背中を押すもの


 夕暮れに朱く染まる駅のホームに、私は立ち竦んでいた。
 終点の一駅手前に位置するこの小さな駅には、所謂ラッシュと呼ばれる類いの時間にしか利用客の姿はない。今、この時間は、私のための貸し切りと言える。意味のなさない監視カメラが、デタラメな方向を向いている。
 都会の喧騒から程よく離れたこの田舎町には、公共交通機関も乏しい。町の中央区に近付けばそれなりの賑わいを見せるが、地方都市なんてどこもそんなものだ。
 まわりを見渡せば広がるのは特産品とされている緑黄色野菜の畑。背の高い建物なんてものはなく、唯一視界に入るのはホームから小さな道を一本挟んだところにある自動販売機くらい。
 近所の青年だろうか。男が一人、スマートフォンで通話しながら飲み物を買っている。普段なら見る機会の少ない天井がこちらからはよく見える。小綺麗なものだ。申し訳程度のやや背の低いフェンスが、この空間と向こうを隔てている。
 一人きりの時間。構内にアナウンスが流れる。どうやら快速電車が通過するらしい。この小さな駅には、もちろん各駅停車しか停まらない。
 人気のない空間に、その声はやけに大袈裟に感じた。人間の代わりに震える空気が、私の心を急き立てる。
 電車の接近を知らせるベルの音が響く。目を閉じれば、遥か遠くのその音が、振動が、衝撃が、今すぐにでも届きそうな気がした。
 最後の舞台に相応しい。私は息を大きく吸い込んだ。もうきっと、未練なんてない。
 黄色い線を一歩踏み越える。ここは今、最も綺麗な場所だ。
 不純物がいない。すぐ私も、いなくなるから。
 警笛の音が聞こえる。これで私は楽になれる。



「だから、これでも急いだって言ってるだろ?」
 オレは親友との約束に遅れていた。耳元に当てたスマホから、その親友の怒鳴り声が響く。
『お前が居残りなんてするから、こんな時間になっちまったんだろ? もう夕方じゃねえか。夕日の作品は影になるから駄目だって、この前わかったとこだろ!?』
「だから悪かったって! もういつものとこ着いてるのか?」
『ああ。いつまで経ってもお前が来ないから待ちくたびれてコーヒー飲んでるよ』
「そうか」
 オレはスマホを片手に持ったまま、財布を取り出し切符を券売機から購入する。
 これから親友と共に芸術品を一点製作予定なのだ。いくら作品のためとは言え、こう毎日毎日出費があると――一番安い料金と言っても学生には辛い出費だ。
 電車が通過するというアナウンスが鳴った。時刻ピッタリ。
『電車来てるじゃねえか』スマホからはまだ親友の怒声が響いている。
 それに釣られるように走りながら改札を抜ける。階段に一歩踏み出したところで、ホームからベルの音が駆け上がってきた。この嵐の前の警告のような、そんなビリビリ感が堪らない。
「だから悪かったって! つか、いつ聴いてもベルの音って気持ちいいー! そこから遅れて現れる、あの白いフォルムの美しさと言ったら、たまんねえなーおい!」
『電車の車両でそこまで興奮出来るお前は、ある意味尊敬するよ』
「お前だって撮り鉄の端くれだろうが。あー、もうすぐすれ違うんだぜ! あの白い素顔をビチャビチャに汚してー!!」
 けたたましいホームからの騒音に負けないように親友とほとんど叫び合いながら階段を降りていると、珍しいことにホームに先客がいた。
 美しい少女だった。少女だと辛うじてわかったのは、彼女が高校の制服を着ていたからだ。確か近くの高校のものだった気がする。自分が数年前に卒業した母校が一瞬頭に浮かぶ。
 少女には表情がなかった。腰まであるロングヘアは傷みが目立ち、その下から覗く病的なまでに白い肌には、生気というものを一切感じられない。
 虚ろな色に塗りつぶされた瞳がゆっくりと閉じられる。大きく膨らむ胸。深呼吸だ。
 本能的にマズイと思った。
『まだかー?』
 能天気な親友の声なんて無視して、咄嗟に走り出した。
 階段を無理して二段飛ばしで降りきる。いつの間にか警笛にすり変わった構内で、彼女は確かに足を進めている。
『おい、どうした?』
 急に黙ったオレを心配した親友の声にも、やっぱり返事をしている余裕はない。スマホなんて放り出して、オレは彼女に飛び付いていた。
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