[ジョーチェリ]泊まっていいの/合いかぎ
「……なんだこれは」
「見たまんまだ。おれん家の合いかぎ」
「いらん。返す」
「だーっ! 勘違いすんなよ、べつにどうぞ勝手に家に入ってくださいって言ってるわけじゃねえ。なんかあったときにおまえがかぎ持っててくれたらおれも安心だから。な」
「なんかってなんだ……」
あのときのおれは素直じゃなかったと思う。ほんとうはまさに「どうぞ勝手に家に上がってください」だったのだ。なんだったらそのまま、すみついてくれたらいい。閉店後に無遠慮に店に入ってくるのも悪い気はしなかったが、仕事に疲れて家に帰ってきたとき、薫がリビングに座ってたら。あるいはベッドに、待て、はやまるな。いずれにしても、そんなささやかなあこがれがあったのだ。そう正直に言えばよかったのだけど。「いらん」と突き返されて、内心焦り、意地になってしまった。それでまるで便宜上、信頼できる友人に合いかぎを預けておくみたいな言い方になってしまった。
それからしばらくたったが、渡したかぎがつかわれたことはおそらくなく、仕事から家に帰っても、恋人が正座して待っていることもなかった。おれは内心肩を落としていた。
あるとき、貸し切りパーティの予約のある日の晩に薫と約束をしていたのだが、思いのほか片付けに時間がかかってしまい、時間に遅れることになってしまった。スマホを手にとり、メッセージアプリを立ち上げる。
『わるい、30分くらい遅れる。さきに家で待ってて』
既読がつくか確認もできず、おれは厨房にもどった。
そうしてどうにか従業員をかえし、あわただしく戸締まりをすませて目と鼻の先の自分の家へ走れば、予想に反して、薫が家の前で所在なさげにたたずみ、待っていた。あっけにとられているおれをみとめると、開いていた扇子をぱちんと閉じてこちらをにらみつける。
「遅い」
「わるかったよ。……ってそうじゃねえ。なんでこんなとこにいんだよ」
「おまえがそうよこしたんだろ」
「ちげえよ、なんで外で待ってんだ。うちに入ってればよかったじゃねえか。かぎはどうした」
それはないだろうと思いつつ、まさかなくしたのか、といいかけて、薫がおもしろくなさそうに唇をひきむすんでいることに気がついた。なくすかぼけ、と小さい声で言ったきり、そっぽを向く。
「……おい、なに怒ってんだ」
「……った」
「あ?」
「おまえが、勝手に入るなって、言った」
そうごちて、ぷい、とまた顔を横に向ける。そうしてみえた左耳に、ピアスはない。穴もとうにふさがってしまっているだろう。けれど、そうしてむくれている姿は、高校生のころと何も変わっていなかった。
ふわ。むずむず。切ないような、うれしいような。妙な心持ちが胸の中にわき起こった。
はあ、と息をつけば、おい、とまたとがめるようににらまれる。そうじゃない、そうじゃなくて。言い訳をしようとして、まだ薫をここに立たせたままであることに気がついた。自身のかぎをとりだして家のドアをあけ、ぶすくれたままの薫を迎え入れる。ドアが自重で閉じ切るのを待たず、その場で薫を抱きしめた。
「……おい、なんだ」
いまだ声にとげがあったが、拒絶はされなかった。両腕をおろしたまま、抱き返してはくれない。小さな頭を右手で抱き込み、頬をすりよせる。ごめん、とつぶやいた。
「入るなとは言ってない。……ちがうな、そうじゃなくて。あのとき、照れくさくて、あんな言い方になっちまったんだけど。ほんとは、薫には、家にきて、入ってほしかったんだ」
むしろ、うちで待っててくれたらうれしい。そのつもりで、かぎをわたしたんだ。と恥ずかしい本心を告白する。腕をゆるめて、薫の顔が見えるところまで距離をとる。乱れてしまった桜色の髪をそっと手にとり、胸元の毛先までなでて整えてやった。薫はまっすぐにこちらを見据えている。
「……おれも、」
「うん」
「いらないなんて言って、悪かった」
ほんとはうれしかった、と薫は懐に手をいれ、深い緑色の小さな巾着を取りだした。ちりん、と音が鳴る。そっと巾着のひもが解かれる。細い指先にとりだされたのは、おれの家のかぎだった。巾着と同じ色の、根付がついている。鈴も。
「おまえに家で待ってろと言われて。もってきたのだが」
つかおうと思って、けどやっぱり悪いと思って、入らなかった。とつぶやいた薫はかぎをきゅ、と握る。その手をとってかぎごと握り、自身の胸にひきよせた。
「もってて。薫が。それで、気が向いたら、うちにきて」
いつもは胸筋ゴリラだなんだと文句をたれるくせに今日ばかりはおとなしくおれの胸に頬をつけたまま、小さくうなずいた。
それからも、渡したかぎがつかわれることはほとんどなかった。そのくせ、店には相変わらず閉店後に「腹が減った」とずかずかやってくる。そちらのほうが以前のおれたちらしく、気安いのだろう。
育ちか、はたまた性分か。他人と自身との間に線をひき、このおれに対してすらもどこか一線をひいている。自分のテリトリーには入れてくれても、なかなかこちらの領分へは踏み込んでこない。そんなところも含めて好きなのだけど。
たったいちどだけ見せてくれた、小さな緑色の巾着に――おれの家の合いかぎは、家主のもとにいるより、よっぽど大事にされているらしい――、思いをはせるばかりだった。
「見たまんまだ。おれん家の合いかぎ」
「いらん。返す」
「だーっ! 勘違いすんなよ、べつにどうぞ勝手に家に入ってくださいって言ってるわけじゃねえ。なんかあったときにおまえがかぎ持っててくれたらおれも安心だから。な」
「なんかってなんだ……」
あのときのおれは素直じゃなかったと思う。ほんとうはまさに「どうぞ勝手に家に上がってください」だったのだ。なんだったらそのまま、すみついてくれたらいい。閉店後に無遠慮に店に入ってくるのも悪い気はしなかったが、仕事に疲れて家に帰ってきたとき、薫がリビングに座ってたら。あるいはベッドに、待て、はやまるな。いずれにしても、そんなささやかなあこがれがあったのだ。そう正直に言えばよかったのだけど。「いらん」と突き返されて、内心焦り、意地になってしまった。それでまるで便宜上、信頼できる友人に合いかぎを預けておくみたいな言い方になってしまった。
それからしばらくたったが、渡したかぎがつかわれたことはおそらくなく、仕事から家に帰っても、恋人が正座して待っていることもなかった。おれは内心肩を落としていた。
あるとき、貸し切りパーティの予約のある日の晩に薫と約束をしていたのだが、思いのほか片付けに時間がかかってしまい、時間に遅れることになってしまった。スマホを手にとり、メッセージアプリを立ち上げる。
『わるい、30分くらい遅れる。さきに家で待ってて』
既読がつくか確認もできず、おれは厨房にもどった。
そうしてどうにか従業員をかえし、あわただしく戸締まりをすませて目と鼻の先の自分の家へ走れば、予想に反して、薫が家の前で所在なさげにたたずみ、待っていた。あっけにとられているおれをみとめると、開いていた扇子をぱちんと閉じてこちらをにらみつける。
「遅い」
「わるかったよ。……ってそうじゃねえ。なんでこんなとこにいんだよ」
「おまえがそうよこしたんだろ」
「ちげえよ、なんで外で待ってんだ。うちに入ってればよかったじゃねえか。かぎはどうした」
それはないだろうと思いつつ、まさかなくしたのか、といいかけて、薫がおもしろくなさそうに唇をひきむすんでいることに気がついた。なくすかぼけ、と小さい声で言ったきり、そっぽを向く。
「……おい、なに怒ってんだ」
「……った」
「あ?」
「おまえが、勝手に入るなって、言った」
そうごちて、ぷい、とまた顔を横に向ける。そうしてみえた左耳に、ピアスはない。穴もとうにふさがってしまっているだろう。けれど、そうしてむくれている姿は、高校生のころと何も変わっていなかった。
ふわ。むずむず。切ないような、うれしいような。妙な心持ちが胸の中にわき起こった。
はあ、と息をつけば、おい、とまたとがめるようににらまれる。そうじゃない、そうじゃなくて。言い訳をしようとして、まだ薫をここに立たせたままであることに気がついた。自身のかぎをとりだして家のドアをあけ、ぶすくれたままの薫を迎え入れる。ドアが自重で閉じ切るのを待たず、その場で薫を抱きしめた。
「……おい、なんだ」
いまだ声にとげがあったが、拒絶はされなかった。両腕をおろしたまま、抱き返してはくれない。小さな頭を右手で抱き込み、頬をすりよせる。ごめん、とつぶやいた。
「入るなとは言ってない。……ちがうな、そうじゃなくて。あのとき、照れくさくて、あんな言い方になっちまったんだけど。ほんとは、薫には、家にきて、入ってほしかったんだ」
むしろ、うちで待っててくれたらうれしい。そのつもりで、かぎをわたしたんだ。と恥ずかしい本心を告白する。腕をゆるめて、薫の顔が見えるところまで距離をとる。乱れてしまった桜色の髪をそっと手にとり、胸元の毛先までなでて整えてやった。薫はまっすぐにこちらを見据えている。
「……おれも、」
「うん」
「いらないなんて言って、悪かった」
ほんとはうれしかった、と薫は懐に手をいれ、深い緑色の小さな巾着を取りだした。ちりん、と音が鳴る。そっと巾着のひもが解かれる。細い指先にとりだされたのは、おれの家のかぎだった。巾着と同じ色の、根付がついている。鈴も。
「おまえに家で待ってろと言われて。もってきたのだが」
つかおうと思って、けどやっぱり悪いと思って、入らなかった。とつぶやいた薫はかぎをきゅ、と握る。その手をとってかぎごと握り、自身の胸にひきよせた。
「もってて。薫が。それで、気が向いたら、うちにきて」
いつもは胸筋ゴリラだなんだと文句をたれるくせに今日ばかりはおとなしくおれの胸に頬をつけたまま、小さくうなずいた。
それからも、渡したかぎがつかわれることはほとんどなかった。そのくせ、店には相変わらず閉店後に「腹が減った」とずかずかやってくる。そちらのほうが以前のおれたちらしく、気安いのだろう。
育ちか、はたまた性分か。他人と自身との間に線をひき、このおれに対してすらもどこか一線をひいている。自分のテリトリーには入れてくれても、なかなかこちらの領分へは踏み込んでこない。そんなところも含めて好きなのだけど。
たったいちどだけ見せてくれた、小さな緑色の巾着に――おれの家の合いかぎは、家主のもとにいるより、よっぽど大事にされているらしい――、思いをはせるばかりだった。
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