[スモロ]初売り
「ご試着なさいますか?」
かけられた店員の声で、スモーカーは我に返った。ふりかえれば、背はさして高くない――スモーカーやローからすればそうだが、この国の男性身長の平均よりは上だ――が、黒髪の痩身で、どこかローと似た雰囲気を思わせる若い男性がにこにことたたずんでいた。目の下のくまも顎髭もなく、こちらのほうが断然健康的であるが。
ここは百貨店の紳士服売り場だった。百貨店なぞに常日頃、用のないスモーカーがらしくもなくなぜそんな場所にいるのか。休日、買い出しの際にたまたま通りがかったショーウィンドウのなかのマネキンが着用していたセーターに目が留まり、ブランドネームをたしかめ、なかば吸い寄せられるように屋内へ進みエスカレータを上ってフロアマップに目を走らせ、気がつけばこの店舗にいた。頭に浮かんでいたのは、自らと同居する男の姿だった。あの男ならば、マネキンも顔負けの着こなしをしてみせるにちがいない――。
マネキンが着ていたのはぴたっとした黒いVネックのセーターだったが、いまスモーカーが食い入るように見ていたのは、同じ店のもので色も同じくブラックだが、タートルネックのニットだった。Vネックも悪くないが、なんとなく、否もはやスモーカー自身の好みの問題だが、こちらのハイネックに身を包むローを見てみたいと、そう思った。それにVネックは彼も一着、似たようなのを持っていた気がする。
ローは普段、オンオフ問わずパーカーやラフなシャツを好んで着る。さらに家の中では、スモーカーの着古したジャージやパーカーを部屋着代わりにしている。いわく、サイズが大きいので楽なのだということだった。いずれにしても、したがって、彼のクローゼットのなかにこのように身体のラインがくっきり出るようなトップスはあまりなかった。ジーンズはやたらぴったりしたものを好むのにと、スモーカーとしては解せない。とはいえ、スモーカーもさして服飾に関心があるわけでもないので、それ以上何を思うわけでもなかったのだが、ふと、街中でこの店の服を目にし、どうしてだか、ローに着せたいと思ったのだった。
「……ああ、いや」
自分ではなくて、とスモーカーが口ごもれば、贈りものですか、と店員は尋ねる。ええ、まあ、と答えながらも、スモーカーは内心はっとした。ローに贈る理由がない。
ローはもともと、ものを贈られることが好きではない。ほしいものは自分で選んで買うし、イベントデーになにか贈るのが義務になり精神的な負担になるのがいやなのだと言っていた。そんなものよりも、気持ちを表現する方法はいくらでもあるとでも言いたげだった。スモーカーに言わせれば、ローは本当は、面と向かって愛されることに臆病になっているだけなのではないかと思っている。裏切られたときに、傷つかなくてすむように。
そういうローは、何でもない日に、何かしらスモーカーに見繕って寄越す質だった。うまそうなワインを職場の同僚に教えてもらったから買ってきただの、マフラーに年季が入っているから、適当に買ってきただの――そして古いほうは自分に寄越せだの、否やっぱりヤニくさいだの――。いちばんおもしろかったし、柄にもなく驚いたのは、バレンタインデーの晩に「売れ残っていたから」と、スモーカーに大きな赤いバラの花束を押しつけてきたことだった。翌朝、12本の深紅のバラはテーブルの真ん中に活けられた。スモーカーは花を贈られたのは人生で初めてで、うれしかった。
今日もスモーカーは、ローに贈られたマフラーをきっちり巻いて家を出てきた。深いグリーンを基調にしたタータンチェックで、最初見たとき、自分には似合わないのではないかと閉口したが、手持ちの冬用ジャケットに不思議と合うので、ローのセンスに感心したものだった。ローはローで、たばこのにおいに文句を垂れつつ、スモーカーの古い襟巻をゲットして満足そうにしていた。酔狂なやつだと思った。
ワインや花の礼は何か相当するもので返した記憶だが、マフラーの礼をまだしていない。スモーカーだって、たまには思いつきで、「適当に」、ローに何か贈ってやりたい。あの気難しい男に礼だと言うと角が立つので、「適当」作戦でいこうと決めた。感じのよい店員が、ちょうどお値下げしてますと言った。適当作戦には渡りに船だった。しかし。
「サイズはいかがなさいますか?」
店員のことばに、スモーカーは固まった。サイズはだいたいわからなくもない。しかし、着てみないと実際のところはわからない。素で洒落物のローのことだ、好みの着用感によって、あえてジャストサイズを外す場合もあるだろう。まして、最も高いリスクとしては、サイズ以前の問題として、彼自身がこの服を気に入らない可能性がある。
おそらくローのサイズと思われるそれを手にしたまま、ぴしりと固まっているスモーカーに、店員は何やら察したのか、サイズが合いませんでしたら在庫次第で交換は可能ですし、複数サイズのお取り置きもできますよと提案した。選択肢の前者であるサイズ交換は、先述の気難しい男と家の中で余計なけんかのもとになる可能性があるので、避けたい。すると残りは、合うと思われるサイズを取り置きしてもらい、ローとともに再度来店することだった。適当作戦は断念しなければならなくなるが、気に入らない可能性を含めリスクを回避することのできるかたい線だった。
まして売り出しどきに取り置きなど可能なのだろうかとスモーカーが確認すれば、だいたいの取り置き日数を教えてもらえれば可能で、もし試着してみて気に入らなければキャンセルも可能だということだった。スモーカーは差し出された卓上カレンダーを見ながら、つぎのローと自分の休みが重なる日までの日数を数えて、店員に告げた。「もし延長をご希望の場合はご遠慮なくお電話くださいね」と店員は取り置き票の控えを折りたたんで小さな封筒に入れてスモーカーに手渡した。
エスカレータを降りて表へ出れば、あたりはすっかり暗くなっていた。冬至を過ぎたとはいえ、冬の日没は早い。百貨店の隣の商業施設で本日の外出当初の目的であった消耗品を買い、家路を急ぐ。ずいぶんと道草をくってしまった。今日、スモーカーは徒歩と電車で外出していた。あと少しで家に着くというときに、自身のスマホが震えてローからのメッセージ受信を通知され、一足遅かったかとスモーカーは立ち止まり、道の脇に寄った。今日はなにか約束をしているわけではないので、べつに彼が先に帰宅してしまっても、問題はないのであるが。
『夕飯いる?』という簡潔な文章から、おそらく日勤から帰宅したローが台所に立っているであろうことがうかがえる。要る、もうすぐ着くというメッセージを打ち、スモーカーは再び歩き出した。
「ロー、わるい。遅くなった」
「べつに悪くねえよ、おかえり」
終日とくに予定のなかった自分が夕食の支度をしていなかったことを詫びれば、ローはさして気にした風でもなく台所でしゃがみこみ、何やらごそごそとガスレンジの下の納戸を漁っている。
「めずらしいじゃねえか、インドア派のお前がお出かけか」
「ああ。……ちょっとウィンドウショッピングをな」
ごん、という鈍い音とともに「いて」というローの静かな悲鳴がこぼれる。縁に頭をぶつけたらしい。大丈夫か、と問えば、額をさすりながらローが納戸の扉越しにこちらへ顔を向けた。
「ウィンドウショッピング? お前が?」
「ああ」
スモーカーが真顔でうなずけば、はははとローはおかしげに笑った。失礼な、おれだってウィンドウショッピングくらいするさ、とスモーカーは心外だった。冗談として受け取られたのかと思ったが、しばらくしてフライパンをゆするローが「まじかよ」と微笑するのが、ごうごう鳴る換気の音にまぎれて聞こえた。
「ロー」
「うん?」
「つぎの休みに、おれの買い物につきあってくれないか」
ローは口に含んでいるものを咀嚼して飲みこみ、なぜかせき込みながら、いいぜと答えた。
「なんだよ、今日お買い物してきたんじゃないのか」
「今日は見てきただけだって言ったろ」
本当に文字通りのウィンドウショッピングだったのか、とローはまた愉快な気持ちになったが口には出さず、黙って白米を咀嚼した。
「なにか気に入ったものがあったのか」
「ああ、じつは、たまたま街で見かけた服が気になって」
「ふうん」
今まだ初売りのセールしてるだろ、とスモーカーは続ける。めずらしいこともあるものだ、とローは思った。この白い男は一緒にいて飽きることがない。
「お前に似合うと思って」
ぽつりとつぶやかれたことばに、ローはあやうく箸を取り落としそうになった。見れば、スモーカーも茶碗を片手に持ったまま、箸を動かす手を休めている。気恥ずかしいのか、スモーカーの視線は、食卓の真ん中に置かれた煮物に注がれていた。
「試着してみて、もしお前が気に入れば、おれが贈りたい」
そろりとスモーカーの視線がローと再び交差する。贈り物をきらうローの機嫌をうかがっていることは一目瞭然だった。
「……わかった」
ローはそれ以上何も言わなかった。要らない、よしてくれと言われなかっただけでも、スモーカーは安堵した。一方で、どんなのなんだとも訊かないのだなと思った。やはりあまり興味がないのだろうか。
食事の後片付けを買ってでたスモーカーに対し、ローは遠慮なく「頼む」と任せ、そのまま書斎へ引っ込んでしまった。そんな彼の反応を気にしてもしょうがないので、食事前に入浴していなかったスモーカーは風呂へ入り、明日の仕事に備えて就寝した。するとようやく、寝室の扉の向こうでローが動き出す気配があり、深夜にスモーカーの寝室へやってきて、ベッドへ潜り込んでくるのを、スモーカーは夢うつつながらも感じた。ローはしばらくごそごそと楽な体勢をさがしていたようだが、最終的にはスモーカーの背中にくっついて寝息をたてはじめた。翌日、まるで自分と交代のように休みであるローよりも早く目覚めたスモーカーは、就寝時よりは距離が離れてうつぶせ寝にはなっていたが、しっかりと自分のシャツの裾をつかんで寝息をたてるローを隣に見つけた。
*
「スモーカー、おいスモーカー」
「うん?」
「お前が買ってくれるのは、トップスか?」
「ああ」
服を買いにいくと約束していた日。ローにたたき起こされたスモーカーは、洗面台に立ち寝ぼけ眼でひげを剃っていた。鏡越しに、まだ部屋着姿のローがうつる。人を急かしておきながらお前もまだ支度できていないじゃねえか、とスモーカーは思った。
「何色だ?」
「黒」
ローの服を買う約束をしてから、一切そのことに触れないので、やはりあまりうれしくないのだろうかと思っていたが、当日の朝になってこれである。黒か、とローはあごに手を当て考え込む。ならアイボリーかな、とよくわからないことをひとりごち、ローはスモーカーに背を向けてまた寝室へ戻っていった。
シャッと小気味よい音を立てて試着室のカーテンが引かれ、スモーカーが選んだセーターを身につけたローがあらわれる。スモーカーは明らかに喜色を浮かべた。履いてきたマロンのコインローファーを履き、ローが店内の姿見の前まで歩いてくる。
「どうだ」
「モデルみたいだ」
なんてことはない、ただのとっくりセーターではあるのだが、想像していた以上にローが着ると様になるので、スモーカーはほくほくとした。思わず安直で少々恥ずかしい、しかし正直に思った感想をそのまま言ってしまった。潔くセーターの裾をボトムスにしまっているため、焦げ茶色のベルトが映えている。ローはアイボリーの細身のストレートパンツを穿いていた。今朝なにやら思案していたのは、この試着のためだったのかとスモーカーは今更ながら納得した。
ローはローでまんざらでもなさそうで、家から着てきていたベージュのジャケットを羽織ってみせる。ローはゲルマン系の血をひいているが、今日はラテン系の気障な男に見えなくもない。安っぽさはみじんもなく、完璧だった。
「気に入ったか」
「ん」
ほとんどそれで決まりだったが、ローは取り置きされていた同じセーターの、ワンサイズ上のものも着てみた。それはそれでゆったりとして袖部分のデザインが際立ち、悪くはなかったのだが、スモーカーのリアクションの差がわかりやすすぎてローは笑いをこらえることができなかった。最初に着たものを、スモーカーに買ってもらうことにした。
スモーカーが会計を済ませている間、ローはぶらぶらとどこかへ行ってしまった。会計を待つスモーカーが振り返って、目だけでローの姿を探せば、店を出てすぐのところにいたが、視線は隣の店舗へ向けられている。「よかったですね」と前回訪れたときに対応してくれた同じ店員に言われてしまい、スモーカーは少々気恥ずかしかったが、短く礼を述べた。見送られつつ、店を出ればローはすぐ隣の店舗で陳列棚を眺めている。
「簡易包装にしてもらったけど、いいよな。……ほかに気に入ったものがあったか?」
「え? ああ、いや」
スモーカーが声をかければ、ローはすぐに戻ってきて、スモーカーに並んで歩き始めた。ローが見ていたのは、別のブランドの「New Arrival」のコーナーにたたんでおかれていた、オフホワイトのフィッシャーマンセーターだった。襟がほんのすこしボートのようにゆるく、生地もやわらかそうだった。ローはそれが、スモーカーに似合うと思ったのだった。
ローと街中を歩いていると、気のせいか、性別問わず視線を感じる。
「おまえ、街中でスカウトされることあるんじゃないのか」
「うん?」
雑誌の取材とか、モデルとかに。とスモーカーが補足すれば、ああ、とローはうなずいた。
「ときどきな」
やはりそうなのか、とスモーカーは自身の読みが当たったことに納得する。
「受けたことはないのか」
「ない」
興味がないからな、とローはこたえる。もったいない、とスモーカーは単純にそう思う。ローのようなスタイルは、なかなか見かけないからだ。おまけに顔も整っている。プロのスタイリストがコーディネートし、今日スモーカーが贈ったセーターとはつく値段の桁が異なるデザイナーの服を上から下まで着せられ、カメラの前で仏頂面のままポーズをとらされるローを想像した。この男ならば医者と同じくらいか、場合によってはそれ以上にうまく仕事をこなすだろう。けれども。この男が、自分以外の大勢の目にさらされるのは、スモーカーとしてはあまりおもしろくなかった。率直に言ってしまえば、いやだった。理由はよくわからないけれども。横でローが吹き出す音が聞こえた。
「なにこわい顔してんだ。そんなことよりさ、お前、こういう服が好きなの」
ぴたっとした服。とローはスモーカーを見上げた。
「……ああ、いや。おれがというか、単にお前がそういうの着たら似合うと思って、」
「うん。だからさ、こういうの着てるおれが好きなの」
質問がうまく伝わらない、もしくは伝わっていたとしてもまっすぐに回答しないスモーカーに、焦れたローは穏やかに質問を訂正する。ずいぶんと気恥ずかしい質問をするなとスモーカーがローをまじまじと見つめれば、言った本人も、かつてスモーカーから強奪したグレーのマフラーに鼻まで顔をうずめていた。
「……まあ、そうかもしれないな。というより、あんまりああいうの着てるのみたことねえなと思って」
スモーカーはやはり回答をはぐらかす。だが、素直な気持ちだった。
「いつも着てるパーカーもいいと思うぜ」
でもたまにはこういうの着ているお前を見てみたかった、とくに深い意味はねえよ、とスモーカーは言った。ふうん、とローは相槌を打つ。回答がお気に召さなかったのかそうでないのか読めない。だが、マフラーからわずかにのぞくローの頬は、心なしか赤くなっていた。
「スモーカー」
「ん」
「……ありがとう。だいじに着る」
「おう」
ローは手袋をはめているスモーカーの手の小指をつかんで、わけもなくぐいぐいとひっぱった。おかげで手袋が少々ずれてしまい、手首が現れて寒い。中途半端にひとの手袋を脱がせておきながら、ローはすぐにぱっと手を離してしまう。
「昼飯どこかで食ってかえろうぜ。なにがいい?」
おれは中華がいいかな、とローは質問しながらも自分の意思を続ける。パンが苦手のくせに、中華まんとかの天心は好きだよなお前、なんでだと問えば、ローは内緒だと言った。
かけられた店員の声で、スモーカーは我に返った。ふりかえれば、背はさして高くない――スモーカーやローからすればそうだが、この国の男性身長の平均よりは上だ――が、黒髪の痩身で、どこかローと似た雰囲気を思わせる若い男性がにこにことたたずんでいた。目の下のくまも顎髭もなく、こちらのほうが断然健康的であるが。
ここは百貨店の紳士服売り場だった。百貨店なぞに常日頃、用のないスモーカーがらしくもなくなぜそんな場所にいるのか。休日、買い出しの際にたまたま通りがかったショーウィンドウのなかのマネキンが着用していたセーターに目が留まり、ブランドネームをたしかめ、なかば吸い寄せられるように屋内へ進みエスカレータを上ってフロアマップに目を走らせ、気がつけばこの店舗にいた。頭に浮かんでいたのは、自らと同居する男の姿だった。あの男ならば、マネキンも顔負けの着こなしをしてみせるにちがいない――。
マネキンが着ていたのはぴたっとした黒いVネックのセーターだったが、いまスモーカーが食い入るように見ていたのは、同じ店のもので色も同じくブラックだが、タートルネックのニットだった。Vネックも悪くないが、なんとなく、否もはやスモーカー自身の好みの問題だが、こちらのハイネックに身を包むローを見てみたいと、そう思った。それにVネックは彼も一着、似たようなのを持っていた気がする。
ローは普段、オンオフ問わずパーカーやラフなシャツを好んで着る。さらに家の中では、スモーカーの着古したジャージやパーカーを部屋着代わりにしている。いわく、サイズが大きいので楽なのだということだった。いずれにしても、したがって、彼のクローゼットのなかにこのように身体のラインがくっきり出るようなトップスはあまりなかった。ジーンズはやたらぴったりしたものを好むのにと、スモーカーとしては解せない。とはいえ、スモーカーもさして服飾に関心があるわけでもないので、それ以上何を思うわけでもなかったのだが、ふと、街中でこの店の服を目にし、どうしてだか、ローに着せたいと思ったのだった。
「……ああ、いや」
自分ではなくて、とスモーカーが口ごもれば、贈りものですか、と店員は尋ねる。ええ、まあ、と答えながらも、スモーカーは内心はっとした。ローに贈る理由がない。
ローはもともと、ものを贈られることが好きではない。ほしいものは自分で選んで買うし、イベントデーになにか贈るのが義務になり精神的な負担になるのがいやなのだと言っていた。そんなものよりも、気持ちを表現する方法はいくらでもあるとでも言いたげだった。スモーカーに言わせれば、ローは本当は、面と向かって愛されることに臆病になっているだけなのではないかと思っている。裏切られたときに、傷つかなくてすむように。
そういうローは、何でもない日に、何かしらスモーカーに見繕って寄越す質だった。うまそうなワインを職場の同僚に教えてもらったから買ってきただの、マフラーに年季が入っているから、適当に買ってきただの――そして古いほうは自分に寄越せだの、否やっぱりヤニくさいだの――。いちばんおもしろかったし、柄にもなく驚いたのは、バレンタインデーの晩に「売れ残っていたから」と、スモーカーに大きな赤いバラの花束を押しつけてきたことだった。翌朝、12本の深紅のバラはテーブルの真ん中に活けられた。スモーカーは花を贈られたのは人生で初めてで、うれしかった。
今日もスモーカーは、ローに贈られたマフラーをきっちり巻いて家を出てきた。深いグリーンを基調にしたタータンチェックで、最初見たとき、自分には似合わないのではないかと閉口したが、手持ちの冬用ジャケットに不思議と合うので、ローのセンスに感心したものだった。ローはローで、たばこのにおいに文句を垂れつつ、スモーカーの古い襟巻をゲットして満足そうにしていた。酔狂なやつだと思った。
ワインや花の礼は何か相当するもので返した記憶だが、マフラーの礼をまだしていない。スモーカーだって、たまには思いつきで、「適当に」、ローに何か贈ってやりたい。あの気難しい男に礼だと言うと角が立つので、「適当」作戦でいこうと決めた。感じのよい店員が、ちょうどお値下げしてますと言った。適当作戦には渡りに船だった。しかし。
「サイズはいかがなさいますか?」
店員のことばに、スモーカーは固まった。サイズはだいたいわからなくもない。しかし、着てみないと実際のところはわからない。素で洒落物のローのことだ、好みの着用感によって、あえてジャストサイズを外す場合もあるだろう。まして、最も高いリスクとしては、サイズ以前の問題として、彼自身がこの服を気に入らない可能性がある。
おそらくローのサイズと思われるそれを手にしたまま、ぴしりと固まっているスモーカーに、店員は何やら察したのか、サイズが合いませんでしたら在庫次第で交換は可能ですし、複数サイズのお取り置きもできますよと提案した。選択肢の前者であるサイズ交換は、先述の気難しい男と家の中で余計なけんかのもとになる可能性があるので、避けたい。すると残りは、合うと思われるサイズを取り置きしてもらい、ローとともに再度来店することだった。適当作戦は断念しなければならなくなるが、気に入らない可能性を含めリスクを回避することのできるかたい線だった。
まして売り出しどきに取り置きなど可能なのだろうかとスモーカーが確認すれば、だいたいの取り置き日数を教えてもらえれば可能で、もし試着してみて気に入らなければキャンセルも可能だということだった。スモーカーは差し出された卓上カレンダーを見ながら、つぎのローと自分の休みが重なる日までの日数を数えて、店員に告げた。「もし延長をご希望の場合はご遠慮なくお電話くださいね」と店員は取り置き票の控えを折りたたんで小さな封筒に入れてスモーカーに手渡した。
エスカレータを降りて表へ出れば、あたりはすっかり暗くなっていた。冬至を過ぎたとはいえ、冬の日没は早い。百貨店の隣の商業施設で本日の外出当初の目的であった消耗品を買い、家路を急ぐ。ずいぶんと道草をくってしまった。今日、スモーカーは徒歩と電車で外出していた。あと少しで家に着くというときに、自身のスマホが震えてローからのメッセージ受信を通知され、一足遅かったかとスモーカーは立ち止まり、道の脇に寄った。今日はなにか約束をしているわけではないので、べつに彼が先に帰宅してしまっても、問題はないのであるが。
『夕飯いる?』という簡潔な文章から、おそらく日勤から帰宅したローが台所に立っているであろうことがうかがえる。要る、もうすぐ着くというメッセージを打ち、スモーカーは再び歩き出した。
「ロー、わるい。遅くなった」
「べつに悪くねえよ、おかえり」
終日とくに予定のなかった自分が夕食の支度をしていなかったことを詫びれば、ローはさして気にした風でもなく台所でしゃがみこみ、何やらごそごそとガスレンジの下の納戸を漁っている。
「めずらしいじゃねえか、インドア派のお前がお出かけか」
「ああ。……ちょっとウィンドウショッピングをな」
ごん、という鈍い音とともに「いて」というローの静かな悲鳴がこぼれる。縁に頭をぶつけたらしい。大丈夫か、と問えば、額をさすりながらローが納戸の扉越しにこちらへ顔を向けた。
「ウィンドウショッピング? お前が?」
「ああ」
スモーカーが真顔でうなずけば、はははとローはおかしげに笑った。失礼な、おれだってウィンドウショッピングくらいするさ、とスモーカーは心外だった。冗談として受け取られたのかと思ったが、しばらくしてフライパンをゆするローが「まじかよ」と微笑するのが、ごうごう鳴る換気の音にまぎれて聞こえた。
「ロー」
「うん?」
「つぎの休みに、おれの買い物につきあってくれないか」
ローは口に含んでいるものを咀嚼して飲みこみ、なぜかせき込みながら、いいぜと答えた。
「なんだよ、今日お買い物してきたんじゃないのか」
「今日は見てきただけだって言ったろ」
本当に文字通りのウィンドウショッピングだったのか、とローはまた愉快な気持ちになったが口には出さず、黙って白米を咀嚼した。
「なにか気に入ったものがあったのか」
「ああ、じつは、たまたま街で見かけた服が気になって」
「ふうん」
今まだ初売りのセールしてるだろ、とスモーカーは続ける。めずらしいこともあるものだ、とローは思った。この白い男は一緒にいて飽きることがない。
「お前に似合うと思って」
ぽつりとつぶやかれたことばに、ローはあやうく箸を取り落としそうになった。見れば、スモーカーも茶碗を片手に持ったまま、箸を動かす手を休めている。気恥ずかしいのか、スモーカーの視線は、食卓の真ん中に置かれた煮物に注がれていた。
「試着してみて、もしお前が気に入れば、おれが贈りたい」
そろりとスモーカーの視線がローと再び交差する。贈り物をきらうローの機嫌をうかがっていることは一目瞭然だった。
「……わかった」
ローはそれ以上何も言わなかった。要らない、よしてくれと言われなかっただけでも、スモーカーは安堵した。一方で、どんなのなんだとも訊かないのだなと思った。やはりあまり興味がないのだろうか。
食事の後片付けを買ってでたスモーカーに対し、ローは遠慮なく「頼む」と任せ、そのまま書斎へ引っ込んでしまった。そんな彼の反応を気にしてもしょうがないので、食事前に入浴していなかったスモーカーは風呂へ入り、明日の仕事に備えて就寝した。するとようやく、寝室の扉の向こうでローが動き出す気配があり、深夜にスモーカーの寝室へやってきて、ベッドへ潜り込んでくるのを、スモーカーは夢うつつながらも感じた。ローはしばらくごそごそと楽な体勢をさがしていたようだが、最終的にはスモーカーの背中にくっついて寝息をたてはじめた。翌日、まるで自分と交代のように休みであるローよりも早く目覚めたスモーカーは、就寝時よりは距離が離れてうつぶせ寝にはなっていたが、しっかりと自分のシャツの裾をつかんで寝息をたてるローを隣に見つけた。
*
「スモーカー、おいスモーカー」
「うん?」
「お前が買ってくれるのは、トップスか?」
「ああ」
服を買いにいくと約束していた日。ローにたたき起こされたスモーカーは、洗面台に立ち寝ぼけ眼でひげを剃っていた。鏡越しに、まだ部屋着姿のローがうつる。人を急かしておきながらお前もまだ支度できていないじゃねえか、とスモーカーは思った。
「何色だ?」
「黒」
ローの服を買う約束をしてから、一切そのことに触れないので、やはりあまりうれしくないのだろうかと思っていたが、当日の朝になってこれである。黒か、とローはあごに手を当て考え込む。ならアイボリーかな、とよくわからないことをひとりごち、ローはスモーカーに背を向けてまた寝室へ戻っていった。
シャッと小気味よい音を立てて試着室のカーテンが引かれ、スモーカーが選んだセーターを身につけたローがあらわれる。スモーカーは明らかに喜色を浮かべた。履いてきたマロンのコインローファーを履き、ローが店内の姿見の前まで歩いてくる。
「どうだ」
「モデルみたいだ」
なんてことはない、ただのとっくりセーターではあるのだが、想像していた以上にローが着ると様になるので、スモーカーはほくほくとした。思わず安直で少々恥ずかしい、しかし正直に思った感想をそのまま言ってしまった。潔くセーターの裾をボトムスにしまっているため、焦げ茶色のベルトが映えている。ローはアイボリーの細身のストレートパンツを穿いていた。今朝なにやら思案していたのは、この試着のためだったのかとスモーカーは今更ながら納得した。
ローはローでまんざらでもなさそうで、家から着てきていたベージュのジャケットを羽織ってみせる。ローはゲルマン系の血をひいているが、今日はラテン系の気障な男に見えなくもない。安っぽさはみじんもなく、完璧だった。
「気に入ったか」
「ん」
ほとんどそれで決まりだったが、ローは取り置きされていた同じセーターの、ワンサイズ上のものも着てみた。それはそれでゆったりとして袖部分のデザインが際立ち、悪くはなかったのだが、スモーカーのリアクションの差がわかりやすすぎてローは笑いをこらえることができなかった。最初に着たものを、スモーカーに買ってもらうことにした。
スモーカーが会計を済ませている間、ローはぶらぶらとどこかへ行ってしまった。会計を待つスモーカーが振り返って、目だけでローの姿を探せば、店を出てすぐのところにいたが、視線は隣の店舗へ向けられている。「よかったですね」と前回訪れたときに対応してくれた同じ店員に言われてしまい、スモーカーは少々気恥ずかしかったが、短く礼を述べた。見送られつつ、店を出ればローはすぐ隣の店舗で陳列棚を眺めている。
「簡易包装にしてもらったけど、いいよな。……ほかに気に入ったものがあったか?」
「え? ああ、いや」
スモーカーが声をかければ、ローはすぐに戻ってきて、スモーカーに並んで歩き始めた。ローが見ていたのは、別のブランドの「New Arrival」のコーナーにたたんでおかれていた、オフホワイトのフィッシャーマンセーターだった。襟がほんのすこしボートのようにゆるく、生地もやわらかそうだった。ローはそれが、スモーカーに似合うと思ったのだった。
ローと街中を歩いていると、気のせいか、性別問わず視線を感じる。
「おまえ、街中でスカウトされることあるんじゃないのか」
「うん?」
雑誌の取材とか、モデルとかに。とスモーカーが補足すれば、ああ、とローはうなずいた。
「ときどきな」
やはりそうなのか、とスモーカーは自身の読みが当たったことに納得する。
「受けたことはないのか」
「ない」
興味がないからな、とローはこたえる。もったいない、とスモーカーは単純にそう思う。ローのようなスタイルは、なかなか見かけないからだ。おまけに顔も整っている。プロのスタイリストがコーディネートし、今日スモーカーが贈ったセーターとはつく値段の桁が異なるデザイナーの服を上から下まで着せられ、カメラの前で仏頂面のままポーズをとらされるローを想像した。この男ならば医者と同じくらいか、場合によってはそれ以上にうまく仕事をこなすだろう。けれども。この男が、自分以外の大勢の目にさらされるのは、スモーカーとしてはあまりおもしろくなかった。率直に言ってしまえば、いやだった。理由はよくわからないけれども。横でローが吹き出す音が聞こえた。
「なにこわい顔してんだ。そんなことよりさ、お前、こういう服が好きなの」
ぴたっとした服。とローはスモーカーを見上げた。
「……ああ、いや。おれがというか、単にお前がそういうの着たら似合うと思って、」
「うん。だからさ、こういうの着てるおれが好きなの」
質問がうまく伝わらない、もしくは伝わっていたとしてもまっすぐに回答しないスモーカーに、焦れたローは穏やかに質問を訂正する。ずいぶんと気恥ずかしい質問をするなとスモーカーがローをまじまじと見つめれば、言った本人も、かつてスモーカーから強奪したグレーのマフラーに鼻まで顔をうずめていた。
「……まあ、そうかもしれないな。というより、あんまりああいうの着てるのみたことねえなと思って」
スモーカーはやはり回答をはぐらかす。だが、素直な気持ちだった。
「いつも着てるパーカーもいいと思うぜ」
でもたまにはこういうの着ているお前を見てみたかった、とくに深い意味はねえよ、とスモーカーは言った。ふうん、とローは相槌を打つ。回答がお気に召さなかったのかそうでないのか読めない。だが、マフラーからわずかにのぞくローの頬は、心なしか赤くなっていた。
「スモーカー」
「ん」
「……ありがとう。だいじに着る」
「おう」
ローは手袋をはめているスモーカーの手の小指をつかんで、わけもなくぐいぐいとひっぱった。おかげで手袋が少々ずれてしまい、手首が現れて寒い。中途半端にひとの手袋を脱がせておきながら、ローはすぐにぱっと手を離してしまう。
「昼飯どこかで食ってかえろうぜ。なにがいい?」
おれは中華がいいかな、とローは質問しながらも自分の意思を続ける。パンが苦手のくせに、中華まんとかの天心は好きだよなお前、なんでだと問えば、ローは内緒だと言った。
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