[雑伊]冷静でないパスタ
「こなもん荘雑渡です。……ああ、ごめん、携帯に電話くれてた?」
ぼさぼさ頭の伊作が2階から階段をかけおりてくる。玄関のテレフォンテーブルに寄りかかり、受話器を耳に押し当てている雑渡はそのままの体勢で一歩後退して、衝突せんばかりにこちらへ向かってくる伊作を軽く避けた。伊作は伊作で、用があるのは大家ではなくまず洗面台なので、Uターンしてあわただしく1階の奥へと消えていった。しかし寝ぐせは結局直らなかったらしい、起き抜けとさして変化の見えない伊作は、とりあえず食卓につき、いつも座る席にすでに用意されていた自らの分の朝食をかきこむ。同じ下宿人の諸泉はとっくに出かけ、その姿は見えない。さくさくと、トーストを口に押し込み咀嚼しながら、伊作は、ちょうどその場からよく見える玄関先の、雑渡の後姿を眺めた。
「悪かったって」
ぴちぴちの、黒いTシャツに包まれた大きな背を丸め、カールした受話器のコードに片手の人差し指をかけて、何やら楽しそうに笑っている。通話する雑渡の語調は、伊作に対するいつものそれよりも、やや粗野だった。
「……」
遅刻しそうなのにもかかわらず、朝食をすべて平らげた伊作は、食器を流し台へ片付け、また家の奥へと引っ込んだ。そうして最低限の身支度を整えた伊作が忙しなく玄関へ現れても、雑渡はまだ通話を続けている。黒い受話器を側頭部と肩ではさみながら、新聞販売店の名前が青字で印字されたメモパッドに、何やら書き込んでいる。靴ひもを結び終え、リュックサックを片腕で持ち直した伊作が立ちあがり、そっとふりかえれば、普段伊作に向けられるそれよりも少々幼く見える笑顔を浮かべた雑渡と、目が合ってしまった。実際にはその笑みは伊作でなく通話の相手に向けられたものだが、雑渡は伊作に片手を挙げてみせる。伊作はびっくりと両の大きなつり目を見開き、軽く会釈して下宿を出た。
「……暑、」
急いで支度したおかげで、そんなに走らなくても間に合いそうだ。家を出た途端にむわ、とぬるい湿気が伊作を――伊作のくせ毛を――襲う。慌てて支度したからか、単にこの暑さのせいか、伊作の頬は、火照っていた。
★
下宿の固定電話を鳴らしたのは、山本陣内だった。雑渡から連絡を寄越しておきながら、幾度雑渡の携帯電話に折り返しかけても出ないので、業を煮やして下宿に直接かけたのである。雑渡は目覚ましにも目覚まし時計――これもむかし、諸泉が懸賞で当てた――をつかっている。そもそも雑渡は眠りが浅いので、アラームよりも先に、目が覚めてしまう。
いまどき携帯電話よりも固定電話にかけたほうが早いのはどういうことだと、いつものことながら受話器の向こうで山本はあきれかえっていた。いずれにしても朝から何の用だと雑渡がたずねれば、何じゃない、もとはお前がかけてきたのだといわれ、雑渡もようやく用件を思い出した。通話を終え、居間に戻れば、伊作がほんの数分前に慌ただしく朝食をとっていた卓上に、チラシ紙が無造作に置き去りにされている。
「伊作くん、忘れ物だよぅ」
このフォーラムに行くんじゃなかったの、と雑渡はぺらりと紙を手に取る。『まちづくりフォーラム』と書かれている。10時からだって。もう10時過ぎてるけど、間に合ったのかね。とつぶやきながら裏返せば、そこには通信、金融、不動産、医療ほか、人々の生活を支える各分野の企業や団体が名を連ねていた。当たり前のように、雑渡の会社――正確に言えば雑渡が社長を務める会社の親会社だが――の名もそこにある。社会課題の解決と、新たな価値の創造をうたっている。だが、そこに掲載されている本部長のコメントと、雑渡の知る社の内情にはギャップがあった。
『工夫次第で、課題を解決できるかもしれない。雑渡さんはそれをご存じなんです!』
自身の父親の前で啖呵を切った伊作の声が、雑渡の脳内でリフレインする。あの日、気恥ずかしくてとくに言及はしなかったが、彼がそこまで自身のひそやかな考えを知っていたことに雑渡は大層驚いたのだった。けれども。
「買いかぶりすぎだよ……」
雑渡は伊作がさきほどまで腰かけていた椅子をひいて腰かけ、ため息をついた。
☆
「(長次だ)」
土曜日の夕方。近所の図書館を訪れた伊作は、窓際の席で読書している長次を見つけ、うれしくなった。いつも決まった時刻でなく、また決して長時間の滞在ではないのだが、長次は週末、高頻度でこの図書館に出没するので、約束をしていなくとも、ここへ来ると、運が良ければ彼に会うことができるのだった。
邪魔せぬよう、伊作がそっと長次の向かいの席に腰かければ、しかし長次は気がついてしまったらしい。伊作が笑んで、このあと久々にご飯でもどう? とジェスチャーとささやきで伝えると、長次は無表情のまま静かにうなずいた。
「思いつきで差し上げたクリームを、家のなかでも持ち歩いてくれているみたいで、なんだか照れくさいよね」
あんなにつかってくれるなら、もっと丁寧につくればよかったな、でもぼくに悪いと思って無理につかってくれているだけなのかも、と伊作はつぶやく。長次はすべてに返事を寄越すわけではなく、返事をしたとしても非常に低く小さな声なので、傍から見れば伊作がのべつまくなし話しているように見える。
「……」
「うん?」
長次がめずらしくなにか意見を述べているようなので、伊作は長次に耳を寄せた。
「おまえは、その大家が好きなのだな」
伊作は驚き、満足に咀嚼しきらぬまま口内のフォーをごくりと飲みこんでしまった。
好き。想像した伊作はたちまち顔を赤くする。ぼくが、雑渡さんを。
「や、だな長次。そんな中学生みたいな、」
「ひとを好きになるのに、子どもも大人もないだろう」
とくに深い意味はない。そのままの意味だ、と長次は静かに米麺をすすっている。とうもろこしのぜんざいも頼んでいいか、と長次が言うので、もちろん、ぼくも食べる、と伊作は店員を呼んだ。あれは、塩味がきいていておいしい。
「……う、ん。好きだけど」
勘違いしないで、いわゆるそういう好きじゃないよ、たぶん、と伊作は頬を赤らめたまま両手を振る。ねえ、もしかして、ぼくいつも大家さんの話ばっかりしていた? と伊作が恥ずかしそうに長次をうかがいみれば、返事の代わりに、長次がめったに見せることのない、やさしげな笑みを見せた。
知らないフレーズを鼻歌でごまかす大家の話も、女性をとっかえひっかえしているらしいが決して軽薄ではない大家の話も、家の中で軟膏は携帯するが携帯端末は携帯しない大家の話も、みな、長次は知っているのだった。
☆
「あれ、今日、雑渡さんは」
ぐびぐびとビールを煽る諸泉に向かって、伊作は問いかける。今日は土曜日なのでまかないが休みなのは伊作も知っていたが、それでも結局割と、ふらふらと家の敷地内にいることの多い雑渡の姿が今晩は見えない。さっきまでいたはずだったのだが。
諸泉は明日も休みなのでこうして羽目を外しているが、伊作は翌日、仕事である。だが、居間で諸泉があまりにもうまそうに枝豆をつまんでいるので吸い寄せられてしまい、伊作は諸泉に一杯付き合うことになってしまった。枝豆は、昼過ぎにおやつとして雑渡が大量にゆでていたものだった。
「ああ、外食してくると言っていた」
留守を頼まれているのは私だから、なにか家のことで急用なら言ってくれ、と諸泉は枝豆をぷちぷちとさやから押し出して食べながら言う。いえ、とくに何というわけでもないのですが。と伊作は手を横にふった。
噂をすれば。どて、ごん、となにやら痛そうな重い音が玄関から響き、続いて「ただいまぁ」といういつもの雑渡の声が聞こえた。
鴨居に頭をぶつけぬよう背を丸めながら、膨らんだエコバッグを両手で抱えた雑渡が居間に現れる。伊作は目を剥いた。
「雑渡さん、おでこから血が出てます!」
「ああ、いま、靴が脱げなくてこけちゃって、シューズボックスに頭ぶつけたの」
「何しているんですか……」
ぼくじゃないんですからと、あきれる伊作をよそに、額に血をにじませた雑渡は、諸泉に、忍者模様のエコバッグを手渡した。パイナップルとおぼしき立派なへたが二つ分、バッグから飛び出ている。
「尊奈門、これパイナップル。陣内にいただいたの。なんだか私、喉がかわいちゃって、食べたいから早速ひとつ、切ってくれないかな」
「いいですけど」
包丁気をつけるんだよ、と雑渡は心もとない足どりで、否、いつもそんな感じではあるが、洗面所へ向かって歩き出した。私のことをいくつだと思っているんだと諸泉はぶつぶつつぶやき、バッグの中身をのぞき込みながら台所へ向かう。あの額のけがと、明らかに酒に酔っている状況はほっといてよいのかと伊作は気が気でなかった。立ち上がって大家の後を追おうとしたが、その前に水を持っていこうと、伊作も流し台にまず向かった。
「雑渡さん? 入りますね」
雑渡の部屋をノックしても返事がないので、伊作が戸を開ければ、畳の上に大の字になっていた雑渡が起き上がり、伊作を振り返った。
「伊作くん。パイナップルはもう食べた?」
「いいえ、まだです」
今、尊奈門さんが切ってくださっています、と伊作はこたえながら水の入ったグラスを手渡した。さっきの今で、食べたわけがない。これは相当酔っている。雑渡は伊作が手渡したグラスを両手でもって、んくんくと飲み干した。その姿がなんだか幼く見える。
「もう一杯」
「待ってください」
元気よくおかわりをねだる雑渡に、そのまえに手当てを、と伊作は持ってきた救急箱のふたを開ける。伊作の一挙一動を目で追う雑渡を視界の端でとらえ、笑い出しそうになりながら、伊作は消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ上げる。
「雑渡さん、目、閉じてください」
伊作くん、キスでもしてくれるの? 大家さん、まいっちゃうな、とふざける雑渡に、ちがいます、消毒液が目に入るといけませんから、ちょっと閉じていてください、と伊作は酔っ払いを一蹴した。つまらなそうに雑渡が目を閉じる。ちょっと沁みますねとつぶやきながら、ちょんちょん、と脱脂綿を傷口に当てれば、ぴく、と小さく雑渡は身じろぎする。薄目を開ける雑渡に、まだです、と伊作は顔をしかめた。
「おしまいです」
額に大きな絆創膏を貼り付けられた雑渡は、ありがとう伊作くん、とまたばたりと畳に身を投げ出した。両膝を抱えるようにして寝返りをうち、救急箱を片付ける伊作をまた目で追う。
「今日ね、陣内と会ったよ」
陣内、山本陣内、と伊作は記憶をたどる。実際に会ったことはないのだが、雑渡の旧友で、よくこの下宿にお土産をくれる人物であることは知っていた。
「新しい会社をいっしょにやらないかって、誘ってみたの」
伊作が振り返れば、でも断られちゃった、と雑渡は笑った。弱ったな、私一人では何もできなくて、構想には陣内が必要だったから、と雑渡は言う。おまけに日頃の私の甘さについてまで、怒っていたよ、と雑渡はまた仰向けになり、頭の下で腕を組んで枕にした。やぶ蛇だったらしい。
「妻と一緒に、6人の子を養わなければならないから、リスクしか見えぬお前の思い付きには付き合っていられないって」
「ろ、ろくにん」
引導の代わりにパイナップルを渡されちゃったよね、と雑渡は冗談を言う。こうなることは予想していたけど、これでもけっこう勇気だして言ったから。陣内が帰ったあとも、ひとりで飲んじゃった、とため息をついた。でもたしかに、失うもののない私とは、ちがうものね。
「結婚するってさ、どんな感じかな」
雑渡は起き上がり、いつものように両あしをそろえて座った。
「毎日、抱きしめてもいいのかな?」
まるで伊作に問うかのように、両手を組んでもじもじとつぶやく雑渡に、伊作は思わず吹き出した。うつむいている雑渡のまぶたは少々赤く、むくんでいる。それは相手のかたとご相談ではないでしょうか、と伊作が笑えば、雑渡は唇をとがらせた。
「伊作くんだって結婚したことないでしょう」
ええ、ぼくもよくわかりません、と伊作はこたえた。
「……抱きしめたい人が、おられるのですか」
「ううん、いまはいないよ。興味なかったわけじゃ、ないけどね」
でもなんか、ちょっと、つかれちゃった、と雑渡は目を閉じた。伊作はふた月ほど前、失恋した雑渡が風邪をひいて寝込んでいた日のことを思い出す。あの日、ほとんど眠りに落ちる間際、雑渡は、彼女との将来を考えていたことを、暗に伊作に打ち明けていた。
「この家には尊奈門がいるし。それに今は」
「伊作くんが、一緒にお団子食べてくれるから」
もうそれで、今は十分。と雑渡は笑った。こないだ伊作が気まぐれに団子を買ってきた折は、あまりその和菓子が好きでなかったそぶりすら見せたのに、その翌週に自ら上新粉で団子をつくり、だめ押しで今日のこの台詞だ。そんなにあそこの団子が気に入ったのか、と伊作は菓子屋のパッケージを思い返す。雑渡は洋菓子が好きだったのではないのか。
「それより今は、仕事……。伊作くん、きみを見ていて、」
私も昔、やりたいと思っていたことを、思い出したんだよ、と雑渡は眠たそうにまばたきする。
「お、っと」
ぐらりと重そうな上半身が前方へ傾き、雑渡は伊作の肩にもたれかかる。予想に違わぬその重量に、伊作も支えきれず倒れそうになったが、両手をうしろにつき、どうにか持ちこたえる。
「善法寺? 大丈夫か、入るぞ」
戸が開き、諸泉が現れた。切られたパイナップルをのせた皿がふたつ――おそらく雑渡と伊作の分であろう――のせられた盆を気だるげに、片手に持っている。雑渡の肩越しに、伊作は諸泉と目が合った。つり目をぱちぱちと瞬かせている伊作に、諸泉もびっくりと丸い目を瞬かせ、そしてまた、諸泉のほうはいつもの無表情に戻った。
「……邪魔したな、すまない」
諸泉はそのまままたすぐに戸を閉めてしまい、その足音が遠のいていく。誤解だ、どうしてあなたはいつもこうタイミングが悪いのだ、ぼくのパイナップル残しておいて、と伊作の口からにぎやかな否定の言葉や食い意地の張った主張が飛び出そうになったが、どれも、声にはならなった。雑渡を起こしたくない伊作の気持ちが、無意識に働いた。起こしたくなかったのは、雑渡のためか、自分のためだったのかはわからない。
雑渡は、伊作の耳元でくうくうと寝息を漏らしている。酒気に混ざって、ほのかにスパイシーな匂いが、伊作の鼻をくすぐる。このオリエンタルな香りは、料理につかうスパイスに起因するのか、あるいは雑渡自身によるものなのだろうか? 後者だとしたら、ずいぶんセクシーなおひとだな、などと、思わずすんすんと鼻を鳴らす伊作の思考にもビール一杯分の酒がまわっているようだった。
重なった胸から伝わる鼓動は、アルコールの働きで、速い。さきほどは笑ってしまったが、このひとに。この厚い胸に毎日抱きしめられたら、それはひとたまりもないだろうな、と伊作もどきどきと自らの心拍数を意味もなくはかっていた。
『おまえは、その大家が好きなのだな』
ふと、ベトナム料理店での、長次の声が、伊作の頭の中でこだました。
☆
コンコン、と控えめなノックの音が聞こえ、伊作ははぁいと元気に返事をした。少しだけ戸が開き、その間から大家が顔を見せた。
「伊作くん、夕食、尊奈門は外で済ませてくるって。今日は私と二人だから、簡単にパスタでいい?」
「はい」
「あれ降りてきちゃった? まだできてないよ」
伊作が階段を降り、台所に現れれば、雑渡はフレッシュバジルをきざむ手を止めて、伊作を振り返った。
「暇だったので、降りてきたんです。手伝います」
いいにおい、今日はトマトのパスタですか、と雑渡の横に並んでたずねれば、そう、あったかい冷製パスタ、と不可解ないらえが返ってきた。伊作が首をかしげていれば、まあ見てて、とでもいうように雑渡は笑みを浮かべている。途中だった残りのバジルをリズムよく切ってしまうと、雑渡は、これもまた庭でとってきたばかりと思われる、みずみずしいトマト――皮はむかれ、くし切りにされている――がたくさん入った透明なガラスボウルに、まな板から両手ですくって入れた。これで二人分かと疑うほどに、トマトもバジルも贅沢な量だった。この時期、食べきれないほどにバジルやシソが庭で繁るのだという話を伊作は思い出した。
「伊作くん、それに塩とこしょう、ふっておいてくれる?」
受け取ったガラスボウルを抱きかかえ、ずいぶん簡単な仕事を割り当てられてしまった、とうつむく伊作の心の声がきこえたのか、ごめん、簡単なレシピだからもうそれくらいしかお願いできることなくて、と雑渡は言った。あげく、みずみずしいトマトに思わず喉を鳴らした伊作を横目で見、雑渡はもうひとつ、食卓に置いてあった大ぶりのトマトを追加で手に取って水洗いし、まな板にのせて手早くくし切りにする。小さな器にそれを盛り付け、戸棚から出したあら塩をその上にひとつまみかけた。その皿も伊作に差し出す。
「終わっちゃったら、それ食べて待ってなさい」
そうしている間にも、雑渡はフライパンにオリーブオイルを熱し、きざまれたにんにくを炒め始めている。たちまち、食欲をそそる香りが立ち上った。もうひとつのコンロの上では、ぐつぐつとたっぷりの湯のはられた深鍋の中で、ロングパスタが踊っている。ぱっぱっ、と適当に塩をふりかけ、ミルでこしょうを挽いて、――それで伊作の仕事は秒で終わってしまった――おとなしく食卓に着き、ガーリックとバジルの強い香りの中で、伊作はサービスされた獲れたてのトマトを食べながら、雑渡の後姿を眺めて待っていた。にゅ、と長い腕が伸びてきて、伊作が味付けしたトマトとバジルのボウルがまた台所に戻っていく。雑渡はそこに、炒めたにんにくとオリーブオイルをフライパンから注ぎ入れて和えた。ドレッシングのできあがりと見える。
自分は何しにきたんだっけ、と伊作はちょっと居心地悪くなる。冷蔵庫に貼り付けられたタイマーがパスタの茹で終わりを告げたので、伊作はそれをとめるために立ち上がった。雑渡は伊作に目を向けることもなく熱湯の扱いに集中しつつ、しかしサンキュ、とつぶやきながらパスタをざるにあげ、そして、熱々のそれを冷却せずにそのまま、ドレッシングの中に放り込んだ。
向かい合わせに座る雑渡の存在を忘れかけるほど、伊作はもくもくとパスタをフォークに絡めていた。ここの大家の作るまかないを、いつもつい、夢中になって食べてしまう。半分ほど食べすすめたところではっとして、伊作は、油でてかてかになっているであろう自らの唇をティッシュで拭いた。拭き終えたティッシュには油のみでなくバジルもだいぶ付いていた。見かけや材料は夏らしい冷製パスタのそれだが、二人が食べているものは、まだあたたかい。
「冷やす工程が省略されているので、あたたかいのですね」
そう、と雑渡もくるくるとフォークをまわしている。
「そうするとパスタの余熱で、なんとなくトマトとバジルがしんなりするんだよね」
それが好きで、毎年この時期になると、つくるの、と雑渡はほほえんだ。伊作はおいしいです、とうなずいた。ごく限られた材料と味付けだが、その塩加減が絶妙だ。もちろん、伊作がふった塩こしょうの量では足りなかったようで、できあがりの最後に雑渡が調整したのだった。トングでパスタを和え、ミルで塩とこしょうを挽くその姿に、伊作は思わず見とれてしまった。
伊作は休みなく動かしていたフォークを一度皿に置く。
「雑渡さん、」
「うん」
「会社の立ち上げ、がんばってください」
なぜかそこで雑渡はせき込み、テーブルの脇に置いてあるティッシュ箱からティッシュをとって自らの口をおさえた。こしょうの入れすぎではないのか。
「……私こないだ、そんなことまで言ったの」
これ、手当てしてくれたのもやっぱり伊作くん? と雑渡は自らの額を指差しながら決まり悪げに伊作をうかがいみた。パイナップルを切ってくださったのは尊奈門さんです、と伊作は雑渡のコップに水を注いで、差し出す。ありがとう、と受け取りながら、雑渡は頬を赤らめていた。あの翌朝、ひどい頭痛に襲われながら冷蔵庫を開け、ラップのかけられた一人分のパインを見つけた雑渡は、だれもいない家の中でひとり、それを食したのだった。一見すると上手に切られたパインには芯が雑に残っていて、繊維を咀嚼しながら、だぁれこれ切ったの、とぼやいたものである。
陣内を見送り、自身は店に残ってひとりやけ酒をあおり、どうにか家へ帰って靴箱の角に頭をぶつけたこと以外は、ほとんど何もおぼえていなかった。酔った姿を尊奈門に見られてもどうこう思わないのだが、これは伊作にも醜態をさらしたかもしれない、と雑渡は反省していた。
今日はもう、その額に絆創膏は貼られていなかったが、まだわずかに傷跡がのこっている。だがそれもじきに消えるだろう。
「……でも、パートナー候補のキーマンに断られたんだよ」
「大丈夫です。きっと覆ります」
言い切ってしまってから、いや、なんとなくそんな気がして、と伊作は付け加えた。自身は山本陣内と会ったこともなければ、さらにいえば、雑渡が何を考えているのかだってほとんど何も知らないのに、どうしてか、彼のことになると、このまえの父親来訪時といい、妙な自信がわいてきて、するすると言葉が出るのだった。自分でも理由はよくわからなかった。無責任なことを言ってすみません、と伊作は頭を下げる。
しばらくきょとんとしていた雑渡だったが、首を横に振り、んふ、とやさしげに笑った。先日玄関先で、出かける間際の伊作に上の空で見せたそれに近かった。
「ありがとう、伊作くん」
じつはきみを見ていてね、がんばろうと思えたの、と雑渡ははにかむ。それももう、一昨日の晩に聞いた、とは面倒なので伊作は言わなかった。
「明日はお肉にしようね」
パスタを食べ終えたとき、今日はタンパク質不足でごめんね。たまには手抜き料理ね、と雑渡に言われ、伊作はそこで重要なことを思い出した。
「雑渡さん、そういえば、こないだ私が外で夕食を済ませた日、インスタントラーメンを出されたって、本当ですか?」
ぎく、とした雑渡は、内心で舌打ちした。尊奈門め、余計なこと言いおって。どこの世界に、大家の私情でまかないにインスタントラーメンを提供するような下宿があるというのだ。ずるいです、と伊作は下を向く。ほら見ろ、また格好のつかない一面を伊作くんに知られてしまったではないか。
「ぼくのいないときにそんな、おいしそうなご飯にするなんて」
顔を上げた伊作に、雑渡は目が点になった。
「雑渡さんの煮たラーメン、ぼくも食べたかったです。冷蔵庫にあったタッパーは、煮たまごだったのですね」
「あ……あ、そうめんのつゆが余っていたから漬けただけだけど」
「今度ぼくがいるときにも、やってくださいね」
「……」
せっかく今日は伊作に、自身のとっておきの夏の時短料理を提供したのに、諸泉に適当に出したインスタントラーメンのほうを褒められてしまっては、雑渡のメンツが立たない。
★
「簡単にパスタですか。私と二人のときと、ずいぶんな違いではありませんか」
「尊奈門お前ね、伊作くんに余計なこと言ったでしょう」
【テーマミュージック】
・吉俣良「Flow」(『ランチの女王』オープニングテーマ)
雑渡への気持ちを自覚する伊作
・ビーチ・ボーイズ「Getcha Back」
別れた彼女に未練のある歌詞。雑渡さんも一時こんな気持ちを抱いていたかもしれないけど、今は傷が癒えつつある
ぼさぼさ頭の伊作が2階から階段をかけおりてくる。玄関のテレフォンテーブルに寄りかかり、受話器を耳に押し当てている雑渡はそのままの体勢で一歩後退して、衝突せんばかりにこちらへ向かってくる伊作を軽く避けた。伊作は伊作で、用があるのは大家ではなくまず洗面台なので、Uターンしてあわただしく1階の奥へと消えていった。しかし寝ぐせは結局直らなかったらしい、起き抜けとさして変化の見えない伊作は、とりあえず食卓につき、いつも座る席にすでに用意されていた自らの分の朝食をかきこむ。同じ下宿人の諸泉はとっくに出かけ、その姿は見えない。さくさくと、トーストを口に押し込み咀嚼しながら、伊作は、ちょうどその場からよく見える玄関先の、雑渡の後姿を眺めた。
「悪かったって」
ぴちぴちの、黒いTシャツに包まれた大きな背を丸め、カールした受話器のコードに片手の人差し指をかけて、何やら楽しそうに笑っている。通話する雑渡の語調は、伊作に対するいつものそれよりも、やや粗野だった。
「……」
遅刻しそうなのにもかかわらず、朝食をすべて平らげた伊作は、食器を流し台へ片付け、また家の奥へと引っ込んだ。そうして最低限の身支度を整えた伊作が忙しなく玄関へ現れても、雑渡はまだ通話を続けている。黒い受話器を側頭部と肩ではさみながら、新聞販売店の名前が青字で印字されたメモパッドに、何やら書き込んでいる。靴ひもを結び終え、リュックサックを片腕で持ち直した伊作が立ちあがり、そっとふりかえれば、普段伊作に向けられるそれよりも少々幼く見える笑顔を浮かべた雑渡と、目が合ってしまった。実際にはその笑みは伊作でなく通話の相手に向けられたものだが、雑渡は伊作に片手を挙げてみせる。伊作はびっくりと両の大きなつり目を見開き、軽く会釈して下宿を出た。
「……暑、」
急いで支度したおかげで、そんなに走らなくても間に合いそうだ。家を出た途端にむわ、とぬるい湿気が伊作を――伊作のくせ毛を――襲う。慌てて支度したからか、単にこの暑さのせいか、伊作の頬は、火照っていた。
★
下宿の固定電話を鳴らしたのは、山本陣内だった。雑渡から連絡を寄越しておきながら、幾度雑渡の携帯電話に折り返しかけても出ないので、業を煮やして下宿に直接かけたのである。雑渡は目覚ましにも目覚まし時計――これもむかし、諸泉が懸賞で当てた――をつかっている。そもそも雑渡は眠りが浅いので、アラームよりも先に、目が覚めてしまう。
いまどき携帯電話よりも固定電話にかけたほうが早いのはどういうことだと、いつものことながら受話器の向こうで山本はあきれかえっていた。いずれにしても朝から何の用だと雑渡がたずねれば、何じゃない、もとはお前がかけてきたのだといわれ、雑渡もようやく用件を思い出した。通話を終え、居間に戻れば、伊作がほんの数分前に慌ただしく朝食をとっていた卓上に、チラシ紙が無造作に置き去りにされている。
「伊作くん、忘れ物だよぅ」
このフォーラムに行くんじゃなかったの、と雑渡はぺらりと紙を手に取る。『まちづくりフォーラム』と書かれている。10時からだって。もう10時過ぎてるけど、間に合ったのかね。とつぶやきながら裏返せば、そこには通信、金融、不動産、医療ほか、人々の生活を支える各分野の企業や団体が名を連ねていた。当たり前のように、雑渡の会社――正確に言えば雑渡が社長を務める会社の親会社だが――の名もそこにある。社会課題の解決と、新たな価値の創造をうたっている。だが、そこに掲載されている本部長のコメントと、雑渡の知る社の内情にはギャップがあった。
『工夫次第で、課題を解決できるかもしれない。雑渡さんはそれをご存じなんです!』
自身の父親の前で啖呵を切った伊作の声が、雑渡の脳内でリフレインする。あの日、気恥ずかしくてとくに言及はしなかったが、彼がそこまで自身のひそやかな考えを知っていたことに雑渡は大層驚いたのだった。けれども。
「買いかぶりすぎだよ……」
雑渡は伊作がさきほどまで腰かけていた椅子をひいて腰かけ、ため息をついた。
☆
「(長次だ)」
土曜日の夕方。近所の図書館を訪れた伊作は、窓際の席で読書している長次を見つけ、うれしくなった。いつも決まった時刻でなく、また決して長時間の滞在ではないのだが、長次は週末、高頻度でこの図書館に出没するので、約束をしていなくとも、ここへ来ると、運が良ければ彼に会うことができるのだった。
邪魔せぬよう、伊作がそっと長次の向かいの席に腰かければ、しかし長次は気がついてしまったらしい。伊作が笑んで、このあと久々にご飯でもどう? とジェスチャーとささやきで伝えると、長次は無表情のまま静かにうなずいた。
「思いつきで差し上げたクリームを、家のなかでも持ち歩いてくれているみたいで、なんだか照れくさいよね」
あんなにつかってくれるなら、もっと丁寧につくればよかったな、でもぼくに悪いと思って無理につかってくれているだけなのかも、と伊作はつぶやく。長次はすべてに返事を寄越すわけではなく、返事をしたとしても非常に低く小さな声なので、傍から見れば伊作がのべつまくなし話しているように見える。
「……」
「うん?」
長次がめずらしくなにか意見を述べているようなので、伊作は長次に耳を寄せた。
「おまえは、その大家が好きなのだな」
伊作は驚き、満足に咀嚼しきらぬまま口内のフォーをごくりと飲みこんでしまった。
好き。想像した伊作はたちまち顔を赤くする。ぼくが、雑渡さんを。
「や、だな長次。そんな中学生みたいな、」
「ひとを好きになるのに、子どもも大人もないだろう」
とくに深い意味はない。そのままの意味だ、と長次は静かに米麺をすすっている。とうもろこしのぜんざいも頼んでいいか、と長次が言うので、もちろん、ぼくも食べる、と伊作は店員を呼んだ。あれは、塩味がきいていておいしい。
「……う、ん。好きだけど」
勘違いしないで、いわゆるそういう好きじゃないよ、たぶん、と伊作は頬を赤らめたまま両手を振る。ねえ、もしかして、ぼくいつも大家さんの話ばっかりしていた? と伊作が恥ずかしそうに長次をうかがいみれば、返事の代わりに、長次がめったに見せることのない、やさしげな笑みを見せた。
知らないフレーズを鼻歌でごまかす大家の話も、女性をとっかえひっかえしているらしいが決して軽薄ではない大家の話も、家の中で軟膏は携帯するが携帯端末は携帯しない大家の話も、みな、長次は知っているのだった。
☆
「あれ、今日、雑渡さんは」
ぐびぐびとビールを煽る諸泉に向かって、伊作は問いかける。今日は土曜日なのでまかないが休みなのは伊作も知っていたが、それでも結局割と、ふらふらと家の敷地内にいることの多い雑渡の姿が今晩は見えない。さっきまでいたはずだったのだが。
諸泉は明日も休みなのでこうして羽目を外しているが、伊作は翌日、仕事である。だが、居間で諸泉があまりにもうまそうに枝豆をつまんでいるので吸い寄せられてしまい、伊作は諸泉に一杯付き合うことになってしまった。枝豆は、昼過ぎにおやつとして雑渡が大量にゆでていたものだった。
「ああ、外食してくると言っていた」
留守を頼まれているのは私だから、なにか家のことで急用なら言ってくれ、と諸泉は枝豆をぷちぷちとさやから押し出して食べながら言う。いえ、とくに何というわけでもないのですが。と伊作は手を横にふった。
噂をすれば。どて、ごん、となにやら痛そうな重い音が玄関から響き、続いて「ただいまぁ」といういつもの雑渡の声が聞こえた。
鴨居に頭をぶつけぬよう背を丸めながら、膨らんだエコバッグを両手で抱えた雑渡が居間に現れる。伊作は目を剥いた。
「雑渡さん、おでこから血が出てます!」
「ああ、いま、靴が脱げなくてこけちゃって、シューズボックスに頭ぶつけたの」
「何しているんですか……」
ぼくじゃないんですからと、あきれる伊作をよそに、額に血をにじませた雑渡は、諸泉に、忍者模様のエコバッグを手渡した。パイナップルとおぼしき立派なへたが二つ分、バッグから飛び出ている。
「尊奈門、これパイナップル。陣内にいただいたの。なんだか私、喉がかわいちゃって、食べたいから早速ひとつ、切ってくれないかな」
「いいですけど」
包丁気をつけるんだよ、と雑渡は心もとない足どりで、否、いつもそんな感じではあるが、洗面所へ向かって歩き出した。私のことをいくつだと思っているんだと諸泉はぶつぶつつぶやき、バッグの中身をのぞき込みながら台所へ向かう。あの額のけがと、明らかに酒に酔っている状況はほっといてよいのかと伊作は気が気でなかった。立ち上がって大家の後を追おうとしたが、その前に水を持っていこうと、伊作も流し台にまず向かった。
「雑渡さん? 入りますね」
雑渡の部屋をノックしても返事がないので、伊作が戸を開ければ、畳の上に大の字になっていた雑渡が起き上がり、伊作を振り返った。
「伊作くん。パイナップルはもう食べた?」
「いいえ、まだです」
今、尊奈門さんが切ってくださっています、と伊作はこたえながら水の入ったグラスを手渡した。さっきの今で、食べたわけがない。これは相当酔っている。雑渡は伊作が手渡したグラスを両手でもって、んくんくと飲み干した。その姿がなんだか幼く見える。
「もう一杯」
「待ってください」
元気よくおかわりをねだる雑渡に、そのまえに手当てを、と伊作は持ってきた救急箱のふたを開ける。伊作の一挙一動を目で追う雑渡を視界の端でとらえ、笑い出しそうになりながら、伊作は消毒液に浸した脱脂綿をピンセットでつまみ上げる。
「雑渡さん、目、閉じてください」
伊作くん、キスでもしてくれるの? 大家さん、まいっちゃうな、とふざける雑渡に、ちがいます、消毒液が目に入るといけませんから、ちょっと閉じていてください、と伊作は酔っ払いを一蹴した。つまらなそうに雑渡が目を閉じる。ちょっと沁みますねとつぶやきながら、ちょんちょん、と脱脂綿を傷口に当てれば、ぴく、と小さく雑渡は身じろぎする。薄目を開ける雑渡に、まだです、と伊作は顔をしかめた。
「おしまいです」
額に大きな絆創膏を貼り付けられた雑渡は、ありがとう伊作くん、とまたばたりと畳に身を投げ出した。両膝を抱えるようにして寝返りをうち、救急箱を片付ける伊作をまた目で追う。
「今日ね、陣内と会ったよ」
陣内、山本陣内、と伊作は記憶をたどる。実際に会ったことはないのだが、雑渡の旧友で、よくこの下宿にお土産をくれる人物であることは知っていた。
「新しい会社をいっしょにやらないかって、誘ってみたの」
伊作が振り返れば、でも断られちゃった、と雑渡は笑った。弱ったな、私一人では何もできなくて、構想には陣内が必要だったから、と雑渡は言う。おまけに日頃の私の甘さについてまで、怒っていたよ、と雑渡はまた仰向けになり、頭の下で腕を組んで枕にした。やぶ蛇だったらしい。
「妻と一緒に、6人の子を養わなければならないから、リスクしか見えぬお前の思い付きには付き合っていられないって」
「ろ、ろくにん」
引導の代わりにパイナップルを渡されちゃったよね、と雑渡は冗談を言う。こうなることは予想していたけど、これでもけっこう勇気だして言ったから。陣内が帰ったあとも、ひとりで飲んじゃった、とため息をついた。でもたしかに、失うもののない私とは、ちがうものね。
「結婚するってさ、どんな感じかな」
雑渡は起き上がり、いつものように両あしをそろえて座った。
「毎日、抱きしめてもいいのかな?」
まるで伊作に問うかのように、両手を組んでもじもじとつぶやく雑渡に、伊作は思わず吹き出した。うつむいている雑渡のまぶたは少々赤く、むくんでいる。それは相手のかたとご相談ではないでしょうか、と伊作が笑えば、雑渡は唇をとがらせた。
「伊作くんだって結婚したことないでしょう」
ええ、ぼくもよくわかりません、と伊作はこたえた。
「……抱きしめたい人が、おられるのですか」
「ううん、いまはいないよ。興味なかったわけじゃ、ないけどね」
でもなんか、ちょっと、つかれちゃった、と雑渡は目を閉じた。伊作はふた月ほど前、失恋した雑渡が風邪をひいて寝込んでいた日のことを思い出す。あの日、ほとんど眠りに落ちる間際、雑渡は、彼女との将来を考えていたことを、暗に伊作に打ち明けていた。
「この家には尊奈門がいるし。それに今は」
「伊作くんが、一緒にお団子食べてくれるから」
もうそれで、今は十分。と雑渡は笑った。こないだ伊作が気まぐれに団子を買ってきた折は、あまりその和菓子が好きでなかったそぶりすら見せたのに、その翌週に自ら上新粉で団子をつくり、だめ押しで今日のこの台詞だ。そんなにあそこの団子が気に入ったのか、と伊作は菓子屋のパッケージを思い返す。雑渡は洋菓子が好きだったのではないのか。
「それより今は、仕事……。伊作くん、きみを見ていて、」
私も昔、やりたいと思っていたことを、思い出したんだよ、と雑渡は眠たそうにまばたきする。
「お、っと」
ぐらりと重そうな上半身が前方へ傾き、雑渡は伊作の肩にもたれかかる。予想に違わぬその重量に、伊作も支えきれず倒れそうになったが、両手をうしろにつき、どうにか持ちこたえる。
「善法寺? 大丈夫か、入るぞ」
戸が開き、諸泉が現れた。切られたパイナップルをのせた皿がふたつ――おそらく雑渡と伊作の分であろう――のせられた盆を気だるげに、片手に持っている。雑渡の肩越しに、伊作は諸泉と目が合った。つり目をぱちぱちと瞬かせている伊作に、諸泉もびっくりと丸い目を瞬かせ、そしてまた、諸泉のほうはいつもの無表情に戻った。
「……邪魔したな、すまない」
諸泉はそのまままたすぐに戸を閉めてしまい、その足音が遠のいていく。誤解だ、どうしてあなたはいつもこうタイミングが悪いのだ、ぼくのパイナップル残しておいて、と伊作の口からにぎやかな否定の言葉や食い意地の張った主張が飛び出そうになったが、どれも、声にはならなった。雑渡を起こしたくない伊作の気持ちが、無意識に働いた。起こしたくなかったのは、雑渡のためか、自分のためだったのかはわからない。
雑渡は、伊作の耳元でくうくうと寝息を漏らしている。酒気に混ざって、ほのかにスパイシーな匂いが、伊作の鼻をくすぐる。このオリエンタルな香りは、料理につかうスパイスに起因するのか、あるいは雑渡自身によるものなのだろうか? 後者だとしたら、ずいぶんセクシーなおひとだな、などと、思わずすんすんと鼻を鳴らす伊作の思考にもビール一杯分の酒がまわっているようだった。
重なった胸から伝わる鼓動は、アルコールの働きで、速い。さきほどは笑ってしまったが、このひとに。この厚い胸に毎日抱きしめられたら、それはひとたまりもないだろうな、と伊作もどきどきと自らの心拍数を意味もなくはかっていた。
『おまえは、その大家が好きなのだな』
ふと、ベトナム料理店での、長次の声が、伊作の頭の中でこだました。
☆
コンコン、と控えめなノックの音が聞こえ、伊作ははぁいと元気に返事をした。少しだけ戸が開き、その間から大家が顔を見せた。
「伊作くん、夕食、尊奈門は外で済ませてくるって。今日は私と二人だから、簡単にパスタでいい?」
「はい」
「あれ降りてきちゃった? まだできてないよ」
伊作が階段を降り、台所に現れれば、雑渡はフレッシュバジルをきざむ手を止めて、伊作を振り返った。
「暇だったので、降りてきたんです。手伝います」
いいにおい、今日はトマトのパスタですか、と雑渡の横に並んでたずねれば、そう、あったかい冷製パスタ、と不可解ないらえが返ってきた。伊作が首をかしげていれば、まあ見てて、とでもいうように雑渡は笑みを浮かべている。途中だった残りのバジルをリズムよく切ってしまうと、雑渡は、これもまた庭でとってきたばかりと思われる、みずみずしいトマト――皮はむかれ、くし切りにされている――がたくさん入った透明なガラスボウルに、まな板から両手ですくって入れた。これで二人分かと疑うほどに、トマトもバジルも贅沢な量だった。この時期、食べきれないほどにバジルやシソが庭で繁るのだという話を伊作は思い出した。
「伊作くん、それに塩とこしょう、ふっておいてくれる?」
受け取ったガラスボウルを抱きかかえ、ずいぶん簡単な仕事を割り当てられてしまった、とうつむく伊作の心の声がきこえたのか、ごめん、簡単なレシピだからもうそれくらいしかお願いできることなくて、と雑渡は言った。あげく、みずみずしいトマトに思わず喉を鳴らした伊作を横目で見、雑渡はもうひとつ、食卓に置いてあった大ぶりのトマトを追加で手に取って水洗いし、まな板にのせて手早くくし切りにする。小さな器にそれを盛り付け、戸棚から出したあら塩をその上にひとつまみかけた。その皿も伊作に差し出す。
「終わっちゃったら、それ食べて待ってなさい」
そうしている間にも、雑渡はフライパンにオリーブオイルを熱し、きざまれたにんにくを炒め始めている。たちまち、食欲をそそる香りが立ち上った。もうひとつのコンロの上では、ぐつぐつとたっぷりの湯のはられた深鍋の中で、ロングパスタが踊っている。ぱっぱっ、と適当に塩をふりかけ、ミルでこしょうを挽いて、――それで伊作の仕事は秒で終わってしまった――おとなしく食卓に着き、ガーリックとバジルの強い香りの中で、伊作はサービスされた獲れたてのトマトを食べながら、雑渡の後姿を眺めて待っていた。にゅ、と長い腕が伸びてきて、伊作が味付けしたトマトとバジルのボウルがまた台所に戻っていく。雑渡はそこに、炒めたにんにくとオリーブオイルをフライパンから注ぎ入れて和えた。ドレッシングのできあがりと見える。
自分は何しにきたんだっけ、と伊作はちょっと居心地悪くなる。冷蔵庫に貼り付けられたタイマーがパスタの茹で終わりを告げたので、伊作はそれをとめるために立ち上がった。雑渡は伊作に目を向けることもなく熱湯の扱いに集中しつつ、しかしサンキュ、とつぶやきながらパスタをざるにあげ、そして、熱々のそれを冷却せずにそのまま、ドレッシングの中に放り込んだ。
向かい合わせに座る雑渡の存在を忘れかけるほど、伊作はもくもくとパスタをフォークに絡めていた。ここの大家の作るまかないを、いつもつい、夢中になって食べてしまう。半分ほど食べすすめたところではっとして、伊作は、油でてかてかになっているであろう自らの唇をティッシュで拭いた。拭き終えたティッシュには油のみでなくバジルもだいぶ付いていた。見かけや材料は夏らしい冷製パスタのそれだが、二人が食べているものは、まだあたたかい。
「冷やす工程が省略されているので、あたたかいのですね」
そう、と雑渡もくるくるとフォークをまわしている。
「そうするとパスタの余熱で、なんとなくトマトとバジルがしんなりするんだよね」
それが好きで、毎年この時期になると、つくるの、と雑渡はほほえんだ。伊作はおいしいです、とうなずいた。ごく限られた材料と味付けだが、その塩加減が絶妙だ。もちろん、伊作がふった塩こしょうの量では足りなかったようで、できあがりの最後に雑渡が調整したのだった。トングでパスタを和え、ミルで塩とこしょうを挽くその姿に、伊作は思わず見とれてしまった。
伊作は休みなく動かしていたフォークを一度皿に置く。
「雑渡さん、」
「うん」
「会社の立ち上げ、がんばってください」
なぜかそこで雑渡はせき込み、テーブルの脇に置いてあるティッシュ箱からティッシュをとって自らの口をおさえた。こしょうの入れすぎではないのか。
「……私こないだ、そんなことまで言ったの」
これ、手当てしてくれたのもやっぱり伊作くん? と雑渡は自らの額を指差しながら決まり悪げに伊作をうかがいみた。パイナップルを切ってくださったのは尊奈門さんです、と伊作は雑渡のコップに水を注いで、差し出す。ありがとう、と受け取りながら、雑渡は頬を赤らめていた。あの翌朝、ひどい頭痛に襲われながら冷蔵庫を開け、ラップのかけられた一人分のパインを見つけた雑渡は、だれもいない家の中でひとり、それを食したのだった。一見すると上手に切られたパインには芯が雑に残っていて、繊維を咀嚼しながら、だぁれこれ切ったの、とぼやいたものである。
陣内を見送り、自身は店に残ってひとりやけ酒をあおり、どうにか家へ帰って靴箱の角に頭をぶつけたこと以外は、ほとんど何もおぼえていなかった。酔った姿を尊奈門に見られてもどうこう思わないのだが、これは伊作にも醜態をさらしたかもしれない、と雑渡は反省していた。
今日はもう、その額に絆創膏は貼られていなかったが、まだわずかに傷跡がのこっている。だがそれもじきに消えるだろう。
「……でも、パートナー候補のキーマンに断られたんだよ」
「大丈夫です。きっと覆ります」
言い切ってしまってから、いや、なんとなくそんな気がして、と伊作は付け加えた。自身は山本陣内と会ったこともなければ、さらにいえば、雑渡が何を考えているのかだってほとんど何も知らないのに、どうしてか、彼のことになると、このまえの父親来訪時といい、妙な自信がわいてきて、するすると言葉が出るのだった。自分でも理由はよくわからなかった。無責任なことを言ってすみません、と伊作は頭を下げる。
しばらくきょとんとしていた雑渡だったが、首を横に振り、んふ、とやさしげに笑った。先日玄関先で、出かける間際の伊作に上の空で見せたそれに近かった。
「ありがとう、伊作くん」
じつはきみを見ていてね、がんばろうと思えたの、と雑渡ははにかむ。それももう、一昨日の晩に聞いた、とは面倒なので伊作は言わなかった。
「明日はお肉にしようね」
パスタを食べ終えたとき、今日はタンパク質不足でごめんね。たまには手抜き料理ね、と雑渡に言われ、伊作はそこで重要なことを思い出した。
「雑渡さん、そういえば、こないだ私が外で夕食を済ませた日、インスタントラーメンを出されたって、本当ですか?」
ぎく、とした雑渡は、内心で舌打ちした。尊奈門め、余計なこと言いおって。どこの世界に、大家の私情でまかないにインスタントラーメンを提供するような下宿があるというのだ。ずるいです、と伊作は下を向く。ほら見ろ、また格好のつかない一面を伊作くんに知られてしまったではないか。
「ぼくのいないときにそんな、おいしそうなご飯にするなんて」
顔を上げた伊作に、雑渡は目が点になった。
「雑渡さんの煮たラーメン、ぼくも食べたかったです。冷蔵庫にあったタッパーは、煮たまごだったのですね」
「あ……あ、そうめんのつゆが余っていたから漬けただけだけど」
「今度ぼくがいるときにも、やってくださいね」
「……」
せっかく今日は伊作に、自身のとっておきの夏の時短料理を提供したのに、諸泉に適当に出したインスタントラーメンのほうを褒められてしまっては、雑渡のメンツが立たない。
★
「簡単にパスタですか。私と二人のときと、ずいぶんな違いではありませんか」
「尊奈門お前ね、伊作くんに余計なこと言ったでしょう」
【テーマミュージック】
・吉俣良「Flow」(『ランチの女王』オープニングテーマ)
雑渡への気持ちを自覚する伊作
・ビーチ・ボーイズ「Getcha Back」
別れた彼女に未練のある歌詞。雑渡さんも一時こんな気持ちを抱いていたかもしれないけど、今は傷が癒えつつある
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