[スモロ]すれ違い

「スモやん、同居してるんだってな」
「ああ」
「結婚はしねえのか」
「結婚は、できねえな、この地域では。相手は男なんだ」
「へえ! でもパートナーなんだな」
「パートナーの定義にもよるが。たぶん恋人ではない」
 いまは。とスモーカーは内心で付け加える。
「恋人じゃねえのに一緒に住むなんて、よっぽど仲良しなんだなあ」
 いいことじゃねえか、と部下は――上司を上司とも思わぬその態度にスモーカーはすっかり慣れてしまった――笑って酒をあおり、きくだけきいておいて、そのくせさして興味もなかったかのように話題を変えた。



       *



 今からちょうど、20年ほど前の話になる。その日、学校の定期試験期間であったスモーカーは、通常よりも早い時間帯に終業して、昼間から自宅へ向かう通りをぶらついていた。途中、他校の生徒がコンビニエンスストアの喫煙所で、未成年では入手できぬはずの商品をちらつかせながらたむろしているのを無視できず、注意したところ案の定けんかを売ってしまい、不本意にも店の裏で応戦することになった。スモーカーは体格に恵まれ強かったので、複数人にとびかかられても、劣勢になることはない。だが、そもそもまともに相手をしようとしていないので、勝つこともなかった。しばらくして不良少年たちは満足したようで――否、これ以上続けていれば警察沙汰になる恐れもあって――、スモーカーを路地裏に放置し、散っていった。制服のカッターシャツの袖をまくっていたスモーカーは、狭いところで殴り合ったため、背後の家屋のざらついた壁に肘をぶつけ、擦りむいてしまった。いまさら火傷のような痛みが強くなってきたが、かばうのも面倒で、スモーカーはその場にどかりと座り込む。疲れた。いつまでこんな日々が続くのだろう。その不満は、べつに不良どもに対してではない。非行の裏にひそむ不条理や不公平に対してである。なにより、そうして世の中に思うことはあれど、結局なにもせずただ日々を無為に過ごしている自分自身に対してだった。

 ふと、先ほどまで向けられていた視線とは種類の異なる、一人分の視線を感じ、スモーカーは閉じていた目を開けた。ランドセルを背負い、もこもこのハットを目深にかぶった子どもが、スモーカーの目の前に立っていた。
「……」
「それ」
 そのけが、と子どもはスモーカーの右の肘を指差した。
「……ああ、どうってことねえよ。ほっときゃ治る」
 すると子どもは少々こわい顔をし、スモーカーの左の手をとった。
「立てる?」
「……」
 有無を言わさぬその様子に、スモーカーは促されるまま立ち上がった。そのまま子どもは、ぐいぐいとスモーカーの手をひく。
「おい、どこへ行くんだ」
 路地を出ると、「こっち」と子どもは迷わず進んでいった。かなりの身長差があるので、スモーカーは少々猫背気味になりながら、大人しく彼の後をついていった。

 着いたのは、商店街を外れてすぐそばにある住宅街の、公園だった。水道の前に連れてこられ、洗うように――おそらくは小学校低学年の子どもに――指示される。真冬ほどではないが、その日は気温が低かったので、流水は冷たかった。
 スモーカーが肘の汚れを洗い流したのを確認した子どもは、背からおろして胸に抱えたランドセルから清潔そうなハンカチを取り出し、それが汚れることも厭わず、スモーカーのひじの水滴を拭った。さらに準備がいいことに、ランドセルの内ポケットから、大きな絆創膏が出てきた。ぺりぺりとフィルムをはがし、スモーカーの患部に当てて貼り付ける。スモーカーは感心してしまった。
「……手際がいいな。ありがとう」
「おうちに帰ったら、ちゃんと消毒してね」
 子どもは生意気そうな口ぶりでそう言った。ああ、とスモーカーはうなずく。家はどこだ、送ってやる、とスモーカーが言えば、すぐそこだから大丈夫とこたえた。ハンカチを汚してしまった後ろめたさもあって、この子の親に、礼のひとつも言った方がいいかもしれないとスモーカーは思案する。
「おれん家はあっちだ。お前の家は、反対方向か」
「ん、ほうこうはいっしょ」
 じゃあ、一緒に帰ろう、とスモーカーが提案すれば、子どもはまた帽子を目深にかぶりなおし、小さくうなずいた。途中までただ並んで歩いていたが、交差点で信号が変わるのを待っていた折、ごく自然に、子どもの右手がスモーカーの左手に滑り込んだ。

「あそこがおれの家」
 ローが指差したのは、公民館の近くにある、児童養護施設だった。「ローくん!」と、門のところに立っていた女性が、駆け寄ってくるのが見えた。いわく、子ども――ローという名らしい――と同じ下校班の子らが、下校途中にローとはぐれてしまったと報告してくれたらしい。心配していたのよ、としゃがみこんでローに言う彼女に、スモーカーは、手当てをしてもらった事情を説明して詫びた。
「おにいちゃんは。ひとりで帰れる?」
 またしてもいっちょまえな口をきくローに、スモーカーはうなずき、自分の家もすぐそこだからひとりで帰れると言った。
「……スモーカーだ。またな、ロー」
「うん。ばいばい、すもーかー」
 職員とローに見送られ、スモーカーは幾分あたたかな心持ちで帰路についた。



 それからしばらくして、また近所でローに出くわしたスモーカーは、いっしょに遊ぼうと言われ、公園にでも連れていかれるのかと思いきや、着いた場所は図書館だった。ちゃんと家の人にはことわって外出しているのかときけば、ローはうなずいた。きけば、ローは放課後ほかの子どもと外遊びをしたりゲームをしたりすることは少なく、大概は一人でいつもこの図書館で本を読んだり宿題をしたりしているのだということだった。スモーカーの隣の席で何やら難しそうな図鑑を広げ、集中し始めてしまったローと談笑するわけにもいかず――そもそも図書館は遊ぶ場所ではない――、仕方なくスモーカーも、ぼろぼろのかばんから教科書とノートを取りだし、課題にとりかかることにした。



 あるとき、いつものように図書館でふたり静かな時間を過ごし、ローを施設へ送る道すがら、コンビニで買った肉まんを公園のベンチで半分こして食べていた折だった。
「すもーかーは。じゅけんせいなの?」
「いや。まだ高校2年だからな。来年はそうなるが、受験生というよりは就職組かな」
「だいがくへはいかないの」
「親はそれを望んでいるらしい。おれは警察になるから、べつに必要ないと思った」
「必要ないことはないんじゃないの」
 しょくしゅだけじゃなくて、もっとびじょんみたいなものがあれば話は別だろうけど。
「びじょん」
「うん。今日学校で習ったの」
 単におまわりさんになるだけなら、ほーりつとか、学んだらどう? とローに言われ、スモーカーはたしかになと思った。
「すもーかーのお父さんとお母さん、学校にいかせてくれるって言っているんでしょう。行ってむだなことはないと思うよ」
 やっぱりむだだと思ったら、途中でやめてもいいんじゃない。と小さな口で肉まんをほおばりながら、ローは言った。スモーカーは本当は一個ずつ買おうと思ったのだが、もうすぐ夕食だからというローのために、一個を半分こすることになったそれだった。
 同じことを父親に言われても腹が立つばかりだったが、ローに対しては、スモーカーは不思議と耳が開く。かくして、ときどきローと遊ぶうち――遊ぶというのは、その実半ば強制的に図書館で勉強させられていたのだが――、生来頭のわるくなかったスモーカーはめきめきと成績を上げ、出身地と隣接する地域の大学に進学することになったのだった。



 隣接地域とはいえ、スモーカーが実家から学校へ通うには少し遠かった。進学、そして就職のためにスモーカーが実家を出た頃、ローもまた地元の中学に通い忙しい時期にさしかかり、生活スタイルがまるきりすれ違い始めた二人は、しばらく疎遠になった。だがスモーカーが帰省した折に高校生のローとたまたま再会し、学部は違えども、ローもまたスモーカーと同じ大学へ行くと知った。奨学金とアルバイトでどうにか賄うというローに、スモーカーは今住んでいる一軒家――勤務先のある中心街から少々遠い分比較的安価で、若手のスモーカーでも家賃を払うことが可能なのだった――でルームシェアすることを提案した。生活費は折半したが、家賃についてはもともとはスモーカーが一人で住んで払っていたこともあり、ローには不要だと伝えたが、ローは頑ななまでに、卒業したら必ず返すと言って譲らなかった。約束に違わず、研修期間を終えて就職したローは間もなく、きっちりとこれまでの家賃の半分をスモーカーへ返済した。いわく、学生時代のバイト代と研修医として受け取っていた給与をかなり貯め込んでいたらしい。奨学金も、大学で優秀な成績を修めたため、大半が返済不要になったのだというわけだった。家賃については要らぬ、返すの押し問答の末、フェアでいたいというローに根負けし、スモーカーはそれを受け取ったのだった。
 そして、この生活にすっかり慣れてしまった二人は、互いに気に入っていたこの暮らしを続けることに決めたのだった。



       *



「んんん、ろー……」
 玄関でひっくり返るスモーカーを、ローはにわかに信じられぬ心地でしばし呆然と見つめた。めずらしいこともあるものである。
「しっかりしろよ酔っ払いが。どうしたんだよ、めずらしい」
 そのまま眠ってしまいそうなスモーカーの靴を脱がせて引っぱり起こし、寝室へと引きずっていった。風呂に入れるのは危険であるのであきらめる。ローも背丈はあるとはいえ、体格が異なるので、スモーカーを運ぶのは大仕事だった。少々雑に、白い巨体を寝台へ放り投げる。んん、とスモーカーは目をつぶったままむずかるように、寝返りをうった。その身体の下敷きになってしまった毛布をローは「んぐぐぐ……」と唸りながら引っぱり、えいやとスモーカーにかけてやる。眠っているかと思えば、スモーカーは突然、気のついたようで、ローをまっすぐに見上げていて、ローはどきりとする。
「おまえと、」
「ぁあ?」
「おまえと、恋人なのかと、部下に訊かれた」
「っ、」
「いっしょに住んでるのは、恋人なんじゃないのかと」
「……」
 それで。それでお前は、なんと答えたんだ。ローは息を飲んで死刑宣告でも待つような心持ちでいた。片やスモーカーはまた眠たげに瞼を落とし、なにやら口元に笑みを浮かべている。
「……」
 ローが黙って続きを待っていれば、あろうことか、スモーカーはそのまま穏やかな寝息をたてはじめた。なぜか、その大きな手はしっかりとローのパーカーの裾をつかんだままだった。

 そうして眠れぬ夜を過ごしたローに対し、翌日、二日酔いに頭を抱えるスモーカーは、きれいさっぱりそのやりとりを忘れている様子であった。



       *



「ロー。お前がよくつかっているフライパン、そろそろテフロンがはがれてきていないか」
 スモーカーが摩耗具合を気にしているそのフライパンは、もともとスモーカーが就職してここに入居した折に、適当に買いそろえた安物だったのだという。そろそろ新調しないかと言われ、台所の流し台で夕食の食器洗いを終えつつあったローは、流れ出る湯をとめた。声のするほうを振り返れば、スモーカーはカウチで食後の一服をしながら、携帯端末で通販サイトを眺めているようだった。
「ああいうのは中火でないと傷むのだと、最近知った」
「スモーカー、」
 名を呼ばれ、話を遮られたスモーカーは、手元の端末から顔をあげる。どうした、と表情でローに続きを促した。
「話がある」
 ローの常ならぬ雰囲気に何かを察したらしいスモーカーは、ローテーブルの灰皿に吸いかけのたばこを押しつけ、食卓へとやってきた。ローもタオルで手を拭い、スモーカーの向かいに腰かける。
「来月、おれはここを出ていこうと思う」
「っ、急じゃねえか。転勤か」
 面食らった様子のスモーカーに、ローは首をふった。
「学生時代の延長で、お前に甘えてしまった。もう一人で暮らせる」
 家賃や生活費なら公平に折半しているじゃないかというスモーカーに、金の話じゃないとローは言った。
「……お前だって、プライバシーとか、あるだろう。おれがいたら、恋人のひとりもこの家に連れてこれないじゃないか」
 迷惑かけてわるかった。世話になったな、と一方的に話を終えて立ち上がろうとするローの手首をスモーカーはつかんだ。
「待てよ。どうしてそう勝手におれのことを決めつけやがる。お前こそ、だれかそういう相手ができたから突然そんなことを言い出したんじゃないのか」
「っ……」
 スモーカーに手首を強くつかまれているローは、明らかに動揺していた。ふい、とスモーカーから一層顔を背ける。
「……恋人はいない。けど、」
 好きな奴がいるのか、とスモーカーが食い気味に尋ねれば、ローはようやく顔をこちらへ向けた。いまにも泣き出してしまいそうな顔で、ローは小さくうなずいた。
「……もういいだろ」
 離せよ、とローは自らの腕を振ってスモーカーの手を振りほどいた。すでにスモーカーの手には力は入っていなかったので、簡単なことだった。



 なんだよ、とスモーカーは思う。ローは、どう見ても想う相手とうまくいっている表情ではなかった。そんなローの一方的な片想いのために、おれは。
 とスモーカーはそこまで考えて、自らの最低さに心底嫌気がさした。第一に、たとえそれが片想いであろうと、ローの気持ちを軽んずるのは道理に合わない。第二に、スモーカーは自らが振られたと思ったが、お門違いもいいところだった。振られるというのは、こちらからの何らかのアクションに対して発生する事象である。スモーカーは、まだなんの行動もしていない。
 スモーカーは、少し以前から、ローに対して大きく育ってしまった自らの感情の存在に気がついていた。勘違いでなければ、ローも自分を憎からず思っており、もしかしたらあの男と、どちらかが死ぬまで一緒にいるかもしれないと、ぼんやりと未来を思い描いていた。果たして、スモーカーの甘えによる、とんだ勘違いだったのだった。



       *



「言わないと伝わらないものなんだな」
「……ご愁傷様」
 ふー、と煙を吐き会話に終止符を打ったヒナに、いやおれはまだ何も言っていないのだが、とスモーカーはひきとめた。
「あのかわいい外科医さんに、振られたのでしょう」
 どうして知っているんだとスモーカーは目をぱちくりさせる。
「勝手に自分のものだと思っていたら、ある日突然家を出ていくと言われたと、そんなところでしょう」
 スモーカーは図星をさされてぐうの音も出ない。
「意思疎通を怠った当然の結果だわね」
「いや、おれはこれまで誰かと付き合うときに自分の気持ちをことばにしたことはない」
「最低」
 驚愕、といういつもの口癖すらも出なかった。野暮だろうがそんなのは、とスモーカーは思う。好きだの愛しているだの、ことばではなんとでも言える。
「そういうことは、相手をしあわせにできて初めて説得力があるわね」
 ヒナはスモーカーの詭弁を一蹴する。ヒナとしても別に、愛をことばなく行動でしめすことをなじったわけではない。誘われ、なんとなくいいと思えば応じ、そのうち相手は自分のもとを去っていく。そういう恋愛しかしてこなかったずるいスモーカーが、本当にほしいと思った相手に対してもこれまで同様に不誠実であることをヒナは指摘したのだった。スモーカーはヒナの説教を少々幼い顔で聴いている。
「あなたがこれまで泣かせたひとたちの報いだわね」
「見捨てないでくれ、ヒナ」
 まさかここであきらめるんじゃないでしょう? とヒナは両目をとじる。はじまってもいないのにめそめそしないで、ととどめを刺した。
「本当にほしいなら、なりふりかまわず奪いにいかなくちゃだめでしょう」





 スモーカーが帰宅しても、家にローはいなかった。昨日の今日で、おそらく自分と顔を合わせたくないのだろう、だれか別の友人のところに泊まっているにちがいない。おそるおそるローの書斎をのぞけば、書籍をはじめとする彼の荷物はまだあるようで、とりあえずは安堵した。しかし、自らの寝室の机の上におかれたものに、スモーカーはいよいよ焦り始める。クリーニングの袋に包まれた、スモーカーの古いマフラーだった。ローから贈られた今のマフラーの前につかっていたものである。ローが交換をねだったため、昨年からは彼のものになったはずのものだった。なんの変哲もないスモーカーのお古をつかうなんて、酔狂な男だと思った。けれど、あたりまえのようにそれを首に巻き付けて出かけていくローを見て、悪い気はしなかった。それを、もう要らないとでもいうかのように、ご丁寧にクリーニングにまで出して、突き返されている。さらに横には、ローが部屋着代わりにしていたスモーカーのスウェットまで洗ってたたまれ、置かれていた。



       *



「ユースタス」
「あ?」
「お前、いいゲイバーとか知らないか」
「あー、いったことねえな。というかなんでだよ。藪から棒に」
「ん。行ってみようかと思って」
 なんでも経験だろ、とローは言った。
「……」
 ローが自分の家に帰らずなぜここにいるのかの理由を察しているキッドは、おおむねの見当はついていたため、それ以上追求はしなかった。一瞬、意味ありげな表情でローに視線を向けたキッドは、また自身のスマホで何やら文字を打ち始めたので、この話は終わったのだとローは思った。しかし、ものの数分後、「お」とキッドが小さく声を上げた。
「キラーの知り合いがマスターやってる店があるみたいだぜ。ゲイバーというか、それも兼ねてだれでも歓迎してる静かなバーみたいだけど」
 初心者が行くなら、キッドがマスターに連絡しといてくれるってよ。どうする、とキッドに問われ、ローはキッドとキラーの厚意に甘えることにした。
 キッドやキラーの顔の広さには毎度驚かされる。キッドはローにとって悪友であり、ほとんど情報屋だった。
「……自棄になるなよ、トラファルガー」
「なにも自棄になってねえよ、余計なお世話だ」



       *



「キラーに話は聞いている。あそこに座って、店の雰囲気を眺めるといい」
 キラーに頼んでおいた約束の日にローがその店を訪れれば、レースのふんだんにあしらわれたシャツを身にまとった、ウェーブがかった金髪の、顔色のわるい――ローも人のことを言えた口ではないが――男がローを迎えた。バーのマスターというよりは、占い師のような男だった。ホーキンスというその男は、自身の目の届くカウンターの、右端の席をローにすすめた。
 すると間もなく、反対の、左端に座っていた男が、ローの隣へ移動してきた。
「こんばんは」
「こんばんは」
 体格はスモーカーより大きいくらいかもしれない、茶髪の男だった。顎に十字の傷があり、ローは昨晩食べた鯖の塩焼きの切れ目を思い出した。
「はじめて?」
「ええ。……ちょっと失恋しまして」
 憂さ晴らしに、とローがこたえる。ホーキンスは極力会話を邪魔せぬよう、ローの飲み物を作りながら、内心、首を傾げた。見た目に違わず、彼の特技は占いだった。ローの顔を見て瞬時に脳内で恋占いもしたわけだが、その結果と彼の発言に乖離がある。そうこうしている間に、「男と寝たことはあるか?」などとドレーク――という名であると、聞いてもいないのにローに自己紹介した――が無粋なことをききはじめたので、はじまった、とホーキンスはため息をついた。
「……気をつけろ。その男はそうやって何度も下手くそなやり方でニューフェイスを口説いては玉砕している」
「玉砕しているのはお前がそういうことを言うからだろうが」
 ローは愉快な気持ちになり、くふ、と笑みをもらした。純粋に寝る、すなわち眠るだけならば、数え切れないほどスモーカーとベッドをともにしたことがある。だが、ドレークが言うところの、「寝た」ことはないと答えれば、ドレークは咳払いする。
「おれがいちから教えてやることもできる」
「教えられるほどの経験もないくせに」
「黙っていろホーキンス」
「聞けトラファルガー、こいつがここにいるのはな、実は女の」
「ホーキンス!」
 結局その後もドレークとは艶めいた話に発展することはなく、3人で店の客のやり取りを眺めていた。たしかに、奥の席では駆け引きめいた様子のカップルも見受けられる。ローはドレーク以外でほかに二人ほど、男に声もかけられたが、早々にローは帰ることにした。
 帰り際、ホーキンスは、今度はまたキッドやキラーたちも連れて遊びに来るといい、キラーによろしくなと言った。ドレークも真面目くさった顔で片手を挙げている。ローは短く礼をいい、会計をすませて店を出た。



 普段カクテルなぞはめったに飲まないので、少し酔ったかもしれない。思ったよりも、というよりは、予想していたものとは異なる種類の、楽しい時間を過ごすことができた。ローはベポの家へ向かう途中にある公園で、少し休憩することにした。ローが腰を下ろしたベンチとは別のベンチで、地元の学生と思しき若者が、ほろ酔いで楽しそうに談笑している。概ね、話が尽きず居酒屋の帰りにここで酔い覚ましがてらしゃべっているのだろう。このあたりなら、ひょっとするとスモーカーやローの後輩かもしれない。
 ローは、この公園ではないが、幼き日、公園でスモーカーに肉まんをおごってもらった日のことを思い出した。買い食い自体は初めてでなく、よく施設へ顔を出してくれた公務員のロシナンテという男も、ローをかわいがってくれていた。施設の子どもたちのなかでも、ロシナンテはとくにローを気に入り、しかし自分は引き取ることができないことを残念がっていた。この国では、夫婦でなければ里親になることができない。ロシナンテとは、ローはいまだにときどき連絡をとっている。いずれにしても、スモーカーと二人で並んで食べた、あれほどにうまい中華まんは、ついぞこの歳になるまで食べたことはない。ふ、と自嘲めいた笑みが漏れる。ホーキンスの店で、ドレークはローに、男性との性的な経験の有無について問うた。女性とは、それこそ片手で数えるほどに過ぎないが、高校と、大学のときに付き合った子とそういうことはあった。けれど、男性、否、スモーカーとの思い出となると途端に幼い内容のそれになる。恥ずかしいが、ローは未だ、あの頃のようにスモーカーと手をつなぎたい。
 それ以上のことを、想像したことがないわけではない。スモーカーに顔を合わせづらくなるような夢も、実は見たことがある。もし、もしも寝るならば。男性に抱かれるならば、その相手は、スモーカーがよかった。スモーカー以外の誰かと、いま、そういうことができるかと言えば、こたえは否だった。まだ新しい恋だの愛だのを見つけるには、時間が必要だった。本当はそうして、スモーカーへの気持ちを断ち切ろうとしたのだけど。ローはまだ、苦しいくらいにスモーカーのことが好きなのだ。
 昔を思い出していたら胸が痛みはじめ、視界がぼやける。すん、と一度鼻をすすり、ローは振り切るようにベンチから立ち上がった。





「キャプテン、白猟に本当のこと言わなくていいの?」
 いい、とローはこたえた。この気持ちは本人には告げず墓場まで持っていくつもりだった。
「断られるのがわかっているのに、伝えられるほどおれは強くない」
 ローは、ベポの前でだけは、自分を飾らないでいられた。本当はスモーカーも、この気持ち以外のことについてなら、そういう自分でいられる、ローにとって得難い存在だった。強いていうならば、ローはそういう意味でスモーカーを意識しているので、ベポやペンギン、シャチと異なるのは、スモーカーに対してローは多かれ少なかれ恥じらいがあった。
「う、ん。おれが言いたいのは、そういうことだけじゃなくてさ。白猟は、キャプテンの大事な友だちなんでしょう」
「友だち、」
 そういわれると、ローとしてはあまりしっくりこない。が、まあ、ベポやルフィに言わせれば、そういうくくりなのだろう。
「白猟にとっても、キャプテンは大事なひとなんだと思うよ。それなのに、納得のいく理由も説明されないで突然出ていくなんて言われたら、かなしいと思うよ」
 おれがもし白猟だったら、キャプテンに嘘をつかれて距離おかれたらすごくつらいもの、とベポは自分のことのようにしょげていた。
「ベポ、」
「告白してしまったら、たしかに、もう以前のような関係には戻れないかもしれないし互いに疎遠になっちゃうかもしれないけどさ。それでもずっと、友だちであることに変わりないよ」
 白猟なら、きっとそうだよ。とベポに念押しされ、ローは心を動かされた。そうかもしれない。スモーカーはなんにも悪いことをしていないのに、ローの一方的な都合でここ数日不誠実な態度をとっているのは、あまりにも勝手だった。
 ちょうどそのとき、ローの携帯が振動して着信を告げた。電話である。着信元は、いままさに話題にのぼっていた人物だった。



       *



「ロー」
『……なに』
「いまどこにいる」
『言う必要ある?』
 その言いぐさはなんだとかちんときたが、スモーカーはけんかをするために電話をかけたわけでないので、ぐっとこらえる。
「……言いたくなければ言わなくていい。心配しているだけだ」
『……』
 意味深な沈黙のあと、ベポの家、とローはぽつりと言った。スモーカーは安堵の息を吐く。
「そうか。……ロー、明日、会えないか」
 話がある。とスモーカーは言った。またたっぷりと無言が続いたが、いいぜ、とローは言った。
『……おれも、お前に話がある』
「……そうか」
『仕事だから、夜でいいか』
「ああ」
 じゃあ、明日はそっちに帰る、とローは言った。帰るという言い方に少しだけ気持ちが上向いたスモーカーは短く礼を言い、通話を切った。



       *



 翌日。仕事終わりのローが家に現れ、スモーカーは柄にもなく緊張していた。ローはローで、まるで他人の家にきたかのように落ち着かない。
 ともかく食卓に、いつものように向かい合って腰かけたが、すぐまたここを出ることを物語るかのように、ローのバックパックは彼の足元に置かれている。こんな小さな荷物ひとつで、ローはきっと、あっという間にスモーカーのもとを去ってしまう。

 先に口を開いたのはスモーカーだった。
「どっちが先に言う?」
「うん?」
「お前も話があるんだろう」
 できれば、おれが先に言いたい、とスモーカーは言った。いや待て、とローは制止する。
「用件を。用件を先に言いあおう」
 結論でなく議題でいい、とローは臆病さをのぞかせた。双方の議題を確認したうえで、合理的に話が進められるよう順番を選ぼう、というローに対し、名案だな、とスモーカーもうなずいた。妙なところで論理的で、話の合う二人だった。
「まずおれの用件だが。お前がこの家を出ていくことに対して、提案がある」
 いや、正確に言えば、お前がこの家を出ていく理由に対してだな、とスモーカーは訂正した。ともかく提案があるのだとスモーカーは念押しした。ローは「あー……」ときまり悪げに声を漏らした。
「……だとしたらおれが先に話したほうがいい。おれの用件は、ここを出ていく理由をお前に伝えることだった。そのことについておれはきちんと話していなかったし、一部嘘もあった」
 お前には正直に話したいと思った、とローは言った。スモーカーの話は、これまでローがうやむやにしてきたこの家を出ていく理由に対してのそれなので、たしかに、ローの話次第では話の展開が変わる可能性がある。内心急いていたスモーカーは、ローに順番を譲った。ローは一呼吸置いてから、ぽつぽつと話しはじめた。

「……好きなやつができたと言ったろう。あれは嘘じゃないんだが。おれが好きなのは、」
 スモーカー、お前なんだ。とローは言った。スモーカーは案の定、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。白い鳩、幸福の鳩だな、にしてはでかくてごつい鳩だな、とローは諦観のためにどこか落ち着ききった頭の片隅で、他人事のようにどうでもよいことを考えた。だが我にかえればいたたまれず、ローは少し視線を落とす。肝心の内容は目を合わせて伝えたのだから、多少はゆるしてくれと思った。
「男を好きになったのは初めてだった。だから、自分でも最近まで気がつかなかった。でも気づいたら、もう、こんなにそばにいるのが苦しくなっちまって」
 それで、出ていくことを決めたんだ。と言い切ったローは、正直に言わず不誠実な態度をとったことは悪かった、と謝罪のことばを付け加えた。スモーカーは相変わらず沈黙している。ふ、とローは笑った。
「どうだ、お前の話に、影響はあるか?」
「あ、ああ」
 スモーカーは狼狽し、歯切れの悪い相槌を打った。
「影響があるといえば大いにあるが、いや、なんというか、たぶん、お前のその話に対する答えになると思う。……結論から言えば、おれは、お前がこの家を出ていくのをひきとめようと思っていた。お前がもし、だれかに懸想をしていて苦しい思いをしているのなら、おれに乗り換えろと言うつもりだった。おれだったらお前にあんな悲しい表情はさせないと口説くつもりだったんだが、」
 お前にそんな表情をさせていたのは、おれだったんだな、とスモーカーはなんとも言えない、ばつの悪そうな顔をしていた。片や、ローは信じられないとでもいうように、両目を赤くしている。
「……なにやってんだ、おれたち」
「ほんとにな」
 スモーカーは立ち上がってローの座っている側へ回り込み、ローの腕をつかんで立ち上がらせた。そのまま痩身を自身の胸に抱きこむ。
「これは恥ずかしいから言うつもりはなかったんだが」
「ん、」
「おれは勝手に、漠然とお前とずっと一緒にいるものだと思い込んでいて。お前から、好きな奴ができたから出ていくときいたときに自分はとんだ勘違い野郎だと自らを恥じたんだぜ」
「んふっ」
 ローはくくく、と笑みをもらした。
「よかったな、勘違い野郎じゃなくて」
「本当にな」
 おれからきちんと言わなくて悪かった、とスモーカーはローの耳元でささやいた。ローは首を横にふった。互いの頬が優しくこすれ、頬ずりのようだった。



「マフラー」
「うん?」
「新しいの、買ってやるよ」
 お前にいつまでもおれのお古をつかわせてちゃいい加減いたたまれねぇよ、とスモーカーは言った。しかし、「あれがいいんだ、そうだ返せ」、とローは返答した。
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