第一幕 斯くも暗き水底で

 前髪で顔半分を隠した端正な顔の男は、今日も地上が見える唯一の鏡の前へと立つ。ここから呼びかければ、上へと声が届く。人が近くにいるのを見て、すかさず声を出した。

 「助けて」

 それだけを言う。今まで反応してくれる人は誰一人いなかった。けれど、もしかしたら次に現れる人は気がついてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱き、今日も懲りずに声を掛ける。妹と同じ位の年頃の少年だ。黒髪で、短く切った髪がとても爽やかに見える。目つきは悪かったが、人相が悪いとまではいかない。年齢的にも、外見もつり合いが取れるだろう。だからこそ、この男には返事をしてもらいたかった。少年は、声に気が付いたようだった。辺りを見渡している。もう一度、先ほどと同じ言葉を言う。ゆっくりと、こちらへ近づいて来た。男はにやりと笑った。

 少年の周りに波が集まってくる。それはやがて少年を飲み込むと、一気に水底へと連れてきた。

 「これでやっと……」

 笑いが、止まらなかった。妹と共に生贄としてここに来て早数百年。男の呼びかけに初めて反応してくれたのだ。喜びが、全身から溢れ出す。これであの子を地上へ帰してあげることが出来る。きっと、喜んでくれるだろう。そう思い、少年を迎えに行った。





 男が過ごしている場所は、すいひ島一体を守る神が与えてくれた建物だった。とにかく広く、入口まで行くのも苦労する。だが、そんな事が気にならないくらい、男は嬉しかった。自然と、歩く速度が上がる。この角を曲がれば入口だ。ゆっくりと、扉を開けた。そこには、先ほど陸にいた少年が立っていた。どこなのか分からず、困惑しているようだ。音を立てて近づくと、少年はどこか安心したような表情へとなった。

 「ようこそ、来てくれて嬉しいです」
 「……あ、あの、ここどこです?」
 「私は海凪みなぎと申します。あなたのお名前は何ですか?」

 どこか聞かれるも男――海凪は無視をした。海の底と言った所で、恐らく信じてくれないだろう。だが、少年はまた同じ事を言った。

 「ここがどこか言ったところで、どうせ信じてはくれないでしょう」
 「そんなの言ってみないと、分かんねえだろ」

 先ほどは敬語だったのに、少年はいきなりため口へとなった。これは、あまり印象が良くない。呼ぶ人間を間違えたのかもしれない。だが、もう呼んでしまったのだ。取り敢えず、目を瞑ろう。

 「仕方ないですね。ここは海の底です。これでいいでしょう?あなたのお名前を聞かせてください」

 少年は驚きを隠せないといった表情だった。だが、周囲の景色を見て納得しているようでもあった。

 「俺はうみ。で、上に戻る方法は?」
 「では、海君。こちらへ来てください」
 「あ、おい!質問に答えろ」

 今度こそ無視を決め込む。簡単に戻れるのなら、自分たちもとっくに陸へ上がっている。そんな簡単な事も分からないのかと、海凪は苛つく。だが、これからだ。

 「なあ、おい、海凪」
 「初対面相手に呼び捨てですか。感心しませんね」

 それだけ言うと、海凪は歩き始めた。これから大事な妹の元へと行くのだ。少し黙っていてもらいたい。

 少し廊下を歩くと、海凪は立ち止まり海の方へ振り返る。先に言っておかなければいけない事があるのを、すっかり忘れていた。

 「これから海君には、私の妹と結婚してもらいます。いやあ、めでたいですね」

 にこやかに、海へと言った。一方海は、まるで時間が止まったように固まってしまう。海凪の言った事が、理解出来ないようであった。

 「……は?」

 また何か言われたら面倒くさい。そう思い、海凪は前を向くと静かに歩き始めた。後ろで何か言っているような気もしたが、無視をする。今日は良い日になりそうだ。自然と、笑みがこぼれた。
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