら楽になる。

 そう言われる事もある。だが、この場所にいる彼らにとっては、少し違うのかもしれない。

 苦しみ悩んだ先で救われる。

 そんな淡い期待を胸に、時期十王候補達は今を懸命に過ごしている。
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