Reach your heart.
そして超人オリンピック後の現在へ話は逆戻りする。
チャンピオン・ケビンマスクは、出身国である英国に帰ったものの、生家で父母と暮らすことには無言で拒否を示した。
優勝による一連の祝賀行事中は、ロンドン市内のホテルに連泊。しかし母親に懇願され一度だけ家に行き、約10年ぶりに親子3人で夕食の席を囲んだ。
その翌日は父に伴われ現・国主である女王に拝謁し、その帰路で父に『これからどうするのだ?』と問われたが、何も答えず立ち去った。
「どうするか、だと?フッ・・・・そんなことはオリンピック前から決めている」
そう呟いたのはホテルの部屋に入り、完全独りになってから。
寝るには早く着替えもまだだが、先ずはとキングサイズのベッドに寝転がり、着なれないスーツの上着から取り出したメモを眺める。
明後日の取材が済めば自由の身になれることを確認し、明日は住み処探しをしようと決めた。
荷物は大きめなボストンバッグ1つだが、今時は家電付きの賃貸も多く、必要なものだけ買えばいい。
部屋に付いていたとしても使えないのはベッドくらいだ。人間用ではさすがに狭い。
「寝る時は床にマットを敷いてゴロ寝でいいよな。最低限譲れんのはエアコン完備・・・」
長く住むつもりは毛頭無い。せいぜい半年か1年の予定だ。
『亡命』になるのかどうかは分からないが、ケビンは他国への移住を前提に先のことを考えている。
其処は遠い国ではない。海を渡ればすぐだ。
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びっしりと書き込まれたスケジュールを最後まできっちりこなした後、ケビンは休養を理由に超人レスラーとしての活動を一時休止した。
勿論マスコミ関連の取材も全てシャットアウトし、偽名で借りた部屋に人知れずうちに住み始め、誰も自分に連絡が取れぬよう携帯電話の番号も変えた。
新しい環境は思ったより悪くなく、むしろなかなか良い場所であり希望のエアコン付きの部屋でもある。
ケビンは、早く独りになりたかった、早くこんな普通の生活をしたかった。
足りないものや欲しいものは買えば良い。
オリンピックの決勝前、急激な減量をしたおかげで、今は好きなものを量だけ気を付ければ食べられる。
部屋には調理家電一式も備え付けられてあり、買い込んだ食材を使い料理も楽しめた。
長年、一度してみたかった人間達のような普通の生活は、意外なことに超人ケビンに合っているのかも知れない。
だが、何かが足りなかった。
それが何なのかは判っている。
ブロッケンJr.のことだ。
そもそも自分の気持ちと向き合う為の独り暮し、他者を遠ざけてまで作った独りの時間。
「足りなければ得ればいい。何がなんでも欲しければ戦ってでも奪えば良い・・・・モノだけでなく、ヒトも」
呟くだけならば強気なことも言えてしまうが、心の中はとても弱気な自分がいる。
それでも奮い立たねばならない、なるべく早急にだ。
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