[スモロ]パンが焼けるまで

 たん、たん、とリズムよくパン生地が台にたたきつけられている音が台所に響き渡る。居間のソファで開いた本に視線を落としていたローは、そろりと顔を上げた。スモーカーが、常日頃たばこをくわえているその大きな口を真一文字に引き結び、丸めた大きな生地を一定の高さから繰り返し台へ落としている。ローはしばし無表情のまま、そのスモーカーの横顔を見つめる。しかし叩きつける工程が終わったらしい、生地をおとすのをやめ、額の汗を、まくり上げた片腕の袖で乱雑に拭うスモーカーとあやうく目が合いそうになり、ローはそそくさとまた本へ視線を戻した。ついでに、近くに置いてあったリモコンで、暖房の設定温度を下げてやる。スモーカーは生地を丸めなおし、ボウルに入れて、背後のオーブンを振り返り、そのドア――大きいので上下に開く――をぱかりと開けた。今日は発酵にオーブンをつかうのか、寒いものな、とローは活字に目を走らせながらも頭の片隅で、すっかりおぼえてしまったスモーカーのパンを焼く工程を確認しひとり勝手に納得する。



 スモーカーの趣味は陶芸である。それと関係があるかは不明だが、スモーカーはときどきパンも焼く。ローとしては、そうかこの男はねちねちこねこねして焼き上げることが好きなのだなと少々乱暴な解釈をすることにした。いずれにしてもスモーカーは小麦粉やバターなどを常備しており、時間のある休日は、気が向けば台所に立って力強く生地をこねていた。いわく、ストレス発散になるらしい。同居するローはよりにもよってパンを苦手としているので、残念ながらその成果物の味を共有することができない。いくらスモーカーでもさすがに焼いたパンを一度にすべて一人では食べきれないので、その多くは冷凍庫にしまわれていた。ローはこれまでさしてスモーカーのその趣味に興味を示さなかったのだが、このごろは事情が変わってきた。ひとり自宅で休日を過ごしていたある日のことである。昼を過ぎて腹の空いてきたローは、冷凍してある一人分の白飯を取りだそうと冷凍庫を開けた。そのとき、フリーザーバッグに詰められたスモーカーのロールパンが目に入った。いつもは気にも留めなかったそのパンたちが、その日はローの目に小ぶりでかわいく映った。あの武骨な男がこんなに小さくてかわいいものを生み出すのかと思ったら、不覚にもきゅんとしてしまったのである。ところで、スモーカーはいつ、これらの成果物を消費しているのだろうか? ローと食事をともにするときは基本的に同じものを食べているので、あまりスモーカーがパンを食べている姿を見たことがない。しかし、作ったパンは順次なくなっている――いちいち確認したわけではないがそうであろう――。ローのいない休日に朝食として食べているのか。あるいは、もしかしたら、だれかに分けたり送ったりしているのだろうか? 
 そう思ったら、少なくとも物理的な距離ではいちばん近しいはずの自分がスモーカーの手製パンを食べられないことに、ローはなんだか切なくなってしまった。ローがパンを食べないことを知っているスモーカーは、自身の趣味につかう小麦粉の類を、ふたりが折半する対象の家計から外しているのだった。



 今日も今日とて、順調に生地は発酵したらしい。そうこうしている間にスモーカーは生地を成形して二次発酵に入っていた。発酵さえしてしまえば、焼けるのはあっという間である。ものの数分でオーブンからパンが焼けるよいにおいが――いつの間にかローにとってもいいにおいになりつつあった――漂いはじめ、設定した焼成時間が経ったことをオーブンが告げた。スモーカーは台所の引き出しから緑のしましまのミトンを取りだして両手にはめ――この瞬間を見るのがローのひそかな楽しみのひとつであった――、オーブンから鉄板を取りだした。パンの裏側にも焼き目がついていることを確認し、準備しておいたケーキクーラーの上にひとつひとつトングでパンをのせていく。それが終わったらしいスモーカーは居間に戻ってきて、テーブルの上に広げたままになっているパンのレシピ本の上に貼られた付箋の上に、なにやら書き足していく。そして一旦、自室へ戻っていった。スモーカーが自室からなかなか戻ってこないのを確認し、ローは読みかけの本をローテーブルの上に置いて、抜き足差し足で台所へ向かう。そうして覗いたケーキクーラーの上には、やはり想像した通りの、やさしい焼き色のついたかわいい丸パンが6つ、並べられていた。焼く前に刷毛で卵液を塗られたそれらは、表面がつやつやと光っている。
「……」
 スモーカーが戻ってきそうな物音が家の奥から聞こえたので、ローは慌てて窓際へ戻り、伏せてあった本を手に取りながらカウチの上へ飛び乗った。



 パンごときでローがこうして情緒不安定になっているのには、ほかにも理由がある。ただの同居人であったふたりが恋人になったのは、そうむかしのことではない、ごく最近だった。スモーカーへの想いを静かに募らせていたローが、学生時代からの成り行きで、恋人でもないのに当人と同居していることにいたたまれなくなり家を出る決意をしたところで、腹を決めたスモーカーがローをひきとめ地固まった次第である。そうしてある晩、どちらからともなくそういう雰囲気になり、身体を重ねてみようと試みた。しかし、途中まで受け入れたスモーカーのその質量に驚いてしまったローは、真っ青になってしまった。緊張のあまり手も冷たくなってしまったローのその尋常ならざる様子から、続行は難しいだろうと判断したスモーカーが行為を中断したのだった。以来、ふたりはなんとなく互いに気まずくなってしまっている。恋人になる前は、ローがスモーカーのベッドに潜り込むことが日常茶飯事であったのに、いまではすっかり別々の部屋で就寝しているのだった。こんなことなら、友人のときのままのほうがよかったとすら、ローは思いはじめていた。



       *



 セックスは相手があってできるものなので、ひとりで考えてもどうにもならない。そう結論付けたローは、そのことはひとまず忘れることにした。この日、ローは休みだったが、スモーカーは出勤だった。今日は、ひとりでもできることをしよう。ローはこの日、自宅でちょっとしたいたずらをしようと決めていた。

 ローは、机に伏せてあった携帯端末を手に取り、冷凍したパンの食べ方を再度確認した。数十分前にスモーカーのパンを冷凍庫からひとつ取りだし、テーブルの上で自然解凍させてある。トースターでこれを少し焼くとよいらしい。いつもは電子レンジのおまかせコースで適当に食材をあたためているローは、今日ばかりはトースターのワット数を設定し、ごく数秒、スモーカーのパンをあたためた。焦げやすいので、ローはその場を離れずにパンが焼けるのをじっと見ながら待った。
 そして焦げる前にトースターのつまみを戻して丸パンを救い出したローは、手早くインスタントコーヒーを入れて席に着き、パンをちぎって一口食べる。
「……」
 わるくない。想像以上に、美味かった。歯切れのよいパンというよりは、こしがあって、もちもちしている。力強いスモーカーのことだ、こねすぎてグルテンが多く生成されたのだろうことが想像できた。バターとイーストのかおりがやさしくローの鼻をぬける。ローはふ、とひとり笑みをもらした。
「ばかぢからめ」
 小さなパンだったので、あっという間に食べきってしまった。ちゃんとコーヒーを淹れればよかったかなと少々後悔しつつローは適当にこさえたコーヒーをすすり、椅子の背越しに冷蔵庫、否、その下段の冷凍庫を振り返った。これならもういっこ、どころかいくらでも食べられる。飲みかけのコーヒーカップをテーブルに置いたローは、立ち上がって冷蔵庫の前でかがみ、冷凍庫をあける。スモーカーのパンが入っているフリーザーバッグを再び取りだした。1、2、3、4。さきほどは5個入っていたが、いまローがひとつ食べてしまったので、あと4個しかない。奥に手をつっこみ、またべつのバッグを取りだせば、クロワッサンらしきパンが3個入っていた。だれか他の奴にやるくらいなら、おれが食ってやる、と少々やさぐれた気持ちでバッグの口を開けたが、そのパンたちがスモーカーに似合わずやはり小さくかわいらしく、丁寧に成形されているのを見て、途端に心のとげがなりをひそめた。あのスモーカーがひとつひとつ丁寧に丸めて焼いたそれらを、こんなささくれだった気持ちで食べてしまうのはもったいない。食べるなら、大事に食べよう。ローは元通りぴっちりフリーザーバッグのくちを端から端まで閉め、バッグ同士を丁寧に重ねて冷凍庫の扉を閉めた。食べてしまった手前、材料費は、あとでまとめてスモーカーに支払おうと思った。



       *



 『お前のいない間に丸いパンを二個と、クロワッサンを一個食った。かかった材料費は支払う』
 ローが例の悪さをしてから一週間ほど経ったある日だった。ローはまた無断でスモーカーの丸パンとクロワッサンを食べてみたのだが、その後も一向にスモーカーは気づかない。焦れたローは、メッセージアプリでスモーカーに犯行を白状した。ほぼ毎日顔を合わせるのに、わざわざメールで勤務中のスモーカーに連絡するあたりがローらしい。
「なんだこりゃ」
 職場で昼食をとっていたスモーカーは、自身のスマホを眺めながら、身代金要求の逆バージョンのようなその変わった内容に、意味を解するのに数秒かかり、そののち吹き出した。






「ロー? なんだあの昼間のメールは」
 帰宅の遅いスモーカーを待たず、先に夕食を終えて居間で本を読んでいたローは、ぴくりと反応し、読みかけの本を閉じた。いたずらをしたのがばれた子どものように――というより自らばらしたのだが――、そろりとスモーカーを見上げる。気のせいか、ローの耳殻が赤いとスモーカーは思った。
「あー……わるい。お前のパンを勝手に食った。お前が全然気づかねえからいい加減いたたまれなくなって」
 もともとそんなにストックがあるわけでもなかったので、2、3個食べてしまえばいずれスモーカーに知られてしまうのをローは予想していたのだが、元来、スモーカーは細かいことに気がまわらぬ質であった。今度から折半する食費に入れてくれ、とまでローは言う。
「いや、おれの趣味だし、お前が勝手に食うのももちろんかまわねぇ、どころか歓迎だが。おれが気になったのは、どういう風の吹き回しかと思ってな」
 スモーカーと勤務日がすれちがい、一人で家で過ごす休日に、よほど腹が減っていたのだろうか、とスモーカーは静かに驚いていた。それほどにローはパンを苦手としていたはずだった。
「……」
「……」
「あんなふうに、」
 お前があんなふうにこねて焼いたパンを、だれかほかのやつが食うのかと思ったら。なんか、おもしろくなくて、とローはうつむいた。見間違いではなく、やはり耳殻は赤くなっていた。
「それだったらおれが食ってやるって思って、食った。食ってみたらうまかった」
「……」
「……」
 スモーカーはしばらく固まっていた後、額に片手を当ててため息をついた。ローはスモーカーのその反応の意味が分からず、ただただ決まりが悪くて赤面する。
「なんだよ」
「いや。……そうか」
 スモーカーは手を伸ばして、ローのあたまを撫でた。ローはくすぐったそうに片目をつぶりながら、またちらとスモーカーを見上げる。
「いまの時世、手製の食べ物をもらってもありがたいとは限らねぇだろ。だから誰かにやることはねえから安心しろ」
「ん」
「いつも手前で朝飯に適当に食ってる」
「ん」
「本当はパン苦手なんだろ。無理するな」
「してねえ。ほんとにうまかった」
 また今度お前が焼いたときは、焼き立てを食ってもいいか、とローが聞けば、スモーカーはああとうなずいた。いや、今度はお前の好きなものをつくろう。うどんは好きだったなと問えば、ローは照れたようにうなずいた。いやお前はねちねちこねた後に焼くのが好きなんだろうが、うどんは最後が該当しねえぞと我に返ったローが言えば、スモーカーはなんだそりゃと首を傾げた。






「スモーカー。風呂沸いたぜ」
 入っちまえよ、とローが洗面所から顔を出す。スモーカーは窓際で食後の一服をしていた。
「お前は?」
「昼間シャワー浴びたからまた明日の朝でいい」
「ん。じゃ一緒に入るか」
「ん。ん?」

 わけもわからず洗面所兼脱衣所へ連れ戻され、素っ裸になったローは追い立てられるように風呂場へ放り込まれた。浴槽にはすでにほかほかと湯が張られている。
 そのまま呆然と突っ立っていれば、すぐに背後から同じく裸のスモーカーが入ってきて、ローはその場をごまかすようにシャワーのコックをひねる。冷水のあとすぐに熱い湯が出て、驚いて飛びのけば、何やってんだとスモーカーにつぶやかれた。湯で髪の毛をざっと流して、一度湯をとめてシャンプーを手に取り髪の毛を洗い始めれば、背後からスモーカーの手が伸びてきて、コックをひねり、今度は彼が湯を使い始めた。隅に置かれていた風呂椅子をつかんでシャワーで軽く水を流したスモーカーは、座れば、と突っ立ったまま髪を泡だらけにしているローにすすめた。

 断る理由もないので椅子に座り、ローは髪の毛の泡を流して身体を洗い始めた。シャワーはスモーカーと交代でつかい、スモーカーのほうは風呂桶をつかって浴槽に張られた湯もつかっているようだった。そこまでして一緒に入る意味はあるのかとローは思いながら、丁寧に、しかしすばやく自らの陰部も足も洗い、浴槽に片足をつっこんだ。ところでスモーカーに二の腕をつかまれる。
「なんだよ」
「早くねえか、ちゃんと洗ったのか」
 背中流してやるから待て、とローは再び椅子に座らされる。今日は数刻前に洗ったばかりし、いつもひとりのときはもっと丁寧に洗ってるよ、お前の前で悠長に洗えるかよ恥ずかしい! と内心でローは抗議していた。ローが先ほどまでつかっていたあかすりを手に取り、石けんをこすりつけてさらに泡立てたスモーカーは、丸めたローの背を力強くこすり始めた。
「いて、いてぇよ! おれの皮を剥ぐ気か、やさしくしろ!」
「これくらいでうるせえな、軟弱野郎が」
「お返しにやってやるよ」
 やられたらやりかえすローは、あかすりを奪い取りスモーカーを椅子に座らせ力いっぱいその広い背をこすったが、びくともしないのでおもしろくなかった。おかげで二人の背は少々赤く、しかしつるつるになったのだった。

 文句を垂れつつようやく浴槽に入ることを許されたローは、ぶくぶくと顔を半分ほどまで浴槽に沈めた。
「そうだお前にいいものを買ったんだ」
 まだ身体を洗い終えていないらしいスモーカーは、いったん風呂場から出て洗面所の下の戸を開けてなにやらごそごそと探しているらしい。ほどなくして戻ってきたスモーカーの手には、アヒルの玩具が握られていた。
「なんだそりゃ」
「中将だ」
 ローの浸かっている浴槽に、スモーカーはアヒルを浮かべる。
「誤っててめえが飲みこんじまわない大きさにできているらしい」
「おいおれをいくつだと思っていやがる」
 なんで大将じゃなく中将なんだよとまた文句を垂れつつ、ローはアヒルをつかんで少し力を加えてみた。案の定、パフ、と間抜けな音が鳴る。
「似合うじゃねえかクソガキ」
「おい、中将ってことは少将もいるのか」
「気に入ったなら今度ひとまわり小さいのも買ってきてやる。眼鏡をかけた大佐があったな。あとは目の下に隈があって背に海賊のマークがついてるのがあった。決め台詞は『気を楽にしろ』だそうだ」
「いやに具体的な特徴のあるアヒルだな」
 スモーカーは軽口をたたきながら、無精ひげが気になるようで、鏡の曇りを手で拭いながら、顎にシェービングフォームを塗り広げ、シェーバーを滑らせはじめた。風呂桶でシェーバーを乱雑に洗う音が響く間、ローはまんざらでもない様子でアヒルと戯れていた。
 間もなくスモーカーが立ち上がり、浴槽に浸かるローの背後へ片足をつっこんだので、ローは反射的に前方へつめてスモーカーが入れるスペースをあけた。スモーカーの性器が真横を横切り、ふい、と視線をそらしながらローは頬を赤らめる。ざぶん、とスモーカーが座れば、かなりの量の湯があふれて風呂場へ流れ落ちていった。
「あ、あ、ほら見ろ、湯がもったいねえ」
「しょうがねえだろ。というかもともとお前がなみなみ張りすぎだったんじゃねえのか」
 ふー、とローの背後でスモーカーは大きく息をつく。おっさんかよとローはつぶやいたが、返事はなかった。スモーカーのあしの間に縮こまるかたちになったローは、なんなんだこの状況はと思いながらも、アヒルをいじり続けた。
「……」
 しばらく沈黙が続き、ちゃぷちゃぷとローがアヒルを泳がせる音だけが浴室に響いていた。そ、とローが背後を振り向けば、あごを上向きがちに少し横へ傾けて両目を閉じている男がいた。ローの視線に気づいたらしく、閉じられていた瞼が開かれる。
「どうした」
「……いや」
 ふ、となぜかそこでほほ笑んだスモーカーは、ざばりと勢いよく立ち上がり、浴槽から出ていく。その間際、ローは乱雑に頭をなでられた。
「ゆっくりしてこいよ」
 スモーカーはざっとシャワーで身体を洗い流し、そのまま浴室を出ていってしまった。
 恋人なら、不埒ないたずらのひとつもするもんじゃねえのかよとローは少々期待を裏切られた気分だった。いたずらどころか、ローに与えられたのはアヒル中将なのだった。これでは恋人どころか、お父さんと子どもだった。
 ゆっくりしてこいよと言われても、湯は半分くらい減ってしまい、ローはひとり、否、ひとりと一羽の中将で、半身浴を余儀なくされた。






 スモーカーはタオルで頭髪を拭いながら、上半身裸のまま洗面所から居間へと向かっていた。『お前があんなふうにこねて焼いたパンを、だれかほかのやつが食うのかと思ったら。なんか、おもしろくなくて』。そこまで思い出して、こらえきれずに吹き出した。あんなふうとはどんなふうなんだろうな、とローには自分がどう映っているのか気になった。あのローが、生まれた小さな独占欲にかられて、苦手なパンを口につめこんでいる姿を想像しただけで笑えた。
 じつは先日のセックスの失敗後、悩んでいたのはローだけではなかった。少々きまずくなったこの状況をどうするべきか、らしくもなくスモーカーも考えていた。だが今日、パンの一件で、どうでもよくなった。気持ちが伝わる方法はいくらでもあるのだと知れた。
 初めて身体をつなげてみようとした日、スモーカーを半分ほど受け入れたローは、スモーカーの片手を痛いほど握りしめていた。その指先は冷たい汗で湿ってしまっていた。ローが元来、愛情深いことをスモーカーは知っている。あの日も、スモーカーが続行したとしてもローは耐えただろうし、スモーカーを受け入れたに違いない。だが、幼き日。スモーカーを気に入り小さな手でおのれの手を引いたローを思い出し、スモーカーはこの男を大事にしようと決めたのだった。そういう意味では、今日もまた、ローに先に手を引かれてしまったなと思った。



       *



「ロー」
 台所からしゅんしゅんと、やかんで湯を沸かす音が聞こえる。ローは何やら浮かない顔でガスレンジの前に立ち、湯気を漏らすやかんを見つめていた。就寝前の歯磨きを終えたスモーカーは、居間へやってきてキッチンカウンターごしにローへ声をかけた。ローは無心になっていたようで、はっとしたように顔を上げる。スモーカーは台所へまわり、ローの横へやってきた。ガスレンジの横には、空の湯たんぽが蓋を開けた状態で、湯が注がれるのを待機していた。
「熱湯を注ぐつもりか」
「ばか。そんなわけないだろ。少し冷めてから入れる」
 沸かしとくのを忘れてたんだ、とローは言った。冷めるのを待ってたら、せっかく風呂に入ったのにまた足が冷えちまうじゃねえか、とスモーカーは返す。根本の問題への言及を、互いに避けていた。
「……寝るとき、足が冷たくて寒いんだろう」
 今夜はおれのベッドに来い、とスモーカーは言った。スモーカーは、今朝もローが使用済みの湯たんぽの水を流しに捨てているのを目撃していた。体温の低いローは湯たんぽを納戸に所持していたが、結局、冬季はスモーカーの布団に潜り込んでいたので、ほとんど使われていなかったそれだった。皮肉にも、恋人になり気まずくなってからは、その湯たんぽがローのベッドで活躍していたのだった。
「っ……」
 あからさまに戸惑いを見せて困ったようにスモーカーを見上げるローに、スモーカーはふっと破顔した。
「安心しろ。なにもしねえよ」
 くしゃくしゃとローの頭をかきまぜ、スモーカーは背を向けて先に寝室へ向かった。
「……」
 やかんが沸騰を告げている。ローとしては、うれしいようなほっとしたようながっかりしたような、なんとも言えぬ複雑な心持ちで、ガスのつまみを回して火を消した。頭髪はくしゃくしゃだった。






 スモーカーの寝室の扉がノックされ開かれたのは、それからたっぷり30分後だった。スモーカーは間接照明だけをつけてベッドに横になりローを待っていた。ローは青い布製のカバーに包まれた湯たんぽを胸に抱えていた。
「遅いじゃねえか」
 何していたんだとあきれ気味にスモーカーがふりかえりながら問えば、ローは湯がいい具合に冷めるのをまっていたんだとしれっと言いながら、スモーカーの足側へまわり、布団をめくって湯たんぽを差し入れた。布カバーには、海の生き物たちがプリントされている。
「あのな、おれは、おれを湯たんぽ代わりにしろという意味で……。いや、あったけえな」
「だろ」
 ローはにやりといたずらっぽい笑みを浮かべながら枕元へ戻ってきて、スモーカーの布団に滑り込んだ。
「ん。あったけ」
 湯たんぽが遠い箇所でも、全体的にスモーカーの体温ですでにぬくぬくとあたたかい。
「電気消すぞ」
「ん」
 心地よさげに目を閉じるローを見届けたスモーカーは、サイドチェストに腕をのばし、ランプの紐を引いて照明を落とした。部屋は真っ暗になり、目が慣れるまでに少し時間がかかる。スモーカーはまたローに向き直り、その身体を軽く抱き寄せた。恋人になる前は、ローが一方的にスモーカーの背にくっつくのみで、こうしてスモーカーから身を寄せることはなかった。ローの身体に一瞬、緊張が走るのがスモーカーにも伝わった。
「……」
「……」
 しばらくローは固まっていたが、何も起こらないことに安心したのと、身体があたたまって眠気がやってきたらしい。ローは腕を軽く曲げて、スモーカーのシャツの胸元に手を置き、そっとつかまるようにした。
「……スモーカー。起きてるか」
「ああ」
「……こないだ、その、悪かった」
 具体的な目的語がなかったが、こないだというのが何を指すのか、わからないほどスモーカーは野暮ではない。
「……お前は悪くねえだろ」
「いや、おれの準備が足らなかった」
 お前に面倒をかけた、とローが言えば、スモーカーは深く息をついた。ローの背に回していた手を上に移動させて小さな後頭部を軽く撫でる。
「準備が足らなかったのはおれのほうだ。それに、おれは面倒だなんてこれっぽっちも思ってねえからな」
 じつはほしかったことばをもらえたローは、安堵したように小さく息をつき、スモーカーの胸元へ顔を寄せた。
「……また今度、しようぜ」
 思いがけない誘いに、スモーカーは暗闇のなかで瞬きする。カーテンから漏れる月明りで、もう真っ暗闇ではなかった。感づかれぬよう、そっとローの表情をうかがおうとすれば、ローは照れているようでますますスモーカーの胸に額を押しつけた。
「今日じゃねえんだな」
「! 今日は、ちょっと」
「冗談だよ」
 おやすみ、と言いながらスモーカーは小さく音をたててローの額へ口づけた。ローは瞠目する。何もしないって言ったくせに! と抗議のことばが飛び出そうになったが、キスくらいで騒ぎ立てる自分が子どもっぽく思えて、かつスモーカーのそれが慣れているふうなのがまた面白くなく、負けじとローも首を伸ばしてスモーカーの口の端に口づけた。思えば、二人が唇同士を触れ合わせたのは、初めてセックスをしようとしたときのあの一回きりだった。あのときはスモーカーの口が大きくて舌が分厚くて、ローはいっぱいいっぱいになってしまった。しかもローの知っているスモーカーと違っていつも以上に口数が少なく、ちょっとこわかった。でもやさしいのはいつものスモーカーと一緒だった。嫌じゃなかった。ローがスモーカーとのキスを思い出していれば、上から空気が揺れる音がする。スモーカーが静かに笑っている。
「っ……」
「おい、何笑ってんだ」
 ばかにしてんのか、とローが詰れば、してない、喜んでいるんだとスモーカーは白々しく言った。口にキスするのが思いきれなくて口端になったのか、それとも口にしようとして照準を見誤ったのか、どっちなんだとスモーカーは複数の可能性を考えておかしくなってしまったのだった。
「おれのことはいいから気にせず寝ろ」
「眠れねえよ」



 パンのことといい、スモーカーはローをつくづくかわいいやつだと思ったのだった。生地の発酵はもう始まっている。うまいパンが焼けるように、焦らず待とう。ベンチタイムも省かない。未発酵の生地をかわいいと思ったことは、きっと今後も口にはしないだろうけれど。
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